【56】5-① 豪快無比のジャーナリスト魂──大森実『我が闘争 我が闘病』

◆私の人生を方向付けた〝運命の講演〟

 大森実──間違いなく私の人生を方向づけた人のひとりである。17歳の年に初めて会った。母校長田高校(旧制神戸三中)の大先輩として高校の講堂の一角でその講演を聴いて、新聞記者になりたいと心底から思った。海外特派員に憧れた。尊敬して止まない超大物記者はその頃、ワシントン支局長を終えて、東京本社外信部長として帰国して間もなかった。この人の一大転機になったライシャワー大使事件(1964年)や、それを書いた『石に書く』の出版は未だ少し先のことである。

 今回、私が読む気になったのは、大森さんの自伝的作品『我が闘争 我が闘病』。2003年刊だからほぼ20年前。81歳。凄まじいまでのジャーナリスト魂の炸裂ぶりと、それに勝るとも劣らぬいのちへの執念を目の当たりにして只々驚くと共に、改めてその豪快無比の生きざまに感じ入った。この本は、奥方の恢子さんも筆をとり共著の体裁をとっている。ご本人が三途の川を彷徨った人事不省の時期を補ったものだが、これがまたとんでもない出来栄え。このひとありてこその「大森実」だと思い知らされた。

 「東京からハノイまで、思えば近くて遠い距離だった」──この書き出しで、大森実外信部長の西側ハノイ一番乗りの記事は始まる。1965年9月25日。私が大学一年の時。ベトナム戦争只中の青春だった。先輩の闘いが誇らしかった。「二週間の滞在で、連日連夜、紙面を飾り、僕のスクープはUPI、AP通信などを通じて、世界の新聞、テレビに転電された」──こう、ご本人は述懐している。

 ジョンソン大統領ら米首脳が怒り猛った。そして当時のライシャワー駐日大使による「オーモリは共産主義独裁国家の代弁者である。オーモリが書いた米軍機による北ベトナムのハンセン病病院爆撃記事は、捏造されたウソである」との爆弾発言が飛び出す。それに毎日新聞は社長以下米国に、「塩を振りかけられたナメクジのように」降伏してしまう。大森さんは怒りを持って同社を辞めた。この報道の正しかったことは後に天下に明らかになる。後輩は、心の底から感激した。この本は、それ以後の彼の苦闘を描いている。

◆仕事上の苦闘と災厄との戦い

 毎日新聞に辞表を叩きつけた大森さんは「東京オブザーバー」なるクオリティペーパーを立ち上げ、獅子奮迅の闘いを展開する一方、「太平洋大学」という洋上大学を企画、滑り出した。だが、身内の背信行為で敢えなく挫折、沈没の憂き目に。2億円もの膨大な借財を背負う羽目になる。それをもものともせず、夜を日に継いで原稿を書きまくり、やがて数年後に返済してしまうというから凄い。

 この本では、そうした彼の仕事上の苦闘と、それとは別に、人生終盤に襲ってきた自宅の全焼始め様々の災厄との闘いを描き切っている。幾たびものいまわの際をその都度乗り切ってしまういのち冥加な大森さんには底知れぬ運の強さを思い知らされる。同時に、とことん看病しきる奥さんには、感動を通り越えて呆れ返るほどだ。仮に私たち夫婦なら、恐らく早い段階で揃って諦めの境地になり、匙を投げたに違いないと思われる。

 この本を大森さんが書き終えたのが2002年暮れ。2010年に88歳で亡くなってるので、8年もこのあと健在だったことに驚く。若い頃のメニエル症候群、直腸癌手術に加え、老後の悪性肺炎、心臓切開手術、網膜症などなど。満身創痍のまま人生を終わりにはしないと、文末にこう書く。「もっともっとリハビリに精進し、週一ゴルフを週二ゴルフに増やして、バックヤードのプールでの泳ぎの回数を増やすことで、身体に力をつけていく!人間の命には限りがあるが、不死鳥のようにサバイバルしたい!そうすることによって、死ぬまでジャーナリストの本領を貫いていきたい」と述べて、「死ぬまで書くぞ」と、締めくくっている。

 意気込みだけは負けぬつもりだが、当方は早々と『回顧録』を書き上げ、一巻の終わりを決め込んでいる。大森さんは、そんなものは自らは書いていない。高校生の時に、壇上の姿を仰ぎ見てからほぼ60年。健在のうちに再会したかったなあ、との思いが募る。

【他生のご縁 電話で直撃コメントを依頼】

 大森実さんに私は直接電話をしたことがあります。公明新聞政治部記者時代のこと。ニクソン米国大統領の電撃訪中(1972年2月)をめぐって、200字ばかりのコメントを求めたのです。依頼の前に、長田高校の後輩としてかつて講演を聴いたことを告げました。電話の向こうから、おうそうか、との明るい声が聞こえてきました。後で、電話をいただければと言いかけたら、今からいうぞ、と直ちに反応が返ってきました。言い終わって、どうだ字数は?ピッタリだろ?と。驚きました。まったく神技だと私には思えました。

 ちょうどその頃、『週刊現代』に「大森実直撃インタビュー」なる連載コーナーがあり、池田大作先生が登場。その後、『革命と生と死』(1973年講談社刊)の中にまとめられています。この頃大森さんは、フリーのジャーナリストとして八面六臂の活躍中。翌74年には米国カリフォルニアに移住されたのです。

 

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