「外交・防衛」と「憲法」は、20年間の衆議院議員生活の中で私が特に関心を持ってきた、2つのテーマである。この分野で多くの先輩、同僚と知己を得てきたが、両方に最も足跡を残された政治家といえば、中山太郎氏であろう。戦後日本が初めて国際貢献を問われた湾岸戦争当時の外相(1989-91)であり、憲法改正国民投票法成立時の衆院憲法調査特別委員長(2007年)であった。憲法調査会の時から所属していた私は、中山会長にはとてもお世話になった。現役時代に関わった法律の中で最も大きいと思えるものが、この憲法改正国民投票法である。成立までの一部始終を「実録」と銘打ったこの本を読むことで、改めて『日本国憲法』のいまを考えるきっかけとしたい。世界の国々の憲法の中で、一度も改正されたことがない日本国憲法。実は、その改正の手続きを定めた法律でさえ60年もの間なかった。この本からは「改正」の前提となるルールをまず作ろうという当時の政治家たちの熱い思いが伝わってくる。
憲法調査会から特別委員会を経て現在の憲法審査会に至る3つの憲法議論の舞台の裏方が事務局である。その局長を一貫して務めてきているのが橘幸信氏(現在衆院法制局長)だが、第一章で中山会長が橘局長を怒鳴りつけた場面がでてくる。海外出張で会長が留守であった間に、調査会運営に政府関係者を入れることにしたとの「橘報告」に対して怒った。「憲法論議に政府なんかに手を突っ込ま」せてはいけないとの趣旨だった。普段は温厚極まりない会長と憲法と国会の生き字引のような局長のバトル・エピソードを知って、今更ながらに憲法調査会の尋常ならざる佇まいに感心した。国会議員の3分の2の賛成がなければ改正の発議ができない憲法を調査、審議するにあたって中山会長はいつ何時もそれを忘れなかった。それ故に野党議員との関係を痛いほど大事にし続けた。序章に、怒号の中での採決となった日のことが生々しく描かれた「野党による混乱の『演出』」は迫力満点だ。修羅場の直後に、福田康夫理事(元首相)と、中山氏との会話が味わい深い。「あなたは老獪な政治家ですね」「いや真面目過ぎるんです」と。
●この国をどうしたいのか
改正手続き法の論戦の全てが終わった直後、会長を囲んで私を含む4人の与党理事が委員会場で談笑している写真が最終章のとびらに使われている。そのうちの1人船田元氏が与野党協議を振り返って「三党で話を煮詰めていく作業は非常に面白いものでした。(中略) 『あ、こういうことで政策が決まっていくのか』とか、『政党の壁を越えて妥協するというのはこういうことなのか』と感じる瞬間があって、これは知的刺激でした」と述べている。しかし、安倍首相(当時)の発言などが災いし、枝野民主党筆頭理事がその立場を離れるといった事態が生まれた。その無念さの披歴に私も共感した。この審議の経過の中で、地方公聴会などで国民の声をしっかりと聞くことに私はこだわった。理事懇談会の場での発言がきっかけとなって「『二ヶ所で地方公聴会、中央公聴会を追加で一回』がスムーズに決ま」ったことが明かされている。
先年、憲法調査会発足後20年を期して各種メディアがその後の憲法改正論議を振り返るインタビューを試みた。その際に、私も取材を受けた。公明党にも「自衛隊明記案」があったが、との問いかけに「党内では少数意見だったが、間隙を縫って滑り込ませたという記憶がある。安倍首相が9条加憲を掲げたのは、公明党に対する変化球だろう。だが、加憲であるはずの公明党が、その球にバットを合わせようともしない。見逃しばかりではなく、ファウルになっても党内や与党間でもっと議論をたたかわすといい」と述べた上で「公明党は合意形成に努力をせず、『安保関連法で事足れり』と護憲に戻ってしまっている」(毎日新聞2020-2-8付け)といささかオーバーラン気味に答えている。
中山氏はあとがきの文末で、これからは、生命倫理や環境権などの新しい論点が持ち上がってくると述べている。そして「その時には、『護憲派』『改憲派』などという言葉はもうなくなっています。ただ、日本をどういう国にしたいかの理想のぶつけ合いだけがある」と。私もこの中山氏の見通しに共鳴するが、依然議論は停滞しているのは残念だ。この国にいま必要なのは、求められる国家像の提示とその徹底した議論であろう。
【他生のご縁 印象深い医師の視点】
中山太郎氏は、政治家であると共に、医師でした。憲法調査会の様々な場面でも科学についての重要な視点を持っておられたのが印象に残っています。
私が初めて本を出版した際に、それを記念する会を開いたのですが、壇上には発起人になって貰った学者、文化人ばかり。「赤松さんのパーティーは文化人のみたいで、政治家のものとは思えなかったねぇ」と後に感想を述べてくれた中山さんにも上がって貰えば良かったと、今頃後悔しています。