◆勤務医たちの現場の苦労に警鐘
コロナ禍もほぼ収束して、いっとき盛んに危惧された「医療崩壊」も落ち着いてきたかに見える。この言葉をメディア上で最初に私が聞いたのは、小松秀樹さんのこの本による。既に出版後17年ほどが経つ。だが、ここ数年使われている「崩壊」とはいささか異なった意味合いだった。コロナの蔓延によって、医師や看護師からベッド数に至るまでが足らずに、通常の医療行為が出来なくなるということではない。この場合は、医師たちが診療に対する患者の不満やら、警察官僚の介入などに至るまでの攻撃から逃避する現象をさす。
著者はそれを「立ち去り型サボタージュ」と命名している。勤務医が病院から、より小さな病院や町医者へと転身するかたちをとるようになることを意味する。この現象は、その後も止まることなく、じわり着実に浸透している。そこにコロナ禍が襲いかかった。より一層事態は深刻になっていることは間違いなさそうだ。医療が抱える深刻な課題を考えざるをえない。
この本を小松さんが書いた当時は東京の虎ノ門病院の泌尿器科部長だった。実は、これより先に、『慈恵医大 青戸病院事件』を出版し、患者と医師の対立がこれ以上増幅すると、日本の医療は崩壊すると危惧して警鐘を乱打した。その事件は、前立腺全摘手術を施行された患者が低酸素脳症で死亡したことから、同病院の医師3名が逮捕された(2003年9月)ことに起因する。小松さんは当時、「国民に極悪非道の医師像が刻印された」としている。その3年後にこの本を書き、翌年『医療の限界』を出している。
◆死生観含む医療についての考え方の齟齬
1作目は、発端としての「事件」を描き、2作目では、広範囲な問題の「所在」を明かし、3作目で、医療への幻想を断つべく持論の「普及」を図った。こうした一連の「医療危機」を訴える三部作は、大きな話題を呼んだものだ。いわゆる「医療ミス」は、日常茶飯の出来事のように見えるが、その判別は難しい。医師の側を非難するメディアの力に対抗する存在は珍しい。まして、開業医ではなく、勤務医の立場からの擁護論は新鮮だった。小松さんは、前者のバックにある「医師会」に対抗して、弱い立場の勤務医のための「第二医師会」の創設まで提唱した。
この人は「医療崩壊の原因は患者との軋轢」にあり、そこから「使命感を抱く医師や看護師が現場を離れつつある」との認識を示す。そこから起きる「医療の崩壊を防ぐために」、「医療事故・紛争に関して現状を改革し、医療への過剰な攻撃を抑制する必要がある」という。少し前にテレビで『ドクターX』なる番組が人気を博し、「私失敗しないんです」とのセリフが流行語のように使われていた。どんな病状でもいかなる事態にも100%の成功はあり得ないが、それをやってのけるスーパー女医への憧れは、正反対の現実を裏返した庶民願望の表出だった。
現実は至るところで、「軋轢」が噴出している。どんな名医でも新人の頃は手元は覚束ない。いかなる患者もやがて必ず死ぬ。にも関わらず、病院に、巷に外科手術は100%の期待感に満ち溢れている。このギャップから始まって、善意の医師と患者が相互に憎悪の対象になり、いつ何時混乱の坩堝と化すかもしれない。
小松さんは、個別具体的な対応策の前に、最も大事なことは、「死生観を含めて医療についての考え方の齟齬が大きいことが最大の原因である」として、「まず最初に、日本人の行動様式を含めて、基本的な認識と考え方について、国民に注視される中で象徴的議論を行い、総論としての齟齬の解消を図らねばならない」としている。言いたいことはそれなりにわかるものの、なんとなく回りくどく釈然としない。
要するに、「死生観を含めた医療の考え方」とは、死への覚悟と延命措置のバランスに尽きよう。医療は万能ではない、基本は持って生まれた個人の生命力と寿命に由来するとの思想、哲学にあると思う。昨今、日本人の長寿化に伴い人は限りなく生きるもので、よほどでないと死なないといった勝手な考え方が蔓延している。それゆえ、「日本人の行動様式を含めた基本的認識」は、従来の医療従事者への尊敬と信頼が薄れて、クレイマーの対象へと貶められている。ともあれ、小松さんは極めて重要な問題を提起された。しかし、「国民注視の象徴的議論を」という提案が宙に浮いたままなのは、まことに残念なことである。
【他生のご縁 虎ノ門病院で「腎臓結石」の手術を受ける】
実は私は小松さんの三部作が出始めた頃、たまたま偶然に、虎ノ門病院の泌尿器科のお世話になりました。小松部長の指導担当のもと、若い医師によって私は「腎臓結石」の手術を受けたのです。いらい、親しくなりました。
その結果、党の理論誌『公明』誌上で、医療にまつわる対談を行うことになりました。その後、私は厚生労働省で「高齢者医療改革」を担当するような巡り合わせに。およそ医療についてはド素人だったので、小松先生の理論が大いに刺激になりました。あれから約20年。色々と毀誉褒貶がおありになったこともあり、残念なことに疎遠な関係が続いています。