【74】2-③ 国のかたちを阻む戦後の形──船橋洋一『国民安全保障国家論』

◆信頼に足る政府の存在こそ

 コロナ禍とウクライナ戦争によって、日本という国が改めて「国家の形」を持っていないことがはっきりした。阻んでいるのは「戦後の形」である──船橋洋一氏は、この認識のもとに、国家と経済と国民の3つさながらの安全保障の構想を早急に確立すべきだと、この本で強調している。「天は自ら助くるものを助く」との「自立」の大事さを強調した格言をサブタイトルに使い、明治開国の時代の「独立自尊の精神」の学び直しを、「ウクライナの指導者と国民」によって教えられたとする。2020年春のコロナ危機から2022年春のウクライナ危機までの2年間に書かれた評論集を一冊にまとめた本──幾多の知的修練を経た、時代を代表する言論人の所産を前にして、かつて中国への関心と共にその背中を追いかけてきた私は感慨深い。

 筆者は湾岸戦争(1990-91)の時に「一国平和主義」が問われ、東日本大震災による福島第1原発事故(2011)の際には、「絶対安全神話」(ゼロリスクの建前)が問われ、今、コロナ危機にあっては、「平時不作為体制」が問われているという。前二者はともかく、3つ目は補足が必要かもしれない。コロナ禍は、国民の生命と暮らしを守るために、〝信頼に足る政府〟の役割が決定的に大事である。いざという場合に、国民の自由な行動を制限し奪ってしまうのだから。

 平和憲法のもとで、「自分の国さえ平和であれば」「原発は事故を起こすはずがない」「平時は別に何もしなくてもいい」──このような〝危機管理ゼロ〟でよしとしてきた戦後の形の是非がいままさに突きつけられているのだ、と。この認識には誰しも共感するに違いない。「湾岸戦争」は遠い海外の中東でのこと、「福島第一原発」も日本だが特殊なケースと、たかを括っていた日本人も、我が身のそばの〝死に誘う接触者〟がいつ襲ってくるかもしれないとなれば事は別である。しかも、「ウクライナ」は「湾岸」の再現とも見え、「尖閣」「台湾」を連想させる

 船橋さんは「湾岸」時に「日本の(カネさえ払えばとの)身勝手さが恥ずかしかったし、右往左往する自民党政権が情けなかった」と。さらに「尖閣ショック」時には「民主党政権の不甲斐なさと外交無策ぶりに憤りを覚えた」と嘆く。そして今は、コロナ危機に直面しながら、「泥縄だったけど、結果オーライ」(第一波での民間臨調)の能天気ぶりは、「デジタル敗戦」から医療崩壊寸前に追い込まれた「ワクチン敗戦」(第四波)を生み出したからだ、と手厳しい。

 それに触れた上で、「日本に特異なのは危機対応における国家としての明確な司令塔と指令系統がしばしば『総合調整』の場でしかなく、また、平時と有事のそれぞれを律する法制度の明瞭な切り分けがなく、いわばグレーゾーンの曖昧性を残している」と指摘。「日本は自由を守り、民主に則るためにも有事の法制度を構築しなければならない」と根源的な課題を挙げる。

◆国の形さえ定まらぬ日本の漂流

 事ここに至るまで危機管理対応ができないまま戦後78年が経った。私が『77年の興亡』で主張したのは、戦前の明治憲法の下での天皇支配による軍国主義に代わって登場した、「国民主権・基本的人権・恒久平和主義」の戦後憲法の内実の脆弱さだった。それは「国の形」と呼ぶにはあまりにも理想に過ぎた。国際政治の過酷さの現実に耐え得る強靭さを兼ね備えていないという他ない。

 船橋さんは、第1部「国家安全保障:レアルポリティーク時代の幕開け」で、「最も恐ろしい日米中の罠」を、こう書く。「米中対立が軍事対立へと激化すると、日本は米国の同盟国としての義務と自らの実存的必要性のギリギリの矛盾に直面させられる」ので、これを回避するべく、「中国に日本の自国防衛の意思と能力、日米同盟の抑止力の有効性、科学技術力とイノベーションの力を常に理解させるべきである」と。米中対決の中で日本が選択肢を失う罠に陥らぬことを力説してやまない。

 グローバル化の進展と共に、経済・通商の分野では益々国家の枠組みを超える交流が望まれる。コロナ禍発生時には、国家間相互の支援の機運向上が期待された。しかし、時代の流れは不幸なことに国家の内外を問わぬ〝分断化〟が拍車をかけている。民主主義国家と専制主義国家の枠組みの危機到来などと騒いでいる中で、国の形さえ定まらぬ日本の漂流は哀れと言うほかない。戦後の形の最たるものである憲法の見直しこそが求められていると私には思えてならない。

【他生のご縁 市川、中嶋、西村氏らとの繋がり】

 朝日新聞時代の船橋洋一さんとのご縁にも市川雄一先輩の介在がありました。かつて西村陽一記者(後に常務取締役等を経て退職)が『プロメテウスの墓場』を書いた時に、4人で中国、ロシアを語り合ったのが最初で、印象深い出会いを覚えています。後輩のデビューに目を細める船橋さんでした。

 後に、中嶋嶺雄先生が秋田国際教養大学でシンポジウムをされた時のコーディネーターのひとりが船橋さんで、私も秋田まで遥々と聞きにいきました。私の処女出版での催しに世話人としてその名を連ねて頂きもしたものです。

 

 

 

 

 

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