塩野七生さんの名作『人びとのかたち』──この本の扉には、「映画鑑賞を読書と同列において 私を育ててくれた 今は亡き父と母に捧げる」とある。これは映画にまつわるエッセイ集なのだが、かねて私は、この本を〝映画のおたから〟のひとつとみなし繰り返し読んできた。全部で48本のエッセイの中で取り上げられた映画のうち、私自身の興味の赴くところと完全に一致したのが『地獄の黙示録』である。この映画については、少し前に亡くなった立花隆氏の有名な評論がある。『誰もコッポラのメッセージが分かっていない』である。かつて愛読した雑誌『諸君!』に掲載された。そこで塩野さんがどう〝分かり具合〟を示してくれているか、固唾を飲みつつ目を凝らして読んだ。だが、見事に外された。立花氏がこだわったカーツ大佐(マーロン・ブランド)については「その解釈で充分」とだけ。それ以上は触れられていない。ただし、戦時のリーダーとしては「失格にする」とズバリ否定。一方、あのロバート・デュバル演じる指揮官には好意的な眼差しを向ける。「負傷した部下たちの救出に配慮を忘れないこの男」は、戦の最中にサーフィンまでやらせる「パフォーマンスの名手」だと。神学論争になりがちな後半部分の解釈については、さらりとかわして、「リーダー論」に持ち込む手際は、さすがという他ない◆塩野さんは、随所でメリハリの利いた人物評を繰り出す。まさに小気味ばかりだ。グレタ・ガルボについての「スター」の一文が目を惹く。ここでは「実像と虚像」を巧みに論じる。〝スターは虚像〟の存在であって、〝実像〟を暴き出そうと、熱意を燃やす普通の人の努力は無駄であると明解きわまりない。創造する側に、「虚像と実像の区別など存在しない」と断じつつ。で、実像は「その人が生まれつきもっていたものにすぎない」のだが、虚像は「才能と、努力と運の結晶」だといわれる。ここまで読み、私がある有名な芥川作家の自宅に行った時に「作家って嘘つきでないと務まらないですよね」と、投げつけた言葉を思い起こす。いらい今日まで、作家の壮大な「結晶」をして〝嘘つきの所産〟と決めつけたことを後悔し続けてきたが、「実を越えうるのは、虚しかない。偉大な虚のみが、現実を越えて生きつづけることができる」との塩野さんの結語で、ようやく納得するに至った。あの時、芥川作家の、しばし呼吸をおいてからの「そうですねぇ」との同意は、「虚の効用」を知らない凡愚な私の身を慮っての優しさだった、と◆(この稿83号と一体化させています)