司馬遼太郎さんは、韓国に行きたいと思ったのは十代の終わり頃だと『韓(から)のくに紀行』を書き出している。その目的を問われて「韓国への想いのたけというのが深すぎてひとことで言いにくかった」から、「(たがいに一つだと思っていた)大昔の韓国の農村などに行って、もし味わえればとおもって」と答えたと、続けている。この時(1971年)に遡ること30年ほど前に、彼は現実のその地に念願叶って行った。だが、その時の記憶は、徴兵で運ばれた列車のレールの上から垣間見た風景の断片でしかない、とさりげない◆朝鮮半島と日本の関係史にあって、大きないくさは3つ。最初は白村江の海戦である。西暦663年8月のこと。唐と新羅の連合軍と百済と組んだ日本のいくさだったが、「日本の水軍は恐れも知らず全軍突入し簡単にやぶれた」。「わが水軍が、それぞれ先を争って猛進すれば唐の水軍はしりぞくだろう」との見立てだった。「日本人のいくさの仕方は、この時代から本質としては変わっていない」と、司馬さんは厳しい。「おろかなことをした」のちの日本の政治的心情は、「国際環境についての恐怖心」であり、唐と新羅が攻めて来はしないか、と怯えたという。いらい1360年ほど、この心情は今も大筋変わっていないと思われる◆その一方で、日本は朝鮮民族を舐めきってきたと言わざるを得ない経緯がある。それは後の秀吉の朝鮮出兵であり、日清戦争での勝利に起因する。司馬さんは、どういう方法で誰が計算したか知らないが、「朝鮮民族が外敵の侵入を受けた回数は有史以来五百数十回だそうである」と驚き、北から南から常に侵入されながら「ほろびることなく、南北とも堂々たる近代国家として国際社会に存在している。こういう例は世界史でもめずらしい」とまで褒め称えて、「凄味がある」としている。南の韓国はともかく、北朝鮮が堂々たる近代国家と言えるかどうか。大いに疑問だが、専制国家としてのマイナスの存在感は確かに大きい◆七十代後半の今の歳になるまで、私が韓国に行かなかったのは、ひとえに「気が重い」ことに尽きる。日韓、日朝の関係史を思いやるにつけ、「創氏改名」を代表とする、彼らの日本人への「怨恨」にまともに付き合いたくないからだ。司馬さんも「朝鮮人と政治問題を語ることを無数の理由から好まない」と明言している。この人は、あたかも美味しい魚を食べる際に、小骨が喉に刺さらぬように、「政治」を選り分けているかに見える。「文化・芸術」的視点から、この民族の持つ素晴らしさを語ってやまないのだ。ただ、選別され取り出された骨のなかに、「中国」という大骨が混じっていることが気にかかる。ここは骨までしゃぶる覚悟で、小骨は噛み砕くしかないのかもしれない。(2023-8-31)