【93】日本近代化への遥かなる光線──司馬遼太郎『オランダ紀行』を読む/9-8

 夏の高校野球──107年ぶりの優勝を果たした慶應義塾高校の校歌(塾歌)が映像で日本中に流れた。実はこの歌はオランダに深い関わりを持つ。富田正文(作家・福沢諭吉研究者)によって昭和15年に作詞される際に、諭吉の塾創設への深い思いが込められた。福沢はオランダ語の習得を通じて西洋の思想に深く拘泥していったのだが、17世紀に世界の覇権国家として一時代を築いたオランダも、200年を経て衰退の道に陥っていた。明治維新(1868年/慶應4年)当時には、世界各地からオランダは後退。その国旗がひるがえる地は長崎・出島ぐらいしかなかった。諭吉は当時戦乱の巷にあった日本の国内情勢と覇権国家・オランダとを重ね合わせて、学問に励むことこそ一国の自主独立を成り立たせると、塾生に強調した。🎶見よ 風に鳴る 我が旗を で始まる歌詞は、慶應義塾の旗を指す一方、オランダへの福沢のあつい思いも込められたのだ。このことは歌詞を追っても殆ど分からないが、私は福沢諭吉研究センターの都倉武之准教授から聞いて知った◆司馬遼太郎はこの紀行を「事始め」と題して、オランダ製の咸臨丸に乗って諭吉や勝海舟らが1860年(万延元年)春に米西海岸に到着したことから書き出している。と共に、「(『自伝』に)オランダ人はどうしても日本人と縁が近いので‥‥。とあるのが印象的」だと、続けている。1600年(慶長5年)は「関ヶ原」の年である。と同時に、徳川の時代の幕開けを待っていたかのように、オランダ人が日本に通商を求めて初めてやってきた。のちに長崎・出島という4000坪足らずの扇状の埋め立て地に橋を架け、外界と遮断しつつ接続をも可能にした。「針で突いたような穴」にかすかに射し込む光が、幕末まで続き、諭吉がその光の恩恵を最も適確に浴びたことを、司馬はいとおしむかのように紹介している◆オランダは、「大航海時代」(15世紀半ばから17世紀途中まで)に、ポルトガル、スペインの二か国が世界の海を席巻した後に、世界史における植民地争奪戦の三番手として姿を見せる。そして、後に控えた英国の本格的登場に替わって、後衛に退く。キリスト教カトリックのポルトガル、スペイン両国は布教の下に鎧が見え隠れしていたことを、時の支配者・秀吉は見抜いた。それに比べて、オランダは新教プロテスタントによる自由な通商国家であった。布教よりも実利中心で交易熱心だったのである。司馬はこの国の実像を、様々の歴史的事例、文化的様相などを通じて、ジグゾーパズルのように描いてみせ、やさしく引き込む◆オランダが出島で細々と、日本とのよすがを繋いでいるほぼ2世紀のあいだ、同国は東インド(現インドネシア)の植民地支配に精を出し、台湾支配をもうかがった。アジア全域でタイを除く各国がヨーロッパ先進諸国の餌食になったことに着眼すれば、1633年からの日本の「鎖国」(オランダと清国だけを例外とした)の持った〝国力温存の効果〟に驚く。このことは「関ヶ原」前夜に至る「秀吉の時代」のキリシタン浸透への「弾圧」からくる「脅威」が大きかったに違いない。カトリックの二国がキリスト教の布教を矢面にかざしたことで、慎重極まる「覇王・家康」は、海外からの侵略の狙いを警戒した。結果として、江戸から明治に至る「日本防衛」を可能にした。おまけに、出島ルートで近代化への準備をも可能にしたことは、まさに僥倖だったといえよう。(2023-9-11 一部再修正)

 

 

 

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