【96】占領期から冷戦の同盟者として━━『大統領から読むアメリカ史』から考える②/10-3

 2回目は、第二次世界大戦後の冷戦期の前半。日本がアメリカとの戦争に敗北した時の大統領はハリー・S・トルーマン。実は、戦争の間中は、4期にもわたってずっとフランクリン・D・ルーズベルトが第32代大統領だったが、1945年4月に急逝し、副大統領だったトルーマンが昇格した。彼は苦労人で大学も卒業していない、庶民出身の大統領であった。私のこれまでの印象は、彼が原爆投下を決断した点と、日本人に人気のあった連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサーを更迭したことの2点で、あまり芳しいものではなかった。だが、著者は、原爆投下でソ連の侵攻に伴う日本の分断国家化を防ぐに至ったこと、大戦の早期終結で、日米間に抜きがたい怨恨が残らなかったことなどをプラス材料にして、高い評価を与えている◆日本は1952年(昭和27年)まで米国占領下におかれるが、この占領政策の直接の最高責任者はマッカーサーであった。トルーマンと次の大統領のドワイト・D・アイゼンハワーとの間に、筆者は戦後の日本社会に民主主義を確立したリーダーとしてマッカーサーを挙げ、それを番外のコラムに詳しく書いている。そこでは「後期の占領政策には、戦争の勝者が敗者に強いるような一方的な押し付けは見られなかった」などと、持ち上げていることは特筆に値しよう。「敗戦を奇貨として変革に取り組み、アメリカと手を携え、時には対立しつつも、したたかに戦後復興に注力した」日本だったからこそ、との側面はあるものの、日米両者による共同作業によって、奇跡が起こったと見ても言い過ぎでないかもしれない◆一方、トルーマンに代わって大統領になったのは、軍人として欧州戦線で大きな功績のあったアイゼンハワーだった。彼が1953年から8年間大統領を務め、現代アメリカを完成させたと言われるが、マッカーサーといい、アイゼンハワーといい、軍人出身の人材に恵まれたことが日本との違いだったと言えるかもしれない。その後がジョン・F・ケネディである。「キューバ危機の13日間」や、黒人の政治的権利を大幅に拡大する「公民権法案」の提出など光の面と、ベトナム戦争への介入など影の面が交錯するものの、「アメリカをよりよい方向へと前進させた類まれな指導者」だったと見るのが素直なところだろう。狙撃死したケネディに代わって副大統領から昇格したリンドン・B・ジョンソンは、前任者から受け継いだ「偉大な社会の建設」にはいい結果を出したものの、戦争継続という負の遺産に押し潰されてしまう◆この後、リチャード・ニクソンは、ウオーターゲート事件で辞職に追い込まれる(1974年)までは、国際政治学者のヘンリー・キッシンジャーを大統領補佐官に抜擢し、電撃的訪中で米中接近を図ったり、米ソデタント(緊張緩和)に貢献するなど幾多の実績を上げた。だが、最終的には政治不信の元凶として最悪の烙印を押されることになった。日本ではドル価値下落に伴う衝撃などと併せて「ニクソンショック」の名で呼ばれることになった。途中で大統領職を受け継いだのが、ジェラルド・フォード。この人は前任者の汚辱という「前代未聞の状況からアメリカを救った」大統領として、筆者は高く評価している。トルーマンといい、ジョンソンといい、フォードといい、副大統領からのリリーフ役に恵まれるアメリカは凄いと言うほかない。(2023-10-3)

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