斎藤幸平の『人新世の「資本論」』を読んでから、世界を見る目が変わったという人が多い。私も様々の気づきを得た。とりわけ、資本主義の後に来るものとしての「コミュニズム」の存在、捉え方に新鮮なものを感じてきた。冷戦の終了と共に、社会主義が後衛に退き、資本主義の栄華が続くと見たことが、いかに単純で脆いものであったかを痛切に自覚する。そんな折に、大澤真幸との対談をベースにした『未来のための終末論』はとても読みやすくて、刺激に溢れた本だった◆若き俊英・斎藤に比べ、ほぼ30歳年上の大澤の礼を尽くした大人の姿勢は、実に好感がもてる。大澤自身の学問上の師である見田宗介の思想との類似点と相違点を持ち出しての議論は中々わかりやすい。前述の斎藤の本には幾つもの論点があるが、最大のものは「脱成長はいかにして可能か」であろう。斎藤は資本主義に代わるシステムとしての「コミュニズム」を提唱しており、見田は「資本主義の内的な転回によって脱成長は可能」との立場である。両者は似て非なるものだが、大きな違いはない◆「成長至上主義」とでも言うべきものが横行する現状の日本社会にあって、「脱成長コミュニズム」を導入するしか、気候変動、自然環境破壊に対応するすべはないとの主張は明快そのものである。斎藤は、人類はいまウクライナ戦争の泥沼化と共に、❶経済成長を優先させるために2050年までの脱炭素化を諦める❷原発を再稼働させようとしている━━がそれは誤りで、「脱成長」しか本当に進むべき方向はないとしている。だが現状はどうか。「世界を見ていると希望を感じることはあります。それに対して、日本の現状は少し寂しい」(大澤)し、「海外のような発火点になる運動には(日本は)なかなか発展しません。悲観主義に陥らず、新しい運動に繋がるような言説をどうつくっていけばいいのか、考えどころです」(斎藤)というあたりが残念ながら実態であろう◆ここでカギを握るのは公明党だと私は思っている。「人間主義」を掲げ、〝自然との共生〟を基本に据える政党が、旧態依然とした「経済成長一辺倒」的態度に凝り固まっているのは時代錯誤ではないか。例えば、神宮の森を伐採する動きなどに真っ先に反対する動きをなぜ見せないのだろうか。自民党を始めとする既成の勢力に与党として、気兼ねしている場合ではないと思うのは私だけではないはず。かつて、党創立者が提唱した「人間性社会主義」(「新社会主義」)なる言葉の実体こそ、斎藤のいう「脱成長コミュニズム」を先取りしたものだったに違いない。その理論構築を怠ってきた党人としての怠慢を心底から後悔しつつ、そう思う。(敬称略 2023-10-17)