池田先生が霊山に旅立たれて初7日が経つ。『創学研究Ⅱ』についての読書録上編を公表したのが14日だったので、下編までの7日間が不思議な意味合いを持つように思われる。我が人生における永遠の師との今生の別れという劇的変化を受けて、身も心も引き締まる。質量ともに圧巻と言っていい読み物(講演)は、松岡幹夫所長による第2章「日蓮本仏論再考━━救済論的考察」である。全体の半分以上の分量(時間)が当てられて「信仰の証明学としての日蓮本仏論史」が語られている。中身を大胆に要約すると、鎌倉時代の宗祖・日蓮大聖人より後継の祖・日興上人を経て、江戸期における中興の祖・日寛上人から近・現代に続く日蓮仏法の系譜が、創価学会の今に至るまでの正当な流れとして見事に解明されている。同時に、800年の時間的経緯の中で、袂を分つことになった身延山久遠寺を始めとする諸々の日蓮宗系各派の位置付けやら、富士大石寺系統の現・日蓮正宗及びその異端としての顕正会に至るまでの側・裏面史も表裏一体のものとして整理されている◆これがこの講演で私が理解した核心部分なのだが、そこに至るまでの議論の腑分けに必要な幾つかの道具立てが用意されている。「史実論と救済論」「護持の時代と広布の時代」などは、文字だけで大まかに推測出来るが、「準備」「予型」「過程」「真意」といった「四つの原理」は字面だけでは解りづらい。イメージ的には、過去に学んだ仏法理解のツールとしての、小中高大の教育段階での役割分担や、建設作業での足場のようなものと言えば、少しは身近に感じられよう。ともあれ、世界広布の時代の民衆救済という観点に立てば、過去に意味を持ったものも、小さくて身体に合わなくなった古い時代の衣服として捨てるしかないということである。誤解を承知の上で杜撰な理解ぶりを披歴したが、読み終えた今、複雑怪奇な迷路から脱して眺望晴れやかな高台にたどり着いた時のような爽快感を味わえたことだけは確かだ。松岡さんの労作業に、それぞれ自身の力で挑戦されることを薦める◆この松岡講演(第2章)を挟んで、前回の仏教的観点の議論(第1章)に続き、佐藤優、黒住真両氏によるキリスト者の論議がまた読み応えがある。文献学や神学といった学問に取り組む学者が、人々の生活する世界から離れていった事実を、黒住さんは挙げる一方で、生の人間の生き死にの場面━━戦場での傷病者や癩病患者の治療の場など━━で献身的に寄り添う司祭たちの姿を描いているくだりが注目された。この描写に続き、彼が「創価学会は法華経の研究者を輩出しただけで終わっていません。それ以上に、人々の生活世界そのものに飛び込んで応対していった。実際に、創価学会は多くの苦しみ、絶望した人々を救ってきています」と述べて、東西を問わず「現実世界での宗教、それと文献、言葉とが結びつくことが必要で大事」と強調しているのです。佐藤優さんは一貫して創価学会員の仲間たちの民衆救済に取り組む姿を礼讃してくれています。この本でも随所で、その視線は宗教の差異を超えて、学会員と完全に一体化しているかにみえます。私はこれらに接するたびに、その期待を裏切らぬようにと、祈る思いになるばかりです◆最終章の2本の寄稿(羽矢辰夫創価大名誉教授と関田一彦創価大教授)は、共に強いインパクトを受けます。前者は「『創学研究Ⅰ』の書評に代えて」との体裁をとっており、そのなかで、池田先生、創価学会が提唱する「人間主義」は、ヨーロッパ由来の概念としての「人間主義」との区別をすべきだと主張しています。これまで「凡夫を人間の唯一のモデルとしてきた(ヨーロッパの)人間主義」と「ボサツを人間の新しいモデルとする人間主義」を区別せよと言われるのです。これには私も全く我が意を得たりです。私風には、これまでヨーロッパのものは、自然をも含む生きとし生けるものへの畏敬の念がないため、「人間中心主義」と呼んできました。「人間主義」だと、羽矢さんが指摘されるように誤解を招きます。私自身は「人間主義」との表現を避けて、敢えて「人間主義(生き物主義)」と面倒な表現をするように心がけてきました。最後に関田さんの「仏法から見た協同教育━━十界論から授業を観る」には感動を禁じ得ませんでした。「学校が子どもたちを苦しめるいじめや不登校の温床になって久しいにも関わらず、未だ解決できないのは仏法の生命論なかんずく十界論の観点から子どもたちの学校生活を考えるという発想が乏しいから」だとの指摘には目からうろこです。公明党の人間としても今ごろになって気づきを得て、恥ずかしい限りです。(2023-11-21)