総合雑誌『潮』の23年11月号の【特別企画】「政治の使命とは何か」での吉田徹同志社大教授による論考『「くじ引き民主主義」で停滞する政治を打開せよ」』(同名の著書は未読)は、燃え盛る「政治家たちの犯罪」のなかで読むと、極めて示唆に富んだ面白い内容である。こんな政治、政党、政権ではどうしようもない、と嘆いてばかりではいけない。打つ手は未だあるのだと強く感じた。実は、さきのブログNo.101で、ジェレミー・リフキンの『レジリエンスの時代』を取り上げたが、その中にあった今世界各地で広まりつつある「分散型ピア政治」なるものの日本版が「くじ引き型民主主義」と呼ばれるものだからだ◆吉田さんは、この論考で「主権者たる国民が自らを統治するにはどのような形がいいのか」「多様な意見を政治にどう反映すべきか」「そうしたビジョンを実現するには、どのような制度や仕組みが求められるのか」との自問を投げかける。そして、民主主義の再起動は、こうした構想や議論があってこそだとすると共に、「くじ引き民主主義」を答えとして挙げている。彼は、「市民の中から無作為抽出で、地域や国の構成員の属性(男女比や年齢)に似た議員を選ぶ仕組み」を「くじ引き民主主義」だと定義づけている。先に私が見た「分散型ピア政治」なるネイミングがわかりづらいのに比して、そのものズバリでわかりやすい◆現在のような犯罪者まがいの政治家の体たらくを見ていて有権者の間には、政治の現場をこんな連中に任せるなんて、呆れる、もう嫌だとの声がじわり広まりつつある。かつて私が学生時代に、遠くない将来に、政治家無用論が起きてくると言い放った教授がいた。曰く、高い予算を投入して選挙で議員を選び、また彼らに高額の報酬を与えても、ろくな結果が生まれないどころか結局無駄の限りを尽くすだけ、それなら自分たちでやれるのではないかとの議論が必ず出てくるといったものだった。政治家はいなくても、民衆の決定に応じてそれを遂行する役人(事務遂行人)がいれば済むはずとの主張だったと記憶する◆今、日本以外の世界の随所で展開されている分散型ピア政治(くじ引き民主主義=裁判官員制度が類似)は、くじ引きで選ばれた素人たちが決めた一定の指針を出すのが基本的スタイルであるが、それをどう法律にしていくかは、今まで通り、議会や官僚(役人)など行政が担っていくことになる。だから完全ではなく、まだ進行形に過ぎない。これは発展途上だからであって、そのうち、今のくじ引きで選ばれる〝一般的議会人〟が、常設の議会に取って代わる時がくるに違いないと思われる。吉田さんは「共同体と個人関係をアップデートしていかなければ、日本の民主主義はやせ細っていくいっぽうです。公と個の関係を結びなおすことのできる構想や仕組みが求められています」と強調している。実際、その通りである。国会では今後、自民党を非難し攻撃する野党や国民に対して、政府与党は「再発防止策」を練り上げるだろう。しかし、そんなことですまされるのか。それは結局対症療法であり、抜本的な問題の解決にならないと、私は確信する。打つ手が違ってるのだ。(2023-12-18 一部修正)