(128)残された選択は「沖縄独立」しかないのかー大城立裕『小説 琉球処分』

沖縄県と政府の関係が極めて悪い方向に向かっている。13日に翁長県知事が米軍普天間飛行場(宜野湾市)の移設計画を巡って、移転先の名護市辺野古の埋め立て承認を取り消したことに対して、政府は行政不服審査法に基づく不服審査請求を行う方針を固めた。このことから埋め立ての是非が法廷に持ち込まれることは必至で、全面対決の様相が一段と濃い。こういう状況が進む中で私はいま、大城立裕『小説 琉球処分』上下を読んでいる。その結果、あらためて明治初年のころと全く本質的には変わっていない日沖関係を深刻に考えざるをえない▼実は私は現役時代に衆議院本会議で、日沖関係が悪化すれば、最終的には「沖縄独立」しかないことを匂わせた演説をしたことがある。自分の本会議演説では出色の出来栄えだったと思っているが、全く注目されなかった。その演説をするきっかけとなったのは、実は池上永一の小説『テンペスト』を読んだ影響が強い。中国と日本、そしてアメリカと日本という大国のはざまで苦悩しながら、見事に立ち居ふるまう琉球の生き方は小説とはいえ(いや、小説だからこそというべきだろう)実に鮮やかで、知的興味を強烈に惹きつけられた。そこで、「米軍基地の過重なる負担に苦しむ沖縄が生き残るには、こういう状況が続くなら”中国寄り”にならざるをえない。日本政府を牽制しながらの外交展開をするしかなく、やがてその先には独立を選択することが待っている」との思いを抱いたのだ▼大城立裕さんの小説は、明治新政府と琉球王朝府との確執を克明に描いている。国家間相互でもこれほどの異質のもの同士の対応は珍しいかもしれない。「五年来、何十回あるいは何百回、琉球の高官どもと談判した。根気比べの談判であった。(中略)はねかえしてもはねかえしても寄せてくるー卑小な蚊の群れにもたとえようか」ー琉球の高官とさらには王府との交渉を振り返って、明治新政府側の琉球処分担当官が述懐する。この辺りは読むほうもはらはらイライラしてくる。ここを読んでいて、辺野古移転をめぐる沖縄県と日本中央政府のやりとりなどまだまだ序の口かもしれないとさえ思わせられる。この小説を読んでの結論は、沖縄との交渉は、根気比べでどっちかが倒れるしかないものと思わざるをえない▼この小説にしばしば出てくるのが、中国と琉球との関わりである。琉球人としてその恩義が忘れられないという風に読めるくだりに出くわすたびに、疑問を抱く。というよりも、少なからざる嫉妬めいたものを抱かせられる。中国と一言で言っても到底一筋縄でいかない。勿論、今の共産主義・中国だけでは、この大陸に生息する民族の総体を判じることは難しい。また、琉球についても、およそ単純にとらえられないことを痛感する。沖縄大好き人間の私としては、良くわかってるつもりだが、やはり琉球民族と大和民族は似て非なる民族だと感じる。例えば、官職の呼び名一つとってもきわめて難解だ。親雲上、里之子とか、王子、按司や親方など、理解を超える表現に出くわして戸惑う。この点などはいささか説明された方がいいのでは、と思ってしまう。ともあれ、『小説 琉球処分』を読みつつ、知事と政府のせめぎあいを追っていると、『実録 沖縄処分』を見せられているようだ。この行く末に待っているものは「沖縄独立」しかないと思われてならない。(2015・10・15)

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