【109】ポストモダン風〝自分探しの哲学〟作法━━諸井学『マルクスの場合』を読む/1-1

 読み進めて、ああこれって前に読んだアレと似てるなあと思った。アイルランドのノーベル賞作家・サミュエル・ベケットの代表作『モロイ』に。ちょっと似てるものの、結構分かりやすいところが違う。自転車に乗った犬が海を見つめているかわいい表紙の『マルクスの場合』を読み終えての私の印象だ。犬、自転車、ビー玉おしゃぶり‥‥。登場する小道具が酷似している。しかも出だしのフレーズが最後にまた登場して、と。だが、あの作品を読み終えて感じたわけのわからなさへの苦痛と苛立ちは不思議にない。曖昧で不可解な人生へ挑む勇気が今ごろ湧いてくる。「ん?俺っていつからこんな本に感じるようになったんだろう」──な〜んて。ベケットの『モロイ』に感激して、そこから学ぼうと、筆名を諸井学(もろいまなぶ)とした人から直接手ほどきを受けた。その効果が出てきたのか、それともこれは初夢なのか◆かつて、あれこれ講釈を聞き、ポストモダンなる分野の小説を齧って数年が経った。諸井はモロイを超えた──これが私のやや無謀な実感である。現代世界文学の水準から、日本文学は遠く離されたところにある、遅れているというのが諸井さんの口癖だ。しかし、その挑戦はとりあえず成功したのではないか。ストーリーを追うんではなく、そこにある表現全体を感じとれればいい、理解しようとするのではなく、と幾たび聞いたことか。それからすると、理解できる、分かったは邪道なのだが。で、私は何故に諸井学に従順になったか。ひたすら和歌文学への彼の造詣の深さに感銘を受けたからだ。縦横無尽にあの手この手を使っての「新古今和歌集」を料理し尽くした『神南備山のほととぎす』にはたまげた。かの丸谷才一の『後鳥羽院』における誤りを謝らない同氏に、文中で挑みかかった度胸に痺れた。今度は現代世界文学への挑戦なのだ◆色んな受け止め方ができようが、私はこの本を著者の意図とは別に「自分探しの哲学奇行」と見た。愛犬マルクス・アウレリウスを相棒にその旅に自転車で出かけ、途中での数々の出会いと、思考の所産が散りばめられて飽きさせない。この人は工業大学に進みながら、文学への思い絶ち難く、ひたすらに古今東西の本を読みまくった。その遍歴の一端は第8章の「旅路の果て」に詳しい。知的興味を唆られる。専攻した「金属工学」にも、余技として熟達した「文学」にも、結局道は繋がらず、実家の電器商を継ぐことになった男。自らの生涯を〝わざとややこしく〟辿りみている。その道は、しばし出てくる「三叉路」にも似て、「自らを認識し歩む人生」だけではなく、「他者がわたしを観察しながら関わる人生」と、「私がそうありたいと望んだ人生」や「ありたかったと悔やむ人生」といった風に、幾つもある、と。思えば私も同じだ◆この本を読みつつ私は沖仲仕の哲学者エリック・ホッファーを思い起こした。そう、この人、電気屋の哲学者なのだ。随所に、犬ではない皇帝マルクスの自省録の一節や三十一文字の句を折り込みながら、人生の考察を展開し、哲学する作法をさりげなく披露しゆく。頁を繰ると、突然に三倍くらい大きい活字で「おかあちゃーん」とか「うるさい!」やら、「貴様!本官をバカにしとるのか!」「!?」と出てきたり。また文末に英語による一語や一文Yeah!、that is the  question.などが登場したり、1ページ丸々英文が出てきたり、音の大小に応じて活字を変えてみたり、数行丸ごとゴチック表示などと、読み手の感情の起伏に合わせるかのように。千変万化する手練手管の数々は、追うもなかなか忙しい。読者へのサービス精神旺盛なのである。こうした表現のあれこれを総じて一括するのは、「『Merdre!(クソッタレ!)』 現代芸術はこの言葉によって幕が開けられた。以後、演劇は条理を失い、絵画は具象を失い、音楽は旋律を失い、文学は物語を失い、わたしはしばらく気を失った」とのくだり。こう書いてきて、私は、昨今の世界も同様に、政治は人格を失い、経済は節度を失い、社会は安定を失った、と言いたくなる。そう、誰も彼も己が踝(くるぶし)の傷が疼き、前途の視界が怪しくなってきた。『77年の興亡』から1年が経ち、77+2年の新年に突入したいま、ゆっくり何かを待ついとまはない。(2024-1-1)

 

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