「中東」とは具体的にどこを指すか。著者は一通りの説明を加える。「現在の国名でいうと、北はトルコ、イラン、南はアラビア半島南端のイエメンまでを含む。西地中海から東はイランまでの範囲に入る国々は、全て含まれる。この範囲にイラク、シリア、レバノン、イスラエル、サウジアラビアなどが含まれる。問題はその外側の国々である」と筆をすすめたあと、「北アフリカは含まれる」としながら、具体的に国名を挙げて、入るか入らないか曖昧であるとして、結論的には「中東とは混乱し混沌とした地理概念なのである。曖昧でぼんやりとした弾力性に富んだ地域の広がりを意味する」と半ば放りだす。そうした概念の混沌ぶりを裏書きするかのように、昔も今も「中東」情勢は混沌とし続け、〝世界の火薬庫〟のように見られ続けてきた。
私がこのほど読み終えた本は、放送大学名誉教授の高橋和夫さんの手になる。高橋さんは知る人ぞ知る放送大学の看板教授である。私は「放送大学の存在」を偶然に知ってより、この人の講座をテレビで繰り返し観るようになり、とりことなった。なぜか。ひと言で言えば、講義が圧倒的に面白く惹きつけられる。時に中東に、アメリカにと現地に足を運び、講義もスタジオだけでなく、あちこちと転戦し、音楽を取り入れ、種々の楽器を持ち込み専門家に演奏させ、聴視者に提供する。変幻自在に飽きさせない講義ぶりに大概の人はファンになる。この本はその講義のテキストだが、放映と必ずしも一致しない。私はこの2年あまりテレビで見聞きした上で、今回漸く紙媒体も制覇した。大いに満足している。
●なぜかパレスチナ問題に言及がない
ただし、難点が一つある。5年前に出版され、映像は2022年のもの。残念ながら、日進月歩というか日遅月退というべきか、移りゆく国際情勢の最先端を反映していない。つい昨年に、パレスチナのハマスの仕掛けたイスラエル攻撃に端を発した惨状言及がない。テキストは仕方ないにせよ、放送にあっても古い映像内容が出てくるのは口惜しい。元々著者は「パレスチナ問題への言及が比較的に少ない」とまえがきで断っていて、その理由は、これまで既に多くを語ってきている上、「中東の政治=パレスチナ問題」ではないと、明言している。とはいうものの、物足りないのは否めない。だが、15章(放送は45分ずつ15回)の講義には、私もめくるめく思いでページを繰ったと言っても決して言い過ぎではない。国際政治の移り変わりを大学時代から追いかけて60年近い私ゆえ、循環する人間の業とでもいうべきものを学ぶ無意味さを知る一方で、率直に言ってその面白味を捨てられない。あたかも血湧き肉躍る日本の戦国史や国盗り物語を読むのと似ているからである。
ただ、日本史と中東史の最大の違いはユダヤ人にイスラエル建国の苦闘と、クルド人たちの悲劇の2つが日本史にはないことだといえよう。著者は「民主主義を実践してユダヤ人国家を止めるか、ユダヤ人の支配を続けてアパルトヘイト国家になるのか」と問いかけ、「ユダヤ人国家で民主主義を続ける限りあり得ない。イスラエルが直面するジレンマである」と結ぶ。13章の冒頭に掲げられたイスラエルのリベラル紙「ハーレツ」のブラッドレー・バーストンの「占領がイスラエルを殺す。イランでもハマスでもヘズボッラーでもない」との言葉が重く響く。
一方、最終章の「クルド民族の戦い」は、イスラエルが国土を持つだけ、まだしもだと思わせる。「死ぬ国ある人はよし クルドらは 死ぬ国を求め今日も死にゆく」と。クルド民族は、3000万人とされ、「国を持たない最大の民族」だという。イラン、イラク、シリア、トルコの国境地帯に国境をまたいで生活している。このクルド人の自治や国家を求める願望は、第一次世界大戦後の英仏を双頭の頂点とする列強の線引きに外されて以来、クルド人の土地は山分けされたままになって、もう100年有余を超えている。ユダヤ人のシオニズムに比べればまだましとはいうまい。「クルド問題はエネルギーを蓄積しながら、次の爆発の時を待ち続けるだろう」との結末の記述もまた暗く重い。(24-1-23)
【他生の縁 放送大の教師と潜り受講生】
高橋和夫さんの講義をもぐりで受講してきた私は、著者を身近に感じます。講義の感想を手紙で書いて送ったことに対しハガキで返事をいただきました。放送大学開校いらいの講師として、「中東の政治」だけでなく、「現代の国際政治」や「世界の中の日本」など複数の講座を担当されてきました。しかも「中東の政治」は一人で全講義を受け持ってます。
若い講師が講義ペーパーにしょっちゅう目線を落とすのと違って、全部を誦じての講義ぶりは聞いていて安心できます。かつて議員時代に、イラクに行く機会があったのに、逃してしまった私には中東政治を語る、高橋さんの臨場感溢れる講義が楽しみです。