【129】謎の鳥「マネシツグミ」を追って━━小説『アラバマ物語』を読む(上)/5-18

 アメリカの作家ハーパー・リーの小説『アラバマ物語』(菊池重三郎訳=1960年刊行)を、同名の映画を観た後に読んだ。グレゴリー・ペックが主演し、アカデミー賞主演男優賞を取った一世風靡の映画だ。「百聞は一見に如かず」で、映像の持つ力は深い印象をもたらし、人の心を揺さぶる。一方、「眼光紙背に徹す」という言葉が示すように、登場人物の心理や感情の動きを表現する小説の持つ力は、読む者しだいで人間存在の奥底にまで迫る。映画で全体像を掴んだ私は、小説で細部を補って、まるでアメリカ社会の陽と陰、表と裏が分かったかのような思いを持つに至っている。この本では、人種差別の悲惨さだけでなく、障がい者差別の卑劣さを子どもの目線から追っている。と共に、父親の子どもへの温かい心情と、強い社会正義感の豊かさを完璧に近いかたちで描いており感動を呼ぶ。1930年代の米国南部の古い架空の町メイコーム(著者リーの故郷・モンローヴィルがモデル)を舞台にしたこの物語は、ピューリッツアー賞を獲得し、数百万部の大ベストセラーになった。読むものの心を揺さぶり感動せしめたにも関わらず、人種差別も障がい者差別もある意味で、一層深刻になっている。それはなぜか。私はマネシツグミという鳥の存在が解決のカギを握っていると思うのだが。ここではまず、小説のあらすじを追ってみたい◆この作品の主人公ジーン・ルイーズ・フィンチ(通称スカウト)は、小学校に上がる前の6歳。幼き日のリー(出版時38歳)であり、この本の語り手でもある。家族構成は父で弁護士のアティカス・フィンチと4つ上の兄ジェムの3人。母親はスカウトが2つの時に亡くなった。このため、黒人女性のハウスメイド・カルパーニアが食事作りやら躾けまでの母親代わりを務める。そこへ夏休みになると、遠くから近所の親戚の家にやってくるディル(スカウトと同い年)が加わり、3人の子どもたちで遊ぶ。庭にある高い木の上に作った小屋に登ったり、大きなタイヤの内側に入って転がる〈ぐるぐるまわり〉が楽しい。子どもたちの日常を横軸に、父親のアティカスの仕事を縦軸にこの物語は展開していく。子どもたちの最大の関心事は、近所に住む正体不明のブー・ラッドリーという青年の存在。なんらかの心体疾患のために、親が子をいわゆる〝引きこもり〟と〝閉じ込め〟の相乗状態にさせているものとみられている。事情の分からない子どもたちは、その家をあたかも怪物か幽霊の屋敷のように扱っていく。不気味な背景を構成していくのだが、最後で重要な役割を果たすことになる◆一方、父親アティカスについて。ある黒人青年が若い白人女性をレイプしたと濡れ衣を着せられた。その弁護を引き受ける。裁判では彼女の父親ユーイルによる狂言(現実は父親の娘への虐待)ということがアディカスの見事な弁舌で明白になる。しかし、黒人をまともな人間として認めない米南部の風土が決定的に色濃く影響し、白人陪審員たち(黒人はゼロ)はひとりを除いて「有罪」の結論を出す。裁判の一部始終を二階の黒人席でスカウトたちは見ていた。その理不尽な展開に深い疑問を抱く。絶望した黒人は収監先から逃げようとしたところを撃たれて生命を落とす。しかも、弁護士アティカスの公判での追及を逆恨みした〝虐待常習癖〟の父親ユーイルは兄妹を襲う。それを防いだのがブー青年であり、逆にユーイルは死に至るというなりゆきで物語は決着する◆小説の前半部で描かれる小学校一年生のクラス風景は衝撃的だ。21歳の女教諭キャロリンが最初の授業でシラミの登場に慌てふためく。這い出したシラミだらけの髪の毛の主は、粗悪で乱暴な男の子バリス。シラミ騒ぎでの混乱の果てに「席に着きなさい」と、バリスは言われると、「席につけっていうのか、おばさん」と凄む。それをチャックという子が「先生、行かせてやりなさい。こいつは手に負えねえんです。何をしでかすかわからない」とたしなめる。と共に、バリスに向かっては「俺がお前のほうに向きなおったときは、殺されるときだぞ。さっさと帰っちまいな」と脅かす。これには従って帰ろうとするものの「おれがどこへ行こうとおれの勝手だあな!おばさん、おぼえときなよ」と捨てゼリフ。泣く先生を「もうくよくよしないで。お話を聞かせて」と、取り囲んだ生徒たちが励ますという具合だ。実は、バリスはユーイルの子ども。いかに劣悪な生活環境にこの一家があるかが浮き彫りになって、後々の展開の伏線になっている◆私が読んだ「暮らしの手帖の本」は、表紙のスカウトの写真を始め文中8頁にわたりポイントになる映画のシーンが折り込まれ、楽しませてくれる。小説と映画が一体だ。ただし、当然のことながら映画は短く、誇張されている。黒人メイドのカルパーニアにまつわる部分が小説では大幅にカットされているものの、黒人の教会や牧師についてなど、黒人社会に小説は詳しく触れている。また、小説にはアティカスの姉、つまり伯母が家に住み込みに来るがその役割(レディ教育)は削除されている。重要な違いは小説ではユーイルを殺したのは誰で、どういう経緯だったかが曖昧なまま終わっている。一方、映画は明解にブーが手を下したとしているものの、その罪は問わないと保安官が判断し、アティカスがブーに握手を求めるラストシーンが印象深い。(2024-5-18 =この項〈下〉につづく)

 

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