(第1章) 第1節 映画を観続け解説し抜き到達した境地━━淀川長治『生死半半』

特殊な映画好き人間としての伝説

 「それでは次週をお楽しみください。さよならサヨナラさよなら」──「日曜洋画劇場」の解説で繰り出された淀川長治さんのこのセリフが聞けなくなってもう30年近い。テレビ朝日系列で毎週放映された映画は1629本にも及ぶとのこと。もう一度見たい聴きたいと思う人は多いはず。ユーチューブ全盛の今なればこそアプローチは可能だが、彼の登場する最初と最後の部分だけ観るのでは、やっぱり味気ない。映画そのものを含めてテレビでリアルに観た頃がたまらなく懐かしい。

 私の父親より一つ歳上の1909年(明治42年)生まれの淀川さんは、神戸三中(現長田高校)の出身。宝もののような大先輩である。お母さんのお腹にいる頃から映画を観ていたとは、この人にまつわる「ホラ話」の最たるものだが、その手の〝淀川伝説〟には事欠かない。三中時代に学校をサボって新開地界隈に映画を観に行き、先生から怒られると、「映画を先生も観てから言ってください」と抗議。先生はそれを真にうけて後日観に行ったところ、いたく感動。以後、学校挙げて生徒皆んなで定期的に揃って映画館に行くようになったとか。またこの上なく大好きだった母上が亡くなられた後は、遺体と一緒に数日添い寝されていたとか。虚実ない混ぜの〝淀川神話〟に浸ってきた私も、この『生死半半』を読むに及び、漸く心の整理がついた。淀川さんが、決して化け物ではなく、特殊な映画好き人間であり、孤独な人であることも、分かった。

 淀川長治を知る上でまことに得難いこの本が世に出たのは1995年5月。86歳。約3年後に亡くなられており、遺言の趣きがある。「生と死についてじっくりと考えた」結果、「生の延長線上に死があるとはどうも思えません。人間の中には生きることと死ぬことの両方が半分づつあるように思えるのです」と、「おわりに」の一番最後にある。タイトルの『生死半半』も、ここからきている。私風の理解では、生の中に死があり、死の中に生があるとの、仏教の『生死即涅槃 煩悩即菩提』の原理に繋がるものではないか。生きている現在只今の瞬間に全てが凝縮されてあり、不確かな死後の世界に委ねられ続くものではない、と。「無信教者」の淀川さんが到達された境地が信仰者のそれとピタリ一致する。と、私は勝手に面白がっている。

 一生の伴侶には女性より「映画」

 〝死と老い〟について考える章が続いたあと、「人生の遺言」が来る3章構成。といっても抹香臭い暗いおはなしの連続ではない。彼はなぜ結婚もせず、生涯独身で映画を見続けてきたのか。この興味津々たるテーマが巧みに織り込まれた、〝86歳の青年〟による超面白い人生エッセイ集なのである。その答えは、「家族に気をつかっていたら好きな映画に費やす時間も気力も体力もなくなってしまいます」から、「『女性と結婚するより、映画を一生の伴侶にしよう』と早いうちから決めてしまった」──結婚して家庭を持って、同時に映画も存分に楽しむという〝普通の生き方〟を拒否した人物の「映画人生」から学ぶことはとても多い。

 私の子どもの頃(昭和20年代後半〜30年代始め)の映画は55円で3本立てが観られた。今になって、時折り自宅で取り溜めたビデオを深夜から早朝にかけて観ることが楽しみのひとつになった。若き日に定年後に用意した密かな企みが今現実になって、感慨深い。「四歳のころから父や母や姉に連れられて映画を見ていた」淀川さんが日々感じていたという興奮にはほど遠いものの、類似した追体験にそれなりのわくわく感はある。私の場合はブログ「懐かしのシネマ」に書き込む習慣を我が身に課している。ただ、淀川さんは、「いまの時代に作られた新しい作品を積極的に見に行くこと」が大事であり、「若者が面白いと感じるような映画を同じように楽しめて、初めて『子供のような心』を取り戻すことができる」と書いている。とても叶わない。

 この本には当然のことながら随所に映画の名場面や名セリフが顔を出す。「死」について多くを映画から学んだ彼は、ルキノ・ヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』やルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』などを挙げてその魅力を披歴する。両方とも私は先ごろ観てブログに書いた。前者は要するに老人のストーカーの話では?後者は結局は無謀な若者の無軌道ぶりを描いたもの?──こうした拙い思いを払拭させる解説に身震いする思いがした。映画って本当に奥が深いなあ、淀川先輩って凄いなあ、それに比べて、うーむ。

【他生のご縁 試写会で見逃す】

 公明新聞時代の仲のいい同期に文化部・映画担当の平子瀧夫記者(元川崎市議)がいました。入社間もない若い頃、試写会に一緒に行かせろと彼に頼み込みました。彼は映画評論家の「小森のおばちゃま」と親しく、信頼されていたので、淀川さんにもきっと会わせて貰える日がくるはず、との密かな企みが私にはありました。

 のちに、それなりに自由がきく部に所属し、ある時、ようやく試写会に潜り込むことができました。確かに同じ狭い空間に淀川さんはいました。ですがアタック出来ずに終わってしまったのです。映画担当でもない人間として怯む思いがあったのでしょう。遠き日の甘酸っぱいような苦い思い出です。あの時、真正面からぶつかってたら、その後の人生はどうなっていたか。

 

 

 

 

 

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