この50年の日本の政治を概観したが、公明党という存在が一般的に理解されづらいのは、中道政党だからだともいえる。いわゆる右でもなく左でもないという政治選択。これは民主主義の展開が具体的な姿をとって現われるうえでは、どうしても分かりづらいものとならざるを得ない。政権側の一員として政治的構想や政治選択の是非を問われる場合、イエスかノーで迫られると、注文は多々あるにせよ、結局は政権側の構想にイエスとなりがちである。安保法制を例にとろう。自公協議という水面下の交渉で、公明党は自民党の狙いをめぐって修正をあれこれ主張した。だが、終わってみれば、自民党と大差ないかに見える。公明党内部から、自民党との違いを明らかにしてほしいとの要望がそれなりにあったのは当然だろう。一昨年の閣議決定以降、私は決定に至るまでの経緯をつぶさに公表すべきだと、幾つかの機会をとらえて発言した。そうすることで、公明党がいかに自分らしさを発揮したかがわかるし、自民党との主張の違いが判ると思ったからだ▼しかし、それはついになされることはなかった。せめて党首討論を安倍、山口の党首間でやればいい、それが無理なら自民、公明の安保専門家同士で公開の議論でもやるべしと、たきつけたものだ。ある後輩代議士は「赤松さんの言う通りだが、それをやれば連立が壊れる。いつの日か自公協議の全貌は明らかにするから待っていてほしい」と私へのメールで述べたものだ。ないものねだりが過ぎたかもしれないが、メディアも自公の違いをもっと明らかにする方向を促す努力をすべきだった▼要するに中道主義は政治表現の対象として分かりづらい宿命にあるということをここで指摘している。かつての民主党と、仮に公明党が組んでいたらどうなっていたか。理念的には似たものを共有していた両党だけに、面白かったかもしれない。私には「早く生い立て民主党」と云って、同党の成熟を待ち望んだ頃もあったが、所詮は無理なことだった。勿論「政治の安定」という観点から、そんな”火遊び”のようなことは到底できないのだが。中道主義は本来、機に応じて左右両翼の政治選択と歩調を合わせることがあってもいいはずのものだろう。机上の空論を弄ぶなと云われることを百も承知で、なお口にしてみたい欲望に駆られる▼今のような自公政権が永遠に続いていけば、民主主義本来の政権交代が叶わない。中道主義はここでジレンマに陥ってしまう。理屈の上では、中道主義の政党は、どこかで一方の党の補完の役割を放棄して、もう一方の側の支援に回るということがあってもいいはずなのである。日本の政治の前進のために近い将来そういったことが起こりうるかどうか。そのためには、少なくとも政権を競う片方の政党グループに、世界観を異にする革命政党の本質を持つ共産党が存在することはあってはならない。(2016・7・5)