これからの日本社会の行く末に目を凝らすとき、誰しもが1985年のバブル絶頂期から数年を経ての崩壊に始まる、長期低落傾向に歯止めをかける必要性を感じるはずだ。この期間における日本を覆う支配的な価値観とは何だろうか。それは結局のところ、1945年の戦後から一貫して流れる経済成長至上主義、成長神話ともいうべきものではないか。この経済成長に全てを託すことが国家目標に、いや国民の目標にさえなっていることの過ちにそろそろ我々は気づかねばならない。いや多くの人は既にそれに気づき、様々な発信もなされているが、未だ本格的に旗印は取り換えられてはいないのである▼私はこれまでことあるごとに、芸術、文化に力点を置いた国作りにその方向性を変えるべきことを強調してきた。軍事や経済と無縁な国家は勿論ありえない。しかし、それに翻弄されてしまってはもともこもない。経済力や軍事力はほどほどでいい。それよりも、一人ひとりの人間が持てる能力を芸術や文化の面で存分に発揮して、それぞれの人生を謳歌出来るようになったら、どんなに素晴らしいことか。お前は何を戯言を言ってるのか、という向きがあればぜひとも違う目標を提示して頂きたいと心底から思う▼国家目標などといった言い回しは、今更必要ないといわれる方もあろう。現にかつてあるパーティの場で束の間だったが、尊敬する劇作家の山崎正和さんにこうした考えをぶつけたことがあるが、柔らかな微笑みを湛えて「それは必要ないでしょう」と言われたことを覚えている。それは国家目標という言葉の響きが悪いからで、国民の思いとでも言い換えてみたらどうかとも思う。今、安倍政権は「一億総活躍社会」を掲げている。この気持ちは私の言うところと相通じるものがある。あらゆる人々が活躍できるように、との思いは得難い。だが、安倍首相自身の言動がややもすれば、過去の軍国国家の再来や経済力偏重の継続を想起させてしまう。皆が活躍して、その先にいったいどういう国作りをしようというのかが、問われねばならないのだ▼「教育」をめぐっての、戦後民主主義の弊害と戦前回帰の無謀といった異なる立場の間での論争も、あるいは「憲法」についての「改憲か、護憲か」の論議も、中道主義の立場が見失われてはならない。公明党は「教育基本法改正」をめぐって自民党との間で極めて長い時間をかけて議論を積み重ねた歴史を持つ。ひとえに従来の古い「保革対立」から脱却せんとする熱い思いからだ。人間教育に依拠する「創価教育」の伝統を重視する公明党ならではの闘いである。憲法論議でも公明党は現行憲法を貫く3つの基本原理を堅持したうえで、新たな時代変化に呼応するために新しい条項を加える「加憲」を提起している。憲法の「どこを変えて、どこを変えないのか」の議論がまずはなされねばならない。「全部変えてしまえ、いや一切変えてはならない」という対立にはもう終止符を打つ必要がある。参院選挙が終わって、いよいよ公明党の真骨頂が試されるときが来た。今こそ第三の道・中道主義が待望される。(この項終わり=2016・7・13)