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(17)日本人の忘れものを、思い出すために

ソチの影でのバリ。冬季五輪で日本中が一喜一憂していた最中に、暗いニュースが飛び交った。スキューバダイビングを楽しんでいた日本人女性7人が流され、5人は四日後に漂流先の岩場で救出されたとの事故だ。私はこのニュースを聴いた瞬間に中西進『日本人の忘れもの』を思い起こした。中西さんは、25歳だった娘さんをスキューバダイビング中に亡くされて(1999年伊東)おり、そのことをこの本の中で書いておられる。最愛の娘を海中で死なせてしまった悲しみを堪え、自然をおそれぬ行為はごうまんだと厳しく断じておられる。

「むかしから水にもぐってアワビをとる海女は、おまじないの星印などを手拭いやノミ(アワビをとる小刀)にかいて魔除けとした。海がそれほどこわいものだとよく知っていて、敬虔な祈りを海の神にささげたのである。海女はウエットスーツを着てはいけないのだという。着ると海中に長くいられるから、アワビをとりすぎてしまうからだときいた」ー陸上と同じように海中を歩き回る。美しい海中に魅せられたひとが何人も私の友人や知人の中にもいるが、もうハマってしまうとこたえられないもののようだ。中西さんは、そうした自然へのおそれを忘れた現代人の遊び感覚に警鐘を鳴らしておられる。山河を尊び、天地に祈りをささげた本来の日本人を取り戻せ、と。

この本はかなり以前に購入していたが、読まぬままでいた。ざっと頁を繰って、常識的なことが書かれてるエッセイ集だなどとそれこそ傲慢にも早呑み込みしてしまっていたのだ。それを取り出して三巻全部一気に読むようになったのは、中西さんにお会いした際に交わした言葉による。先ごろ、万葉集の魅力に取りつかれていた私は、「お書きになられた作品の中で、お勧めはなんでしょうか」と訊いてみた。当然、ご専門の分野から挙げられると思っていたら、さにあらず「そうですね。『日本人の忘れもの』でしょうか」と。

私たちが父や母に聞いていながらうろ覚えになっていることやら、21世紀はこころの時代ということを口にしながらも忘れてしまってることを一つひとつ掘り起こし、思い出させてくれる。字源にまで遡って優しく解きほぐす手法には、まさに目からうろこが落ちるという表現がぴったりする。私は、この本に書かれている中西先生の珠玉の言葉を覚えこもうと実は愛用のアイパッドミニの中にメモを書き続けた。のんきな私のことだ。メモをしてしまえば、安心とばかりに忘れてしまいそうだが、それでもそこまでさせる力がこの本にはある。

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(15)中国に明日はないのか、あるのか

中国をめぐってはあまたの情報が錯そうするなかで、特徴的なのは正反対の予測が存在することだ。たとえば、前回の堺屋太一『団塊の秋』では、2025年の中国では「日帝打倒80周年の祝賀会」が催され、ますます歴史の露頭が目立つとしている。歴史認識なるものは風化するどころか、時間とともに先鋭化を強めるというわけである。経済面でもドイツと並んで、2028年には「中国では、発電所を投資対象とする取引が大いに賑わっている」とし、健在ぶりを占っている。

しかし、10年以上もの遠い先まで待たずとも、すでに国内社会は、バラバラで国内暴動は続発、不良債権の爆発は目前で、「三年以内に共産党が崩壊するかも」と予測しているのが、評論家の宮崎正弘氏や石平氏だ。2013年の中国予測(前後半二冊)に続き、『2014年の「中国」を予測する』も大陸から次々と逃げ出すヒトとカネの在り様を描いてまことに刺戟的である。

こういう本はいわゆる「トンデモ本」だとして、はなから敬遠する向きがあるかもしれないが、それでは知的損失は大きい。食わず嫌いは勿体ない。とくに宮崎氏は中国の現場を知り抜いており、その情報は新鮮かつ貴重なものに思える。また、日本のマスコミの対中報道姿勢についても、きわめて冷静に見てることが信頼感を与える。たとえば、三大経済雑誌が中国経済にかなり冷やかになっているのに、日本経済新聞が相変わらず本当のことは覆い隠していると、疑問符を投げかける。「中国へ行ったら煤煙だらけで呼吸はできなくて、レアアースの精錬が悪くて河川は汚染され、なおかつ不動産はガラ空きでどうして不動産価格が上がっているんだ」と指摘する。

前回の佐々木紀彦さんが5年後に稼げるのは大新聞では日本経済新聞だけと予測をしていたのを紹介したが、中国については鋭い切り口は期待できないということか。というより、経済予測において国内外を問わず楽観的なのはこの新聞社の習性となってしまってるのかもしれない。

ただ、中国の現場に足を運ぶ機会がない私たちとしては、こうした宮崎、石コンビの「中国に明日はない」ともとれる過激な見方には慎重になりがち。他の視点も求めたくなるというものだ。そんな時、つい最近、格好の人物に出逢った。香港に長く住む経済人H氏である。

中国地域における旧正月の休みに合わせて帰郷(たつの市)された際に、懇談した。話題は香港からみて日本がどう見えるのかということから始まって、抬頭するイスラム国家とどのように付き合うかとの観点など幅広いものとなった。そのなかで、私は『2014年の「中国」を予測する』を取り上げ、彼に二人の中国観の信憑性を問うてみた。

数あるテーマのうちでピックアップしたのは、「中国から離れるアジア」のくだりだ。中国の経済事情に滅法通暁している宮崎氏は、「アジアで孤立を深める中国」との見立てをかなり以前から表明している。この本の中でも、各国個別に取り上げ中国との距離を測っていて興味深い。

フィリピン ガラガラのチャイナタウン。クラーク基地(元米空軍基地)の再開、スービック湾も再び貸す。

インドネシア 復活するチャイナタウン。だが、華僑も手探り状態。日本企業の進出は未だこれから。

ベトナム ハノイにチャイナタウンはなし。ホーチミンでは遠慮げにソロリと復活。外交的に難しい関係。

タイ 陸続きだから昔通りの付き合いは可能。相当のカネを注ぎ込む中国。

ラオス チャイナタウンはまだみすぼらしい。中国がメコン川の根元にダムを建設中。中国の援助をあてに。

カンボジア 中国が嫌いという前にベトナムが嫌い。中国からの開発援助をあてにしている。

シンガポール 香港と同様金融フリーマーケットで、中国からの進出が凄まじい金融。日本は利便性なし。

ミャンマー 中国が建設中のダムは中止。中国依存から脱却。日本の投資は未だ12位で、これからの段階。

マレーシア 中国の進出は凄い。日本は高度労働集約型産業の進出の余地はあるが、アパレルなどは遅い。

ざっと以上のような感じで、「孤立を深める」というより、「孤立を深めぬよう」、中国は経済力を利用して東南アジア各国を分断しようとしているというのが正直な見立てだろう。

H氏も、こうした記述に同意をし、宮崎氏らの対中観に特段の不審を感じている様子はなかった。と共に、香港から日本に帰国する度に、激しく動き躍動感がある東南アジアに比べて、いかにものんびりている日本に危機感を持つとの印象を披露されたことには当方の「受信機」の警鐘を鳴らすに十分なインパクトだった。まだ40歳代半ばの新進気鋭の経済人で、自らを「華僑」の向うをはって「和僑」と位置付けるほどの日本発のアジア人である。日本からアジアを覗き見るだけに過ぎぬ人たちとは大きく違う。これからのアジアと日本の関係を展望するうえで、一段と注目すべき日本の若きホープだと確信する。         (この項終わり)

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(14)大きく様変わりするメディア業界

日経系のテレビ放送番組の「未来世紀ジパング」ってのは面白い。先週も、中国で稲盛和夫京セラ名誉会長の本がベストセラーになり、講演に喝采を受けてる様子を映し出し、日本式経営を模倣するかの国の未来を予測していた。先々週は、イスラム国家のインドネシアやマレーシアからの日本への観光客が増えつつあることを報じていた。未来は、さらに増加する、と。毎週見ているが、いつも明るい気分になる。こうまで日本の未来に楽観的でいいのか、との気さえしてしまうのだが。

しかし、勿論そんな予測ばかりではない。作家・堺屋太一氏の眼は厳しい。この人は、かねて未来予測の第一人者の趣きがあって、注目されてきた。昨年末に出された『団塊の秋』は、1976年に出版された『団塊の世代』の締めくくり編ともいうべきもの。2015年から2028年までの未来を六つに区切って、それぞれの時点での世相を新聞がどう報道するかを掲げていて大胆だ。ざっと一覧にしてみよう。

2015年 老若対立が激化!企業の設備投資は進まず、正規雇用は増えぬ。シャッター通りは鉄錆通りの様相。

2017年 昔繊維街の船場は住宅街に。生活保護が400万人に。医療チェーンは加盟三千医院に。崩れる社会。

2020年 五輪でお祭り気分は燃える。が、スポーツ熱は人口減でしぼむ。博士号を取っても就職先がない。

2022年 ユーズド産業が大繁盛。結婚しない若者が大幅に増える。財政は極度に悪化、貿易も大幅赤字に。

2025年 終戦80年が経ち、世界の中で日本の起こした戦争行為だけが露頭。少子化で私立大学は半減する。

2028年 出生率が回復。貿易収支が改善。起業する若者が増加。太陽光発電が無制限に。電気守の出現。

ほんのエッセンスだが、暗いものが殆ど。辛うじて最後になって、「ようやく光が差してきた」との記述に支えられた明るい見通しがでてくる。いかにもとってつけた感がする。もう少し、そこに至る背景を明かしてほしかった。

この小説では、専ら過去の事象をなぞるばかり。6人の団塊世代が時におうじて集まり、昔を懐かしむとの主題を扱った、小説という形式では必然的にこうならざるを得ないのだろうか。少々落胆した。もっと未来予測に力を投入してほしかったという気がする。名手・堺屋太一も焼きが回ったか、との印象は避けがたい。

個別の課題で、私が注目したのは、21世紀はあらゆる業界が再編成を余儀なくされているが、「そんな中で戦後体制を維持している業界は、たった一つ、マスコミ」としていること。もう一点は中国がどうなってるかとの観点。発電所を対象とする取引がドイツとともに賑わっているとの記述があった。「マスコミ」と「中国」がこれから先にどうなるのか。堺屋さんは、両課題ともに色々あっても、今の事態を引き継いでいるとの見方を示している。さて、どうか。この二点について考える上で参考になる二冊を紹介したい。

一つは、佐々木紀彦『5年後、メディアは稼げるか」で、もう一つは、宮崎正弘、石平『2014年の中国を予測する』だ。共に刺戟的。面白かった。佐々木氏は35歳。東洋経済オンライン編集長だ。古い日本の象徴がメディア業界だとしたうえで、「『もっとも古いもの』(紙の新聞)が『もっとも新しいもの』(ネット起業)によって、一世一代の大変化を迫られる」と展望する。その構図がダイナミックで面白いと言い切る。わくわくするような筆致で描く。とりわけ、5年後に食えるメディア人と食えないメディア人とに分けた最終章は読ませた。幾つもの未来予測はきわめて具体的である。テクノロジー音痴のメディア人は二流などというのは陳腐な響きだが、「日経以外の一般紙はウエブで全滅する」「企業家ジャーナリストの時代がくる」などという指摘には思わず生唾を吞みこんでしまう。

具体的な指摘で関心を持ったのは、「記者の価値が下がり、編集者の価値が上がる」とのくだり。「ウェブ化により情報量は爆発し、これまで記者が独占していた記事作成の領域にブロガーなどがなだれ込んできて」いるから、普通の記者では生き残れないというのだ。一方、編集者の方は、需要に比して供給が不足しているから「二流以上であれば十分食える」、と。確かに編集者は記者に比べて日蔭者扱いであったが、逆転する兆しがある。さらに、広告についての指摘も興味深い。媒体の価値が下がることによって、広告主の力が高まってくることに比例して、「媒体側の広告担当には、紙の時代とは比較にならないほどの能力とセンスが求められる」という。そして広告担当者の”編集者化”が進む」と予測する。

次世代ジャーナリストの条件として①媒体を使い分ける力②テクノロジーに関する造詣③ビジネスに関する造詣④万能性+最低三つの得意分野⑤地域、国を越える力⑥孤独に耐える力⑦教養、を上げている。特に、若い人たちは読むといい。教養書としてもお勧めだ。                    (以下、次号)

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(11)抒情ただよう万葉集との出会い

万葉集との出会いはいつも突然です。何か別のものを読んでいてそこで見出したり、訪れた先で歌碑を発見するといった具合で。つまり、さあ万葉集を読むぞと肩ひじ張って第一巻から順に、というのではなく、つまみ食い的に拾ったり、様々な先達の関連本の中に出てくる歌をそのつど鑑賞することが専らでしょう。私もそうです。ここではそんな中から印象深く残ってる歌を取り上げてみます。

田子の浦ゆ うち出てみれば ま白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける  山部赤人

最後は、「降りつつ」ではなかったか、と頭をよぎります。百人一首に殆ど同じものが登場しているからです。「たごの浦にうち出てみれば白妙の富士のたかねに雪はふりつつ」と。これは装いを新たにしたうえで新古今集に再録され(そこから百人一首に採用)た経緯があるのです。万葉集研究者からは、改悪だと、叩かれています。これに対し、中世和歌研究者からは反論がなされ、ちょっとした”田子の浦論争”の様相になっています。平安朝文学を専門にする吉海直人氏は『百人一首への招待』のなかで、反論は「どうも歯切れが悪い」としつつ、思わぬ事実を明らかにしてくれています。万葉仮名を平安朝の人たちが判読できず、「『万葉集』が平安朝においてほとんど読まれていなかった」のだ、と。

今の時点からはいささか驚きですが、『万葉集』は実はその後もずっと一般の人びとには忘れられていたのです。『万葉集』が現在のように日本文学史の中で正当な位置を占めるに至るのは「明らかに明治になってからで、とくにそれが画然とするのは正岡子規以降といっていい」(大岡信『あなたに語る 日本文学史』上)のです。この辺りは、大づかみでいうと「万葉集対古今集」の論争の歴史になってしまい、お互いの立場を是とするものたちの罵り合いにまで及んできました。私の理解では、素朴さと華麗さの対立であり、自然をありのままとらえるいき方と、色々と技巧を凝らす表現方法の差であろうと思います。どちらがいいとか悪いとかではなく、どっちもいいねというのが偽らざるところでしょうか。大岡信氏が前掲の書で「僕は両方を平等に見ることを心がけたい」としていますが、私も同感です。

前回に美智子皇后が「人の心に与える喜びと高揚を初めて知った」歌のことを紹介しました。皇后ご自身はその歌とは何かを具体的に指していませんが、恐らくは次の歌だとされています。

石(いわ)ばしる 垂水の上の さ蕨の 萌えいづる 春になりにけるかも   志貴皇子

私はこどもの頃の一時期、神戸の垂水(正確には塩屋町)で過ごしました。この歌を見聞きするたびに、連想ゲームのように、その地で過ごした頃のあれこれを思い出しますから妙なものです。『万葉集』には当然のことながら全国各地の場所を詠みこんだものが数多くあります。ご当地ソングならぬご当地和歌です。兵庫県は播州姫路で生まれ、神戸は垂水、須磨で育った者として、そうした辺りの歌に出くわすと心騒ぎます。万葉歌人のなかで最も多くの歌が登場する(4500首のなかで450首)のは柿本人麻呂ですが、彼の旅の歌は、風物詩的な情緒豊かさにおいて、他の追随を許さないといいます。とりわけ瀬戸内海の周辺地域としての淡路島や明石海峡を詠んだ歌に、私は感激してしまいます。

淡路の 野島の崎の 浜風に 妹が結びし 紐吹き返す

荒たへの 藤江の浦に すずき釣る 海人とか見らむ 旅行く我を

燈火の 明石大門に 入らむ日や 漕ぎ別れなむ 家のあたり見ず

瀬戸内海の船旅がもたらす醍醐味が蘇ってきます。淡路の野島といえば、先の阪神淡路の大震災の震源地です。私事に及びますが、藤江(明石市)は我が恩師の終の棲家の地でした。また、明石には今、娘夫婦と孫が住んでいます。

柿本人麻呂は、職業的な宮廷詩人だったといいます。恐らく注文に応じて作ったに違いない公的な歌と、自らの感情を思うがままに表現した私的な歌に、その作品群は分かれています。前者では、彼は枕詞や序詞をしきりに用いて対句や繰り返しを駆使し、色彩豊かで流暢な言葉の響きを展開しています。また後者では、漂う抒情が今に読むものの心を打ちます。

加藤周一氏はその名著『日本文学史序説』上の冒頭部分で「人麿の公的な挽歌では、多彩な言葉の積み重ねが、感動をつくり出すのに足らなかった。私的な挽歌では、事情が逆転し、強い人間的な感情が、控えめな言葉で語られる日常生活の些事に無限の意味を与えている」と、いささか持って回った表現で述べています。彼の日本文学史は序説と銘打っているものの、単なる文学を超えた壮大な思想史研究の趣きもあります。儒教、仏教はじめ外来の思想、宗教が与えた影響に深い洞察が加えられており、私は大変に好きで愛読しています。先年亡くなられましたが、その直前にキリスト教に入信されたとのこと。いったいどういう経緯があったのでしょうか。揺れ動いたであろう晩年の心の動きに、関心を持たざるを得ません。

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(4)草木も国土もすべてにいのちはあるとの思想

小さい新書だけど、凄い価値を持つ本だと思う。梅原猛『人類哲学序説』だ。ー人類の歴史は極端にいえば、自然との闘いの連続ともいえる。前回までに見たように、人間は自然になされるがままの状態から、自然を統御し、支配する段階に至り、やがてまた再び自然に翻弄されるという事態を迎えている。その背景については、現在までの世界を牽引してきた近代西洋文明が生み出した科学技術文明が問い直されねばならない。梅原氏は、人間中心主義に裏付けられた西洋哲学に根本的な問題があるから、今日のような厳しい状況を招いてしまったと、分かり易い形で提起している。

梅原氏はこれまで様々な形で物議を醸す論稿や発言を展開してきた人だが、90歳を目前に人類哲学を打ち立てると勢い込んでいる。これまで彼が人生の時間の多くをかけて取り組んできた西洋哲学が行き詰まりを見せ、むしろ世界の環境破壊の元凶になっている事態を前に、その向かう姿勢の一大転換を表明しているのは極めて興味深い。西洋哲学の推移を適格に追いながら、その誤りを救う道は東洋哲学にあるとの結論付けは、これまでも少なからぬ人によって展開されてきた。しかし、具体的な解決への道筋を示した哲学者は寡聞にして知らない。梅原氏はそれに大胆に挑戦しようとしている。すなわち、日本文化の原理としての「草木国土悉皆成仏」という思想がカギを握っているとして、『人類哲学』の名のもとにご自身が新たに構築しようとされているのである。

「草木国土悉皆成仏」とは、動植物などから始まって国土に至るまで、自然のすべてはいのちを持つ存在だとの考えをさす。梅原氏はそれを天台本覚思想と呼ぶが、仏教の考え方の根本原理であろう。20年ほど前から西洋哲学の原理とこの思想とをどう対決させるかを悩んできたという。彼は、それを率直に「西洋哲学の巨匠たちを批判する勇気をなかなか持てなかった」からだと打ち明けている。今になってようやく立ち上がったのは、ひとえに原発事故を伴う東日本大震災の発生によるという。原子力発電を主なエネルギー源とする現代文明そのものの在り方が問われているとの問題意識はきわめて正しいといえよう。

これから梅原氏は西洋文明、特に西洋哲学を研究し、より正確で体系的に論じた著書を書かなければならないとし、それこそが人類哲学の本論だとしている。その所産に大いに期待し一日も早く読みたいと思う。と同時に、仏教についても研鑽を深めて貰いたいものだと思う。この本のなかで触れられているものを見る限り、きわめて大雑把な仏教理解にとどまっておられるような気がしてならない。法然や親鸞など浄土教についてはそれなりの論及はあるものの、法華経については熱心な信者だった宮沢賢治を取り上げているだけ。賢治が惹かれた利他行に触れながらも、日蓮仏法の本質に迫っていないのはきわめて残念である。

この本の最末尾に歴史学者トインビーとの対談の際に交わされたエピソードが紹介されているが、大いに興趣をそそられた。トインビーは「21世紀になると、非西欧諸国が、自己の伝統的文明の原理によって、科学技術を再考し、新しい文明をつくるのではないか。それが非西欧文明の今後の課題だ」と述べたが、それに対して、梅原氏が「どういう原理によってそのような文明はできるのですか」と尋ねたら「それはお前が考えることだ!」と一喝されたという。

40年後の今になって、トインビーへの答えが出来上がったと言われること自体は素晴らしいと思う。ただ、やはり40年ほど前に、トインビーと池田大作SGI会長との対談(1972年)がなされており、梅原氏の関心を持つテーマが語りつくされている。ご存じないはずはないと思うのだが、全く触れられていないのは不思議に思われてならない。(2013・11・18)

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【2】自分でなく、ひとに考えて貰うこと

「本を読む場合、もっとも大切なのは、読まずにすますコツだ。いつの時代も大衆に大受けする本には、だからこそ、手を出さないのがコツである」ーショーペンハウアーはこう述べたあと、読書する時間を「あらゆる時代、あらゆる国々の常人をはるかにしのぐ偉大な人物の作品、名声鳴り響く作品に振り向けよう」と言う。そう簡単にいくだろうか。ベストセラーと聞けばつい手を出したくなるのが人情だ。私などもごたぶんに漏れずあれこれと読み、偉大な人物や名だたる古典は正直敬遠することが少なくなかった。寄り道ばかりして目的地には程遠いのに、日は暮れかかっている旅人のようなものなのである。

しばしば人は、古典を読め、しかも原典にあたれと言う。しかしこれらは口当たりが良くない食い物のようなもので、消化は良くないし美味しくもない。勢い歯ごたえはなくとも食べやすいものに目が向き、手を出してしまう。澤瀉久敬は『「自分で考える」ということ』の中で、参考書、入門書、解説書のたぐいは読まない方がよい、樹にまつわりつく蔦のようなものだから、と厳しい。この本は講演をまとめたものだけに平易な文章で分かりやすい。これとて読書すること、哲学することの解説書ではないのか、とつい皮肉を言いたくなる。結局は良書、悪書などといったことはあまり気にせず、読んだもの勝ちではないか、と思う。

ただ大事なことは、本を読むのは知識を増やすためだけではなく、他人の考え、思想を正しく把握することであり、そのためには自分の考えを一たびは消し、虚心坦懐に読むことに尽きようか。澤瀉は、具体的方途として、一冊の本を読む前に、その本の取り上げている問題を自分で考えてみるのもいいとする。しかし、政治や経済に関する論文ならそれはある意味で可能だろうが、一冊の書物となると、そうはなかなかいかない。自分の頭で考えるということはことほど左様に難しい。ただ、多読、乱読で来た人は一たび立ち止まって、読前、読後に著者との会話を試みるのは悪くないだろう。その積み重ねがやがては大きく実ることを確信する。(11/4)

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【1】本読みが、たどり着いた果て/2013-10-28

21世紀に入る直前に私は、新幹線で姫路と東京を往復する新幹線車中で週一回、書評を書き始めました。二年間の100回分をまとめて『忙中本ありー新幹線車中読書録』と題して2001 年に出版。その後もブログ上で書き続けましたが、昨年末、退職に伴って一たび終了しました。以来、ほぼ一年、このたび今年の読書週間を機に、再開することにしました。なにとぞ、ご愛読のほどよろしくお願い申し上げます。

子どもの頃からの本好きな私は、一度手に入れた本を手放すことはなかった。しかし、20年に及ぶ東京での単身赴任生活に区切りをつけ、故郷に帰るにあたって、事務所や宿舎に溜まりにたまった本は狭い我が家に送るわけにもいかない。結局、千冊あまりを処理せざるをえなくなり、お世話になった各方面の人々に引き取ってもらった。引っ越しのどさくさに紛れたとはいえ、これはまさしく画期的なことだった。家の方もこの際に整理をとの妻の声に追い込まれ、姫路市立図書館主催の古本市に協力する形で数百冊を提供してしまった。それやこれやで大胆なダイエットが成功した身体のように書斎はすっきりとした。どうせ持っては死ねない。これからは読んだ本は頭の中に叩き込み、全部処分したうえで、旅立とうと開き直っている。

そんな折も折、ショーペンハウアー 鈴木芳子訳『読書について』を読んだ。この本は古典的名著だが、このたび新訳で登場した。「読書しているとき、私たちの頭は他人の思想が駆けめぐる運動場にすぎない」と断じ、サーファーが波乗りをするように本をただ読み散らすことに警鐘をならしている。ややもすると、自分の頭で考えることをせずに、ページをめくるたびに感心したり興奮するという読み方をしてきたものとしては衝撃的な内容である。兵庫県はデカンショ節発祥の地・篠山市を擁するのだが、デカルト、カントに偏向し、三番目のお方を無視するきらいがあったことを大いに反省させられた。これから読書に挑戦しようとする若者には真っ先にこの本を読まれることを薦めたい。あれこれ本を読み漁ってきた末に人生の晩年になって「たくさん読めば読むほど、読んだ内容が精神にその痕跡をとどめなくなってしまう」と言われたんでは、まったく実も蓋もないからである。(10/28)

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