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人類の歴史を俯瞰する達成感ーU・N・ハラリ『サピエンス全史』(柴田裕之訳)を読む

今年のビジネス書大賞を受賞し、読者が選ぶビジネス書グランプリ1位に輝く本を読み終え、不思議な達成感に浸っている。何しろ全世界で500万部も売れているというのだから。ユヴァル・ノア・ハラリというイスラエル人歴史学者の書いた『サピエンス全史上下』(柴田裕之訳)である。顔写真からは、飛び切り鋭利で神経質そうに見える。あまりお近づきになりたくない雰囲気の人だ。これを薦めてくれたのは笑医塾塾長の高柳和江女史。とにかく面白いと絶賛されたのが8月上旬。彼女が神戸に来た時のこと。で、すんなりと読んだわけではない。なかなか嵌らず苦しんだ。しかしなんとか読み進められたのは、彼女のお勧め本には外れがないことが大きい。また、認知革命から農業革命、そして科学革命という風に、有史以前から今日にいたる135億年ほどの膨大な期間を大きく三つに分け、「文明の構造と人類の幸福」という命題をざっくりと大胆に料理してくれるていること。それに惹かれて何とか読み終えることができた。すると、そこには、何はともあれ人類の歴史を解った思いにさせてくれる達成感と、意外にも仏教徒の誇りを刺激してくれるものが待っていたのである▼いわゆるビッグバンによって、物質とエネルギーが現れ、物理的現象や科学的現象の始まりから、地球という惑星が形成されるまで約90億年。生物学的現象が始まって有機体(生物)が出現したのは38億年前。ヒトとチンパンジーの最期の共通の祖先が誕生したのが600万年前。ようやくアフリカでホモ(ヒト)族が進化して最初の石器が出来たのが250万年前。さらにヨーロッパ、中東でネアンデルタール人が、東アフリカでホモ・サピエンスが進化したのがそれぞれ50万年、20万年前と言われても、ただただそうかいな、ほんまかいな、気の遠くなるほど前のことやなあというのが精いっぱいの感想。ようやく認知革命が起こったのが7万年前と言われて、ようやく正気になると言ったところか。実はここから本書の著述は始まる。それまでは僅か1ページにまとめられた年表からの類推なのである▶ある意味でこの本の構造は簡単だ。要するに人類が地上に棲むすべての生き物を殺戮してしまい、残るのは人類と家畜だけになるという「予言」なのだ。そして、科学革命の行きつく先は、科学者たちが脳をコンピューターにつなぐことで、心をその中に生み出そうとしている、それをこのままいくと誰も止められないのではないのかという「警告」である。この予言と警告はこれまでもいたるところで繰り返されてはきた。しかし、この本ほど系統だてて書いたものはあまりないので、効き目がなかった。しかし、この本はビジネス書の体裁をとってるがゆえに、初めて人類の「傲慢」とでもいうべき罪深き特質を叩きのめしてくれるかもしれない▼最後の「文明は人間を幸福にしたのか」と「超ホモ・サピエンスの時代へ」の2章がとくに関心を持って読めた。わたし的にはこの2章、特に前者を幾たびか読むことで十分にこの本の値打ちが分った。結論はこれまた簡単だ。人類の歴史理解にとって最大の欠落は、「社会構造の形成と解体、帝国の勃興と滅亡、テクノロジーの発見と伝播」といった歴史上の数々の問題が「各人の幸せや苦しみにどのような影響を与えたかについては、何一つ言及していない」ということに尽きる。しかも、著者は、人間の幸せは「汝自身を知れ」との言葉がカギを握っており、これは裏返せば、普通の人々が真の幸福については無知であることを意味するとしている。そして「特に興味深いのが仏教の立場だ」として、己が心を自身で操れる方途としての仏教に強い期待を措いている。ここは我が意を得たり、というのが日蓮仏教の徒である私などの受け止め方だ。「心の師となるとも心を師とせざれ」という日蓮大聖人の簡潔な一文を座右の銘とするものにとって極めて分かりやすい結論であった。こう結論付けるといかにも我田引水的に受け止められるかもしれない。勿論、それを現実のものにできるのは、単に頭で理解するだけではなく、お題目を唱えるとの行為が裏付けとなっていることを知らねばならないのだが。(2017・9・29)

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「賢者は自らを律し、愚者は恣にする」-丹羽宇一郎『死ぬほど読書』を読む

先週に続き、一段と優しいベストセラー本を。丹羽宇一郎『死ぬほど読書』。読むかどうか悩んだ。今さら読書について読むのかよ、いい加減にしときな、との声が我が脳中に去来した。だが結局読む羽目に。一つはタイトルに、今一つは彼が元中国大使だったことに惹かれた。丹羽さんは民主党政権時代に中国の大使になられ、あの「尖閣問題」騒ぎの際に日中間の渦中にあったことは周知のとおり。あまり目立った業績は挙げられなかったとの印象が強いが、帰任後『中国の大問題』『戦争の大問題』など時事的テーマで矢継ぎ早に出版され、今度は読書論。これも『読書の大問題』とでもして、異なった角度で書いてほしかった。この人は昭和14年生まれの今年78歳。企業人として中々の辣腕家との評が高い。しかも相当の読書家との誉れも高い。民間人として鳴り物入りの大使起用だった。偶々衆議院外務委員会に私が所属していた頃で、赴任される直前に同委理事会メンバーと一緒に懇談した。別れ際に何でもご注文あらばメールください、返事しますとのことだったので、その後の問題発生の最中に送った。しかし、不幸にも、為しのつぶて。お忙しかったのだろうが、あまり感心できない対応だ▼さてこの本を読んでの感想。やはり読むほどのことはなかった。ただし、それは自分にとってで、ひと様、特に若い人にはお勧めする。読書に関する本を数多読んできた身にとって、期待したのは二つ。一つは死ぬほど読書したという具体的体験論。もう一つはそれをどう身につけられたのかという具体的方法論。どちらも平凡の域を出なかった。尤も、そういうことは、多くの論者によってもう出尽くしている。今も私の記憶に残るのは井上ひさしさんの色鉛筆の使い方や、橋本五郎さんの「二回半読む」というやり方。佐藤優さんの集中的読書の後、一定の時間が経ってからの読み直しなどなど。ただし、丹羽さんが文中、さりげなく触れられたり、あるいは勧める本は歯応えがありそうなものばかり。アレクシス・カレル『人間―この未知なるもの』、横井清『中世民衆の生活文化』、オウィディウス『アルス・アマトリア』、西岡常一『木のいのち木のこころ』、エリック・ホッファー『現代という時代の気質』、『大航海時代叢書』全42巻中の25巻など。私の書棚には勿論ないし、これからの読書計画にも入っていない▶読書録に書くにあたって、改めて読み返すと、やはりこのひと、ただ者ではないことが分かる。特に、世に「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」というが、「私は怪しい」と思うとされ、「賢者は自らを律し、愚者は恣(ほしいまま)にする」と言い換えたいとしているくだりは興味深い。「歴史は繰り返す」ことからすると、いかに賢者であっても歴史から学ぶことは難しい、と。平々凡々な私など「どちらも正しい」と思ってしまう。最後に、著者の意向で、この本の印税は「伊藤忠兵衛関連の資料保全のため『滋賀大学経済学部附属史料館』と、中国から日本への私費留学生への奨学金として『公益社団法人日本中国友好協会』に、全額寄付されます」とあった。凄い。これは。さすが名だたる経済人。これまで丹羽さんを斜視に見がちであった私の目からうろこが落ちた▶さて来週からフランス、ドイツ、ベルギーと訪問することは既に前回書いた。実はパリで木寺昌人大使と会うことにしている。一緒に佐藤地ユネスコ大使とも。この二人は私が現職の頃に大変にお世話になり、親しくさせて頂いた。木寺さんは西宮元中国大使が急逝されたあとのリリーフ。北京に急きょ赴任される直前の送別会に参加したものだ。フランス大使には横滑りだったので帰任祝いもなく、送別会どころでもなかった。「分断」が懸念される世界にあって、「中華思想」の双璧ともされる中国とフランス両国に通暁するこのひとに、あれこれと訊いてみたい。また、佐藤地さんは、先般「明治日本の産業革命遺産」への記載決定にあたって話題を提供したひとだけに、後日談を聞いてみたい。(2017・9・16)

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世界最強の女帝の謎や韓国人の品性を暴く本を読む

今月末にフランス、ドイツへ行く予定を立てている。古くからの友人からのお招きもあり、思い切っていくことにした。その準備のために両国に関係する本を読もうと思い立った。まずはドイツ人の生活に関する本を幾冊も出している評論家の沖幸子さん(フラオグルッペ社長)に訊いた。お勧め本はないか、と。直ちに佐藤伸行『世界最強の女帝メルケルの謎』を挙げてくれた。佐藤氏は追手門学院大教授で、元は時事通信の欧州担当記者だった。90年代にハンブルグやベルリンで取材したとあって滅法ドイツ事情には詳しい。この本の出版は昨年のこと。今までメルケルについては殆ど知らなかった私も一気にひきこまれた。実に面白く読めてドイツを分かった気にさせてくれる。そして何より新聞記者らしく切れ味のいい文章が魅力的だ▼彼女の生い立ちから今に至る人物像が描かれる1~4章までが特にいい。とりわけ「魔女メルケルの父親殺し」がいかにも謎めいている。先日亡くなったコール元首相をはじめとする引き立て役の男たちが次つぎと失脚し、その政治的遺産が転がり込み、本人は肥え太っていく。ドイツにおける不吉なジンクスだというのだが、さてご本人の思いは、どんなもんだろうか。旧東ドイツで育った物理学者出身。父は「赤い牧師」。ださいスカートと髪形を上司から注意されたこととか、笑い上戸にまつわるエピソードやら、二度の結婚など下世話な話題が満載されている。後半は中国、アメリカ、ロシアなどとの外交展開が触れられ、エマニュエル・トッドの「ドイツ帝国が世界を滅ぼす」との過激なフレーズの「謎解き」にもなっている▼次はフランス関係のものに進みたいところだが、残念ながら読み切れておらず、次回まわしに。ところで先日、高校の同期会(十六夜会という、長田高校16回生の集い)で、ある友人からお前の顔は悪いけど韓国の新大統領(文在寅)に似てると言われた。以前に同僚代議士から北朝鮮の金正日総書記(当時)に似てると言われたことがあるから、別に悪くはない。北から南へと多少進歩したかと喜ぶわけにもいかないが、まあいずれにしてもコリア系か(その昔、北大路欣也に似てると言われたのに)と密かに笑った。そんな矢先に、畏友・古田博司筑波大教授から『韓国・韓国人の品性』という本が届いた。3年半前に出版された『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』に新たに、まえがき、第一章を加え、改題・改訂した新版だという。この人は、慶大文学部を出た後、韓国に留学、奥さんが在日韓国人。アジアオープンフォーラムの場で知り合い、懇意になった。朝鮮半島問題に通じた学者というよりも思想家の趣きを近年強めている。さらに大きな存在になられるに違いない。だが、その前にコリア系のテロリストから殺害されるのではないかと本気で心配している▶ともかく過激だ、帯には、韓国人は平気でウソをつく。北も南も見栄っ張り。「卑劣」の意味が理解できない。「法治」もない。あるのは憎悪の反日ナショナリズムだけだ。「助けず、教えず、関わらず」の非韓3原則で対処せよ、北も南もいずれ滅びて半島から逃げ出すなどと、恐ろしいほどの悪口罵詈が露出している。北朝鮮からのミサイル発射騒ぎで、お色直し的緊急出版を迫られたのだろう。まえがきには「日本人は嫌いなものから目をそらす癖がある。いま北朝鮮からミサイルが飛んできても、きっと落ちないだろうと目をそらしている。嫌いなものをみたくないので、どうしても無傷を想定してしまう」とし、日米戦争のすえ、100倍返しで300万人も殺された日本人も「もう歴史から学んでもよい頃だろう」と警告。一方、あとがきでは「筆者の立ち位置は相変わらずブレていない。西洋近代化は善で、ゆえに資本主義も民主主義も善である。それがうまくいかない国々に問題がある」と持論を展開する。私としては、善ではあっても最善とは思えず、資本主義、民主主義のほころびが気になって仕方ない。日本近代化のありように不満と疑問を持つ人間など、彼から見ると、朝鮮半島や中国を知らない”愚かな贅沢もん”というほかないのかもしれない。(2017・9・8)

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日本文明の底流に潜む忘れものー斎藤健『転落の歴史に何を見るか』を読む

官僚がその職務を何らかの理由で離れて後に、あれこれと出版することは珍しくない。勿論、その職務についている間に書く人も外務官僚などには多い。しかし、官僚の現役時代に書いていて、後に政治家に転出したという人はあまりいないように思われる。斎藤健農水大臣、当選3回ー元通産官僚である。この人が書いた『転落の歴史に何を見るか』は並の政治家や評論家らが書いた数多の書物の中で傑出しており、鋭く面白い。実は21世紀の劈頭に世に出たこの本の存在を知ってはいたが、残念ながら読まずに来た。それを読むように勧めてくれたのは郷土姫路出身の元厚生官僚・山本章。彼もまた『医者が薬を売っていた国日本』という極めて興味深い書物を先年に出版しており、私は愛読している。その彼が「先の大戦の敗戦に至るまでの経緯について書かれたものをあれこれ読んできたが、何れも不満足だった。初めて納得できる本に出会った。是非この本を素材にあなたと話したい」とメールをしてきたのだ。望むところ。私も持論があるので、大いに気負いこんで読むに至ったしだいである▶明治維新から今日まで約150年の歴史の捉え方のうち、時代区分をどう区切るかについては諸説あるが、一番ポピュラーなのは「40年間づつの興隆から転落に至る二度の繰り返し」との見方であろう。つまり、維新から40年後の日露戦争の勝利、そして40年後の第二次大戦の敗戦。さらにまた40年後の高度経済成長を経てのバブル絶頂から、2025年の少子高齢社会のピーク(どん底)に至るまでの苦難の流れまで。これは評論家の半藤一利氏の持論によるところが大きいが、斎藤氏はこのうち、日露戦争までの時代からその後の第二次大戦の敗戦までに焦点を絞って分析している。副題にあげた「奉天会戦からノモンハン事件へ」という34年間を、対比しつつ事細かに料理しているのだ。同じ日本の陸軍がなにゆえにかくも対照的に栄光から暗黒へと転落していったかを。大胆に短くまとめると、明治の元勲たちはジェネラリストが多かったが、やがて世代が変わり、その後のリーダーにはスペシャリストはいても、ジェネラリストが育たなかったからだ、と結論づけている。国家をはじめあらゆる組織にあって、ジェネラリスト養成のための教育こそが求められるというわけだ▼明治という時代を築いてきた先達たちが、欧米列強による植民地化を防ぐべく、必死の努力をしてきたことを認めるのにやぶさかではない。しかし、仮に徳川幕府が「維新」で倒れないまま命脈を保っていたらどうだったか、という歴史のifにもいささか魅力を感じる。勿論、具体的に過去を追うと、たちどころに行き詰ってしまうぐらいの、やわな仮説ではある。だが、徳川の幕臣たちが維新政府の「官賊」に比べていかに優秀だったかなどという歴史的証拠だてやら、長州藩士の会津藩への冷酷無情な仕打ちを思うにつけ、あらぬ妄説とは断じきれぬものを抱く。ゆえに、明治の元勲たちを全肯定出来ないのである。そこには、吉田松陰のもとに松下村塾の中から育っていった”テロリスト”まがいの志士たちと、20年の歳月を経て国家経営の中心となっていった伊藤博文や山縣有朋らとの落差を素直に認められないものがあるのだ。つまりは、明治を作っていったものの中に、成功の因も失敗の因も同時に育まれていったはず、という見立てから私は逃れられない。すなわち、明治の元勲たちをジェネラリストとして認めたうえで、その後の誤りの因を、スタートの時点で同時に内在させていたのだとの見方を持つ▶で、私としては、むしろ明治維新の孕む問題は、文明的観点から大きく言って二つあると考える。一つはギリシャ・ローマ以来の近代ヨーロッパ哲学プラスキリスト教文明という、西欧思想を無批判に受け入れてしまったこと。二つは、表向きには今述べたように外来思想を受容しながら、その実、古代日本いらいの”伝統的宗教哲学”としての国家神道を”天皇の復活”と共に、実質的に蘇らせたことである。前者は、日本文明が一貫して持ち続けてきた外来の思想哲学を日本風にアレンジするという作業を怠ってしまったことを意味する。そして、それだけでにとどまらず千数百年の時を経ての熟成した日本思想の伝統をかなぐり捨てて、文字通り単純な”先祖帰り”をしてしまったのである。斎藤健さんの視点は極めてリアルなものに根差しているのに比して、これはあまりにも茫漠としたつかみどころのない空論かもしれない。「西欧思想の日本化」とは果たしてどういうものを指すのか。「西洋の没落」が名実ともに具現化してきた今こそ、懸命に追い求めなければならない魅惑あるテーマだと私には思われる。(2017・9・5)

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ドイツに傾斜しすぎた「国民病」ー『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』などを読む

猛暑の中、今週読み終えたうすい本3冊を。磯田道史さんは今を時めく若い歴史家。テレビの露出度も高く、好感度は高い。最初の頃にかけていたメガネを外し、恐らくはコンタクトにされたと思われるあたりから、注目度は高まる。『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』を神戸の書店で発見。司馬史観をめぐりあれこれ考えを深めている折でもあり、直ちに購入して読む。戦国、幕末、明治、昭和前期を扱った作品を順次取り上げながら、日本の歴史と日本人を見つめようという試みだ。『国盗り物語』『花神』『坂の上の雲』『この国のかたち』などが代表作品として、手際よく料理されており、面白く読める。ご本人が述べているように、本来歴史家が小説家の書いたものを論評することは稀だが、それを敢えてやるところが大胆だ。NHKの『100分で名著』の内容に加筆されたものだが、安易な本づくりのように見え、若干気にかからぬでもない。だが、このところの私の問題意識を刺激してくれたくだりは多い。代表的なものとして「昭和の軍人はドイツを買い被っているけれど、本当のドイツを知っている人はいない。ドイツ傾斜というのが、『一種の国家病』だったと、司馬さんは非常に強い調子で批判しています」を挙げておく。来月ドイツの友人を訪ねる予定にしており、語らいが楽しみだ▼ほぼ月に一回、一般社団法人『安保政策研究会』での懇談会でご一緒するのが柳澤協二さん。元防衛省の幹部で、元内閣官房副長官補だ。つい先ごろ『新・日米安保論』なる鼎談本を出版。ここでも取り上げた。実はその本よりも先立つこと2年。あの安保法制論議で日本中が大騒ぎしている折に、彼が書いたのが『自衛隊の転機』。考え抜かれた論考は大いに刺激となり参考になる。「これを契機に、日本がどういう国でありたいのか、その国家像を前提として、どのように守り、世界に貢献したいのか、数年がかりで、一から議論を始めていく好機が到来した」とされている。彼自身はせっせと議論を仕掛けているが、果たして国民各層は応えているかどうか。この本にも鼎談が付加されており、双方に顔を出しているのが伊勢崎賢治さん。東京外大の教授にして元国連PKOの幹部。しかもトランペット奏者というつわもの。現役の頃に知り合い、懇意にさせて貰ってる。先日、彼から「(私たちの本が)売れない」との「泣き言」があったので、「タイトルが良くないのでは」と述べておいた。『三人よれば安保の知恵』とか『どこに行くのか自衛隊』ぐらいがいいのでは、と▶夏休みとあって、ご多聞に漏れず我が家にも孫が押しかけて来る。「くればうるさい、こなきゃ寂しい孫とこども」というのが通り相場だが、来た時にどう遊び相手をするのかは悩みの種。私らの頃は外であれこれと遊んだり、家の中でも自前の遊びを勝手に考え出したものだが、最近はゲーム全盛で、ちっとも創造性がない。なんてぼやいているだけにもいかぬ。そんなときに姫路の駅中書店で発見したのが、逢沢明『大人のクイズ』。論理力が身につくとサブタイトルにある。こども相手では難しいかと思ってページを繰っていったらさにあらず。結構子ども相手にも使えそうな問題があった。「英語でトラはタイガー、ゾウはエレファント、ではかっぱは?」一生懸命に考えたが分からない。答はレインコートと来るから笑える。また、「歯痛で苦しむ人が毎日、皮膚科に通う理由は?」これはまた歯が立たない。「NEW DOORを並べ替えて、一つの言葉にするとどうなる?」ウーン、これは簡単。などというように楽しめる中身だ。一つひとつに「大人の論理」なる注釈がついており、これがまた渋い。こども相手以外に、どこかで使えるかもなどと、あらぬ方向に想像を巡らせるも、もはや手遅れ感が否めない▼かつて現役の頃に、こういう調子で三題噺風に毎週3冊4冊の本を料理したものだ。『忙中本あり』と銘打って、ブログを書いて発信し、本にもして出版パーティまでやった。今から思えば、若気の至り以外の何ものでもない。老境にいたってやろうとすると、これはなかなか難しい。よくぞまあ、激務の中を続けたものよ、と我がことながら呆れてしまう。(2017・8・24)

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好奇心で溢れかえる美術館ー中野京子『怖い絵』を読む

怖いもの見たさに「怖い絵」展に行ってきた。お盆明けの17日に。夏休み只中とあって、好奇心旺盛な子どもたちと大人たちとで兵庫県立美術館はいっぱい。まず、会場入り口の入場券売り場前が長蛇の列。普通はまずこれで怖い思いをするところだが、当方は、学芸員の資格を持ちこの美術館でボランティアで解説をしている友人のお蔭もあってフリーパス。しかし、場内は想像通り、溢れかえるひとの肩と頭とで、肝心の絵はまともに見えない。じっくり見るのは諦めて、人だかりの少ない絵を見定めてのつまみ食いをするほかなかった。美術館の展示物はなぜ、こうも位置が低いのか。もうあと10センチほどでいいからどうして上に飾らないのか。空白の上層部の壁を見やりながらぼやくことしきりであった▼この絵画展の監修は、怖い絵を語らせて右にでるものはいないと思われる中野京子さん。これまでこの手の本をたくさん出している。文字通り題名そのものの『怖い絵』1~3を私はかねて購入し、読むというよりは折に触れて眺めてきた。今回のことをきっかけに、掲げられている絵に関する記述を再読してみた。まずは、ポーラ・ドラローシュ『レディ・ジェーン・グレイの処刑』。これは何度見ても怖いというか、痛々しい。目隠しをされた可憐な白い肌をした美しく若い女性が、太い鉈で斬首される直前の姿。泣き叫ぶ侍女と介添え役の僧侶と首切り役の男。ああ、嫌だ。中野さんは「当時は斬首は高貴な死であり、絞首されるのは下々の者であった」とさりげない。「せめて女性は別のやり方で」と願う現代人の感覚の間違いを指摘しながら、斬首が一回で成功せずに、何回も何回も繰り返す下手な執行人のケースを淡々と記しているのは怖いの通り越して残酷そのものだ▼次は、ウイリアム・ホガース『ジン横丁』と『ビール街』。かたや、荒廃した吹き溜まりの貧民街で安酒のジンをあおって正体不明になっている人々がひしめき合う。もう一方は、ジョッキ片手にビール腹をさすりながら、女を口説く男たちや仕事に励み絵作に打ち込む姿。この作者は、「羅列の快楽」ともいうべき、絵の中に幾重にも描かれた細部を発見する楽しみを披露する。この場合、ジン横丁がいかに地獄の様であるかを、中野さんは克明に、書き連ねる。ジンでごまかすしかない、落ちぶれてやつれきった女や男の姿の一方で、この時代状況の中で、景気がいいとされる質屋、酒屋、葬儀屋の三職種の有様を丁寧に描く。孫と一緒に見る絵本の「間違い探し」に取り組んでいるかのような錯覚に陥るのはご愛嬌だ▼次はヘンリー・フュースリ『夢魔』。艶めかしい姿で眠りこける女体の上に坐る化け物とカーテンの裾から顔を出す馬。この絵の解説で、中野さんは「眠りはある意味、こま切れの死だ。夜がその黒々とした翼を拡げるたび、幾度も幾度も自我を完全喪失しなくてはならない」と、眠りの持つ恐怖の一面を、妖しくエロティックに表現して強烈なインパクトをもたらす。最近、私も歳を重ねると共に、夜中に目覚めることが多い。「こま切れの死」という表現は実感として身につまされ怖さをそそる。一方、怖い絵展における解説を家で読み直すにつけても、美術館で見ていた子どもたちはどう感じたのか、と気になってしまう。子どもに読ませたくないくだりもあり、そちらの方が親にとっては怖かったかも、と想像してしまう。一緒にいった友人はそういう心配をする私に「近頃の子どもは俺たちの頃よりよほど早熟だから、あまり気にせずともいいのでは」というのだが、さてどうだろうか。(2017・8・18)

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何になるのかより、何をするのかだー上甲晃『人生に無駄な経験などひとつもない』を読む

野田佳彦元首相が民進党幹事長を辞任する一方、前原誠司元外相が代表選挙に出馬するといったニュースに接すると、改めて民進党という政党を構成するメンバーの大きな柱が松下政経塾出身者であることに気づく。故松下幸之助翁の肝いりで作られた「政経塾」は果たして成功したのか、それとも失敗したのか。総理を始めそれなりに優秀な政治家を輩出したということでは当初の狙いは十二分に達成したというべきだろう。しかし、松下翁に見込まれ、かつて塾頭を務めた上甲晃氏(志ネットワーク代表)のその後の闘いを見ていると、どうも違う感じがしてならない。「お前さんたち、何をしてるんだ。大臣になることが目的ではなく、何をするかではなかったのか」との叱声が聞こえてきそうだ▶上甲晃『人生に無駄な経験などひとつもない』を読むといいよ、と薦めてくれたのは前高砂市商工会議所会頭の渡辺健一氏(ソネック相談役)。この人がいかに上甲氏に入れ込んでいるかは、先年姫路に上甲氏率いるネットワークの仲間たちを全国から招いての集会をもたれた時に心底からわかった。「理屈ではない。行動をすることでこの世におけるひとの志が分る」ということが彼らを貫く心意気に違いない。衆議院選挙に私が出るという頃ー今から30年前ーから陰に陽に激励を受けているが、このひとの思想と行動の軌跡は大いに心震わせられる。「戦争の20世紀」から「平和の21世紀」へとの転換ままならぬ今を生きる人生の伴走者として▶この本から伝わって来るメッセージは、逆境こそ飛躍するチャンスであるとの一事に尽きる。事態は受け止め方次第でどうにでもなるとの信念を持ち、志を高く掲げよとの松下翁の教えを微に入り細に渡り説いている。「難あり」を「有難い」に変えるのも「志」の力だとの言い回しを始めとして全編に筆者の強い意欲がひしひしと迫って来る。思えば、私も50年前から、これとほぼ同じ考え方を学んできた。ここになく、我々にあるのは祈る力である。一念次第でいかなる逆境も乗り越えられると教えられ、また伝えてきた。あらためて共通するものを感じる中で、特定の信仰を持たぬ指導者としての松下翁の凄さを思う▶あとがきで、筆者は①右肩上がりの経済➁資源浪費型社会③お金万能社会④他人依存型社会⑤ふやけた贅沢病ーこの5つときっぱり別れることを提案している。そして➀質的に掘り下げた経営➁資源エネルギー節約型社会③足元の生活をしっかり励む④自分のことは自分でする⑤質実剛健の生き方をするーことへの転換を説いている。現在只今の一瞬においてこうした生き方が日本社会そのものに問われており、志が問われている、と。松下政経塾出身ではない私にも、様々な意味で耳が痛い提言として聞こえてくる。今再びの思いで、大いなる志を掲げ、経験を積み上げようと決意するに至った。(2017・8・11)

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『チーム・バチスタ』いらいの凄い医療ミステリーー岩木一麻『がん消滅の罠』を読む

厚生労働省の官僚が登場する医療ミステリーと云えば、海堂尊『チーム・バチスタの栄光』。あの小説が出たばかりの頃、海堂さんと講演会でお会いして、名乗ったところ、「読書録に取り上げていただき、有難う。感謝します」との言葉を賜った。厚労省の仲間にも面白いと薦めまくった。懐かしい思い出だ。それ以来の今再びの感動を伴う本を読んだ。岩木一麻『がん消滅の罠 完全寛解の謎』である。ここでも患者のひとりが厚労省の役人。尊敬する先輩の元郵政大臣から勧められて一気に読み終えた。確かに引き摺り込まれる。この著者、今は医療関係出版社に勤務しており、医師ではないが、医療研究者だった。医師不足が取り沙汰される今日、人材流出がちょっぴり心配にされるというのは、オーバーだろうか▼この役人を含む4人が立て続けにがんで余命いくばくもないと宣告されながら、保険の生前給付金を受け取った途端に、まるで魔法にかけられたように病巣が消えてしまう。「殺人」ならぬ「活人」といえる奇妙奇天烈な事件の連続。そこに、生活弱者層と富裕層の双方をターゲットにしたかのような謎の病院の登場。影の主人公である黒幕と思しき「先生」の復讐譚も絡んで……。「私、失敗しないんです」の名セリフを生み出した米倉涼子主演の人気テレビ番組『ドクターX』をも連想させるほどドラマティックな展開。前半は人が死なないから、ある意味爽やかに読めるが、最終盤は一気に血も見る壮絶な展開を見せるなかで、謎解きは急展開。とりわけ最後の一行があっと言わせる大逆転。夏休みの読書計画に是非入れてみたら、とお勧めしたい▶褒め過ぎばかりでは能がない。かといって粗探しはもっと品がない。とはいうものの海堂さんのものに比べるとコクがないように感じられ、少々筋立てが粗っぽいかなあと思った。で、最後の解説を心待ちにして(人はどう読んだか、と気になって)捲ってみたら、第15回「このミステリーがすごい!」大賞の選考委員たちの選評が並べられていた。「前代未聞、史上最高のトリック!医療本格ミステリーの傑作登場!」「日本医学ミステリー史上三指に入る傑作」などと絶賛の見出しがずらり。その一方で、「もろもろの小説的な弱点は枝葉末節」とか「随所で専門的な説明に傾きがちなのも難か」「会話など小説的完成度に若干の不満が残るのは惜しまれる」などとケチも忘れられていない。著者にとって最も気になる励ましは「デビュー後が大変だと思うものの、書き続けることで実力をつけてほしい」との言葉だろう。余計なお世話だろうが▶私が厚生労働省に御厄介になっていた頃の事務次官は辻哲夫さん。歴代次官の中でも卓越した能力の持ち主だと思われる。この人と引退後も時々会っているが、「医療の道も含めて日本の諸課題解決に向けて、医師たちがどう活躍するかが日本の未来を決する」といって憚らない。金儲けに関心を持ちがちな開業医、ただ忙しいだけの勤務医。こういった医療現場の実情はともあれ、間違いなく日本の知的水準の最高位にある職業は医師だろう。それだけに、彼らが日本の最前線で課題解決に仁王立ちになってくれるようなインフラ整備をしたいし、してほしいとの意思を吐露される。すごいミステリー小説を読み終えて、むしろ解決多難な現実問題の謎解きが気にかかっかってならない。(2017・8・3)

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自衛隊取材の環境はなぜ激変したかー杉山隆男『兵士に聞け 最終章』を読む

「あしたフライトがないときは、とりあえず、あしたは死ぬことはないな、と思います」ー27歳のパイロットは、こう言ってフライトがない前日は思いっきり吞むという。「もし自分たちが乗った飛行機に何かあったら、十人の部下の家族を一軒一軒たずねて、機長の妻として頭を下げてくれ」ーP3C機長の夫は、結婚にあたり妻への最初の頼みとして、こう言った。「任務の特性上、必ず帰ってこられるという保証はどこにもありません」ーそれでもよろしければ結婚させてください、といきなり最悪の話から切り出した。何れも、杉山隆男『兵士に聞け 最終章』にある。この本を読みつつ、私は姫路
の第三特科連隊(当時)付近での懇談会の場でのある母親の発言を思い出した。それは、ほぼ30年前のこと。自衛隊がPKO任務を初めて帯びてカンボジアに派遣されるというニュースで持ち切りのとき。「そんな危ないことをさせるために自衛隊に息子を入れたのではなかったのに」という慨嘆の声であった▼こうした自衛隊員をとりまくありのままの姿は知られているようでいて、意外に知られていない。私は20年間の国会議員時代の大半を安全保障委員会に所属していたので、それなりに分かっているつもりだが、それでも表面上だけで、隊員の生活ぶりなどは全くと言っていいほど知らない。兵庫県なら伊丹市に方面の拠点があるし、宮崎の新田原航空基地や、沖縄の那覇基地など全国各地の自衛隊基地を訪れたり、米軍基地も僅かながら訪問した経験も持つ。しかし、所詮は上っ面だ。であるがゆえに、自衛隊員の日常を描いた本には興味を持って追いかけてきたつもりだ。この本には冒頭に挙げたようなものから、災害派遣の現場で、低体温症や高山病で”戦列”
をやむなく離脱する若い隊員の赤裸々な姿まで”様々な真実”があぶり出されて興味深い▼杉山隆男『兵士シリーズ』はこれで7冊目。取材を始めてから足かけ24年になるという。最初の頃から読んできたが、自衛隊をめぐる問題の貴重な情報源だといえた。題名からもわかるように、今回で最後の作品になるというが、残念なことだ。なぜ今回で終わりになるのか。著者はあとがきで「取材環境が激変したこと」を一番の理由に挙げている。今までは隊員と一対一で話を聞くことができたのに、今回は、「自衛隊の広報が絶えず立ち合い、私が歩くところには必ずお目付け役のようにして基地の幹部がついて回った」というように、一変したというのである。このため個別のインタビューなどもできにくくなった、と。このあたり実際はどうなのか。自衛隊の側の言い分もあろうし、単に杉山氏がもう自衛隊を追いかけるのに疲れたのだけかも知れない▼それよりも、気になるのは日米同盟の名のもとに、自衛隊の中でアメリカの存在がさらに大きくなっていくことへの危惧を述べているくだりだ。「神は細部に宿り給う」という最後の章で「まわりに漂う匂い」の一片として、「3・11」の一か月後のトモダチ作戦の日米間の連絡調整の場で偶々同席した時のことを挙げている。場所は仙台だが、およそ日本ではないような空間であったことに強い違和感を感じた、と。作家・開高健がベトナム戦争のさなかに、「本質はしばしばそのまわりに漂う匂いの中に姿をあらわしている」として、様々な「細部」を書きとどめていったひそみに倣って、杉山氏が追い続けてきたことが明かされる。杉山氏は、日本における米軍の存在がこの24年間でいやまして大きくなってきていることを痛切に感じていると述べる。かつて「自衛隊は日本人にとって、鏡の中のもう一人の自分」と書いたが、あと何年かすると、「鏡をのぞいたら、見たこともない他人が見つめていることになるのかもしれない」と結んでいて、思わせぶりだ。南スーダンにおける日報をめぐる稲田防衛相、黒江事務次官らの一連の対応は文字通り目を覆うばかりだった。ようやく退任を決断したが、もはや遅すぎる。自衛隊の最前線と最高幹部との大いなるズレこそがすべての元凶と思われる。杉山氏の懸念も正鵠を射ているように思われてならない。(2107・7・27)

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読まぬ阿呆に読むあほうー中路啓太『もののふ莫迦』を読む

「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃソンソン」ー読み進めながら、ご存じ阿波踊りの一節をしきりに思い出した。読まぬ阿呆に読む阿呆、同じ阿呆なら読まなきゃソンソン、と。久方ぶりに、「巻を措く能わず」と形容したくなるホントに面白い小説に出くわした。中路啓太『もののふ莫迦』である。滅法面白いからあっという間に読み進めると言っておきながら、「読む阿呆」とはなんだと訝しがられるかもしれない、その理由の一端は後に触れる。この小説、実は私が青春期に記者をしていた『公明新聞』に連載された小説である。これまでも同新聞は、火坂雅志の「安国寺恵瓊」ものや、葉室燐の「赤穂浪士」にまつわるものなどの歴史小説で数々のヒット作を世に提供してきた。今度のものは「加藤清正」と対峙する架空の人物・岡本越後守が主人公。中路さんという作家は東大の人文社会系研究家博士課程を中退し、38歳頃に作家デビュー。この10年余りで、吉川広家、毛利勝永らの歴史上の武将を取り上げたり、「槍の勘兵衛」や「もののふ越後」などの新しい武士像を作り上げてきた。これだけ面白い小説を登場させながら、新聞小説の場を提供しただけの媒体は、本になっても全く世間に紹介されないというのはちょっぴり悔しい思いもする▼小説の時代背景は、豊臣秀吉による統一がなる直前から「関ケ原」辺りまで。前半の舞台は九州は肥後の国で展開。主人公「越後守」がとある村で破天荒そのものの、ものふぶりを発揮、作中世界に一気に引込まれる。後半は朝鮮に場所を移し、秀吉の命を受け半島に出兵した加藤清正らの壮絶な戦いぶりが手に汗握らせる。しかも、加藤配下から朝鮮側に寝返った「越後」との息詰まる死闘が繰り広げられ、みじんも飽きさせない。この流れの中で、「もののふ」をめぐっての生き方の是非が繰り返し提示される一方、男勝りの姫・たけと二人の「もののふ」との愛憎が基底部を深く愛おしく流れる。誰もが歴史上の史実として大まかに知っているストーリーが壮大な筆致で語られる。と、同時に作りごととしてのお話が巧みに織り込まれて息を吞みつつ推移する。いやはや、たまらなく面白い筋立てだ▶さて、「もののふ莫迦」で作者・中路さんは何を言いたかったか。ただ単に面白いといって済ませられないだけの芯の強さが読後にずしりと残る。この小説の前半の山場、清正と越後守との対決場面。「聞かせてもらおう。そちがさきほどから申しておる、そのもののふの道とはなんだ」と清正が訊く。これに対して越後は「恥を知ることにござりまする」と。この小説に一本通る太いテーマが、今の世の中、「恥知らずが多すぎるということ」だろうと、つまり「もののふ」がいないことに尽きるとの問題提起である。中路さんは、現代における「恥の喪失」を憂え、ほんものの人物を見いだせない社会状況への警鐘を乱打したかったのではないか。倫理観が問われるような事件がおきても、弁明の中で「恥ずかしい」という言葉を聞くことは稀だ。教師や警察官としてあるまじきことを行っても、また大学教授や医師として本来してはならないことをしても、彼らから出て来る言葉は「申し訳ない」。「恥ずかしい」という言葉は殆ど出てこない。「申し訳ない」とは、周りへの迷惑に謝ったとしても、自らのあるべき姿に言及していない。かくいう私が生きてきた政治家の世界でも、ジャーナリズムの世界でも同様だ。この小説を読んでいて、ただただ無性に恥ずかしくなる自分を感じた▼肥後・熊本での加藤清正の人気は圧倒的だ。姫路はお城が世界文化遺産であっても、関係する歴史上の人物で、清正を上回る武将や城主を持たぬ点で劣る。そう思ってきた私だけに「清正」が一層まぶしく見える。この小説で「清正」を既成の、出来合いのリーダーとしておき、それのアンチテーゼとしての「肥後守」と比べてみる。最後のクライマックスにおけるヒロイン(男勝りの女性、たけ)の両者への思いー「越後守がもののふの道を極めるには、清正もものふの道を極めなければならない。(中略)越後守と清正の話し合いは、ある種の和解とならなければならないのだ」は、作者の「清正」に代表される既存のリーダーへの妙な気配りのように思えてしまう。結局は舞台回し役の「粂吉」(正念坊)という、もののふならぬ、”ふ(歩)そのもの”のというべき状況追従型の男に、私を始め通常の読者は自分のありのままの姿を投影せざるを得ない。はらはらドキドキの戦闘場面や、越後守とたけの「戦場での恋」に興奮しつつ、魔法にかけられたように読み終えた。魔法がとけると、なぜか悲しく虚しい思いにもなってしまうのは何故か。作者が創作した「物語部分」がいささかリアルさが欠けるところに起因するのかも。このあたりが、読まぬ阿呆に読む阿呆というフレーズを思いつくことに関係してくるのかもしれない。とはいうものの、朝鮮半島を舞台に、豊臣軍と明軍との攻防は、今の東アジア政治を想起させ、想像の翼が新たに羽ばたき始めてやまない。                            (2017・7・21)

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