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コロナ禍中に読んだ『クンバハカ』『白鵬』『麻薬』本の味わい

新型コロナの第一波が過ぎたかに思われる今、次第に日常が取り戻されつつある。大きく言えば「経済のV字型回復」への待望論が鎌首をもたげ、身近なテーマで言えば「生活習慣」が棚卸しされかねない状況である。緊急事態宣言直後、文明論が喧しく論じられ、価値観の転換を説く向きも少なくなかった流れが忘れ去られないのかどうか。大いに懸念される。このコロナ自粛の期間、あれこれと軽重問わずつまみ食いならぬチョイ読みをした。そのうち尊敬する大先輩や友人が出版した本3冊を紹介する▲まずは合田周平・電気通信大学名誉教授による『中村天風 快楽に生きる』。合田さんは財団法人天風会の元理事長。「天風哲学」の実践者・中村天風先生の愛弟子である。天風先生の箴言集の後にまとめられた「心身壮健ークンバハカの実践」が興味深い。クンバハカとは、「肛門」を締め、同時に「肩」の力を充分に抜いておろし、さらに「下腹部」に力を充実させる呼吸法。「肛門を締めると気分が全然違ってくる。怒りそうになったらキュッ、悲しくなったらキュッ、これだけで心が傷つかなくなる」と言う。お試しあれ▲次に、浅野勝人・元内閣官房副長官の『孤独なひとり旅 白鵬関とのショートメール』。浅野さんは衆議院議員を辞されたあと、一般社団法人「安保政策研究会」理事長を務める。横綱白鵬の熱烈な支援者で、陰に陽に白鵬を激励(主にショートメールで)し続けてきた。一般的に白鵬は立ち合いのかち上げやら、優勝時の土俵下での万歳の音頭取りとかで評判はよろしくない。しかし、これを読むと目から鱗が落ちるように、真反対の大相撲の守護者としての白鵬が立ち現れてくる。私は高木彬光の名作『成吉思汗の秘密』からくる〝夢に満ちた神話〟をもじって、「義経の末裔・白鵬」と持ち上げたい▲最後に、山本章・元厚労省麻薬課長の『「奇跡の国」と言われているが‥ どうする麻薬問題』を紹介する。クスリを語る際にこの人は外せない。彼が先に世に出した『医師がくすりを売っていた国 日本』は全ての薬剤師、くすり愛好者必読の本だと思う傑作である。今度の麻薬本はまたとんでもなく面白い。幸か不幸か、麻薬の怖さがリアルに伝わってこない分だけ、不謹慎にも試してみたくなるほど。偶々少し前に彼の仲間の厚労省の麻薬取締官・瀬戸晴海さんが書いた『マトリ』が話題を呼んでいるが、併せ読むと立派な麻薬通になること請け合いである。(2020-6-25)

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キリスト者の人生の終焉をめぐってー曽野綾子『死学のすすめ』を読む

キリスト教カトリックを信仰していた人の葬儀に一度だけだが、出たことがある。率直に云って、芝居がかっているというか、大袈裟な印象を受けた。それに比べると仏教の場合は概ね簡単素朴だ。僧侶の読経が中心で、賛美歌に類するようなものもない。作家の曽野綾子さんは著名なキリスト教カトリック信徒だが、かねてあれこれと死の迎え方をめぐる文章を著しており、その集大成とでもいうべきものを出版されたので、読んでみた。幾つか印象に残ったことを紹介したい▲まずは、死に際しての宗教比較から。「カトリックのお葬式が一向に暗くない」ことを曽野さんは挙げているが、それは亡くなった人が「自分に与えられた仕事を果たして死んでいった場合」だとしている。聖パウロも晩年の心境は「走るべき道程を走り終え、信仰を守り抜き」きった状態だった、と。また、「聖パウロのように自分の人生を生き切った人」のお葬式で、「思わず笑顔がでる」とも。お葬式が暗くないのも、笑顔がついでてくるというのも私たち日蓮仏法徒も変わらない。神の存在を強調されている点だけが違う。他人との比較でなく、その人なりに精一杯やったかどうかを測定できるのは神だけで、神は「完璧に正確で繊細な観察者で」、「神の測定はまことに真実で個性的なのです」、と。尤も、これも神を御本尊に置き換えれば同じことかもしれない▲次に、最も私が共感したところを。「ユーモアは人間の最期にもっとも相応しい芸術となりましょう」とのくだり。「残される人々に最後の温かい記憶を残して死にたいと思えば」、それはユーモアであると。全く同感するのだが、さてこれが難しい。私はこれまで知人、友人の死に際して、出来るだけ通夜は楽しく、を心がけてきた。義父の時は自宅でやったのだが、5つの小部屋にそれぞれの縁を持つ人々を集めて、独自の偲び方で盛り上げてもらった。あまりに楽しかったせいか「また、来たい」と云う人もでるほどだった。これは送る側のユーモアだが、送られるとなると、さて。「おれのいないおれの通夜は寂しいだろうね」との思いを馳せ、今から準備するしかない▲最後に、とても真似できそうにないことを。曽野さんは母上の死に際して、ご本人の遺志に従って、献眼をされた顛末を克明にしるされている。東大病院の眼科医が処置をするにあたって、「ここにおられますか。それとも場をはずされますか」との爽やかな質問を彼女にしたという。で、「ここにおります」と答えると、「お医者さまは母の顔の上に緑色の手術用の布をかけられ、約十分ほどで、その処置は終わりました」と。この行為をめぐる種々の思いを述べたあと、「(眼を差し上げたことが)どれほど私たちの心を明るいものにしたか、想像もできないほど」だったと強調。「この行為だけでも、母は決して地獄には行かないだろう、という安堵感に包まれた」と述べている。臓器移植については、他人のものとの結合の是非を始め、ついつい躊躇しがちである。若くていきのいい身体ならともかく、老いさらばえた臓器の使い回しなど、どうしても二の足を踏みがちだ。ともあれ『死学』なる学問もまた奥行きが深い。  (2020-6-12)

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解釈でなく体験を、との勧めーサミュエル・ベケット『モロイ』(安堂信也訳)を読む

この人と会わなければ間違いなく私はこの本を読まなかったに違いない。勿論こんな読後録も書かなかったはずだ。この人、とは諸井学さん(先に紹介した『神南備山のほととぎす』の著者)のことであり、この本とはサミュエル・ベケットの『モロイ』(「アンチ・ロマン」に区分される小説だそうな)のことである。諸井さんと知り合ってほぼ2年。次第しだいに感化、影響を受けてきているのだろう。ついに『モロイ』を読む羽目になってしまった。読んでいて幾度も投げ出したくなった。およそオモロイとは言えない代物だからである。それでも最後まで読み終えることが出来たのは、ひとえに諸井さんが自分のペンネームは「モロイから学ぼうとした」というからである。邦訳は4種あり、そのいずれをも含め十数回にわたって読んだと言う。そこまで入れ込む理由を知りたい、と私が思ったのは人情というものだろう▲ベケットの作品は、戯曲『ゴドーを待ちながら』を読んだことがあり、既に読後録にも書いている。だからおぼろげながらもどういうタッチの読み物であるかは想像できた。聞きしに勝る、わけのわからん筋立てというか話運びである。それでいて妙に引き込まれる独特のリズムはないわけではない。一回読んだだけで読後録など書くのは無謀というものだろうが、再読したり、橋本五郎さんのように「二回半読む」勇気も暇も、今のわたしにはない。コロナ禍の有り余る時間の中でさえ、わたしに残された時間はそう多くないとの切迫感があり、早く離れたい(『モロイ』からも『諸井』からも)との思いに負けてしまった。ということで、中途半端な結論のもとに書き出したこと、ご容赦願いたい▲実は少し前に、諸井さんに『モロイ』って、どんな小説なの?って訊いたことがある。彼はひとたびは曖昧な言い方でお茶を濁したかに思えたが、のちに手紙で答えを書いてきてくれた。結論部分のみを披露すると、「『モロイ』を読むことは、『モロイ』を解釈することではなく、『モロイ』を体験することである」ということになる。ボールは投げられた。「解釈」するのでなく、「体験」することであるというのは、また判じ物である。解釈には理性が働き、体験には感性がものをいう。要するに、理屈で分かろうとするのでなく、感じるがまま受けとれということなのだろう。これがまた難しい。ボールの投げ返しに苦労することになった。尊敬する友人であるベケット研究の第一人者・岡室美奈子さん(早大教授)に訊いてもみた。彼女は、「解釈でなく、体験だ」との諸井説を「言い得て妙」と同感したうえで、「『私』という語り手に心を添わせる読み方」がいいとし、「理由が分からぬまま感動する体験が醍醐味です」と答えてきてくれた▲私は何らかの閃きが我が体内に生じない限り、この本の読後録は書けないと思った。そんな時に、たまたまモーパッサンの『エセー』における興味深い一節にでくわした。「自分が対象と関わる瞬間に、ありのままの姿をとらえるしかない。つまり、存在を描くのでなく、推移を描くのだ」とのくだりだ。これを解説したあるフランス文学者は、「画期的居直りだ」と述べていたが、私にはこの説明を聞いた瞬間、ベケットが『モロイ』で描いているのは「存在」でなく、「推移」ではないかと、閃いたのである。具体的な描き方部分を上げることはあえてここではしない▲最後に、気に懸かった箇所が二つあることを告白する。一つは、第一部におけるセックスに関わる表現部分。過去に読んだこの種のもののいずれよりも印象深い。ここにだけ強烈なリアルを感じた。もう一つは第二部における大便にまつわる表現のところだ。息子のしたうんこの具合を親父が覗き込み、その有様を仔細に描く。笑った。なんのことはない。人間の原初的行為が、昔馴染みの友人が突然訪ねてきた時のように私の感性をくすぐった。裏返せばそれ以外は殆ど意味不明。それが私の正直な『モロイ』体験なのである。諸井さんは、小説家として多くの創作のヒントを得たに違いない。岡室さんは「どうか(ベケットを)嫌いにならず、お付き合いいただければ」と結んでおられた。さてさて、どういうものか。(2020-5-31)

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こんな90歳になってみたいー中西進『卒寿の自画像ー我が人生の賛歌』を読む

「『令和』の考案者は私と同じ名前なんですね」ーこの名言を発した人こそ、誰あろう、文化勲章受賞者・中西進先生である。肩書きを「万葉集学者」、としようとしたら、ご本人はそう呼ばれることはお好きではないとのこと(本文中にあり)なので、よした。しかし、万葉集の研究で今日までの大をなされた。「初春の令月にして、気淑く風和ぎ」との万葉集の一節を典拠にした「令和」という年号を、この人が思いついて標題の著作を表す起因となったことも間違いない▲中西先生と私は同じ一般社団法人『瀬戸内海島めぐり協会』に所属する仲である。先生が代表、私が専務理事を務める。であるが故に、学者としての先生の凄さも、そのお人なりも知ったつもりでいた。しかし、この『自画像』を読んで、いかに私が先生のことを何も知らなかったかが、ようく分かった。面白い。こんな90歳の年寄りに自分もなってみたい、と心底から思う。75歳である私は90歳の中西先生に、ほとほと惚れ込んでしまう。生い立ちから、学問の道を経て、「令和」の由来に至るまで興味津々の話題で最後まで飽きさせない▲これまで様々な先達の、老いに至った道のりを聞き、それぞれに感じ入った。しかし、いかなる人々のものよりこの人の語りは凄い。凄すぎる。全くと言っていいほど歳を感じさせないのである。「体力、身力を養う」が、ご自身の究極の持論だとされ、それ故に卒寿を迎えるに至ったと言われるのだが、全編どこにも「後ろ向きの示唆」を感じさせない。永遠に生き続けられるかの如き錯覚に陥る▲この本、実は中西先生の自伝とするには物足りないと思われる。随所に写真が散りばめられ、極めて興味深いのだが、いささか軽いと思ってしまうからだ。ご自身が書かれた文章ではなく、鵜飼哲夫讀賣新聞編集委員の聞き書きであるから無理もないのだが、そう思わざるを得なかった。そうしたら、あとがきに「心してその諸点を整理し、普遍的な観点から見つめて、別に叙述していきたい」とあった。本格的なものはまた書かれるのだ。安心した。この本で中西先生は、含羞を込めて、ご自分の人生を振り返り、今の時点で思う存分に表現された。次には白寿を前に本格的な自伝を期待したい。(2020-5-23)

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大阪維新はなぜ強いのかー朝日新聞大阪社会部編『ポスト橋下の時代』を読む

コロナ禍騒ぎで、妙に吉村洋文大阪府知事の人気が高い。このところの世論調査における政党支持率でも「維新」は右肩上がりである。少し前に友人(元公明党尼崎市議)から勧められて購入したまま放っていた上掲の本を、引っ張り出して一気に読んでみた。率直に言って「維新」の強さは個人プレーによるところが大きいとの見立てに間違いはないというのが結論である▲主役が橋下徹から、松井一郎、吉村洋文のツートップに替わっただけで、この3人以外に人はいないように見える。それ以外のプレイヤーで重きをなしているのは、概ね他党からの流入者ばかりで、この党生え抜きの人材(歴史浅く無理もないが)は貧弱というほかない。それでいて、確かに強い。兵庫県的には3回の参議院選挙で維新候補を敵に回したが、この党は殆ど党員支持者の姿は見えず、運動量は少ないのに、圧倒的な票をとる。要するに浮動票をかっさらうだけの期待感が有権者に強いのである。時代の空気を感じる感性力は侮れないが、主軸が崩れると消え去る可能性も高い▲その強さの秘密はどこにあるのか。この本では、大阪都構想をめぐる維新、公明、自民の三党のこの10年ほどの動きを克明に追っているが、結論めいたことには直接言及していない。浮かび上がってくるのは、先に挙げた3人のリーダー(維新の三傑)の都構想に対する執念だけである。それに比べて自公、及び他の政党の結束力のなさたるや目を覆うばかり。単独では強い公明党も、他党との付け焼き刃的結束では負けてしまう。〝維新の三傑〟に共通しているのは、はっきりした物言いに尽きよう。これは政党、政治家として学ぶべきところ大である。国政における野党で、憲法改正をはっきりうたっているのはこの党だけ。これも歯切れの良さに繋がっている▲私の見るところ、今の日本ではもう一つの保守勢力の台頭が求められている。〝何でも反対〟のイデオロギーに偏重しがちな党でなく。この本で、三傑のひとりが国民民主党が「維新」でなく、立憲民主党の方に合流しようとしたのを嘆くくだりがあるが、そこがポイントであろう。先に希望の党への異常な期待で盛り上がったが、あながち〝小池人気〟だけの一過性のものではなかったと見たい。中道主義の党・公明党の役割はまことに大きいが、ややもすると、物言いの不鮮明さが気になる。そこらで足元をすくわれないようにしたいものである。(2020-5-16)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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軽妙洒脱なドイツ文学者の「老いと死」ー池内紀『すごいトシヨリBOOK』を読む

ドイツ文学者の池内紀さんが亡くなられる2年ほど前に出版された『すごいトシヨリBOOK』。このところ毎日新聞(出版元)の一面下の広告欄にしばしば登場している。タイトルも気になるので、読んでみた。理由は二つ。一つは同氏が私と同じ姫路出身であり、生前一度だけだがお会いしたことがあるから。二つは、最近年老いた知識人ー曽野綾子、石原慎太郎氏らーが老いを巡る考察を次々と出版しており、比較してみたくなったこと。コロナ禍のため図書館が休館になる前に借りて読んだ。後味は悪くはないが、いささか羊頭狗肉で、誇大広告のような感がする。買わなくて良かったと思っている。恐らく本人はあまり気が向かなかったものと思われる。というのも書き下ろしでなく、編集者の聞き書きだからだ。ご自身が熱を入れて書かれたものなら、こんな風ではないというくだりが散見される。もっと深みのある重い老人論を池内さんからは聞きたかった▲勿論、池内さんらしい軽妙洒脱さも随所に。代表的なものを紹介する。一つは、眠りについて。寝られない時は無理せずに起きる。その代わり、朝昼夕夜と4回ぐらいにわけで小出しに寝るといいというのだ。「眠りは短い死、死は長い眠り」とドイツ語でいうから、「短い死を経験しておくと、長い眠りのコツがわかっていい」と。さてさて池内さんはコツを習得されたかどうか。二つは、泌尿器について。池内さんは自らのイチモツをアントンと名付けたそうな。元気な時は「張り切り大王」「モリモリ先生」などなどだったが、今では「しょんぼりくん」「うなだれの君」などと言われたりする、と。このくだり、さもありなんと大いに笑えた。三つは、死について。歌人・窪田空穂が死の床で詠んだ「まつはただ 意志あるのみの 今日なれど 眼つぶれば まぶたの重し」を挙げて、「そんな物理的な体の重さを感じながら、人間は死ぬんじゃないか」といいつつ「僕は、風のようにいなくなるといいな」と結んでいる▲その池内紀さんが去年夏に出版された『ヒトラーの時代』を巡って、ネットの世界で話題になっていることに触れたい。実は今の今までその話題は知らず、本も未読だった。ところがひょんなことから、舛添要一さんがこれに絡んでいることを知ってその本にも興味を持った。何が話題になっているかというと、『ヒトラーの時代』に些細な記述の間違いなどがあり、それをドイツに関する日本の歴史家たちが猛然と批判しているとのこと。で、それを知った舛添さんが池内さんに加勢しているのだ。舛添さんに言わせると、ドイツ文学者が専門外のヒトラーについて語る資格はないという歴史家たちのいいぶりはおかしく、池内さんの指摘(普通のドイツ人がヒトラーを支持していた)は全く自分も同感だというのである▲それというのも舛添さんも池内本と踵を接するように『ヒトラーの正体』なる本を上梓しており、ほぼ同じ趣旨のことを書いたからだという。この二つの本は読んでいないので、そのうち、読んだ上で改めて取り上げるが、私は歴史家たちの批判も分かるような気がする。つまりは嫉妬である。池内紀さんはドイツ文学、舛添さんはフランス政治史が専門。専門外の人間によって、自分たちの領域が侵されるのが、歴史家のみなさんは、気に入らないのである。ご両人ともそれぞれ有名なだけに本を書けば売れるわけで、それも腹が立つ理由に違いなかろう。舛添さんの主張が正解だと思うものの、世の中正論だけではないよ、と言いたくもなる。で、先日NHKのBSテレビで、『独裁者ヒトラー 演説の魔力』なる番組を見た。見事な切り口、出来栄えに圧倒された。90歳を悠に越えたドイツの老人たちが、ヒトラーの演説に魅せられた若き日の自分たちのあの体験を、口々に語っていた。なぜあのように深く熱狂してしまったのか。不思議がると共に、懐かしがっていた。二人の本の中身がこの映像を上回っているかどうか。楽しみに読んでみたい。(2020-5-14 一部再修正)

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一冊で日本文学丸かじりードナルド・キーン『日本文学を読む・日本の面影』を読む

今年のGWはそれぞれの人生にとって忘れがたい異常なものであるに違いないと思われる。外に出るな、家にいろと、政府から懇願されるなんて、前代未聞、古今未曾有のことである。ただ、休むということだけをとるなら、GWならぬGM状態が続いており、本を読むチャンスではあろう。私はこの機会に今まで苦手意識から棚上げしてきながらも、気になってきたプルースト『失われた時を求めて』(14巻)と、ベケットの『モロイ』に挑戦することにした。一方、それではご馳走の食べすぎで消化不良を起こしかねないので、食べやすいものもとばかりに、一冊で日本近代文学全てを読んだ気になるようなもの(表題作)を読み、随分得をした気になっている▲実はキーンさんの『日本文学史』全18巻は既にざっと読み終えており、この『日本文学を読む・日本の面影』は、おさらいをするようなようなおもむきがあった。二部構成のうち前半の『日本文学を読む』では、二葉亭四迷から大江健三郎まで49人の作家を取り上げてそれぞれの代表作を論評しているのだが、最も印象深いのは、夏目漱石についてあまり評価が高くないことである。これは現在『漱石全集』に悪戦苦闘している身からすると、全巻読破なんて無理することないよと言われたような気がして、ホッとするような心境になる▲「日本人にとっては漱石は掛け替えのない作家であり、近代日本文学を可能にした大恩人であるが」、「漱石の主な作品全部を読まなければ、彼の偉大さは分かりにくい」のであって、「日本文学の古典であるが、残念ながらいくら紹介書が出ても世界の古典になかなかなれないと思う」と結論付けている。その理由は、「多くの外国人読者が漱石文学を読む場合、小説に登場する人物と自分を同一視することは困難だし、物語としての面白さは谷崎や芥川等の小説には及ばない」からというわけである。だろうなあ、と思う。こう書かかれているからと言って、谷崎や芥川を全面的に礼賛しているわけでもない。谷崎文学は「深みが足りないという批判は出来ると思う」し、芥川についても、「かなり広く芥川の小説を読んだが、その技巧ー特に小説の落ちーに段々愛想をつかすようになった」と、厳しい。このように、キーンさんは取り上げた殆ど全ての作家に対して深い吟味の手立てを加えていて興味深い▲そんな中で、後半の『日本の面影』では、『源氏物語』『徒然草』から能、俳句、日記まで広範囲に「日本文学」全般にわたって、その魅力や特質に迫っている。ここで私が最も感銘を受けたのは芭蕉についてである。キーンさんは、「芭蕉は、私にとって最高の詩人といえます」し、「読むたびに私の身にしみるような感動を覚えます」とまでいい、「出来るものならばぜひ会いたいというきもちがあります」とさえ。尤も、芭蕉を褒め称えるのはいいのだが、和歌の世界にはあまり触れようとしていないのは、少し疑問を感じざるをえない。つい先ほど『新古今和歌集』の世界が、800年も前に、現代ヨーロッパ文学の先取りをしているとの指摘を、知ったばかりの私としては尚更である。丸谷才一さんの『後鳥羽上皇』からそれを学び、12篇の短編小説にまとめ上げた諸井学さんの『神南備山のほととぎす』を読んで、より一層その思いは募る。諸井学のペンネームの由来がモロイから学ぶということにあると聞けば、さらに。ともあれ、こうした日本文学の世界に深入りさせてくれる格好の本に出会って満足である。(2020-5-4)

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新型コロナを10年前に警告したド迫力ー高嶋哲夫『首都感染』を読む

この本の存在を知ったのはテレビで。新型コロナウイルスの恐ろしさを理解するために、との触れ込みでカミユの『ペスト』、小松左京の『復活の日』と共に紹介されていた。直ちに読んだ。まさにライブで現場中継を見ているように、ノンフィクションを思わせる凄まじい迫真性溢れる小説である。サッカーのワールドカップが中国で行われ、その観戦に世界中から40万人もの人々が集まっているちょうどその時期に、雲南省で強毒性のH5N1型の鳥インフルエンザが発生したとの設定。中国政府当局が発生の事実を隠したために、それぞれの自国に帰った観客によって一気に感染は世界中に拡大した。時は、20××年というが、まるで2020年のニューヨークを始めとする世界各都市のいまとダブって見えてくる▲全身が鬱血し、身体中の臓器から出血し、血を吐いて死んでいくとの描写は勿論、今現実に起こっていることとは相違する。また、日本にあっては感染者がほぼ首都東京のみに集中し、それゆえ封鎖することで、全国に被害が波及拡大することを抑えようとする設定も違っている。だが、それ以外は多くの点で類似していて、気味が悪いくらいである。こんな小説を書く人物って、どういう人だろうと疑問を抱いて読み終えたのだが、成毛眞(書評サイトHONZ代表)の解説を読んでまた驚いた▲阪神淡路大震災、中国でのSARS、東日本大震災の前に、『メルトダウン』『イントゥルーダー』『M8』『TUNAMI 津波』『ジェミニの方舟 東京大洪水』などといった小説を発表しているのだ。しかも、順序は大筋守られている。つまり、それぞれの小説の後に、現実の災害があたかも対比するかのように、起こっているのだ。今回の新型コロナウイルスの蔓延は、この小説が書かれた10年後、少し間隔があいているが、成毛さんが言うように「じつは小説家ではなく、予言者なのではないか」との見立てもあながち絵空事とも言えないようにさえ思われる。少なくとも「天災を忘れさせないための警告の書であり、それ以上の災害が起るかもしれないという未来のノンフィクションでもある」とはいえよう▲この小説、それだけではない。感染拡大に伴うロックダウン、首都封鎖といった緊急事態に人がどう対応するかに、ハラハラどきどきしながら読み進める中で、つい見落とされがちだが、親と子の抱える普遍的な問題についても、政治家、医者とその子の有り様を巡って考えさせてくれる。〝愛と死〟のテーマにも挑んでいる。また、主なる登場人物の死という問題が発生しないと、小説としてはどうだろうか、と思っていたら、終わり近くに大きく浮上してくる。しかも、その結末たるや、意外などんでん返し風のことががオチとして登場する。加えて、劇的効果が見られるワクチンについても用意されており、救いもある。ステイ・イン・ホームが声高に叫ばれている今、色んな意味で読むにふさわしい小説である。と、書いたのちに驚いた。なんと、著者は私の身近にいたのである。詳しくは別の機会に触れたい。彼の他の著作を読んだ後にでも。現実が奇妙な展開を見せてきた。(2020-5-1  一部修正)

 

 

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百年後のトルコの恩返しと日本の理不尽さー門田隆将『日本遥かなり』を読む

今から35年前、1985年イラン・イラク戦争の最中のこと。在イラン邦人が危険な状態のテヘランから脱出したくとも日本から支援機が来ず、どうしようもなかった。その危機的状況の中で、トルコがトルコ航空の旅客機を出してくれ、自国民よりも優先して、日本人たちを脱出させてくれたーこの歴史的事実について、私は朧げながらの記憶しかなかった。しかも、その事実の背景には、トルコという国の国民的記憶の中に、百年ほど遡った頃に起こった出来事(エルトゥール号遭難事件)が深く関わっていたということはまったくと言っていいほど知らずにきたのである。本当に恥ずかしい限りだ▲その事件とは、和歌山の串本大島沖で、今から130年前の明治23年(1890年)に起きた。オスマントルコ帝国の親善使節一行約600人が乗った木造フリゲート艦が遭難、沈没したのである。行方不明者587人。辛うじて69人が付近住民の手で救助された。後にこの生存者たちは日本の二隻の軍艦によって母国に送り届けられた。このことがトルコで今なお語り継がれ、串本町でも5年ごとに追悼式典が行なわれている(今年は130周年の式典が6月に行われる予定と聞く)。この二つの出来事は勿論、直接の因果関係はない。しかし、日本人が19世紀末にトルコ人救援に懸命の力を注いでくれたことが、20世紀後半のトルコ政府要人を動かした。そしてトルコの世論もそれに呼応したことは紛れもない事実だ。このあたかも恩には恩で報いる美しく得難い行為を、私は門田隆将『日本、遥かなり』を読むまで知らなかった。呑気なものである▲門田氏はあとがきで「国際貢献の最前線で懸命に活動する『日本人群像』」を描きたかったと述べている。具体的には、テヘラン脱出を始め、湾岸戦争時の「人間の盾」(1990年)、イエメン内戦からの脱出(1994年)、リビア動乱からの脱出(2011年)という、合わせて4つの「邦人救出」をめぐる物語が展開される。これら4つの物語に共通するのは、海外において活動する自国民のいざという危急を要する場面で、日本政府が救援の手を差し伸べず、他国に委ねてきたという事実である。そのことをわかりやすく、読むものの感性に訴えるかたちをとるために、トルコ人の日本人への「恩返し」に触れ、その原因となった明治日本の「こころ」と対比させた。読むものをして感動させずには置かない▲しかし、なぜ、邦人救出がまともに出来ないという理不尽なことが続くのか。門田さんは、自衛隊の最高幹部の一人・元統合幕僚会議議長の折木良一氏にその辺りについての生の声を聞きだしている。折木氏は、平成11年(1999年)の自衛隊法改正で最初に一部改正に手がつけられてから、その後の経緯を丁寧に説明されている。そこには「政治の不作為」への愚痴めいたこと、批判らしきことは一切ない。むしろ、抑制を利かせた表現で、事態は一歩ずつ前進していると、政治への評価を下す。政治家の端くれとして、これは返って耳に痛い。先年の「安保法制」によって、自衛隊が邦人救出での任務妨害を排除するための武器使用が初めて認められるようになった。「画期的ともいえる改正」がなされたのだが、結局は「武力行使の一体化」の恐れが災いして「事実上、(邦人救出)行使は不可能」なのである。政治の責任は大きい。私は現役時代に、護憲派の意識を憲法の縮小解釈だとして批判してきた。拡大解釈を非難する前に、縮小解釈の非を顧みるべきだ、と。それにしても、改めてこの本を読むことで問題の所在がハッキリする。四つの物語のうち、後半の二つは私が現役時代に起こった事件であるだけに、責任なしとしない。(2020-4-16)

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7つの国はどう危機を乗り越えたかージャレド・ダイアモンド『危機と人類』上下(小川敏子、川上純子訳)を読む

「危機と人類」というタイトルは、世界中がコロナ禍で喘ぎ、必死の対応を余儀なくされている現在、飛びつく思いがするほどうってつけだ。しかし、この本の出版は少し以前に遡る。それを知った上で読んだ。これまでJ・ダイアモンドの本はそれなりに齧ってきたが、正直なところ、いまいち私にはグッとこなかった。恐らくそれは取り扱われた材料が現代の国家、経済社会と乖離があったように、〝浅読みの私〟には思われたためだと思う。しかし、今度の『危機と人類』は、「危機を突破した7つの国の事例から、人類の未来を読む」もので、興味深い記述の連続であるだけに、極めて読みやすい。ただし、残念なことに、危機の原因として「感染症」が真正面から取り扱われていない。これは致命的な欠陥ではないが、大いに不満を持ってしまう▲俎上に乗った国は、フィンランド、日本、チリ、インドネシア、オーストラリア、ドイツ、アメリカの7カ国である。この選択には決定的な理由はないようだ。強いて言えば、彼がかつて住んだことがあったり、学問研究の上で興味を持った国々だということである。上巻で言及した4カ国は、2つづつ対になっている。前の二国(フィンランドと日本)については、共に周辺各国とは大きく違う言語を持つ国で、外敵の脅威からもたらされた危機をどう乗り切ったかが共通する。後の二国(チリとインドネシア)は、共に独裁的指導者を持った国であるが、内部の破壊原因にどう対処していったか、という切り口が同じである。ただし、フィンランドはソ連(ロシア)一国との長きにわたる因縁関係が主たるテーマ(このくだりは圧巻)。日本は東洋の後発国家として、西洋列強との闘いが主題(これは平板)である▲また、下巻のオーストラリアは英国との主従関係の変遷が描かれ、ドイツは自らが巻いた災いのタネをどう摘み取っていったかが明かされている。アメリカは現代世界の先駆を行く国として、〝これからの危機〟が問われており、強く引き込まれた。とりわけ、アメリカにおいて、合意をするための妥協が近年出来にくくなっているとの指摘には考えさせられる。トランプ大統領の登場を待たずとも、共和、民主の両党の間の亀裂は相当に深刻なことは想像できよう。分断は深く、広くこの国の前途を危うくしている。また選挙の投票率が大きく落ち込んでいる状態が続いていることも。アメリカのすぐ後を追う傾向の強い日本の明日の姿を見るようで他人事とは思えない▲しかし、新型コロナウイルスが蔓延する状況の前と今では、全く「人類の危機」という視点が違って見える。読んでいて、ここで扱われていることは、どうしても今は切実感を伴わないのである。第二次世界大戦以来の危機とも言われる事態の中で、大きな課題の一つは、民主主義と独裁主義との軋轢であろう。共産主義独裁という国家的形態を持つ中国が感染症を押さえ込む上で効力を発揮するのか。民主主義の自由が結果的にウイルスの自在を許すことになるのか。例えばこうしたテーマが、今再びの暗い影を地球の前途に投げかけてきている。著者は、人類の危機を歴史的に分析する手立てとして、個人的危機と国家的危機の両面を挙げる。それぞれの帰結にかかわる要因として12のポイントを上げており、興味深い。その手法を生かしながら、新型コロナがもたらす自分自身の危機と日本の危機を考えるよすがにしたい。(2020-4-11)

 

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