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名外交官の道を飛び超えるためにー高橋みつお『世界を駆けた、確かなチカラ。』を読む

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華麗なる比喩の乱舞に潜む寓意ー村上春樹『騎士団長殺し』一部、二部を読む

『騎士団長殺し』という村上春樹の小説のタイトルがずっと気になっていた。文庫本発売を待って、このほど読み終えた。例のごとく、通常の小説を読む感覚では到底わけがわからない〝村上ワールド〟の披瀝なのだが、読み出すと結局吊り込まれてしまう。そして、読み終えての後味は悪いようで良いような、とても複雑だ。いつものことだ。「古い祠から開いた世界の輪」 が広がって、鈴の音がどこかから不気味に聞こえ、絵の中から身長60センチほどの騎士団長が出てくる。地下の迷路や三途の川めいた〝あちら側〟のようなところで「顔のない男」に出くわし、また〝こちら側〟に戻ってくる。村上春樹って小説家を巡っては、過去に大江健三郎や柄谷行人、蓮實重彦といった錚々たる小説家や批評家がこぞって批判の矢を浴びせたものである。だが一方でこのほど亡くなった評論家の加藤典洋さんのように最初から評価する人も少なくない。勿論、海外におけるファンは圧倒的に多い。こうした狭間にあって、私自身の評価はやじろべいのように右に左に揺れ動く▼随所に顔を出す音楽の幅広い知識。絵画についての造詣の深さ。凡庸なる身には計り知れない芸術的嗜好。そして登場人物の生活習慣のありようの特異さの描き方。着ているものから、乗る車や部屋の佇まいに至るまでの書きぶりは印象深く心に残る。そういうところに出くわすと、思わずその該当箇所に付箋を貼ってしまう。尤も、人妻と主人公とのセックス場面の精密極まる描写には年甲斐もなくどぎまぎする。いや正直それを通り越して辟易する。小説だからこういう濡れ場を出さないと読み手に飽きられることを、この人も恐れるからなのだろうか。いつも性懲りも無くせっせと描いてくれる。この辺り常に変わらぬ小説家的商法に見えてしまう▼それにしてもこの著者の比喩の使い方には感心する。多彩に展開される比喩の乱舞は見事だという他ない。暇があったら、村上春樹・比喩類例集とでも云うようなものを作ってみたい気がする。新聞記者として長年文章修行をしてきたものは簡潔さを旨とするため、どうしても美的要素は後回しにしてしまいがち。ゆえに、比喩の使い方がなかなか上手くならない。村上春樹の文章は小説家の書くものとして見事なお手本である。比喩と似て非なるものとしての暗喩や寓意の華麗なる散りばめ方については、もはや分別不可能なものにわたしには見える▼先日、村上春樹氏の作家生活40年を記念して、共同通信社が『騎士団長殺し』を巡ってのご本人へのインタビューを試みた。そこでは「意識の底にあるものを探求していくことが自然にテーマになってしまいます」と語り、「意識を掘っていくと、その底にあるのは一種の魑魅魍魎です。そういう暗闇の中から何を引っ張り出してくるのかというのは、最終的には勘に頼るしかない」と興味津々たる手法を披瀝している。つまりは村上春樹をどう読むかは、心理学の仕事であり、宗教や神話の世界によるアプローチが最も有効かもしれない。と、ここまで書いて、ひょんなことからNHKカルチャー講座「文学の世界」における心理学者の河合俊雄(京都大心の未来センター長)さんの、この本の読み方を音声で聴いた。なるほどと思わせられる。さてさて、村上春樹は「むずかしい」(加藤典洋)のだが、それでいて「くせになる」(清水良典)。(2019-6-1)

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リアルに暴く大統領選の内幕ー小川聡、東秀敏『トランプ ロシアゲートの虚実』を読む

たまたま訪れた姫路市図書館で、お勧めコーナーに置いてあった数多の本の背表紙に、友人の名を発見した。小川聡読売新聞前アメリカ総局長である。随分と会っていない。その著作『トランプ ロシアゲートの虚実』を、久しぶりに貰った手紙を読むように貪り捲った。もう15年余りも前のことだが、公明党担当記者だった彼と付き合った。外交、安全保障分野に強い関心持つ学究肌の青年記者との懐かしい日々が蘇る。ドナルド・トランプ米大統領の〝弾劾に至る病〟とでも云うような実態が克明に記されたこの新書は、「分断」に喘ぐ現代アメリカを理解する上で格好の手引き書である▼米大統領といえば、我々の世代では若き日にジョン・F・ケネディに憧れの後の悲しみを抱いたり、リチャード・ニクソンに驚嘆の後の失望を抱いたものである。長じては、ビル・クリントンの下半身のふしだらさに呆れたり、バラク・オバマの毀誉褒貶の激しさに舌打ちもしてきた。それでも建国二百五十年の気鋭の国の最高権力者にはそれなりの風格と権威が備わっているものだと信じてきた。ところが、ドナルド・トランプときた日には、不動産業で巨万の富得た、自分本位の金の亡者と云う他ないようなとんでもない人物なのである。加えて、大統領就任と同時に大きく浮上して日本でも連日伝えられてきたロシアゲートの不可解さ。一体何がどうなってるのかとの懸念を持ってきた人は多かろう。この本では複雑怪奇なその現実を小川氏が、米国安全保障企画研究員で米露関係に詳しい東秀敏氏とともに徹底的にほぐし、わかりやすく解説してくれている▼この本を読んで改めて分かったのは、トランプ氏は、実業家の頃からロシアに関心を持ってきており、「ロシアマネーとの特別な関係」は今に始まったことではないということだ。ロシアからすれば、かねて篭絡しやすい対象としての存在だった。大統領選出馬と同時にプーチン以下のロシアの関係者がほくそ笑みながら、勝たせようとしたことは想像に難くない。第1章のFBIとの対立から第5章の「米露冷戦2・0」に至るまで、登場人物の名前の煩雑さに苦労はするものの、固唾を飲む思いで一気に読ませる。ここでは、民主党ヒラリー・クリントン陣営の大統領選時に話題となったメール問題についても詳しく迫る。要するに〝どっちもどっち的〟側面が浮き彫りにされている。そんな「米国内戦」とでも云う他ない状況の中で、ロシアのサイバー情報戦の実態が描かれる。それは「デジタル時代の積極工作」であるとの指摘は実に興味深い▼新たな時代の戦争とも云える米露のせめぎ合いには、ため息をつくばかりだ。大騒ぎの末に結局は「弾劾が成立してトランプが辞任する可能性はかなり低い」との見立てには、冷静さの必要性を呼び覚まされよう。また、最終章の「『トランプ時代』の米国の読み方」でも、トランプの再選は容易ではないが、さりとて民主党がトランプに勝てる候補を出せるかどうかも容易ではないとの結論も、なるほどと思わせる説得力がある。この「事実は小説より奇なり」をあたかも地でいく面白さというと不謹慎かもしれないが、読み終えて確かな手応えを感ずる。アメリカ政治のこれからを占う上で貴重な分析を提供してくれたこの二人のコンビの第2弾に期待したい。(2019-5-27)

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級友の大著を前にしてー小此木政夫『朝鮮分断の起源』を読む

大学を卒業して50年。先日、今年の新入生を祝う入学式(4月1日)に、半世紀前の卒業生として参列した。毎年恒例になっている行事だが、ついにその番が私たちにも回ってきたのである。級友・小此木政夫君はこの道50年の名だたる朝鮮半島問題の専門家であり、我が母校の名誉教授である。その日一緒に挑んだ懇親の場で、彼から『朝鮮分断の起源』なる書物を昨秋に出版したことを聞いた。知らなかった。読まねばと思う一方、某国立大のF教授が「小此木批判」を様々な著書で展開していることが頭をよぎった。これをどう考えるか、と思い切って問うたところ「そんなの知らないよ。彼はなぜ人のことを批判するんだろう。この本を読んでからにしてほしいよ」との返事がかえってきた。ということで、その著作を私も読む羽目になった▼600頁に迫る大著であり、金額も8000円ほどするゆえ、図書館で借りて読むことにした。姫路市立図書館で購入を希望したが叶わず、神戸の図書館から融通して貰うことで折り合いをつけることになった。通常のケースとひと味違う、朝鮮問題専門家同士の軋轢の〝因縁探し〟の試みとなり、それはそれで面白い経験ではあった。この書物は、全部で6つの章からなるが、5章までは過去に書いたもの(全て慶應義塾大学の「法学研究」所蔵分を部分的に手直し)が集められており、第6章と、プロローグ、エピローグだけがこの出版に際して書下ろされている。各章ごとに、「はじめに」と「おわりに」がつけられている。しかも、「はじめに」では、こと細かに著者の問題意識が、門前に市をなすかのように、次々と掲げられていて、とっつきにくい専門書にしては口当たりは悪くない。今回の出版に当たっての著者自身の意気込みが強く感じられる▼朝鮮分断の起源は、ズバリ「国際政治の産物」である。米国は戦後、朝鮮に四大国による信託統治を設定しようとしたが、それは同国のルーズベルト大統領にとって、「理念の世界と現実の世界を調和させるための試みだった」。しかもその試みの政策的核心は「ソ連との共同行動」にあった。それゆえ、米国との共同行動を是とせず、南北統一管理よりも「北」に自国に有利な橋頭堡を作りたかったソ連の思惑が常に災いせざるを得なかった。結局は「米ソ間の政策対立の深刻化が朝鮮分断を促進した」ということになる。読売新聞の書評欄でこの本を取り上げた国際政治学者の三浦瑠麗氏は、米ソ対立的側面に加えて「アメリカの理念主義的アプローチと朝鮮『独立政府』に対する懐疑こそが現在の朝鮮半島の構図を導いた」としている。そして、小此木氏の「内戦はいずれにせよ避けられなかった」との見方を提示しており、中々興味深い▼著者はあとがきで、「日本海軍による真珠湾攻撃から始まった本書の記述は、米ソ冷戦が開始され、1946年5月に第一次米ソ共同委員会が決裂した時点で終了している」ことについて、「さらに一章を執筆し、米ソ対立の拡大、左右合作と単独政府論、そして南北協商など朝鮮半島に二つの国家が成立するまでの歴史を見届けるべきであったとの悔いが残らないわけではない」と正直に述べている。わたし的には、さらにもう一歩進めて「内戦の起源」にまで立ち至って欲しかったと思われる。それこそ、F教授が小此木批判の根底に据えている問題ー朝鮮戦争の始まりをどう見るかと関連するからである。F氏は韓国批判の急先鋒であり、西欧哲学にも視野を広げる碩学である。一方、小此木氏は同半島に一貫して穏健な見方を提示し、この分野における少なからぬ弟子を輩出してきている名伯楽だ。私からすれば、いずれ劣らぬ名優であり、盟友でもある。二人の諍いは面白くなくはないが、座りは良くない。「日本現代史に関わる重要な展開を詳らかにした著作として確実に時代に残っていく」(三浦瑠麗)と称賛された本について、F氏の読み方を聞いてみたい。ともあれ、畏友がものした大著を前に、大学同期の〝散った桜〟として、未だ〝残る桜〟に思うことは少なくない。(2019-5-24)

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大坂の狸と狐への大岡裁断ー朝井まかて『悪玉伝』を読む

中西進さんといえば、『令和』の名付け親ということは今や公然たる秘密とも言えようか。万葉集学者にして文化勲章受章者である。私が専務理事を務める一般社団法人『瀬戸内海島めぐり協会』の代表でもある。その中西進さんは今総合雑誌『潮』の巻頭コラム波音に『こころを聴く』を連載中。三年半続いている。42回目となる今月号の「大岡、大坂を裁く」を読むと、朝井まかての『悪玉伝』によって小説化された江戸時代の辰巳屋騒動の話が取り扱われていた。恥ずかしながらこの小説はもちろん、この大疑獄事件のことも、作者の朝井さんのことも何もかも知らなかった。しかし、中西先生に会う必要性(それについてはブログ『後の祭り』に記載)が生じたことから急ぎ読んだ▼この小説、実に読ませる。炭を扱う大坂の豪商が死ぬ。その跡目を巡って、お家騒動が起こる。婿養子が差配できぬまま出奔。代わりに豪商の実弟が登場するも、それを良しとせぬ婿養子の親元が訴える。訴状を受けた大坂の奉行はこれを無罪とする。しかし、これを不服とする婿養子の側は江戸の幕府に直訴。その結果、大岡判決で逆転し、実弟は島流しになる、というのがあらすじ。逆転判決を下したのがかの有名な大岡越前守。小説は逆転に至るまでの獄中における壮絶な状況が実にリアルに描かれる。牢名主以下の何ともはやえげつないの一語に尽きる虐めの数々。女性とは思えぬ、いや女性だからこそか。物凄い迫力の場面が続く。久しぶりに興奮した▼ただ、中西進先生は、今回のコラムにおいて、この贈賄事件の一部始終がこの小説における力点ではないと言われる。「わたしの見るところ、一度大坂の裁判で無罪ーつまり正統と思われるものが、江戸奉行の裁判では有罪になるという、一種の、かけ違いの価値観が小説の中心ではないか」と。しかも、この二つの訴訟における二人の奉行の違いは「江戸が重んじた形式の正しさと、大坂が重んじた実効の大事さ」にあったとされる。「結局、江戸奉行が、大坂で敗訴となった訴えを、血統論理で勝訴にし直したのがこの事件だった」とし、しかもそれを今の時代における皇室の男系男子重視論に敷衍される。「『皇室典範』は武家論理の名残であろう」と。この辺りの展開の仕方は実に鮮やかである▼贈賄事件の顛末に眼を奪われきったわたしなど、この『潮』における先生の一文を読まなければ到底思いつかなかった着想である。いささか深読みが過ぎるのではないかとの思いがせぬでもないほどである。かつて衆議院憲法調査会の場で、女性天皇を認めるべし、との主張を披瀝した身としては、中西先生の指摘に少なからず同調するものではある。「武家論理の名残」が幅を利かす昨今の風潮の前に百万の味方を得た思いも。ただし、大岡裁断の相手はどちらも大坂。かたや大坂そのもの、もう一方は江戸風大坂。で、後者に軍配を挙げたことになる。わたしの見るところは、大坂の狐と狸の馬鹿しあいに対して、喧嘩両成敗をしたかに見える。(2019-5-17)

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若者の自殺願望と足尾銅山事件が背後にー夏目漱石『坑夫』を読む

「漱石全集」(岩波書店版)も読み進めて第5巻になった。ここでは『坑夫』と『三四郎』がセットとなっており、学校時代に突然に授業が休講になったように、嬉しい気分に浸れた。『三四郎』はこれまで、二度ほど読んでいるので、今回は読まずとも済むからだ。これまでの長い間、『坑夫』には手をつけないできた。ようやく一気に読んだ。前回いささか手を焼いてしまった『虞美人草』や、漱石の青春ものの決定版『三四郎』と違って、さらっと読めた。これが書かれた明治40年あたりというと、世に有名な「足尾銅山事件」があった。その背景をリアルに描いたものとしても印象深い▼「さっきから松原を通ってるんだが、松原と云ふものは絵で見たよりも余っ程長いもんだ」と始まる絵画的な書き出し。ポン引きと出くわした主人公が銅山へと連れて行かれる奇妙な道のり。世を儚み、家出をして死に場所を探す19歳の男がズルズルと、この世の地獄に嵌り込んでいく過程は妙に惹きつけられる。地獄には通常通りの鬼がいて壮絶な苦痛を味わう。だが、思わぬ仏にも出くわして生きる意欲に覚醒する場面には心打たれる。明治36年5月に栃木県日光山中の華厳の滝に投身自殺したかの有名な藤村操は、漱石の教え子だった。当時の社会的背景に対する漱石の厳しい思いも伝わってくる▼若者が安易に選ぶ死に対して、漱石はこの小説を通じて教え諭したとの側面はあろうが、注目されるのはさりげなく盛り込まれた次のくだりだ(十八節)。「寝ると急に時間が無くなっちまう。だから時間の経過が苦痛になるものは寝るに限る。死んでも恐らく同じ事だろう」ーしかし、死ぬのは難しい。「凡人は死ぬ代りに睡眠で間に合せて置く方が軽便である」ー確かにそうだ。しかし、そんなことで間に合わない場合はどうする。「本当に煩悶を忘れる為には矢張り本当に死ななくっては駄目だ。但し煩悶がなくなった時分には、又生き返り度くなるに極ってるから、正直な理想を云ふと、死んだり生きたり互違にするのが一番よろしい」ー冗談ではない。死ぬほどの目にあってこそ生への思いも募ってくると云いたいのだろう。更に、人は溺れかかった瞬間に過去の一生を思い起こすとの挿話を述べたところも興味深い。走馬灯のごときものを見て初めて「自分の実世界に於ける立場と境遇を自覚したのである。自覚すると同時に、急に厭な心持になった」ーここは痛烈に我が身に堪える。今私は「回顧録」をHPに書いているが、実はこの「自覚」から始まっているからだ。但し「厭な心持」は書いてるうちにおさまった▼『坑夫』を巡っても、例によって『漱石激読』を開いてみる。石原千秋と小森陽一両氏は、『坑夫』は「坑夫にならない過程を過度に描写した小説」で、「意味の引き延ばし」をしていると云う。それは、「『虞美人草』において最後に意味を収斂させることに失敗した漱石にとって、ぜひやらなければならないプロセス」であり、それを「書いたから『虞美人草』の失敗から立ち直れた」と。新聞小説として、「それぞれの日の終わり方が、翌日に関心をつなぐ技としてもいちいちみごとなのです」と、小説の区切り方を体得し、連載の技術を学んだ漱石を称えている。更に、面白いのは、石原が『婦人の側面』という正岡芸陽の明治34年の文章を引用しているところ。「女は到底一個のミステリーなり。それいずれの方面より見ると、女は矛盾の動物なり」と。「矛盾」という表現が『坑夫』に頻繁に出てくるのは、「時代の言葉」ゆえと分かったと気づいた、と。「漱石が『三四郎』以降、女性を男性にとって「謎」の存在、つまり「矛盾」と書くのは『坑夫』があったから」だとも。要するに、『坑夫』は、「男に託して女を書いた」のであり、「漱石的『土佐日記』」であって、それだからこそ、『三四郎』における美禰子が書けたんだと、まで。評論家とは何だか偉いもんだと思わせられる。改めて『坑夫』の位置付けを納得するに至った。(2019-5-11)

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西洋批判と生命論に共感ー夏目漱石『虞美人草』を読む

平成から令和へ。違う年号を跨いで長かったゴールデンウィークも漸く終わる。この10日間のうちで、読み終えたものは、夏目漱石『虞美人草 』だけ。全集を順次読み進めてきて行きついたもので、これで漸く第4巻目である。明治40年に漱石が朝日新聞に連載小説を書き始めた第1作だとされる。長くて読み辛く、読後感も爽やかさとは程遠い。美文調ではあるが。中国古代に登場する「項羽と劉邦」の逸話における項羽の愛妾・虞にまつわる伝説ー別名ヒナゲシと呼ばれる虞美人草の由来は、それなりに面白い。漱石は題名に困って、偶々花屋の店先で見つけたこの花の名をそのまま拝借したというが、果たしてどうだろうか▼遺産相続をめぐるお家騒動の話であるとか、題名が女性主人公に絡むのはこの小説だけだとか、あるいは京都と東京の二都物語であるといった解説がなされており、読み終えたあとで知るに至った。漱石読破のよすがの一つに私がしている小森陽一と石原千秋のコンビによる『漱石激読』では、「読めば読むほど、怖い」との触れ込みである。残念ながら、私にはそこまで怖さが伝わってこない。せいぜい「読めば読むほど、分からない」ってところか。そのうち、再読、三読すれば、その境地に達するかもしれないが、今のところその気は起こらない▼ただ、二箇所だけは大いに惹かれた。一つは、西洋批判のくだり。留学中の漱石を苦しめ抜いた根源に対峙するようで、興味深い。登場人物に語らせる「無作法な裏と綺麗な表」の「ふた通りの人間」を持っていないと、西洋では不都合だとの指摘は、その最たるものだ。「是からの人間は生きながら八つ裂の刑を受ける様なもの」で「苦しいだろう」とか、「今に人間が進化すると、神様の顔へ豚の睾丸(きんたま)をつけた様な奴ばかり出来て」くるといった表現で揶揄しているところは流石に考えこまされる。とりわけ「日英同盟」を囃し立てる当時の風潮に対して、「まるで日本が無くなった様ぢゃありませんか」とまで。西洋文明の激流に飲み込まれるだけではならず、日本古来の歴史と文化、伝統に誇りを持てとの漱石の主張は、百年後の今日一段と読むものの胸に響く▼もう一箇所は、最終章の末尾。生命を巡る哲学が顔を出す。「問題は無数にある」とした上で、どれもこれも喜劇であるとし、「最後に一つの問題が残る」と強調。「生か死か。是が悲劇である」と。しかも「普通の人が朝から晩に至って身心を労する問題は皆喜劇である」と述べて、人生最大の問題である死について人は考えることを避けて生きていることに警鐘を鳴らす。漱石は、小宮豊隆宛の書簡で、「最後に哲学をつける。此哲学は、一つのセオリーである。僕は此セオリーを説明する為に全篇をかいてゐるのである」と述べていて迫力がある。最末尾の、ロンドンからの手紙の一文「此所では喜劇ばかり流行る」は、痛烈な西洋へのあてつけか。尤も、悲劇の重要性を強調するだけで、その哲学の中身がもっと披瀝されねば、此所も彼所も喜劇ばかり、ということになりかねない、と私には思われる。(2019-5-6)

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もう一つの明治維新ー野邊地えりざ『紅葉館館主 野邊地尚義(のべちたかよし)の生涯

あまたいる私の友人の細君たちのなかで、本を執筆、発刊した人は今までいなかった。そこへ「家内が本を出したので、読んでくれれば嬉しい」と、大学同級の友・青木聡君から送られてきた。野邊地えりざ『紅葉館館主 野邊地尚義の生涯』。サブタイトルにー明治の民間外交 陰の立役者ーとある。著者は青木の妻君で、本名は智子さん。我々は大学を出てちょうど50年になる。この20年あまり、熱心な3人の幹事のお陰で、毎年一回東京でクラス担任だった小田 英郎先生を交えクラス会を続けている。20人ほどが集まる会の、青木も私もほぼ常連。親しい仲だ。智子さんとは一度会ったことがあり、かの有名な雙葉学園出の才媛(大学は慶応)であることは知っていた。ご先祖が高貴なお方とは聞き及んでいたが、野邊地尚義の玄孫に当たるとは知らなかった▼頂いてより一気に読んだ。力作である。歴史エッセイとして一級品だ。岩手に、京都にと、尚義の足跡を追って足を運ぶ。国会図書館始め各地の図書館に資料を求め、丹念に読み解いた結果が見事に蘇り、読むものの興を唆る。わたし的には、時折顔を出す、著者のルポ風の書きこなしが特に気に入った。京都の盛岡南部屋敷跡に立ち寄ったあとで、近くの割烹に入って食事されるくだり。これはもう最高。ご本人のその時の気分も巧みな表現で盛り込まれ、読んだこちらも行って見たくなるほど。他にも随所に著者の人となりの麗しさが嗅ぎとれ、興味深い▼じつは、恥ずかしながら、野邊地尚義を知らなかった。野辺地町という地名は知っていたが。そして、紅葉館なるものの存在も。本を読み終えてのち、ものの本を開くと、「蘭学者、英学者。日本の英学教育の始祖である。日本で最初の女学校である『新英学院 女紅場』を京都に創設した。芝・紅葉館館主を29年間勤め、明治の民間外交の陰の立役者となる」とあった。うーん。これほどの人物を知らずに、明治150年がどうしたこうしたとよく去年は書いたり喋ったりしたなあと、心底から反省する。津田塾や鹿鳴館は知っていても‥‥。この本を読んで大いに認識を新たにし、知識を深め、広げることが出来た▼高級な社交場としての紅葉館と並んでこの本に登場する鳩居堂は蘭学塾。両者共に、尚義とのゆかりは深い。ただ、鳩居堂といえば、京都や銀座にある有名な書画用品、香の老舗を想起する。一方、紅葉館が元は東京タワーの立つすぐ傍にあった(戦争で灰燼に帰す)と聞くと、今その近くにある懐石料理店『とうふやうかい』を思い出す。現役の頃、ここを時々訪れ、その庭の美しさに感嘆したものだ。この著作の中に登場する紅葉館の佇まいには遠く及ばないだろうが、ひょっとして、この店の創業者の頭には紅葉館のことがあったのかも。この辺りのことについてこの本で触れて欲しかったとの気はする。ともあれ、自分の無知を恥ずかしくなると共に、著者が羨ましい。野辺に咲く雑草のような無名のご先祖しか持たない身にとって、こんな素晴らしいご先祖の足跡、業績を辿れるなんて、凄いと。ぜひ著者には引き続き新たな歴史散歩風エッセイを書いて欲しいものだ。(2019-4-27)

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高まった興奮後のいささかの失望ー横山秀夫『ノースライト』を読む

横山秀夫の本にはいつも興奮させられる。『動機』『クライマーズ・ハイ』『第三の時効』『半落ち』『64』などから、数多い短編にも。今回数年ぶりに満を持して書かれた『ノースライト』も、読む前からのワクワク感があった。予想に違わずグイグイと引き込まれた。実在した建築家ブルーノ・タウトの影を追いながらの筋立ては、いささか高級感が漂い、これまでのものとは趣が異なる。その分一層謎解きへの興味は高まる▼この物語は、建てられた邸に注文主が入った痕跡がないまま姿を現さないという謎に、建築士が挑む形で進む。それに加えて、建築士の夫婦の離婚、そして娘との交流というお馴染みのパターンが加わり、さらに、彼が縁あって雇われる友人のちっちゃな建築事務所の建築コンペでの大事務所との競争という要素が絡む。この筋立てのなかに、タウトが作ったと思われる椅子の由来が浮かぶ▼全体を通じて、殺しの場面や血生臭さはない。死も、殺人ではなく、事故死か自殺かとの差異をめぐるものがメインだ。更に、辛うじて怪しげな男の存在が随所に影を落とすものの、恐怖感はさしてない。トーンとしてはどこまでも優しい。後半になって注文主と建築士の双方の父親の過去が顔をだし、急展開していく。基底部に「鳥」の存在があり、九官鳥が重要な脇役を演じるのは面白い。更に遺児のために父親の建築物を遺すとのくだりには胸打たれる▼こう書いてくると、お察しのようにいささかこれまでの横山作品と比較すると、物足りなさは覆いようがない。しかも、導入部で重要な役割を果たした椅子がなぜこの邸に持ち込まれ、そして残っていたのかの説明がない。読み終えて妙に気懸りである。わざと余韻を残すためか、はたまたこちらが読み落としたのか。だが、こういう推理小説もいいかもしれない。これなら自分にも書けるかもしれないという無謀な思いを抱かせる分、読者に限りなく優しいように思われる。(2019-4-25)

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昭和最後の父親像ー宮本輝『野の春』ー流転の海第九部ーを読む

私の妻はあまり本を読まない。正確にいうと、読んでるところを見たことがない。その彼女がこれまで読んだと思われる数少ない本が宮本輝さんのものだ。私も彼の本はそれなりに読んできた。この人は知る人ぞ知る創価学会文芸部員出身。作家としての手ほどきをしたのは、同文芸部草創の指導者・池上義一さんだ。『流転の海』の最終巻である『野の春』を書き終えた後、聖教新聞のインタビュー記事(昨年12-19付け)に小説を書く上での転機になったのは、人生の師匠である池田大作先生のあるスピーチに出合ったからだと述べていて興味深い▼『流転の海』はともかく長い。37年越しで著者は書き上げた。書くのも勿論大変だが、読む方もしんどい。著者の輝さんにとってこの本は、「家族伝」だから、思入れもひとしおだろう。それに付き合う読者は、よほど輝さん好きでないとついていくのに苦労する。私と輝さんはほぼ同世代なんで、この本を読み進めるにあたって、最初の頃は自分と彼の生い立ちを比べる気持ちが無きにしもあらずだった。しかし、途中でそれをやめた。あまりにも境遇が違うーとりわけ父熊吾の生き方ーからである。小説だから当然創作部分が入っていようが、大枠は変わるまい。こんな魅力溢れる男っているのか、というのが率直な思いだ▼全9巻を通じて何を一番強く感じたか。わたし的には、一言で言えば、「ほんとかよ。こんな親父っている?」というもの。しばらくして、「昔はいたろうな」ときて、最後は「団塊世代の親は、子の育て方を知らないままきたな」いう風なところで収まる。昨今の日本の、とてつもないくだり坂の風潮の原因は、団塊世代が子どもをまともに躾けてこなかったからだとの説がある。自分の子に対する姿勢を含めて、概ね賛同する。輝さんの親父熊吾は、別に口先だけで躾けめいたことをしたり、言ったりしたわけではない。全存在をかけて子供に自分の背中を見せて生きてきたのである。そういう親父とそこに反発しながら寄り添う母親を見ながら育った輝さん。この辺り、彼の今があるからこそ同調出来る▼ただ、私の率直な感想は息子・伸仁の描き方つまり輝さんの自画像が物足りない。20歳までだからこういうものなんだろうが、いささか遠慮しすぎでないかと思われるほど、影が薄い。我々と同世代の評論家・川本三郎は、毎日新聞の書評(2018-12-9)で「一人の偉大な大庶民の死は胸を打つ。男性作家が父親をこれほど魅力的に描いたことは特筆に値する」と結んでいる。私はこの父親像はどこまでが本当の事実で、どこからが創作、つまりウソなのかが気にかかる。もし、殆どが本当だったら、大変な父親だし、そうでなかったら、大変な息子だと思う。これっておかしな読み方だろうか。輝さんに本当の自伝を書いて貰いたい気持ちが読み終えた今高まってきている。(2019-4-22)

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