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新首相の眼には目をー塩野七生『マキャヴェッリ語録』を読む

菅義偉首相がマキャヴェッリの本を愛読していると知って、本棚から取り出して塩野七生の『マキャベッリ語録』を改めて読むことにした。彼を解くカギをそこから探ろうとしたのである。『君主論』でも『我が友マキャヴェッリ』でもなく、読みやすい『語録』にしたのはご愛嬌。塩野七生さんといえば、日本の政治家は彼女の『ローマ人の物語』を読む人が多い。その流れに先鞭をつけたのは中曽根康弘内閣を支えた後藤田正晴官房長官だったと記憶する。恐らく菅さんも安倍晋三さんを支えながら、塩野さん描くところのマキャヴェッリに思いをいたしたものと勝手に連想する▲菅首相を巡っては、国家観がないとか、薄っぺらだとかの辛口の評価がなされる一方、たたき上げの苦労人で、庶民感覚に根付く政策立案に長けているとの甘党の見方もある。ともあれ高い支持率の出発で、解散総選挙に踏み切る公算が日増しに高まる。先日上京して元官僚や元ジャーナリストら、練達の士たちとの意見交換をしてきたが、今解散に踏み切らずしていつやるのか、との見立てが支配的だった。新型コロナの感染状況の推移がカギを握るものの、そのデータの扱いなど、いかようにも操れるというのである▲この本を読みつつ菅さんの心中を慮るのも一興ではある。「信義を守ることなど気にしなかった君主の方が偉大な事業を成し遂げて」おり、そのためには「人間的なものと野獣的なものを使い分ける能力 」を併せ持つことが大事だとしているくだりは最適の箇所かもしれない。塩野さんは、野獣といえばライオンと狐に注目すべきだとして、この二つを使い分けることに力点を置く。「狐的な性質は、巧みに使われねばなら」ず、「非常に巧妙に内に隠され、しらっぱくれてとぼけて行使される必要がある」と。この辺り、新型コロナ禍と解散総選挙の時期を見る上で絶好の教材になろう▲いやもっと菅さんの心境を計るに足りうるところは、「運命をめぐる論議」のくだりかもしれぬ。「運命は変化するものである。それゆえ人間は、自分流のやり方をつづけても時勢に合っている間はうまくいくが、時代の流れにそわなくなれば、失敗するしかない」という箇所だ。安倍首相を支えたこれまでの時間と、引き続き菅さん自身が政権を運営するこれからの時間とが連続する。これが吉と出るか、凶と出るか。菅さんには懸命の思案が必要だろう。塩野さんは、「慎重であるよりは果敢である方がよいと、断言」している。慎重居士で行くか、勇猛果敢に挑むか。この見極めは新首相の、その一風変わって見える眼に目をむけるしかない、と私は思う。全ての日本人が首相の眼に目を凝らす日々が続く。(2020-9-19)

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悪いも良いも全てが暴かれたー門田隆将『疫病2020』を読む

新型コロナウイルスによる肺炎の患者が日本で初めて確認されたのは、2020年1月16日のこと。武漢から10日前の1月6日に帰国した30代の中国人だった。中国は23日に武漢市を封鎖する。その3日後の26日に、日本の厚労省は、ホームページに「新型コロナウイルスに関するQ&A」を公表、「ヒトからヒトへの感染は認められるものの、感染の程度は明らかでない。過剰に心配することはない」との緩やかな見方を示す。著者・門田隆将は、コロナ禍事態への対応について、信じられないほどの〝悪意に満ちた中国〟と、〝善意に満ちた日本〟を対比させつつ、一気に読ませる。発刊されてから2ヶ月余り。気にはなりつつ、「あること」が災いしてわざと読むのを遠ざけていた。親しい友人から勧められたこともあり漸く読んだ。その迫力溢れる筆致に圧倒された。遅かったと、後悔する我が身を恥じるのみ▲この本の凄さは、門田が自身のツイッターでの発信をベースに置いて、克明に事態の進展を追い、歴史の中にしっかりと跡付けし、読者へ提示していることである。最初のそれは、1月18日付け。武漢の新型コロナウイルス対策で、米国CDC(疫病対策センター)がまるで映画『アウトブレイク』のようだとし、日本も人民大移動が始まる中国の春節の前に徹底した対策を取るよう訴えている。その映画は感染症との戦いをダスティン・ホフマン主演で描いた話題作である。ツイッターとそれを補いつつ展開する論評は呆れるほど歯切れ良く見事だ。厚労省始め、日本政府の危機感の欠如や、およそ〝緩い予測〟の数々を披露し、中国で異変がいかにして起こったかを暴く。かつての失敗を教訓にした台湾の見事なまでの危機対応の処し方も見逃せない▲厚生労働省で僅かの間とはいえ、仕事をしたことのある私としては、耐えがたいほどの酷評に苛立った。同時に長きにわたって防衛省を担当した者として、自衛隊の獅子奮迅の活躍ぶりには溜飲を下げる場面も。したたかさを遥かに超えた中国政府の緊急事態への対応と、かの国の医療者や一般国民の懸命の戦いに目を見張る思いもする。共産中国という存在が、自由主義国家群との対決を鮮明にするに至った姿が浮き彫りになっていくあたりは、疫病対応を通じての最新現代国際政治学の生きた教材解説でもある。日本の政治、政治家の無能ぶりを散々こき下ろした挙句、ツイッターの最後を4月22日付けで、日本の死者数が欧米より圧倒的に少ないことを挙げ、医療従事者たちの自己犠牲の精神を持ち上げることを忘れていない。「医療崩壊ギリギリで持ち応える日本が先進医療大国であることは誇り」との結び方は多くの日本人をほっとさせる▲私が読むことを躊躇した「あること」とは何か。新聞広告での「総理も愕然『創価学会』絶対権力者の逆襲」との見出しである。目次にはこれに類するものは見られない。「混沌政界へ突入」と題する章に含まれているのだが、いかにも創価学会、公明党関係者を釣るためだけの餌のように見えて、その魂胆を卑しく思ってしまったのである。「絶対権力者」という表現にもその下心が否定できない。「国民一律10万円給付」は、公明党の若手議員たちが早い段階で主張してきたテーマである。それを受け入れるに至らなかった党執行部を不審に思っていた私は、支援団体・創価学会側から激しく責められて立ち上がるに至った経緯は口惜しく思える。そんなこんなで、読むに値しないと勝手に決めてしまった。巻末にある著者と佐藤正久氏(参議院議員)との産経『正論』5月号の対談収録も読ませる。「ひげの隊長」で呼称される佐藤さんの識見と胆力はただものでない。それにしても彼の〝政界内部告発〟には改めてため息の出る思いがする。関連年表共々しっかり目を通し、長く保存するに値するものだと付け加えたい。(2020-9-10)

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コロナ禍の読書ー放送大学の教材に取り憑かれる日々

コロナ禍におけるステイホームで一番私がはまったのは、放送大学のテレビ講義だということは幾たびか触れてきた。7月にそれが終わってから、今度は教材を買い求めて読んだ。私が取り組んだものは10講座ほどだが、そのうち、興味深く読んだものは3冊。それぞれ骨太で、中身は濃い。通常の大学の教材と違って社会人向けの赴きで、波及効果も多く、これからの生活に役立つこと請け合いである▲まずは、一押し。高橋和夫『中東の政治』。この人は他にも『世界の中の日本』『現代の国際政治』と、3講座を同時並行で講義しておられ、また『権力の館を考える』や特別講座にも顔を出されるなど、露出度ナンバーワン。卓越したスピーチ力とユーモア溢れる心配りの話術で魅了された。教材の方も、面白く読める。数多ある知識の宝庫とでもいうべき記述のうち、一つだけ挙げると、アメリカという国がいかに宗教国家であるかのくだり。アメリカの紙幣の全てに  IN GOD WE TRUST(我ら神を信じて)とあることを紹介したのち、キリスト教福音派と共和党との関わりを述べている。ブッシュ(息子)から、トランプへと受け継がれた共和党政権の背後にある信仰の力が興味を唆る。「二回の離婚経験と数知れぬ不倫の疑いに包まれた」トランプをなぜ福音派の人々は支持するのか。「全てを許す神は御業を行う手段として、トランプのような人物を選んだと考えているようだ」というのである▲次に私が強く魅力を感じたのは宮下志朗、小野正嗣『世界文学への招待』。親子ほど歳の離れた二人のオリエンテーションと最終講義での掛け合いは忘れがたい。小野さんのNHKの美術番組などでの活躍ぶりはかねて注目してきたが、この度の講義では実に堪能するものがあった。①文学は他者への共感を可能にする手段である②文学は世界の窓である③母語の感度を高める最良の手段であるーなどと言った世界文学への誘いの言葉も強いインパクトを受けた。15回にわたる現代世界文学を俯瞰する試みはとても一回の講義で習得できるものではないが、テキストを幾たびかなぞることで、大いに刺激を感じ、触発された▲三つ目は、吉田光男、杉森哲也『歴史と人間』。これも講義は私に強烈な印象を与えてくれた。ここでも最後の講師五人によるまとめが面白かった。草光俊雄の担当したメアリ・ウルストンクラフトという女性解放運動の先駆者については恥ずかしながら全く知らず、目から鱗の経験をした。一方、それなりに知っているつもりだった日本の津田梅子についても杉森哲也の解説で改めて開眼した。またモンテーニュをめぐる宮下志朗の講義は実に魅力的なもので、改めて『随想録』に挑戦せねば、との思いに駆り立てられる。ともあれ、「日暮れて道遠し」を突きつけられて、心中穏やかでないものの、「物事始めるに遅すぎることはない」を確信して、暑い日々を、涼しい思いで生きたい。(2020-8-28)

 

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この夏一番の収穫ー「グロ・リア」文学と「皮肉な毒舌」の機智

コロナ禍でのステイホーム。今年の放送大学前半の講義期間とほぼダブった。7月中旬で終了したが、印象に残っている教科の一つに『権力の館を考える』があった。御厨貴さんが中心となって日本から世界の権力者たちの住まいの実態に迫るもので、滅法面白かった。この先生は学問もエンタテイメントに仕上げる特異なタレントだと実感した。その中で井上章一・国際日本文化研究センター所長が登場した「関西の権力の館」が特筆される。かの『京都嫌い』なる本で一世風靡した、とびきりユニークな学者である。その井上先生が書かれた、先般亡くなられた井波律子(中国文学者)さんを悼む文章(朝日新聞「ひもとく」7-11付け)に、私の眼は釘付けになった▲ここで取り上げられていた井波さんの『中国のグロテスク・リアリズム』と『中国人の機智』を直ちに明石市立図書館で借りて読んだ。実に面白かった。それもそのはず、前者では「色事や悪事などが山あり谷ありの筋立てでドラマ化された作品」が紹介されているのだ。後者は、「文人たちのくりひろげた、命がけと言っていい当意即妙ぶり」が描かれていて興味は尽きない。実は私は「中国に文学と呼べるものはない。あるのはエロとグロだけ。〝恋と女の日本文学〟とは違い過ぎる」との〝超日本文学びいき〟の信奉者を自認してきた。その考え方のルーツがこの「グロ・リア」にあることを改めて確認できた。世にいう「エログロナンセンス」の原型だから、面白くないはずはなかろう。でも、「好きか嫌いか」と自問するまでもない。過ぎたるは及ばざるが如しで、読み過ぎると中毒になりそうだからご注意を▲中国人の持つ機智の源泉が『世説新語』にあることは知らなかった。魏晋の時代の名士のエピソードを軸に中国的な機智表現の特色を探ったものだが、毛沢東と魯迅に及ぶくだりが圧倒的に読ませる。二人のものをめぐっては一通り眼にしてきた。巨大な国の原型を作った二巨人の真実に改めて気づかされた。かつて憎からず思わないでもなかった恋人と、よりを戻したくなるような思いに駆られそうだ。今更、毛沢東でもないだろうと言われそうだが、「卑近な事象を比喩とし、懇切な説明を加えて、説得論理に貢献させる」とか、「文章表現自体も、いちいち念が入りすぎて、そこはかとないユーモアが漂う」と言われると、あばたもえくぼどころか、整形手術をしたかのような錯覚を抱いてしまう▲「私は往々自分の嫌う人に嫌われる人を善い人だと思うときがある」と言った魯迅は、「むしずが走るほど中国がきらいだ、という人がいたら、私は心からの感謝をその人に捧げたい。なぜなら、その人はきっと中国人を餌食にはしないだろうから」と、逆説的、反語的表現を好んで用いた。「事の真相を抉り出さねばやまない風刺性に富む」魯迅は、「皮肉な毒舌家」でもあった。なんだかそれって、井上章一さんではないかと、思ってしまう。御厨、井上コンビの放送大学講義から、井波律子さんの本へと飛び、「グロ・リア」文学から毛沢東、魯迅の機智に及んだ。いつもの如く勝手な連想ゲームに誘い込むなと怒られそうだが、読み手の側としては大いに満足出来たのだから仕方ない。この夏一番の収穫である。(2020-7-29)

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「青年」と「政治家」に思いを馳せ、「人情」の機微を味わう

コロナ禍中に「ステイホーム」が叫ばれていたこの数ヶ月というもの、私は幸運なことに放送大学講座に嵌った。授業料も払わずに聴講生として11講座を見まくって、このほど15回分がほぼ全て終わった。1講座45分なので、123時間テレビを見ていたことになる。いやはや、充実した時間を持てて満足している。様々な専門家と画面を通じて知り合ったが、『方丈記と徒然草』を担当された島内裕子さんは、仏像のようなふくよかなお顔の立派な先生だ。この講座から学んだことはおいおい語ることになろうが、偶々講座外で放映されたもので印象に強く残ったのが森鴎外の小説『青年』についての解説である。島内さんが主人公・小泉純一の小説の中の足取りをそのまんま追う試みは平凡ながら妙に新鮮だった。早速文庫本を買って読んだ。漱石の『三四郎』に見合う、鴎外の青春ものといえば『青年』とくる、とはつゆ知らなかった。この2冊が日本における最初の教養・発展小説とのことだが、「人間いかに生くべきか」という根源的テーマと、後期高齢者のとば口に立つ私が改めて真正面から向き合うことになった。それはそれで様々な意味から興味深かった。『三四郎』を読んで『青年』を読み忘れたが故に、私の人生はいびつだったのかもしれない、と▲この期間に私が出会った人物で忘れがたいのが、作家の高嶋哲夫さんである。先だってこの欄でも紹介した『首都感染』の著者である。神戸在住であり、私が友人と共催する「異業種交流ワインを飲む会」をオンラインで開催したところ、二回続けて参加された。先月はようやく直にお会いすることが叶った。その際に、ご本人から次はぜひ『首都崩壊』を読んで欲しいと勧められた。これは首都直下型地震の恐怖を描く一方、首都移転への具体的手筈が克明に明かされていく。この作家の描く未来予測はことごとく的中してきていることから、この課題も急にリアルを伴って読めるから不思議だ。私が現役時代に首都移転が話題になったが、いつの日か沙汰止みになり、誰も話題にしなくなった。しかし、今読んでみて、政治家諸氏は真剣にこの本を読むべきと思う▲ついで、読み終えたのが、浅田次郎の『流人道中記』上下である。これも先般、読書録に取り上げた『大名倒産』上下を勧めてくれた友人から借りて読んだ。欧州モダニズム文学の愛好家兼小説家の諸井学さんは、浅田次郎のような人情ものばかり読んでいると、歯応えのあるものは食えなくなるかのように言う。で、しばらく敬遠していたが、頃合いを見計らって読むとやはり堪えられない。尤も、この本も他のものと同様に冗漫さは感じざるをえず、2冊に分けずともいいのではないかとの思いは募るのだが。とはいえ、やはり話運びは絶妙だ。演歌の上手い友人と一緒にカラオケに行った時のように、ほとほと感じ入ってしまう▲今私は『日常的奇跡の軌跡』なるタイトルで回顧録を書いている。平成元年からほぼ25年間にわたる政治家生活を振り返っているのだが、その間に書いた読書録(『忙中本あり』)を紹介せざるを得なくなる場面がある。本を読むのが好きで、かつそれを評論することにのめり込んだ自分に呆れる。こんな生活をしていて本業が疎かにならぬ方がおかしいとさえ思う始末である。今、政治家の仕事から解放されて、自由に本が読めるようになったのだが、その実、あまり読めていない自身を発見して苦笑せざるを得ない。なんのことはない、「閑中本なし」なのである。(2020-7-11  一部修正=7-12 再修正=7-14)

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コロナ禍中に読んだ『クンバハカ』『白鵬』『麻薬』本の味わい

新型コロナの第一波が過ぎたかに思われる今、次第に日常が取り戻されつつある。大きく言えば「経済のV字型回復」への待望論が鎌首をもたげ、身近なテーマで言えば「生活習慣」が棚卸しされかねない状況である。緊急事態宣言直後、文明論が喧しく論じられ、価値観の転換を説く向きも少なくなかった流れが忘れ去られないのかどうか。大いに懸念される。このコロナ自粛の期間、あれこれと軽重問わずつまみ食いならぬチョイ読みをした。そのうち尊敬する大先輩や友人が出版した本3冊を紹介する▲まずは合田周平・電気通信大学名誉教授による『中村天風 快楽に生きる』。合田さんは財団法人天風会の元理事長。「天風哲学」の実践者・中村天風先生の愛弟子である。天風先生の箴言集の後にまとめられた「心身壮健ークンバハカの実践」が興味深い。クンバハカとは、「肛門」を締め、同時に「肩」の力を充分に抜いておろし、さらに「下腹部」に力を充実させる呼吸法。「肛門を締めると気分が全然違ってくる。怒りそうになったらキュッ、悲しくなったらキュッ、これだけで心が傷つかなくなる」と言う。お試しあれ▲次に、浅野勝人・元内閣官房副長官の『孤独なひとり旅 白鵬関とのショートメール』。浅野さんは衆議院議員を辞されたあと、一般社団法人「安保政策研究会」理事長を務める。横綱白鵬の熱烈な支援者で、陰に陽に白鵬を激励(主にショートメールで)し続けてきた。一般的に白鵬は立ち合いのかち上げやら、優勝時の土俵下での万歳の音頭取りとかで評判はよろしくない。しかし、これを読むと目から鱗が落ちるように、真反対の大相撲の守護者としての白鵬が立ち現れてくる。私は高木彬光の名作『成吉思汗の秘密』からくる〝夢に満ちた神話〟をもじって、「義経の末裔・白鵬」と持ち上げたい▲最後に、山本章・元厚労省麻薬課長の『「奇跡の国」と言われているが‥ どうする麻薬問題』を紹介する。クスリを語る際にこの人は外せない。彼が先に世に出した『医師がくすりを売っていた国 日本』は全ての薬剤師、くすり愛好者必読の本だと思う傑作である。今度の麻薬本はまたとんでもなく面白い。幸か不幸か、麻薬の怖さがリアルに伝わってこない分だけ、不謹慎にも試してみたくなるほど。偶々少し前に彼の仲間の厚労省の麻薬取締官・瀬戸晴海さんが書いた『マトリ』が話題を呼んでいるが、併せ読むと立派な麻薬通になること請け合いである。(2020-6-25)

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キリスト者の人生の終焉をめぐってー曽野綾子『死学のすすめ』を読む

キリスト教カトリックを信仰していた人の葬儀に一度だけだが、出たことがある。率直に云って、芝居がかっているというか、大袈裟な印象を受けた。それに比べると仏教の場合は概ね簡単素朴だ。僧侶の読経が中心で、賛美歌に類するようなものもない。作家の曽野綾子さんは著名なキリスト教カトリック信徒だが、かねてあれこれと死の迎え方をめぐる文章を著しており、その集大成とでもいうべきものを出版されたので、読んでみた。幾つか印象に残ったことを紹介したい▲まずは、死に際しての宗教比較から。「カトリックのお葬式が一向に暗くない」ことを曽野さんは挙げているが、それは亡くなった人が「自分に与えられた仕事を果たして死んでいった場合」だとしている。聖パウロも晩年の心境は「走るべき道程を走り終え、信仰を守り抜き」きった状態だった、と。また、「聖パウロのように自分の人生を生き切った人」のお葬式で、「思わず笑顔がでる」とも。お葬式が暗くないのも、笑顔がついでてくるというのも私たち日蓮仏法徒も変わらない。神の存在を強調されている点だけが違う。他人との比較でなく、その人なりに精一杯やったかどうかを測定できるのは神だけで、神は「完璧に正確で繊細な観察者で」、「神の測定はまことに真実で個性的なのです」、と。尤も、これも神を御本尊に置き換えれば同じことかもしれない▲次に、最も私が共感したところを。「ユーモアは人間の最期にもっとも相応しい芸術となりましょう」とのくだり。「残される人々に最後の温かい記憶を残して死にたいと思えば」、それはユーモアであると。全く同感するのだが、さてこれが難しい。私はこれまで知人、友人の死に際して、出来るだけ通夜は楽しく、を心がけてきた。義父の時は自宅でやったのだが、5つの小部屋にそれぞれの縁を持つ人々を集めて、独自の偲び方で盛り上げてもらった。あまりに楽しかったせいか「また、来たい」と云う人もでるほどだった。これは送る側のユーモアだが、送られるとなると、さて。「おれのいないおれの通夜は寂しいだろうね」との思いを馳せ、今から準備するしかない▲最後に、とても真似できそうにないことを。曽野さんは母上の死に際して、ご本人の遺志に従って、献眼をされた顛末を克明にしるされている。東大病院の眼科医が処置をするにあたって、「ここにおられますか。それとも場をはずされますか」との爽やかな質問を彼女にしたという。で、「ここにおります」と答えると、「お医者さまは母の顔の上に緑色の手術用の布をかけられ、約十分ほどで、その処置は終わりました」と。この行為をめぐる種々の思いを述べたあと、「(眼を差し上げたことが)どれほど私たちの心を明るいものにしたか、想像もできないほど」だったと強調。「この行為だけでも、母は決して地獄には行かないだろう、という安堵感に包まれた」と述べている。臓器移植については、他人のものとの結合の是非を始め、ついつい躊躇しがちである。若くていきのいい身体ならともかく、老いさらばえた臓器の使い回しなど、どうしても二の足を踏みがちだ。ともあれ『死学』なる学問もまた奥行きが深い。  (2020-6-12)

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解釈でなく体験を、との勧めーサミュエル・ベケット『モロイ』(安堂信也訳)を読む

この人と会わなければ間違いなく私はこの本を読まなかったに違いない。勿論こんな読後録も書かなかったはずだ。この人、とは諸井学さん(先に紹介した『神南備山のほととぎす』の著者)のことであり、この本とはサミュエル・ベケットの『モロイ』(「アンチ・ロマン」に区分される小説だそうな)のことである。諸井さんと知り合ってほぼ2年。次第しだいに感化、影響を受けてきているのだろう。ついに『モロイ』を読む羽目になってしまった。読んでいて幾度も投げ出したくなった。およそオモロイとは言えない代物だからである。それでも最後まで読み終えることが出来たのは、ひとえに諸井さんが自分のペンネームは「モロイから学ぼうとした」というからである。邦訳は4種あり、そのいずれをも含め十数回にわたって読んだと言う。そこまで入れ込む理由を知りたい、と私が思ったのは人情というものだろう▲ベケットの作品は、戯曲『ゴドーを待ちながら』を読んだことがあり、既に読後録にも書いている。だからおぼろげながらもどういうタッチの読み物であるかは想像できた。聞きしに勝る、わけのわからん筋立てというか話運びである。それでいて妙に引き込まれる独特のリズムはないわけではない。一回読んだだけで読後録など書くのは無謀というものだろうが、再読したり、橋本五郎さんのように「二回半読む」勇気も暇も、今のわたしにはない。コロナ禍の有り余る時間の中でさえ、わたしに残された時間はそう多くないとの切迫感があり、早く離れたい(『モロイ』からも『諸井』からも)との思いに負けてしまった。ということで、中途半端な結論のもとに書き出したこと、ご容赦願いたい▲実は少し前に、諸井さんに『モロイ』って、どんな小説なの?って訊いたことがある。彼はひとたびは曖昧な言い方でお茶を濁したかに思えたが、のちに手紙で答えを書いてきてくれた。結論部分のみを披露すると、「『モロイ』を読むことは、『モロイ』を解釈することではなく、『モロイ』を体験することである」ということになる。ボールは投げられた。「解釈」するのでなく、「体験」することであるというのは、また判じ物である。解釈には理性が働き、体験には感性がものをいう。要するに、理屈で分かろうとするのでなく、感じるがまま受けとれということなのだろう。これがまた難しい。ボールの投げ返しに苦労することになった。尊敬する友人であるベケット研究の第一人者・岡室美奈子さん(早大教授)に訊いてもみた。彼女は、「解釈でなく、体験だ」との諸井説を「言い得て妙」と同感したうえで、「『私』という語り手に心を添わせる読み方」がいいとし、「理由が分からぬまま感動する体験が醍醐味です」と答えてきてくれた▲私は何らかの閃きが我が体内に生じない限り、この本の読後録は書けないと思った。そんな時に、たまたまモーパッサンの『エセー』における興味深い一節にでくわした。「自分が対象と関わる瞬間に、ありのままの姿をとらえるしかない。つまり、存在を描くのでなく、推移を描くのだ」とのくだりだ。これを解説したあるフランス文学者は、「画期的居直りだ」と述べていたが、私にはこの説明を聞いた瞬間、ベケットが『モロイ』で描いているのは「存在」でなく、「推移」ではないかと、閃いたのである。具体的な描き方部分を上げることはあえてここではしない▲最後に、気に懸かった箇所が二つあることを告白する。一つは、第一部におけるセックスに関わる表現部分。過去に読んだこの種のもののいずれよりも印象深い。ここにだけ強烈なリアルを感じた。もう一つは第二部における大便にまつわる表現のところだ。息子のしたうんこの具合を親父が覗き込み、その有様を仔細に描く。笑った。なんのことはない。人間の原初的行為が、昔馴染みの友人が突然訪ねてきた時のように私の感性をくすぐった。裏返せばそれ以外は殆ど意味不明。それが私の正直な『モロイ』体験なのである。諸井さんは、小説家として多くの創作のヒントを得たに違いない。岡室さんは「どうか(ベケットを)嫌いにならず、お付き合いいただければ」と結んでおられた。さてさて、どういうものか。(2020-5-31)

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こんな90歳になってみたいー中西進『卒寿の自画像ー我が人生の賛歌』を読む

「『令和』の考案者は私と同じ名前なんですね」ーこの名言を発した人こそ、誰あろう、文化勲章受賞者・中西進先生である。肩書きを「万葉集学者」、としようとしたら、ご本人はそう呼ばれることはお好きではないとのこと(本文中にあり)なので、よした。しかし、万葉集の研究で今日までの大をなされた。「初春の令月にして、気淑く風和ぎ」との万葉集の一節を典拠にした「令和」という年号を、この人が思いついて標題の著作を表す起因となったことも間違いない▲中西先生と私は同じ一般社団法人『瀬戸内海島めぐり協会』に所属する仲である。先生が代表、私が専務理事を務める。であるが故に、学者としての先生の凄さも、そのお人なりも知ったつもりでいた。しかし、この『自画像』を読んで、いかに私が先生のことを何も知らなかったかが、ようく分かった。面白い。こんな90歳の年寄りに自分もなってみたい、と心底から思う。75歳である私は90歳の中西先生に、ほとほと惚れ込んでしまう。生い立ちから、学問の道を経て、「令和」の由来に至るまで興味津々の話題で最後まで飽きさせない▲これまで様々な先達の、老いに至った道のりを聞き、それぞれに感じ入った。しかし、いかなる人々のものよりこの人の語りは凄い。凄すぎる。全くと言っていいほど歳を感じさせないのである。「体力、身力を養う」が、ご自身の究極の持論だとされ、それ故に卒寿を迎えるに至ったと言われるのだが、全編どこにも「後ろ向きの示唆」を感じさせない。永遠に生き続けられるかの如き錯覚に陥る▲この本、実は中西先生の自伝とするには物足りないと思われる。随所に写真が散りばめられ、極めて興味深いのだが、いささか軽いと思ってしまうからだ。ご自身が書かれた文章ではなく、鵜飼哲夫讀賣新聞編集委員の聞き書きであるから無理もないのだが、そう思わざるを得なかった。そうしたら、あとがきに「心してその諸点を整理し、普遍的な観点から見つめて、別に叙述していきたい」とあった。本格的なものはまた書かれるのだ。安心した。この本で中西先生は、含羞を込めて、ご自分の人生を振り返り、今の時点で思う存分に表現された。次には白寿を前に本格的な自伝を期待したい。(2020-5-23)

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大阪維新はなぜ強いのかー朝日新聞大阪社会部編『ポスト橋下の時代』を読む

コロナ禍騒ぎで、妙に吉村洋文大阪府知事の人気が高い。このところの世論調査における政党支持率でも「維新」は右肩上がりである。少し前に友人(元公明党尼崎市議)から勧められて購入したまま放っていた上掲の本を、引っ張り出して一気に読んでみた。率直に言って「維新」の強さは個人プレーによるところが大きいとの見立てに間違いはないというのが結論である▲主役が橋下徹から、松井一郎、吉村洋文のツートップに替わっただけで、この3人以外に人はいないように見える。それ以外のプレイヤーで重きをなしているのは、概ね他党からの流入者ばかりで、この党生え抜きの人材(歴史浅く無理もないが)は貧弱というほかない。それでいて、確かに強い。兵庫県的には3回の参議院選挙で維新候補を敵に回したが、この党は殆ど党員支持者の姿は見えず、運動量は少ないのに、圧倒的な票をとる。要するに浮動票をかっさらうだけの期待感が有権者に強いのである。時代の空気を感じる感性力は侮れないが、主軸が崩れると消え去る可能性も高い▲その強さの秘密はどこにあるのか。この本では、大阪都構想をめぐる維新、公明、自民の三党のこの10年ほどの動きを克明に追っているが、結論めいたことには直接言及していない。浮かび上がってくるのは、先に挙げた3人のリーダー(維新の三傑)の都構想に対する執念だけである。それに比べて自公、及び他の政党の結束力のなさたるや目を覆うばかり。単独では強い公明党も、他党との付け焼き刃的結束では負けてしまう。〝維新の三傑〟に共通しているのは、はっきりした物言いに尽きよう。これは政党、政治家として学ぶべきところ大である。国政における野党で、憲法改正をはっきりうたっているのはこの党だけ。これも歯切れの良さに繋がっている▲私の見るところ、今の日本ではもう一つの保守勢力の台頭が求められている。〝何でも反対〟のイデオロギーに偏重しがちな党でなく。この本で、三傑のひとりが国民民主党が「維新」でなく、立憲民主党の方に合流しようとしたのを嘆くくだりがあるが、そこがポイントであろう。先に希望の党への異常な期待で盛り上がったが、あながち〝小池人気〟だけの一過性のものではなかったと見たい。中道主義の党・公明党の役割はまことに大きいが、ややもすると、物言いの不鮮明さが気になる。そこらで足元をすくわれないようにしたいものである。(2020-5-16)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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