(214)中道を待望する思い高まるー青木理『日本会議の正体』を読む

とある会場で安倍晋三首相とすれ違ったときのことだ。「赤松さん、こんな会合に来ていいのですか」と、ニヤリと笑いながら彼が私に投げかけてきたことを10年近くたった今、おぼれげながらだが思い出す。私は「日本会議」主催の尖閣列島問題についての対中国・抗議集会に公明党を代表して出席していた。安倍さんとは、故中嶋嶺雄先生がコーディネートしていた「新学而会」なる学者、政治家との懇親・勉強会でときどき一緒になる関係だった。「余計なお世話だ」と思わないでもなかったが、あの時の会場での居心地の悪さが、安倍さんの冒頭のセリフと共に、今もなお私の脳裏に影を落としていることは間違いない。これが「日本会議」と私の出会いなのだが、その後の歳月のなかで、着々と存在感を増しつつあるこの集団が気になっている。そんな折に、書店で見つけたのが青木理『日本会議の正体』である▼元共同通信の記者がフリージャーナリストとして、この集団を追いかけたルポだ。「極右」であり、「超国家主義団体」ではないか。「安倍政権の中枢でますます影響力を強め」ていて、「内閣を牛耳」ってるような組織なのかどうかを探ろうというのが目的だーとプロローグにある。結論はどうなのか。「戦後日本の民主主義を死滅に追い込みかねない悪性ウイルスのようなものではないか」というのが著者の出した答えである。昭和40年代に大学生活を過ごし、人生の曙期を経た私の世代は、良いも悪いも「戦後民主主義」の只中で呼吸してきた。「左翼暴力革命」を夢見る「日本共産党」や「極左」「新左翼」などといった集団、さらにそこに影響を受けてきた「日本社会党」などのイデオロギーに凝り固まった塊とどう対峙するかが常に頭にあった。いらい50年の歳月が流れた。戯画化を厭わずに述べれば、「左」との対決に一応の決着がついたと安堵した瞬間、今度は一転「右」が大きな存在として立ちはだかっているというのが現実である▼「日本会議」は、初代会長がワコールの元会長の塚本幸一氏。今は4代目の田久保忠衛氏。元時事通信の記者で現在は杏林大名誉教授だ。メンバーは硬軟取り混ぜての印象を持つ文字通りの多士済々の面々。元をただせば、宗教法人「生長の家」をルーツに持つ。今はほぼ完全にその手からは離れており、神社本庁があらゆる面でバックアップしているとみてよいようだ。草創の頃は紛れもなく創価学会・公明党の存在を意識していたことは間違いない。今は政権与党の一翼を公明党が担っている分だけ、事情は複雑だが「日本会議」の構成メンバーの深層心理が「公明党嫌い」にあろうことは、言わずもがなであろう。双方がお互いの思惑で利用し合っていると見るのが自然だと思われる▼日本政治史を振り返るときに、左右対決のはざまにあって塗炭の苦しみを味わった民衆の救済に立ち上がったのが創価学会であり、公明党という存在である。今の政治の表面的在り様を見ていると、左翼勢力が立ち枯れている印象は隠しがたく、右翼勢力の鼻息が荒いことは否めない。その根底部分に「日本会議」があることは間違いない。しかし、肝心なことは、民衆の生活安定であり、人生の安寧、安心にどう心を寄せうるかということである。「左」の没落の後に来るものが、「右」あるいは「極右」の戦前回帰の国家主義などになることは真っ平ごめん蒙りたい。左右双方を止揚したところに立脚した中道主義。そこに原点があることを片時も忘れずに、日常的な政治、政策展開をしていかねば、と深く心に期している。憲法改正論議のリードの仕方など強かな印象を強める安倍晋三首相を思うにつけ、右急旋回を用心し、ストッパーの役割を公明党は忘れてはならぬと自戒したい。(2017・6・15)

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(213)こういう本がなぜベストセラーかの謎ー呉座勇一『応仁の乱』を読む

 

つくづく現代日本は歴史好きが多いのだと思う。いや、正確に言うとごく一部の歴史好きの連中を大きく引っ張ろうとする出版ジャーナリズムの策謀が根強いというべきか。呉座勇一『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』なる新書がベストセラーになっているとの噂を聞いて、読もうとしたのだが、私としては、およそ歯がたたないために辟易したと告白しておく。いや、これも正確を期すと、日本史とりわけ室町期に明るくない普通の読者にとっては、という注釈が必要だろう。それというのも私の先輩筋の友人で、歴史に明るいと自他ともに認めるF氏においては、「この本は凄い、奈良から見た応仁の乱はこれが初めて。実に面白い」と絶賛していたからだ。で、この本の読後録をスタートするにあたって、正確を期す。室町時代に関心を持つなら、この本の前に改めて、「応仁の乱」前後の歴史をおさらいしてから読まれるべきだ、と。それをした後なら、面白い。確かに■実は、先週末、上京する機会があり、昔ながらの友人数人と久しぶりに会って懇談した。その余韻を残しつつ東京を離れたのだが、京都で途中下車してこれまた古くからの友人O夫妻(夫は鳥羽、夫人は横浜在住)と会うことにした。この友人たるや奈良、京都を訪れること500回をくだらないという大変な御仁。彼に連れられて、私も善光寺参りならぬ諸々の寺社詣りに手を染めた。しかも10回は優に超える身であることもまた告白しておく。今回は、また偶然ながら(つまり彼は私が『応仁の乱』を読んだ直後の京都旅だとは知らない)、上七軒近くの料理屋で落ち合った。食後に足を運んだのがすぐ傍にある大報恩寺。西陣地区のど真ん中に位置する通称「千本釈迦堂」である。今までもそうだが、私は過去にこの友人に連れられて名だたるお寺や神社に行っても、自慢じゃないが殆どその由来やら歴史的価値を知らない。恥ずかしい限りだが、これまで関心を敢えて封印してきたのだ。このお寺のことも勿論知らなかった。彼も私の”神社仏閣音痴”を知り抜いているゆえか、深いところを説明せず、「おかめ塚」についてのみあれこれと紹介してくれた■京都から帰って、私は思い直して井沢元彦『逆説の日本史➇中世混沌遍』を改めて読み直してみた。数年前にこのシリーズにはまりしゃにむに読んだものだが、この大乱をめぐるくだりを含めて、ものの見事にきれいさっぱり忘れていた。大法恩寺がなぜ国宝なのか、大乱時にどういう役割を果たしたのか、全部丁寧に書いてあった。つまりかつて私も読んでいたのだ。すなわち、大乱で洛中のほとんどが焼けつくし、このお寺ぐらいしか残らなかったということ、そして山名宗全率いる西軍が陣をしいたのがここであったことなどなど。国宝になった由縁である。誰も訪れる人がいなかった数日前の静寂そのものお寺を、550年前の往事を偲びながら思い起こしたのも一興ではあったと述べておく■そうしたこの時代の歴史的背景を頭に入れて読むと、私のようなド素人でもそれなりに噛み砕ける。とはいうものの、やはり相当の歴史マニアでないとよくわからない。この本は新書ではあるが、学術書の雰囲気が滴るからだ。というのも随所で歴史学者たちの、つまりは呉座氏の学者仲間たちの通説やら見立てについての評価が顔を出す。曰く、誰々氏はこう述べているが、「単なる性格の問題ではあるまい」、むしろ恐らくこうであろうとか、これまでの歴史学上の見方を批判的に捉えたりする見方を提示している。たとえば、近年の研究成果として、戦国時代の幕開けは「応仁の乱」(1467~1477年)後よりも「明応の政変」(1493年)後であるとの見方に対して、明確に否定しているくだりなど首肯せざるをえない説得力を持つ。こうした分野での仕事なら当然なのだろうが、数多の原史料(当時の日記やら寺社の史料の類い)を読み込んだうえで、煩雑さを厭わずいちいち、文章の後ろに()書きで付け加えることを忘れていない。こうした本がベストセラーになるなど、日本という国は凄いと妙に感心してしまう。ホンマかよ、と。実際は出版界の仕組んだ罠ではないか、などとあらぬ疑いさえ抱くのだ。自らの勉強不足を棚上げにして。わたし的には、「中華人民共和国の国連加盟問題のようなもので」(49頁)、とか「スイスの武装中立のようなものだ」(223頁)といった比喩の仕方が興味深かった。次の著作では日本中世史にみる国際政治史との類似点などに焦点を合わせてほしい。(2017・6・10)

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(212)小説は風俗。それがいやなら哲学論文をー大野晋、丸谷才一『光る源氏の物語』上巻を読む

日本文学最高の古典とされる『源氏物語』を読もうと思い立ちながら今まで幾たびか挫折してきた。それにはいくつかの理由がある。平安期の言葉遣いに馴染めないことを始めとして、次から次へと女性を取り換えていく物語展開に、あまりに自分の日常的気分とかけ離れているとの思いが付き纏うことまで、枚挙にいとまがない。手元には紫式部の書いた原典以外に何冊かの訳本がある。随分年下の後輩の女性から貰った与謝野晶子の源氏物語や、瀬戸内寂聴さんのものまで色々と。姫路の元医師会長で、かねて尊敬するI先生から「赤松さんは源氏を読まないの?これを読まなきゃ、損ですよ」といった意味のことを何回か言われ続けてもきている。そんな折に、6月末にお会いする予定が出来た。なんとかその時までに恰好つけなければ、という風な焦りにも似た思いに駆られてきた。そんな折も折、NHKのテキスト島内景二『源氏物語に学ぶ十三の知恵』を書店で発見し、一気に読んだ■これは肩肘を張らずとも、どのように読んでもこの物語は滅法面白いのだということを、13回に分けて書いている。1)憎たらしく仕組まれている人生に翻弄される老若男女を描いており、そこから大いに学ぼう2)日本固有の信仰を基盤に据えて、その上に異文化を積み重ねていく「異文化統合システム」が仏教によってもたらされた3)アイデンティティーは、自分が必要としている人を見つけるだけではなく、自分を必要としている人をみつけることではないか4)この物語の中から、「苦しむ神」や「苦しむ女神」を何人も見つけられる。その苦しむ能力の高さに敬意を払うことから、読者の新しい人生が始まる──などといった風に、島内さんは薀蓄の限りをかたむけて止まない。このテキストを読み終えて、要するにここには日本文化の原型が語られているわけで、それを自分らしく見出すことでいいのではないか、との思いに駆られたのである。そこでふと思い出したのは、私がかねて尊敬する丸谷才一さんと、大野晋さんの対談『光る源氏の物語』上下が我が書棚の奥深くに眠っていたことであった。早速それを取り出して読み始めたらもう止まらなくなった■この本はお二人が『源氏物語』を縦横無尽に語りながら解説する本で、なかなかに面白い。要するに、私は見栄も外聞もかなぐり捨てて、取りあえず原典は棚に上げ、二人の碩学の読み方に専ら頼る道を、取りあえず選んだのである。すると、この本には実は私にとって驚天動地のことが書いてあった。しかも初めのところで。それは、昭和25年に竹田宗俊さんなるひとが、この物語は実は二つに分かれているとの説を発表しているというのである。a系とb系の二つで、aは桐壺、若紫、紅葉賀、花宴、葵、賢木、花散里、須磨、明石、澪標の順で続く。bは、帚木、空蝉、夕顔、末摘花、蓬生、関屋と続き、それが我々の目の前にある物語の間に挿入されているというのである。つまり、a系はa系だけで読んでいけば話の流れがスムースに読み取れるのであり、b 系のものを挟むと何だか分かり辛いというのだ。冗談じゃない。そんな漫画チックなことを言われてもド素人には分かるわけがないという他ない。この「a系b系二分説」は大多数の源氏学者は受け入れていないというのだから、もはやキツネにつままれたような感じになるのは私だけだろうか■実は私はこの小論で、あらかじめ決まった考えをもって書いているわけではない。しかし、丸谷さんたちがa系だけを通して読むと分かりやすいというので、そのように読んでみたいと思っているが、残念ながらまだそれをするには至っていない。上巻のみを読んだだけで、あまりにも源氏の世界に溶け込んでしまうので、ただ時系列的に読後感をここに記している。つまり、これまで私が長い間ひっかかっていた、光源氏なんていう人物は、要するに、気に入った女を年増だろうが少女だろうが、片っ端から犯し、拉致してしまう。これって、今風に言えば、ストーカーであり、変態的女たらし以外の何者でもない、と。ここのところは源氏物語を読むにあたっての最大のネックだったのだが、丸谷さんの解説で妙にすっきりした。「何か風俗小説というのは、現代日本では大変評判が悪い(中略)何か風俗小説を書く人間は、愚かしい不謹慎な男だと思われている」が、「もしそんなことを言うんなら、小説全体を否定するしかない(中略)風俗を描くのがいやならば、小説なんか書くのをやめて、最初から哲学論文とか社会学の論文を書けばいい」と述べる一方、坪内逍遥の「小説の手法は人情なり。世態・風俗これに次ぐ」(『小説神髄』)を引用して、源氏物語を擁護している。これは、「描く」「書く」のところを「読む」に置き換えてみると分かりやすい。ともあれ、これから私はどう『源氏物語』の世界に、はまっていくか、それとも途中で投げ出すことになるのか。いまのところ全く未知数なのは何とも心もとない。(2017・6・3)

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(211)腰痛にはカイロが一番?ーS・シン&E・エルンスト『代替医療のトリック』を読む

私は実は38年間にわたっての腰痛持ちだった。22歳から60歳の年まで。この間は年がら年中腰がじくじくと痛く、特に朝の寝起きはつらかった。原因は社会人になったばかりの時に、スティール製の大きな机を一人で持ち上げたとたんギクッと来た。いわゆるぎっくり腰だ。整形外科にかかったのだが、治る気配は全くなかった。ありとあらゆる治療を試みたが、満足できなかった。それが、還暦を迎えた頃から古希過ぎの今までの10数年間、完全に治った(勿論、腰に負担のかかるような無理をした時を除いて)との実感がある。どうしてか。一つは腹部を中心に痩せたこと(これは病気のせいだが)。二つはカイロプラクティック治療(以下、カイロ)が効いたこと。三つはストレッチ体操のお蔭だ。この何れが欠けても今の私の腰はないと自負している。ぎっくり腰から脱却出来たとの手応えならぬ腰ごたえを持ったのは厚生労働副大臣時代。省の建物の10階にある副大臣室までエレベーターを使わずに歩いて上がったものである▼カイロとの縁は、実はその時点まで、つまり厚生労働省の仕事をするまではなかった。それが縁が出来たのは、日本カイロプラクターズ協会から陳情を受けたことがきっかけ。日本において市民権がない団体をもっと引き上げてほしいという意味の要請だった。私は、自分の腰の実情を話し、これが治るようなら尽力したいといった。全く嘘のような話だが、この時にきた村上佳弘事務局長がそれから数回にわたって治療を施してくれた結果、前述したようなことになったのである。ということから、この10年あまりカイロ愛好家になり、あれこれと支援もしてきた。近く、私の電子書籍『早わかり10問10答シリーズ』の第三弾として『腰痛にはカイロが一番』(既刊は、『みんな知らない低線量放射線のパワー』と『クマと森から日本が見える』)を発刊する準備もしている。まさにそんな折も折、畏友・志村勝之(カリスマ臨床心理士)から本が送られてきた。サイモン・シン&エツァート・エルンスト(青木薫訳)『代替医療のトリック』である▼この本の著者は、科学ジャーナリストと代替医療分野の大学教授。鍼、ホメオパシー、カイロ、ハーブの4分野を主に取り上げ、そのトリック性を暴いている。最も私の関心が高い「カイロプラクティックの真実」なる章を中心にざっと目を通した。カイロ治療とは、脊椎を構成する椎骨のズレを手技でただすこと。米国発の治療法だ。日本でも治療院は数多いが、誤解も数多い。多くは、首をギクッと回されて却っておかしくなったといった類いのトラブルから起こっている。この本を読むまで米国の実態は知らなかったが、さすが本場。実にあれこれと実例が示されている。創始者ダニエル・デーヴィッド・パーマーやその後継者たちの特異な個性もあって、当初はあらゆ病気に効く「哲学、科学、芸術である」とされてきた歴史を持つ。通常の医療関係者からこの辺りは殆ど狂気の沙汰と見られてきたのである。著者らが「科学的根拠によれば、腰痛に直接かかわる問題を別にすれば、カイロプラクターの治療を受けるのは賢明ではない」としているのは、ある意味当然のことに違いない。わざわざ「注意してほしいこと」として、カイロへの6項目の警告を発している。最後の「腰痛でカイロプラクターにかかる前に、通常医療を試してみよう」とのくだりには思わず笑ってしまう。「そうだよ。通常医療でダメだからカイロに来たんだから」と▼ここでいう通常医療とは科学的医療と言い換えていいだろう。それに対して擬似科学的医療とでもいうべきものがカイロなどの代替医療だ。臨床心理士の志村氏は、医療にはこれらに加えて物語的医療がある、と3分類化している。こころに関する代替医療をして、彼はそう規定するのだが流石に言いえて妙である。この分野でも鬱(うつ)を始めとする心の悩みを持つ人々が後を絶たない。いわゆる神経内科医たちが十全たる役割を果たしていないだけに。ところで、朝日新聞の書評(2010・3・21付け)で、広井良典千葉大教授が、通常医療にも「有効性が厳密に確証されていない療法が多い」とする一方、「心身相関や慢性疾患等の発生メカニズムの複雑性を考えた場合、著者らのいうような検証方法は限界を有する」とまで述べており興味深い。「現代医療論」として読む場合、「本書の議論にはやや表層的な物足りなさが残る」としているのには、ちょっぴり溜飲が下がる思いがする。広井氏は最後に、本書の議論を契機にそもそも「病気」「科学」「治療」とは何かといった現代医療をめぐる根本的な問いの掘り下げを、と求めている。この終り方はいささか定番だと思うのは酷だろうか。
(2017・5・28)

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(210)「ホンマは好きなくせして」ー井上章一『京都嫌い』を読む

『京都嫌い』なる新書の存在を知ったのは、発売間もないころに、ラジオでの著者のインタビュー番組であったかと記憶する。井上章一(国際日本文化研究センター教授)さんが語っていたある部分で笑ってしまった。彼がいかに京都嫌いなのかの思いのたけを語った後に、その本を平積みにした京都の本屋さんで、「ホンマは好きなくせして」とのフレーズが添え書き風に、張り出されていたことを発見したと紹介していたのだ。この本屋の店主はなかなかの優れものである。ただし、何故か私は読む気があまりせず、放置していた。で、このほど京都で顧問先の京都支部の催しがあり、スピーチをせざるを得ないことになって、急ぎ読むことにしたしだいである。新快速で京都までの1時間半でほぼ読めた■簡単にいえば、ここで著者が嫌いだとする対象の京都というのは、洛中の人を指す。ものの本というより、ネットで調べたところ、洛中とは、北は北大路から南は九条通まで、東は高野川・鴨川(東大路)から、西は西大路通までの地域を云うとのこと。要するに平安京時代の京城内を指し、最も中心部を意味する地域のようだ。中国の洛陽に対比させている。著者は、嵯峨生まれで今は宇治に住む。そういった京都でも周辺地域は洛外といって差別の対象になってきたことの怨念の限りを実に面白いタッチで描きそやす。「洛外でくらす者がながめた洛中絵巻ということになろうか」と、まえがきでは綺麗に書いているが、なんのなんの、私にいわすれば、京都とは名ばかりのよそもんが、ホンマの京都人から蔑まれたいけずの限り、ということになろうか。これまで色々と京都を案内したり、その歴史や見どころを描いた本は数多あり、私も何冊か読んできたが、これはまた異色の本である。まあ、あまり京都を知らない人にはお勧めしない。いきなりこんな風な京都観を持たれては、どちらにとっても気の毒だからだ。むしろ京都通を自負している方にはお勧めしたい■先日、私が親しくする新聞記者が冬場に京都に取材にきて、町家風の旅館に泊まった。その寒さにあやうく風邪をひきそうだと狼狽(うろたえ)てメールをしてきた。町家に憧れるのもほどほどにしないと身が持たないかもしれない。麻生圭子さんの『京都で町家に出会った。古民家ひっこし顛末記』『京都暮らしの四季』などといった女子好みの本を読んできた私だが、これらは歯応えはあまりなかったと記憶する。それにしても私のように、姫路生まれの神戸育ちからすると、京都は羨ましい限りだ。世界文化遺産・姫路城を持つ姫路は観光地として進境著しいとはいうものの、京都とは比べるべくもないし、これから私が売り出しに取り組もうとする淡路島にいたっては逆立ちしても及ばない。これは、光源氏が島流しされた地として、須磨や明石を『源氏物語』で描いた紫式部のせいではないかと僻みたくもなる。尤も、「大阪では京都に近いことが、しばしばからかいの的となる」「京都をみくびる度合いは、大阪が一番強い」などといったくだりに出会うと心騒ぎ、我が体内の京都心酔の度合いの高さがしれようというものだ■軽く読み進めて行ったなかで、歯応えを感じたのは第四章「歴史のなかから、見えること」。とりわけ、「京都で維新を考える」のくだりは実にすっきりした。「フランス革命とちがい、明治維新は無血うんぬんという話に、私はなじめない」とあるのに、正直に言ってかつての私なら反発しただろうが、今では全く同感する。幕末の京都を幕府の側からまもっていたのが会津藩士であったことや、明治維新の延長線上に、あの大戦での敗戦があったと位置づけ、「維新のおたけびが、ああいう膨張をあとおしし」、「江戸時代にためこまれたエネルギーがいきおいよくあふれだした」との史観にも共感する。NHKが先年放映した大河ドラマ『八重の桜』で、会津小鉄会の存在が黙殺されたことに憤りを感じて、あえて書きとどめたいなどとしているところにも。最後に、著者は、決して京都・洛中については、ホンマにすっきゃないことを感じた。お好きなのは洛外を含む広い意味の京都であるということを、あえて付言しておく。(2017・5・21)

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(209)ヨーロッパの近未来を大胆に予測するーM・ウエルベック『服従』を読む

フランス大統領選挙の結果は、普通の日本人をしても安堵させるものであった。マクロンという39歳史上最年少の若者の当選によって、極右とされるマリーヌ・ルペン氏の登場を阻止しえたからである。トランプ米大統領の「アメリカファースト」で辟易しているところに、「フランス第一」を掲げる人物がヨーロッパのど真ん中に風穴を開けては、もはやEUは死に体になること必定ともみられた。今日の事態を作り出す先駆けはイギリスのEU離脱だった。そのニュースで大騒ぎをしている最中に、ミシェル・ウエルベック(訳・大塚桃)『服従』を読んだ。フランス大統領選を舞台に、既成政党の退潮を横目にしながら、極右・国民戦線のルペンと穏健イスラーム政党のモアメド・ベン・アッベスが決選投票に挑むという内容。「シャルリー・エブドのテロが起こった当日に発売された近未来思考実験小説」という触れ込みは極めて刺激的だった■ウエルベックという人物は、「現代社会における自由の幻想への痛烈な批判と欲望と現実の間で引き裂かれる人間の矛盾を真正面から描き続ける現代ヨーロッパを描き続ける現代ヨーロッパを代表する作家」というが、今まで恥ずかしながら知らなかった。それを読む気にさせたのは「フランスの政治的・思想的・霊的な劣化という現実を自虐的なまでに鮮やかに摘抉。細部が異常にリアルで、もうほんとうのこととしか思えない」(内田樹)とか「こんなことは起こらない……たぶん……いや、もしかしたら」(高橋源一郎)などという一連の著名な評者たちの読後感である。本を買わせよう、読ませようという出版社の戦略とはわかってはいてもこれだけ焚き付けられると、もはやじっとしていられなかった。しかし、読んでみて正直な印象は、私のような純粋・現代日本人(ヨーロッパ特にフランス事情に疎い、ドメスティックな爺さんという意味)にとっては、性的退廃部分の描写ばかりに目が及ぶ、かなりの冗談っぽい本であるといった具合のものである。この本のコア部分については、いまなお半信半疑である自分を感じざるをえない■この本の主人公は、文学を教える大学教授。政治とは距離をおくインテリの代表として描かれる。今から5年程先のフランスでイスラム政権が成立するとの設定のもと、ムスリム(イスラム教徒)しか教鞭がとれなくなり、主人公は解雇される。しかし、その後、彼はムスリムに改宗し大学教授に復帰する道を選ぶという筋立て、だ。つまりは「服従」の道を選んだわけである。移民問題が欧州を席巻し、今回の大統領選挙でも「EU離脱の是非」を問うことが表向きの焦点であった。しかし、真実のところは「移民は出ていけ」との国民戦線の主張をめぐる賛否だった。辛うじてルペンの強硬な意見は退けられたが、この小説では次なる設定としての国民戦線とムスリムとの直接対決が描かれ、ムスリムの勝利を予言する。そんなことが起こるはずがないというのは大方の予想だろうが、実際には分からないというのが日本の識者たちをも含む多くの現代人の危機感だろう■「服従」というタイトルに込められた意味を、この本の解説で作家の佐藤優氏が語るくだりが興味深い。彼は、ソ連崩壊後に、それまで忠実な共産党員だったインテリたちが一瞬にして反共主義者になったとしたのちに、「この人たちは、目の前にある『世界』をその全体において、『あるがままに』受け入れたのである」と。これはまた、先の大戦後にそれまで反米に凝り固まっていた多くの日本人が一瞬にして米国を受け入れたことと酷似している。最後に佐藤氏は「『服従』を読むと、人間の自己同一性を保つにあたって、知識や教養がいかに脆いものであるかがわかる。それに対して、イスラームが想定する超越神は強いのである」と結んでいる。この小説の示す将来予測及び人間認識は、私のような日蓮仏教の世界広布を目指すものにとってもまことに意味深長である。それは人間の知識や教養のいざという時の脆さとともに、宗教的意志の体内定着度の強弱をも慮らざるをえないところにある。数多ある仏教各派の中で、たった一つ現代において世界宗教を目指すSGIのこれからをも考えるうえで、それなりに参考になる本ではあった。(2017・5・14)

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(208)田中角栄らは晩年をどう過ごしたか ー関川夏央『人間晩年図巻 1990-94年』を読む

郷土・兵庫の生んだ医師にして作家の山田風太郎さんは私の好きな作家のひとりだが、その作品のうちで最も惹かれるのは『人間臨終図巻』の上下2冊。これは自分の誕生日が来るたびに、その年齢で死んだひとのところを読むことにしている。今年72歳になるので、11月26日には、そこを読むはず。尤も、山田さんが亡くなってからは続編を書く人もいない。ところが作家の関川夏央さんが『人間晩年図巻1990-94年』なる本を書き、ある意味で先輩の衣鉢を継ぐ仕事をした。一年前に出版され、読みかけたままにしていたものをこのほどようやく読了した。1990年から94年までの間に亡くなった36人ほどが取り上げられているが、私より年上は9人だけ。後は全て年下になる。死に至る病の種類から、死にざままでそれこそ千差万別だが、大いに参考にしようとそれなりに懸命になって読んだしだい■1990年代前半はどういう時代であったか。ベルリンの壁が崩壊し米ソ対決の時代から、米国一強の時代へと変化したかに見えるものの、湾岸戦争が勃発したことに対して国連の対応ぶりが注目された。私的には、苦節足かけ5年を経て衆議院議員に初当選したのが1993年7月。時の総理は宮澤喜一氏から細川護煕氏へと交替。今に至るまで続く連立政権の幕開けとなった頃である。経済的にはバブル絶頂から崩壊の流れが定まってきた頃とも重なり、「失われた20年」と後に呼ばれる時代の始まりでもある。団塊の世代がまさに世の中の中心として活躍していた時代でもあり、その頃に亡くなったひとはある意味で社会的、経済的に幸せな時代の絶頂期に亡くなったといえなくもない■田中角栄元首相が亡くなったのは93年12月16日。75歳だった。「父の恨みを娘が継ぐ」とのサブタイトルのついた9頁分は、父親とは私が新聞記者時代に取材し、娘さんとは同僚議員として付き合った関係だけに読み応えがあった。公明党の先輩政治家と自民党の派閥の領袖との関係は、一般的に「田中と竹入」、「竹下と矢野」、「小沢と市川」といった組み合わせでパートナーのように見られてきた。それぞれの全盛期にカウンターパートとして活躍してきたから当然ながら関係も深かったに違いない。田中角栄氏については、このところ石原慎太郎氏や石井一氏らがそれぞれ自伝めいたものを書き話題を呼んでいるが、戦後史の中でこのひとほど毀誉褒貶の甚だしい政治家も珍しい。番記者として付き合った連中が、当の相手が鬼籍に入った今なお誇りにしている数少ない政治家だろう。大学時代の同期で、読売の番記者だった神田俊甫君などその代表株だ。関川さんが描く晩年の角さんはひたすら酒びたりのひとの印象が強い。ロッキード事件で「はめられた」うえでの首相辞任が56歳のとき。それから20年間は恨みと悔しさの歳月だった■娘の田中真紀子元外相には「(父親の持つ)度量の広さと現実感覚をともに置き去った娘が、父親の一種強引な雄弁術と『恨み』を受け継ぐだけでは、政治家としてははなはだ不十分だった」と手厳しい。親父のことを書けば十分なはずのに、娘さんをこういうような扱いをするのはかわいそうな感じがせぬでもない。彼女が衆議院外務委員長時代に、公明党理事として短い間だっただけどやり取りをしたことがある。往年の輝きはすでになく、親父さん譲りのだみ声もどきが響いたとの記憶がある。数ある角さん語録のうち、関川さんが記す「愚者は語る。賢者は聞く」「記者は懐に入れても蛇は蛇」などいかにも彼らしい。私は「越山会の女王」と呼ばれた佐藤昭(旧名)さんについて書いてほしかった。彼女は歌手・小林旭の”たにまち”であり、何を歌っても”旭そっくり”(旨いのではなく、声が似てるだけ)と言われる私を、彼に会わせてくれたひとだからである。ちなみに、歩きながら旭さん本人に「私の名前が変わります」「ごめんね」「もう一度一から出直します」「お世話になったあの人へ」の4曲の替え歌のさわりを聞いてもらった。蛇足ながら「平民宰相・田中角栄」に免じてお許しを。(2017・5・7)

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(207)新たな政党間対立軸を求むー吉田徹『「野党」論ー何のためにあるのか』を読む

このところ自民党議員の不祥事やら不始末が目に余る。防衛大臣や法務大臣の危なさが人の口の端に登らない日がなかったと思いきや、震災復興担当大臣の被災地をめぐるおかしげな発言が相次ぎ、遂に辞任に発展した。一方で、政務官の二重婚とも思われる事件が発覚。この人物は離党したが、とてもそれで済まされるとは思えない。北朝鮮の動きが極めて注目される事態があり、それに対応すべく安倍首相は踏ん張っているとのイメージが強いことは救いである。しかし、その首相も一皮めくれば、「森友学園」だけではない様々な疑惑が渦巻いているとの指摘が後を絶たず、長期政権に陰りが見えていることは否めない。こういう事態を前に野党は勢いづいてはいるが、とても政権を担って立つだけの信頼感が国民の間にない。最大野党・民進党に大物離党者が相次ぎ、世論調査での政党支持率は自民党の3分の1にも及ばず、他の3党にあっては何をかいわんやの状態が続く▼こうした状況下で昨年夏に出版された吉田徹『「野党」論ー何のためにあるか』を読んだ。野党の存在感が全くない今日、この本は大いに読むに値する(特に最終章)と思う。が、世間的には全く注目されておらないのは残念だ。著者は北海道大准教授で比較政治、ヨーロッパ政治を専門とする新進気鋭の学者。筆者のような世代にはある意味で「政治疲れ」が目立つ。政治の「あるべき論」を論ずるよりも、とにもかくにも「一つの政治選択をしたら直ちに断行する」方向に関心が向きがちである。これは55年体制下の政治が38年程続き、自民党一党支配から連立政治が余儀なくされた後、政権交代が起き、民主党政権が誕生。それが見るも無残な失敗で下野してしまった。そこへ一たびは失敗した安倍氏が再び登場して一転今度は強い首相を演じているから、過去との比較の中で、攻める側も守る側も妙な安心をしてしまっているかのように見える。つまり政治の現場に緊張感が欠如してしまっていると言わざるを得ないのだ▼筆者が政治家になった1990年代半ばの政党間の最も大きな政治的対立軸は、「大きな政府か、小さな政府か」であり、今もそれを引き摺っている。しかし、あれから20年程の歳月が流れ、もはや意味をなさないのではないか。著者は公的債務が留まるところを知らず、社会全体の貧困化が進む一方の今、そういう対立軸はまやかしにすぎないという。代わって登場すべきは「いかにして賢い政府を作るか」だ(これは今の政府は阿呆な政府だと言われてるのに等しい)、と。そのうえで、吉田さんは、「合意型争点」と「対立型争点」の二つの次元に分けて論じていて興味深い。詳しくはぜひ本書を読んでみて頂くしかないが、わたし的にはオーソリタリアン(権威主義)対リバタリアン(自由至上主義)という新しい対立軸(政治学者・キッチェルト)の提起に関心を持つ。正規雇用と非正規雇用とに分断化され、経済的、社会的格差が拡大するなかで様々な課題が惹起されているのに、旧来的な保守、自由、社民、共産主義といった政治的諸潮流は何も解決のカギを提起し得ていない。ここは残念ながら私などが依拠する中道主義も同様だと言わざるをえない▼権威主義と自由至上主義の対立軸というのは、「共同体を個人より優先させるべきと考えるのか、それとも、個人は共同体に優先すると考えるのかという、共同体ー個人の対立軸」であるという。正直に言ってこれが決定的かどうかは未だわからない。言えることはヨーロッパのような新しい対立軸をめぐってのダイナミックな論争が日本では全く見られないということだ。公明党は、自民党と連立政権を組んでそれこそ20年近い。政治の安定化に貢献してきたことは認めるのにやぶさかではない。しかし、与党自民党の弛緩しきった堕落ぶりと、野党第一党の腰抜けの体たらくを見るときに、ひたすら自民党に寄り添うだけでいいのかとの思いが募る。今回の震災復興大臣の後釜に相応しい人材は公明党には複数いると断言したい。こういう時に黙っていないで我々が担うというぐらいの声が出ていいのではないか。新たな時代の政党間対立軸にあっても積極的な問題提起を、中道政党公明党に望みたい。(2017・4・27)

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(206)「おもてなし」の本質ーD・アトキンソン『イギリス人アナリスト 日本の国宝を守る』を読む

世界文化遺産・国宝「姫路城」を訪れる外国人観光客が凄く増えたように思われる。かつて年間100万人を超える程度であったのが、いまでは200万人を有に超えている。その増えた分の相当部分は外国人ではないか、と推測する。中国、韓国、台湾など東アジアの人々は殆ど外見上日本人と変わりないが、青い目の外国人は容易に分かるだけに昨今の変化は眼をみはるばかりである。その人々が姫路城にやってきて果たして満足しているのかどうか。一人ひとりに訊くわけにもいかないので想像するしかないが満足度はあまり高くないのではないかと懸念している。それはこの城の持つ醍醐味をしっかりと分からなければ、ただお城に上るだけでは天守閣から眺める風景はあまり美しくない街並みが見えるだけだからである▼デービッド・アトキンソン『イギリス人アナリスト 日本の国宝を守る』を読んでつくづくと感じたのは、日本文化の背景についてしっかりと説明することの大事さである。「おもてなし」という言葉が先行しているだけでは外国人観光客を満足させえないのである。東洋的、日本的なものの美しさや神秘性だけを満足せよといっても限界があることを意外に日本人は分かっていない。この人物は元ゴールドマン・サックスの金融調査室長で今は小西美術工藝社の社長。金融アナリストとして活躍するなかで、日本の伝統文化の魅力に惹かれ、国宝や重要文化財の補修を手がける同社に入り、今では伝統文化財をめぐる行政や業界の改革への提言を続けている。この本は3年前に出版されたものだが、ある自民党の大物政治家から推薦され、寄贈を受けた。雇用400万人、GDP8%成長への提言もさることながら、日本復活の秘策は「観光立国」にあり、という触れ込みに多くのひとが注目しているようだが、私も色々とヒントを得ることができた▼ここで、かれは「日本の文化財が単なる『冷凍保存のハコモノ』になってしまっている」ことを嘆く。たとえば京都の二条城に行っても、大広間に人形が並んでいても、それにまつわるドラマをはじめ詳しい説明がない。「畳は古く、ふすまや障子を外し、本来あるべき調度品もお花もない。中を拝観しても、そこで何がおこなわれ、どのように使われたのか外国人にはさっぱりわかりません」という。さらに文化財を見る場面で外国人が歩きスマホをしているのは、スマホを通じてネットでその文化財の詳しい説明を検索していることが多い、と。こうしたことを通じて、日本の「おもてなし」の究極の本質は、外国人に対して、日本文化の背景を解きほぐすことにあるのではないか、と主張しているのだ。なるほどと思いつつ、日本人ですらわかっていないことかもしれないのに、といささか暗澹たる気分になってしまう▼淡路島への船を通じての旅ー関空航路の開設に取り組む事業に関わる私としては、姫路城もさることながら、淡路島観光への外国人の誘客が気にかかる。今、中瀬戸内海、西瀬戸内海は沿岸各県の努力で、それ相当の好評を博しているようだが、東瀬戸内海の方は殆ど手つかずだ。今私たち関係者が考えている観光コースは、大阪湾から神戸港、明石港、姫路港を経て家島群島、淡路島といった島々への船旅である。ゴールとしての淡路島にはそれこそ伊弉諾神宮という日本の国生みの原点が存在する。これをどう外国人に説明するか。日本でもあまり理解されていない風があるのに。そのあたりに心を砕くことから全ては始まるということを、この本から強く考えさえられたのである。(2017・4・20)

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(205)山と湖と、城と人と━━柳谷郁子『エッセイ集 諏訪育ち 姫路にて』を読む

 兵庫県には全国各地からの出身者がいるが、長野県の方というのはあまりお目にかからない。まして諏訪地域となると珍しいように思われる。小説家であり、姫路の文芸誌『播火』の主宰兼編集長をされる柳谷郁子さんは、長野県岡谷市生まれ。諏訪湖畔で育った。その諏訪湖の取り持つ縁で、私が尊敬する評論家の森田実さんと柳谷さんが交友を深められることになり、このたび『諏訪育ち 姫路にて』という柳谷さんのエッセイ集が美しい装丁のもと、第三文明社から出版の運びになった。本の帯には「大器、いま鮮やか」の見出しのもと、「柳谷郁子さんの作品を読むと心が洗われます。その美しい文章は諏訪湖の自然と姫路城の人造美が調和し、読者の心に響きます。大器、いま鮮やかなる作家が人間の真実を描いたエッセイです」とある。さすが森田実さん。思わず本を開き、読みたくなる評価の仕方に唸ってしまった。

 主たる舞台が姫路とあって心ときめく内容のものが多いが、とりわけ「折り鶴」に心撃たれる思いがした。高校二年生の頃の柳谷さんの青春譜。変型三角関係とでもいうべき実らぬ初恋めいたエピソードが甘酸っぱく語られる。一方の当事者が朝日新聞社の海外特派員、論説副主幹を経て、立命館大学教授から下諏訪町長となって活躍する姿が簡潔に描かれる。そして急転直下、急性心筋梗塞でこの世を去ってしまう(といえば、故高橋文利さんに違いない)。

 町内の小学生たちが折ったという献花の代わりの折り鶴。思わず眼がしらがうるんでくる。「参列者千人を超える町民葬の一席にひっそりと大きな旅行鞄を足もとに置いて、私もいた」「折り鶴をわが青春にも捧げて、私は『故郷』を歌う全員合唱に加わった」──50年の歳月を経て、青春を共有した、いとおしい友の死を悼む挽歌。その調べがリアルな描写と相まって目に鮮やかに、耳に痛くこだましてくる。

●よさこい踊りと阿波踊り

 一方、柳谷さんの感性と私のそれとがちょっぴり合わない「よさこい祭り」にも触れておきたい。私は土佐の高知は大好きだが、あの「踊り」がどうも肌に合わない。お隣の徳島の「阿波踊り」の方がよほど好きだ。一言でいえば、型を持つ踊りの美しさと、型破りの奇抜さとを比べると、前者に惹かれてしまう。姫路では「ひめじ良さ恋まつり」なるものが立ちあげられて、年々人気を博しているという。そのテーマ音頭となっている『はじけたらんかい姫路』の作曲が娘さんの夫君であり、作詞が当の柳田さん本人と云えば、力が入るのは当然だろう。しかし、「『よさこいなんて何のこたあない、江戸末期のええじゃないか踊りじゃないか。末世の証拠や』とにべもなく宣われる(のたまわれる)」夫君の方に深く共鳴するのはいかんともしがたい。

 姫路が生んだ最後の文士・車谷長吉。私とは同い年にして大学同窓と共通点もあるものの、全く生き方が正反対であった作家。その彼が晩年に書いた『灘の男』から始まる「泣いてからが」も大いに読ませる。喧嘩の強い男の話から一転して、ピアノの猛烈な練習で泣く孫娘に話は移る。その孫に対して「人はね。泣いてからが強いのよ。強くなれるのよ。いいから思いきり泣きなさい」と抱きしめながら励ます柳谷さん。先年、姫路で開かれたリサイタルで、桐朋音大で学ぶ彼女の天分豊かなピアノ演奏に接したばかり。

トーク場面であどけなさが残る生身の姿をも見聴きしただけに、ついこちらも前かがみになってしまう。柳谷さんは、このエッセイの中で、未だ自ら書き得ていない本について、これからの意欲を散りばめて吐露されている。親しい友人であった故建部順子さんの弔辞に換える本。「灘の男」の故濱中重太郎氏の伝記。そして諏訪湖にまつわる小説などなど。それぞれの構想で、頭と胸はいっぱいのようだ。果てしない旺盛な創作意欲には、ただただ圧倒されるばかりである。

【他生の縁 姫路での不幸なできごと】

 柳谷郁子さんの夫君は、元姫路市議で、1991年に県議選に挑戦し、落選しました。その際に選挙違反の容疑を受けて郁子さんが逮捕され、留置場に。無実を主張して徹頭徹尾闘う自らの姿を描いたのが『風の紋章』です。最終的に無実を晴らされるのですが、そこに至る警察の担当者、報道に携わる記者、周辺の人びとなどの「暗部」ともいうべき姿が克明に描かれています。

 私が姫路に戻る少し前の出来事なので、風の噂には聞きましたが、殆ど知らぬままでいました。ところが、その後様々な場面でお会いする機会が増えて、ご本人からも「読んで欲しい」と強く望まれました。生々しい描写の数々に息呑む思いの連続でした。

 日本中に「選挙違反」は日常茶飯事でしょうが、「無実の罪」を受けた側の恨みを晴らす心の「深部」に深く立ち至った本は殆どありません。しかも、当事者が作家だというのは。読み終えて、柳谷さんの強さと優しさ、そして権力の惨さが心の奥に染み込みました。

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