【170】よみがえってくるコロナ禍に襲われた日々━━岡室美奈子『テレビドラマは時代を映す』を読む/3-27

 「私の体はテレビでできている」とのタイトルで2019〜2023年の実質4年間に毎日新聞夕刊に連載されたコラムが一冊の本になった。著者は早稲田大教授で、前早大演劇博物館館長の岡室美奈子さん。サミュエル・ベケットの研究者として著名なこの人が「テレビドラマ論」をも専門にされてることを不覚にも知らなかった。『ゴドーを待ちながら』のような、難解な「不条理演劇」で体ができてるひとだとばかり思い込んでいた。新聞で連載に出くわすたびに新鮮な刺激を受け、新たな境地をひらかせられたものだ。改めて一冊の新書に全50回分が集約されたものを読んで、ひたすら懐かしい。新聞で読んだものは2頁と短いが、ひとつの章が終わるごとに登場する「幕間エッセイ」は7〜8頁と長い。著者の〝思いの丈〟が書き込められたようで味わい深い◆この本で、「女性たちの緩やかな連帯」から「ドラマが描く/描かない恋愛と結婚」までの7本のエッセイを読んで、かくも豊かなドラマが毎夜毎晩流されていたのか、と改めて思い知らされた。実は私はこれまでテレビドラマはあまり見てこなかった。NHKのドキュメンタリー番組が主で、せいぜい大河ドラマや朝ドラぐらいだったからだ。50本のコラムが並んだ目次を見て、私が実際にテレビで見たドラマは『いだてん〜東京オリムピック噺〜』と『鎌倉殿の13人』だけというお粗末さ。だが、この2本とりわけ後者のインパクトは強烈だ。佐藤浩市扮する上総広常の最期を描いた場面は本当に迫力満点だった。過去に見た映画のどれに比べても壮絶な立ち回りだった。「各登場人物の死をいかに描くかということから逆算して人物造形がなされているのではないかと思うほど、退場シーンが秀逸だった」との岡室さんの感想には全く同感する◆『いだてん〜東京オリムピック噺〜』は、第10回と第30回の2度も取り上げられている。著者自身が述べているように、このドラマは視聴率が低かった。その理由は前半のマラソンランナー・金栗四三の伝説風スタイルと、後半の1964年の東京オリンピック招致者・田畑政治の実録風スタイルが折り合わなかったことにあるのかもと推測する。疲れきった金栗がマラソンコースを間違えた挙句に、コース付近の立派な居館で介抱を受けた話や、人見絹枝ら女子選手の活躍に至るまでの苦労談など重くて厚いエピソードが見た人間の脳裡にはっきりと刻印されたドラマだった。著者は、「日本のオリンピックの歴史を、当事者と庶民両方の視点を織り交ぜて描いた傑作だった」とする一方、コロナ禍で1年延びた末に賛否両論渦巻く中で開催された「2020東京オリンピック」の総括を、意味深長な問いかけで終えているのが胸に刺さる◆この本で岡室さんが取り上げたドラマの放映はちょうどぴったりとコロナ禍の期間とダブル。岡室さんはあとがきを「テレビをめぐる四年間の旅を振り返って思うのは、やはりコロナ禍においてドラマが果たした役割の大きさだ。ドラマはさまざまな形でコロナ禍における私たちの日常を映し出し、コロナ禍でささくれた心を癒してくれた」と書き出している。その猛威は世界中を襲い日本の各家庭をも巻き込んだ。私の顧問先の幹部は2019年晩秋にコロナに罹り、あっという間に帰らぬ人となった。その病の残酷さたるや別離の儀式すら奪い去った。それゆえに彼は長期の旅に出たまま逢えない日々が今も続いているような感がする。亡くなったとの実感が未だに湧いてこない。その災いとほぼ踵を接するように世界を襲ったのはウクライナ戦争であり、ガザを舞台にしたイスラエルとパレスチナとの戦争である。あのコロナ禍と違って、未だこれらの戦争は我々の日常生活と離れている。それが身近に迫ってきたら?いかなるドラマも癒してはくれるまい、と思う。(2025-3-27)

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【169】硬直化した政治状況を打破するために━━東浩紀『訂正する力』を読む/3-17

 『公明』4月号のインタビューに触発されて、東浩紀さんの『訂正する力』を読みました。面白い。知的刺激をたっぷり受けました。「修正する力」さえ持ち合わせていない政治家は大いに学ぶべきだと思います。この本は「語りおろし」。そのため若干未整理の部分もあり、私の早とちりも否めませんが、お許しください。

⚫︎9条では政府、自民党が「訂正する力」を発揮

東氏)政治とはそもそも絶対の正義を振りかざす論破のゲームではありません。あるべき政治は、右派と左派、保守派とリベラル派がたがいの立場を尊重して、議論を交わすことでおたがいの意見を交わすことでおたがいの意見を少しづつ変えていく対話のプロセスのはずです。しかし、現状ではそんなことはできない。(7頁)

赤松)この本は2023年10月末出版。当時と違って今は衆院で政権与党が少数です。今年度の予算編成をめぐる与野党の攻防も趣きを異にし、「高校教育費無償化」を巡っては維新、「103万円の壁」を巡っては国民民主との間で「対話」がありました。立憲とも「高額療養費上限額引き上げ」について折衝がありました。その結果、一部で野党の意見が取り入れられたのです。これまではひとたび組んだ予算案は一円足りとも「修正」しないのが当たり前でした。「修正」より、「訂正」はそれまでのスタンスの誤りを正すニュアンスが強いのですが、それについては?

東氏)皮肉なことに9条についてはむしろ政府のほうが訂正する力を発揮しています。(「解釈改憲」で「集団的自衛権」を認めることで方針を変えたことを意味します)  リベラルのほうも訂正する力を発揮し、条文自体を変えてしっかりできること、できないことを規定したほうがいい。(35頁)

赤松)実は公明党は、「安保法制」の改定で、「集団的自衛権」を認めていません。いわゆる玉虫色解釈にこだわり、個別的自衛権の延長だとの態度をとりました。公明党も「訂正する力」の発揮には躊躇したのです。

⚫︎「余剰の情報」を沢山発信する立場の強み

赤松)言論の世界でも、(変化の連続で)「訂正する力」を発揮できず、自縄自縛に陥っているケースが多い?

東氏)言論人はそんな変化に対応し、訂正を繰り返す必要がある。にもかかわらず彼らが軌道修正を頑なに避けるのは、そんなことをしたら支持者を失ってしまうと恐怖しているからでしょう。立場を守ろうとするあまり、現実に対応ができなくなっているわけです。(だが、「交換不可能な存在」になると違ってきます)(153頁)

赤松)東さんは、ロシア情勢に詳しい佐藤優(元外務省主任分析官)氏がウクライナ戦争開始いらい「ロシア寄り」だとの批判を受け続けていますが、いまだに活動を続けているのは、佐藤さんが「余剰の情報」を沢山発信してきており、交換可能な専門家ではなく「佐藤優」という固有名で存在しているからだとしています。「ウクライナ戦争」について彼は、当初から「即時停戦」を説いており、創価学会の池田先生の主張に同調してきました。「ロシア寄り」かどうかではなく、生命の尊厳のスタンスからの発信だと私には思えます。

⚫︎平和主義の「訂正」の提唱

東氏)戦後日本は経済復興や国際復帰を達成するために平和国家という物語をつくった。これもある時期までは柔軟に運用されていたが、いまはすっかり硬直化している。(中略) いま、日本に求められるのは平和主義の「訂正」だと思います。(214頁)

赤松)東さんは最後に「平和とは戦争の欠如である。政治の欠如である。政治と離れた喧騒に満たされていることである」とする一方、「日本はもともと文化の国」「政治と交わらない繊細な感性と独自の芸術をたくさん生み出す国」だったと述べています。日本は武力を放棄したという理由で平和国家なわけではなく、そもそもそういう国だったからこそ平和国家なのだと、「平和主義」観を訂正して見せています。

東氏)右派が軍備増強を唱え、左派が平和外交を主張する。例によってゼロかイチかの対立になっていますが、本当は二者択一ではありません。どっちもできる。(217頁)

赤松)それって、公明党のスタンスでした。ほどほどの軍事力と縦横無尽の外交力の発揮です。かつて、公明党の平和主義は「行動する国際平和主義」だと規定しました。座して死を待つのでもなく、かと言って、軍事力増強のみに走らないものだと強調し、一定の軍事力のもとに、外交力と文化力の相乗効果を発揮する必要性を訴えたものです。中道主義の面目躍如たるところです。

 【余録】なお、この本は最後に日蓮を作為=政治の思想、親鸞を自然=非政治の思想とやや大雑把に誤解を呼ぶ捉え方を示しています。私なら前者はリアルな平和思想、後者を能天気な非武装平和思想と位置付けます。更にまた、ルソーを「訂正する力のひと」だったとして、作為と自然の対立を止揚する「自然を作為する」立場に立っていたと、持ち上げています。日本復活には、伝統を活かし、世界に発信していくこと。訂正する力を取り戻すこと。平和を再定義することだと結論づけていますが、竜頭蛇尾の感は免れない結論です。(2025-3-17)

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【168】日本の教育現場の惨状をどうする?━━高嶋哲夫『アメリカの学校生活』を読んで/3-10

 またも高嶋哲夫さんの本である。しかも学校教育もの。もういいよって声が聞こえてきそう。でもそう言わないでほしい。とっても価値あるアメリカ学校現場探訪記といえるので。ただし紙の本はもう絶版だから書店では手に入らない。彼のもとにも2冊しか残っていないという。で、彼が送ってくれたのは紙の本ではなく、デジタルデータである。昭和56年(1981年)に書かれたもので、先日取り上げた『カリフォルニアのあかねちゃん』と共に、彼の作家生活の初陣を飾る対をなす。私のアイパッド画面いっぱいに極小文字が横長で並ぶ。同時に文字の拡大を拒む仕様とあって、読み辛いことおびただしい。読みかけると一気に目が斜視度を強め近視もさらに進みそうなんで、ゆっくりじっくり時間をかけた。高嶋さんによると、今アマゾンでは17505円の値が付いている貴重本とのこと。ということで、頑張った。ここではこの本のさわりの部分をご紹介した上で、日本の学校教育との比較を試みたい◆アメリカの義務教育と、大学での生活のあらましについては、最新ブログ『後の祭り回想記』No.206(3月8日号)に書いているので、それ以外のものについて日本に見られない特徴を挙げておく。まず英才教育についてMentai Gifted  Minor (MGM)と呼ばれるものがカリフォルニアの例で述べられている。心理学の専門家が各学校を周り、2年生以上の児童の中から教師の推薦で選ばれた子どもに知能テストを行う。IQ132以上のものたちを選び出し、MGMクラスに入れて特別教育をしていく。このクラスには州から特別な予算が支給され、それぞれの才能に応じて能力強化への便宜が図られる。科学や芸術分野に興味を持ち、それなりに力があると認められると、特典が得られるというのは驚く。なんだか社会主義国家みたい。また、初等教育の中での教える側のボランティアの存在というのは、日本と大きく違う。例えば、ルームマザーという人たちが教員と共に生徒たちの面倒を見ていく。父兄と先生が一緒になって子供たちを育てるという発想である。また、米国では家庭が学校の代役をする仕組みもあるというから実に自由そのものだ。もちろんアメリカの学校現場にも多くの問題はあるのだが、日本のように中央集権国家ではなく、50の州ごとに各地域の独自色を発揮しながら自由そのものの教育展開は、突出した人材を生み出すのに好都合なのだろう◆一方、足並みの乱れを恐れがちな日本は、結果として画一化に靡いてきた。戦後80年。これまで日本の教育は文部、文科行政による「詰め込み教育」の是非を巡っての「ゆとり教育」導入の混乱など、その定見のなさが指摘され続けてきたことは周知の通り。気がついたら、世界各国の大学との格差が只ならざる歪みを示しており、愕然とする。学校現場は、①教員の長時間の過密労働②教員の志望者減③教員不足・未配置④非正規教職員の増加⑤精神疾患など病休者・中途退職者増⑥不登校やいじめに対する子どもの指導やケアの不足など数多くの問題で疲弊していると言わざるを得ない。つまり日本の教育はインフラから、表面上の見栄えまで。ことごとく元気がない。この現状はなぜか、これをどうするのか◆偶々9日に神戸で開かれた教育講演会で、栃木・作新学院大の渡邊弘学長が来られるというので駆けつけた。この人、自民党の船田元氏(元経企庁長官)の盟友的存在と聞く。講演では、日本の教育現場が幾たびも危機が叫ばれた末に、遂に今危急存亡の危機に直面していることを強調された。それを救うのは「人間主義の創価教育しかない」との漲る確信。牧口、戸田、池田と三代会長の教育に関する箴言を散りばめた講演の迫力には改めて心揺さぶられた。慶大での恩師・村井実教授からの直伝がご本人の「創価教育研究」の契機になったとか。知らずにきた。内に教育現場の混乱。外に国際社会の暗雲。「二重の危機」に苛まれている日本の現状を、10年大学の後輩になる教育学の泰斗から突きつけられた。恥ずかしい。危機に至った根底の責任は共に政治にあると思うがゆえに胸締めつけられる思いがする。創価の庭で育って60年。公明の旗の下で動いて30年。一体自分は何をしていたのか、と。(2025-3-10)

 

 

 

 

 

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【167】これ一冊でトランプの国との違いが分かる?━━渡辺将人『アメリカ映画の文化副読本』を読む/3-2

 今のアメリカを理解するにはこの本が一番だと聞いた。誰に教えられたかは忘れた。本の裏表紙を見ると、シカゴ大学で修士課程を終えて、早稲田大大学院で博士(政治学)になった後、米下院議員事務所・上院選本部やテレビ東京報道部経済部、政治部記者で働いて、後に北海道大准教授を皮切りに米国の幾つもの大学で客員研究員をやってきて、今は慶應義塾大の総合政策学部大学院政策・メディア研究科准教授とある。早速元テレビ東京記者で(公明党番記者だった)今は京都先端科学大(KUAS)の教授になっている山本なみさんに確認したところ、なんと、かつて一緒に働いていたと聞いた。一気に親近感が湧き、読み始めた。めちゃくちゃ面白い。アメリカに興味がある映画好きなら堪らないほど気にいること請け合いである。①都市と地域②社交と恋愛③教育と学歴④信仰と対抗文化⑤人種と民族⑥政治と権力⑦職業とキャリアの7章と、末尾に「エッセイ━━アメリカ映画とドラマがある日常」が付け加えられている◆要するに、アメリカのメディアや選挙の裏表を知り抜いた政治学者による文化解説と、映画レビューに政治・社会分析が重なった本なのだが、ここに登場して重要な役割を果たす映画は、全部込みで292本(言及された作品リストも末尾に)ある。そのうち私が観たと記憶にあるのは、『シッコ』『トップガン』『ホーム・アローン』などほんの数本。最近のものが主流で「懐かしのシネマ」集ではないから、これから観る楽しみがいっぱいあるので嬉しいと、痩せ我慢を言うしかない。ついでにいっておくと、この本の魅力は、映画の解説が主ではなく、アメリカという国の成り立ち、仕組みから文化そのものを解読するために映画が使われているのだ。加えて、「英語学習のための映画・ドラマ」のコーナーでは、映画を使った英語の学び方が披瀝されている。これは、もはや今頃知っても遅いとしか言いようがない「万年英語学習青年」にとって、〝無用のお宝〟かもしれないが、大学や高校に合格した春秋に富む青少年にプレゼントしてあげたら、大いに喜ばれること、間違いなしと思われる。さらに「アメリカ推薦図書」も付いていて、至れり尽くせり。もっと若い時にこういう本に出会っていたらなどと、ついぼやいてしまう◆さて、少しは本文の中身も紹介しておかねば。現在の日本にはなぜGAFAMなどといった先端科学のトップを走る企業が皆無で、国力のレベルが低迷してきているのか。このところの私の関心もここに集中しており、第3章「敎育と学歴」、第7章「職業とキャリア」を併せ読むと、日米教育比較が分かりやすい。「アメリカ式教育のポイントは知識やファクトの丸暗記ではなく、それらの曖昧な知識をどう論理立てていくか、いわばどう点と線で結ぶかにある。学校は知識伝達の場ではなく、各自が吸収した知識のつながりや、意味を教員やクラスメートの意見の比較などで形成していく場だ。ディベートも多用される」とあったあと、「ディベート教育を知る上で役に立つ映画は『リッスン・トゥ・ミー ディベートに賭ける青春』(公開時『青春!ケンモント大学』だ」(第3章117頁)という具合に映画が紹介されていく。また、「履歴書の日米差も興味深い」というくだりには驚く。米国では写真を貼る習慣がないし、性別も知らせなくていい。その上、「学歴は『学位』とGPA(成績平均)しか書けない。結果が出せなかった途中努力や『隙間』に関心のない社会なのだ。アメリカの大学についての俗説『入るのは簡単だが出るのは難しい』は、『出ないと入ったことまで無にされる』と言い換えたほうがいい」(第7章293頁)と、こと細かにアメリカ社会が日本との比較で語られていく◆私の世代は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われた時代の遠い過去の誤認識で固まっていて、「なぜ最近の日本は」と嘆きたがる傾向がある。ヨーロッパから見て遠く東の果ての島国に住む我々は、まさにガラパゴス化ぶりが一段と鮮明になってきたことに気がつかないのかもしれない。この本でアメリカ文化と日本文化の違いを改めて知って、さてどうするか。「インバウンド4000万人」の報に喜んで、世界と隔絶した自然風景の豊かさと人情の細やかさを売りものにする孤島で満足するのが日本の未来像だと割り切るのが関の山かもしれない。(2025-3-6 一部修正)

 

 

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【166】自民党主導の古い教育行政への疑問━━広田照幸『学校はなぜ退屈で なぜ大切なのか』/2-22

 国会における予算案審議がやま場にさしかかっており、与野党の折衝で「高校の授業料無償化」が大きなテーマになっている。そんな折に理論誌『公明』3月号で興味深い論考を見つけた。タイトルの頭に、「『教育の党』公明への期待━━」とつけられた上で、「『人と予算』の拡充で学校現場の課題は解決できる」とある。長時間労働や教員未配置など過酷な教育条件の下で、困難な教育課題解決に奮闘している学校の先生たちを救う手立てが予算増だとの主張である。学校現場には、教えられる子どもの側の、いじめ、ひきこもり、自殺といった悩みと共に、教える側の方にも多大な課題がある。それへの支援を訴える内容なのだが、最初と最後に公明党への期待と不安が垣間見え、気になった。一方、21日の衆議院予算委で公明党の浮島智子議員が、高校授業料の無償化に関して、より一層の支援拡大を主張するとともに「質の高い教育と両輪で考えるべきだ」と強調していた。こういった教育にまつわる直近の状況を背景に、広田さんの本を読んだ◆この本は、教育学研究者としての長年の蓄積を持つ著者が若い人向けに、教育と学校について語った長編のエッセイである。冒頭に述べたような今の世の中で話題になっているテーマの、基礎部分に横たわると思われる問題についての見解が述べられている。①教育と社会化②学校の目的と機能③知識と経験④善人の道徳と善い世界の道徳⑤平等と卓越⑥人間とAI⑦身の回りの世界とグローバルな世界といった7章立てだが、私自身が興味深く読むに至ったのは、④の道徳と⑥のAIをめぐる議論である。前者は古くから論じられてきた定番ものだが、後者はごく最近になって浮上してきたニューフェイスである。読み終えて、新旧両課題に深く関わる問題に共通するものがあることに改めて気づいた。それは何か◆道徳教育のあり方を考えようとすると、「途端に気が重くなる」と著者は正直に吐露している。なぜかというと、「道徳とはそもそも何か」「どういう道徳を教えるのか」「道徳は教えられるのか」などといった「面倒な問い」に直面するからだ。著者は「道徳」の問題には「(あるべき)自己の問題」と、「(あるべき)世界の問題」との2種類の問題群がありながら、学校現場では前者のみしか、教える対象になっていない、と指摘する。「今の学校教育は『道徳教育の教科化』とかが進められてきたにもかかわらず、子どもたちが『善き世界の倫理』について考え、判断能力を磨く機会が欠落している」というのである。こう展開する著者の口ぶりは、「政治家の古びた道徳論」「『教育勅語を学ばせろ』と叫んでいる政治家の行状をみると、『この政治家自身が道徳的に見て大丈夫か?』と思う」などとの記述にみるように、政治家への不信が漲っている。「国が一律の道徳的な中身を定めて学校で教えさせるというやり方は果たして妥当なのか」と、「道徳」をめぐる根源的な疑問も提起されているのだ。一方、新たな課題としてのAIをめぐっても厳しい。人間とAIが共生していく社会に向けて、今の学校教育は①雇用変動への対応育成②社会設計をめぐる公共的な議論③人間のみが享受し得る文化(芸術、文化、身体運動)を身につけるために、必要な技術、知識、スキルを持つ必要がある。それには未来社会の選択の方向を左右する政治のあり様が決定的に大事であるとの結論に到達する。つまり、以上述べたように、道徳、AI2つの課題解決の前に立ちはだかるのは、共に「政治」なのである◆今の日本の「教育」現場が直面している問題は、政治家、特に保守政治家(自民党文教族)が高い関心を持ってきた「思想的偏向」への警戒から、いわゆる「民主主義教育」に反発してきた歴史がある。だが、その総決算として、70万件を超える膨大な数の「いじめ」、30数万人にも及ぶ「引きこもり」、そして毎年増えていく「自殺者」件数(2024年度で527人)という暗い数字があるのかもしれない。しかも、大学教育の所産も昨今のレベル低下ぶりは悲惨な姿という他ない。そういった事態打開のためには、冒頭に述べたような「高校授業料の無償化」だけでは、かえって公私の格差拡大に拍車をかけることになるのが関の山だ。当面する課題解決のみに囚われていては禍根を残す。「潤沢な予算」で人材を供給するのと、ダイナミックな「教育理念」で人を育てる試みは「車の両輪」に違いない。旧態依然とした「学習指導要領至上主義」から「自由」をキーワードにした新たなる目標への転換こそが、教育行政の第一歩であろう。(2025-2-23)

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【165】40年前の遥かなる学校からの呼び声━━たかしま てつお『カリフォルニアのあかねちゃん』を読む/2-16

 著者の高嶋哲夫さんは、今でこそ日本の最先端の課題を鋭く抉る小説家だが、今から50数年前はアメリカ・ロサンゼルスに住んで大学に通いながら、日本語学校の先生を三年ほどしていた。その後、帰国して1980年代半ばに、この本と共に『アメリカの学校生活』を出版する。これら2冊が処女作となった。その後、私塾の教師、経営を続けながら、やがて作家一筋の生活に入った。私とはこの5年ほど親しいお付き合いをさせていただいている。いささか大袈裟だが、今では「日本の教育改革」に向けて「共同戦線」を張ろうとしている仲である。しばしば〝共戦のための懇談〟を繰り返す中で登場するのがこの2冊の本のこと。とりわけ『カリフォルニアのあかねちゃん』を口にされる機会が多い。もう絶版状態のようだが、ご本人はどこかの出版社が再び発刊してくれないものかと熱望している。つまり、日本の学校教育の現場を根底から変えるための、「遥かなる狼煙」とでも言うべき存在の本なのである。そんな重大な役割を持つものの、今ではすっかり赤茶けてしまった古本を読んだ◆この本の出版元は三修社。「異文化を知る一冊」との触込みで数多くの本をシリーズで出している。裏表紙には「傷心のママに連れられて見ず知らずの地ロサンジェルスにやってきたあかねちゃん。遠い異国の地での二人の新しい出発は?どんな時にも誇りを持ってたくましく生きている人達との心のふれあいを通して、あかねちゃんとママが明るく強く生きていく様子が描かれています」とある。夫と離婚したママが親の反対を押し切り、心機一転を期して小学一年生の娘とアメリカに飛び、悪戦苦闘する物語である。それはそれで読み応えはある。しかし、著者の真の狙いは別にある。アメリカの子供たちがどういう学校教育を受け、日常生活を過ごしているかを、日本人に知らせようとしたものなのだ。後年、著者自身がこの本を通じて訴えたかったことをこう書いている。「(この本は) 普通の家で、小学生から高校生までの教育を行っている『学校』について書いてある。上級生が下級生の勉強や面倒を見る、縦割りで自由な教育だ。日本の『フリースクール』に似ていなくもない。もっと、本格的な自由教育にしたものだ。僕がアメリカの教育で感じたことは、『自由』『個人』『多様性』『才能の重視』といったことだ。服装、考え方など、すべて自由で、個性的だった。さらに移民の国らしく、生活などすべてで多様性にあふれていた」(『電気新聞』2023-9-5付け「米国帰国後の2冊の本」)◆日本の学校しか知らない私にとって、アメリカの学校は未知の世界そのものである。戦後第一世代の私が経験した日本の大学の風景は、入学までの苦労に比べて卒業への道は安易だったのに比して、米国のそれは、入ってから徹底的にしごかれるといったイメージだ。平均的なレベルを維持することにこだわって、突出して優秀な人間を生み出すことへの執着はなく、落ちこぼれていく者にもさして手を施さないといった「学校像」といえようか。そんな私がいきなり40年ほどの前のアメリカの自由そのものの〝授業風景〟に接触して、ただ驚く。紹介されているライナス・スクールは、「一年生だからここまで、ということはなく、その子供にいちばんあった方法を、先生と子供と父兄がいっしょになって、考えながら進めていくのだった。だから、登校拒否というようなこともなかったし、落ちこぼれということもなかった」という。また、最上級生が一年生を教える場面も紹介されている。和気藹々と楽しくみんなが過ごす小学校の雰囲気はとてもユニークという他ない◆お仕着せがましく、画一的で退屈極まりない日本の学校教育の現場と、いかに違うか。「教育」を巡っては百人百様の考え方があろうかと思われる。私は日米の教育現場比較についても、どっちが良くてどちらが劣っているかは一概に言えないと長く思ってきた。しかし、昨今の子供たちの世界における約70万件もの「いじめ」、約34万人に及ぶ「引きこもり」、そして「自殺」の急増(24年は527人)などといった荒廃ぶりを聞くにつけ、これは大変なことで、何かが狂ってると思わざるを得ない。一方で、世界の大学ランキングでの東京大学以下の日本の大学の学力低下という知的基盤の劣化、さらには最先端科学分野での著しい荒廃ぶりなど、目を覆わんばかりの〝教育の成れの果て〟も気になる。加えて、AIやSNSの凄まじい発展によって、子供たちの知識、情報源は学校で教えられる以前に、直ぐに手に届くところにある。考える行為をすっ飛ばして答えが容易に得られる状況の中で、教師の役割はまた中々難しいように思われる。なぜ、日本ではGAFAMのような飛び抜けた起業家による先進企業が生まれないのか。高嶋さんは、文科省の学習指導要領に最大の問題ありというのだが、当の文科省には未だ変える意思はない。ここいらについては、改めて考えていきたい。(一部修正 2025-2-17)

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【164】初めはただの老人のごとく後は?━━筒井康隆『敵』を読む/2-9

 筒井康隆さんの本を過去に読んだのは『文学部唯野教授』くらい。私が通った中学校がある垂水に在住する人ながら殆ど疎遠な存在だった。尋常唯ならざるその作風に恐れをなして、正直一筋でひたすら真っ当な論考や小説を好んできた私は自然に遠ざけたというのが正直なところである。そんな私が興味を持ったのは、NHK テレビでの『100分de名著』シリーズでこの作家を特集していたものを観たことによる。数ヶ月に一回、集中的に1人の作家の作品を4-5人の多彩な「本読みの手練れ」が一堂に会してあれこれと論じるのはまことに興味深い。今回も1月3日に放映されたものをしっかり観た。中条省平、大森望、菊池成孔、池澤春菜、カズレーザーという連中が事細かに「料理」していた。その最終部分に映画『敵』を監督した吉田大八さんがコメントで「老いを受け入れて楽しむという普遍的なテーマ」を表現しており、「世界文学のレベルに到達している」との激賞ぶりに注目、原作『敵』を電子本で読んだ◆ここでタイトルの『敵』は何を意味するのか。一般に敵はうちとそと、内外両面が考えられよう。うちなる敵は老いを増すにつれて現れる身体、精神双方の老化による自壊であろう。もう一方、そとなる敵は、小さくは我が身に害をなす他人であり、大きくは地震や大豪雨などの自然災害であったり、いわゆる敵国と呼ばれるような侵略してくる外国勢力であろうか。先のテレビ番組での放映シーンでも、注文すると同時に送られてきたKindleの目次でも大枠でそういうことに違いないことが分かった。ただしその文字による表現や描写は、この作家らしく一筋縄ではいかない。具体的な外敵なのか。老化の末に忍び寄る死なのか。こう真面目に考えてしまう。元大学教授の75歳の老人。妻に20年ほど前に先立たれ、東京山の手の住宅街でひとり住む。この主人公の日々を、自身が微に入り細に渡ってこと細かに語っていく。という手法なのだが、まさに、衣食住、春夏秋冬、朝から晩までの生き様の「老年図鑑」「老年解体」でも呼べるような、極めて異色の物語風読みものなのである◆まず、文体が奇妙である。ほぼ全文、時折の例外を除いて、読点がない。ずっとそのまま区切りなく文章がつづく。(といっても、突然、読点が復活したり、まずは気まぐれというほかない)。それでも読みづらくはない。また、雀の鳴く様子を痴痴痴痴痴痴宙宙宙注注注と表したり。人間の泣く様子を、翁翁翁翁、懊懊懊懊と擬音を当て字で描いてみせる。おまけに巻末に、ただ雨の降る様子を使徒使徒とか死都死都と書いて、あとは一面空白などという独自の表現方法を駆使して読者を翻弄し、夢想の世界に引き入れるといった風である。もはや私のような真面目人間にはついていけず、解説の川本二郎氏に頼るしかないと、隣席の友だちの答案用紙をカンニングをするように目をやると、まるでその彼も困惑しているかのようだった。でも、勿論私よりはマシで、あれこれと書いてあり、いつか教師の目も気にせずに、じっと見入ってしまった昔のあの頃を思い出す◆川本は、老人のパソコンをしている様子についての表現が、ある時から「謎めいた不可解なメッセージが入るようになってくる」として、「敵です、敵が来るとか言って、皆が逃げはじめています。北の」とのくだりをあげて、その表現の気味悪さを指摘する。「『敵』とはなんなのか。具体的な侵略者なのか、それとも朦朧としていく意識の中に突然やってきた死なのか」と。正直に告白すると、私は電子本の52%あたりの「敵」という項目で、もう真面目に読むのを放棄したくなった。初めはただの老人のごとく、終わりはわけわからん。もう後は飛ばし読み。ひたすら映画を観て、この部分の映像の作り手の理解を待つしかないとの気分になっている。新手のカンニング方法を編み出して答案を書くいとまもなく、白紙で出した昔の悪夢を思い出しながら。(2025-2-9)

 

 

 

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【163】安克昌『心の傷を癒すということ』から連想する/2-1

 あの震災から30年が経った「今」に私たちは生きている。その「今」から、当時を振り返り、この30年の持つ意味を考え、考える自分とは一体何者なのかに思いを馳せる。連想は新たな発想の源になり、明日への活力になるかもしれない。いや、単なる妄想に終わるやもしれない。━━そんなことを考えるきっかけになったのが、安克昌の書いた『心の傷を癒すということ』である。ここでは、この本を読むことで、湧き出でてきた「私の想い」を記してみたい。

●被災地で見た心の傷の有り様の数々

 起点となった1995年は、恐るべき災害が連発した年だった。1月17日の大震災発生。3月20日の地下鉄サリン事件。大自然の活動による社会の破壊と、人間の妄動による社会の混乱。二つながらに近代日本に類例を見ないほどの大きな規模で〝心の傷〟をもたらした。あれから30年。「失われた」との形容を付けられて語られ続けている時代はまさに1995年から始まったのである。

 安克昌は、大阪で生まれ育ち、神戸大学医学部に学び、著名な医学者・中井久夫の弟子的存在となった。精神医学の分野で巨大な足跡を残した中井の書き残したものは数多の日本人に影響を与えてきている。弟子の安もまた、「阪神淡路大震災」のせいで『心の傷を癒すということ』を残すに至り、師の中井に迫る「大仕事」をした。そのゆえもあってか、震災後5年、39歳の若さで帰らぬ人になってしまった。

 彼はこの本で、被災地で見た人々の心の傷のリアルな有り様とその変化を書き、どうそれらが癒され、あるいは癒されずに、生きていくのかについて、実例をつぶさに追った。そして周囲の人々がどう関わるとよいのかについても加えた。私は彼の師匠・中井の本は読んできたが、弟子・安のものは読んでこなかったし、その実態を描いて人々の心を捉えた映画もTVドラマも見ていない。精神科医・宮地尚子の解説本で安を知った。

●「世界は心的外傷に満ちている」

 「家族にいたわられ、避難所の人たちと苦楽を分かち合い、新しい家を見つけ、安らぎを与えてくれる自然と出会った。(中略)  それぞれはほんの小さなことである。『治療』や『ケア』ということばでは語れないものである。だが、このような小さな契機こそが回復には大切なのである」━━「小さな契機」が傷を負った人の「回復」にでっかい役割を果たす。傍観者には響かぬであろう、さりげないことばがぐっと迫ってくる。

 「大げさだが、心のケアを最大限に拡張すれば、それは住民が尊重される社会を作ることになるのではないか。それは社会の『品格』にかかわる問題だと私は思った」━━住民が尊重されない社会には品格がなく、「心のケア」に無頓着なのだ、と裏返して読んでしまう。政治家は心して読み、動かねばと思う。

 「世界は心的外傷に満ちている。〝心の傷を癒すということ〟は、精神医学や心理学に任せてすむことではない。それは社会のあり方として、今を生きる私たち全員に問われていることなのである」━━程度の差はあれ、〝心の傷〟を持たぬ人はいない。だがそれを〝癒す〟ことから目をそむけ、他人任せにする人は多い。社会全体が関心を寄せるようになるには、阪神・淡路、東日本、熊本、能登半島だけでも、未だ足りないのか。

●「戦争被害」と「自然災害」の二重奏の衝撃

  戦争体験がいかに当事者に〝心の傷〟をもたらすのかについて、克明に描くドキュメンタリー映像を観た。血が噴射するかのように飛び散り、内臓が剥き出しになり、四肢がもがれる。正視に堪えない悲惨な現実を目の当たりにしてしまった兵士たちは、戦場から離脱し、精神のバランスを失い、のべつまくなし身体を震わせ、まともには歩けない。欧米でも、中東でもアジアやアフリカでも、日本でも、つまり世界中で全く同じことが起こっている。帰還兵たちのPTSD(心的外傷後ストレス障害)がいかに凄まじいものかを知った。

 「世界は心的外傷に満ちている」と、安が言った現実がこの30年で定着してしまった。〝自然災害と戦争被害の二重奏〟が人間に、生物に、生きとし生けるものにどれだけ「衝撃」をもたらすか。1945年いらい、「戦争」とは直接的には無縁できた日本人を「覚醒」させるかのように起きた「阪神淡路大震災」は、〝ぼんやり生きること〟がいかに「悪」であり、「罪」であるかを突きつける。もう痛めつけられるのは十分でないか。

安がこの本で示した「傷の回復とは、受け入れ、もがき、新しい自分と折り合いをつけていくこと」の大事さを噛み締めたい。(敬称略 2025-2-1)

 

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【162】現実的プロセスへの15の提言━━吉田文彦編著『核なき時代をデザインする』を読む/1-25

 毎年1月26日が来るたびに、心躍らせてきた。その日に池田大作創価学会SGI会長が「平和」とりわけ「核廃絶」に向けての様々な提言を行なってきたからである。スタートは50年前、1975年(昭和50年)。提言そのものは、1983年(昭和58年)から2022年(令和4年)まで40年続けられた。今回はどんな提言がなされるのか、と興味を募らせ、期待を大きく膨らませて待ち望んできたものだ。時あたかも「半世紀後」という節目の年を前にした昨2024年にノーベル平和賞を日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が受賞したことは、とても意義深いことであった。同団体を陰に陽に支え続けてきたSGI がノルウエー・オスロでの授賞式(2024-12-10)に招かれたうえ、翌日同地で開かれたノーベル研究所主催の『平和賞フォーラム』に後援団体として参画した。こうした一連の動きに感慨深い思いを抱いていた昨年暮れに、ズバリ『核なき時代をデザインする』とのタイトルの本が手元に届いた。吉田文彦(長崎大学核兵器廃絶センター(RECNA)センター長)を中心とする専門家たち12人の共著だが、そのうちのひとり河合公明・長崎大教授(RECNA副センター長)から送られてきたものだ。学術的色彩が強い本だが勇気を奮い起こして挑戦した◆河合さんは、現在は長崎大教授だが、初めて会った頃は創価学会平和運動局の一員だった。著名な寺崎広嗣氏(同総局長)の後輩として、いつも一緒だったと記憶する。もう20年ほども前のことになろうか。てっきり寺崎氏の後継者の道を歩まれるものと思っていたら、学問の方に進まれ、先頃ついに上り詰められた。元々研究熱心で英邁な人との印象を受けていたから、驚くことではないのだが、学者はあまたいても実践者は少ないだけに少々惜しい気もする。昨今の風雲急を告げる国際政治情勢下にあって、ひとり東奔西走して世界を股にかける寺崎さんの苦労を思うときに、一層痛感せざるを得ない。この本は、日本学術振興会の科学研究費助成事業(科研費)に基づく研究プロジェクト「安全保障を損なわない核軍縮」の成果をまとめたもの。国際政治・安全保障、核不拡散、国際法の3グループに編纂者各々が分かれて、調査、整理し分析を加えた内容である。より多くの読者のために、「問題の本質の端的な表現」を心がけ、「核軍縮と安全保障をめぐる議論」の当事者意識の向上に努めたと、まえがきにあるが、それでもなおやや難しさを感じるのは、ひとえに当方の力のなさによるに違いない◆この本のポイントは、最終章における提言━━安全保障のための核軍縮と核廃絶にある、と見る。その提言とは、安全保障のシフト6、核廃絶への制度構築5、持続可能な核廃絶4の【3本柱15提言】に仕分けされている。それぞれを要点(括弧内に括る)と共に挙げてみたい。まず、3本柱その1①恣意的に生命を奪われない「生命権」の普遍化を《「人権+安全保障」戦略の構築化》②核軍縮・核廃絶へ向けた民主主義国の先導力向上《民主主義国の政治資産の最大限の活用》③核使用による破滅リスクをリアルに想定するリアリズムの必要性《核抑止依存諸国のなかで、核使用リスクを直視するリアリズムを広めていくこと》④核軍縮を安全保障政策の中核に《核軍縮を含む軍備管理はマイナスだとの核抑止依存国内の思い込みを排するために、核軍縮が歴史的に安全保障政策の重要な柱であることを強調する》⑤新興技術を活用した通常兵器システム・秩序安定化システムへの重心転換《核兵器の役割を低下させると同時に核使用リスクを下げて、核抑止に依存しない安全保障へのシフトを促す》⑥核の傘国一般と日本についての指針《日本は核なき世界への安全保障シフトへの方策を繰り出すことこそ、日本ブランドだと銘記すべし》。次に、3本柱その2に触れる。①核廃絶を可能にする条約・政策の整備・実行《NPT はあくまで核廃絶への過渡期の条約であり、核廃絶のためにはポストNPTの条約や政策が不可欠である》②フォーキャスティング方式の発展的活用《逆算方式(バックキャスティング)の枠組みのなかで、積み上げ方式(フォーキャステイング)を活かす》③軍縮国際法遵守のための措置(違反事例への対応)《不確定要素が多いため、極めて慎重な判断が必要》④共通言語である国際法による法戦の展開《核戦略の分野へ整合性をとるように、国際法の立場から呼びかける》⑤国際主義のエンパワーメント《2国間、多国間の核軍縮及びそのほかの軍備管理合意を形成していく必要》。最後に、3本柱その3は、①「不可逆性」向上のための核不拡散制度の強化②「不可逆性」を確保する国際的な検証・保障措置機関の創設③核兵器使用の適法性を持ち出す側の説明責任の強化④核廃絶にともなうグローバルガバナンスのシフト《核廃絶に関する国連の改革。核廃絶に必要な国際的枠組みの構築を可能にするような軍縮交渉フォーラムの整備など》。こうして15の提言をまとめてみると、煩雑のように見えかねないが、良識的で重要な提言のように思われよう◆ところが現実の世界ではいたって難しい。結局10年1日のごとく、核兵器「必要悪論」がのさばっているのだ。この本の末尾には、「人新世」の時代に求められる基本原則として①核兵器「必要悪」論から「不要悪」論への転換②地球環境問題などで採用されてきた「予防原則」の適用の2つが挙げられている。日本に限っていえば、残念ながら現実的には、核兵器禁止条約締結国会議へのオブザーバー参加すら実現していない。これなど被爆国日本に求められる方向の第一歩と思われるのだが。公明党の新しい代表の斉藤哲夫氏は広島県選出の政治家としてかねがね核廃絶への積極的姿勢の人としてよく知られている。3月には同会議が開催される。ここは石破茂首相を動かす絶好のチャンスである。トランプ米大統領の顔色を伺うあまり、これすらできないなら、あとは推して知るべしという他ないのである。(2025-1-25)

 

 

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【161】想像したくない未来に戦慄━━高嶋哲夫『チェーン・ディザスターズ』を読む/1-16

明日はあの阪神淡路大震災から30年が経つ。その日を前に、以下の文章を著した。

 昨年末から今年にかけて、ある小説家の2冊の新刊本が、全国紙5紙に5段広告で一斉に出たことをご存知だろうか。明日17日には地方紙の神戸新聞にも登場する。この広告は単なる本の宣伝ではない。日本の近過去から今に至る自然災害の連鎖と、子供たちの不幸な現状の積み重ねが、やがて近未来にとてつもない災いをもたらすとの警告である。著者の強い意志に共鳴した、ひとりのファンがこの警鐘を無駄にさせたくないとの思いを募らせて多額の資金を提供して広告宣伝を出すに及んだという。つまり篤志家の熱い想いが新聞広告というかたちをもって目の前にある。その2冊とは、高嶋哲夫さんの『家族』と『チェーン・ディザスターズ』である。前者については、既に昨年の10月に小欄No.150で取り上げた(「ヤングケアラー」にみる日本の困惑)。今度は後者を紹介したい。既に幾たびか彼の本について語ってきたように、私は彼の友人である。しかも今は単なる本を読むだけではなく、彼が起こそうとしている日本の「教育を立て直す運動」のサポーターになろうとしている◆まず、この本ではいきなり、東海地震と東南海地震が連動して起こる。南海トラフ地震の幕開けだ。その結果、「神奈川から紀伊半島までの太平洋岸が約200キロに渡り、最大震度7、20メートルを超える津波に襲われた」というのだ。死者が5万4千人にも達し、行方不明者が10万人を超える被害が発生した。主人公の早乙女美来環境相(当選2回の衆議院議員)は、状況掌握のためにヘリで総理官邸のヘリポートを飛び立ったところが冒頭の場面である。そこから、県知事や市長が亡くなり、県議会議員も3分の1が死亡したという最も被害の大きい愛知県の状況が第一の危機(第一章)として描かれていく。次に第二の危機(第ニ章)では、首都直下型地震に襲われて、首相が死亡する事態の中で早乙女は防災相になる。そこへ超大型の台風が襲来。首都圏を直撃し豪雨をもたらす。各地で土砂崩れや洪水被害でおおわらわになり、その真っ只中でまた次の首相が死去する。防災相で名を上げた早乙女がやがて新首相に、という流れで第三章「新しい風」が吹く。最初の地震からほぼ半年が経ち、被災地の復旧工事も軌道に乗りかけた途上で、今度は富士山が噴火し猛烈な噴煙が偏西風に乗って百キロ先の首都圏を襲う「最大の危機」(第四章)となる。やがて「首都移転」もやむなくなるといった具合に凄まじいまでの大災害の連鎖(第五章の「未来へ」)が描かれていくのである◆第一章から第五章への展開を時系列で並べてみたが、実はこの小説の中身は著者がこれまで世に問うてきたものばかりである。いやそれだけではない。それに端を発した政治課題なども併せ描いてきた。『M8』『津波』『東京大洪水』『富士山噴火』『首都崩壊』『首都移転』といった一連の小説群がそれである。高嶋さんの「災害予見能力」が卓越しているとして脚光を浴びたのは、コロナ禍が現実のものになるほぼ10年前の『首都感染』だった。私が彼の本で最初に読んだのがこれだが、初めて読んだ時の驚きは忘れ難い。拙著『ふれあう読書━━私の縁した百人一冊』(上)でも取り上げた。このテーマに関連するものだけでも、『バクテリアハザード』『パルウイルス』などあるが、他のジャンルとしては、彼の専門である原子力関連では『原発クライシス』『メルトダウン』『福島第二原発の奇跡』『世界に嗤われる日本の原発戦略』など枚挙にいとまがない。こうして彼の作品を列挙するのは彼の「提灯持ち」をするわけではないのだが、見事なまでの分析とその視点の先にある〝未来予測のリアルさ〟に衝撃さえ覚えるからである◆冒頭に挙げた新聞広告には、「これぞ、高嶋哲夫ワールド」との大見出しに、「2冊の本が一つになる時、日本の未来が見えてくる」とキャッチコピーが続く。ここまでは高嶋ファンとしてよく分かる。だが、その後の、「個人と国家を描いたこの2冊は、対極にある小説である」「しかし、その根底にあるものは、生きること、命の輝きと尊さ、人の夢と希望、美しさと強さだ」というくだりが、少々分かりづらい。単刀直入にいうと、この2冊は日本の近未来は国家も個人もこのように崩壊する過程にあることを描いているのだが、その迷路に嵌らぬようにするには、どうすればいいかはストレートには伝わってこない。上記の「根底にあるもの」としての「生きること」以下の表現が辛うじてその輪郭をもたらすといえよう。著者に直接聞くと、『チェーン・ディザスターズ』には続編が用意されており、『家族』には、政治の世界の対応策と教育現場での真っ当な手立てが求められるという。さて、政治家や教育関係者にその思いが伝わっていくかどうか。(2025-1-16)

 

 

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