Monthly Archives: 12月 2014

この父ありて海舟あり、親子二代「覚悟」の男の生き方

大学時代の級友で土佐の高知に住む豪快な男がいる。なにしろ7億円もの借金をくらってもそう気にしている風には見えない男である。かつて若き日に彼のところに遊びに行った際に、桂浜の竜馬像に行こうということになった。途中でビールや酒を買って、そのうちの何本かを像の前に置いた。竜馬に飲ませると云って。誰かが飲むだけだ、もったいないと私がいうと、そんなことはどうでもいい、とまったく気にもかけなかった。妙に記憶に残るこの男がつい最近神戸にやってきて、久しぶりに逢った。談論風発のなかで勝小吉の『夢酔独言』を滅茶苦茶に面白い、と推奨して帰っていった。勝小吉とは勝海舟の父親のことだ。かねて坂口安吾や子母沢寛や大仏次郎らが勝小吉がいかに豪快無比な人物であるかを書いていることは側聞してはいたが、実際に彼の手になる本などあることさえ知らなかった▼およそひどい悪文というか、誤字、当て字のオンパレードで、段落わけもなしで、句読点もうたれず、会話部分に「」もつけていないので、滅法読みにくいことおびただしい。幾度か途中で投げ出したくなった。正直なところ読み終えて何ほどにこの本がいいのかあまり分からない。解説者によれば、生き生きとした文章であるとか、優れた記憶力を持つ任侠に生きた親分だとかべた褒めなのだが、当方にはとんと分からない。坂口安吾は『堕落論』のなかで、この小吉が書いた本には「最上の芸術家の筆をもってようやく達しうる精神の高さ個性の深さがある」と。この安吾自身、相当に変わった人物ゆえ、変わった者同士は分かりあうということだろうか▼私としては小吉の凄さは分かりかねるまったくの小物だが、息子・麟太郎ことのちの海舟との父子関係には大いに興味をそそられる。明治維新における江戸城無血開城に見るように、勝海舟の胆力は父親譲りの比類を見ない豪快なものである。今、私は明治維新にいたる幕末の15年(1853年~1868年)を細々と研究しているのだが、誰よりも勝海舟に魅力を感じる。彼の書いたものといえば、『氷川清話』で、かつて現役時代に国会議員の赤坂宿舎の裏にあった氷川神社周辺を歩きながらよく思い起こしたものだ。まあ、おやじさんのものより数倍読みやすくはある。「男たるものは決して俺が真似をばしないがいい。孫やひこができたらば、よくよくこの書物を見せて、身のいましめにするがいい」と最後に書いたところを、如何に海舟はじめ子孫たちは読んだろうか。『氷川清話』には一方で少々馬鹿にしながらも、他方で「わが父は潔く、細かいことにこだわらずに鷹揚で、われに文武の業を教えるのに、徐々に勧め励ました」とあるを見ると、反面教師にしながらもその恩義を感じていることが伺える▼勝海舟といえば、私が思い出すのは、漫画家黒金ヒロシが語った勝海舟だ。4年ほど前にNHKで「未来をつくる君たちへ~司馬遼太郎からのメッセージ」というタイトルのもと放映されたものを覚えている。改めてそれのDVDを観てみた。黒金さんが両国中学の男女の生徒たち15人ぐらいと勝海舟の凄さを語り合っている番組だった。そこで、彼は、いかに海舟が「覚悟のひと」であったかを様々な側面から説いていた。マズローの人間の欲望についての5段階説やシュプランガーの学説を引きながらの解説はなかなか観させた。死の間際に勝が「これでおしまい」と言ったことを通じて、普通のひとが陥りやすい不条理感に囚われないためには、自分のために毎日を精一杯に生き抜くことに尽きると述べていたことが強く印象に残っている。小吉や海舟と鷹揚なところが似てなくもないわが級友の過ぎ越し方と、行く末を思いやる年末ではある。(2014・12・29)

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現場で人びとと同苦することこそ人生の極致

ほぼ本年最後の読書録になろうかと思われるものに相応しい本に出くわした。チェーホフの『六号病棟』だ。これは先日紹介した『退屈な話』と同じ岩波文庫に収められており、同じ時期に読み終えたが、あえて別々に取り扱いたい。チェーホフは医師として切実な課題に真正面から立ち向かっており、まことに興味深い作家だ。患者たちがいつも長い時間を待たされたあげくに、三分間ほどだけの診療でお茶を濁されることは日常茶飯事である。昨今はパソコンの登場で、画像を見るだけで医師はついに患者の顔すら見ないで済ますことさえあるといった話まで横行している。しかし、医師は医師として過重極まりない医療労働をするにも関わらず、自身が蓄えた医療の技量に見合っただけの報酬を得ていないとの不満を隠そうとしない▼医師という職業は、わが身を顧みず患者の立場に立ってどこまでも人命救済に立ち向かう存在ではないのか、との思いは今日なお人々の心に強く存在している。この『六号病棟』では、精神、心をを患ったひとと、その患者を治療する医師の二人が真正面から人生の本質をめぐって語ることが中心的な命題として設定されている。煎じ詰めれば、ここで登場する医師は、社会の不公正をもっぱら時代のせいだとしてとらえ、人々が苦しむ現実には不感症で、無責任で、冷淡でさえある。それに対して、患者は、無意識のうちに不公正な特権の上に胡坐をかいて生きてきた医師を鋭く告発する。この小説では医師と患者の対立として描かれているが、医師は特権を得やすい職業の代表であって、他のどのような職業でもより人々の尊敬を集めやすいものはすべて共通しよう。政治家もしかりだ▼その医師が「暖かい気持ちのいい書斎とこの病室との間にはなんの違いもありませんよ」といい、「人生を理解しようとする自由で深い思索と、俗事の完全な無視という二つの幸福さえものに出来れば、人間はどんな境遇にあっても心に平安を見出すことが出来る」と述べるくだりを読んで、まさに自分にも突き付けられた刃だと思った。病室を有権者との出会いに換えれば、そっくり政治家にも当てはまるからだ。今の政治の弛緩しきった実態は、政治家が本質的な部分で「人間の安らぎと満足とは、外部にあるのではなくて、内部にあるのですから」との医師のセリフが示すように、外部にある生身の人間の苦悩を解決することを棚上げし、自身の心のうちに逃げ込みがちなところに原因がある▼ことし結党50年を迎えた公明党は、すべての議員が「大衆とともに戦い、大衆のために戦い、大衆の中に死んでいく」ことを最大のモットーにして全国各地で日々活動をしている。公明党の創立者池田大作先生の根本的指導は常に「現場へ、大衆の中へ入れ」だ。大衆との接触を忘れたものはもはや公明党の議員にあらずとの精神こそ尊い。チェーホフが『六号病棟』で言いたかったことは、決して医師の生き方だけではなく、「ノーブレス・オブリージュ」の大事さを言っているのだと思う。私も現職を辞したからもはや自由だというのではなく、どこまでも大衆の現場での悩み、苦しみに同苦し、解決をはかるお手伝いをする人間でありたい。(2014・12・26)

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九州へのやっかみも吹っ飛ぶ葉室麟の想像力

NHK大河ドラマ『軍師 官兵衛』50回分の放映が終わった。一年の終わりに大河ドラマを振り返ってあれこれと考えをめぐらすというのは、今や日本の風物詩になった感がする。恐らく一般的には気分は来年の主人公である吉田松陰の妹「文」に移っているだろうと思われるが、私は12月24日クリスマスイブにちなんで、黒田官兵衛にこだわってみたい。そう、彼はキリシタンだったから。さらに、このドラマは、官兵衛と長政という父と子の深いえにしを描き、主人と従者の濃いきずなをも表現していた。さらには播州・播磨で誕生し、九州・福岡で実を結んだ黒田一族にも興味が惹かれる▼今年の初めには司馬遼太郎の『播磨灘物語』を再読し、数冊の官兵衛ものを読んだ。この読書録にも取り上げた。最後のお楽しみにとっておいたのが、葉室麟の『風渡る』と『風の軍師』の2冊だ。前者は生い立ちから始まって、秀吉の天下となって、朝鮮と明への野望を果たそうとするあたりで終わる。通常の官兵衛もののパターンに負っている。歴史の通説に従った展開である。一方、後者は全く違う。いきなり「太閤謀殺」という章がたてられ、葉室麟の独創力が大きく羽ばたく世界が次々と露わになってくる。官兵衛にまつわる群書を読み散らしたすえに、この葉室ワールドに出くわすとまことに面白く、その虜になってしまうのだ▼著者の独創と思われるものの最大のものは、織田信長に謀反を起こし、あの本能寺で殺害するに至った明智光秀をその気にさせたのは、なんと黒田官兵衛だったというものだ。しかもそれのみにとどまらず秀吉をも謀殺することに執心していた、と。こう書くといかにも軍師というよりも策師であり、謀略家のイメージが沸き立つが、ことはそう単純ではない。背景には、非道の限りを尽くした信長や、晩年になってその師の姿に似てきた秀吉を討たねばこの世に楽土はこないという考えが横たわる。併せて、キリスト教の存在が大きく迫る▼官兵衛がキリシタンであったことを真正面からとらえ、その意味を発展的に展開したのがもう一つのこの葉室氏の独創のすごさだ。『風の軍師』では、九州をキリシタンの王国にして、やがては日本全土に広げようとの遠大な構想をもっていたことをベースにしており、まことに壮大無比だ。当初はあまりに荒唐無稽だと思わないでもなかった。が、「このような想像力を飛翔させた作家は葉室氏以外になかった」し、それは「キリシタン伝来の中心にあった九州というローカリティに腰をすえることで、逆に世界史的視野を得た」という湯川豊氏(文芸評論家)の解説を読み首肯するに至った▼私のような播磨人は、「官兵衛は播磨を忘れてしまったひと」だとのそれこそ小さな地域性にとらわれがちだった。ある地元の言論人に言わせると「官兵衛は裏切り者だ」とまでいう。それは恐らく、九州の黒田の根拠地を「福岡」とし、「姫路」と命名しなかったことにあるのかもしれない。福岡の呼称は、備前(岡山)にある黒田家ゆかりの地の名に由来するからだ。今回の大河ドラマは降ってわいた「官兵衛ブーム」を姫路にもたらした。ある日、バスに乗っていて若いカップルが「お前、黒田官兵衛って知ってたか?全然そんな人物が姫路に生まれてたなんて、これまで知らなかったもんなあ」と言い合っていたのが印象的だった。姫路と黒田官兵衛の関係などその程度との見方もある。そこへ、官兵衛はキリシタン王国を九州に打ち立てようとしていたのだと葉室氏に聞かされると、播磨人としては「参りました」という他ないのである。(2014・12・24)

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むなしく時が過ぎるだけの「北」との関係

私には北朝鮮や韓国の専門家が友人に多い。小此木政夫、古田博司の二人が双璧だが、他にも伊豆見元、重村智計氏らがいる。私が現役時代にこの4人は一度は公明党の外交安全保障部会の場に呼んで、講演をしてもらったものだ。前二者はこれまで幾度か取り上げてきたが、後者の二人はほとんどない。このうち伊豆見さんと知り合ったのは1980年代後半、故中嶋嶺雄先生(元東京外大学長、前秋田国際教養大学長)のアジア・オープンフォーラムの会議やら、台湾への旅で、だ。また、重村さんとは、米国への視察旅行先のワシントンのホテルで偶然に出会い知りあった。彼が毎日新聞記者をされていたころだ。もう20年近く前のことになる▼ネットで見ると、重村氏は伊豆見さんのことを厳しく非難しているようだ。その著作で、学歴詐称の疑いがある、と。名指しは勿論避けているが、明らかに彼のことだとわかる書きぶりだ。両方を知っている身からすると辛いし、あまり関わりたくない話ではある。他にも島田洋一氏(福井大教授)がそのブログで叩いているから、伊豆見氏はなにかと標的にされやすいのであろう。いくつか理由があろうが、最大のものはテレビや新聞メディアにしばしば北朝鮮ウオッチャーとして登場する割には、ご自身の手になる著作がない(訳本や共著はある)ことが原因ではないかと思われる。学者という存在は相互に喧嘩が絶えないようで、陰口を耳にするには事欠かない▼その彼が昨夏に出版したのが『北朝鮮で何が起きているのか ー金正恩体制の実相』で、つい最近まで知らずにいたが、偶然に本屋で発見した。朝鮮半島、とりわけ北朝鮮については情報も限られており謎がまだまだ多い。ゆえに、それを書物という形でまとめることは危険が多かろう。得体のしれないものに一定の見方を提示することは相当に勇気がいるからだ。この本では、①2012年4月以降の挑発の実相②金正恩体制の構造と政策課題③北朝鮮はどこに向かうのかーの三章に分けて解説をしている。究極のポイントは「金正恩指導部の三つの課題と三つの条件」である。国民生活の向上、対南関係の安定化と対米・対日関係の正常化という課題に対して、一定の成果をあげるには①非核化②弾道ミサイルの放棄③韓国に対する挑発行為の停止という三条件を満たさなければならない。しかし、これは国際社会にとって必須の前提条件だが、北朝鮮にとっては到底受け入れられない。結論は「時間だけがむなしく過ぎていく可能性が高い」ということになる▼これから日本はどうすべきかについて、伊豆見さんは、日本は今後も北朝鮮との国交正常化を目指していく必要がある、としたうえで、「北朝鮮を『国際社会の責任ある一員』とするべく」、「『生まれ変わらせる』べく努力を続けていかねばならない」と結んでいる。確かにそうなのだが、この「べき」論はそう簡単ではない。アメリカとキューバの国交正常化という新事態を横目で睨みながら、いよいよ地上最後の関係正常化を必要とする標的に「北朝鮮」がなったことに緊張を覚える。伊豆見さんの本の顔写真を見ながら、彼を傲岸不遜な男だという指摘(ネットで見た)は的外れで、わたしからすれば「程のいいひとなのになあ」と同情の思いは禁じ得ない。ま、出る杭は打たれるのか、とここでも平凡な感想を抱くに至った。(2014・12・23)

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退屈さを忘れさせる若きチェーホフの話

自分が好きな書き手がその本の中で推奨しているものにはすぐに触手が動くものだ。先に古田博司さん(筑波大教授)の『ヨーロッパ思想を読み解く』を読んでいると、あれこれと本やら学者、評論家への誘いや注文がでてきた。なかでもチェーホフの『退屈な話』についてのくだりに惹かれた。「学者にも知性や理性の欠けた人がいる。勉強と研究で悟性だけを集中的に鍛えるからだ」として、悟性を働かせ過ぎると、概念に頼り過ぎるようになり、時代の変化とともに、現実的な妥当性を概念が失うと、そうした学者の権威は急速に失墜すると古田さんはいう。このチェーホフの本では「晩年にこの事実に気づいた老教授の悲しむべき述懐が象徴的に描かれている」、と。チェーホフとはあまり馴染んでこなかったが、選挙戦のさなかの移動時に読み進めた▼『退屈な話』の翻訳をした松下裕さんは、(きわめて読みやすく分かりやすいので、私はかなりの名訳だと思うが)「解説」で興味深いことを述べている。チェーホフが「死を目前に控えて生涯『共通の理念』を持とうとしなかったことを自覚した人間として主人公を描いた」うえで、「家庭からの疎外感と、学問的名声が人生のどんづまりに来てなんの役にも立たない惨めさとが、その生き方に対する応報だった」と。また、「老教授が次第に陥る人びととの『共通理念』の喪失こそが実生活上の無能力を生み、社会の停滞の原因となる、とその人間的堕落を警告している」とも指摘する。ここでチェーホフがいう「共通の理念」とは、「他者と『共生』して行こうとする意志」をさし、それを持つためには、「他者の生き方に対する生き生きとした関心が必要」なのではないかと松下さんは説く▼ここらの松下さんの読み方には、いささか違和感を感じる。私の耳にはまた違ったチェーホフの声が響く。「自分自身を突きつめたいという気持にも、あらゆるものについて自分の作り上げているすべての思想、感情、観念にも、それらをみな一つに結びつける何か共通したものがないのだ」というチェーホフは、さらに「どんなに敏腕の分析家でも、いわゆる共通理念、あるいは生身の人間の神を見いだすことはできないだろう」と述べている。ここでいう「共通の理念」とは、松下さんの言われるようなものではなく、私には、世界を解釈する上での適切な哲学思想を指すものだと思われる。それは古田さんのいう、時代進展のなかで現実的妥当性を欠いてしまう概念に依拠する科学ではない。そうした人びとに共通の哲理のようなものを持たないと、必ず人はその生の最終局面で途方もない行き詰まりを感じるはずだと信じる。私には、『退屈な話』の主人公が単なる科学信仰に生きて、晩年になり、その信じてきた科学が何の役にも立たぬ時代遅れのものと知って、茫然示寂としている姿がきわめてリアルに分かる。かつて若き日にそうならないように「共通の理念」「生身の人間の神」としての日蓮仏法を選択したという自覚があるからだ▼それにしてもチェーホフが『退屈な話』を書いたのが29歳だったというのには驚く。1860年に生まれ1904年に死んだ。これは、日本でいえば、明治時代とほぼ重なる。中国でいうと、この本が書かれた頃は清朝末期で、いわゆる洋務運動華やかな頃だ。ヨーロッパ近代文明の科学技術を導入しようと躍起になっていた頃だ。チェーホフは、『退屈な話』の中で、「科学は人類に何をもたらしたのか。学のあるヨーロッパ人とさっぱり科学を持たない中国人の違いといったって知れたもので」と同僚の文献学者に問いかけさせ、「中国人たちは科学を知らなかったが、だからといって彼らは何かを失ったでしょうかね」と続けている。そしてこれに「わたし」が「蠅だって科学を知らないがね」とまぜっかえす。このあたりに若さを感じると言えば、飛躍だろうか。日本も中国と五十歩百歩だったわけだから、笑えぬチェーホフの東洋認識ではある。古田博司さんの作品にはかつて学生時代に永井陽之助先生の謦咳に接した私の若き日を思い起こさせる。いや、哲学への造詣の深さからするともっと上かもしれないなどと、勝手な思索の水滴は弾む。(2014・12・17)

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中韓両国のこれからの結末を予測する

長い間国会に席を置き、外交防衛の議論に参加してきたものとして、引退後も当然ながら国際政治の動向は気になる。しかもかねて交友を重ねてきたひとの手になる分析ならなおさらだ。外務省出身者で物書きに転身した人には岡崎久彦氏から始まって東郷和彦氏や佐藤優氏にいたるまで知人は少なからずいるが、今回取り上げる宮家邦彦氏にはとりわけ思い出が多い。初めて議員会館で彼と会ったころというと、1998年頃で私が当選して5年後くらい、確か彼は中近東第一課長だったはず。話の合間にフセイン・イラク大統領の似顔絵入りの腕時計を見せられたのは印象的だった。直接本人から貰った、と。そう、彼はアラビストだったのだ▼その後彼は、日米安全保障条約課長や中国大使館公使などを経て、イラク大使館公使やら中東アフリカ局参事官などを歴任し、05年に家業を継ぐとの理由で外務省を退職する。09年からはキャノングローバル戦略研究所に務めるかたわら、テレビや新聞雑誌で評論活動を精力的に展開してきている。彼が現役の役人だった頃に、幾つかの外交・防衛に関する論文や、中国から帰国した際には書き溜めたメモ風の中国論を見せてもらったこともある。きっと将来は本にして公開するのだろうと密かに思っていた。だから稼業を継ぐために外務省を辞めると聞いても俄かには信じられず、きっと遠からず物書きになるのだろうと、疑わなかった。その彼がまさに満を持して出版したのが『語られざる中国の結末』と『哀しき半島国家韓国の結末』の2冊だ。すでに様々の書評に取り上げられ、高い評価を得ている。選挙戦のさなか、電車やクルマであちこちと移動したりする車中や早朝の自宅書斎で読み終えた。総選挙も最終盤なので未読の方は選挙後にじっくりと味わってほしい▼なんといっても宮家氏のこの2冊の特徴は詳細な中国大陸と朝鮮半島の未来予想図であり、あらゆる可能性を予測したシュミレーションを表にしたうえで、事細かに論じていることである。中国については米国との衝突後の行方、結末として7つの理論的可能性をシナリオ化している。また、朝鮮半島をめぐっては、中華地域の動向をにらみつつ、8つのシナリオに加え、それぞれ3つのサブシナリオを提示しているから、合計24パターンに及ぶ。しかも従来のこうした分析では欠落していた満州地域など中華周辺の歴史をしっかりと見据えている。であるがゆえに、この地域に関心を持っていた向きには、まさに痒いところに手が届く感じがする。かくいう私も、めくるめく思いで頁をめくった。だが、この地域への関心がいまいちの向きには恐らく煩雑かつ難しく、読みずらいかもしれない▼で、宮家さんが指摘するそれぞれの結末だが、意外にというか、常識的に見える。中国については、出すべき答えは日本がすでに過去150年間での試行錯誤の末に出しているものとして挙げていることからもその穏当さがわかろう。また朝鮮半島については、「統一・強大化する中華政府が,北朝鮮という緩衝地帯を維持するために、たとえ金一族を取り除いてでも『朝鮮民主主義共和国』という枠組みを守ろうとする」というシナリオが最も蓋然性が高いとしている。また、韓国の持つ原則が「冷戦時代にのみ機能する『日米韓連携』ではなく、伝統的な対中華『冊封関係』となった可能性がある」としているくだりが注目される。自制を利かせた書き方だけに見落しそうになったが、印象深く迫ってくる▼『韓国の結末』本の「おわりに」で宮家さんは筑波大の古田博司教授との不思議な縁を語っていて少々驚いた。私と古田教授との関係も改めて触れるまでもなく深いからだ。さっそくに宮家評をメールで訊いてみた。直ちに、「彼はほんものです。なかなか的確だ」といった意味あいの褒め言葉が返ってきた。誰に対しても歯に衣着せぬ厳しい見方をする彼にしては破格の高評価だった。岡崎久彦氏が逝ってしまった今、その穴を埋めそうな大物論客の登場に拍手したい。次作は、恐らくかんぐるに、彼が二度にわたって赴任した国・イラクがターゲットだろう。多分そのタイトルは『文明の交差点で喘ぐ イラクの結末』であろうかと私には思われる。(2014・12・13)

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「武力を使わない集団的自衛権の行使」にまったく賛成

今年の流行語大賞に選ばれたのは、「ダメよダメダメ!」に並んで「集団的自衛権」だったことは周知のとおり。6期20年にわたって国会議員を務めてきて、主に外交安全保障の分野で仕事をしてきた私としては感慨無量ではある。このテーマに肯定的な学者も否定的な論客もそれぞれ付き合いがある。なかでも国際紛争の現場を熟知しているの伊勢崎賢治さんとは個人的にも親しい。この人、東京外国語大学大学院教授にして紛争屋の異名を持つ。国際NGOでスラムの住民運動を組織した後、アフリカで開発援助に携わったかと思うと、国連PKO の上級幹部として東ティモール,シエラレオネの、日本政府特別代表としてアフガニスタンの武装解除を指揮した。こう書くといかにもコワそうで偉そうな人を連想しがちだがいたって優しい庶民的な人だ。最近はしばしば都内でジャズライブを開き、トランペットを演奏しておられるというから愉快だ▼その伊勢崎さんが最近出された『日本人は人を殺しに行くのかー 戦場からの集団的自衛権入門』を読んだ。これまでもこの人の本はあれこれと読んできており、いつも新鮮な息吹を感じる。しかし、この度の書物は、集団的自衛権を論じてはいるが、安倍総理の発信に依拠し過ぎてており、公明党の主張によって集約された閣議決定を正確にはとらえていないように思われる。まあ、「おいおい伊勢崎先生。それはないよ」ってところだ。この本の中に、自公協議における公明党の主張と頑張りが一切でてこないのだから。同じ出版社のもので、集団的自衛権を扱った佐藤優氏の『創価学会と平和主義』と読み比べると彼我の差がよくわかる▼この本の帯に「全部ウソです。だまされるな」と言って挙げてるテーマは4つ。①集団的自衛権の行使を容認しないと、アメリカは日本を助けてくれない➁そのうち、中国、北朝鮮、韓国が日本に戦争を仕掛けてくる➂国連PKOへの自衛隊の派遣は世界の役に立っている④イラク戦争で自衛隊に戦死者はでていない。公明党的に言わせると、①はその通り、ウソだと思う。集団的自衛権の行使容認に関わらず、両国の関係は不変だろう。感情は別にして。➁は、突発的、暴発的挑発はゼロとしないのではないかと考えるが、おおむね同調する。➂は同意できない。ウソだと言っては、自衛隊員があまりに気の毒だ。④は帰国後の隊員の自殺が少なくないことをさしているのだが、現地では戦死者は出ていないことは事実だ▼この本で大きく評価し、私が賛同するのは、「安倍内閣が打ち出した『集団的自衛権の15事例』」がほとんどその必要性を感じさせないものであることを克明に論じている第四章だ。著者ならずとも、「集団的自衛権の行使容認をすべき理由になるものが一つも含まれていない、というのは驚きだった」のである。それを実際の交渉で明らかにしていったのが公明党だった。結果として、従来あいまいであった個別的自衛権と集団的自衛権との線引きを明確にしたのである。であるから、公明党としては、今回の閣議決定を集団的自衛権の行使を容認したものとは認識していないのだ。この辺りを伊勢崎さんには立ち至って解説してほしかった▼しかし、我田引水的にわが身を褒めるだけでは能がない。「行動する平和主義」を自認する公明党としては、単なる軍事的な抑止力に頼るのだけではなく、平和構築に向けての積極的な交渉を重視している。その意味で実際に国際紛争の現場で「敵」とのせめぎあいをしてきた人の「ソフトボーダー」という考え方についての具体的提案は重い意味を持つ。これは具体的に「柔らかな国境」を作る努力をさすのだが、北方領土、尖閣,竹島の領土問題を考えるうえで、大いに参考にしたい。併せて伊勢崎さんのCOIN(Counter-Insurgency=対テロ戦マニュアル)についての考察は鋭い。本来、COIN はウイニング・ザ・ウオー(敵を軍事的にやっつける)ではなく、ウイニング・ザ・ピープル(人心掌握戦に勝つ)であると強調する伊勢崎さんは、「ジャパンCOIN 」の活用を呼び掛けている。つまりは、日本らしさで世界に”参戦”しようというのである。「アメリカが試行錯誤し続けるCOINの戦略の中で、日本が行うべきことは『武力を使わない集団的自衛権の行使』である」という指摘には全く同意する。ここまで読み進めてきて、やはりこの人は公明党の真のブレーンになるべき人だと改めて心底から思う。(2014・12・9)

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ヒッキーが分かってから教育を論じよう

ヒッキーっていう言葉を初めて聞いた。引きこもり状態にあるこどものことを指すそうだ。ひとはそれぞれ自分のこども時代に引き当てて今のこどもをめぐる状況を考えがちだが、果たしてそれでいいのかどうか。自分のこどもの頃には殆どいなかったヒッキーが今なぜ多いのか。引きこもりの子の悩みや親の苦しみから始まって、現代の中学校教育の現場やそれを取り巻く世相など様々な課題をてんこ盛りにしつつ、ぐいぐいと読ませる謎ときに充ちた本に出会った。久方ぶりに寝る時間も惜しんで引き込まれ、全6巻を一気に読んでしまったのである。宮部みゆき『ソロモンの偽証』だ▼総選挙で忙しい折になぜこんな推理小説にはまってしまったのか。勧めたのはまたしても笑医の高柳和江女史である。先日、『ローマ亡き後の地中海世界』4巻は、「斜め読みしたらいいのよ」って確かに彼女が私に言ったので、それを正直にユーモアを込めてこの読書録ブログに書いた。で、それを読んだ彼女は途端にご機嫌の方が斜めに。「聞きかじりを書かないで。これはフライングよ」と。斜め読みをしては、塩野七生さんに申し訳ないということなのだろうか。朝早くに抗議のメールが届き、末尾で「なにか反論ある?」ときた。実際はお腹が減っていたのだが、「グーの音もでない」と、反論はあったが無駄な抵抗はせずに、白旗を掲げることにした▼そんなやり取りの中で、今彼女が憑りつかれてる小説がこの宮部さんのものだと分かった。冒頭の謎めいた電話ボックスのシーンが秀逸だ。映画でも小説でも、いきなり事件の核心に踏み込むような描き方が好ましい。あれこれご託を並べずに、一気に読者を巻き込んでしまう。なぜにここまで惹きつけられたかと、読み終えて考えた。それはこの小説がバブル崩壊の始まりとも言われる1990年冬に舞台設定をしていることと無縁ではない。日本人の多くが流行り風邪に冒されたようなあのバブル熱。誰もかれもが儲け話に浮かれていた。そんな折に14歳の中学生たちが、友人の謎めいた死にまつわる経緯を解き明かそうとする。ついには夏休みに学校で法廷を開くという浮世離れした設定へと進む▼そんななかで、こどもや親の立場からの今の日本のあらゆる問題に取り組む姿が浮き彫りにされてくる。中高生向けの推理児童小説の域をでないように見えていて、その実、切り口は大人たちの世界の在り様に鋭く迫る。とことんこどもの世界に浸りきって、現代社会を見つめているために、その視点は当然ながらこどもの目線だ。この辺り、通常の大人の視点からの世界に慣れ親しんでいるものからすれば、食い足りないものを感じるかもしれない。もしもそんな感じがしたら、頁をめくる速度を落として、子育て時代の自分を振り返ってみることが大事だろう。主要な登場人物たちの「生と死」や「家族と自分」、「友情」など古くからのテーマを考え乍ら、池田晶子の『14歳からの哲学』のことを思い出した。14歳という年齢は、人がものを考えるスタート台なのに違いない。あと10年経つと初孫がその歳になる。さて、それまでにどうするか。(2014・12・3)

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