中西進さんといえば、『令和』の名付け親ということは今や公然たる秘密とも言えようか。万葉集学者にして文化勲章受章者である。私が専務理事を務める一般社団法人『瀬戸内海島めぐり協会』の代表でもある。その中西進さんは今総合雑誌『潮』の巻頭コラム波音に『こころを聴く』を連載中。三年半続いている。42回目となる今月号の「大岡、大坂を裁く」を読むと、朝井まかての『悪玉伝』によって小説化された江戸時代の辰巳屋騒動の話が取り扱われていた。恥ずかしながらこの小説はもちろん、この大疑獄事件のことも、作者の朝井さんのことも何もかも知らなかった。しかし、中西先生に会う必要性(それについてはブログ『後の祭り』に記載)が生じたことから急ぎ読んだ▼この小説、実に読ませる。炭を扱う大坂の豪商が死ぬ。その跡目を巡って、お家騒動が起こる。婿養子が差配できぬまま出奔。代わりに豪商の実弟が登場するも、それを良しとせぬ婿養子の親元が訴える。訴状を受けた大坂の奉行はこれを無罪とする。しかし、これを不服とする婿養子の側は江戸の幕府に直訴。その結果、大岡判決で逆転し、実弟は島流しになる、というのがあらすじ。逆転判決を下したのがかの有名な大岡越前守。小説は逆転に至るまでの獄中における壮絶な状況が実にリアルに描かれる。牢名主以下の何ともはやえげつないの一語に尽きる虐めの数々。女性とは思えぬ、いや女性だからこそか。物凄い迫力の場面が続く。久しぶりに興奮した▼ただ、中西進先生は、今回のコラムにおいて、この贈賄事件の一部始終がこの小説における力点ではないと言われる。「わたしの見るところ、一度大坂の裁判で無罪ーつまり正統と思われるものが、江戸奉行の裁判では有罪になるという、一種の、かけ違いの価値観が小説の中心ではないか」と。しかも、この二つの訴訟における二人の奉行の違いは「江戸が重んじた形式の正しさと、大坂が重んじた実効の大事さ」にあったとされる。「結局、江戸奉行が、大坂で敗訴となった訴えを、血統論理で勝訴にし直したのがこの事件だった」とし、しかもそれを今の時代における皇室の男系男子重視論に敷衍される。「『皇室典範』は武家論理の名残であろう」と。この辺りの展開の仕方は実に鮮やかである▼贈賄事件の顛末に眼を奪われきったわたしなど、この『潮』における先生の一文を読まなければ到底思いつかなかった着想である。いささか深読みが過ぎるのではないかとの思いがせぬでもないほどである。かつて衆議院憲法調査会の場で、女性天皇を認めるべし、との主張を披瀝した身としては、中西先生の指摘に少なからず同調するものではある。「武家論理の名残」が幅を利かす昨今の風潮の前に百万の味方を得た思いも。ただし、大岡裁断の相手はどちらも大坂。かたや大坂そのもの、もう一方は江戸風大坂。で、後者に軍配を挙げたことになる。わたしの見るところは、大坂の狐と狸の馬鹿しあいに対して、喧嘩両成敗をしたかに見える。(2019-5-17)
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(310)若者の自殺願望と足尾銅山事件が背後にー夏目漱石『坑夫』を読む
「漱石全集」(岩波書店版)も読み進めて第5巻になった。ここでは『坑夫』と『三四郎』がセットとなっており、学校時代に突然に授業が休講になったように、嬉しい気分に浸れた。『三四郎』はこれまで、二度ほど読んでいるので、今回は読まずとも済むからだ。これまでの長い間、『坑夫』には手をつけないできた。ようやく一気に読んだ。前回いささか手を焼いてしまった『虞美人草』や、漱石の青春ものの決定版『三四郎』と違って、さらっと読めた。これが書かれた明治40年あたりというと、世に有名な「足尾銅山事件」があった。その背景をリアルに描いたものとしても印象深い▼「さっきから松原を通ってるんだが、松原と云ふものは絵で見たよりも余っ程長いもんだ」と始まる絵画的な書き出し。ポン引きと出くわした主人公が銅山へと連れて行かれる奇妙な道のり。世を儚み、家出をして死に場所を探す19歳の男がズルズルと、この世の地獄に嵌り込んでいく過程は妙に惹きつけられる。地獄には通常通りの鬼がいて壮絶な苦痛を味わう。だが、思わぬ仏にも出くわして生きる意欲に覚醒する場面には心打たれる。明治36年5月に栃木県日光山中の華厳の滝に投身自殺したかの有名な藤村操は、漱石の教え子だった。当時の社会的背景に対する漱石の厳しい思いも伝わってくる▼若者が安易に選ぶ死に対して、漱石はこの小説を通じて教え諭したとの側面はあろうが、注目されるのはさりげなく盛り込まれた次のくだりだ(十八節)。「寝ると急に時間が無くなっちまう。だから時間の経過が苦痛になるものは寝るに限る。死んでも恐らく同じ事だろう」ーしかし、死ぬのは難しい。「凡人は死ぬ代りに睡眠で間に合せて置く方が軽便である」ー確かにそうだ。しかし、そんなことで間に合わない場合はどうする。「本当に煩悶を忘れる為には矢張り本当に死ななくっては駄目だ。但し煩悶がなくなった時分には、又生き返り度くなるに極ってるから、正直な理想を云ふと、死んだり生きたり互違にするのが一番よろしい」ー冗談ではない。死ぬほどの目にあってこそ生への思いも募ってくると云いたいのだろう。更に、人は溺れかかった瞬間に過去の一生を思い起こすとの挿話を述べたところも興味深い。走馬灯のごときものを見て初めて「自分の実世界に於ける立場と境遇を自覚したのである。自覚すると同時に、急に厭な心持になった」ーここは痛烈に我が身に堪える。今私は「回顧録」をHPに書いているが、実はこの「自覚」から始まっているからだ。但し「厭な心持」は書いてるうちにおさまった▼『坑夫』を巡っても、例によって『漱石激読』を開いてみる。石原千秋と小森陽一両氏は、『坑夫』は「坑夫にならない過程を過度に描写した小説」で、「意味の引き延ばし」をしていると云う。それは、「『虞美人草』において最後に意味を収斂させることに失敗した漱石にとって、ぜひやらなければならないプロセス」であり、それを「書いたから『虞美人草』の失敗から立ち直れた」と。新聞小説として、「それぞれの日の終わり方が、翌日に関心をつなぐ技としてもいちいちみごとなのです」と、小説の区切り方を体得し、連載の技術を学んだ漱石を称えている。更に、面白いのは、石原が『婦人の側面』という正岡芸陽の明治34年の文章を引用しているところ。「女は到底一個のミステリーなり。それいずれの方面より見ると、女は矛盾の動物なり」と。「矛盾」という表現が『坑夫』に頻繁に出てくるのは、「時代の言葉」ゆえと分かったと気づいた、と。「漱石が『三四郎』以降、女性を男性にとって「謎」の存在、つまり「矛盾」と書くのは『坑夫』があったから」だとも。要するに、『坑夫』は、「男に託して女を書いた」のであり、「漱石的『土佐日記』」であって、それだからこそ、『三四郎』における美禰子が書けたんだと、まで。評論家とは何だか偉いもんだと思わせられる。改めて『坑夫』の位置付けを納得するに至った。(2019-5-11)
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(309)西洋批判と生命論に共感ー夏目漱石『虞美人草』を読む
平成から令和へ。違う年号を跨いで長かったゴールデンウィークも漸く終わる。この10日間のうちで、読み終えたものは、夏目漱石『虞美人草 』だけ。全集を順次読み進めてきて行きついたもので、これで漸く第4巻目である。明治40年に漱石が朝日新聞に連載小説を書き始めた第1作だとされる。長くて読み辛く、読後感も爽やかさとは程遠い。美文調ではあるが。中国古代に登場する「項羽と劉邦」の逸話における項羽の愛妾・虞にまつわる伝説ー別名ヒナゲシと呼ばれる虞美人草の由来は、それなりに面白い。漱石は題名に困って、偶々花屋の店先で見つけたこの花の名をそのまま拝借したというが、果たしてどうだろうか▼遺産相続をめぐるお家騒動の話であるとか、題名が女性主人公に絡むのはこの小説だけだとか、あるいは京都と東京の二都物語であるといった解説がなされており、読み終えたあとで知るに至った。漱石読破のよすがの一つに私がしている小森陽一と石原千秋のコンビによる『漱石激読』では、「読めば読むほど、怖い」との触れ込みである。残念ながら、私にはそこまで怖さが伝わってこない。せいぜい「読めば読むほど、分からない」ってところか。そのうち、再読、三読すれば、その境地に達するかもしれないが、今のところその気は起こらない▼ただ、二箇所だけは大いに惹かれた。一つは、西洋批判のくだり。留学中の漱石を苦しめ抜いた根源に対峙するようで、興味深い。登場人物に語らせる「無作法な裏と綺麗な表」の「ふた通りの人間」を持っていないと、西洋では不都合だとの指摘は、その最たるものだ。「是からの人間は生きながら八つ裂の刑を受ける様なもの」で「苦しいだろう」とか、「今に人間が進化すると、神様の顔へ豚の睾丸(きんたま)をつけた様な奴ばかり出来て」くるといった表現で揶揄しているところは流石に考えこまされる。とりわけ「日英同盟」を囃し立てる当時の風潮に対して、「まるで日本が無くなった様ぢゃありませんか」とまで。西洋文明の激流に飲み込まれるだけではならず、日本古来の歴史と文化、伝統に誇りを持てとの漱石の主張は、百年後の今日一段と読むものの胸に響く▼もう一箇所は、最終章の末尾。生命を巡る哲学が顔を出す。「問題は無数にある」とした上で、どれもこれも喜劇であるとし、「最後に一つの問題が残る」と強調。「生か死か。是が悲劇である」と。しかも「普通の人が朝から晩に至って身心を労する問題は皆喜劇である」と述べて、人生最大の問題である死について人は考えることを避けて生きていることに警鐘を鳴らす。漱石は、小宮豊隆宛の書簡で、「最後に哲学をつける。此哲学は、一つのセオリーである。僕は此セオリーを説明する為に全篇をかいてゐるのである」と述べていて迫力がある。最末尾の、ロンドンからの手紙の一文「此所では喜劇ばかり流行る」は、痛烈な西洋へのあてつけか。尤も、悲劇の重要性を強調するだけで、その哲学の中身がもっと披瀝されねば、此所も彼所も喜劇ばかり、ということになりかねない、と私には思われる。(2019-5-6)
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(308)もう一つの明治維新ー野邊地えりざ『紅葉館館主 野邊地尚義(のべちたかよし)の生涯
あまたいる私の友人の細君たちのなかで、本を執筆、発刊した人は今までいなかった。そこへ「家内が本を出したので、読んでくれれば嬉しい」と、大学同級の友・青木聡君から送られてきた。野邊地えりざ『紅葉館館主 野邊地尚義の生涯』。サブタイトルにー明治の民間外交 陰の立役者ーとある。著者は青木の妻君で、本名は智子さん。我々は大学を出てちょうど50年になる。この20年あまり、熱心な3人の幹事のお陰で、毎年一回東京でクラス担任だった小田 英郎先生を交えクラス会を続けている。20人ほどが集まる会の、青木も私もほぼ常連。親しい仲だ。智子さんとは一度会ったことがあり、かの有名な雙葉学園出の才媛(大学は慶応)であることは知っていた。ご先祖が高貴なお方とは聞き及んでいたが、野邊地尚義の玄孫に当たるとは知らなかった▼頂いてより一気に読んだ。力作である。歴史エッセイとして一級品だ。岩手に、京都にと、尚義の足跡を追って足を運ぶ。国会図書館始め各地の図書館に資料を求め、丹念に読み解いた結果が見事に蘇り、読むものの興を唆る。わたし的には、時折顔を出す、著者のルポ風の書きこなしが特に気に入った。京都の盛岡南部屋敷跡に立ち寄ったあとで、近くの割烹に入って食事されるくだり。これはもう最高。ご本人のその時の気分も巧みな表現で盛り込まれ、読んだこちらも行って見たくなるほど。他にも随所に著者の人となりの麗しさが嗅ぎとれ、興味深い▼じつは、恥ずかしながら、野邊地尚義を知らなかった。野辺地町という地名は知っていたが。そして、紅葉館なるものの存在も。本を読み終えてのち、ものの本を開くと、「蘭学者、英学者。日本の英学教育の始祖である。日本で最初の女学校である『新英学院 女紅場』を京都に創設した。芝・紅葉館館主を29年間勤め、明治の民間外交の陰の立役者となる」とあった。うーん。これほどの人物を知らずに、明治150年がどうしたこうしたとよく去年は書いたり喋ったりしたなあと、心底から反省する。津田塾や鹿鳴館は知っていても‥‥。この本を読んで大いに認識を新たにし、知識を深め、広げることが出来た▼高級な社交場としての紅葉館と並んでこの本に登場する鳩居堂は蘭学塾。両者共に、尚義とのゆかりは深い。ただ、鳩居堂といえば、京都や銀座にある有名な書画用品、香の老舗を想起する。一方、紅葉館が元は東京タワーの立つすぐ傍にあった(戦争で灰燼に帰す)と聞くと、今その近くにある懐石料理店『とうふやうかい』を思い出す。現役の頃、ここを時々訪れ、その庭の美しさに感嘆したものだ。この著作の中に登場する紅葉館の佇まいには遠く及ばないだろうが、ひょっとして、この店の創業者の頭には紅葉館のことがあったのかも。この辺りのことについてこの本で触れて欲しかったとの気はする。ともあれ、自分の無知を恥ずかしくなると共に、著者が羨ましい。野辺に咲く雑草のような無名のご先祖しか持たない身にとって、こんな素晴らしいご先祖の足跡、業績を辿れるなんて、凄いと。ぜひ著者には引き続き新たな歴史散歩風エッセイを書いて欲しいものだ。(2019-4-27)
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(307)高まった興奮後のいささかの失望ー横山秀夫『ノースライト』を読む
横山秀夫の本にはいつも興奮させられる。『動機』『クライマーズ・ハイ』『第三の時効』『半落ち』『64』などから、数多い短編にも。今回数年ぶりに満を持して書かれた『ノースライト』も、読む前からのワクワク感があった。予想に違わずグイグイと引き込まれた。実在した建築家ブルーノ・タウトの影を追いながらの筋立ては、いささか高級感が漂い、これまでのものとは趣が異なる。その分一層謎解きへの興味は高まる▼この物語は、建てられた邸に注文主が入った痕跡がないまま姿を現さないという謎に、建築士が挑む形で進む。それに加えて、建築士の夫婦の離婚、そして娘との交流というお馴染みのパターンが加わり、さらに、彼が縁あって雇われる友人のちっちゃな建築事務所の建築コンペでの大事務所との競争という要素が絡む。この筋立てのなかに、タウトが作ったと思われる椅子の由来が浮かぶ▼全体を通じて、殺しの場面や血生臭さはない。死も、殺人ではなく、事故死か自殺かとの差異をめぐるものがメインだ。更に、辛うじて怪しげな男の存在が随所に影を落とすものの、恐怖感はさしてない。トーンとしてはどこまでも優しい。後半になって注文主と建築士の双方の父親の過去が顔をだし、急展開していく。基底部に「鳥」の存在があり、九官鳥が重要な脇役を演じるのは面白い。更に遺児のために父親の建築物を遺すとのくだりには胸打たれる▼こう書いてくると、お察しのようにいささかこれまでの横山作品と比較すると、物足りなさは覆いようがない。しかも、導入部で重要な役割を果たした椅子がなぜこの邸に持ち込まれ、そして残っていたのかの説明がない。読み終えて妙に気懸りである。わざと余韻を残すためか、はたまたこちらが読み落としたのか。だが、こういう推理小説もいいかもしれない。これなら自分にも書けるかもしれないという無謀な思いを抱かせる分、読者に限りなく優しいように思われる。(2019-4-25)
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【306】3-④ 昭和最後の父親像━━宮本輝『流転の海』全9巻
◆人生の師との出会いが転機に
私の妻はあまり本を読まない。いや、正確にいうと、読んでるところを見たことがない。3歳から少女時代にかけ、ピアノを弾くことを親から強いられ続けた、そのせいかもしれない。贔屓目に言って唯一最大の欠点だと思うのだが、なるだけ言わぬことにしている。先年、友人の前でつい口にしてしまった。直ちに「あなたはいっぱい本を読んでいるけど、何も身についていないじゃない」と応酬された。ずっしりと堪えた。
そんな彼女がこれまで読んだと思われる数少ない本には、宮本輝さんのものが多い。私も彼の本は『泥の河』『螢川』『優駿』などを皮切りにそれなりに読んできた。この人は知る人ぞ知る創価学会文芸部員出身。作家としての手ほどきをしたのは、同文芸部草創の指導者・池上義一さんである。『流転の海』の最終巻である『野の春』を書き終えた後、聖教新聞のインタビュー記事(昨年12-19付け)に小説を書く上での転機になったのは、人生の師匠である池田大作先生のあるスピーチに出合ったからだと述べていて興味深かった。この2人に「師弟」をめぐる極めて意味深いやりとりがあったことを人づてに聞き、深く感じ入ったものだがここでは触れない。
『流転の海』はともかく長い大河小説である。37年越しで著者は書き上げた。書くのも勿論大変だが、読む方も中々しんどかった。著者の輝さんにとってこの本は、「家族伝」だから、思い入れもひとしおだろう。それに付き合う読者は、よほど輝さん好きでないとついていくのに苦労するのではないか。私と輝さんはほぼ同世代なんで、この本を読み進めるにあたって、最初の頃は自分と彼の生い立ちを比べる気持ちが無きにしもあらずだった。しかし、途中でそれをやめた。あまりにも境遇が違い過ぎる──とりわけ父熊吾の生き方──からである。小説だから当然創作部分が入っていようが、大枠は変わるまい。こんな魅力溢れる男ってどこにいるのか、というのが率直な思いだった。
◆気になる息子の影の薄さ
全9巻を通じて何を一番強く感じたか。わたし的には、一言で言えば、「ほんとかよ。こんな親父っている?」というもの。しばらくして、「昔はいたろうな」ときて、最後は「団塊世代の親は、子の育て方を知らないままきたな」いう風なところで、落ち着く。昨今の日本の、とてつもないくだり坂の風潮の原因は、団塊世代が子どもをまともに躾けてこなかったからだとの説がある。自分の子に対する姿勢をも含めて、私はこれに概ね賛同する。
輝さんの親父・熊吾は、別に口先だけで躾けめいたことをしたり、言ったりしたわけではない。全存在をかけて子供に自分の背中を見せて生きてきたのである。そういう親父と、それに反発しながら寄り添う母親を見ながら育った輝さん。この辺り、彼の今があるからこそだろうと同調出来る。
ただ、私の率直な感想は息子・伸仁の描き方つまり輝さんの自画像が物足りない。20歳までだからこういうものなんだろうが、いささか遠慮しすぎでないかと思われるほど、影が薄い。我々と同世代の評論家・川本三郎氏は、毎日新聞の書評(2018-12-9)で「一人の偉大な大庶民の死は胸を打つ。男性作家が父親をこれほど魅力的に描いたことは特筆に値する」と結んでいる。さすが文芸評論家、褒め方がうまい。私はこの父親像はどこまでが本当の事実で、どこからが創作、つまりウソなのかが気にかかる。もし、殆どが本当だったら、大変な父親だし、そうでなかったら、大変な息子だと思ってしまう。これっておかしな読み方に違いない。もっと素直に小説を楽しまなければ、との声がどこかから聞こえてくる。
【他生のご縁 選挙の応援演説をして貰う】
宮本輝さんは私の初めての選挙の応援にわざわざ姫路まで来ていただき、宣伝カーから声を発し、スポット演説まで数カ所でしてくれました。関西、日本でも特筆される激戦区だったからとはいえ、芥川賞作家の応援を受けたのは勿体ない限りの、嬉しい体験でした。
翌日、市内のある信用金庫に挨拶に行ったところ、受付の女性行員が「あっ!昨日宮本輝さんと一緒にいた人だ」と独りごちたのを聞き逃しませんでした。思わず「私の名前は覚えてくれてないのね?」と言うと、「すみません。私、輝さんの大ファンなんです」と。忘れられないエピソードです。
後年、公明党の伊丹市議の仲間たち数人とご自宅を訪問して、直接お礼を申し上げる機会があり、あれこれとお話しを出来たのは貴重な体験でした。その昔、新聞記者時代に作家の水上勉さんの原稿を頂きにいった際に、その作風が宮本輝さんと似ていますねと私が言ったところ、水上さんが「そうだねぇ、彼は中々いいもの書くね」というようなことを言われたと伝えました。
そこまでは良かったのですが、私はつい「小説家って、嘘つきですよね。物語を作る、創作するって、結局嘘つきでないと務まりませんね」と言ってしまいました。持論なのですが、いかにも露骨な表現をしてしまいました。ほんの暫くの間をおいて、輝さんは「それはまあ、そうですかね」と肯定してくれたのにはほっとしたものです。
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(304)深くて面白い台湾風ー呉佩珍・白水紀子・山口守編訳『我的日本』を読む
「台湾人の観光」に興味を持つに至ったのは、この冬に台湾に行く機会があり、その際に駐台北の沼田幹夫・日本台湾交流事務所代表(台湾大使)の話を聞いてからのことである。同大使は、私がインバウンドに取り組んでいると知って、こう訊いてきた。「貴方は外国人の旅行者に対する日本人バスガイドの能力がどのくらいか知ってますか?」と。私があまり知らないと答えたことについて、それではいけないと窘められたうえで、「自分は台湾の富裕層たちの日本旅行グループに随行したが、彼らは自前のバスガイドを台湾から連れて行ったのです。それは日本のバスガイドが極めていい加減だからです。一方、台湾人バスガイドはもうほんとうに日本の観光地について驚くほど詳しかった」と。この時から、台湾人に、尋常ただならざる日本通が多いことを意識した▼そうした折に、『冬将軍が来た夏』で有名な甘耀明氏や、『自転車泥棒』の呉明益氏ら台湾の作家たちの「日本旅行記」が刊行されたと新聞紙上で知って、読む気になった。18人の作家たちの競演は、なかなか興味深い中身で、大いに感じ入るところがあった。人気はやはり京都で、真正面からこの地に行ったことを取り上げ、タイトルにまでしているものが3本もあった。それ以外は、東北、東京、北陸、九州などを舞台に、日本史、日台関係史、宗教、言語、文化交流といったように、さまざまなテーマに触れられている。インバウンドを数的角度からしか見てこなかったことを、台湾作家たちの眼差しの深さを知るに至って、大いに反省した▼私が一番興味を持って読んだのは黄麗群の『いつかあなたが金沢に行くとき』。日本では「小京都」との形容で、何かと比較される金沢だが、この人は見事なタッチでこの地の独自の美しさと文化性を高らかに謳っている。いつも私は京都と金沢を比べて、前者は文化を売り物にしているが、後者は文化そのものの中に町がある、との説を述べることにしている。山崎正和さんと、丸谷才一さんの対談『日本の町』からの受け売りである。黄さんは微に入り細にわたって金沢の美しさを語っているが、「よりによって外は濃艶だが、中身は淡くのんびりしていて、円熟した大人の仙女の姿の裏に『無心無意』が隠されているようなところがある」との表現をこれからは付け加えることにしようか▼読み進めてきて最後に行き着いたのが舒國治『門外漢の見た京都』。これはもう凄い。20頁にも渡って京都礼賛が延々と続く。「私が京都へ行くのは〜のためだ」とのフレーズが、文中に10箇所ほど出てくる。曰く「他の地で消え失せて久しい唐代、宋代の情緒に浸るため」「竹籬茅舎のため」「田舎の棚田のため」「小さな橋や流れる川のため」「大きな橋と流れる水のため」に行くのだ、とのオーソドックスなものから「酸素のため」「眠るため」「芝居の中に入り込むため」「見るため」などと言った〝あばたもえくぼ的〟なものまで。ともかく見るもの、聞くもの京都は素晴らしいと来るのだから、いささか辟易しかけた。丁度そこへ、拝観料をめぐって「金を払う価値のない所は確かにある」との記述が出てきて、襟を正すことに。ともあれ、これほど詳しい「京都入門」は読んだことがないと錯覚する。ご本人はそれでも飽き足らないとみえ、文末に「(京都の魅力ある場所を)一冊の本にまとめ、そうした眺望と、一瞥と、大まかな観察を通じた京都を専門的に詳しく語りたい」と結ぶ。「京都」を知ってるようで知らない関西人として、恥ずかしさと羨ましさの入り混じった妙な気分にさせられた。(2019-3-31)
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(303)古いものにこだわり続けた結果ー野口悠紀雄『平成はなぜ失敗したのか』を読む
先日、BS朝日の日曜夕刻の人気番組『クロスファイア』を見ていると、評論家の田原総一朗氏が早稲田大ビジネス・ファイナンス研究センター顧問の野口悠紀雄氏らと出演。野口さんの『平成はなぜ失敗したのか』を推奨していた。経済の観点から、平成を振り返ったもので、「失われた30年の分析」というサブタイトルに惹かれて読んでみた。失われた10年が20年になり、そして30年になったという見立てに残念ながら共感するだけに、それを最初から順次追うよりも、ではどうすればいいのかという最終章「日本が将来に向かってなすべきこと」から読んでみた。一読、いささか落胆せざるを得なかった▼今後の日本経済の抱える問題として❶労働力不足への対処❷人口高齢化による社会保障支出増大への対処❸中国の成長などの世界経済の構造変化への対処❹AI(人工知能)などの新しい技術への対処ーという4点を挙げた上で、既得権の打破が重要な課題だとしている。これって、いかにも誰でも指摘する平凡な処方箋に見えるのではないか。だが、ちょっと待て。早飲み込みで思い込みの激しい私らしい勝手な解釈は思い止まろう、と考え直して、最初から読み始めた。いやはや、実に面白い。というか、この本、野口さんの個人的回顧録風、平成経済分析になっていて、ステーキのコース料理に、最初だけでなくその都度野菜が付け合わせになってるように中々食べやすいのである▼平成が失敗した最大の理由は、世界の国々が次々と経済構造を変える試みをしているのに、日本はいつまで経っても、ものつくり、即ち、製造業に依拠することにこだわり続けたことにあるとする。リーマンショック前の数年間の日本企業の業績回復を「長い不況からの回復」「新しい成長の始まり」「これからは日本の時代だ」と捉えたものが一気に崩れた。「アメリカの住宅価格バブルの崩壊によって、日本の製造業が壊滅的な影響を受けた」ことへの認識が極めて弱かったとの指摘は重い。要するに、日本人の多くが「輸出立国モデルが崩壊した」ことに無頓着で、結局は「日本経済の実体は古いままだった」ことでよしとしてきたというのである▼ショックは他にも数多ある。例えば、アメリカでの日本人の留学生が少ないとの指摘だ。中国、韓国からの留学生がぐんぐん増える一方、日本人の留学生は減る一方、統計データの仕分けでは日本は今や「その他」に分類されているという。また、古いビジネスモデルに固執し続けた日本の企業実態についても。世界で「水平分業型」工場への移行が進んでいる頃に、「垂直統合型」のそれにこだわり続けた、と。具体的例として、パナソニック大赤字の原因として姫路の新工場が挙げられているのは、我が地元だけに身につまされる。また、たまたま、地域おこしの実体験で25日から二日間徳島行きでご一緒した、神戸山手大学のY講師の弁が気にかかる。ヴェトナム人留学生と日本人学生を比較すると、圧倒的に前者が元気で全てに意欲的。日本人大学生は皆大人しくて内気だという。数だけでなく質的側面でも日本人の劣化が際立つ、と。こう見ると、やはり、将来展望は暗くならざるを得ない。さてどうするか。(2019-3-27)
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(第5章)第3節 この30年の移ろいの真の切なさ━━芹川洋一『平成政権史』
17人による政権を10編に分けて追う
「細川護熙から、麻生太郎に至るまで、日本の総理の名前を順番に言えますか?またそこに一つの特徴があるのをご存知?」──民主党政権が誕生した2009年前後頃のこと。座談の際に、よく私は集まってくれた方々に問いかけたものである。ソ連からロシアへの100年の変遷の中で、10人の指導者が変わったが、その人たちの順番に法則がある(髪の毛のハゲ・フサフサが交互に登場)というギャグを聞いて、思いついた。日本の場合はわずかな期間に10人も立て続けに変わっており、しかもそこに一つのある特徴を見出せるからである。お分りだろうか。
答えは、「東大卒がいない」。鳩山由紀夫氏の登場でこの流れが絶たれる。自民党単独政権崩壊で徳川最後の将軍・慶喜に例えられた宮沢喜一元首相の後から、このクイズは始まる。つまり、宮澤、鳩山の両氏に挟まれた人たち10人全てが私大卒なのである。平成期の日本の政治を語る上での余談として面白い、と思う。
そんなことはさておき、日本経済新聞論説フェローの芹川洋一さんが『平成政権史』を書かれたと知って、飛びついた。平成の30年が終わろうとした当時、うってつけの本であり、私風の『回顧録』をまとめる際に、参考にしたい、とも考えた。実は、彼が中心になってまとめた日経の『憲法改革』なる本の、目の付けどころを私は、高く買っていた。この本は、竹下登政権から説き起こし!、安倍晋三政権に至るまでの30年17人の政権について、それぞれどんな政権だったかを、10編に分けて追っている。ご本人があとがきで書いているように「独断と偏見のそしりをおそれずに、政権の特色を簡潔にまとめ、平成の政治を大づかみにすることをめざし」ており「日本の政治の30年が縦と横から見えてくるのではないか」と自負しておられる。
もちろん、大筋でそれは間違っていない。昭和44年、佐藤政権の頃から公明新聞の政治部記者として曲がりなりにも18年、昭和末期の頃の衆議院秘書を経て、平成元年に衆議院議員候補になって苦節5年の末に当選し、20年間政治家を続け、引退後10年余の今に至るまで、ずっと日本の政治を見続けてきたものとしても、役立つ視点は少なからず見出せる。そして、この間、小沢一郎という政治家に翻弄され続けたという底流に流れるものもよくわかる。
脇役を欠いた映画のような物足りなさ
だが、それを認めた上で、この30年史は、脇役を欠いた映画のように、物足りなさが残ることを指摘せざるをえない。「芹川さん、これはちょっと違うんじゃあない?」と。なぜか。公明党に向き合った記述が殆ど出てこないのである。そのうちきっと出てくるはずと思い、最後まで読み続けたが、見事に期待は裏切られた。小渕政権のところで、辛うじて「今日につづく自公連立の起点がここにあることは第1に指摘しておかなければならない」とあるだけなのだ。しかも、本文最後に「30年たって政党の体制がもとに戻ってしまった」として、めまぐるしく政権の組み合わせは変わってきたが、結局、全く同じだというのである。以前の、自民・社会・公明・民社・共産の5党から、今の、自民・公明・立憲民主・国民民主・共産の5党へと、「かりに立憲民主党を社会党に、国民民主党を民社党と想定すれば、全く同じである。30年たってひと回りということ」だ、と。
確かに表面的にはそう見られる側面は否定しない。しかし、「全く同じ」とは。公明党は30年前には野党だった。今は与党である。いくらその存在が軽くとも、それを押さえずに、この30年の政治を概説したと言えるのだろうか。これでは孫や子に残す平成政治の歴史としても不正確と言われよう。安倍長期政権の理由として10の項目をあげているが、その中の四番目に「保守派の政権ながら、政策が左側、中道リベラルの側を向いている点こそ政権延命の肝である」とある。
ここに、公明党との連立政権の特徴の表れを見ずして何を見るのか。続けて「野党的な考え方を先取りして、無党派層を取り込むねらいがみてとれる」と、その「現実主義者」としての側面を指摘していることを見ると、公明党を意図的に外したとさえ思えてしまう。「独断と偏見」だから、目くじらたてないで、と言われるだろうが、余りに切ない。
【他生のご縁 日経『憲法改革』の切り口を礼賛】
かねて日経新聞の、憲法についての「改正」ではなく、「改革」という切り口は面白いと思って興味を抱いてきました。そのことをまとめた『憲法改革』なる著作の中心者が芹川さんでした。引退後に私が取り組んでいた、「瀬戸内海島めぐり」の地域おこしにまつわる、淡路島洲本市での会合で初めて出会いました。
「30年一回り論」には、公明党の役割が意図的に外されてるといった私のような見方や、「維新」はかつての日本新党か新自由クラブなのかとか、の議論のネタを提供してくれて、すこぶる面白いといえましょう。あんまりむきにならない方がいいと自省しているしだいです。
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