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(211)腰痛にはカイロが一番?ーS・シン&E・エルンスト『代替医療のトリック』を読む

私は実は38年間にわたっての腰痛持ちだった。22歳から60歳の年まで。この間は年がら年中腰がじくじくと痛く、特に朝の寝起きはつらかった。原因は社会人になったばかりの時に、スティール製の大きな机を一人で持ち上げたとたんギクッと来た。いわゆるぎっくり腰だ。整形外科にかかったのだが、治る気配は全くなかった。ありとあらゆる治療を試みたが、満足できなかった。それが、還暦を迎えた頃から古希過ぎの今までの10数年間、完全に治った(勿論、腰に負担のかかるような無理をした時を除いて)との実感がある。どうしてか。一つは腹部を中心に痩せたこと(これは病気のせいだが)。二つはカイロプラクティック治療(以下、カイロ)が効いたこと。三つはストレッチ体操のお蔭だ。この何れが欠けても今の私の腰はないと自負している。ぎっくり腰から脱却出来たとの手応えならぬ腰ごたえを持ったのは厚生労働副大臣時代。省の建物の10階にある副大臣室までエレベーターを使わずに歩いて上がったものである▼カイロとの縁は、実はその時点まで、つまり厚生労働省の仕事をするまではなかった。それが縁が出来たのは、日本カイロプラクターズ協会から陳情を受けたことがきっかけ。日本において市民権がない団体をもっと引き上げてほしいという意味の要請だった。私は、自分の腰の実情を話し、これが治るようなら尽力したいといった。全く嘘のような話だが、この時にきた村上佳弘事務局長がそれから数回にわたって治療を施してくれた結果、前述したようなことになったのである。ということから、この10年あまりカイロ愛好家になり、あれこれと支援もしてきた。近く、私の電子書籍『早わかり10問10答シリーズ』の第三弾として『腰痛にはカイロが一番』(既刊は、『みんな知らない低線量放射線のパワー』と『クマと森から日本が見える』)を発刊する準備もしている。まさにそんな折も折、畏友・志村勝之(カリスマ臨床心理士)から本が送られてきた。サイモン・シン&エツァート・エルンスト(青木薫訳)『代替医療のトリック』である▼この本の著者は、科学ジャーナリストと代替医療分野の大学教授。鍼、ホメオパシー、カイロ、ハーブの4分野を主に取り上げ、そのトリック性を暴いている。最も私の関心が高い「カイロプラクティックの真実」なる章を中心にざっと目を通した。カイロ治療とは、脊椎を構成する椎骨のズレを手技でただすこと。米国発の治療法だ。日本でも治療院は数多いが、誤解も数多い。多くは、首をギクッと回されて却っておかしくなったといった類いのトラブルから起こっている。この本を読むまで米国の実態は知らなかったが、さすが本場。実にあれこれと実例が示されている。創始者ダニエル・デーヴィッド・パーマーやその後継者たちの特異な個性もあって、当初はあらゆ病気に効く「哲学、科学、芸術である」とされてきた歴史を持つ。通常の医療関係者からこの辺りは殆ど狂気の沙汰と見られてきたのである。著者らが「科学的根拠によれば、腰痛に直接かかわる問題を別にすれば、カイロプラクターの治療を受けるのは賢明ではない」としているのは、ある意味当然のことに違いない。わざわざ「注意してほしいこと」として、カイロへの6項目の警告を発している。最後の「腰痛でカイロプラクターにかかる前に、通常医療を試してみよう」とのくだりには思わず笑ってしまう。「そうだよ。通常医療でダメだからカイロに来たんだから」と▼ここでいう通常医療とは科学的医療と言い換えていいだろう。それに対して擬似科学的医療とでもいうべきものがカイロなどの代替医療だ。臨床心理士の志村氏は、医療にはこれらに加えて物語的医療がある、と3分類化している。こころに関する代替医療をして、彼はそう規定するのだが流石に言いえて妙である。この分野でも鬱(うつ)を始めとする心の悩みを持つ人々が後を絶たない。いわゆる神経内科医たちが十全たる役割を果たしていないだけに。ところで、朝日新聞の書評(2010・3・21付け)で、広井良典千葉大教授が、通常医療にも「有効性が厳密に確証されていない療法が多い」とする一方、「心身相関や慢性疾患等の発生メカニズムの複雑性を考えた場合、著者らのいうような検証方法は限界を有する」とまで述べており興味深い。「現代医療論」として読む場合、「本書の議論にはやや表層的な物足りなさが残る」としているのには、ちょっぴり溜飲が下がる思いがする。広井氏は最後に、本書の議論を契機にそもそも「病気」「科学」「治療」とは何かといった現代医療をめぐる根本的な問いの掘り下げを、と求めている。この終り方はいささか定番だと思うのは酷だろうか。
(2017・5・28)

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(210)「ホンマは好きなくせして」ー井上章一『京都嫌い』を読む

『京都嫌い』なる新書の存在を知ったのは、発売間もないころに、ラジオでの著者のインタビュー番組であったかと記憶する。井上章一(国際日本文化研究センター教授)さんが語っていたある部分で笑ってしまった。彼がいかに京都嫌いなのかの思いのたけを語った後に、その本を平積みにした京都の本屋さんで、「ホンマは好きなくせして」とのフレーズが添え書き風に、張り出されていたことを発見したと紹介していたのだ。この本屋の店主はなかなかの優れものである。ただし、何故か私は読む気があまりせず、放置していた。で、このほど京都で顧問先の京都支部の催しがあり、スピーチをせざるを得ないことになって、急ぎ読むことにしたしだいである。新快速で京都までの1時間半でほぼ読めた■簡単にいえば、ここで著者が嫌いだとする対象の京都というのは、洛中の人を指す。ものの本というより、ネットで調べたところ、洛中とは、北は北大路から南は九条通まで、東は高野川・鴨川(東大路)から、西は西大路通までの地域を云うとのこと。要するに平安京時代の京城内を指し、最も中心部を意味する地域のようだ。中国の洛陽に対比させている。著者は、嵯峨生まれで今は宇治に住む。そういった京都でも周辺地域は洛外といって差別の対象になってきたことの怨念の限りを実に面白いタッチで描きそやす。「洛外でくらす者がながめた洛中絵巻ということになろうか」と、まえがきでは綺麗に書いているが、なんのなんの、私にいわすれば、京都とは名ばかりのよそもんが、ホンマの京都人から蔑まれたいけずの限り、ということになろうか。これまで色々と京都を案内したり、その歴史や見どころを描いた本は数多あり、私も何冊か読んできたが、これはまた異色の本である。まあ、あまり京都を知らない人にはお勧めしない。いきなりこんな風な京都観を持たれては、どちらにとっても気の毒だからだ。むしろ京都通を自負している方にはお勧めしたい■先日、私が親しくする新聞記者が冬場に京都に取材にきて、町家風の旅館に泊まった。その寒さにあやうく風邪をひきそうだと狼狽(うろたえ)てメールをしてきた。町家に憧れるのもほどほどにしないと身が持たないかもしれない。麻生圭子さんの『京都で町家に出会った。古民家ひっこし顛末記』『京都暮らしの四季』などといった女子好みの本を読んできた私だが、これらは歯応えはあまりなかったと記憶する。それにしても私のように、姫路生まれの神戸育ちからすると、京都は羨ましい限りだ。世界文化遺産・姫路城を持つ姫路は観光地として進境著しいとはいうものの、京都とは比べるべくもないし、これから私が売り出しに取り組もうとする淡路島にいたっては逆立ちしても及ばない。これは、光源氏が島流しされた地として、須磨や明石を『源氏物語』で描いた紫式部のせいではないかと僻みたくもなる。尤も、「大阪では京都に近いことが、しばしばからかいの的となる」「京都をみくびる度合いは、大阪が一番強い」などといったくだりに出会うと心騒ぎ、我が体内の京都心酔の度合いの高さがしれようというものだ■軽く読み進めて行ったなかで、歯応えを感じたのは第四章「歴史のなかから、見えること」。とりわけ、「京都で維新を考える」のくだりは実にすっきりした。「フランス革命とちがい、明治維新は無血うんぬんという話に、私はなじめない」とあるのに、正直に言ってかつての私なら反発しただろうが、今では全く同感する。幕末の京都を幕府の側からまもっていたのが会津藩士であったことや、明治維新の延長線上に、あの大戦での敗戦があったと位置づけ、「維新のおたけびが、ああいう膨張をあとおしし」、「江戸時代にためこまれたエネルギーがいきおいよくあふれだした」との史観にも共感する。NHKが先年放映した大河ドラマ『八重の桜』で、会津小鉄会の存在が黙殺されたことに憤りを感じて、あえて書きとどめたいなどとしているところにも。最後に、著者は、決して京都・洛中については、ホンマにすっきゃないことを感じた。お好きなのは洛外を含む広い意味の京都であるということを、あえて付言しておく。(2017・5・21)

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(209)ヨーロッパの近未来を大胆に予測するーM・ウエルベック『服従』を読む

フランス大統領選挙の結果は、普通の日本人をしても安堵させるものであった。マクロンという39歳史上最年少の若者の当選によって、極右とされるマリーヌ・ルペン氏の登場を阻止しえたからである。トランプ米大統領の「アメリカファースト」で辟易しているところに、「フランス第一」を掲げる人物がヨーロッパのど真ん中に風穴を開けては、もはやEUは死に体になること必定ともみられた。今日の事態を作り出す先駆けはイギリスのEU離脱だった。そのニュースで大騒ぎをしている最中に、ミシェル・ウエルベック(訳・大塚桃)『服従』を読んだ。フランス大統領選を舞台に、既成政党の退潮を横目にしながら、極右・国民戦線のルペンと穏健イスラーム政党のモアメド・ベン・アッベスが決選投票に挑むという内容。「シャルリー・エブドのテロが起こった当日に発売された近未来思考実験小説」という触れ込みは極めて刺激的だった■ウエルベックという人物は、「現代社会における自由の幻想への痛烈な批判と欲望と現実の間で引き裂かれる人間の矛盾を真正面から描き続ける現代ヨーロッパを描き続ける現代ヨーロッパを代表する作家」というが、今まで恥ずかしながら知らなかった。それを読む気にさせたのは「フランスの政治的・思想的・霊的な劣化という現実を自虐的なまでに鮮やかに摘抉。細部が異常にリアルで、もうほんとうのこととしか思えない」(内田樹)とか「こんなことは起こらない……たぶん……いや、もしかしたら」(高橋源一郎)などという一連の著名な評者たちの読後感である。本を買わせよう、読ませようという出版社の戦略とはわかってはいてもこれだけ焚き付けられると、もはやじっとしていられなかった。しかし、読んでみて正直な印象は、私のような純粋・現代日本人(ヨーロッパ特にフランス事情に疎い、ドメスティックな爺さんという意味)にとっては、性的退廃部分の描写ばかりに目が及ぶ、かなりの冗談っぽい本であるといった具合のものである。この本のコア部分については、いまなお半信半疑である自分を感じざるをえない■この本の主人公は、文学を教える大学教授。政治とは距離をおくインテリの代表として描かれる。今から5年程先のフランスでイスラム政権が成立するとの設定のもと、ムスリム(イスラム教徒)しか教鞭がとれなくなり、主人公は解雇される。しかし、その後、彼はムスリムに改宗し大学教授に復帰する道を選ぶという筋立て、だ。つまりは「服従」の道を選んだわけである。移民問題が欧州を席巻し、今回の大統領選挙でも「EU離脱の是非」を問うことが表向きの焦点であった。しかし、真実のところは「移民は出ていけ」との国民戦線の主張をめぐる賛否だった。辛うじてルペンの強硬な意見は退けられたが、この小説では次なる設定としての国民戦線とムスリムとの直接対決が描かれ、ムスリムの勝利を予言する。そんなことが起こるはずがないというのは大方の予想だろうが、実際には分からないというのが日本の識者たちをも含む多くの現代人の危機感だろう■「服従」というタイトルに込められた意味を、この本の解説で作家の佐藤優氏が語るくだりが興味深い。彼は、ソ連崩壊後に、それまで忠実な共産党員だったインテリたちが一瞬にして反共主義者になったとしたのちに、「この人たちは、目の前にある『世界』をその全体において、『あるがままに』受け入れたのである」と。これはまた、先の大戦後にそれまで反米に凝り固まっていた多くの日本人が一瞬にして米国を受け入れたことと酷似している。最後に佐藤氏は「『服従』を読むと、人間の自己同一性を保つにあたって、知識や教養がいかに脆いものであるかがわかる。それに対して、イスラームが想定する超越神は強いのである」と結んでいる。この小説の示す将来予測及び人間認識は、私のような日蓮仏教の世界広布を目指すものにとってもまことに意味深長である。それは人間の知識や教養のいざという時の脆さとともに、宗教的意志の体内定着度の強弱をも慮らざるをえないところにある。数多ある仏教各派の中で、たった一つ現代において世界宗教を目指すSGIのこれからをも考えるうえで、それなりに参考になる本ではあった。(2017・5・14)

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(208)田中角栄らは晩年をどう過ごしたか ー関川夏央『人間晩年図巻 1990-94年』を読む

郷土・兵庫の生んだ医師にして作家の山田風太郎さんは私の好きな作家のひとりだが、その作品のうちで最も惹かれるのは『人間臨終図巻』の上下2冊。これは自分の誕生日が来るたびに、その年齢で死んだひとのところを読むことにしている。今年72歳になるので、11月26日には、そこを読むはず。尤も、山田さんが亡くなってからは続編を書く人もいない。ところが作家の関川夏央さんが『人間晩年図巻1990-94年』なる本を書き、ある意味で先輩の衣鉢を継ぐ仕事をした。一年前に出版され、読みかけたままにしていたものをこのほどようやく読了した。1990年から94年までの間に亡くなった36人ほどが取り上げられているが、私より年上は9人だけ。後は全て年下になる。死に至る病の種類から、死にざままでそれこそ千差万別だが、大いに参考にしようとそれなりに懸命になって読んだしだい■1990年代前半はどういう時代であったか。ベルリンの壁が崩壊し米ソ対決の時代から、米国一強の時代へと変化したかに見えるものの、湾岸戦争が勃発したことに対して国連の対応ぶりが注目された。私的には、苦節足かけ5年を経て衆議院議員に初当選したのが1993年7月。時の総理は宮澤喜一氏から細川護煕氏へと交替。今に至るまで続く連立政権の幕開けとなった頃である。経済的にはバブル絶頂から崩壊の流れが定まってきた頃とも重なり、「失われた20年」と後に呼ばれる時代の始まりでもある。団塊の世代がまさに世の中の中心として活躍していた時代でもあり、その頃に亡くなったひとはある意味で社会的、経済的に幸せな時代の絶頂期に亡くなったといえなくもない■田中角栄元首相が亡くなったのは93年12月16日。75歳だった。「父の恨みを娘が継ぐ」とのサブタイトルのついた9頁分は、父親とは私が新聞記者時代に取材し、娘さんとは同僚議員として付き合った関係だけに読み応えがあった。公明党の先輩政治家と自民党の派閥の領袖との関係は、一般的に「田中と竹入」、「竹下と矢野」、「小沢と市川」といった組み合わせでパートナーのように見られてきた。それぞれの全盛期にカウンターパートとして活躍してきたから当然ながら関係も深かったに違いない。田中角栄氏については、このところ石原慎太郎氏や石井一氏らがそれぞれ自伝めいたものを書き話題を呼んでいるが、戦後史の中でこのひとほど毀誉褒貶の甚だしい政治家も珍しい。番記者として付き合った連中が、当の相手が鬼籍に入った今なお誇りにしている数少ない政治家だろう。大学時代の同期で、読売の番記者だった神田俊甫君などその代表株だ。関川さんが描く晩年の角さんはひたすら酒びたりのひとの印象が強い。ロッキード事件で「はめられた」うえでの首相辞任が56歳のとき。それから20年間は恨みと悔しさの歳月だった■娘の田中真紀子元外相には「(父親の持つ)度量の広さと現実感覚をともに置き去った娘が、父親の一種強引な雄弁術と『恨み』を受け継ぐだけでは、政治家としてははなはだ不十分だった」と手厳しい。親父のことを書けば十分なはずのに、娘さんをこういうような扱いをするのはかわいそうな感じがせぬでもない。彼女が衆議院外務委員長時代に、公明党理事として短い間だっただけどやり取りをしたことがある。往年の輝きはすでになく、親父さん譲りのだみ声もどきが響いたとの記憶がある。数ある角さん語録のうち、関川さんが記す「愚者は語る。賢者は聞く」「記者は懐に入れても蛇は蛇」などいかにも彼らしい。私は「越山会の女王」と呼ばれた佐藤昭(旧名)さんについて書いてほしかった。彼女は歌手・小林旭の”たにまち”であり、何を歌っても”旭そっくり”(旨いのではなく、声が似てるだけ)と言われる私を、彼に会わせてくれたひとだからである。ちなみに、歩きながら旭さん本人に「私の名前が変わります」「ごめんね」「もう一度一から出直します」「お世話になったあの人へ」の4曲の替え歌のさわりを聞いてもらった。蛇足ながら「平民宰相・田中角栄」に免じてお許しを。(2017・5・7)

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(207)新たな政党間対立軸を求むー吉田徹『「野党」論ー何のためにあるのか』を読む

このところ自民党議員の不祥事やら不始末が目に余る。防衛大臣や法務大臣の危なさが人の口の端に登らない日がなかったと思いきや、震災復興担当大臣の被災地をめぐるおかしげな発言が相次ぎ、遂に辞任に発展した。一方で、政務官の二重婚とも思われる事件が発覚。この人物は離党したが、とてもそれで済まされるとは思えない。北朝鮮の動きが極めて注目される事態があり、それに対応すべく安倍首相は踏ん張っているとのイメージが強いことは救いである。しかし、その首相も一皮めくれば、「森友学園」だけではない様々な疑惑が渦巻いているとの指摘が後を絶たず、長期政権に陰りが見えていることは否めない。こういう事態を前に野党は勢いづいてはいるが、とても政権を担って立つだけの信頼感が国民の間にない。最大野党・民進党に大物離党者が相次ぎ、世論調査での政党支持率は自民党の3分の1にも及ばず、他の3党にあっては何をかいわんやの状態が続く▼こうした状況下で昨年夏に出版された吉田徹『「野党」論ー何のためにあるか』を読んだ。野党の存在感が全くない今日、この本は大いに読むに値する(特に最終章)と思う。が、世間的には全く注目されておらないのは残念だ。著者は北海道大准教授で比較政治、ヨーロッパ政治を専門とする新進気鋭の学者。筆者のような世代にはある意味で「政治疲れ」が目立つ。政治の「あるべき論」を論ずるよりも、とにもかくにも「一つの政治選択をしたら直ちに断行する」方向に関心が向きがちである。これは55年体制下の政治が38年程続き、自民党一党支配から連立政治が余儀なくされた後、政権交代が起き、民主党政権が誕生。それが見るも無残な失敗で下野してしまった。そこへ一たびは失敗した安倍氏が再び登場して一転今度は強い首相を演じているから、過去との比較の中で、攻める側も守る側も妙な安心をしてしまっているかのように見える。つまり政治の現場に緊張感が欠如してしまっていると言わざるを得ないのだ▼筆者が政治家になった1990年代半ばの政党間の最も大きな政治的対立軸は、「大きな政府か、小さな政府か」であり、今もそれを引き摺っている。しかし、あれから20年程の歳月が流れ、もはや意味をなさないのではないか。著者は公的債務が留まるところを知らず、社会全体の貧困化が進む一方の今、そういう対立軸はまやかしにすぎないという。代わって登場すべきは「いかにして賢い政府を作るか」だ(これは今の政府は阿呆な政府だと言われてるのに等しい)、と。そのうえで、吉田さんは、「合意型争点」と「対立型争点」の二つの次元に分けて論じていて興味深い。詳しくはぜひ本書を読んでみて頂くしかないが、わたし的にはオーソリタリアン(権威主義)対リバタリアン(自由至上主義)という新しい対立軸(政治学者・キッチェルト)の提起に関心を持つ。正規雇用と非正規雇用とに分断化され、経済的、社会的格差が拡大するなかで様々な課題が惹起されているのに、旧来的な保守、自由、社民、共産主義といった政治的諸潮流は何も解決のカギを提起し得ていない。ここは残念ながら私などが依拠する中道主義も同様だと言わざるをえない▼権威主義と自由至上主義の対立軸というのは、「共同体を個人より優先させるべきと考えるのか、それとも、個人は共同体に優先すると考えるのかという、共同体ー個人の対立軸」であるという。正直に言ってこれが決定的かどうかは未だわからない。言えることはヨーロッパのような新しい対立軸をめぐってのダイナミックな論争が日本では全く見られないということだ。公明党は、自民党と連立政権を組んでそれこそ20年近い。政治の安定化に貢献してきたことは認めるのにやぶさかではない。しかし、与党自民党の弛緩しきった堕落ぶりと、野党第一党の腰抜けの体たらくを見るときに、ひたすら自民党に寄り添うだけでいいのかとの思いが募る。今回の震災復興大臣の後釜に相応しい人材は公明党には複数いると断言したい。こういう時に黙っていないで我々が担うというぐらいの声が出ていいのではないか。新たな時代の政党間対立軸にあっても積極的な問題提起を、中道政党公明党に望みたい。(2017・4・27)

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(206)「おもてなし」の本質ーD・アトキンソン『イギリス人アナリスト 日本の国宝を守る』を読む

世界文化遺産・国宝「姫路城」を訪れる外国人観光客が凄く増えたように思われる。かつて年間100万人を超える程度であったのが、いまでは200万人を有に超えている。その増えた分の相当部分は外国人ではないか、と推測する。中国、韓国、台湾など東アジアの人々は殆ど外見上日本人と変わりないが、青い目の外国人は容易に分かるだけに昨今の変化は眼をみはるばかりである。その人々が姫路城にやってきて果たして満足しているのかどうか。一人ひとりに訊くわけにもいかないので想像するしかないが満足度はあまり高くないのではないかと懸念している。それはこの城の持つ醍醐味をしっかりと分からなければ、ただお城に上るだけでは天守閣から眺める風景はあまり美しくない街並みが見えるだけだからである▼デービッド・アトキンソン『イギリス人アナリスト 日本の国宝を守る』を読んでつくづくと感じたのは、日本文化の背景についてしっかりと説明することの大事さである。「おもてなし」という言葉が先行しているだけでは外国人観光客を満足させえないのである。東洋的、日本的なものの美しさや神秘性だけを満足せよといっても限界があることを意外に日本人は分かっていない。この人物は元ゴールドマン・サックスの金融調査室長で今は小西美術工藝社の社長。金融アナリストとして活躍するなかで、日本の伝統文化の魅力に惹かれ、国宝や重要文化財の補修を手がける同社に入り、今では伝統文化財をめぐる行政や業界の改革への提言を続けている。この本は3年前に出版されたものだが、ある自民党の大物政治家から推薦され、寄贈を受けた。雇用400万人、GDP8%成長への提言もさることながら、日本復活の秘策は「観光立国」にあり、という触れ込みに多くのひとが注目しているようだが、私も色々とヒントを得ることができた▼ここで、かれは「日本の文化財が単なる『冷凍保存のハコモノ』になってしまっている」ことを嘆く。たとえば京都の二条城に行っても、大広間に人形が並んでいても、それにまつわるドラマをはじめ詳しい説明がない。「畳は古く、ふすまや障子を外し、本来あるべき調度品もお花もない。中を拝観しても、そこで何がおこなわれ、どのように使われたのか外国人にはさっぱりわかりません」という。さらに文化財を見る場面で外国人が歩きスマホをしているのは、スマホを通じてネットでその文化財の詳しい説明を検索していることが多い、と。こうしたことを通じて、日本の「おもてなし」の究極の本質は、外国人に対して、日本文化の背景を解きほぐすことにあるのではないか、と主張しているのだ。なるほどと思いつつ、日本人ですらわかっていないことかもしれないのに、といささか暗澹たる気分になってしまう▼淡路島への船を通じての旅ー関空航路の開設に取り組む事業に関わる私としては、姫路城もさることながら、淡路島観光への外国人の誘客が気にかかる。今、中瀬戸内海、西瀬戸内海は沿岸各県の努力で、それ相当の好評を博しているようだが、東瀬戸内海の方は殆ど手つかずだ。今私たち関係者が考えている観光コースは、大阪湾から神戸港、明石港、姫路港を経て家島群島、淡路島といった島々への船旅である。ゴールとしての淡路島にはそれこそ伊弉諾神宮という日本の国生みの原点が存在する。これをどう外国人に説明するか。日本でもあまり理解されていない風があるのに。そのあたりに心を砕くことから全ては始まるということを、この本から強く考えさえられたのである。(2017・4・20)

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(205)山と湖と、城と人と━━柳谷郁子『エッセイ集 諏訪育ち 姫路にて』を読む

 兵庫県には全国各地からの出身者がいるが、長野県の方というのはあまりお目にかからない。まして諏訪地域となると珍しいように思われる。小説家であり、姫路の文芸誌『播火』の主宰兼編集長をされる柳谷郁子さんは、長野県岡谷市生まれ。諏訪湖畔で育った。その諏訪湖の取り持つ縁で、私が尊敬する評論家の森田実さんと柳谷さんが交友を深められることになり、このたび『諏訪育ち 姫路にて』という柳谷さんのエッセイ集が美しい装丁のもと、第三文明社から出版の運びになった。本の帯には「大器、いま鮮やか」の見出しのもと、「柳谷郁子さんの作品を読むと心が洗われます。その美しい文章は諏訪湖の自然と姫路城の人造美が調和し、読者の心に響きます。大器、いま鮮やかなる作家が人間の真実を描いたエッセイです」とある。さすが森田実さん。思わず本を開き、読みたくなる評価の仕方に唸ってしまった。

 主たる舞台が姫路とあって心ときめく内容のものが多いが、とりわけ「折り鶴」に心撃たれる思いがした。高校二年生の頃の柳谷さんの青春譜。変型三角関係とでもいうべき実らぬ初恋めいたエピソードが甘酸っぱく語られる。一方の当事者が朝日新聞社の海外特派員、論説副主幹を経て、立命館大学教授から下諏訪町長となって活躍する姿が簡潔に描かれる。そして急転直下、急性心筋梗塞でこの世を去ってしまう(といえば、故高橋文利さんに違いない)。

 町内の小学生たちが折ったという献花の代わりの折り鶴。思わず眼がしらがうるんでくる。「参列者千人を超える町民葬の一席にひっそりと大きな旅行鞄を足もとに置いて、私もいた」「折り鶴をわが青春にも捧げて、私は『故郷』を歌う全員合唱に加わった」──50年の歳月を経て、青春を共有した、いとおしい友の死を悼む挽歌。その調べがリアルな描写と相まって目に鮮やかに、耳に痛くこだましてくる。

●よさこい踊りと阿波踊り

 一方、柳谷さんの感性と私のそれとがちょっぴり合わない「よさこい祭り」にも触れておきたい。私は土佐の高知は大好きだが、あの「踊り」がどうも肌に合わない。お隣の徳島の「阿波踊り」の方がよほど好きだ。一言でいえば、型を持つ踊りの美しさと、型破りの奇抜さとを比べると、前者に惹かれてしまう。姫路では「ひめじ良さ恋まつり」なるものが立ちあげられて、年々人気を博しているという。そのテーマ音頭となっている『はじけたらんかい姫路』の作曲が娘さんの夫君であり、作詞が当の柳田さん本人と云えば、力が入るのは当然だろう。しかし、「『よさこいなんて何のこたあない、江戸末期のええじゃないか踊りじゃないか。末世の証拠や』とにべもなく宣われる(のたまわれる)」夫君の方に深く共鳴するのはいかんともしがたい。

 姫路が生んだ最後の文士・車谷長吉。私とは同い年にして大学同窓と共通点もあるものの、全く生き方が正反対であった作家。その彼が晩年に書いた『灘の男』から始まる「泣いてからが」も大いに読ませる。喧嘩の強い男の話から一転して、ピアノの猛烈な練習で泣く孫娘に話は移る。その孫に対して「人はね。泣いてからが強いのよ。強くなれるのよ。いいから思いきり泣きなさい」と抱きしめながら励ます柳谷さん。先年、姫路で開かれたリサイタルで、桐朋音大で学ぶ彼女の天分豊かなピアノ演奏に接したばかり。

トーク場面であどけなさが残る生身の姿をも見聴きしただけに、ついこちらも前かがみになってしまう。柳谷さんは、このエッセイの中で、未だ自ら書き得ていない本について、これからの意欲を散りばめて吐露されている。親しい友人であった故建部順子さんの弔辞に換える本。「灘の男」の故濱中重太郎氏の伝記。そして諏訪湖にまつわる小説などなど。それぞれの構想で、頭と胸はいっぱいのようだ。果てしない旺盛な創作意欲には、ただただ圧倒されるばかりである。

【他生の縁 姫路での不幸なできごと】

 柳谷郁子さんの夫君は、元姫路市議で、1991年に県議選に挑戦し、落選しました。その際に選挙違反の容疑を受けて郁子さんが逮捕され、留置場に。無実を主張して徹頭徹尾闘う自らの姿を描いたのが『風の紋章』です。最終的に無実を晴らされるのですが、そこに至る警察の担当者、報道に携わる記者、周辺の人びとなどの「暗部」ともいうべき姿が克明に描かれています。

 私が姫路に戻る少し前の出来事なので、風の噂には聞きましたが、殆ど知らぬままでいました。ところが、その後様々な場面でお会いする機会が増えて、ご本人からも「読んで欲しい」と強く望まれました。生々しい描写の数々に息呑む思いの連続でした。

 日本中に「選挙違反」は日常茶飯事でしょうが、「無実の罪」を受けた側の恨みを晴らす心の「深部」に深く立ち至った本は殆どありません。しかも、当事者が作家だというのは。読み終えて、柳谷さんの強さと優しさ、そして権力の惨さが心の奥に染み込みました。

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(204)”される”身から、”する”側への変化ー加来耕三『日本史は「嫉妬」でほぼ説明がつく』を読む

嫉妬というものが歴史を動かしてきたことは、容易に想像できる。既にこの分野では傑作の誉れ高い『嫉妬の世界史』が山内昌之東大名誉教授の手になってから13年ほどが経つ。発刊されてすぐに読み、読後録も書いた。ゆえにこの度本屋で加来耕三『日本史は「嫉妬」でほぼ説明がつく』を見た時に、「二番煎じ」との思いを禁じ得なかった。しかし、前者に比して日本史への堀下げが深いかも、との期待感があって挑戦してみた。日本史を分かりやすく説明してくれる歴史作家として加来さんは定評もあり、期待はそれなりにあったのだ。だが、読み終えての印象は日本史といっても近代以前で終わっている分、物足りない思いが残る。尤も少し視点をずらし、嫉妬に翻弄されずに生き残ったり、それなりの役割を果たした名わき役に目を向けさせ、意外に面白い。その観点では役立つ▼私がこの本から参考にした一部は以下の点だ。嫉妬から逃れえた人物を戦国期の中から拾うと、前田利家、大谷吉継、本多正信の3人が挙げられる。一般的には、利家は「凡庸」、吉継は「悲運」、正信は「智謀」といった二文字が思い浮かぶ。しかし、三者三様にその人らしく人生を全うした勝利者かもしれない。利家は、「人間は例外なく、苦労すると謙虚になる」がゆえに、「他人に嫉妬されないようにするにはどうすればいいのかも世間智として理解でき」、「肝に銘じられるようにな」って「嫉妬を押さえられた」人物だという。外様最大の雄藩・前田家が江戸期にあって取り潰されなかったのは、利家以来の歴代藩主が「その言動に細心の注意をはらい、幕閣に嫌われないように終始へりくだった、成果といえなくもない」との見方は注目されよう▼吉継は顔面が潰れる奇病を持ちながら、同時代を生きた盟友・石田三成と並ぶ才能を賞賛された。しかも三成と違って、敵、味方の双方の周囲から嫌われず、嫉妬もされなかった。病気が原因でひとの同情を買ったという側面はあるものの、それだけではなく、「身を一歩下げる、名誉欲を捨てるという」手法や、「人気取りをしない、上位への栄達や野心をまったく示さない」との生き方をしたことである。嫉妬されない極意として、「まるで自らの足跡を消しながら働くように、決して自らは表に立たなかった」というのは凄い。正信もこれに似た生涯を送ったとされる。いかに家康から加増を持ちかけられても決して受けず、「敵と味方を選別し、外からの妬み嫉みの攻撃を、内の守り=文治派の盾で防ぐ工夫もしている」し、徹して周囲への警戒心を怠らなかったようだ▼翻ってわが身と嫉妬という問題に少しだけ触れてみたい。他党と違い実力でのし上がるというよりは「出たいひとより出したいひと」との側面が強くあって、公明党の場合、政治家の候補として地域から選定される。今でこそ高学歴、特殊な才能、鋭い頭脳やら爽やかな面相などの多彩な付加価値を持った候補者が林立する公明党だが、私はほぼ例外中の例外だった。殆どなきに等しい付加価値しか持たず衆議院議員候補に選ばれた。「なんであいつが」との嫉妬の目線は痛いほど感じた。しかし、幸いなことに闘いのさなかには少しづつ消えて行った。有難いことだった。自分的には、使命への一途さ、感謝の一念をひたぶるに燃やしたつもりだ。初っ端の選挙で落選の憂き目をみたことも大きいに違いない。「落ちたのはかわいそう」「今度こそ」との思いを抱いてくださった方々が多くおられたのは嬉しい限りだった。もう30年も前のことになるが、嫉妬されることから闘いは始まり、苦節5年の末に当選してからは、一転自らが嫉妬することとの戦いとなった。この辺りは、また別の機会にしたい。(2017・4・3)

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(203)二流の現代日本を憂うー原田伊織『三流の維新 一流の江戸』を読む

原田伊織さんの「維新三部作」は実に読み応えがあった。いわゆる司馬史観なるものがいかに歴史の表層だけしかとらえていないか、ということを微に入り細にわたって解き明かしてくれた。加えて先の大戦以降の民主主義教育なるものも、戦前の全否定には熱心であっても、真に掘り起こすべき歴史の実相には刮目していないことを白日の下にさらけ出した。そこでは薩長土肥の4藩を主力にした明治政府を作った武士たちの横暴さと、徳川幕府を構成した幕僚たちの能力の高さが対比されるように浮き彫りになった。そこへ4作目になる『三流の維新、一流の江戸』が刊行された。前三作の背景をなす江戸期の持つ素晴らしさを描き出したものとして、それなりに面白い。ただ、4匹目のどぜうを狙った感があり、焼き直し的印象は否めない▲尤も、それは三部作の衝撃度が高かったがゆえであって、逆にそれらを読んでいない向きには却って新鮮かもしれぬ。この本をまず読んで、著者の意図の全体像を掴んでから、さかのぼって読み進めば、理解度は相当に進むかもしれない。それにしても原田さんの「維新像」はまだまだ少数派で、明治維新を絶対視する歴史観の根強さは現代日本を覆いつくしている。吉田松陰とその門下生たち、そして坂本竜馬、西郷隆盛らを崇め奉る向きは、彼らをテロリスト呼ばわりする原田さんに対して生理的嫌悪感すら抱きかねないのである。だがどういった分野であれ、私のようないわゆる定説を疑問視するへそ曲がりには、堪えられないほどの爽快感がある▼江戸時代の持つ凄さへの理解度は、前回に取り上げた『徳川が作った先進国日本』で明らかにされたように、かなり進んできている。しかし、私のような原田びいきが改めてこの本で認識を新たにしたことが幾つかある。一つはキリスト教の位置づけである。通常「隠れキリスタン」をめぐる悲惨なエピソードが物語るように、被害者としてのキリスト教徒たちというのが通り相場だ。しかし、九州では真逆にキリスタン大名による非信者たちへの迫害があったという事実は以外に知られていない。もう一つは、少し時代を経ての「廃仏毀釈」のすさまじさである。私など通り一遍に仏教もキリスト教と同じように迫害を受けた程度にしか理解していなかった。しかし、この本で、原田さんは「テロを繰り広げた薩摩長州人は、古来の仏教文化でさえ『外来』であるとして『排斥』した」としていることは改めて注目される。具体例として奈良興福寺や内山永久寺の惨状を紹介し、「仏教文化の殲滅運動」だとして糾弾していることは興味深い▼神道、仏教、儒教という日本における三大思想が、本格的なキリスト教の挑戦を受けたのは、信長、秀吉、家康の勃興した戦国時代末期であった。純粋な宗教次元では、江戸時代の260年の流れのなかで、キリスト教は日本社会に馴染まず、一たびは押し返されたかのように見える。しかし、維新における薩長の乱暴狼藉と「文明開化」の旗印のもとでの西洋文化への無批判な受け入れで、キリスト教はその姿を西洋思想(ギリシャ・ローマの哲学)の装いをまとって再び日本に入り込む。その結果、西洋に比べて、科学技術分野における日本の致命的な遅れは、思想分野においてまでも劣等意識を持たせるに至ったのである。原田さんの維新3部作プラスワンは、明治から150年を経た日本が何に気づくべきかを読むものに示唆してくれる。私たちは現代日本が二流、三流に甘んじることなく、一流の江戸期にまで迫るには、どうすればいいかを考えねばならない。キリスト教プラス西欧哲学という西洋思想などに勝るとも劣らない、日蓮仏法を基盤にした「現代日本思想」の確立こそ急がれる。(2017・3・28)

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(202)関空からジャカルタへの機中で考えたことー磯田道史『徳川がつくった先進国日本』を読む

3月上旬にインドネシア・ジャカルタに旅をしてきた。中身の一端については『後の祭り記』に書いたので、ここではまるまる二日間にも及んだ機中で読んだ本について記す。旅の準備の手抜きで、いつもなら数冊は旅行鞄に詰め込むのに、今回に限り忘れた。一冊もなし。慌てて新大阪の駅ナカ書店で探した。磯田道史『徳川がつくった先進国日本』を関空特急「はるか」出発時間ギリギリで選ぶ。落ち着かぬ状況下で選ぶと、やはりろくなことはない。この本、NHK教育テレビの「さかのぼり日本史」(江戸天下泰平の礎)で4回放映された分の文庫化だった。読み進めるにつけ既視感が浮かんでくる。磯田さんとは会ったことはないが、気鋭の歴史学者として注目してきているだけに、「まっ、いっか」との気分でページをめくった。わずか150頁あっという間だった▼周知のとおり、インドネシアという国の宗主国はオランダであった。我が日本を最初に訪れたヨーロッパの国々のうちの一つがこの国である。長崎出島に世界で唯一翻った国旗がオランダのそれであったことは福沢諭吉の『福翁自伝』の読後録で、ついこの前に書いたばかりである。オランダの足跡を探す思いを秘めつつ、未だ見ぬ国への期待を高めた。磯田さんは、この本で徳川260年の間がなぜ平和であったのかを探っている。世界史では当たり前に繰り返されてきた革命や内乱。これが江戸期には殆どなかった「背景には国際環境や自然環境の変化を乗り越えた江戸期日本人のいとなみがあった」という。そのターニングポイント(転換点)として。(1)露こう事件(1806)(2)浅間山噴火・天明の飢饉(1783)(3)宝永の地震・津波(1707)(4)島原の乱(1637)を挙げている。さかのぼりすることで結果から原因を探ることになるが、これをあえて通常通り時系列でみると、家康が”関ケ原”を抑え征夷大将軍になって約30年後に起こった内乱と、それから100年前後で相次いだ二つの天変地異。それから約25年ほどで起こった外圧ということになる▼この小さな本で我々が今認識を新たにすべきことの一つは、ペリー来航で江戸の鎖国が破られたのではなく、既にそれより60年ほど前にロシアによってなされていたということだ。このこと、一般的にはあまり知られていない。あたかも1868年の明治維新の10年ほど前の事件で一気に日本が鎖国から目が覚めたかのごとく取り沙汰されてきているが、それは違う。十分に江戸幕府の中枢は外国を意識し、その準備をしてきたはずと見るべきだろう。作家の原田伊織氏のいうような「維新のテロリスト」や「官賊」に比べ、いかに優秀であった「幕臣たち」といえども、それなりの蓄積がなければ無理なことであったに違いない。磯田さんは「こうした対外的な”危機を乗り切る”ことで、辛うじて”維持し、再生産していった”」と強調。「ペリー来航」のもたらした危機への”予行演習”を「ラクスマン来航」が果たしてことを銘記すべきだとしているが、大いに首肯できよう▼島原の乱は江戸期における最後の本格的内乱であり、厳密に言えば260年の間”パクス・トクガワーナ”(徳川の平和)であったというのは当たらず、この乱以降の220年だったといえる。この乱の本質は領主への農民の不満爆発と、もう一つはキリスト教への迫害に対する抵抗であった。それに加えて徳川五代将軍・綱吉の「生類憐みの令」に端を発した「生命尊重の心」への動きも見逃せない。キリスト教を排斥したことと、生きとし生けるものを大事にするという流れが重なっていることは極めて重要に思われる。それは明治維新以降のキリスト教プラス西欧思想の流入によって近代日本が戦争へと大きく傾斜していき、平和を捨てて行ったことと無縁ではないからである。磯田さんは最後に渡辺崋山の「眼前の繰廻しに百年の計を忘れてはならない」(八勿の訓)を挙げて、長期的視点の大事さを訴えている。この書物から改めて学ぶことは多い。江戸期ならずもっと以前からの地震・津波の大災害の被災を受けてきた国・日本。「3・11」から6年しか経っていないのにもう防災への関心が薄れるようであってはならない。津波・地震先進国として日本は、アチェの大津波を経験したインドネシアと連携することの大事さを強く意識しながら、機中からジャカルタのひととなった。(2017・3・16)

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