【143】読むたびに微笑む「老いの楽しみ」ー松田道雄『幸運な医者』

世の中、油断も隙もあってはいけないということは良くわかってるつもりだが、往々にして忘れる。というか私の場合、自己過信からの自損事故が多い。ひと月近く前、理髪店で椅子に座った状態で脱いでいた靴を履く際に紐を結んだ。その時に女性従業員(そこはすべてそうだが)から「身体やわらかいですねぇ」と感心された。私と同年配の客では、そんなことできる人は珍しいという。そこで終わってれば良かったのだが、「私は前屈など得意だよ」とつい上体を曲げて両手の指の先を地面につけた。いらい四週間というもの、左の脇腹下の腰痛がただならざる状態になってしまったのである▼20代半ばにぎっくり腰になってより還暦を迎えるまで、40年近く腰痛に苦しみぬいた。日本カイロプラクターズ協会と巡り合い、カイロ治療を受けてからのこの10年は、痩せておなかがへこんだことも手伝って、ジョギングをしても腰痛知らずだった。それが元の木阿弥状態になったのだ。70歳になって”現代古希ン若衆”だなどと駄洒落ていたが、腰は体全体の軸とあって辛い。そんな折に再読したのが松田道雄さんの『幸運な医者』と『安楽に死にたい』の2冊。「生と死」や「健康」を考える時など、時に応じて取り出す。松田さんは小児科医をしながら『育児の百科』など物書きとしても活躍。患者の自己決定権の思想にたった医療の実践をつづけ、1998年に90歳で亡くなるまでの30年間は評論・執筆活動に専念した。面識はなかったが、若き日より遠くから憧れていた存在だ▼「長生きするしないは、大部分遺伝因子で決まっていて、変更できるものではない」「長生きした人の話をきいても、その人の鍵が、その人の門の錠前をスムーズにあけられるというのと同じだ。借りてきても、自分の門の錠前をスムーズにあけられるものでない」といった話は含蓄に富む。また、元はマルクス・レーニン主義に傾倒していたが、「ソビエト・ロシアの国教になっていた信仰から離れたのは、私なりに自分の目でロシアを見たから」だという。「育児という実用の仕事をしながらも、その底のほうに、ほんとうは何をしても空しいんだという気持ちを押さえきれなかった」松田さんは、「ニヒリスト」的側面を持ち続けた人だと、世間から見られていた▼マルキストとは無縁で、かつ「幸運な宗教者」である私にとって、松田さんの晩年はとくに気の毒に思われる。それでも、「老いの楽しみ」の章は読み返すたびに微笑む。テレビ、ビデオや映画について語ったくだりは、あんな人でもこんな楽しみを老後に持っていたのか、とにんまりする。「疲労感のある日は西部劇がいい」とか、中国の映画は「風俗的な興味からテープに入れるが、くりかえしてみたいのにはぶつからない」。「香港のは時に面白いのがある」し、「韓国も日本より問題意識があって」いいというようにも。友人たちとのやりとりも読ませる。「むつかしい本はいやになりました。芥川全集予約すべきか迷っています」とか「けさ妻に『あんたなんで生きてんにゃ』とたずねたら『寿命があるさかいや』といいました」など、さりげないながらドキッとさせられる言葉にも出くわす。「長く生きて生を楽しむには、ふたつの丈夫な足場が要る」として「身体」と「精神」をあげたうえで、それを支えてくれたのは「本や音楽や映画もあるが、友人も」と。幾たびめかの腰痛のせいで、いい本を再読できた。(2016・2・28)

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【142】「新しい普遍主義」はいったいどこにー佐藤優『池田大作大学講演を読み解く 世界宗教の条件』

読売新聞の橋本五郎特別編集委員に『二回半読む』という著作がある。本は一度読んだだけではなかなか理解できない。二回は読み、彼のような書評を数多く手がける人はさらに、という意味だった。また、作家の佐藤優さんは、二度ほど読み、また数か月経ってから読みなおすとより頭に収まるものだとどこかに書いていた。私の仕事上のボスだった市川雄一元公明党書記長は、自分が読んで感銘を受けたくだりは必ず身のまわりの人間に語ることを常にしていた。優れた読み手たちは、それぞれ工夫を凝らす努力しているものだが、私はそういうことを知りながら実践できないでいる▼佐藤優『池田大作大学講演を読み解く 世界宗教の条件』を読んで、一体自分はどこをどう読んだのだろうというショックを受けた。佐藤さんはこの10年で100冊を超える出版物を世に問うているが、『地球時代の哲学 池田・トインビー対談を読み解く』と並んで、この人の池田思想理解はおよそ半端なものじゃないことを改めて世界に明らかにしたと確信する。多くの弟子が師の偉業を活字で語ることに手間取っている間に、異教徒がここまで見事に創価学会の果たしてきた役割を披歴するとは‥‥▼北京大学での「新たな民衆像を求めて」という1980年の講演は、「友好と反目の二極化現象」にある昨今の日中関係を打開する上で極めて示唆に富む。池田先生は「中国は神のいない文明」(吉川幸次郎氏)だとの指摘を通じて、ヨーロッパ文明の「普遍を通して個別を見る」伝統に対して、中国文明というものを「個別を通して普遍を見る」という言葉に要約された。こういう素晴らしい能力をあなた方は持っているがゆえに「恐れずに改革開放政策を進めればいい」と中国を世界に誘ったのだ、との見立てはさすがに佐藤氏らしい鮮やかさだ▼経済面では共産主義下にありながら資本主義を導入するという”離れ業”をやってのけた中国も、政治面では依然として共産党一党支配のいびつな体制のまま。同講演において池田先生は「中国が文革の負の遺産を超克し、世界の大国になるには『新しい普遍主義』が必要だと説いた」。佐藤氏もその方向に舵を切ることを全面的に支持している。ところで、この講演から既に四分の一世紀が経つ。ヨーロッパ文明に根差す「旧来の普遍主義」が色褪せた今日、「新しい普遍主義」の姿は未だ明確には見えてこない。この講演を読み返してみて、「旧来の普遍主義」に無批判に身を寄せたままの日本の在りようについて、根源的な不安が沸き起こってくるのを禁じ得ない。問題はむしろ中国ではないのだということが痛切に感じられる。(2016・2.19)

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【141】友好と信頼を築く日中融和の試みー浅野勝人『北京大学講義録』『融氷の旅』

元NHKの解説委員にして元内閣官房副長官、元外務副大臣などを歴任した浅野勝人氏。国会議員を勇退されてもう●年が経つ。●年衆議院議長公邸で年に1〜2回開催される前議員の会で久方ぶりにお会いした。一貫して日本と中国との融和に取り組まれてきたことで知られており、かねて尊敬していたジャーナリスト出身の大先輩との再会は私にとって大いなる知的刺激をもたらしてくれた。この人は今「安保政策研究会」という一般社団法人を主宰される一方で、執筆活動にも余念がない。現役時代さながらの意欲と行動ぶりには驚くばかりである。ほどなくして二冊の本が送られてきた。

『北京大学講義録 日中反目の連鎖を断とう』『日中秘話 融氷の旅』だ。私は、故・池田大作創価学会インターナショナル(SGI)会長の学生部総会での講演(1968年)を聴いていらい中国問題に開眼した。強い関心を持って研鑽を重ねてきたのだが、この2冊の本には正直言って全身を激しく揺さぶられた気がする。浅はかな時流におもねらず、ひたすら日中両国の相互理解に身を捧げてこられた浅野氏の姿が改めて浮かび上がってくる。

 前者は、北京大学の学生たちを前にして「外交・安保」「経済政策」「教育論」「公害論」などを真摯に講義された記録だ。貴重な「日中関係論集」として参考になり、利用価値は高い。後者は、面白い秘話がちりばめられた「浅野勝人回顧録」である。これまたもう一つの「日中裏面史」として評価出来る。

 いったいいつの頃から「嫌中論」や「反日論」が両国内に台頭してきたのだろう。「江沢民の13年」という言い回しに代表される反日教育のせいばかりには出来ない。どっちもどっちの広範囲な認識ギャップも災いしていよう。私自身、「自公」の名だたる先輩三人がかつて中国で日本の政治批判をされたことの非を予算委員会の場で、あげつらったことがある。内心忸怩たる思いだったことが遠い日の一葉の写真のように今によみがえる。

 「共産主義中国」を、「お行儀の悪い中国人」を知ったかぶりに批判するのは簡単だ。しかし、悠久の歴史の流れの中で毅然と聳え立つ中国の良き伝統を今に受け継ぐ善なる人々も同じ数だけいることを忘れてはならないのではないか。日中間に真の友好をつちかってきているのは「池田思想」を学び実践する創価学会だけ、との思いこみが私にはあった。中国人学生が寄せた浅野氏の講演に対する感想レポートが掲載されているが、それを読むと厳しい寒さの冬の朝にぱっと窓を開けた時のように、清々しさに圧倒される。人の心を掴むことの大事さを思い知らされて余りある。

 なお、この2冊にはさりげなくだが随所に浅野さんが勧める本の紹介がなされている。山本七平『帝王学「貞観政要」の読み方』やユン・チアン『近代中国の創始者 西太后秘録』上下等々。これらを拾いあげて読むこともまたとっておきの楽しみだ。政治家の書いた本はとかく色眼鏡で見られがちだが、この本はまったく違う。まずは身の回りの学生や青年たちに薦めたい。

 

 

(2016・2・3)

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【140】哲学は真理を教えているものではないー古田博司『使える哲学』

「今大学で何が起こっているか、知ってますか」って、数年前に筑波大学の古田博司教授から投げかけられた。「学問の淘汰が始まっているのです」「細分化された学問がどんどん間引きされ、使えないものには学生が全く見向きもしないのです」ー筑波大の場合では大学院の法学専攻が5年間志願者ゼロでとうとう廃止になった、という。インターネットの本格的展開は、旧来の”知の持つヒエラルキー”を壊した。分からないことがあれば、直ちに手元のパソコンを開けば何でも解決する。勉強をすることで普遍的な知に近づけるというかつての幻想は消えてしまった▼『使える哲学』なる古田先生の新刊本は極めて明快。使えないくせに”お高い雰囲気”を持つ哲学という学問のイメージを完膚なきまでに壊してくれる。めっぽう面白い本である。この本の結論は「近代=普遍知の時代が終わった」ということ。「哲学というものは哲学者が人を説得しようとしている話を聞く(読む)というだけで」、「別に真理を教えているわけではない」。「もしそこに自分にとって役立つものがあれば利用すればよいだけ」という。以前に取り上げた『ヨーロッパ思想を読み解く』で展開された、西洋哲学の基本にある「向こう側」という世界の捉え方から始まって、ドイツ哲学やフランス思想の問題点を曝け出し、イギリス哲学の優位性を説く。相変わらずこの人は知的刺激を猛烈にもたらしてくれるのだ▼これを読んで、私がかつて学生時代にー1960年代のことだがー知った創価学会の提示する価値観を思い起こした。それは、われわれが求めるべきものは「”真善美”ではなくて”利善美”だ」というもの。真理を求めるのは学者に任せて、一般大衆は利用すべき価値を探せとの指摘だと理解して、はじめは大いに驚いたものだ。あの頃はまだ「近代」のただ中で、普遍知なるものを皆が有難がっていた。「ポスト・モダン」の今になって、信仰50年の自分が創価学会の先駆性に気づくというのも気恥ずかしい▼20年あまり前からの知己である古田さんには、朝鮮半島をめぐる深い洞察から東西哲学比較まで、様々に教えを乞う機会が多い。「40年間、朝鮮だけを研究してしまい」、「朝鮮だけで終わってしまった」のが「悔しいから、今ちょっと暴れている」と謙遜されるだけあって、彼の進境はいやまして著しい。本来の儒教を骨格とする東洋思想への知見に加えて、ヨーロッパ思想への斬新なアプローチは余人の追従を許さないものがある。日蓮仏法をかじっただけの私など到底太刀打ちできないことは百も承知だ。しかし、そこは向こう見ずな私のことゆえ、なんとか蛇に怖じず、とばかりに時々無謀にも挑みかかっている。東洋の叡智の持つ「直観」に磨きをかけて、近くまた議論を吹っ掛けたいと思っているのだが。(2016・1・28)

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【139】歴史を図形で捉えることの面白さー保坂正康『昭和史のかたち』

時代を図形で捉えるー実にユニークな発想の本を発見、一気に読んだ。保坂正康『昭和史のかたち』である。図式イメージはすべての理解を助け、早める。かつて私は創価学会という組織を三角形ではなく、円形で捉えることの大事さに気づいた。「組織の頂点や底辺」という言い回しは三角形やピラミッド型を連想させ、暗く重苦しいイメージが付きまとう。それに比べ、明るい躍動的な組織を説明するには、円や球こそが望ましい。民主的組織のリーダーは円の中心にあり、最前線のメンバーは円周上の人々だ、と。遠心力や求心力も組織にとって欠かすことができない力として説明できる、という風に。物事を図式化することは面白い▼保坂さんはこれを歴史理解に適用した。例えば、昭和史を大まかに捉えるにあたり、昭和元年から20年9月2日の無条件降伏の日までを前期。それから昭和27年4月28日までの米軍占領期間を昭和中期。そして独立を回復した日から昭和天皇が崩御した昭和64年1月7日までを昭和後期とする。これらを三角錐の三つの表面体として捉え、それぞれの時代の中心人物に、東条英機、吉田茂、田中角栄を当てはめる。そして三角錐の底の面にはアメリカ、空洞部分には天皇の存在があるとする。3人の首相経験者にはそれぞれ獄につながれた経験を持つ共通点があり、アメリカとの関係が日本の指導者にとって致命的な意味合いをもつことを明らかにしていく▼この本の最大の焦点は、三章の「昭和史と三角形の重心」だ。明治憲法下では、三角形の頂点に天皇、ほかの二辺にそれぞれ統治権と統帥権とで正三角形を形成していた。それが軍部勢力の台頭により、統治権よりも統帥権が上位に立ち始めるという形で重心が移動し、やがて頂点に位置する天皇をも超えてしまう。いわゆる「統帥権干犯」という事態を惹起するわけである。このあたり、実際に図式で説明をすると実に分かりやすい。こうした正三角形から歪な図形へと変わりゆく姿こそ、昭和前期の天皇から軍部への重心の移動を示して余りある▼保坂さんは、この本で「遠くなりゆく『昭和』を、局面ごとの図形モデルを用い」ながら、「豊富な資料・実例を織り込み、現代に適用可能な歴史の教訓を考え」ていく。ただ、おわりにのところに「戦後七十年の節目に、無自覚な指導者により戦後民主主義体制の骨組みが崩れようとしている」として、ステロタイプ的な批判の言葉を投げかけているのは、いかがなものか。「集団的自衛権の行使を可能にした」安保法制の制定は、「戦後民主主義体制」の一側面を修正強化しこそすれ、骨組みは壊されたりしようとしていない。むしろ、そこでいう「体制」の実態とはなんであるのかが問われるべきだと思う(2016・1・17)

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【138】いろはかるたから学ぶ繰り返しの大事さー鶴見俊輔『読んだ本はどこにいったか』

タイトルに惹かれた。『読んだ本はどこへいったか』という。昨年83歳で亡くなった鶴見俊輔さんの「今まで読んだ本の、自分の中でののこりかたの記録」である。私も今日までそれなりに本を読んできたつもりだが、このタイトルを最初は鶴見さんとは正反対の意味にとってしまった。つまり、本は読んだが何も残っていない、との意味に。妻から先年「本を読んでいても貴方は何も身についていない」と揶揄されたことがずしんとこたえているからに違いない。大いなる反省と新たなる旅立ちへの参考とするために興味深く読んだ▼鶴見さんはこの本を⓵自分の読み直しのメモ⓶京都新聞の山中英之記者へのはなし⓷記者の記録への手入れーの手順で作ったという。ご自分の体内に80歳までの人生で読んだ本がどう残っているかを書き残された。その読書生活の全容をこの本が要約しているものとらえることが出来る。「『老い』というフィルターで濾過され、なお残る本は何か」と自身に問いかけ、「私にとっては、これまで実現したことのない著作の形である」と言われる。随所に魅力溢れる様々な本のエキスが抽出されており、あれもこれも読みたくなる▼「哲学のもう一つの入り口」「生活語を求めて」「大衆小説の残したもの」の三章からなるが、「かるた」について書かれた第二章がお正月の今最も読むにふさわしい。「かるたは単なるゲームではなく、人生のいろいろな状況の中から、自分がとれることわざをとる不思議な文学です。遊びでありながら、実人生と相互乗り入れになっている」と持ち上げる。更に島崎藤村と岡本一平(絵)が作った『藤村いろは歌留多』について「(藤村の全著作の中で)最高のものだと感じるのは、七十八歳になった今の私の評価です」とまでいう▼思えば「かるた」に日本人は多くの思いを託し、様々な教訓を学んできた。私など「犬も歩けば棒にあたる」を読んで「人も歩けば票に出くわす」と想起して、選挙への意欲を高めたり、「猿も木から落ちる」から苦手なことよりも得意なことが失敗の因につながることを戒めたものだ。ここで言えるのは繰り返しの重要性だ。子どもの時から何度も何度も口にして覚えたことだから身についてきたのだろう。「好きこそものの上手なれ」である。読んだ端から忘れてしまう読み方から脱却するために、今年は気になったくだりや興味を持ったところを繰り返し読み直したり、更にその中身を人に語ることで身につけていこうと思っている。(2015・1・6)

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【137】世界宗教とは何かを思い知らされるー佐藤優、松岡幹夫『創価学会を語る』

先日、ある会合の席でその世界で高名な神社の宮司さんと話す機会があった。神道と創価学会ーお互いに過去に遡ると、相互に批判しあった経緯がよみがえるが、それも「今は昔」ということに思いが至った。宗教のグローバル化という面から見ると、神道と創価学会SGIでは住む世界が今や全く違っているということなのだろう。方や日本固有の文化の守り手であり、もう一方は世界の民衆の間で圧倒的な賛同を得つつある存在だ。社会に生きている次元が異なっている。いつまでも「四個の格言」(日蓮大聖人が当時支配的な四大宗教を批判した言い回し)にこだわって、「邪宗破折」に忠実たろうとする自分は、少々時代遅れだと気づいた▼佐藤優、松岡幹夫『創価学会を語る』は、雑誌『第三文明』で連載されていたものが単行本としてまとめられた。改めて読み直してみて深い感慨に浸るとともに、ご両人の並々ならぬ力量に感服する。とりわけ「三代会長は仏教の実現者」という章にはひきつけられた。このところの私の関心事について、見事に抽出されていたからだ。松岡氏が「池田会長はたとえば『人権』とか『自由』などというヨーロッパ由来の概念を、日蓮仏法の観点からとらえ直し、普遍化していった」と述べる。これに対し、佐藤氏は「自由や人権などという概念が特殊ヨーロッパ的なものではない普遍的価値だということが、トインビー対談によって初めて明確にされた」と応じている。ここには明治維新いらいの福沢諭吉を先頭にした日本の思想家たちの”知的格闘”を解き明かすカギが潜んでいる▼キリスト教に対して紋切型で批判してみたところで何も創造的なことは起こらない。西洋近代の哲学を批判的に切り捨てても、東洋の思想哲学の優位性がそれだけでは輝かない。池田SGI会長の人生を賭けた壮絶な知的、行動的営みを改めて後付けすることの意味合いの重要性を心底から感じる。佐藤優さんが「キリスト教、イスラム教、創価学会SGIが世界三大宗教だ」ということを今こそ噛みしめる必要性があろう。今創価学会は全く新しい広宣流布の新局面を迎えているのだ▼それにしても両氏の呼吸はぴったりで、実に鋭い。牧口初代会長の「価値論」、戸田二代会長の「生命論」を、池田三代会長が「人間主義の哲学」として完成させた、との松岡幹夫氏の指摘に、「キリスト教神学がどのように形成されていったかを学会教学の理論家の方々がじっくりと学んでみると参考になることがいろいろある」と答える佐藤氏の発言などである。私たちにとって大いに示唆に富む。この書物にぶつかって、安易に読後録はかけないとの思いがひとしきり胸に迫ってきた。佐藤さんのものに加え、松岡さんの様々な著作を今懸命に追っている。(2015・12・30)

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【136】森と熊と光と海とー貝原俊民さんの追悼文集『惜福』に寄せて

昭和61年から4期15年の間、兵庫県知事だった貝原俊民さんが不慮の事故で亡くなってより一年余りが経ちました。このほど『惜福』というタイトルで追悼集が発刊されました。彼の生前中にゆかりのあった313人の人々による文章が収められています。私もその一人として参加させていただいたので、その文章をそのまま転載させていただきます。

知事をひかれた後の貝原さんと私は、ひとつだけ同じ肩書を持っていました。それは西宮市に本部を置く自然環境保護団体「日本熊森協会」(森山まり子会長)の顧問という立場です。私が衆議院議員に初当選したのは1993年7月。ちょうどその年の三月に尼崎市立武庫東中学の理科の教師だった森山さんと、その教え子たち有志が貝原県知事に「ツキノワグマを絶滅から守って欲しい」と訴えました。
貝原さんは生態学視点から、ことの重要性を理解され、ツキノワグマの保護に向けての努力を約束されました。当時は中学生で、今は弁護士となっている同会の副会長を務める室谷悠子さんは、その時の喜びを今なお生々しく覚えているといいます。
明治維新いらい、日本はヨーロッパ文明をしゃにむに受け入れ、科学技術分野での遅れを必死に挽回し、追いつこうとしてきました。その結果としてこの150年ほどの間、外来の思想、文化を日本風に変容させるという伝統的な手法が忘れられてきた傾向は否めません。今、その弊害がいたるところで噴出してきています。ツキノワグマが人里に下りてくるのは奥山が荒廃している予兆であり、森が悲鳴をあげているシグナルとも言えます。人間最優先の考え方で、自然や野生動物を支配しようとするのはキリスト教を中軸とした悪しき文明のなせる業です。人と自然の共生こそ日本本来のものとする考え方を貝原さんと私たちは共有していました。本当に心優しい、得難いリーダーでした。
今、私は、瀬戸内海に世界の観光客を呼び寄せる構想の具体化に、万葉学者の中西進先生や井戸敏三兵庫県知事らと連携しながら取り組んでいます。淡路島と関西国際空港との結びつきの強化を皮切りに、光溢れる瀬戸内海へのクルーズに夢を羽ばたかせています。その時に、かつて淡路島に夢舞台なるものを作られ、2000年に「淡路花博」を開催することを企画・立案された貝原さんの遠謀深慮というものが突然、理解できました。
西播磨の一角に世界一の放射光施設を誘致されて、壮大な科学公園都市を作られたのも貝原さんでした。現職時代の私は常にその構想の壮大さに感心し、支援を心がけたものです。引退した今は、瀬戸内海の東の入り口に横たわる”くにうみの島”を観光振興の一大拠点にしようとされた貝原さんの深い思いに魅入られています。今も昔も、これからも自分は森と熊と光と海を大辞された貝原さんと一緒にいるのだとの思いにとらわれているのです。(一般社団法人 地域政策研究会 発行『惜福 追悼 貝原俊民さん』)

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【135】70歳になっても変わらず本を漁り続ける

この読書録も70歳になったばかりの今回あたりで少し趣を変えたい。一冊づつの読後録ではなく、数冊のまとめ書きにしたい。一冊づつだとかなり突っ込んだ論評を余儀なくされるのでいささか疲れる。かつて20世紀最後の年にこの営みを開始したときは、三冊ほどを取り上げて三大噺風に取り上げたものだが、その方向に戻ってみたい。これだと少々楽が出来そう(笑)だ。中身の解説というよりも本のなかの片言隻語や著者との付き合い方に力点がおかれそうだが、しばらくこの手法をとってみたい▼先日、私の住む町・姫路市の石見利勝市長から一冊の本が送られてきた。随筆集『夢ある姫路』だ。この市長はもとは立命館大学の政策科学部長という肩書を持った教授だった。それだけに単なる政治家の随筆ではなく、深い学識に裏付けられた含蓄ある言葉が散りばめられた素晴らしい本である。特に、色んな方々との出会いに触れた第一章「日々想」が面白く読めた。私も生前にお付き合いのあった河合隼雄先生の看護師と患者の話には笑ってしまった。また。同氏の「世に二ついいこと、さてないものよ」との口癖を引かれて、二律背反(トレードオフ)の難しさを説かれている。市長はこの12年で学者から見事な政治家へと変身された。恐らくは河合先生の言葉を最も深いところで理解されたからに違いない▼と、ここまで書いたところで私の誕生日の贈り物が届けられた。リモージュボックスだ。これはフランスの小型の磁器に真鍮製の金具がついたボックスで、かの国の文化のエッセンスとエスプリが一杯詰まったものとして良く知られているそうな(私は知らなかった=苦笑)。送り主は、相島としみさん。鈴木淑美のペンネームで活躍する凄腕の翻訳家である。この人の仕事は数多いが、今は彼女が訳した『交渉に使えるCIA流 真実を引き出すテクニック』なる本を読んでいる。これはその道のなかなかの「専門書」(笑)だが、訳者あとがきが興味深い。話し相手から本当のことを引き出すには「『相手への理解、共感』であり、その深さは事前準備によって左右される」と述べている。元日経の記者だった頃のインタビュアーとしての経験に基づいての指摘だが、元ぶんや稼業だった私もまったく同感だ▼石見市長は前掲書で『人間性の心理学』の著者・マズローの「欲求5段階」説に触れている。私も親友・志村勝之との対談電子本『この世は全て心理戦』で取り上げていらい、この人の理論に強い関心を持っているが、相島さんの指摘するところとの共通点は少なくない。ともあれ70歳に突入した今もなお、新しいこと、面白いことを求めて今日も本を漁り続けている私だ。(2015・11・26)

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【134】本当の日本を考える糸口にもー橋爪大三郎、植木雅俊『ほんとうの法華経』

今朝の神戸新聞に興味深い記事が掲載されていてむさぼり読んだ。「転換期を語るー戦後70年の視点」で、編集委員の「混迷の世界です」という問いかけに、社会学者の橋爪大三郎さんが冒頭にこう答えている。「西欧キリスト教文明は19世紀、20世紀を通じて、人類世界に対してわがもの顔にふるまってきた。だが、21世紀は、欧米が『俺たちに合わせろ』と言っても、『イスラムで何が悪い』『中国のやり方で何が悪い』と言い返される時代だ。逆流の始まりである」と。この問題意識にまったく異論はない。ただ、見出しにあるように、「国際社会は不透明な融合へと向かう」のだから、「日本はまず相手を知る必要がある」との結論にはちょっぴり異議ありだ▼橋爪さんについてはかつて宗教学者・島田裕巳さんとの対談『日本人は宗教と戦争をどう考えるか』という本を読んだときのことを思い出す。例の「9・11」の翌年あたりに出されたものでタイトルにひかれて購入した。今でも印象に残るのは島田さんがまえがきで評論家の加藤周一さんの『日本文学史序説』を「日本の文学史であるとともに日本の宗教史であると言える」としたうえで、その中で「加藤さんは外来の超越的な思想が、日本の固有の土着的世界観によって骨抜きにされていく姿を描き出している」と述べているくだりだ。日本の近代化が西欧近代合理主義の前に膝を屈した形で進められてきてすでに150年近い。その過程に入る前は、まさに加藤さんがいうように、外来の思想を骨抜きにしてきた。しかし、今や日本固有の思想が骨抜きにされているのではないかとの思いが募る▼実はこの加藤さんの本の中で法華経について、富永仲基がその無思想性について指摘しているところが気になって仕方なかった。そこで、法華経のサンスクリット訳などを新たに手掛けてその現代語訳を完成させた植木雅俊さんの仕事に注目した。この人は『仏教、本当の教え』や『思想としての法華経』など次々と世に問う気鋭の仏教思想研究家である。根源的に法華経を無視している富永仲基やそれを是とする加藤周一といった人の見方、考え方の誤りを世に喧伝していかなければ、結局は仏教も、法華経も誤解されたままに終わるのではないか。こうした懸念を私は抱き続けてきた。なんとかそれを払しょくしてほしい、そんな思いで植木さんの本を読んできた。で、彼の師である中村元さんの生涯を描いた『仏教学者 中村元』のなかに見出した。しかしその記述はまことに物足りなかった。これでは世の批判に勝てない、と▼そんな思いを植木さんは知ってか知らずか、直近にだされた、それも橋爪大三郎さんとの対談『ほんとうの法華経』の中にしっかりと書いてくれていた。二か所出てくる。一つは「法華経には、直接的な言葉で表現されていないが、だまし絵のように重要な事がさり気なく盛り込まれています。これを見落とすと、富永仲基のように、法華経は最初から最後まで仏をほめてばかりで、教理の内実がないと批判することになるんでしょう」。もう一つは最後に、(こういったことを富永が言ってるのは)方便品に<深い意味を込めて語られた事は、理解しがたい>とあるように、法華経の深い思想を読み取ることができなかったのではないでしょうか」と。この本はまことに法華経をめぐる様々な深い意味を分かりやすく説く素晴らしい本であり、これまで集積してきたものをさらに深めることができる。ただ、橋爪さんが数か所で「目茶苦茶だ」と法華経の記述について述べているところは、揚げ足取りだと思うものの気にはなる。そして、冒頭に指摘したように橋爪さんが「日本は相手をまず知る必要がある」というが、「日本はまず自らを知る必要がある」のではないか。つまり、近代化の中でキリスト教欧米哲学に圧倒され続け、骨抜きにされた自らを知ることが必要で、しかる後に、相手をも知る必要があるのでは、と考える。その際に法華経の位置づけを改めてやり直すことも大事ではないか、とも。このように、植木、橋爪対談本は”本当の日本”を考える得難いきっかけになる。(2015・11・13)

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