(15)中国に明日はないのか、あるのか

中国をめぐってはあまたの情報が錯そうするなかで、特徴的なのは正反対の予測が存在することだ。たとえば、前回の堺屋太一『団塊の秋』では、2025年の中国では「日帝打倒80周年の祝賀会」が催され、ますます歴史の露頭が目立つとしている。歴史認識なるものは風化するどころか、時間とともに先鋭化を強めるというわけである。経済面でもドイツと並んで、2028年には「中国では、発電所を投資対象とする取引が大いに賑わっている」とし、健在ぶりを占っている。

しかし、10年以上もの遠い先まで待たずとも、すでに国内社会は、バラバラで国内暴動は続発、不良債権の爆発は目前で、「三年以内に共産党が崩壊するかも」と予測しているのが、評論家の宮崎正弘氏や石平氏だ。2013年の中国予測(前後半二冊)に続き、『2014年の「中国」を予測する』も大陸から次々と逃げ出すヒトとカネの在り様を描いてまことに刺戟的である。

こういう本はいわゆる「トンデモ本」だとして、はなから敬遠する向きがあるかもしれないが、それでは知的損失は大きい。食わず嫌いは勿体ない。とくに宮崎氏は中国の現場を知り抜いており、その情報は新鮮かつ貴重なものに思える。また、日本のマスコミの対中報道姿勢についても、きわめて冷静に見てることが信頼感を与える。たとえば、三大経済雑誌が中国経済にかなり冷やかになっているのに、日本経済新聞が相変わらず本当のことは覆い隠していると、疑問符を投げかける。「中国へ行ったら煤煙だらけで呼吸はできなくて、レアアースの精錬が悪くて河川は汚染され、なおかつ不動産はガラ空きでどうして不動産価格が上がっているんだ」と指摘する。

前回の佐々木紀彦さんが5年後に稼げるのは大新聞では日本経済新聞だけと予測をしていたのを紹介したが、中国については鋭い切り口は期待できないということか。というより、経済予測において国内外を問わず楽観的なのはこの新聞社の習性となってしまってるのかもしれない。

ただ、中国の現場に足を運ぶ機会がない私たちとしては、こうした宮崎、石コンビの「中国に明日はない」ともとれる過激な見方には慎重になりがち。他の視点も求めたくなるというものだ。そんな時、つい最近、格好の人物に出逢った。香港に長く住む経済人H氏である。

中国地域における旧正月の休みに合わせて帰郷(たつの市)された際に、懇談した。話題は香港からみて日本がどう見えるのかということから始まって、抬頭するイスラム国家とどのように付き合うかとの観点など幅広いものとなった。そのなかで、私は『2014年の「中国」を予測する』を取り上げ、彼に二人の中国観の信憑性を問うてみた。

数あるテーマのうちでピックアップしたのは、「中国から離れるアジア」のくだりだ。中国の経済事情に滅法通暁している宮崎氏は、「アジアで孤立を深める中国」との見立てをかなり以前から表明している。この本の中でも、各国個別に取り上げ中国との距離を測っていて興味深い。

フィリピン ガラガラのチャイナタウン。クラーク基地(元米空軍基地)の再開、スービック湾も再び貸す。

インドネシア 復活するチャイナタウン。だが、華僑も手探り状態。日本企業の進出は未だこれから。

ベトナム ハノイにチャイナタウンはなし。ホーチミンでは遠慮げにソロリと復活。外交的に難しい関係。

タイ 陸続きだから昔通りの付き合いは可能。相当のカネを注ぎ込む中国。

ラオス チャイナタウンはまだみすぼらしい。中国がメコン川の根元にダムを建設中。中国の援助をあてに。

カンボジア 中国が嫌いという前にベトナムが嫌い。中国からの開発援助をあてにしている。

シンガポール 香港と同様金融フリーマーケットで、中国からの進出が凄まじい金融。日本は利便性なし。

ミャンマー 中国が建設中のダムは中止。中国依存から脱却。日本の投資は未だ12位で、これからの段階。

マレーシア 中国の進出は凄い。日本は高度労働集約型産業の進出の余地はあるが、アパレルなどは遅い。

ざっと以上のような感じで、「孤立を深める」というより、「孤立を深めぬよう」、中国は経済力を利用して東南アジア各国を分断しようとしているというのが正直な見立てだろう。

H氏も、こうした記述に同意をし、宮崎氏らの対中観に特段の不審を感じている様子はなかった。と共に、香港から日本に帰国する度に、激しく動き躍動感がある東南アジアに比べて、いかにものんびりている日本に危機感を持つとの印象を披露されたことには当方の「受信機」の警鐘を鳴らすに十分なインパクトだった。まだ40歳代半ばの新進気鋭の経済人で、自らを「華僑」の向うをはって「和僑」と位置付けるほどの日本発のアジア人である。日本からアジアを覗き見るだけに過ぎぬ人たちとは大きく違う。これからのアジアと日本の関係を展望するうえで、一段と注目すべき日本の若きホープだと確信する。         (この項終わり)

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(14)大きく様変わりするメディア業界

日経系のテレビ放送番組の「未来世紀ジパング」ってのは面白い。先週も、中国で稲盛和夫京セラ名誉会長の本がベストセラーになり、講演に喝采を受けてる様子を映し出し、日本式経営を模倣するかの国の未来を予測していた。先々週は、イスラム国家のインドネシアやマレーシアからの日本への観光客が増えつつあることを報じていた。未来は、さらに増加する、と。毎週見ているが、いつも明るい気分になる。こうまで日本の未来に楽観的でいいのか、との気さえしてしまうのだが。

しかし、勿論そんな予測ばかりではない。作家・堺屋太一氏の眼は厳しい。この人は、かねて未来予測の第一人者の趣きがあって、注目されてきた。昨年末に出された『団塊の秋』は、1976年に出版された『団塊の世代』の締めくくり編ともいうべきもの。2015年から2028年までの未来を六つに区切って、それぞれの時点での世相を新聞がどう報道するかを掲げていて大胆だ。ざっと一覧にしてみよう。

2015年 老若対立が激化!企業の設備投資は進まず、正規雇用は増えぬ。シャッター通りは鉄錆通りの様相。

2017年 昔繊維街の船場は住宅街に。生活保護が400万人に。医療チェーンは加盟三千医院に。崩れる社会。

2020年 五輪でお祭り気分は燃える。が、スポーツ熱は人口減でしぼむ。博士号を取っても就職先がない。

2022年 ユーズド産業が大繁盛。結婚しない若者が大幅に増える。財政は極度に悪化、貿易も大幅赤字に。

2025年 終戦80年が経ち、世界の中で日本の起こした戦争行為だけが露頭。少子化で私立大学は半減する。

2028年 出生率が回復。貿易収支が改善。起業する若者が増加。太陽光発電が無制限に。電気守の出現。

ほんのエッセンスだが、暗いものが殆ど。辛うじて最後になって、「ようやく光が差してきた」との記述に支えられた明るい見通しがでてくる。いかにもとってつけた感がする。もう少し、そこに至る背景を明かしてほしかった。

この小説では、専ら過去の事象をなぞるばかり。6人の団塊世代が時におうじて集まり、昔を懐かしむとの主題を扱った、小説という形式では必然的にこうならざるを得ないのだろうか。少々落胆した。もっと未来予測に力を投入してほしかったという気がする。名手・堺屋太一も焼きが回ったか、との印象は避けがたい。

個別の課題で、私が注目したのは、21世紀はあらゆる業界が再編成を余儀なくされているが、「そんな中で戦後体制を維持している業界は、たった一つ、マスコミ」としていること。もう一点は中国がどうなってるかとの観点。発電所を対象とする取引がドイツとともに賑わっているとの記述があった。「マスコミ」と「中国」がこれから先にどうなるのか。堺屋さんは、両課題ともに色々あっても、今の事態を引き継いでいるとの見方を示している。さて、どうか。この二点について考える上で参考になる二冊を紹介したい。

一つは、佐々木紀彦『5年後、メディアは稼げるか」で、もう一つは、宮崎正弘、石平『2014年の中国を予測する』だ。共に刺戟的。面白かった。佐々木氏は35歳。東洋経済オンライン編集長だ。古い日本の象徴がメディア業界だとしたうえで、「『もっとも古いもの』(紙の新聞)が『もっとも新しいもの』(ネット起業)によって、一世一代の大変化を迫られる」と展望する。その構図がダイナミックで面白いと言い切る。わくわくするような筆致で描く。とりわけ、5年後に食えるメディア人と食えないメディア人とに分けた最終章は読ませた。幾つもの未来予測はきわめて具体的である。テクノロジー音痴のメディア人は二流などというのは陳腐な響きだが、「日経以外の一般紙はウエブで全滅する」「企業家ジャーナリストの時代がくる」などという指摘には思わず生唾を吞みこんでしまう。

具体的な指摘で関心を持ったのは、「記者の価値が下がり、編集者の価値が上がる」とのくだり。「ウェブ化により情報量は爆発し、これまで記者が独占していた記事作成の領域にブロガーなどがなだれ込んできて」いるから、普通の記者では生き残れないというのだ。一方、編集者の方は、需要に比して供給が不足しているから「二流以上であれば十分食える」、と。確かに編集者は記者に比べて日蔭者扱いであったが、逆転する兆しがある。さらに、広告についての指摘も興味深い。媒体の価値が下がることによって、広告主の力が高まってくることに比例して、「媒体側の広告担当には、紙の時代とは比較にならないほどの能力とセンスが求められる」という。そして広告担当者の”編集者化”が進む」と予測する。

次世代ジャーナリストの条件として①媒体を使い分ける力②テクノロジーに関する造詣③ビジネスに関する造詣④万能性+最低三つの得意分野⑤地域、国を越える力⑥孤独に耐える力⑦教養、を上げている。特に、若い人たちは読むといい。教養書としてもお勧めだ。                    (以下、次号)

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(13)血と非情で得た代価の輝きの謎

万葉集をめぐっても古事記の場合と同様に歴史研究を専門とする学者に激しく挑んでいる人たちがいます。その代表が元TBSの記者で作家の井沢元彦氏です。彼の『逆説の日本史』は超ロングセラーで、単行本で20巻が既刊されており、今も週刊誌で連載中です。独自の切り口で日本史を一刀両断する手法はまことに鮮やかで私も一時はとりこになりました(尤も、明治維新前夜を語りだしてからはいささか煩雑さが目立ち、切れ味が鈍いように思われ、興味が失せてきています)。第三巻「古代言霊編」あたりは、彼の持論展開に拍車がかかっており、冴えわたっています。一言でいえば、万葉集は「犯罪者たちの私家版」だったというのが彼の結論です。怨霊を恐れた桓武天皇が鎮魂のために、犯罪者の名誉を回復し、後々に万葉集はもてはやされるように至ったというのがその見立てなのです。

「日本の歴史は怨霊の歴史である」というのが彼の主張で、その典型的実例が万葉集を通じて見て取れるというわけです。大津皇子を始め、長屋王、有間皇子といった人たちは持統天皇によって無実の罪を着せられ、処刑されたのが史実です。そういった人々の歌が同じく反逆者の大伴家持の手で編纂されたのが万葉集だ、と。

こうした主張はしかし事新しいことではありません。井沢氏本人も、自分は柳田国男、折口信夫、梅原猛氏ら先達の跡づけをしているに過ぎないと言っています。こうした先達たちはみな、学者ではあっても歴史学者ではないというところに彼の言い分の特徴があります。つまり歴史学者は日本の歴史の真実を読み取る力がないといいたいのでしょう。

ただ、歴史学者の書いたものよりも、前述した学者や週刊誌ジャーナリズムの寵児の方が、一般人の目につきやすいと言えます。今では「政治の敗者はアンソロジー(詞華集)に生きる」(大岡信)というのが定説であり、常識になってると思われます。つまり歴史学者の方が弱い立場にあるように私には見えます。

井沢氏に加えて、この議論を押し立てている人をもう一人挙げるとすると、関裕二氏でしょう。『なぜ「万葉集」は古代史の真相を封印したのか』とか『日本古代史 謎と真説』『奈良・古代史 ミステリー紀行』などの本を書いて、いわゆる歴史愛好家に人気の作家です。かつて、古代史に造詣の深い友人に「入門書をあげるとすれば、誰のものがいい?」と水をむけたことがありますが、この人の名があがりました。こういう人たちの仕事のおかげで、日本の歴史や文学が庶民の手に渡った側面があると言えましょう。(ところで、関裕二氏は巻末に参考文献をあげていますが、その中に井沢氏のものが見当たりません。影響を受けてるはずと思われるだけに、少々違和感があります。あえて読まないのかどうか。こっちの方もミステリーです)。

こうした謎追いもいいのですが、静かに万葉集の良さを味わうことも勿論大切なことです。実は先週のことですが、堺市博物館に万葉学の泰斗である中西進先生をたずねました。来月に淡路島で行われる予定のあるフォーラムの講師にお招きすると聞き、その主催者との打合せに同席させていただいたのです。義母が姫路での同先生の文学講座の受講生とのご縁もあって、同先生のことは、かねて注目していました。私自身も数年前に一度だけパーティの場でご紹介され、名刺を交換したことがあるのですが、驚いたことにその時の会話を覚えていただいておりました。「『西播磨の豪族・赤松氏の末裔にあたられるのですか』との問いかけをしましたよね」、と。静かなたたずまいのなかに凛とした面持ちを湛えられた素晴らしいお方でした。これまで数多の学者や文化人と称される皆さんとご挨拶を交わしてきましたが、この人は飛び切り優しい魅力を持たれた方でした。

「一冊だけ先生のご著作から私に勧めて頂くものをあげて頂けますか」とお尋ねすると、一瞬考える風をされた後に、『日本人の忘れもの』でしょうね、との答えが返ってきました。この本は先年に新幹線を待つ新大阪駅の書店で買い求めながら、読むのを忘れていたものです。改めて今それに挑戦していることは言うまでもありません。

『古代史で楽しむ万葉集』とのタイトルで中西先生の手になる文庫本があります。その中で先生がこうした謎解きの対象になっている万葉集の時代をどう見ておられるのかを探してみました。

「大化以後はまことに古代史における一大転換の時であった。それなりに新時代の誕生は輝かしくはあったけれども、一面それは血と非情を代価として得た輝きであった。その非情の歴史の中から、まず最初の万葉歌が生まれて来る。非情の中に非情たり得ないのが人間だからである。この人間にささえられて、万葉歌は芽ばえた」とありました。見事な言い回しに思わずうなりました。血と非情を代価として得た輝きの中に思いっきり身を投じてみたいと、あらためて思います。

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(12)想像力をたくましくして読まないと

古代史といえば当然ながら天皇のことを抜きには語れません。私のような戦後第一世代は、天皇が現人神ではなく、人間として日本社会に定着する過程と、自分自身の成長とが重なり合うのです。そこには天皇は最高の人格の持ち主で、あらゆる意味で至高の存在たれとの願望が込められてきました。

根が真面目というべきか奥手というのでしょうか。古代史を学ぶなかで、天皇たちの文字通りの親兄弟相互での殺し合いやら近親相姦のようなふしだらな有様を見聞きするたびに、おぞましい思いを抱いてきました。天皇家の連続性を強調されると尚更首肯できないものを感じてきたのです。戦後民主主義教育の弊害というのでしょう。歴史を現時点での価値観で見てしまう癖から抜けきれなかったのです。

そんな私にとって万葉集冒頭の天皇の歌も従来的な天皇観を変えるにはいたりませんでした。ほのぼのとした人間臭さを感じなくはないのですが、一皮めくると究極のパワハラに思われるのです。

籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね そらみつ

大和の国は おしなべて 我こそ居れ しきなべて 我こそいませ 我こそば 告らめ 家をも名をも

雄略天皇の歌です。春の菜を摘んでいる娘に心を動かされた天皇が娘の名を尋ねている場面です。自分の立場を明らかにして相手の気を誘うやり方は、どう読んでもナンパに見えます。

次にくる歌は舒明天皇の作とされています。

天皇、香具山に登りて望国(くにみ)したまふ時の御製(おおみうた)

大和には 郡山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は

かまめ立ち立つ うまし国そ あきづ島 大和の国は

大和にはあれこれの山があるけれど、香具山に登って下を見ると、かまどの煙が立ち上り、海原ではかもめが飛び立っている。大和の国はいい国だ、と自賛している歌です。ほのぼのとした情景が眼前に広がっていき、民の喜びを感じ取っている為政者の自信がくみ取れる歌といえましょう。先年、私は友人たちとこの香具山に登ってみました。なだらかな丘陵でした。四方が見渡せましたが、海原は勿論見られずかもめは発見できませんでした。

万葉集をめぐっては様々な学者がありとあらゆる研究を重ねてきています。今あげた二つの歌についても、問題点がかなり指摘されています。読むとこんがらがるばかりです。それについては、ドナルド・キーン氏が面白いことを名著の誉も高い『日本文学史』古代中世編一で述べています。「研究論文すべてに目を通し、あらためて歌を読んでみても、以前より理解が深まるとはとてもいえない。古今の万葉学者は様々な説をとなえてきたが、筆者には、完全に納得できるものは一つとしてないような気がする」と。痛烈です。これにはほっとします。あれこれ詮索するよりも素直に歌が持つリズムを味わえばよいのでしょう。

とはいうものの、それで終わらせてしまっては面白くありません。いい解説は奥深いところに誘ってくれるのです。丸谷才一氏は『日本文学史早わかり』の中で、この冒頭の二首をめぐって味わい深いことを書いてます。「恋歌と国見歌とが、かういふ晴れがましいところに一対のものとして並ぶことは、恋愛と国見とが古代日本の君主にとって最も重要な仕事であったことの證拠だといへよう」としたうえで、「古代日本人の最大の関心事は繁殖で、それゆゑ国王は、あるいは風景に言ひ寄る呪文をとなへ、あるいは女たちに親しむ演劇の司祭となったのである」と。

しかも、巻八にある舒明天皇のもう一つの作も対になってると指摘しています。

夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今宵は鳴かず 寝(い)ねにけらしも

この解説がふるっています。「妻を恋うて鳴く鹿の声が今宵は聞こえないゆゑ、恋が成就したのだらうと思ひやる意だが、これは当然、人間の恋愛を獣の交尾と同質のものとして把握してゐるわけで、極めてエロチックな和歌である。すなはち舒明の国見歌は、一方では政治的恋愛、他方では自然的恋愛と対応しながら、実は、動植物の繁殖一般と相通ずる内容を歌ってゐる。風景と動植物とを刺戟することこそ、天皇の詠歌の本来のすがたであった」というのです。なるほど、と感心するしかありません。こういう御託も私のような堅物人間をして、歪んだ天皇観の形成にひと役買ってるのかもしれません。

全米図書賞をとったというリービ英雄『英語でよむ万葉集』を、随分前に日本語で読みました。彼は香具山に登って私と同じく、山は低く風景は小さい、海原はなくかもめが飛び立つはずもないと失望します。しかし、何年か経って英語に翻訳する作業をしているうちに「小さな風景とはうらはらに、雄大で厳かな対句が頭に響き、そこには陸と海とをかかえた大きく構造的な想像力がはたらいているのが分かった」というのです。なるほど、すべては想像力がなせる業なんだ、と。自分にはそれが足りないことが分かりました。

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(11)抒情ただよう万葉集との出会い

万葉集との出会いはいつも突然です。何か別のものを読んでいてそこで見出したり、訪れた先で歌碑を発見するといった具合で。つまり、さあ万葉集を読むぞと肩ひじ張って第一巻から順に、というのではなく、つまみ食い的に拾ったり、様々な先達の関連本の中に出てくる歌をそのつど鑑賞することが専らでしょう。私もそうです。ここではそんな中から印象深く残ってる歌を取り上げてみます。

田子の浦ゆ うち出てみれば ま白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける  山部赤人

最後は、「降りつつ」ではなかったか、と頭をよぎります。百人一首に殆ど同じものが登場しているからです。「たごの浦にうち出てみれば白妙の富士のたかねに雪はふりつつ」と。これは装いを新たにしたうえで新古今集に再録され(そこから百人一首に採用)た経緯があるのです。万葉集研究者からは、改悪だと、叩かれています。これに対し、中世和歌研究者からは反論がなされ、ちょっとした”田子の浦論争”の様相になっています。平安朝文学を専門にする吉海直人氏は『百人一首への招待』のなかで、反論は「どうも歯切れが悪い」としつつ、思わぬ事実を明らかにしてくれています。万葉仮名を平安朝の人たちが判読できず、「『万葉集』が平安朝においてほとんど読まれていなかった」のだ、と。

今の時点からはいささか驚きですが、『万葉集』は実はその後もずっと一般の人びとには忘れられていたのです。『万葉集』が現在のように日本文学史の中で正当な位置を占めるに至るのは「明らかに明治になってからで、とくにそれが画然とするのは正岡子規以降といっていい」(大岡信『あなたに語る 日本文学史』上)のです。この辺りは、大づかみでいうと「万葉集対古今集」の論争の歴史になってしまい、お互いの立場を是とするものたちの罵り合いにまで及んできました。私の理解では、素朴さと華麗さの対立であり、自然をありのままとらえるいき方と、色々と技巧を凝らす表現方法の差であろうと思います。どちらがいいとか悪いとかではなく、どっちもいいねというのが偽らざるところでしょうか。大岡信氏が前掲の書で「僕は両方を平等に見ることを心がけたい」としていますが、私も同感です。

前回に美智子皇后が「人の心に与える喜びと高揚を初めて知った」歌のことを紹介しました。皇后ご自身はその歌とは何かを具体的に指していませんが、恐らくは次の歌だとされています。

石(いわ)ばしる 垂水の上の さ蕨の 萌えいづる 春になりにけるかも   志貴皇子

私はこどもの頃の一時期、神戸の垂水(正確には塩屋町)で過ごしました。この歌を見聞きするたびに、連想ゲームのように、その地で過ごした頃のあれこれを思い出しますから妙なものです。『万葉集』には当然のことながら全国各地の場所を詠みこんだものが数多くあります。ご当地ソングならぬご当地和歌です。兵庫県は播州姫路で生まれ、神戸は垂水、須磨で育った者として、そうした辺りの歌に出くわすと心騒ぎます。万葉歌人のなかで最も多くの歌が登場する(4500首のなかで450首)のは柿本人麻呂ですが、彼の旅の歌は、風物詩的な情緒豊かさにおいて、他の追随を許さないといいます。とりわけ瀬戸内海の周辺地域としての淡路島や明石海峡を詠んだ歌に、私は感激してしまいます。

淡路の 野島の崎の 浜風に 妹が結びし 紐吹き返す

荒たへの 藤江の浦に すずき釣る 海人とか見らむ 旅行く我を

燈火の 明石大門に 入らむ日や 漕ぎ別れなむ 家のあたり見ず

瀬戸内海の船旅がもたらす醍醐味が蘇ってきます。淡路の野島といえば、先の阪神淡路の大震災の震源地です。私事に及びますが、藤江(明石市)は我が恩師の終の棲家の地でした。また、明石には今、娘夫婦と孫が住んでいます。

柿本人麻呂は、職業的な宮廷詩人だったといいます。恐らく注文に応じて作ったに違いない公的な歌と、自らの感情を思うがままに表現した私的な歌に、その作品群は分かれています。前者では、彼は枕詞や序詞をしきりに用いて対句や繰り返しを駆使し、色彩豊かで流暢な言葉の響きを展開しています。また後者では、漂う抒情が今に読むものの心を打ちます。

加藤周一氏はその名著『日本文学史序説』上の冒頭部分で「人麿の公的な挽歌では、多彩な言葉の積み重ねが、感動をつくり出すのに足らなかった。私的な挽歌では、事情が逆転し、強い人間的な感情が、控えめな言葉で語られる日常生活の些事に無限の意味を与えている」と、いささか持って回った表現で述べています。彼の日本文学史は序説と銘打っているものの、単なる文学を超えた壮大な思想史研究の趣きもあります。儒教、仏教はじめ外来の思想、宗教が与えた影響に深い洞察が加えられており、私は大変に好きで愛読しています。先年亡くなられましたが、その直前にキリスト教に入信されたとのこと。いったいどういう経緯があったのでしょうか。揺れ動いたであろう晩年の心の動きに、関心を持たざるを得ません。

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(10)年の初めは日本古来の和歌から ──万葉集を読む

新しい年が明けました。おめでとうございます。今月は『万葉集』に挑戦します。全部で20巻。取り上げられたる歌の数は4500でその大半が短歌です。7世紀後半から約100年の間につくられたものが8世紀の後半に編纂されました。最終的には大伴家持らによってまとめられたというのが定説です。内容は、「相聞」(男女の間の歌)「挽歌」(人の死を嘆く歌)とそれ以外の「雑歌」の三つに大きく区分されますが、圧倒的に多いのはやはり「恋」の歌です。「恋と女の日本文学」の源泉はここにあります。全部を読むわけにはいかないのでとりあえず少しづつ読んでいきます。

現代日本人が和歌(短歌)というものに人生にあって最初に出くわすのは、お正月の「かるた取り」です。ご多聞にもれず私も小学校の頃に「百人一首」との出会いがありました。日本の子どもは、お正月には凧あげて駒をまわし、羽根つきをし、福笑いに興じ、トランプをし、かるた取りをしました。戦後も間もない昭和30年代前半、姉が二人いた我が家では、お正月遊びの定番は「百人一首」の上の句や下の句を読み上げ、その相方を探すことでした。昭和の終り頃に私の娘は小学校に通いましたが、残念ながらその習慣はありませんでした。平成の今はどうでしょう。プリクラに夢中の孫娘が学校に行く頃にやるとはとても想像しがたいのです。

「万葉集」に向かう入口というか、短歌に馴染む手引き役として「百人一首」はあります。これは13世紀の中ごろ、鎌倉時代初期に藤原定家によって編まれた秀歌撰だとされていますから、二つの間には500年ほどの時間が横たわっています。取り上げる順序は逆なのですが、お正月に免じてお許しください。あとで触れますが、日本文学史における万葉集と古今集や新古今集をめぐる相克とは関係がないということも断っておきます。

さて「百人一首」には古今集から24首、新古今集、千載集、後拾遺集からそれぞれ14首づつといったように、全部で10の勅撰和歌集(天皇の命令によって作られたもの)から100首が集められています。その中身を見ると、恋歌が43と半分近くを占め、そのあとは春夏秋冬の季節を歌ったものが32と続きます。それぞれの歌人が心の思いを31文字に綴ったもの100首の存在は、あたかも交響楽の演奏のようだと譬える専門家もいます。私はかるたに描かれた女性の十二単姿に魅せられました。頻繁に登場する月に比べて太陽の出番がないなあとか、秋の歌がめっぽう多いのに夏が殆ど詠まれていないことにも印象深く思ったものです。あらためて100首を詠んでみましたところ、明確に記憶に残っているのは30首だけ。深い意味も分からずに男を待ち望む女の心やその逆のケースを詠んでいたわけです。

お正月が来るたびに短歌に接触しながら、ついに今の歳になるまで、まともに一首も詠んだことがないというのも哀れなものです。それでも百人一首にまつわる本は何冊か読みました。一番印象深いのは安野光雅『片想い百人一首』です。上の句を問いだとすれば、下の句は答えにあたる意味があるとして、思いの丈を込めて百首作っています。新聞記者をしていた頃(昭和50年代半ば)にこのひとの自宅を訪ねて取材をしたことがあり、ひとかたならぬ関心を持って様々な作品に触れてきました。絵の素晴らしさはいわずもながですが、ユーモア溢れるエッセイも出色。この本ではパロディの何たるかを提示してくれているようで、味わい深いものがあります。たとえば、和泉式部の「あらざらむこの世のほかの思ひ出に今一度の逢ふこともがな」を「花さそふ酒も最後となりぬれば今一度のあふこともがな」といった具合です。酒に未練たっぷりの夜のうただ、と添えています。

この本で最もインパクトが強かったのは美智子皇后の御歌集『瀬音』や、著作『橋をかける』を取り上げているくだり。前者では、七首の歌を紹介しており、いずれも胸を打つ。私的には「母住めば病院も家と思ふらし『いってまゐります』と子ら帰りゆく」が好きです。後者では、皇后がある一首の和歌を「誦していると、古来から日本人が愛し、定型としたリズムの快さの中で、言葉がキラキラと光って喜んでいるように思われ」、「詩が人の心に与える喜びと高揚を、初めて知ったのです」との文章もとてもいいです。

「百人一首」については軍国主義華やかなりしころの日本が悪用したという悲しい歴史があります。戦時下における国民の愛国心を鼓舞するためにとの名目で、万葉集いらい明治元年以前の物故者から100首が選ばれていたのです。昭和17年11月に制定されています。冒頭を飾ったのは柿本人麻呂の「大君は神にしませば天雲の雷の上にいほりせるかも」です。選定委員には、佐々木信綱、斎藤茂吉、折口信夫、土屋文明、川田順ら錚々たる歌人が名を連ねています。今から思えば、恋の歌が半分近くを占める百人一首を戦争に利用したりするなんて、と思いますが、時の勢いでしょうか。この辺りは次回にも触れます。

五七五七七という定型で、最近私はこんなものを作ってみました。「革新の幻想去って大衆に翻弄される今の政治家」「武士の道廃れて今は危機来たり指導者不在で民衆哀れ」ーなんだか短歌というよりも川柳ぽいですが、本人としては満更でもないのですからいい気なものです。

 

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(9)常識覆す、「古事記は鉄の物語」──古事記を読む

これまで3回にわたって『古事記』をめぐる様々な思いを綴ってきたが、今回締めくくるにあたって画期的な本を紹介したい。村瀬学『徹底検証 古事記』である。この本と出会わなければ、古事記を誤解したまま終わったかもしれないとの印象は強い。

古事記を読んでも正直に言って良く分からない、との読後感は多くの人が持つはず。日本最古の物語であってみればそれも仕方ないか、と私も思いつつ、それにしてもとの割り切れぬ感情は否定しきれなかった。それが村瀬学氏の検証に付き合ってみてかなり腑に落ちた。まさに目からうろこだ。

副題に「すり替えの物語を読み解く」とある。古事記は「日・光の神々」のお話として語り継がれてきたというのが一般的であり、常識ですらある。しかし、著者は、それを真っ向から否定し、「火・鉄の神々」の物語だという。本居宣長いらいのあまたの研究者はどう反論するのだろうか。

「古事記は鉄の物語である」との断定は、唐突なものではない。古事記の神話編を貫く語り方には、「神話の世界そのものを『修理固め』として提示するという前提」があるとは知らなかった。この見方が多くの研究者の間の共有事項だという。しかし、そうでありながら、誰もが「稲作の物語」であることに疑いを差し挟もうとはしてこなかった。そこにこの著者は喧嘩を仕掛けている。

西郷信綱や三浦佑之といった名だたるこの道の専門家が滅多切りされている。とりわけ西郷には厳しい。随所で「優柔不断な注釈である」とか「書き写していても恥ずかしいところである」など、と。「はじめに」で、西郷信綱の『古事記注釈』には「私のこの論考もあり得ないほどの決定的なお世話になっている」と述べておりながら、である。古事記を「瑞穂の国」誕生のシナリオ通りに解釈する、という旧来的な読み方のモデルとして西郷を血祭りにあげているわけだ。

鉄の神が日の神にすり替えられたとはどういうことか。例を挙げる。イザナギが「あなたの身はどんなふうになっているのか」とたずねると、イザナミは「私の身にはまだ足らない部分があります」と答えたー「成り成りて成り合はぬ処」と「成り成りて成り余れる処」の件だ。ここはいわゆる男と女の性交をユーモアを交えて語っているとの要約が通常だろう。しかし、これは、銅鐸などの鋳造の場面を比喩的に語っているという。「凸として準備された鋳型と凹として準備された鋳型を合わせて、その間に溶けた金属を流し込む」場面なのだ、と。子作りと、鉄づくりとの類似性とは、まったく驚く。

また、天の岩屋の場面も「鏡」に込められた鍛冶の力への畏怖の念が見て取れるとか、スサノオのおろち退治の話も異族の産鉄の力を自分のものにしようとしたことだとか、いなばの白兎の話も単なる病を治したどうこうではなく、「海の向こうからやってくる『鉄/兎』に対して」、「二つの異なる鍛冶の対応をしている話」だというのである。推理小説の謎解きのごとく、面白い。

著者には、「古事記の神代の神々を最初から最後まで鉄の神々の物語として」、徹底した一貫性をもって読み抜いたのは自分だけ、との強い自負がある。アカデミズムが鉄の匂いを感じながらも結局は誰も本気になって向き合ってこなかったことに対して、「国文学ではわからない」「牧歌的にすぎる」との表現が勝ち誇ったように出てくる。このあたり、『逆説の日本史』で繰り返し歴史学者を虚仮にする井沢元彦と似てなくもない。

この本で、言葉の持つ多義性に思いをはせ、語源に遡ることの大事さを改めて痛感した。現代の言葉遣いだけで古代の言葉を判じようとする無理さ加減を、いやというほど感じさせられる。裏付け証拠として、白川静の『字訓』が至る所で顔を出すのは印象深い。

もう一つ見逃せないのは、著者が「火(鉄)」を作る話を、「日(明り)」の話として人々に受けとめさせる必要に迫られた時期が日本史上三度あったとしていることだ。一度目は、日本という国名を用いて、それ自体を照らす存在として、アマテラスを創り出した時。二度目は、明治になって鉄の大国を支えるためにアマテラスの話を学校の教科書などで大々的に宣伝しはじめた時。そして三度目が先の大戦が終わって、「地上の太陽」という触れ込みで原発を建設しはじめた時。確かに、いずれもイデオロギーを優先させた、すり替えが基本にある。ここを見抜いていかないと、東北の大震災以後の、原発が提起する文明の根源的課題に対応できない。

著者は、謎の多い古事記の真相に迫るには「詩的な構想力が不可欠」だと言う。確かにそうだろうと思う。ならば、村瀬氏は最後の最後まで責任をもって古事記の謎を解明してほしい。この論考は第一巻の神代編だけで、その後の二、三巻は手つかずだ。この一巻においてもいくつか「私にはわからない」との箇所がでてくる。正直でいいのだが、引き続き解明の努力をしてほしいと思わざるを得ない。

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(8)恋愛の文学の源流はここから ──万葉集を読む

これまで二回にわたって古事記について思いを巡らしてきましたが、いずれも仏教との関わりについて触れました。これは、古事記が日本独自のものとして強調されすぎ、先の大戦にあって日本書紀と並んで皇国思想のバックボーンになってきたことへの違和感を示したかったからです。私としては、古事記については仏教だけでなく様々の外来思想の影響を受けて出来上がったものだということを指摘し、あまり日本古来からの独自性を強調することは意味がないと言いたかったのです。それはここでこと改めて持ち出さずとも、古事記よりも先に誕生した「十七条憲法」の淵源を見れば明らかです。

聖徳太子の作だとされる「十七条憲法」は大化の改新のイデオロギーを要約したものとして著名ですが、これは、統一国家の原理を儒教的概念を使って述べていることや、仏教を普遍的な原理とみなしていることでも知られます。前者は、上下関係と下の上への服従の義務を説いていますし、後者では、仏、法、僧の三宝を敬えとしていることに触れるだけで十分でしょう。冒頭の「和をもって貴しとなす」でさえ、儒教、仏教の影響と無縁ではないとするのが一般的です。

古事記から始まる日本文学史を学ぶうえで、欠かせぬものとして「小西甚一氏の『日本文藝史』およびドナルド・キーン氏の『日本文学史』の二つが圧巻です」と薦めているのは、大岡信氏です(『あなたに語る日本文学史』)が、これに加えて私なら加藤周一氏の『日本文学史序説』を挙げたいところです。加藤氏はつい先ごろ亡くなられてしまったのは誠に残念ですが、「知の巨人」と呼ばれるに相応しいひとでした。かつて、政治絡みの発言は左翼志向が強すぎるとして敬遠するきらい無きにしも非ずでしたが。

加藤氏は、古事記や日本書紀について、「早くも七世紀以前の大衆の土着文化の一面と、七世紀末から八世紀初にかけての宮廷知識人の学んだ外国文化とが、出会っていた」としたうえで、単純に大陸の風に倣ったのではなくて、「話の語り口そのものに土着の精神の構造があらわれている」と述べています。それはどういうところでしょうか。加藤氏は、その語り口の特徴は、「本すじからの脱線であり、部分的な挿話を全体の均衡から離れて詳しく語る傾向である」としています。「中国の伝統的思想は先ず全体の秩序へ向かう」から日本土着のものの考え方とは違うというわけです。なるほどそういうものかもしれません。日本の大衆はあれこれ回り道をすることに興味を持つ傾向があることを思い起こします。加藤氏はその辺について「だから、『古事記』は、今日の読者に文学として面白く、王朝の学者・読者に、歴史として、またイデオロギーの表現として、不満足なものであった」と微妙な言い回しで語っており、印象的です。

古事記のなかに登場する神話の数々のうち、多くの日本人の心に残るのは、出雲の神オオクニヌシにまつわるものが多いようです。鰐を騙した白兎が赤裸にされ、海水で洗った後、風にさらせとの誤れる忠告によって、ますます苦境に陥ってしまったところをオオクニヌシに助けられる話など最たるものです。前回に見たように、淡路島が”出産”に関することだけであっさりと終わっているのに比して、出雲は国造りから国譲りへとドラマティックな展開が用意されている分、後世の町おこし、地域おこしにとって断然有利な位置にあることは確かでしょう。しかし、だからといって引き下がっているだけではいけないと思います。国生みの地も、対抗心を燃やして想像力豊かにいきたいものです。ことし瀬戸内海の島々で開かれた「瀬戸内国際芸術祭2013」など、国生みとのリンクがなされていれば良かったのに、と今頃になって悔やんでいます。

加藤周一氏は古事記のなかで「もっとも美しく、もっとも感動的な部分は、ほとんどすべて恋の話である」としています。また、ドナルド・キーン氏も、「古事記に収められている説話で最も面白いのは、民話や寓話である」としたうえで、恋愛物語にその真骨頂を求めています。古事記といえば、これまでは軍国主義と天皇崇拝の影響下にあった頃の名残りが尾を引いていました。古事記が歴史書ではなくて文学作品との位置づけがなされたのが高々百年足らず(1925年と見なされています)であってみれば、仕方ないとはいえましょう。ましてその後にあの大戦の時期がすっぽりと入っているのですから。

しかしもう今は違います。ようやく古事記がまっとうな文学作品としての脚光を浴び始めてきたのです。キーン氏は、文学研究者たちが「単に現存する最古の日本語書物というだけでなく、将来の文学的発展の種を内に秘めた文学作品としての位置づけ」を模索しはじめたことを、高く評価しています。かつての暗いイメージで古事記を語るのではなく、むしろ明るい国造りを、恋と共に語る時がやってきたとの予感がします。先ごろ亡くなった丸谷才一氏(このひともまた凄い)は、中国には性愛をめぐる好色文学はあっても、日本文学における恋愛小説は見いだされないとの趣旨を『恋と女の日本文学』で述べていたことを思い起こします。

その恋愛小説の源流こそ、実はこの古事記に端を発しているといえるのです。このあたり、中国との文学比較論争をしてみせることが大事ではないか。尖閣列島を巡っての軍事力拡大論争にはまるよりは、よほど楽しいのではないかーこんなことで締めくくると、お前はいつ平和ボケになったのか、何を寝言みたいなことを言っているのか、と現役政治家から言われそうです。

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(7)「つくる」と「なる」との大きな違い ──万葉集を読む

古事記の冒頭には、国生みの神として知られるイザナギ(伊弉諾)とイザナミ(伊弉冉)の兄妹神が登場します。この二人の神と深い関わりを持つのが淡路島とその周辺の小さな島々です。一つは、この二神によって地上に最初に出現した土地としてのオノコロ島と、今一つはこの二神が最初に生んだ子としてのアハヂノホノサワケ島です。後者が淡路島を意味することは歴然としています。前者のオノコロ島については、「海と泥の混じる塩をコヲロコヲロと掻き回し、掻き鳴らして引き上げた。その時にしたたり落ちた塩が累(かさ)なり積りに積もって島になった」とされているだけで、具体的にどの島をさすかは判然としません。

周辺に存在する島々、というよりはその島の近辺の人々は、我が地域のこの島こそオノコロ島だと主張して譲らないのです。有力なのは南あわじ市にある沼島(ぬしま)。対抗馬は淡路市の岩屋にある絵島です。沼島は上空から見ると、勾玉(まがたま)の形をしているように見えます。ここには高さが30mもある奇岩・上立神岩があり、イザナギとイザナミとが穀物豊穣と子宝に恵まれるようにと、左と右に分かれて廻って愛を交歓したとする「天の御柱」のイメージにぴったりです。他方、絵島は砂岩層の小島で、岩肌の浸食模様はなかなかのもので、一見の価値ありとされています。 日本の神話をめぐっては、出雲(島根)、高天原(宮崎)の二つに比べて、淡路島は今一歩遅れているというか、目立たないのではないかとの不満が兵庫県ゆかりのものたちにないわけではありません。最初に生み出された島として、もっと有名になっていいのに、というわけです。

先日私は、淡路島の洲本市にある国生み協会に行って、関係者の皆さんとあれこれ意見交換してきました。淡路島大好き人間を自称する友人たちと一緒に。古事記には、イザナギとイザナミは淡路島を生んだあと、イヨノフタナの島を生むとありますが、それは体が一つながら面が四つあり、それぞれ伊予、讃岐、粟(阿波)、土左と名指しされています。明らかに四国を意味しているわけです。この海域は本当に夢とロマンを掻き立ててくれる素晴らしい自然文化遺産です。私事に及びますが、高校の卒業旅行で、船で神戸港から瀬戸内海の小島の群れを縫いながら航海しました。このことは生涯の宝の思い出として忘れられません。エーゲ海やカリブ海に勝るとも劣らぬ絶品の風景だと確信します。これを世界中の観光客に見せずして、日本のどこを見せるのかとさえ思います。その際に、淡路島を起点にして大阪湾から播磨灘を経て瀬戸内海へと広がって形成されている古事記の物語を活用したい、との熱い思いがあるのです。

少し、余談にそれてしまいました。本論に戻します。古事記における国生み神話を読み進めるなかで、興味深いのは前回にも触れましたが、「なり出た」との表現です。「なにもなかったのじゃ。言葉でいいあらわせるものは、なにも」との印象深い出だしで、「天と地がはじめて姿を見せた、その時にの、高天の原に成り出た神の御名は、アメノミナカヌシじゃ。つぎにタカミムスヒ、つぎにカムムスヒが成り出たのじゃ」と続きます。イザナギとイザナミが神々を生むということについては、文字通り「お生みになる」との表現が使われています。しかし、もう一方で、「その病の苦しみの中で、イザナミのたぐり(嘔吐した、その吐瀉物)からなり出た」とか「糞からなり出た」や「ゆまり(おしっこ)からなり出た」などといういささか驚くべき言い回しが頻出するのです。「ひとは草である」との発想と類似したものを感じさせます。

この「なり出る」の「なる」との表現に注目したのが思想家の丸山眞男氏です。丸山さんは世界の創生神話には、「うむ」ということ以外に、「つくる」と「なる」との二つの発想(合計三つ)があると『歴史意識の古層』という論文で指摘しました。西欧社会つまり キリスト教的世界においては、「無」から創造主が「つくる」という行為を経て、「有」を生み出します。一方、古事記という日本の神話にあっては、創造主といった存在を介するのではなく、「自然がおのずからそのようになった」ことだとして、「なる」といいます。つまりは、古代の日本人にとって、この宇宙空間というものは、誰かがつくったものでも、生み出したのでもなく、自然と今あるすがたのようになって出てきたというのです。

「なり出る」という表現が醸し出すものを考えるときに、仏教での「空(くう)」に思いを致さざるをえません。有るか無いかで、この世における存在を論じるのではなくて、もうひとつ有るといえばあるけれども、無いと言われればない。つまり、目には見えずとも、条件が整い、環境が許せば、そこから自然に発生することを可能にする概念を「空」 と捉えるわけです。このあたり、「有るか、無いか」との、専ら二者択一的捉え方がなされるキリスト教的世界観とまったく違うところです。この仏教的世界観の基本を50年ほど前に知っての私の感動は、目からうろこなどということでは言い表せない、とてつもなく大きいものでした。

つまり、古事記の冒頭で使われている、「なり出る」という表現は、まさに仏教でいうところの空の概念を導入すると、ストンと落ちるというのが実際ではないでしょうか。 日本独自のものと見えても、インドから中国を経て日本に伝わってきた仏教の強い影響を受けていることが、このことでも分かるわけです。

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(6)古事記を読み、ひとの誕生に思いをめぐらす

今月からは、日本の古典に挑戦していきたいと思います。一つの代表的な古典を読んだうえで、その中身の基本を抑えるとともに、私の印象やら捉え方を披露します。またその古典を解説している本についても読後感を述べたりしたいと思います。関心のおもむくままにあれこれと連想する流れを記していく手法です。試行錯誤していきます。うまくいくかどうか。どうかお付き合い宜しくお願いします。一回目は、日本最古の書物である古事記(口語訳 三浦祐之)です。

古事記って何かということをまず抑えます。必要最小限のものに限って。これがまとめられたのは、712年(和銅5年)です。太朝臣安万侶が元明天皇の命によって完成させたとされています。元明天皇は奈良時代前期の女帝で、在位は707年から715年。古事記の他に諸国の風土記も手掛けさせた人です。全部で三巻。天地の始まりから、推古天皇まで。上巻は、神々の時代が描かれ、中巻は神武天皇から応神天皇まで。下巻は仁徳天皇から推古天皇までの事績やら系譜が描かれています。

さて私の関心の第一は、人間、ひとの誕生についてここではどうとらえているかということです。冒頭に「泥の中から葦芽(あしかび)のごとくに萌えあがってきたものがあっての、そのあらわれ出たお方を、ウマシアシカビヒコヂと言うのじゃで、この方が人々の祖(おや)と言うことも出来る」とあります。このウマシアシカビヒコヂとは、立派な葦の芽の男神の意味で、人間の誕生をイメージしていると思われます。さらに、「汝よ、われを助けたごとくに、蘆原の中つ国に生きるところの、命ある青人草が、苦しみの瀬に落ちて患い悩む時に、どうか助けてやってくれ」と。命ある青人草との表現に、ひとは草である、植物の仲間なんだとの発想がうかがえるとするのが専門家の捉え方です。このように植物を人間の祖先と考えたことについて、訳者の三浦さんは「日本列島が湿潤な気候の中にあり、「いのち」の誕生を、草の芽吹きと重ねて感じる心性が生じやすかったからではないか」と言います。

また、「天と地とがはじめて姿を見せた、その時に、高天の原に成り出た神の御名は、アメノミナカヌシ。つぎにタカミムスヒ、つぎにカムムスヒが成り出た」とのくだりが注目されます。”成り出た”という表現には、作るとか生み出すとかといった表現とは異種の趣きを感じざるをえません。意志あるものが主体的に行動を起こすことではなく、自然な流れの結果といったイメージを感じます。

ひとは草である。あるいはまた、ひとは何者かによって作られたり、生み出されたりするのではなく、自然に成り出てくるものだ。こうした捉え方は、日本古来の独自のものでしょうか。それとも他の地域、人々の影響を受けているものでしょうか。そう考えていると、これまで読んできた本を思い出しました。

梅原猛さんが『人類哲学序説』の中に書いていました。なんでもかんでも人間が中心だとしてきたから、ここへきて、自然から反逆を受ける結果を招いている、草木国土みな人間と一緒なんだとの発想がとても重要だ、と。これは、梅原さんによると、天台本覚思想にある「草木国土悉皆成仏」というもので、この世におけるあらゆるものはすべていのちを持っているという考え方です。彼は、これこそ21世紀をリードする新たな人類哲学の基本におかねばならない重要なものだとし、残された人生をその哲学の展開に賭けるとまでの意気込みを示しておられます。

ところで、天台本覚思想というものは、日本の天台宗に端を発しますが、勿論おおもとは仏教です。仏教といえば、ルーツはインドです。しかし、「草木成仏」はインド発ではなく、またメイドイン日本でもなく、中国が発想元だと言います。植木雅俊さんの『仏教、本当の教え』には、印、中、日の文化比べが試みられていますが、この点についても興味深い比較が出てきます。

インドでは「動物と人間は大して変りないと思われている」から、「動物も解脱は可能だと考えられていた」が、「『知』もなく、『感覚』もない草木に、成仏は無理なことだとされていた」のです。かの地では、この世において存在しているものを、有情と非情にわけ成仏の対象は有情のみとしていることを指摘しているわけです。ところが、中国の天台宗で、草木や国土、山や川までも成仏したり、あるいはできないということが言われだしたといいます。日本では、さらに徹底され草木はもともと成仏しているのだから、改めて成仏する必要はないとまでする考え方があるといいます。つまり草木国土は成仏をすでにした結果であって、これから目指すべき対象ではないということでしょうか。ともあれ、現代人からするとなかなかついていけないところです。植木さんは前述の本で、その辺については「日本の自然が豊かで、自然の恵みと人間のつながりの密接さから出てきた言葉ではないかと思われる」としています。

古事記がまとめられる前に遡ること150年くらいの6世紀半ばに、仏教は日本に伝わりました。したがってこうした、人は草であるとのとらえ方はその影響を少なからず受けたと言えるのではないでしょうか。

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