【2】自分でなく、ひとに考えて貰うこと

「本を読む場合、もっとも大切なのは、読まずにすますコツだ。いつの時代も大衆に大受けする本には、だからこそ、手を出さないのがコツである」ーショーペンハウアーはこう述べたあと、読書する時間を「あらゆる時代、あらゆる国々の常人をはるかにしのぐ偉大な人物の作品、名声鳴り響く作品に振り向けよう」と言う。そう簡単にいくだろうか。ベストセラーと聞けばつい手を出したくなるのが人情だ。私などもごたぶんに漏れずあれこれと読み、偉大な人物や名だたる古典は正直敬遠することが少なくなかった。寄り道ばかりして目的地には程遠いのに、日は暮れかかっている旅人のようなものなのである。

しばしば人は、古典を読め、しかも原典にあたれと言う。しかしこれらは口当たりが良くない食い物のようなもので、消化は良くないし美味しくもない。勢い歯ごたえはなくとも食べやすいものに目が向き、手を出してしまう。澤瀉久敬は『「自分で考える」ということ』の中で、参考書、入門書、解説書のたぐいは読まない方がよい、樹にまつわりつく蔦のようなものだから、と厳しい。この本は講演をまとめたものだけに平易な文章で分かりやすい。これとて読書すること、哲学することの解説書ではないのか、とつい皮肉を言いたくなる。結局は良書、悪書などといったことはあまり気にせず、読んだもの勝ちではないか、と思う。

ただ大事なことは、本を読むのは知識を増やすためだけではなく、他人の考え、思想を正しく把握することであり、そのためには自分の考えを一たびは消し、虚心坦懐に読むことに尽きようか。澤瀉は、具体的方途として、一冊の本を読む前に、その本の取り上げている問題を自分で考えてみるのもいいとする。しかし、政治や経済に関する論文ならそれはある意味で可能だろうが、一冊の書物となると、そうはなかなかいかない。自分の頭で考えるということはことほど左様に難しい。ただ、多読、乱読で来た人は一たび立ち止まって、読前、読後に著者との会話を試みるのは悪くないだろう。その積み重ねがやがては大きく実ることを確信する。(11/4)

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【1】本読みが、たどり着いた果て/2013-10-28

21世紀に入る直前に私は、新幹線で姫路と東京を往復する新幹線車中で週一回、書評を書き始めました。二年間の100回分をまとめて『忙中本ありー新幹線車中読書録』と題して2001 年に出版。その後もブログ上で書き続けましたが、昨年末、退職に伴って一たび終了しました。以来、ほぼ一年、このたび今年の読書週間を機に、再開することにしました。なにとぞ、ご愛読のほどよろしくお願い申し上げます。

子どもの頃からの本好きな私は、一度手に入れた本を手放すことはなかった。しかし、20年に及ぶ東京での単身赴任生活に区切りをつけ、故郷に帰るにあたって、事務所や宿舎に溜まりにたまった本は狭い我が家に送るわけにもいかない。結局、千冊あまりを処理せざるをえなくなり、お世話になった各方面の人々に引き取ってもらった。引っ越しのどさくさに紛れたとはいえ、これはまさしく画期的なことだった。家の方もこの際に整理をとの妻の声に追い込まれ、姫路市立図書館主催の古本市に協力する形で数百冊を提供してしまった。それやこれやで大胆なダイエットが成功した身体のように書斎はすっきりとした。どうせ持っては死ねない。これからは読んだ本は頭の中に叩き込み、全部処分したうえで、旅立とうと開き直っている。

そんな折も折、ショーペンハウアー 鈴木芳子訳『読書について』を読んだ。この本は古典的名著だが、このたび新訳で登場した。「読書しているとき、私たちの頭は他人の思想が駆けめぐる運動場にすぎない」と断じ、サーファーが波乗りをするように本をただ読み散らすことに警鐘をならしている。ややもすると、自分の頭で考えることをせずに、ページをめくるたびに感心したり興奮するという読み方をしてきたものとしては衝撃的な内容である。兵庫県はデカンショ節発祥の地・篠山市を擁するのだが、デカルト、カントに偏向し、三番目のお方を無視するきらいがあったことを大いに反省させられた。これから読書に挑戦しようとする若者には真っ先にこの本を読まれることを薦めたい。あれこれ本を読み漁ってきた末に人生の晩年になって「たくさん読めば読むほど、読んだ内容が精神にその痕跡をとどめなくなってしまう」と言われたんでは、まったく実も蓋もないからである。(10/28)

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