「本を読む場合、もっとも大切なのは、読まずにすますコツだ。いつの時代も大衆に大受けする本には、だからこそ、手を出さないのがコツである」ーショーペンハウアーはこう述べたあと、読書する時間を「あらゆる時代、あらゆる国々の常人をはるかにしのぐ偉大な人物の作品、名声鳴り響く作品に振り向けよう」と言う。そう簡単にいくだろうか。ベストセラーと聞けばつい手を出したくなるのが人情だ。私などもごたぶんに漏れずあれこれと読み、偉大な人物や名だたる古典は正直敬遠することが少なくなかった。寄り道ばかりして目的地には程遠いのに、日は暮れかかっている旅人のようなものなのである。
しばしば人は、古典を読め、しかも原典にあたれと言う。しかしこれらは口当たりが良くない食い物のようなもので、消化は良くないし美味しくもない。勢い歯ごたえはなくとも食べやすいものに目が向き、手を出してしまう。澤瀉久敬は『「自分で考える」ということ』の中で、参考書、入門書、解説書のたぐいは読まない方がよい、樹にまつわりつく蔦のようなものだから、と厳しい。この本は講演をまとめたものだけに平易な文章で分かりやすい。これとて読書すること、哲学することの解説書ではないのか、とつい皮肉を言いたくなる。結局は良書、悪書などといったことはあまり気にせず、読んだもの勝ちではないか、と思う。
ただ大事なことは、本を読むのは知識を増やすためだけではなく、他人の考え、思想を正しく把握することであり、そのためには自分の考えを一たびは消し、虚心坦懐に読むことに尽きようか。澤瀉は、具体的方途として、一冊の本を読む前に、その本の取り上げている問題を自分で考えてみるのもいいとする。しかし、政治や経済に関する論文ならそれはある意味で可能だろうが、一冊の書物となると、そうはなかなかいかない。自分の頭で考えるということはことほど左様に難しい。ただ、多読、乱読で来た人は一たび立ち止まって、読前、読後に著者との会話を試みるのは悪くないだろう。その積み重ねがやがては大きく実ることを確信する。(11/4)