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(341)3-⑥ 虚実ない混ぜあの手この手の小説作法━━諸井学『神南備山のほととぎすー私の新古今和歌集』

◆ヨーロッパ・モダニズム文学を先取りした「新古今和歌集」

 鎌倉時代の初期に後鳥羽院のもとに6人の選者たちが集められて編纂されたのが新古今和歌集(そのうちの一人藤原定家が百人の和歌を一首づつ集めたのが「百人一首」)というわけだが、これまで殆ど無縁できてしまった。そこへ、姫路の同人誌『播火』の同人・諸井学さんが『神南備山のほととぎすー私の新古今和歌集』なる本を出版したというので、読んで見た。

 彼の作品は『種の記憶』『ガラス玉遊戯』の2冊を読み、既に読書録でも紹介してきた。その後、『夢の浮橋』という題で、和歌文学の真髄に迫る素晴らしい論考を同人誌上で三回に渡り連載され、今も続行中である。私はこれに嵌っており、この度の新刊(過去に同人誌で発表したものを再編成)にも、深い感動を覚えている。毎日新聞の書評欄に推薦をしたことで、私の入れ込みようが分かって頂けよう。

 諸井さんの主張は、新古今和歌集は、ヨーロッパのモダニズム文学の手法を800年前に先取りしていて、「世界に先駆ける前衛文学である」ということに尽きる。この本は年譜を冒頭におく奇策を講じる一方、長め短め取り混ぜ、凝りに凝った手法を講じた12編の小説が並ぶ。どこから読むか迷う。四番目の「六百番歌合」が語り口調もあって読みやすい。そこでは、「春の夜の夢の浮橋とだえして峰に別るる横雲の空」という定家の傑作を噛み砕いており、そのくだりが圧巻である。

 一見、春の歌に恋の世界を重ねただけの単純な情景を歌ったものと、受け止められる。しかし、その背後には、漢籍における物語詩や故事を踏まえ、源氏物語の最後の巻を連想させるという企みがうかがえる、と。著者は「この連想による複雑化、そして『春の夜』『夢の浮橋』『峰』『横雲の空』と断片をちりばめるフラグメントの技法は、まさしく現代のモダニズム文学の手法」だとすると共に、「たった三十一文字の短詩の中に、定家は詰めるだけ詰め込みました。T・S・エリオットなど足元にも及ばぬといったら言い過ぎでしょうか?」とまで。

◆『後鳥羽院』との時空を超えた対談の妙

 著者のこの文学的スタンスは、丸谷才一のものと共通する。表題にある「神南備山のほととぎす」(第9話)は、この著作のメインストーリーでもあるが、実は〝師を乗り越えた弟子〟の趣きなしとしない秘話となっている。簡単にいえば、第8代の勅撰集となる新古今和歌集が完成の直前になって、過去の7つの中に重複しているものがある(山部赤人作が『後撰和歌集』の中に)と判明。さてこの誤りをどう取り扱うかという話を小説仕立てにしたものである。

 実はこれ、丸谷才一『後鳥羽院』が創作のきっかけとなった。この本は初版と二版で大事なところの記述が違っているという。初版での「詠み人知らず」が二版では「山部赤人」に、更に「古歌集」が『赤人集』にすり変わっているのだ。これに諸井さんは気づいた。彼はそれを後鳥羽院との時空を超えた対談という驚くべき形式で、事細かに明らかにしているのだ。「初版の言説を第二版で翻しておきながら、そのことをどこにも断っていない。極めて不誠実です」と手厳しく後鳥羽院を(勿論、現実的には丸谷才一を)責めているのである。未だ読んでいない人にこのあたりは小むづかしく聞こえよう。著者にとってはここが肝心要。まさに鬼の首を取った感なきにしもあらず。(だから、勘弁してあげてほしい)。

 諸井さんはこの本において、呆れるほど様々な実験的手法を試みている。「六百番歌合」は私も知っている姫路の公民館での見事な迫真に満ちた講義録だ。‥‥と思わせたが、架空のもの(臨場感溢れる絶妙の面白さ)だった。「鴫立つ沢」はラジオ番組のインタビューという形式をとっているがこれも創作。他にも「民部卿、勅勘!?」では、なんと、現代生活の中に「平安日報」なる新聞を登場させ、定家らの動静まで掲載する。また、「草の庵」には実在しない女房を登場させたうえ、「美濃聞書」なる史料を創作し、長い注釈を加えた。

 ありとあらゆる手法を駆使して「新古今和歌集」の実像に迫っている。これでは、紀行文の形を取っている「隠岐への道」(最終話)も、怪しい(と思ったが、これは事実だと後で分かった)。まさに虚実ない混ぜにした、騙しのテクニック満載なのである。国際政治学という学問を愛する私には「殺すより盗むがよく、盗むより、騙すがよい」とのW・チャーチルの国際政治の本質を突いた言葉が印象深い。騙し上手は政治家、嘘つき上手は小説家が通り相場だが、さてさて諸井学という人は?

【他生のご縁 2足のわらじで2種の森林に分け入る】

 諸井学というペンネームは、どこから来ているのでしょう。あのサミュエル・ベケットの『モロイ』に傾倒し、学びたいというのが由来なのです。日本古典文学からポストモダンに至るまで、この人の文学への造詣が広く深いことに驚きます。

 名工大を出て家業の電器店を営みながら小説を書き続けてきました。先年姫路で著名な文学賞を受賞。2足のわらじで、2種の森林に分け入る試み。70代半ば。いよいよこれからの人なのです。

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(340)新型コロナウイルスの蔓延と人の世ーアルベール・カミユ『ペスト』(宮崎嶺雄訳)を読む

新型コロナウイルスが中国・武漢市で発生して、この巨大都市からの人の出入りを禁止するといったことが話題になった時に、随分前に読んだ記憶がある本を思い起こした。アルベール・カミユの『ペスト』である。ネズミを介在させた伝染病ペストと新型コロナウイルスによる感染症との違いはあれ、迫られる対応など考えさせられる類似点は少なくない。都市の封鎖やクルーズ船内での隔離など、今現に起こっている緊急事態を前にざっと読み返した▼封鎖状態に陥り、閉じ込められた人間が密かに自分だけ脱出を試みようとしたり、キリスト教の神父が、この事態は人々の罪のせいで起こったのだから、まず悔い改めよとの説教したりする場面が印象に残る。主人公の医師が懸命に救助活動に従事する姿に、今回の武漢で必死の診療行為の中で亡くなったとされる中国人医師像が重なった。また、過酷な状況にもかかわらず、助け合う人々の振る舞いに、クルーズ船におけるイタリア人船長のもと一致団結した行動をとったとされる乗組員の姿も重なった▼この本でカミユは、人生における究極の不条理の側面を描き、避けられない人間の運命の中で助け合う人々の生き様を浮き彫りにした。かつて私の若き日に実存主義が時代を席巻した。フランツ・カフカの『変身』などと共に、カミユの『異邦人』や『シシュポスの神話』などを読んで、分かったようでいて、今一歩分からないような思いに駆られたものである。そんな中で、この『ペスト』には救いがあり一条の光があったと思われた。大型イベントや日常的会合が中止になったりして、出歩く機会が減る中で、家で読んで人生を考えるきっかけとなる絶好の本かもしれない▼国会で新型コロナウイルスへの政府の対応が後手後手に回っているとの批判がある。桜を見る会や東京高検検事長人事などを巡っての疑惑で窮地に追い込まれた安倍政権にとって、名誉挽回のチャンスとなるか、恥の上塗りになるかの瀬戸際である。中国で発生し、日本、韓国でも多くの人々に感染、欧州でもイタリアを中心に予断を許さない事態が続く。せめて、地球上に生息する人間が、国の違い、民族の違いを乗り越えて、生きるも死ぬも同じ運命共同体であることが共通の認識になり、争いごとがなくなる機縁になれば、と思うことしきりである。(2020-2-28)

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(339)「江戸」の終末を〝お笑い味〟たっぷりにー浅田次郎『大名倒産』上下を読む

いやあ面白かった。これぞ小説、その醍醐味を満喫しきった思いがする。浅田次郎の『大名倒産』上下2巻である。漫画的過ぎるとか、中弛みが気になる、一巻で終わりにして欲しかったとの注文はないわけじゃあない。だが、こんな豊潤な世界に長く浸かることが出来て、幸せ。ケチつけたり、贅沢いうと罰があたるというものだ。この作者のものはかつて『鉄道員』『天国までの100マイル』『壬生義士伝』など、読書録にも取り上げた。ここのところご無沙汰していたが、先日ある友人との会話の中でこの本のことが出た。そこで、彼から借りることに。引っ越し後、なるべく本は買わないとの習慣が身についてしまい、図書館通いが主流なのだが▼時は幕末。江戸期260年の長い長い時間ー明治維新から150年と比べるとよくわかるーに、すっかり弛緩しきった武士の世界を縦、横、斜め、表から裏まで縦横無尽に、〝お笑い味〟ふんだんに散りばめつつ惜しみなく描く。積もり積もった借金25万両。利息の支払いだけで年に3万両。ところが収入は1万両。これを踏み倒す算段として、「倒産」を選んだ先代と、膨大な負債を押し付けられたご当主の息子。財政改革のあの手この手に必死に取り組む。奇想天外な筋立てと絶妙の話運びでグイグイと読むものは引きずりこまれていく▼明治維新の引き金となったのは「黒船来航」だが、その背後に〝熟柿〟となった「武家社会」があった。いわゆる維新を扱った読みもので、幕府を倒す側の視点に立ったものは数多あるが、倒される側に連なるものは比較的少ない。その分新鮮さを感じる。だ洒落の連発、ユーモアの山盛りで、大いに笑える。愉快なことこの上なし。随所に織り込まれた人情話と人生の機微にも、そのつど心しびれる思いになる。為になることこの上なし。著者と同じ高みからの目線で登場する七福神と貧乏神の繰り出す手練手管に、翻弄される人間の哀れさ。それに打ち勝つ強さとは何なのか。少しばかり考えさせられもした▼読売新聞の読書欄(1-19付け)に、橋本五郎氏がこの本を取り上げていたことを思い出し、古新聞の中から取り出した。同紙特別編集委員のこの人は名うての読書家で、評論家。書評を書くにあたって『二回半読む』(同名の著書あり)というから凄い。彼のここでの書評は、「凡庸でも誠実であり続けることの大切さを教えてくれ」るとしたうえで、最後に「悪意が満ちあふれている今日日、これほどの『性善説』小説にお目にかかるとは大いなる驚きである」と結んでいる。「一回しか読まない」(同名の著書はない)私としては、ご隠居様の生き方に強い共感を覚えた。ある時は百姓与作、ある時は茶人一狐斎、またある時は職人左前甚五郎や板前長七といったように多面的なキャラを使い分ける。退職後に、野良仕事をしつつ茶道に勤しみ、陶芸に打ち込み、料理教室で腕を磨くといった人は珍しいが、いなくはないだろう。かく言う私も、恥ずかしながら違った性格を持つ7つほどの顧問職をこなし、ちょっぴり真似事をしている。橋本さんの言うように確かにここでの『性善説』は驚きだが、ご隠居の存在あってこそ光るというものだろう。凡庸、誠実さよりも、英邁、狡智さに長けた人間に魅力を当方は感じてしまう。この本の後半で悪戦苦闘してるはずの若殿・息子の登場は極端に少なく影も薄い。本当の主役はご隠居と思われる。と、書いてきて気が付いた。橋本さんは皮肉を込めた表現をしたに違いないと云うことに。 (2020-2-18)

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(338)物足りなさ残る新宿鮫XⅠー大沢在昌『暗約領域』を読む

その昔、私はハードボイルド小説の格好いい主人公に、また英邁極まりない孤独な指導者や主役を映画の中に見出すたびに、敬愛する上司を重ね合わせることがしばしばであった。やがて、その密やかな片思いが実は私だけでなく、一緒にその大先輩にお仕えしていた後輩W君も共有する感情だと言うことを知った。私たちは司馬遼太郎の『燃えよ剣』の土方歳三と上役の類似性について語り合い、米映画『フルメタルジャケット』を一緒に映画館で見て、 訓練を受ける海兵隊員に自分たちを、鬼将校にその先輩の姿を重ねたものである。大沢在昌の小説『新宿鮫』の鮫島にもその上司が似ていないはずはなかった。要するに二人ともひたすらにその先輩上司に憧れ、英雄視していたのである。この想いは恐らくほかの誰にもわかるまいし、わかってほしくもない▼新宿を舞台にはぐれ刑事・鮫島が活躍する小説に若き日の私たち(彼は30歳過ぎ。私は40歳過ぎだったから決して若くない)は魅了された。ほぼ30年前のこととて、私自身はその物語の筋だてなどもはや殆ど覚えていない。第1巻が発刊されたのが1990年。いらい第2巻・毒猿、第3巻・屍蘭あたりは、夢中になって読んだものだが。それ以降は私が政治家になってしまったこともあり、遠のいた。この度、第10巻が出てから8年ぶりにシリーズ第11作目が出たと言うので、手にした。勧めてくれたのは、誰あろう、かつて共に同じ夢を見たに違いないW君である。出ましたが、読みましたか、とのメールで直ちに本屋に足を運んだ▼「密告してきたのは浦田という密売人だった。根っからのクスリ好きで酒は体質に合わない」との書き出し。「覚せい剤中毒者にはそうした下戸が少なくない」と続く。やがて新宿区内の民泊施設を舞台に、張り込んでいた鮫島の前で殺人事件が起きる。覚せい剤、暴力団組員そして怪しげな北朝鮮人やら中国人。現代日本の闇の世界におなじみのテーマや登場人物たち。小説を通じて様々な情報を得たうえで、人との付き合いに活用をしたい向きには、いささか縁遠さは否定できない展開である。それでも平成29年に成立した「住宅宿泊事業法」で、民泊業者に対する届け出が義務付けられたとか、「年間180日以内の営業の制限があることから、旅館業法で定める『簡易宿所営業』で、許可を取得している民泊業者も多い」などといった記述には、インバウンドに関心を持つ身としては、興味なしとしない。そんな中で、この本では鮫島の上司に女性の課長が現れる一方、新人の相棒の登場という新味に対して、大いに〝食欲〟を唆られ、読み進めた▼だが、その展開は尻つぼみという他ない。女性の上司との間での、警察という機構を巡っての組織観の違いの披瀝も中途半端なものに終わるし、当初は思わせぶりな活躍に期待を掻き立てられた新人も、途中で出番が消えてしまう。尤も後者の方は意外な役回りに驚かせられるのだが。息もつかせぬ活劇場面もようやく終わりが近づいてから。そこに至るまではいささか退屈する場面の連続に思えた。濡れ場も殆どゼロに近い(それは今の私には好都合なのだが)ことなど、通常のこうした小説につきものの〝付加価値的呼び物〟もいたって影が薄いのである。と、こういう風に来ると、なぜ700頁にも及ぶ大部の小説を途中で投げ出さなかったのかとの疑問が湧く。怖いもの見たさとヒーロー待望感をして、最後まで惹きつけさせたものと思われる。尤も、肝心の我が感受性の衰えは如何ともしがたいのかもしれない。それに何よりも大きいのは、鮫島の〝かくも長き不在〟の間に、我らが敬愛した上司が先年、急逝されてしまい今は存在されないことだろう。W君がどう読んだか知りたいところだが、未だその便りはない。(2020-2-12)

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(337)中国で一挙に「SGI 」が増える可能性ー佐藤優『希望の源泉 池田思想ー『法華経の智慧』を読む』』❶を読んで

池田大作先生の『法華経の智慧』全6巻は、私の愛読書である。佐藤優さんが第三文明誌上で、対談形式でそれを読み解いたものをも、深く感じ入りながら読んできた。このほど改めて『希望の源泉 池田思想』という形で単行本になったもののうち第1巻を一気に読んでみた。京都と大阪で月に一回づつ受けているNHK 文化センターでの植木雅俊さんの講座の帰りの車中で、である。仏教思想家の植木さんは中村元先生のお弟子さんとして知られる。京都・四条の『法華経』講義でも、大阪・梅田の『仏教、本当の教え』講義でも、幾たびとなく中村先生の言葉が口をついて出てくる。一方、佐藤優さんはキリスト教プロテスタントの身でありながら、今や池田先生を師と仰ぎ、創価学会のこよなきウオッチャーであり、理解者である。『希望の源泉 池田思想』❶を軸に、計らずも異なった形の「師弟」を考えるきっかけとなった▼植木雅俊さんは講義の中で、ご自分が二足の草鞋を履いてきたことを強調される。会社勤めをしながら、40歳にして中村元先生の門を叩き、やがてサンスクリット語を習得して御茶ノ水女子大で博士号を取り、法華経や維摩経を全訳するまでになった、と。直接中村先生の薫陶を受ける中で、ものの見方も考え方も全て磨かれていったことが、彼の著作『仏教学者 中村元』を読むと手に取るようにわかる。一方、佐藤優さんは未だ池田先生にはお会いしたことはないという。「(自分は)キリスト教徒なので、『会ってこの目で確かめたから信じられる』などという発想は絶対にしません。『会わなくても信じられる』ということが重要なのです」と述べ、「池田会長と直接会ったことがなくても、会長を深く尊敬し、弟子として立派な生き方をしている無名の庶民はたくさんいます。その人たちは、池田会長 との物理的距離は遠くても、生命的距離は近いわけです」と意味深長な表現をしている。お二人を深く尊敬する私としては、この師弟関係の二形態(共に、仕事を通じてのもので、人生の師弟関係とは別であろうことは言うまでもない)をいずれもこよなく尊いものに思うばかりである▼植木さんの法華経講義はとてもわかりやすく、かつ深くて勉強になる。加えて、池田先生の『法華経の智慧』を読み解く、佐藤優さんの手法もとても参考になり力になる。前者は、原点をきちっと抑える上で貴重な学習となり、後者は世界宗教の視座から、応用的側面を分からせてくれる興味深いアドバイスである。随所にキリスト教とのアナロジー(類推)を駆使しながらの展開は、極めて新鮮味がある。ただ、「最初に救済が保証され、あとから信仰上の行為がついてきて、救済が実感されていく。そう考えると、日蓮仏法は、キリスト教の信仰のありように意外に近いのでは」とあるくだりには意外感を抱く。私の理解では、キリスト教と近いのは念仏思想だとの認識だったからである。尤も、その記述のすぐ後ろに、「キリスト教徒の私にどこまで仏教の本質が理解できているかはわかりませんが‥‥」とあり、ホッとする思いもした▼実は今中国で池田思想を研究する動きが顕著で、私の友人の中国人学者もその任に当たっている。この本でも、中国各地の大学に附設されている「池田思想研究所」について触れられ、佐藤さんが『法華経の智慧』を読み込んでいる研究者の中から「今後、どのような展開が生まれてくるのか非常に興味深い」と述べている。加えて、「近い将来、中国で、『信教の自由』が認められ、一挙にたくさんのSGIメンバーが中国に誕生する日が来ると考えています」と、重要な展望を述べているのだ 。これを踏まえて、植木さんの『日中印の比較文化』に関する講義の後で、私は質問を試みてみた。「かつて仏教を生み出したインドでは仏教は廃ってしまい、中国は共産化して仏教を表向き受け入れていない。そんな状況下で、日本発の創価学会SGI が、『池田思想研究所』という形で中国に進出していることをどう見ますか。佐藤優さんがその著作で予測しているように、やがては大きく広まっていくと思いますか」と。一般的には、中国は政治優先の国だから、今の動きは一過性のものに終わる可能性が高いと見る向きが少なくない。私もそれを懸念している。講義の終了間際だったので時間もなく、植木さんからは明確なお答えは得られなかったのだが、このテーマは極めて関心の高いものだけに、今後注目していきたい。(2020-2-9=一部再修正しています)

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(336)第45回SGI提言ー『人類共生の時代へ 建設の鼓動』を読む

今年もSGIの日(1-26)がやってきた。45回目である。その日に合わせて池田先生による記念提言が発表された。二日間8頁にわたる膨大な分量である。その中身を聖教新聞で読み、そのポイントと自身の受け止め方を記してみたい。まず、この手のものは難しく、苦手だから敬遠してしまうという向きには、第一日目の冒頭の第一段落ーいわゆる前文にあたるところーを熟読した上で、文中に掲げられた見出しを書き出すことをお勧めしたい。加えて両日に掲載された論文の末尾の9、10行分を先生が示された結論として胸に刻むことも。勿論、そういう安易なやり方ではならぬことはいうまでもないが、全く読まないよりはいいということも付言しておきたい▼今年の提言はただならぬ響きを持つ。地球上、とりわけ日本で気候変動に伴う異常気象による被害が続発しており、いよいよ放置することは許されない事態に我々が直面しているからだ。あと10年で地球が存続するか、滅亡するかの分岐点(国連のSDGs=持続可能な達成目標としての2030年)を迎えるとの認識は、もはやよほど能天気な人以外は皆共有するに至っている。その上で、提言は危機感の共有だけではなく、建設的な行動を共に起こす重要性を訴えている。具体的には〝気候変動問題に立ち向かう青年行動の10年〟の意義を込めた活動を各地で幅広く起こそうとの呼びかけがなされているが、ここにこの論文の最大の眼目があろう。青年の10年でなく、青年行動の10年とあることに深い感慨を抱く。対象は青年の気概を持つ全ての人々であると受け止めざるをえない表現だから▼続いて、具体的提案を世に問うている。一つは、核兵器禁止条約の第一回締約国会議の開催を受ける形での「核なき世界を選択する民衆フォーラム」の開催。二つは、核拡散防止条約(NPT)の再検討会議で、その最終文書に「多国間の核軍縮交渉の開始」と「AI(人工知能)などの新技術と核兵器の問題を巡る協議」に関する合意を盛り込むこと。三つは、国連の「防災グローバル・プラットホーム会合」を今年日本で行い、異常気象に伴う課題を集中的に討議すること。四つは、紛争や災害の影響で教育を受ける機会を失った子どもたちへの支援を強化するために「教育のための国際連帯税」の創設をすること、主たるものは以上四つだ。こうした提案の背景に、池田先生の国連に対する深い思いがあるのだが、改めて、「国連の使命は『弱者の側に立つ』中に」、との1行の持つ含意に強い共感を抱く▼今回の提言で、法華経の「娑婆即寂光」の法理に触れているところには強く胸打たれた。つまり、娑婆世界は〝堪え忍ぶしかない場所〟ではなく、〝人々が願ってやまない世界(寂光土)を実現する場所〟だというのが釈迦の本意だったことや、日蓮大聖人が法華経のメッセージの核心として「自分たちが今いる場所をそのまま『寂光土』として輝かせていく行動を広げること」を挙げていることを紹介している。集約すると、利己主義や悲観主義でもない第三の道があると池田先生は強調し、「一人一人が自らの生命を宝塔のように輝かせ、社会を希望で照らす行動を広げる中で、自分たちが望む世界を自らの手で建設することの重要性」を訴えている。この提言を読み終えた今、法華経が説く、自分の足元から希望を灯すことこそ国土変革のドラマであり、思想だとの共通認識を世界中の人々が持てるように頑張らねば、との思いを強く抱くに至った。私が今起こそうとしている〝見て見ぬ振りをしない運動〟も根っこで繋がっていると確信している。(2020-1-28)

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(335)いま創価学会SGIが熱いー佐藤優『世界宗教の条件とは何か』を読む

世界宗教となった創価学会SGI。これからさらに世界に向けて布教のコマを進める上でのアドバイスを、佐藤優さんが創価大学の学生を前に熱く語った講義。それが『世界宗教の条件とは何か』である。❶宗門との訣別❷世界伝道❸与党化ーこの三つがその条件だとする。ひと昔前ではおよそ考えられない筋立ての論理展開に驚愕を覚えつつ、感動のうちに納得して、読む創価学会員をして立ち上がらせる力を持った本である▼現在、朝日新聞発刊の週刊紙『アエラ』で、『池田大作研究  世界宗教を追う』が連載中だが、これは、池田先生の『私の履歴書』(池田大作全集所収=日経新聞初出)を読み解く体裁を取っている。この二つを併せ読むことで一段と現在における世界宗教の姿が浮き彫りにされる。単に創価学会員を勇気付けるだけではなく、一般の人々にもキリスト教やイスラム教などの歴史と現在、その問題点などをわからせてくれる▼佐藤優さんはキリスト教とのアナロジー(類推)で創価学会を考える手法を駆使する。また、様々な宗教の「内在的論理」を知ることの効用を語る。さらには日本の歴史を学ぶことが世界広布に役立つことを説く。一方で、数多くの書物や映画を挙げて具体的な思考の手ほどきも施してくれる。映画『八甲田山」を題材にした「リーダーと民衆」論にはただただ感じ入り、唸らせられた▼彼をして「知の巨人」 との命名は改めてむべなるかな、と感心する。キリスト者をかつて二重人格とのレッテルを貼って一刀両断にしてきた我が身が恥ずかしい。邪宗教との位置付けで他宗教を打捨ててきた我が姿にも。日暮れて道遠しならぬ、道に迷った感が強い者には、読みようによっては罪深い中身だ。なお、潮出版社がホームページでこの本を元に、首都圏の大学生を対象に語り合った「佐藤優の白熱教室」を連載している。その第2回に私のことが触れられている。恥ずかしながら付言しておきたい。(2020-1-21)

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(334)面白いようでイマイチ落ちないーS・モームの『コスモポリタンズ』(龍口直太郎訳)を読む

アメリカの大統領がツイッターと称する短文を世界に発信する時代。SNSの世界では、短かきを持って尊しとなす傾向が蔓延っているかに思われる。そんな世相に反抗して、わたしのブログは長い。長いものを書いてないと、落ち着かないというか、自分の思考までが奥行きがなくなるように思ってしまうからだ。だが、今年初の「忙中本あり」は、少し短いものに挑戦しよう。読むものはともかく、こちらが書くものは、とスタートした▼わたしの若い時代にはショートショートと称する短編小説が流行った。国内的には星新一のもの。海外ものではサマセット・モームらが主軸であった。昨年晩秋に読んだある本の中に、モームの『コスモポリタンズ』を推奨されるくだりを発見して、読もうとの気になった。毎夜寝る前に一話ずつ読み進めると、ほぼ一ヶ月で読了(29本)する。睡眠促進剤代わりにと思ったが、中々そうはいかない。要するに最後の落ちがイマイチ落ちず、落ち着かなくなって、逆に考えこんでしまうケースが多いのだ▼最初に小池滋さんの解説から読んだのだが、「社交意識」が一番好きな作品だとあったので、そこをまず開いた。しかし、わたし的には面白くない。「ちゃんと前の方に伏線を仕込んでおいて、最初の2行が見事な落ちになっている」というのだが、しっくりこない。人生とはこんなもの、といった「陳腐な感想」がずしりとした重みで読者に迫ってくる、と仰るのだが、わたしとしては、「物識先生」の方が面白かった。あっと驚く終わり方が。こう来なくちゃと思わせる巧みな捻り方に舌を巻く思いだった▼要するに、人それぞれなのだろうが、全般的にわたし好みの落ちを駆使した短編は少なかった。「読み終わって何時間たっても、いつまでも頭の中にあと味が残るような作品」はそう多くない。そんな中で、興味を唆られたのは「困ったときの友」である。モームは世界を舞台に動く、文字通りのコスモポリタン。そこに我が神戸がしばしば登場する。この掌編では、なんと、わたしの育った塩屋、垂水が顔を出すのだから嬉しい。「それじゃ塩谷クラブをご存じありませんね。わたしは若い時分、そこから出発して信号浮標(ビーコン)をまわり、垂水川の口にあがったもんですよ」と。ここで云う塩谷クラブは、ジェームズ山の外国人クラブを指すものと思われる。塩谷は恐らく訳者の間違いではないか。また、垂水川ではなく、福田川ではないか、と云った思いが浮かんできてしまう。おまけにいくつかの誤植も(65、68頁)、目につき、作品の落ちならぬ、落ち度が気になってしまのはどう云うものか。英国切っての作家と手練れの日本人訳者の粗探しをするようでは、今年のわたしの先行きが危ぶまれる。(2020-1-11)

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(333)「常識」を覆される痛快感ー植木雅俊『今を生きるための仏教百話』を読む

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(332) 4- ⑦〝低度経済停滞時代〟を 大転換する戦略━━井手英策『幸福の増税論』及び姉妹編

◆再起動に駆り立てられる迫力

 国会議員を辞めて早くも10年余が経つ。令和の時代になった頃に、昭和から平成にかけての回顧録をまとめる作業を進め、随時ブログでオープンした。そんな私が現役であった時代は「失われた20年」とのフレーズが定着したように、日本は概ね停滞の時間が続いた。同じ時期に政治家を務めた私としては、心底恥じ入る思いを持つ。

 かつて55年体制を打破すべく立ち上がっていた日々に比べ、なにかが狂ってしまった、としか云いようがない風景が今、日本中に広がっている。なんとかせねばとの思いを抱いた私が、井手英策慶應大教授の『幸福の増税論』と出くわした。公明新聞紙上で発表された論考のなかで紹介されていたのである。直ちに読み、続いて発売されたばかりの姉妹編ともいうべき『いまこそ税と社会保障の話をしよう!』を読み終えた。深い感動を覚えるとともに、なぜこの人の本を今まで読んだことがなかったのだろうか、との疑問が起きてきた。

 それは恐らくこの人がかつて民進党の政策ブレーンだったことと無縁ではないと思われる。私が親しかった歴史家の故松本健一氏や作家の石川好氏らも旧民主党や政府の中枢に身を置いて、アドバイスを繰り返した。それが敢え無く虚しい結果となったことは彼らにとって無念だったろうし、今は無き同党の罪はとても深いように思われる。学問を続けて机上の議論を深めてくると、政治の現場で実地に試してみたいとの誘惑に駆られるものだとは、少なからぬ先達の例を待たずとも分かるところだ。井手さんの場合も同じに違いない。真正リベラルを持って任じる井手さんは、文字通り筋金入りの人である。その生い立ちや人生の軌跡を追うにつけ(結構、頻繁に本の中に出てきて興味深い)、今彼がそうあることが読むものをして納得させる。経済理論の具体的展開とは別に、この人の人生観が私を〝再起動〟に駆り立てて止まない。

◆「ベーシックサービス構想」の提唱

 井手さんら団塊第二世代は、親たちとは真反対の〝低度経済停滞時代〟を生きてきた。その挙句の果てが「世帯収入400万円未満が5割」もいて、「子どもを産むのを控えつつ教育費を削る」しかない社会。今や日本はひとり当たりGDPがかつてOECD諸国中2位だったのが、20位前後という貧しさにある。私を含めた古い世代は、その現実を真正面から認めたがらず、あいも変わらぬ「自己責任」に依拠し、いま〝再びの成長〟を期す傾向が強いように思われる。

 こうしたところから説き起こし、井手さんは「頼りあえる社会」に向けて「再分配革命」を提起し、「貯蓄ゼロでも不安ゼロの社会」への処方箋を示す。その目指す手立てはズバリ消費税増税であり、財政観の根本的転換である。具体的には「医療、介護、教育、子育て、障がい者福祉といった『サービス』について、所得制限をはずしていき、できるだけ多くの人を受益者にする。同時に、できるだけ幅ひろい人たちが税という痛みを分かち合う財政へと転換する」。つまりは「ベーシックサービス」構想の提唱である。

 2冊の井手さんの本を読んで思うところは数多あるが、最も私の心にこたえたのは「いい加減、政官労使が未曾有の危機に向かって協調しあう『連帯共助』のモデルを考えなければいけない時期なのではないでしょうか。この当たり前の方向を示してくれる政党がこの国にはない。揚げ足取りばっかりが目につくようで‥‥」とのくだりだ。自民党政治を外から改革することに限界を感じて、内側からの変革という〝大英断〟に公明党が身を転じて20年余。与党内野党としての必死の戦いが果たしてどこまで所期の目標に到達し得ているか。幾ばくかの成功事例を挙げることに躊躇はしないものの、残念ながら大筋で変えるに至っていない。だからこそ、貧しい日本の現状がある。それって政府自民党のせいだとは言いたくない。公明党こそ彼の目に叶う政党だと言わせたい。

 本の最末尾を、迫り来る「運の良し悪しだけで、多くの不自由を背負い込み、さまざまな可能性が閉ざされてしまう『選択不能社会』」を終わらせるために、「高らかに自由と共存の旗を掲げながら」「新たな文明社会を切り開く」べく、「可能性への闘争をはじめよう。今すぐに」と高揚感漲る表現で結んでいる。一個人としては「社会革命」よりも「人間革命」を優先させる、との自覚のもとに、この60年近く走り続けてきた。その結果が「選択不能社会」とは、無念でならない。今、井手さんの主張に共感と違和感とが混じり合った複雑な思いが沸き起こってきている。

【他生のご縁 『77年の興亡』のリベラルさに驚かれる】

 この論考を書いたあと、井手さんとメールでやりとりが始まりました。公明新聞で井手さんを担当するN記者の誘いによって、先の拙著『77年の興亡』にも目を通していただきました。私の説いた外交・安全保障分野における中道主義の展開に興味を抱いていただいたというのです。

 私の論調のリベラルぶりに驚いた、とも。とても嬉しいことです。彼の政治、政党に対する既成概念を公明党が撃ち破るであろうことに、私は大いに期待しています。

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