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【191】①-1 人生勝利の因は反復にありー中嶋嶺雄著作選集➇『教養と人生』

◆「忙中楽あり」と「忙中本あり」と

 中嶋嶺雄──私にとってこのうえなく巨大で近寄りがたく、かつ優しく身近な存在だった。この矛盾した位置に20代前半から60代半ばまで、ずっと中嶋先生は私の傍にあった。『現代中国論』を引っ提げて華々しく論壇に登場されたときの先生は未だ20代後半。その少し後の慶應義塾での非常勤講師としての講義は、ひよっこに過ぎなかった私には衝撃の連続であった。先生の「中国文化大革命批判」の重みは、ある意味で我が人生の色合いを決定づけたともいえる。先年亡くなられた直後に発刊された中嶋嶺雄著作選集第八巻『教養と人生』を読んで改めてこの人物の凄さを思い知るに至った。真面目に人生を考える青年たちすべてにこの本を読んで貰いたいと心底思う。

 私は単行本で中嶋先生の著作は殆どすべて読んできた。中国論それも初期の頃のものは、仰ぎ見る存在としての先生を彷彿とさせるものばかり。一方、この選集第8巻に登場する『リヴォフのオペラ座』や『オンフルールの波止場にて』などの文章はどこまでも優しい先生を、ひたすら漂わせるものが多い。尤も、私はかつてピアノ奏者を志した妻や、絵画に造詣の深かった義父を持ちながら、一向に芸術の道には開眼し得ていない。それゆえ、どこまで理解を深めることが出来たかどうか大いに疑問ではあるが‥‥。だからこそというべきか、この巻の編集を担当されたご次男の中嶋聖雄さんの解説に大いなる興味が募った。先生の東京・板橋区のご自宅にも伺ったことがあり、奥様とも幾度かお話をしたことはあるものの、ご子息たちとはこれまでご縁がなかっただけになおさらだ。

 この本での読みどころは、人間存在の基底部は、繰り返しによって形成されるということ、だと思われる。ご自身のヴァイオリン演奏における暗譜。語学習得における暗誦、繰り返しの重要性。このあたりについて触れられたくだりは示唆に富んでいて極めて興味深い。中国論については私は蟷螂の斧のように、身の程知らずに先生に体当たりを繰り返してきた。しかし、流石に音楽論には太刀打ちどころか、立ち向かって太刀を合わせることすらできなかった。忙しい最中に音楽を聴いたり演奏をされたりした先生が「忙中楽あり」と口にされている。これには「忙中本あり」なる言い回しを専らにし、実際に自著のタイトルに用いた人間としてニヤリとするのが精いっぱいなのである。

◆「父・中嶋嶺雄から学んだ」4つの教え

 聖雄さんが、「父、中嶋嶺雄から学んだこと」との一文の結論に四つ挙げている。第一に、自分の考えを文章として残し、発表すること。第二に物事を常識的に考えること。第三に個性的でありながら、協調的であること。第四に、国際的な公共性をめざすために国際人たりうるためにこそ、自らが生まれ育った土地や環境に根付いたアイデンティティを持つことの重要性である、と。実は私もこの四つは先生から教えて頂いた。何れも中途半端は否めないが、耳朶に残って離れない。

 最末尾に、父上の死が絶望すら抱かせる壮烈なものであったことに触れ、「落ち込んだ時、もう駄目だと思ってはいけない。自己否定をしてはいけない。そこには新しい選択が生まれる」との先生の言葉を引かれているのは強烈なインパクトを感じる。父上の死をきっかけに永住権まで取られていたアメリカから帰国し、「現代中国」を研究するという「新しい選択」をされたのだから。

 彼が早稲田大学アジア太平洋研究所教授として「アジアにおけるクリエイティブ産業」などの授業を担当する一方、現代中国映画産業における英文著書を執筆されてきたと知って驚いた。実は私は、北京電影学院客員教授の榎田竜路さんと親交を深めているからだ。彼は、中国の若者に映像制作などを講義する一方、日本の若者たちに認知開発力を培うなかで、地域の真の意味での再生を図るという壮大な試みに取り組んでいる。聖雄さんが目指す分野との関連性に思いをいたし、早速おふたりの間を取り持ったことも懐かしい。改めて中嶋先生との深い縁を感じて、ひとり感じ入ったしだいなのである。

【他生のご縁 「外交安保も大事だけど、教育だよ」との励まし】

 中嶋嶺雄先生とのご縁については、学者と政治家の私的勉強会の『新学而会』始め数多くあります。市川雄一元公明党書記長との関係もまた深く、3人でいくたびもご一緒しました。台湾での「アジア・オープンフォーラム」への参加や東京外語大学長の頃にキャンパスを自ら案内していただいたことなど忘れられません。

 さらに、私の処女作『忙中本あり』の出版記念会の呼びかけ人代表を務めていただいたことも。本の帯に推薦の言葉を寄せていただき、「傑作だ」と週刊誌のコラム上でも持ち上げてくださったことも懐かしい思い出です。

 秋田国際教養大学の創設に深く関わられた先生は、同大学でのシンポジウムに招いて頂きました。晩年にしばしば「外交・安保も大事だけど、『教育』だよ。君もそろそろ取り組んだ方がいいね」と強調されたことが耳朶に今も残っています。同大学の行く末を気にされながら、逝かれたことは返す返すも無念なことでした。

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(190)”感幸”で地域全体の価値向上をー藻谷浩介、山田桂一郎『観光立国の正体』を読む

観光、それもインバウンドブームである。外国人の日本への旅行客が一気に年間2千万人を超えたとの報道が喧しい。しかしその実態はどんなものか。偶々私は今「瀬戸内海島めぐり協会」なる一般社団法人の専務理事をしており、まずは淡路島に観光客を呼び込むことを仕事にしている。といってもこの分野、決して詳しくない。どちらかと言えば、ド素人と言っていい。文字通り、”泥棒捕まえて”何とやらで昨今慌てて何やかやと只今猛勉強中である。そんな私が本やの棚で発見してむさぼり読んだのが藻谷浩介、山田桂一郎『観光立国の正体』。これなら十分”縄をなえる”だけ、面白くてためになる▼藻谷さんは『デフレの正体』『里山資本主義』でお馴染みのライター。日本総合研究所主席研究員で、今最も知的刺激を与えてくれる書き手だ。彼は「本もあまり読まず、ネットもテレビもほとんど見ず、日本と世界各地に設けた無数の定点観測点を繰り返し訪問し観察すること、『現場の知』を体現した人と対話を重ねること、それにいくつかの統計データの推移を分析すること」の三つを情報源にしているという。その藻谷さんが観光を核とした地域振興の分野で、この人以上の知識と見識を持ったひとはいないと太鼓判を押すのが山田桂一郎氏。スイス在住の「観光カリスマ」との触れ込みだ▼第一部では、山田氏が住むスイスのツェルマットという6千人足らずの村の観光への取り組みの紹介だ。スイスの各市町村で、地域経営の基盤になっているのが「ブルガーゲマインデ」と呼ばれる組織。住民自治経営組織とでもいうべき仕組みである。住んでいる人が「真の豊かさ」を感じられる地域を目指して、少数でも団結して目先の利害を超えて「一緒に稼ぐ」ことを前提に、域内利益を最大化させる活動を始めることだとの指摘はなかなか胸を打つ。第二部では、二人が観光立国とは名ばかりだと、徹底して現状を批判する対談が展開されている。いちいち御尤もだと思うが、素人の私でもなるほどと膝をうったのは、プロダクトアウトとマーケットインの発想の違い。前者は、顧客の意向、思いを無視して売り手の意思を押し付ける考え。後者は、旅行者が真に求めるものを提供するというもの。観光庁が取り組む広域周遊ルートも「ほとんどが各地の売りたいものだけを繋げた自己都合的なルートで」あり、「旅行者が巡りたくなる価値を提供しようとの発想になっていない」と手厳しい。「観光」というより「感幸」と呼びたいとの二人に大いなる心意気を感じた▼さて、この本で得た知識や情報をどう実際に生かすか。ここからが私の腕の見せ所だ、と言えば、皆さん笑われよう。あまりにも安易だと。しかし、やって見なければわからない。これまで、明石大橋が出来るまでは近畿圏に最も近い大型離島だったのが、出来てからは四国への単なる通過道になってしまい、今も昔も今一つブレイクしない淡路島。「国生みの島」と呼ばれるように神話に登場する伊弉諾神宮を抱え、「御食国(みけつくに)」と呼ばれるように、海の幸から山の幸まで何でもござれの豊富な食が食べられる島がこういう状態ではまことにもったいない。人生最終盤の終の棲家ならぬ、終の仕事場を得た私の真骨頂を発揮していきたい。(2016・12・2)

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(189)燃えて生きた思い出だけが命に刻印ー志村勝之『こんな死に方を…』老化編を読む➃

生きている人間の体を構成する細胞が瞬時、新たに生まれたり、死んだりを繰り返しているとの科学的事実は凡愚の身においてさえ想像を膨らましてくれる。夜中に目が覚めてしまい、その後なかなか寝付かれないことがしばしばあるが、そういう時はやはり後ろ向きな考えに陥りがち。一方、早朝のウオーキングの際などは沸々とやる気が充満して来る。これって生の細胞と死にゆく細胞の比率に関係するのか、などと思ったりしてしまう。今の一瞬に死を覚悟する生き方をせねば、ということをわが身に言い聞かせる一方、生きて生きて生き抜こうと不老長寿を祈って見たりする。あい矛盾するこの姿勢の共存も細胞の生死に無縁ではないのかもしれない▼先日、ドイツから友人夫妻(日本人)が新たなドイツ人の友二人を伴って来日された。姫路城天守閣に登城したあと、西隣にある好古園に誘った。奥の方にある入口に入った瞬間、赤く燃えたつような紅葉が目に入り、みな思わず「おーっ」「素晴らしい」と声を上げた。一本だけだが見事に紅葉したモミジの木が遠来の友を出迎えてくれた。北陸路から京都、広島を経ての彼らの紅葉狩りの旅路の果てに出くわした姫路のモミジの歓迎ぶり。長く記憶にとどめて頂くようカメラのシャッターを切った。今朝ほども、その庭園からほど近い「千姫の小径」なる堀端を歩くと、幾本ものモミジが見事に紅葉しているのを発見した。カメラを向けている通りがかりの人と「本当にきれいですね」と言葉を交わし、お互いほっこりした気分に浸ったものだ▼我が人生の師・池田大作先生は写真においても卓越した能力の持ち主だが、先日も見事な紅葉の姿とともに、万人の詩心をとらえて離さない言葉を私たちに下さった。「燃えて生きたその刻(とき)だけが色褪せぬ今生人界の思い出となる」と。我が誕生月である11月が来るたびに思うのは、「この一年、燃えて生きてきたか」との自らへの問いかけだ。年々歳々出会う人も直面する仕事も違ってきているが、向き合う姿勢には、わくわくとしたり、燃えるというよりも、よく言えば淡々とこなす、厳しくみればやり過ごすという感が強い。気になる新聞記事やら映像場面やらを、切り抜いたり録画をしたりしても、頭に叩き込むことなく結局は棚ざらしの末に廃棄してしまいがちなことが多い。この人生の思い出となるような明確に命に刻印する生き方をせねばとの思いだけが空回りする▼昨日、志村勝之氏と夕刻から姫路で懇談する機会を持った。定年後のほぼ10年、臨床心理士として日々具体的な心のやまいや悩みを持つ人々と向き合う彼の姿はまぶしいほどに光っていた。彼の個人的な課題(いわゆる悩みめいたもの)はブログを通じて熟知しているのだが、それを包み込む大らかさに感嘆するばかりだった。当方は、衆議院議員を辞してちょうど4年。大学なら卒業の時だし、”石の上に坐る”時期も1年を超えた。日々多くの友との語らいをわが身に課し、新たな仕事に情熱を込めてはいるものの、まだまだ激しく燃えるところまでは至っていない。今日11月18日は、創価学会創立記念日だ。2年後に目標を定め、燃え上がる気概で大いなる出発をしていきたいと心に誓う。(=この章はこれで終わり。次回以降は「忙中本あり」のコーナーから「後の祭り回走記」に移します。2016・11・18)

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(188)没頭できるものを持つ大事さー志村勝之『こんな死に方を…』老化編を読む➂

先日、NHK総合テレビの『プロフェショナル・仕事の流儀』を観ていて大いに考えさせられた。介護ホームを経営する40代の男性の、要介護者の側に徹して立つ仕事ぶり(大概の介護ホーム経営者とはこの人とはかなり違う)と、そこで暮らす何人かの要介護者の前向きな暮らしぶり(大概のひとは後ろ向きに陥りやすい)とが強く印象に残った。後ろから前へと、向きが変わるきっかけは、実はそのひとが”得意とする手作業”をしたことだった。一言でいえば、老化に抗する力は、「腕に覚えがあるかないか」がカギを握ると思った次第である。老化の果てに自分を失い、その極致としてのいわゆる「痴呆症」(今は「認知症」といわないと差別用語。だが、個人的にこっちが分かり易いのであえて使っている)になってしまう危険を救うのは、そのひとをそのひとたらしめている「得意技」を生かすことだ、という風に思わせられた(ということは「得意技」をもたないと危ういことでもある)▼男性の平均寿命が80歳、女性が86歳代といったように長寿が当たり前になってきた今日、老化とうまく付き合う方法が極めて大事になってきた。男性の場合、勤め人生活を終えて定年退職になってからのほぼ20年ほどの間における身の振り方が文字通り死命を決する。”会社人間”であった人ほど、志村氏がいう「志事期」をうまく乗り切れずに、茫然自失してしまいかねない。会社からの解放なのだから、本来はより元気にならねばならないのだが逆の場合が少なくない。女性の場合、特に専業主婦などで、夫が亡くなると、よりきれいになり、生き生きするひとが多いといわれるが、これは「圧政(圧性)からの解放」に成功したケースなのかもしれない▼男も女も死に至る前の一定期間を充実させるには、「得意技」をどう磨くか、あるいは新たに身に付けるかだと思うが、磨き方をめぐって私は生きたモデルが二人いると思う。一人は医師の日野原重明さん、今一人は書道家の篠田桃紅さんだ。共に百歳を有に超えておられるが、ますます盛んなお姿は、「現代日本の老人たちの英雄」に違いないとさえ思われる。このお二人は先年対談をされていたのをNHK総合テレビで観たが、色んな意味で対照的だった。片や理性のひと。方や感性のひと。日野原さんは数年先の日程まで、ことこまかに予定表に書き込んでいる。その歳にして今なお未来に生きる感じだった。篠田さんは明日の予定も書かないし、一向気にもしない風情。ひたすら今に生きるという姿が際立っていた。ともあれお二人は対照的に見えた▼お二人に共通するのは過去を見ないということだろうか。私はかねて物事に集中する時間を多く持つと、そのことに費やした時間はあとで帰って来るに違いないのではないかの仮説を持っている。つまり、我を忘れて没頭した時間は、あとでご褒美として天は恵んで下さる、と言った風に。逆にぼーっとして過ごすとそのひとの持ち時間は削られてしまう、というように。これって全く根拠はなく、思いつきのでたらめなんだが、秘められた確信としてわが体内に宿っている。古今東西の芸術家や優れた科学者らを見ていると、何やら時間を超越した存在が多く、そんな感じがしてならないのである。(2016・11・13)

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(187)様々なる老いの実態ー志村勝之『こんな死に方を…』老化編を読む➁

「老化」について志村氏は二つの側面から紹介し、その実態に迫っている。一つは「心理学的老化物語論」で、老いの「価値・意味・アイデンティティ」を基軸としたものだ。精神科医の神谷美恵子さんの『こころの旅』や心理学者の平山正実氏の『ライフサイクルから見た老いの実相』の中から引用しながら、いずれも「老い」を「美しくまとめようとする」無意識下の共通点を感じるという。二つは、「科学的老化物語論」で、「人間の一生は遺伝的にプログラムされているものの、現実の個々の人生はひとさまざま」だというもの。動物行動学者のデズモンド・エリスの『年齢の本』を紹介しつつ、ひたすら楽しいものだとの彼の受けた好印象ぶりが読む側に伝わって来る。ひとというものは若い頃には、誰しも「老い」に対して、ある種の美化した観念を持ちたがるものだが、やがてそれなりの歳になるとその考えを遠ざけたくなるということではないかと思われる▼この『年齢の本』をここでも紹介したいとの欲望に駆られるが、彼が孫引きしたものをここで引っ張ると、ひ孫引きになるのでやめておく。論語における「30にして立ち、40にして惑わず、50にして天命を知る、60にして耳に従う。70にして心の欲するところに従って矩(のり)をこえず」などといった孔子発のことわざよりとても面白いとだけ。ひとはいにしえの昔より「不老長寿」を夢見て、ありとあらゆる挑戦を繰り返してきた。尤も、最近はいささか違った傾向にある。ひとはあたかも死なないものと思い込んでいるかのごときひとが多いのである。私が厚生労働省に勤めた一年の間に、75歳を「後期高齢者」と位置付けたことで大変な抗議を受けた。75歳過ぎたら死ねということか、と。死への準備をしようと問題提起しただけなのに▼「老化」は、科学的見地からは「細胞」と「個体」の両面から考えらえている。志村氏は、田沼靖一『ヒトはどうして老いるのか』から引用をしながら説明を加えている。いわく、細胞の老化は、プログラム学説、エラー蓄積説、体細胞廃棄説との三つがあるが、三番目のものが最も有力だと。このくだりは丁寧な説明が繰り返されているが、何度読んでも私にはよくわからない。それよりも個体の老化は分かり易い。「老化とは、運動能力、繁殖能力や生理的能力が加齢とともに衰えてゆくこと」であるというのだから▼人間の身体における細胞をめぐっては、「私たちのからだの設計図である遺伝子=DNAは、受精卵から約50回もの細胞分裂を繰り返して、約60兆もの細胞となって私たちのからだを作る」というのだが、その仕組みなど、この歳になるまでいくら聞かされてもわからない。ぼんやりと理解するに至っているのは、わが体内の細胞は瞬時生き死にを繰り返しており、何年か経つと全ての細胞が入れ替わっているということぐらい。では、別人になってるかというと勿論そうではない。それぞれの細胞に同型のDNAが刻印されているからだろう。若い時には、細胞が入れ替わるのだから、今日の自分は昨日の自分に非ず、などと発奮の材料に使っていたものだが、老いて来るとそうはいかない。頑張り過ぎて細胞がすりへってしまわないようになどと、わけのわからない自制することぐらいが関の山なのである。
(2016・11・9)

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(186)老化現象をめぐる個人差ー志村勝之『こんな死に方を…』老化編を読む➀

志村勝之氏の「こんな死に方をしてみたい!」の第二章は、「老化論」である。「生老病死」というひとの一生における、「老と病」は通常順序良くいけば、老いて病となり死に至るというわけだが、ひとによっては、死に至るほどの病が先に来ることもある。かくいう私など22歳にして肺結核を病んで以来、「生病老死」の順で進んできているようだ。彼は70歳になった現在の自分自身の老いにまつわる諸現象を具体的に語る一方、様々な学者や識者の「老い」についての学説を紹介しており、なかなかに興味深い▼「老化現象」をめぐっては、当然のことながらかなり個人差があるように思われる。たとえば彼は眼について、老眼がもたらす不都合を嘆いているが、同い年の私は殆ど気にならない。私は近眼だからだ。早くしてメガネをかけざるを得ず、数多の苦労をしたがゆえか、老いて天は恵みを与えたもうた。近くはいくらでもメガネなしに見えるのだ。本や新聞を読むのにメガネを必要とするひとはひたすら気の毒に思う。また、私は左耳がかなり若い時から聴こえにくい。左側から話しかけられると聞こえず、苦労することが若き日より多かった。しかし、片方しか聞こえないというのは、寝るときに聞こえる方を下にして、つまり横になって寝ると、煩い音が聞こえずによく眠ることが出来るという利点がある。さらに、24歳頃にぎっくり腰を患った私は、ありとあらゆる対症療法をやった挙句に、ストレッチや糖尿病のおかげでやせたうえに運動を日課にしたためか、60歳を過ぎてピタリと腰痛とおさらばできた。恐らくこれから年を経ても腰痛との付き合い方が解ってる分、腰の老いは遅く来るものと思われる▼まだまだ私の体の不都合を挙げるときりがないが、このように、若くして「病」を持った人間は、老いて得をすることもある。少なくとも、あれこれと折り合いのつけ方を知るに至っているから面白い。健康一筋で老いたひとよりも、大げさに言うと満身創痍の方が「老化」を意識するのが遅いのではないか。尤も、喜ぶのはまだ早い。私など肺結核の最中に人生の師から「僕の青春も病魔との闘いであり、それが転じて黄金の青春日記となった。君も頑張ってくれ、君自身のために、一切の未来のために」との揮毫を頂き、感涙にむせび、命の底から発奮したものだが、病魔との闘いはいつなんどき再発するかも知れないからである▼志村氏は、私のような基本的には脳天気でアバウトな人間と違って、「老化」を感じるに当たって、「細胞」にまでその思いを至らせるから凄い。鼻の下の皮膚の隆起から、「皮膚細胞」の衰えだけではなく、脳内の「神経細胞」の衰えを意識するというのだ。自然科学の分野における「老化学説」は「老化学者の数だけある」と言われており、まだまだ定説を持つに至っていず発展途上にある、とも。さらに、心理学者の多くは「老化」というより、「老い」の「意味」や「価値」や「アイデンティティ」を一元的に追い求めることにおいて一致しているとする。つまり、ひとはなにゆえに、またいかにして老いるのかというテーマについて、自然科学における捉え方は千差万別でバラバラだが、心理学の分野では方向は一致しているというのだ。なんだかぐいぐいとひきこまれていくではないか。(2016・11・7)

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(185)冷徹な策謀家と無私なひとの二面性ー原田伊織『大西郷という虚像』を読む➂

第二章で著者は西郷と島津斉彬との関係に焦点を絞る。斉彬は薩摩の10代藩主斉興の長男。異母兄弟で五男にあたるのが久光。斉興は42年もの長きにわたり藩主の座を譲らず、しかもその座を長男・斉彬ではなく、側室お由羅の子・久光に渡そうとしたことからお家騒動に。これが世にいうお由羅騒動と言われるものだが、世代間抗争の側面も持つ。すったもんだの挙句に結局は斉彬が家督を継いだが、比較的早くに亡くなり、結局は久光が登場する。西郷は斉彬を慕い、師事していたためもあり、久光とは全くそりが合わず、徹底して二人の関係は悪い状態で推移する。西郷は生涯を通じて久光との関係に悩まされ続けることになる▼西郷の持つ二つの二面性についても興味深い。一つは、冷徹な策謀家という”悪のイメージ”と、徹底した無私のひとという”善のイメージ”の二面性である。前者は赤報隊というテロ組織的なるものを作ったうえで、幕府を挑発し、鳥羽伏見の戦いを引き起こして戊辰戦争の発端を開かせたことに起因する。後者は、明治新政府の腐敗とその中心者らの権力欲を憎悪しぬいたところが背景にあろう。こうした二面性は歴史上の人物には付きまといがち。最初から最後まで善悪どちらかの色彩が強いというひとは意外に少ないかも。西郷は薩摩独特の郷中という若衆システムの中で育ち、薩摩弁で「大概」という意味を持つ鷹揚さでひとを惹きつけた側面が強い。著者は、最終的に故郷の若者たちに徹して求められたことが彼の人生の波乱万丈の秘密を解くカギになるというのだが▼私はもう一つの二面性に惹かれる。彼の人生を貫く強者のイメージとは反対に、優しい弱者の側面があることだ。最大のものは僧・月照と一緒に錦江湾で入水しようとしたこと。坊さんと海に飛び込んで心中するなどということはおよそ彼の全体的な人間像からは異質に見える。また、島に流された際に現地妻を娶り、後々まで、その睦まじさを語られることなども、いささか彼らしくないと思ってしまうのはこちらの僻目であろうか。こうしたエピソードがもたらすものは、弱者イメージというよりも強運の持ち主というべきことかもしれないのだが▼著者は西郷をして”ただのひと”であることを立証しようとしてかなり苦労している風が見て取れなくもない。その最大のものは、もともと西郷が斉彬の「使い走り」(パシリ)から出発して、後々の地位を得たことを強調していることだ。様々な人脈を知り得るきっかけとなったのはあくまで主君のおかげだということを指摘したいようである。尤も、これとて彼だけに特徴づけられることではなく、大なり小なり誰にでも見いだされることで、そうだからといって西郷を特に低く見ることには無理があるように思われる。これなど政治家の秘書をしてから、その道に入った私など「パシリ」の端くれであるだけに、大いに「それがどうした」といいたくなったのには我ながら苦笑いしてしまう。(2016・11・1)

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(184)大衆の中に死んでいく使命ー志村勝之『こんな死に方を…』を読む(8)

志村氏は「死事期」からのブログの終りの方で、友人たちやその縁者の死の在り様を紹介しており、興味深い。表面上は「孤立死」とか「孤独死」と、他人からは見られるかも知れないが、それはその人の生きてる際の姿を勘案していないからであって、実際は「孤高死」と呼びたいものがあるというのである。生前の毅然とした生き様が自ずとそうさせるものだ、と。加えて自身の母親の死について多くを語っている。要約しよう。彼の母親は94歳で亡くなるまで35年近く「独居」を貫いたが、90歳を過ぎて倒れてからは、不本意ながら「延命治療」によって「飼育室」生活を余儀なくされ、「苦悩に満ちた死に方」をしてしまった。「どうすれば『自分の死』に上手い『折り合い』をつけられるか。そればかりを考えていた、リアリストの母だった」のに、と。母上を「死に方」の「反面教師」としたいとする彼の切なる思いがひしひしと伝わって来る▼ここで、私自身も、母の死が想い起こされる。1917年(大正6年)2月生まれ。生きてれば99歳のはずだが、59歳、還暦を待たずに死んだ。死因は胃がんだった。父が懸命の看病を尽くした。病院のベッドわきに布団を敷き、お風呂にも自ら入れてやった。医師から半年の余命と宣言を受けたときに、父が私に云った言葉が忘れられない。「おい、お母さんが川の向うにドンドン流されていく。どないしたらええんや」と。私は「信仰するしかないやろ。ご本尊を拝もう」と入会を勧めた。「拝めば治るか」「必ず治るよ」「それなら入る。治らんかったらやめるぞ」ー父子の会話だ。時に私は32歳だった。意、天に通ぜず、母は医者の見立て通りに死んだ。父の退転を恐れた。ところが、父は違った。「懸命にお母さんの回復を祈ってくれた近所の学会員の皆さんに申し訳ない」「(お香典やら弔電を下さった)池田先生の真心にもこたえたい」と信仰を続けるといったのだ。「どうせ、わしが死んでもお前ら姉弟4人(私が入会以来、全ていざなった)は法華経を信じて題目を唱えるにきまっとる。そんなら、わしも生きとる間に(浄土真宗から)宗旨替えをする」と明言した。時に父は66歳▼その父の歳をもう大きく超えた。これから先、仮に我が妻に先立たれるようなことになったら、父が母にしたような必死の世話が出来るかどうか。心もとなくあまり自信はない。がんで苦しんで天寿を全うできなかった母の悔しさと、それを機に13年間の信仰を続け、時に「独居」したり、時に私や姉弟と同居して暮らし、文字通り「孤高死」を遂げ、79歳で逝った父。これが私の身近な死のダブル・イメージである。死んだら「空(くう)」に溶け込み、大宇宙の中に融合する。そして新たな機縁を得て、新たな命としてこの世に生を受ける。と同時に、天空のどこかで私を見てくれている父母と、やがて自分が死んだら再会出来る喜びを期待している。このようなあたかも矛盾した気分が偽らざる私の今の境涯である▼「大衆の中で語り、大衆の中で闘い、大衆の中で死んでゆけ」との命題を公明党の議員に師匠は与えられた。死しても大衆と遊離するな、立場はどう変われどもどこまでも大衆の代表だということを忘れるな、という厳しい言葉だと受け止めている。間違っても自分中心の考えにとらわれてはならない。貴族趣味や贅沢三昧な暮らしに憧れるな、と。政治家として、お世話になったあのひと、このひとを始め、市井のなかで必死に暮らす人々の、平和な、安全で、安心な生活を構築するために、身を粉にしてお世話し続けよ、と。これが自分自身に与えられた使命ー文字通りいのちの使い方であると、戒め続けている。(この章終り。以下続く=2016・10・31)

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(183)直観、内観的な方法の偉力ー志村勝之『こんな死に方を…』を読む(7)

元外交官にして今を時めく大作家・佐藤優氏の『地球時代の哲学 池田・トインビー対談を読み解く』はまさに覚醒の書である。かつて彼が一外務事務官であったころに面識はあったが、今日の彼の”知の巨人”ぶりは、片鱗さえ知る由もなかった。彼の『創価学会の平和主義』なる新書に、私の衆議院時代の委員会でのある発言が取り上げられている。これを要するに『論語』の「過ちては則ち改むるに憚ること勿れ」を実行した私を、創価学会の持つ文化的風土の角度から紹介してくださっているのであって、私的には特段褒められたことではない。これもまた恥ずかしい限りのことではある。その佐藤氏が今では、『池田大作 大学講演を読み解く 世界宗教の条件』や、小説『人間革命』や『法華経の智慧』などを材料に、立て続けに「池田思想」を丁寧に高く評価しておられるが、その先陣をきったものがトインビー氏との対談『二十一世紀への対話』である▼私がこの対談を改めて自覚的に読んで啓発を受けたところは、枚挙にいとまがない。特に西洋の哲学は主に人間の意識を取り上げているが、それは人間精神の一部にしかすぎず、無意識の領域にメスを入れない限り、生命の全体像は浮かび上がってこないとされているところを挙げたい。そしてトインビー氏と共に、池田会長は「科学における偉大な発見が、偉大な芸術家のひらめきと同様、直観であるのは不思議な事実です」「意識現象の検討から下される深層心理への類推よりも、インド的な、内観的な方法のほうが、正しい認識をもたらす可能性があるというのは、十分に説得力のある主張です」と述べられ、直観、内観的な方法を推奨されている▼そして佐藤氏は「内観とは、時間や空間の次元を超えた、物事の本質を瞬時に、言語化、論理化することなしにとらえることだ」などと解説を加えながら、対談の深い理解へと読者を導く。「理性万能主義は人間を不幸にする。目に見えず、耳に聞こえない、われわれの世界を成り立たせている本源は、直観によってしかとらえることができない」と池田会長が強調していることを紹介。「トインビー氏も池田大作氏が説く『直観の哲学』に知的触発を受け、議論を深めていく」といった描写ぶりには胸躍るものさえある▼もう一昨年のことになるが、志村氏と一緒に電子書籍での対談『この世は全て心理戦』(キンドル)を出版した。これは彼の心理学への薀蓄をかたむけて貰った面白い本だ。私が尊敬してやまない姫路市の元医師会長の石川誠氏がこれを読んで、「志村さんというひとの心理学への造詣ぶりは凄いね。興味深くて一気に読んだよ」と褒めて下さった。その中で、私が先ほども触れたように、日蓮仏教の方法を述べたことに対して、志村氏はこう述べている。「お題目をもって、ご本尊をしっかりと拝んでその境地を得ようとする。それによって、宇宙根源の法を内奥から顕在化することを目指す。これもひとつの観想、瞑想修行になると思うなあ。同じ言葉を大きな声で繰り返していくときに、必ず『変性意識』が現れてくる」「『宇宙根源の内奥』に迫るまでの道筋が解らないから、理屈が好きなオレには何とも言えないところがあってね。その先にはどういうプロセスがあって、果たしてそこに何があるのかな?って」ーこういう彼の言い分、疑念に対して、私はこう応じている。「ある一定の線までは理屈で解っても、そこから先は、動かしがたい体験をつかむということで、信ぜざるをえないのだね。『宇宙根源の内奥』を把握するメカニズムは、理屈での説明よりも実感的会得でしかないというのが、信仰生活50年の結論だね」、と。ここには、理屈を積み上げて考える普通の人間と、直観、内観的世界に浸ってきた宗教的人間との交じり合わない実態が色濃く出ている。興味持たれる向きはぜひ対談電子本を読んでいただければと思う。(2016・10・30)

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(182)成仏の根源の法はどこにあるかー志村勝之『こんな死に方を…』を読む(6)

お題目(南無妙法蓮華経)をご本尊に向かって唱えることが、どうしてすべての源泉になるのか。悩み苦しんだ時も穏やかな時も、嬉しいときも悲しいときも、仏壇に向かって正座して拝むことがすべての原点だー様々な機会に師匠から教わった。また身近な先輩たちからも陰に陽に助言を受け、また私自身がやがて後輩たちに伝えるようになった。紙に書かれたものでしかないものに向かって唱題することが、なにゆえに偉大な力をもたらすのか。単に自身の変革だけではなく、他の存在にもその影響を及ぼし、やがて周りの社会変革、そして国家から世界の改革へと繋がっていくのか。50余年の信仰の中で、私は現実にあらゆる難問に直面してきた。それらを一つひとつ失敗もしながら、それなりに解決をして、この答えを体得してきた。つまり、一つはわが身の動かぬ体験から。今一つは納得せざるを得ない哲理の展開を知って▼初信の頃に手にした書物にはこうあった。「南無妙法蓮華経の御本尊は、大聖人が万人に仏界が具わるという法華経の経文上に説かれた教えを深く掘り下げて、文底に秘められていた成仏の根源の法そのものを直ちに説き示し、私たちが現実に成仏するために実践できるよう、具体的に確立されたものです。御本尊は、凡夫の私たち自身の仏界を現実に映し出す明鏡でもあるのです」、と。ここでいう仏界とは人間としての最高の境涯を指す。成仏とは、ひとが死んでからいわゆる「仏様」になることではなく、生きている中での「最高の人格者」になることであろうか。わたし風には「能動的な覚悟者」と言い換えているが。「成仏の根源の法」「明鏡」とされる南無妙法蓮華経の御本尊とは、ひとの命の奥底に内在するものを具象化したもので、それはまた宇宙に遍満するリズムとも一致すると理解している▼仏教では、眼、耳、鼻,舌、身という五つの感覚器官を五識とし、その器官の作用を統合するものとして第六識の「意識」を考えている。そして、さらに、第七識として末那識、第八識として阿頼耶識を位置付けている。末那識とは深い思考をする理性的な意識をいい、阿頼耶識とは更にその奥にあって人間生命の仕組みを見極めようとする精神の働きと言える。大乗仏教では当初そこまでで終わっていたが、天台仏教では、第九識として、それまでのあらゆる精神の働きを生かす本源としての心の実体を、阿摩羅識(根本浄識)と名付け、新たな展開をしていった。日蓮仏教ではそれを「九識心王真如の都」と誠に劇的な表現がなされる。御本尊を信受する人々の胸中御深くにあるこの部分こそ南無妙違法蓮華経そのものだ。唱題をすることによって、いわばこの部分が共鳴し、力が発現される。自身という主体も、またそれを取り巻く客体も、その影響をうけざるをえない。それが起因となって、自身の幸福から始まり、全ての環境の好転へつ繋がっていく。この辺りの仕組みについては、池田SGI会長と英国の歴史学者・アーノルド・トインビー氏との『二十一世紀への対話』〈1975年)が極めて参考になる。▼トインビー氏が「人間精神の意識下にある淵底の究極層とは、じつは全宇宙の底流に横たわる”究極の実在”とまさに合致する」といい、それに対し池田会長が「第九識の根本浄識とは、個々の生命の本源的実体であるとともに、宇宙の生命と一体となったものであるとされています。また、前にもふれましたが、博士のいわれる”究極の精神的実在”は、仏法でいう宇宙の森羅万象の根源たる大生命ー宇宙生命ーにあたると考えられます」と応じている。「宇宙の根源」こそ、すなわち南無妙法蓮華経だと確信する。対談が行われた時点で、老いた西洋の名だたる歴史学者と東洋の若き日蓮仏教のリーダーとが交わした対話の深い意味について、私は表層的な捉え方しか出来ていなかった。この価値を十二分に知るに至ったのは、ごく最近のこと。しかもそれは、れっきとした異教徒の書いた解説書がきっかけ。思えば恥ずかしい限りである。(2016・10・29)

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