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(181)「関ヶ原」の怨念がすべてのエネルギーー原田伊織『大西郷という虚像』を読む➁

西郷隆盛という人物像を原田伊織氏の著作にそいながら順次明らかにしていきたい。まず、第一章の「火の国 薩摩」。著者は西郷を語るには薩摩を語らねばならず、それには「薩摩おごじょ」からだとして、串木野のママさんといういかにもきっぷのいい女性を例に挙げて語り始める。まずこのくだりが実に読ませる。私の衆議院議員事務所の初代事務員は、鹿児島の名門・鶴丸高を出てお茶の水女子大に学ぶ才媛だったが、いわゆる「薩摩おごじょ」には程遠いながら心優しい女子学生だった。既に40代半ばになってるはずの彼女も、今では立派な「薩摩おごじょ」になってるに違いない▼「薩摩」と来れば、薩摩芋、薩摩揚げと並んで「薩摩隼人」が思いつく。武に富み、猛々しい特性を指して「隼人」というようだが、この地域には言葉そのものに「武」に関する言葉から転化したものが多い。敵が一騎も来ぬうちに、直ぐに、迅速にという「いっこんめ」という表現やら、同じく敵が太刀を振り下ろす前にとの意味合いを持つ「たちこんめ」といったものを挙げている。「武」にまつわる色濃い風土から、西郷や大久保利通、黒田清隆、大山巌、東郷平八郎らが育った。私の故郷・播磨の風土はあまりそういうものとは無縁だ。時に応じて「最近の鹿児島には薩摩隼人はおらんなあ」と、皮肉を込めていったものである▼「肥後と薩摩」の章は、熊本と鹿児島の関係を考えるうえで役立つ。関ケ原で豊臣方についた「島津」は、艱難辛苦に耐えてそれこそ命からがら薩摩に逃げかえった。以来、「『薩摩隼人』の軍事上のターゲットは、一貫して肥後の熊本城であった」として、「肥後を討たずして薩摩隼人の戦とはいえない」と薩摩の人々の心の奥に潜んでいるものを明かしている。「大東亜戦争なんか、アータ、小さな戦じゃったよ。西南戦争に比べれば……」と『街道をゆく・肥薩のみち』で司馬遼太郎氏に語る老婆の言葉ほど「西南の役」の凄さを語ってるものはないという。こうした記述は、播磨人からすれば、遠い異国のできごとのように聞こえる▼「妙円寺詣り」という行事は、薩摩がなぜあの時代に先頭をきって倒幕に走ったかを考えるうえで、極めて示唆に富む。これは「毎年『関ケ原』の前夜(9月14日)、鹿児島照国神社から島津義弘の菩提寺、伊集院町の妙円寺まで、甲冑に身を固めて片道20キロ、往復40キロという道程を夜を徹して歩き、参拝する行事」を指す。これに対して原田さんは「辛酸をなめた関ヶ原の怨念が、倒幕にせよ、雄藩連合の主役として徳川に取って代わろうと企図したにせよ、幕末の薩摩を走らせたエネルギーではなかったか」と言う。このあと、長州の例も挙げ、薩長いずれにとっても「関ヶ原」は倒幕に動く、深く沈殿していた大きな心理的要因であった」とする。この辺り、「赤穂浪士」の伝統を今に引き継ぐ播磨との比較考察は「日本史」を学ぶ上で格好の材料ではあるが、薩摩でも、播磨でも、往事を偲ぶというよりも、今では「妙円寺詣り」も「義士祭」も単なる観光行事と化しているものと思われる。(2016・10.27)

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(180)「無から有」でなく、生じるのは空からー志村勝之『こんな死に方がしてみたい!』を読む(5)

私が50年余り前の創価学会の座談会で入会を迫られて即座に決意したのは、幾つかの理由があった。最大のものは人間が生まれながらにして不平等なのはなぜか、という疑問を解決したいと思っていたからである。日蓮が「(不幸の原因は)誤れる宗教にある」と断じているとその場で初めて聴いて、どうしてそういう結論に導かれるのか知りたいという欲求が強く沸いてきた。星雲の志を抱いて上京してきた19歳の若者は、何でも旺盛に吸収したいとの願いを持っていたが、いきなり日蓮仏教が眼前に立ちはだかったのである。これを断る積極的な理由はなかった。座談会が終わって、志村の下宿先の4畳半の部屋で一枚の煎餅布団に二人して横たわった時に、彼はこう訊いてきた。「お前、創価学会に入ってこれから南無妙法蓮華経って拝むんか」と。「いやいや。勉強するだけや。まあ、本を買うたつもり」と答えたことを文字通り昨日のように覚えている▼あれからの長い長い歳月、実に色々な体験をしてきた。途中回り道はしたけれど、結局はずっと拝んできた。この間、常に頭から離れなかったのは、「死後の生命のゆくえ」であり、「南無妙法蓮華経とご本尊に向かって唱えると、幸せになれるのはなぜか」っていうことであった。最初の頃、大学生時代だが、出会う幹部に片っ端から訊いてみた。「解りたければ、折伏をしながら、拝むんだね」「読書百遍、意自ずから通ずるというじゃないか。それとおんなじ。(本を読むようにして)解るまで、〈何回も、何万遍も)拝むんだよ」といった答えが専らだった。主に、1965年から1969年までの4年間というもの、友人を次々と折伏した。勿論、日蓮仏教の真髄である生命哲学を懸命に学んだことは言うまでもない。だが、その間に、あろうことか「肺結核」になってしまった。「入院一年」を慶応病院の医師から宣告された。自宅療養で題目を遮二無二唱え、悪戦苦闘の末に発病から十か月ほどで乗り切ることが出来た。しかも有難いことに闘病の最中に池田先生(SGI会長)から直接激励を受けるという福運に恵まれた▼そういう体験の細部は追々語ることにして、ここでは、人間の生命は死ぬといったん空(くう)に溶け込むという、日蓮仏教の捉え方について少々述べてみたい。断るまでもないことだが、志村氏のように自分の頭で苦労しながら考え抜いた所産ではなく、この道の先達から教えられたことが出発点にある。一番初期の頃に私が出くわしたのは創価学会第二代会長の戸田城聖先生の「生命論」だった。「現在生存するわれらは死という条件によって大宇宙へととけ込み、空の状態において業を感じつつ変化して、なんらかの機縁によってまた生命体として発現する。かくのごとく死しては生まれ生まれては死し、永遠に連続するのが生命の本質である」(戸田城聖全集第六巻)。当初、にわかには分かりかねたが、その後の流れの中で、いわゆる「永遠の生命」なるものがイメージとして、じわり分かってきた気がしている▼溶け込む対象としての「空(くう)」ってなんだろうか。国語辞典に当たると、「空」は、その場を満たすもの(実体)がない状態をいい、「空」こそあらゆるものの本来の姿であるという仏教の基本的な考え方をさす、と。仏教語辞典を見ると、色々と説明があったすえに、「空」の分類・解説は限りないほどある、と付言してあった。目に見えるか見えないかで「有と無」は分かれるが、目には見えずとも、形ある物質を生み出す原因となるものは存在する。つまり、「無から有を生じる」というが、厳密には、何かが生じた場合は、もとは「無」ではなく、「空」であったということだと私は思う。何だかはやくも観念的な領域に入ってきてしまった。(2016・10・27)

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(179)死ぬと「無」になるとの「恐怖」ー志村勝之『こんな死に方がしてみたい!』を読む(4)

ひとがどのような死に方をしてきたかということには、もちろん私も大変に興味がある。我が兵庫・但馬が生んだ異色の作家・山田風太郎に『人間臨終図巻』なる著作があり、古今東西の著名な人物たちの死んだときの様子がそれぞれの年齢ごとに並べられている。十代で死んだ八百屋お七、大石主税、アンネ、森蘭丸、天草四郎らから始まり、二十代、三十代がまとめられた後、三十一歳から九十九歳までは個別に挙げられ、再び百歳代は、野上弥生子、泉重千代らがまとめて登場する。私は自身の誕生日が来る度に、その年齢のくだりを読むことにしている。今年はもうすぐ71歳の誕生日を迎えるが、この歳の項は近松門左衛門以下26人が挙がっていて、全年齢を通じて最も数が多い。いよいよ危険水域にはいったということだろう▼2005年から1年間だけ、私は厚生労働副大臣(小泉内閣の最後の組閣)を拝命していた。まさにこのときに「後期高齢者医療保険制度」が作られた。辻哲夫事務次官(現在は東京大特任教授)を中心とする厚労官僚が叡智を結集し、自公政権として世に問うたものだが、ネイミングの響きから評判が良くなかった。辻次官と私は75歳を超えればひとは自身の人生の終え方を考えるべしとの意見で一致していて、本質的な部分では巷の批判など意に介していなかった。後に毎日新聞紙上の「発言席」欄(2008・8・10付け)に寄稿文(「骨格の変更は許されない」)が掲載され、思いの一端を述べたものだった。制度の意味合いの重要性もさることながら、仮に75歳を「死事期」の始まりと思う人々が増えたなら、持って瞑すべきだと誇りにすら思っている▼志村氏は、哲学者の中島義道氏(元東京電気通信大教授)の著作を、ご自分の心理カウンセラーの仕事のうえで参考にするとされ、しばしばブログでも引用されている。私は彼の著作は『人生を「半分」降りる』『孤独について』くらいしかまともに読んでいず、論評する資格など持ち合わせていない。だが、彼が若き日に哲学を志しながら、大学教師の生活を続ける中で、いつの日か真に「哲学すること」から遠ざかってる自分を発見した時には人生の終盤にさしかかっていた、との記述にはいたく共感した。それゆえ「人生は半分降りろ」っていうアドバイスをまともに受けてしまった。その結果が今の私の体たらくだということは笑うに笑えない話ではある▼それはともかく、志村氏が中島さんの死に対する恐怖について書いている文章の引用は私にとっても興味深い。「6歳の頃から50歳を超えた現在まで『死ぬのが嫌だ!』と心のうちで叫びながら過ごしてきた。その理由はしごく単純明快で、死ぬと(たぶん)まったく『無』になってしまうのだろうが、それが無性に恐ろしく・虚しく・不可解だからである」として、これを「宇宙論的恐怖」だと位置づけている。中島さんはこの「恐怖」をある意味バネにして、今や「戦うヘンクツ哲学者」の異名を欲しいままにし、数多の本を書いて著作料を稼がれているわけだから、何でも徹するということは凄い。志村氏は、「私には『死』のことを観念的に突き詰めていく能力が、幸か不幸かなかったから」、「『哲学病』にはかからず、『悩み』にどう上手く対処するか、ばかリを考える『カウンセリング・オタク』になってしまった」と自嘲気味に述べている。これはまた、私のような人間からすると、「へえー、そうなんだ」と大いに感心する対象となる。私は、死については、恐らく「無」になるのではなく、「空」に溶け込むのだから、いわゆる「恐れる」べきものではない、との日蓮仏教的捉え方をしてきたからである。(2016・10・24)

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(178)定評が根底的に覆される面白さー原田伊織『大西郷という虚像』を読む➀

つい最近のこと。「靖国神社に西郷隆盛や新選組、白虎隊などを合祀すべき」だとして、石原東京都知事らが申し入れをしたことがニュースで報じられた。西郷がいわゆる「賊軍」とされてきたがゆえに、「明治維新」を通じて「官軍」側に依拠する同神社に祀られることは難しい、とされてきた。西郷隆盛をめぐっては様々な見方があるが、今の時点で大筋は明治維新を導いた大功労者であり、勝海舟とともに江戸城無血開城を実現させた真の英雄であるという見方が定着している。ところがそんな見方に大いなる疑念を向ける本が出た。原田伊織『大西郷という虚像』である。以前にも取り上げた同じ著者による『明治維新という過ち』『官賊と幕臣たち』に次ぐ第三弾。共に知的興味を惹きつけてやまぬ大いに満足できる内容だった。三部作シリーズはこれで完結するというのでむさぼり読んだのである▼世に定まった見方を根底的にひっくり返すというのは何であれ興味深い。既に井沢元彦氏による『逆説の日本史』シリーズも世に出て(現在22巻が既刊)、大いなる反響を得ているように、深く静かに「逆説」なるものは浸透し続けている。ここでの「正説」は明治維新によって日本の近代は始まり、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允らの功績は大だというもの。いわゆる薩長史観に基づくものだ。一方、「逆説」の最たるものは、それら薩長の行動は所詮は「テロリズム」であり、「反幕のクーデター」に過ぎない。江戸幕府を構成した官僚たちの優位は動かず、「維新政府」が結局は今日の日本の低迷をもたらしたというものである。いやはやここまで正反対だと、爽快感さえ漂ってくる▼「はじめに」で著者は、「官」と「賊」を往復した維新の巨魁との見出しをつけている。「維新最大の功労者として『大西郷』の名を以て幕末維新史に君臨する西郷隆盛の飾りを排した実像に迫り、その真意を問いかける」という。西郷が薩摩の人間でありながら、薩長「維新政府」に満足せずに結果的に「官」と「賊」を「往復」したがゆえに、分かり辛さが付きまとう。著者は「大西郷」を「虚像」と断定するのだから、自ずとそのスタンスははっきりしているのだが、「それでもなおかつ」微妙に遠慮している風が垣間見えるところは面白い▼先日、私が尊敬してやまない姫路市の元医師会長と懇談した。私は以上に述べたような指摘を踏まえたうえで、同氏の西郷観を問うてみた。一言で言えば、様々な変遷を繰り返す西郷の人生のどこを拾い出し、捉えるかで評価は自ずと分かれるというものであった。残念ながらその答えは、ありきたりで満足できない。たとえば、豊臣秀吉のように前後半でくっきりと分かれる人物なら評価もしやすい。しかし、西郷は禍福ならぬ正反「あざなへる縄のごとく」に見えるがゆえに、その全体を貫き底流に流れるものを見定める必要がある。片や「南洲翁遺訓」と褒め称えられ、片や単なる「軍(いくさ)好き」と位置付けられるーこの本を読み解きながら、どちらにより真実があるかを見極めてみたい。(2016・10・21)

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(177)死期が分からないからこその延命ー志村勝之『こんな死に方がしてみたい!』を読む(3)

私は若き日の一時期に憧れた死に方がある。好きな音楽(ベートーベンの第五交響曲「運命」あたり)をめいっぱいに鳴らしながら、ウイスキー(ビールやお酒、まして焼酎ではない)をしたたかに吞みつつ酩酊気分の絶頂で死にたい、と。ある作家のいまわの際に居合わせた担当記者の回顧談で読んだことの影響だ。だが、真面目に考えるとすぐわかることだが、そのタイミングが難しい。これから死ぬということが分かっていればいいが、大概はそうではない。だとすると、年中音楽を鳴らしたうえでアルコールを吞んでなければならない。死期がいつか分からないからこそ、ひとは延命をし、出来る限り生き抜こうとする。未だ寿命があるのに、見切りをつけるのはもったいないにもほどがあろう。それが客観的にジタバタして見えようがどうかは関係がないのである▼志村氏は、好き勝手に生きてきたご自分の姿をしきりに強調され、だからこそ好き勝手に死にたいということを繰り返す。その考え方に影響を与えた興味深い一冊の本を挙げられている。アメリカの知能心理学者・スタンバーグの『思考スタイルー能力を生かすもの』である。スタンバーグは、「個人の能力」を生かす大きな要因として「思考スタイル」なるものを見つけ、➀立案型➁順守型➂評価型を基軸としての三つの尺度だとしている。既存のルールに従うより、自分なりのルールを創り出すことが大好きなのが、立案型。その反対に、定められたルールに着実に従うことが大好きなのが、順守型。三番目の評価型は、ルールを創り出すのも、従うのも好きではなく、ルールを吟味することが好きだという。志村氏は自分が立案型だとし、様々な実例を挙げつつ、読者に何型か判定するよう迫っている▼私は紛れもなく評価型だと自認する。志村氏は立案型は評価型にストレスを感じ、両者は対極関係にあるという。尤もそう絵に描いたような分け方は出来ず、お互い重なり合っていると思われるのだが。恐らく彼が立案型のご自分を強調されるのは、いかなる大組織にも属さず、大きな物語にも影響されずに、自分で描いた生き方と死に方を勝手気ままにしていきたいとの意思に呼応するからだろう。その伝で行くと、私など大きな組織に属しながら、常に個人としての振る舞いに関心が趣く。同時に、大きな物語にこよなく捉われながら、同時に小さな自分だけの物語にも惹かれるという両面性を持つ。つまりは、常に「評価」をし続けているわけだ▼なかなかスタンバーグは面白いし、そこに着目した志村氏もなかなかだ。私はこの連載を読みつつ、志村氏を評価しながら自分をも評価し、最終的には自分の生き方と死に方をめぐる葛藤に結論をもたらしたいと思っている。70歳にもなって何をいまさらと言われようが、そこは「古希ン若衆」なのだから致し方ない。(2016・10・21)

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(176)上手く死ぬためにどう対応するか―志村勝之『こんな死に方がしてみたい!』を読む(2)

志村勝之氏のブログ「こんな死に方がしてみたい!」の第一章「死事(しごと)期から」は、全部で9回分(昨年の7月17日から8月4日まで)。ここではまず、彼は人生のスパンを5つの「しごと」期に分ける。いわく、始事期→司事期→仕事期→志事期→死事期である。彼のこのブログは、「新・隠居カウンセラー日記」と名付けられたHP上のコーナーにある。名称が示すように彼のブログ公開は長い歴史を持っているので、彼の持論である5つの「しごと」期なるものは、長年の愛読者にとっては自明のものだろうが、そうでないものには分かりかねる。これは彼としては珍しく不親切な記述の仕方だが、おおよそは、次のようなものだろう。始事期とは、ひととしての事始めの時期であろうから、誕生から幼年期をさすものと思われる。司事期は、社会人になる前の、つまり学校時代であろうか。そして仕事期とは文字通り仕事をする時代。イメージ的には会社での定年までの時間ということであろう。次の志事期は、定年後の暫くの時期に、ボランティアであったり、趣味を生かしてのなんらかの社会的貢献をしようとする試みの時代をさすものと思われる。そして最後の死事期は、文字通りいかに死ぬかを考え、準備する頃を指すものと思われる▼この着想はなかなかに面白い。あまり志村氏はひとの評価を気にしないひとだが、ここは、高名な医学者が彼の「死事期」という着想に、「やや皮肉をこめて」、「死事期ですか。これは恐れ入りました」と、インタビューをした際に述べた言葉を披露している。私にはこれは彼の自尊心を精一杯くすぐったものとして聞こえてくる。実は、このインタビューとは、彼が50代半ばになって、サラリーマン生活をしながら臨床心理系の大学院に入り、修士論文(「定年クライシスをチャンスに変えた男たちの成功事例研究」)を書くにあたって、5人(ある団体が論文募集をした際の受賞者から彼が抽出した人たち)に対して試みたもの。直接的には、志事期の生き方が対象となっており、今回の彼のブログは以下、死事期を対象にして縦横無尽に語っていこうとしているわけである▼さて、彼のいう「死事」とは、「決して『死』の事ではなく、「『上手く死ぬ』ための対応事」だという。何だか分かり辛い。普通のひとは、要するに「死」について四の五のいうのだろう、と思ってしまう。だが、彼は「死」を観念的にあれこれひねくり返すのではなく、どのような死に方をすれば「快適に」死ぬ事が出来るかをリアルに表現しようと言うのである▼一言で結論を訊いてみよう。いったい、貴方はどんな死に方がしてみたいんだ、と。志村氏は「手遅れ死。孤高死。自然死」だとキーワードを三つ挙げている。これは、「延命、孤独(孤立)、自死(自殺)」の三つと対極にあるものだろう。私風に解釈すれば、「死期が近づけばジタバタせずに従容として死を受け入れよう」ということに相違ない。こういってしまえば、なあんだ、と思われる向きが多かろう。しかし、これがなかなか難しい。(2016・10・17)

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(175)この道一筋50年の心理学研究の所産ー志村勝之『こんな死に方がしてみたい!』を読む(1)

志村勝之のブログ『こんな死に方がしてみたい!』をこれから随時取り上げていきたい。彼が1年かかって書き綴った12パートの読み物を一か月ごとに区切って彼の主張を紹介しながら、それに対比して私の考えを披露していこうという試みである。何しろ彼は筋金入りの心理学研究のひとで、その道一筋50年といってもいい。単なる研究者という域にとどまらず、文字通り「臨床心理士」という立場を縦横無尽に生かしながらひとの死を考え抜いた。その所産がこのブログだが、実に読み応えがある▼本当は皆さん彼のブログを読まれることをお勧めするが、時間もお暇もない向きは、私のブログを通じて彼のおおよその考えは分かるようにしていくので、それでも間に合うと信じる。ともあれ彼のように「ひとの死」を真正面から取り上げて論じていった本はあまり目にしたことがない。いや、そこは私の浅学の故で、この世には数多の同種の書物があると言われる向きは多かろう。では訂正しよう。志村のように、あらゆる角度から「死」を考えた末に繰り返しを厭わずにブログという形態でこの思考経過を表明したひとは恐らく彼が初めてではないか▼志村勝之とは何者か。追々語っていくことになるので、ここでは詳しくは触れない。一橋大で、社会心理学の泰斗たる南博教授に師事していらい、心理学に心酔し50年あまり。今では「浪花のカリスマ臨床心理士」の名を欲しいままにしている(というのは私の勝手だが的を見事に射抜いた見立て)とだけ言っておこう。私とは神戸市の中学校で一緒に学んだ仲。お互い違う高校で過ごした3年間と1年の浪人生活の合計4年の空白の後に、東京は中野で再会。というか、彼の中野での下宿先を頼って私が神戸から上京してきたわけだ▼そこで図らずも二人は創価学会の座談会にでることになり、彼の下宿先のおばさん(小学校の教師)に折伏されることとなった。で、私は即刻その場で入会を決意し、彼はそれを断った。いらい、51年半の歳月が流れた。その間に勿論、幾たびかの交流はあった。最大のものは彼が後に妻としたひとを私も憎からず思っていた時期があったことだろう。そして私が40代になって間もなく政治家の道をこころざし、結果的に「失われた40歳代」と私自身が自虐的に規定するような落ち着かなく騒がしい季節の到来で、迷いを生じたときにいつも惜しまぬ激励をしてくれた。そんな二人が古希を迎えた直後に、彼が綴ったブログは実に衝撃的であった。ここまで彼が「死」を考えていたとは思わなかったからだ。そして、これはある程度は想像はしていたが、ここまで彼が私と正反対の方向を向いていたとは驚くほかなかった。(2016・10・14)

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(174)迫りくる老いと死に立ち向かうー津野海太郎『百歳までの読書術』など

この夏に忘れ物を幾たびかしてしまった。何れも新幹線やバスといった乗り物の中で。一度は、姫路駅での改札口で切符を出す際にないことに気づいた。二度目は家に帰る途中で新幹線の中にアイパッドを忘れた。そして三度目は、バスの中に携帯電話を置いたままにしてしまった。いずれも最終的には手元に戻り事なきを得たが、あれやこれや大騒ぎをしてしまい、面目ないこと夥しかった。更にもっと酷かったのは、戸外でメガネを外してどこに置いたか分からず往生したことだ▼家人からは「もうこれからは首に巻き付けておいたら」とか、「次はいのちを落とさないようにね」と呆れられ、「そろそろ痴呆症ね」と真剣に懸念されている。そんな折も折、津野海太郎『百歳までの読書術』を読み、勇気づけられるというか、慰められた。この本は73歳の著者が自身の読書にまつわる日ごろの思いを書き綴ったものだが、そこは同世代、自ずと色々共感する場面が登場するのだ。最も同意したのは「六十代は過渡期に過ぎない。五十代と七十代のあいだでなんの確信もなく揺れているやわな吊橋みたいなもの」という表現。そう、私も還暦が過ぎてまだまだ若いと思っていた間に、10年が経って七十代に入って、一気に老いを感じるようになってしまっている▼山田風太郎『人間臨終図鑑』は、誕生月が来るたびに紐解く書物だが、近ごろその衣鉢を継ぐ新たなる書物に出くわした。関川夏央『人間晩年図巻1990-1994』である。前者は古今東西の歴史上の人物を死亡年齢順に集めたものだが、後者の方は90年代前半(後半は別に)に亡くなった人々の死にざま、生き方をコンパクトにまとめたもの。ついでに90年代がいかなる時代であったかがわかる仕掛けになっており、なかなかに読ませる印象深い本である。34人が登場するが、私より年上は 9人だけ。同い年で逝ったのは乙羽信子と吉行淳之介の二人。後は皆年下というのはいかにも寂しい▼というわけで、このところ改めて「生と死」を否が応でも感じさせられている。19歳で信仰の道に入り、50年余。途中、政治家生活にどっぷりつかってしまい、回り道をした感が強いが、引退して4年。そろそろ信仰者として完全復活をせねば、と思っている。そういうさなかに、畏友・志村勝之(カリスマ臨床心理士。電子書籍『この世は全て心理戦』の対談相手)がこの一年かけてブログとして書き綴ってきた『こんな死に方がしてみたい!』が完結した。自身の頭と心で考え抜いた手強い本である。同時代を生きた男が渾身の力を込めて書いた「生死論」であり、「死に方研究」でもある。とてもこれは見過ごせない。これから私も一年近くかけて彼の本を読み解き、自分なりの「生死論」と「死に方」ならぬ「生き方研究」をものしてみたいと思うに至っている。(2016・10・6)

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(173)面白すぎてやがて悲しい後味の悪さーP・ルメートル『その女アレックス』

久しぶりに犯罪推理小説を読んだ。「このミス」を始め4つのミステリーランキングで第一位を取り、史上初の6冠に輝く今年最高の話題作という。ピエール・ルメトール 橘明美訳『その女アレックス』。大学でも政治家としても先輩の日笠勝之さんから、ぜひ読むといいよと頂いた。このひとは知る人ぞ知る山本周五郎ファン。あまりこの分野は好きではなかったのではとの印象が強かったが。猛暑も終わり、秋の夜長に何を読もうかという向きには絶対的なお勧め▼推理小説についてはその中身を話してはルール違反だとは自明のことだが、この本のカバーにはわざわざ「読み終えた方へ:101ページ以降の展開は誰にも話さないでください」とある。パリの路上で若い女(アレックス)が誘拐され、目撃者の通報を受けて警察が捜査に乗り出す。3部構成で、各部ごとの章が25、25、11頁と、一章あたりの分量が短い。第二部までは、章ごとにアレックスと警察の視点が切り替わる方式。このテンポの速さが凄く読み易く、加えて鬼気迫る。そして圧倒的にアレックスの視点の方が、息が詰まり手に汗握るのだ。ばらしてもいい100頁の最後は、こんな感じだ。素っ裸の身体を折り曲げた状態で小さな籠状の檻に入れられた彼女は衰弱する一方。それを虎視眈々と狙うのは人間ではなく、ネズミだ、と▼かなりの面白さなのだが、読み終えての印象は後味が悪い。陰惨極まりい殺し方もあるし、ひとつひとつの殺しの場面が唐突で脈絡がない。要するに意味なき殺人だとしか思えない展開の仕方なのだ。それが最終部で一気にどんでん返し的な収束の仕方をするのだが、どうもストンと落ちない。読み終えて数日が経つが未だすっきりしない。読み終えたもの同士で語り合いたいが、身近にいないのが残念だ▼主人公が145㎝ほどの小柄な男で、脇役が大男とか太ってるとか対照的な人物が登場する。あるいはかなり高額の衣服や装身具を身にまとう洒落男と、正反対に貰い煙草や貧乏ぶり丸出しの徹したケチぶりの男だとかが対比するかのように描かれ、ユーモラスだ。高名な画家であった主人公の母親の遺作の処理やら彼の絵に対する嗜好など思わせぶりに書き込まれているが、特に話の主題には最後まで関係してこない。こんなことでいいのかなあと思わないでもない。英国推理作家協会賞受賞というのだが、そこいらは英国に、フランス的なるものへの憧れがあるのかなと邪推さえしてしまう。そして、私のような素人には327頁の最後の行から次の頁の数行の書き方が納得いかない。もっと技巧が凝らされた書き方でないと読者は簡単に騙されるだけだ、と。お勧めだといいつつ、あれこれとケチをつけてしまった。読むものをしてアレックスをグイと好きにさせながら、この結末は何だと怒りが沸いてきたからかもしれない。(2016・10・1)

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(172)妥協の産物ゆえの分かり辛さー細谷雄一『安保論争』を読む➄

現代の安保論争にあって欠けている視点は大きく二つあるとの著者の指摘には同感だ。一つは、伝統的な見方、もう一つは新しい見方に起因する。前者は「力の真空」がもたらす危険を見逃しがちだという点。軍事力が均衡している状態の方が安定し、そのバランスが崩れたときに一気に戦争への機運が高まるというのは、いにしえからの常識だが、なかなか一般的には理解されない。一方、かつての「国家対国家」の紛争の対立の枠組みが今や消えかけ、国際テロ組織が簡単に国境を超えてしまう点だ。たとえば、アフガンは今やタリバンとISにいいように翻弄され、国家は今やズタズタにされてしまっている▼こうした時に、集団安全保障的思考をなおざりにし、一国平和主義的なものの見方に凝り固まっていると、世界の中で孤立するとの指摘は極めてまっとうだ。特に国連平和維持活動にあって、駆けつけ警護を旧来的な日本独自の集団的自衛権の考え方によって避けてきたことは問題だった。だからこそ、その辺りを見直した今回の安保法制を多くの国々が好感を持って迎えたことも見逃せない。「反戦平和」なる旗印が特殊日本的な響きを持ってることを、当の日本人があまり分かっていないのである▼また、国連で日本が米国に対して決して従属的な態度はとっていないとの指摘は意外だった。国連総会で日本がアメリカと同調した態度をとったのは67.2㌫で、同盟国では最も低いというのだ。これを見る限り、アメリカの要請に日本が断り切れず、戦争に巻き込まれてしまうとの論法は「必ずしも公平とはいえない」という著者の主張は新鮮である。自国政府の態度に自虐的過ぎるぐらい不審を持つというのは考えものであろう▼最終的に今回の安保法制論議で問題視されるのは、政府の説明不足に加えて「安保法制懇の報告書、内閣法制局の憲法解釈の法理論、自民党、公明党の間の与党協議、そして防衛省、自衛隊からの具体的な要望と、様々な要素を融合させて、妥協的に合意したことに、(分かりづらさの)大きな理由がある」というが、さもありなんとの思いが私にも強い。とりわけ、自公両党の協議内容は大ぴらに公開してほしかった。党首討論なり、担当者間の公開討議でもやって、両者の主張の食い違いを鮮明にした方が、より分かり易くなったのではないか。この辺りは今からでも遅くないから、検証がなされる必要があるものと思われる。ともあれ、安保論争は持続的に続けられていくことが大事で、この本はそうした営みの糸口になるに違いない。(この項終わり 2016・9・18)

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