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(5)本格的な法華経研究者の登場に大いなる期待 ──植木雅俊『仏教、本当の教え』を読む

 現役時代の終わりのころと記憶する。仕事を通じて知り合ったある大学の教授と懇談している際に、その方が僧職も兼務されていることを知った。それをきっかけに、仏教談義となった。やり取りの最終段階で、彼はやおらカバンから植木雅俊『仏教、本当の教え』を取り出して、「この本凄く分かり易くて面白いですよ」と推薦された。驚いた。

 この時とほぼ相前後して、日経新聞の文化欄に作家の安部龍太郎氏が、自著『等伯』についての執筆余話の中で、植木氏のことに触れていたのを発見した。法華経に関する部分(長谷川等伯は法華経の信者)は彼の指南に負うところが大きいと知った。仏教、なかんずく「法華経に造詣の深い安部龍太郎」が頭に焼き付いた。いらいこの作家を注目するに至っている。

 通常の給与生活者としての仕事の傍らの研究・翻訳作業で、深夜までの作業の連続は30年に及んだという。恐らく今は40歳前後になったはずの娘さんが、高校生の時に「私は、生まれてからこの方ずっと、父親というものは、仕事から帰ってくると勉強するのが当たり前だと思ってきました」との作文を書いたことをどこかのコラムで紹介していた。奥さんや義父に漢訳の書下ろしやコンピュ―ターへの入力作業を手伝ってもらったことなど、家族総出の姿が涙ぐましく微笑ましい。

 この人の人物像に迫るには『思想としての法華経』の序章を読むに限る。学問というものにどう迫るか、自分の頭で考えるということはどのようにすればいいかが分かってくる。法華経とは何なのかということ──それは前掲の『法華経』下の末尾にある解説が手引きとなる──とは別に、若い人たちがそれぞれの道に進むに当たり、参考になる実践法がそこはかとなくくみ取れる。

 さて、21世紀の世界に生きる人間の進むべき方途が、仏教に明かされているとの指摘は特に目新しくはない。ただ、かの梅原猛氏に代表されるように、西洋哲学及びそれと表裏一体のキリスト教への必要以上の遠慮やら敵愾心が相俟って、一般的には共有されるに至っていない。植木氏の出発点は、仏教の教えが間違って捉えられているのではないかとの問題意識だった。「北枕」の例(私たちの世代は親から縁起が悪いとして教えられた)など文化的誤解の幾つかをあげ、いかに仏教の本質的理解を妨げているかを示す。確かに、信仰の対象としての仏教を取り巻く事態は霧の中であるという他ない。相当な知識人であっても、こと仏教に関しては(宗教全般にいえることだろうが、特に)疎い人が殆どだ。西洋哲学に強い関心を持つ学者が、私との会話の中で、法華経なるものは、現実とはかけ離れた荒唐無稽なおとぎ話的なものの羅列だと思えてならないと言っていた。残念ながら思想、哲学としての仏教、法華経は殆どと言っていいほど人口に膾炙していないのである。

 こうした状況を前に、植木氏は「思想としてとらえ直した時、新たな意味と価値が見いだされる」として、文明の衝突が危惧される今日、「『法華経』の止揚の論理、寛容の思想がもっと注目されていい」と強調する。ほぼ50年に亘って法華経、なかんずく日蓮仏法を実践してきた私にとって、我が意を得たりと、共感する。同時になまかじりの身には「日暮れて道遠し」を実感せざるをえない。様々な意味で覚醒もさせられる刺激的な「植木ワールド」の展開に心ときめく思いがする。

 『仏教、本当の教え』は、副題に「インド、中国、日本の理解と誤解」とあるように、比較文化論に主力が注がれている。日本の仏教といっても間口は滅法広い。この書では、親鸞や道元、日蓮の漢訳仏典の読み替えという興味深いテーマに触れているものの、それぞれの宗派の比較などには頁をさいていないのは少し物足りない。日蓮の思想に関しては、「日蓮が言うのは、今現在という瞬間に、生命の本源としての無作の仏の生命をひらき、智慧を輝かせる。そこに、瞬間が永遠に開かれる」とか、「仏教が志向したのは、<永遠の今>である現在の瞬間であり、そこに無作の仏の命をいかに開き、顕現するかということだったということを日蓮は主張しているのであろう」などといった「時間論」に触れるに留まっている。『思想としての法華経』にしても同様だ。この次には日蓮仏法に迫ってもらいたいと思ってきた。NHKの『100分de 名著』に「日蓮の手紙」で実現したことは嬉しい。

 

★他生の縁 驚嘆するほかない努力家

 植木雅俊さんは、インド思想、仏教思想論やサンスクリット語を、中村元先生のもとで学んだのちに、男性として初めてお茶の水女子大で人文科学博士号を取得。また2008年に『梵漢和対照・現代語訳 法華経』上下2巻を完成し、毎日出版文化賞を得ました。驚異としか言いようのないとてつもなく凄い努力家です。

 コロナ禍前に京都と大阪で開かれたNHK文化講座に私は参加して、数ヶ月にわたって月一回2時間ほどの植木講義を受けました。不躾な私の初歩的な質問にも丁寧に答えていただいたことが忘れられません。その後、NHKの『100分で名著』シリーズに二度も登場され、「日蓮仏法」に肉薄されていることは周知の通りです。

 

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【3】人間中心主義がもたらす弊害について

「われ思う、ゆえにわれあり」との言葉とセットになって、デカルトの『方法序説』は、ヨーロッパにおける近代合理主義の出発を意味する書物だということはあまねく知られています。しかし、そのことが歴史の流れのなかでどういう意味を持つのかとなると、もう一つ良くわかりません。これまで私がぼんやりと捉えていたものは簡単に言えば、次のようなものです。

まず、近代合理主義って、一体何でしょうか。反対語を考えると、「中世非合理主義」となりますから、少しははっきりとします。中世と言えば、キリスト教が圧倒的な力を持っていた時代で、その教えたるやおよそ理屈に合わない、つまりは非合理なものの考え方が跋扈していた頃です。そうした古い遅れたものを打ち破って出てきたのが近代合理主義っていうことなんだろう、と。で、それをもたらしたものは、デカルトがすべてを疑い続け、否定し抜いてなお残るものとして、そうしたことを考える、疑う自分自身の存在は確かだというのです。要するに、考えない人というものは自分がない、すなわち人間というものは、関西風に言えば、考えてこそなんぼのもんやちゅうわけです。

ところで、人類の歴史のなかで、幾つかの文明は栄枯盛衰を繰り返し、今は見る影もないものが少なくないです。例えば、メソポタミア文明やインカ文明などがあげられましょうか。それに比べて、今日まで生き続けているのが西欧文明ですね。古代ヨーロッパにおける、ソクラテス、プラトン、アリストテレスらによるギリシャ哲学に支えられてきたといえます。ところが、途中でキリスト教との確執がありました。その結果、中世スコラ哲学に主役の座が取って代わられました。そのことがデカルトが登場する頃に、学問が混迷と煩雑さを招いたと考えられます。

デカルトは『方法序説』(谷川多佳子訳)のなかで、自らの哲学を述べる一方で、学問の方法について簡単明瞭に提起しており、きわめて興味深いものがあります。直観、分析、総合、枚挙といった、学問をするうえでの四つの方法や、ものごとは穏便に処せ、選択に当たっては迷うな、自分の欲望にうち勝て、との生きる上での三つの法則(格率という言葉が使われていますが、少しなじみませんね)を掲げています。当時の時代状況の中でこれほど平易な形で生き方のコツを述べた人はおよそ珍しかったのではないでしょうか。読んでいて一気に親しみを感じてしまいます。この辺りは、あまたの人々を導くよすがとなってきており、遅れて生きる我々にとっても大いに参考になります。

ところが、めぐり巡って今や、近代合理主義は評判が良くありません。その限界が声高に叫ばれているんですね。なぜそう言われるのか、文中を探してみました。「われわれをいわば自然の主人にして所有者たらしめることである。このことは、たんに大地の実りと地上のあらゆる便宜を、やすやすと享受させる無数の技術を発明するために望ましいだけではない。主として、健康を維持するためにも望ましいのである」とのくだりがそれにあたると思います。つまり、これって、他の生き物や自然を支配するために人間を至上の存在とする考えですよね。一言でいえば、人間中心主義。今日の環境破壊、滅びゆく大自然の元凶とさえ指摘されています。

ですけど、デカルトの登場前の世界っていうと、人間は大自然に翻弄され、振り回されることがしばしばだったんですね。生活を豊かに、健康で過ごすうえで、立ちはだかる自然をコントロールする必要が人間の側にはあったことを、今の時点で誰が否定できるでしょうか。結局はデカルトも‘’時代の子‘’だったといえますね。そのことを裏付けると私には思える記述があります。旅をしていく中で気づいたというくだりで、「同じ精神を具えた同じ一人の人間でも、子供の時からフランス人やドイツ人のあいだで育てられると、中国人や人食い人種のなかでずっと生活してきたのとは、どんなに違った人間になることか」ー訳者の注によると、人食い人種とは、アメリカの原住民をさすとあります。彼が生きた時代は17世紀半ばゆえ、無理もないといえましょうが、中国人と並列して書く神経はなかなかのものです。

いまでこそ反自然だといってデカルトを批判したり、近代合理主義への攻撃の矢は向けられますが、これは最近のことであって、かつては「デカルトの自然学が古代や中世の自然学に対する長所は、こうして人間を自然の支配者たらしめたところにあります」(澤瀉久敬『思想の英雄・デカルト』)といった捉え方が常識的なものでした。

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