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【347】3-⑤「新型コロナ禍」を10年前に〝予言〟━━高嶋哲夫『首都感染』

◆カミユ『ペスト』と小松左京『復活の日』に並ぶ

 この本の存在を知ったのはテレビである。新型コロナウイルスの恐ろしさを理解するために、との触れ込みでカミユの『ペスト』、小松左京の『復活の日』と共に紹介されていた。直ちに読んだ。まさにライブで現場中継を見ているように、ノンフィクションを思わせる凄まじい迫真性溢れる小説である。

 サッカーのワールドカップが中国で行われ、その観戦に世界中から40万人もの人々が集まっているちょうどその時期に、雲南省で強毒性のH5N1型の鳥インフルエンザが発生したとの設定。中国政府当局が発生の事実を隠したために、それぞれの自国に帰った観客によって一気に感染は世界中に拡大した。時は、20××年というが、まるで2020年のニューヨークを始めとする世界各都市のいまとダブって見えてくる。

 全身が鬱血し、身体中の臓器から出血し、血を吐いて死んでいくとの描写は勿論、今現実に起こっていることとは相違する。また、日本にあっては感染者がほぼ首都東京のみに集中し、それゆえ封鎖することで、全国に被害が波及拡大することを抑えようとする設定も違っている。だが、それ以外は多くの点で類似していて、気味が悪いくらいである。こんな小説を書く人物って、どういう人だろうと疑問を抱いて読み終えたのだが、成毛眞(書評サイトHONZ代表)の解説を読んでまた驚いた。

◆日本の課題の未来予測を小説で次々と的中

 この人は、阪神淡路大震災、中国でのSARS、東日本大震災の前に、『メルトダウン』『イントゥルーダー』『M8』『TUNAMI 津波』『ジェミニの方舟 東京大洪水』などといった小説を発表しているのだ。しかも、順序は大筋当たっている。つまり、それぞれの小説の後に、現実の災害があたかも対比するかのように、起こっているのだ。今回の新型コロナウイルスの蔓延は、この小説が書かれた10年後、少し間隔があいているが、成毛さんが言うように「じつは小説家ではなく、予言者なのではないか」との見立てもあながち絵空事とも言えないようにさえ思われる。少なくとも「天災を忘れさせないための警告の書であり、それ以上の災害が起るかもしれないという未来のノンフィクションでもある」とはいえよう。

 この小説、それだけではない。感染拡大に伴うロックダウン、首都封鎖といった緊急事態に人がどう対応するかに、ハラハラどきどきしながら読み進める中で、つい見落とされがちだが、親と子の抱える普遍的な問題についても、政治家、医者とその子の有り様を巡って考えさせてくれる。〝愛と死〟のテーマにも挑んでいるのだ。また、主なる登場人物の死という問題が発生しないと、小説としてはどうだろうか、と思っていたら、終わり近くに大きく浮上してくる。しかも、その結末たるや、意外などんでん返し風のことがオチとして登場する。加えて、劇的効果が見られるワクチンについても用意されており、救いもある。

 ステイ・イン・ホームが声高に叫ばれている今、色んな意味で読むにふさわしい小説である。と、書いたのちに驚いた。なんと、著者は私の身近に住んでおられたのである。私が友人と共に毎月一回神戸・北野坂で開催する「異業種交流会」の場で初めて会った。いらい3年ほど。ずっと親しくさせて貰っており、その著作も次々と読むに至っている。彼の他の著作を読んだ後に、現実が奇妙な展開を見せ符合してきた。

【他生のご縁 尽きることなき想像力と創造性】

 神戸市の垂水に今、高嶋哲夫さんは住んでいます。ここは私が昭和30年代初頭に通った中学校のある街です。この人は岡山県の生まれで、岡山駅近くにある文学館に独自のコーナーを持つほど、著名な作家となりました。先年ここを訪れ、その多彩な作品が陳列されているのに驚きを覚えたものです。ここで掲げた本以外にも私は『紅い砂』『首都崩壊』『EV』などの読後録を書いてきました。今の時代における根源的な課題に次々と挑戦する姿勢には政治家の端くれとして、心底から敬意を抱いています。

 つい先日も、異業種交流会で一緒したのですが、会うなり『乱神』上下2冊を贈呈してくださいました。これは日蓮在世の鎌倉時代を描いた歴史小説です。その領域の幅広さに改めて感心してしまいます。理系の人らしい自然科学への深い知見に基づく論旨展開には、読むたびに新たな気づきをいただくと共に、情報蓄積に役立てています。

 その仕事の奥深さに比べて、今一歩読者の数が多いように思われないのは何故か。口の悪い共通の友人が、流行小説に必須の濡れ場がないからだとか、女の描き方が弱いとか好き勝手なことを言っているのを聞きます。その側面はなきにしもあらずと思いますが、それを補ってあまりあるほどの、時代予見能力が彼の作品には、溢れています。

 ご本人は、データを積み重ね、分析すれば自ずと結論が導かれる、予言などという見方は当たっていないといわれます。政治家にもっと読んで欲しい、が口癖です。小説と共に、その作品のエッセンスを論考としてまとめたら、もう少し読まれるのでは、と私は勝手に想像しているのですが。

 

 

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(346))百年後のトルコの恩返しと日本の理不尽さー門田隆将『日本遥かなり』を読む

今から35年前、1985年イラン・イラク戦争の最中のこと。在イラン邦人が危険な状態のテヘランから脱出したくとも日本から支援機が来ず、どうしようもなかった。その危機的状況の中で、トルコがトルコ航空の旅客機を出してくれ、自国民よりも優先して、日本人たちを脱出させてくれたーこの歴史的事実について、私は朧げながらの記憶しかなかった。しかも、その事実の背景には、トルコという国の国民的記憶の中に、百年ほど遡った頃に起こった出来事(エルトゥール号遭難事件)が深く関わっていたということはまったくと言っていいほど知らずにきたのである。本当に恥ずかしい限りだ▲その事件とは、和歌山の串本大島沖で、今から130年前の明治23年(1890年)に起きた。オスマントルコ帝国の親善使節一行約600人が乗った木造フリゲート艦が遭難、沈没したのである。行方不明者587人。辛うじて69人が付近住民の手で救助された。後にこの生存者たちは日本の二隻の軍艦によって母国に送り届けられた。このことがトルコで今なお語り継がれ、串本町でも5年ごとに追悼式典が行なわれている(今年は130周年の式典が6月に行われる予定と聞く)。この二つの出来事は勿論、直接の因果関係はない。しかし、日本人が19世紀末にトルコ人救援に懸命の力を注いでくれたことが、20世紀後半のトルコ政府要人を動かした。そしてトルコの世論もそれに呼応したことは紛れもない事実だ。このあたかも恩には恩で報いる美しく得難い行為を、私は門田隆将『日本、遥かなり』を読むまで知らなかった。呑気なものである▲門田氏はあとがきで「国際貢献の最前線で懸命に活動する『日本人群像』」を描きたかったと述べている。具体的には、テヘラン脱出を始め、湾岸戦争時の「人間の盾」(1990年)、イエメン内戦からの脱出(1994年)、リビア動乱からの脱出(2011年)という、合わせて4つの「邦人救出」をめぐる物語が展開される。これら4つの物語に共通するのは、海外において活動する自国民のいざという危急を要する場面で、日本政府が救援の手を差し伸べず、他国に委ねてきたという事実である。そのことをわかりやすく、読むものの感性に訴えるかたちをとるために、トルコ人の日本人への「恩返し」に触れ、その原因となった明治日本の「こころ」と対比させた。読むものをして感動させずには置かない▲しかし、なぜ、邦人救出がまともに出来ないという理不尽なことが続くのか。門田さんは、自衛隊の最高幹部の一人・元統合幕僚会議議長の折木良一氏にその辺りについての生の声を聞きだしている。折木氏は、平成11年(1999年)の自衛隊法改正で最初に一部改正に手がつけられてから、その後の経緯を丁寧に説明されている。そこには「政治の不作為」への愚痴めいたこと、批判らしきことは一切ない。むしろ、抑制を利かせた表現で、事態は一歩ずつ前進していると、政治への評価を下す。政治家の端くれとして、これは返って耳に痛い。先年の「安保法制」によって、自衛隊が邦人救出での任務妨害を排除するための武器使用が初めて認められるようになった。「画期的ともいえる改正」がなされたのだが、結局は「武力行使の一体化」の恐れが災いして「事実上、(邦人救出)行使は不可能」なのである。政治の責任は大きい。私は現役時代に、護憲派の意識を憲法の縮小解釈だとして批判してきた。拡大解釈を非難する前に、縮小解釈の非を顧みるべきだ、と。それにしても、改めてこの本を読むことで問題の所在がハッキリする。四つの物語のうち、後半の二つは私が現役時代に起こった事件であるだけに、責任なしとしない。(2020-4-16)

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(345)7つの国はどう危機を乗り越えたかージャレド・ダイアモンド『危機と人類』上下(小川敏子、川上純子訳)を読む

「危機と人類」というタイトルは、世界中がコロナ禍で喘ぎ、必死の対応を余儀なくされている現在、飛びつく思いがするほどうってつけだ。しかし、この本の出版は少し以前に遡る。それを知った上で読んだ。これまでJ・ダイアモンドの本はそれなりに齧ってきたが、正直なところ、いまいち私にはグッとこなかった。恐らくそれは取り扱われた材料が現代の国家、経済社会と乖離があったように、〝浅読みの私〟には思われたためだと思う。しかし、今度の『危機と人類』は、「危機を突破した7つの国の事例から、人類の未来を読む」もので、興味深い記述の連続であるだけに、極めて読みやすい。ただし、残念なことに、危機の原因として「感染症」が真正面から取り扱われていない。これは致命的な欠陥ではないが、大いに不満を持ってしまう▲俎上に乗った国は、フィンランド、日本、チリ、インドネシア、オーストラリア、ドイツ、アメリカの7カ国である。この選択には決定的な理由はないようだ。強いて言えば、彼がかつて住んだことがあったり、学問研究の上で興味を持った国々だということである。上巻で言及した4カ国は、2つづつ対になっている。前の二国(フィンランドと日本)については、共に周辺各国とは大きく違う言語を持つ国で、外敵の脅威からもたらされた危機をどう乗り切ったかが共通する。後の二国(チリとインドネシア)は、共に独裁的指導者を持った国であるが、内部の破壊原因にどう対処していったか、という切り口が同じである。ただし、フィンランドはソ連(ロシア)一国との長きにわたる因縁関係が主たるテーマ(このくだりは圧巻)。日本は東洋の後発国家として、西洋列強との闘いが主題(これは平板)である▲また、下巻のオーストラリアは英国との主従関係の変遷が描かれ、ドイツは自らが巻いた災いのタネをどう摘み取っていったかが明かされている。アメリカは現代世界の先駆を行く国として、〝これからの危機〟が問われており、強く引き込まれた。とりわけ、アメリカにおいて、合意をするための妥協が近年出来にくくなっているとの指摘には考えさせられる。トランプ大統領の登場を待たずとも、共和、民主の両党の間の亀裂は相当に深刻なことは想像できよう。分断は深く、広くこの国の前途を危うくしている。また選挙の投票率が大きく落ち込んでいる状態が続いていることも。アメリカのすぐ後を追う傾向の強い日本の明日の姿を見るようで他人事とは思えない▲しかし、新型コロナウイルスが蔓延する状況の前と今では、全く「人類の危機」という視点が違って見える。読んでいて、ここで扱われていることは、どうしても今は切実感を伴わないのである。第二次世界大戦以来の危機とも言われる事態の中で、大きな課題の一つは、民主主義と独裁主義との軋轢であろう。共産主義独裁という国家的形態を持つ中国が感染症を押さえ込む上で効力を発揮するのか。民主主義の自由が結果的にウイルスの自在を許すことになるのか。例えばこうしたテーマが、今再びの暗い影を地球の前途に投げかけてきている。著者は、人類の危機を歴史的に分析する手立てとして、個人的危機と国家的危機の両面を挙げる。それぞれの帰結にかかわる要因として12のポイントを上げており、興味深い。その手法を生かしながら、新型コロナがもたらす自分自身の危機と日本の危機を考えるよすがにしたい。(2020-4-11)

 

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(344)21世紀の危機としての感染症ー『中央公論』4月号特集を読む

新型コロナウイルスのパンデミックがこれからどういう展開をしていき、人類はこれにどう立ち向かっていくか。まさに固唾を飲む思いで、人々は日々の感染症の広がりに恐れを抱いて推移を見つめており、新聞やテレビでの報道や特集では、今そこにある危機への対応が取り沙汰されている。勿論それも重要だが、もっと深く大きな視点から、文明の推移との関連といったものに目を向ける必要を説いた論考を読んだ。中央公論4月号の特集『21世紀の危機?瀕死の民主主義と新型肺炎』である。ここでは、10本もの鼎談、対談、論考、インタビューが掲載されているが、そのうち、冒頭の鼎談『疫病という「世界史の逆襲」』と山本太郎『感染症と文明社会』を取り上げたい▲双方共に、文明社会に生きる人類と感染症との戦いを世界史に立ち戻って検証する一方、これからを展望している。まず山内昌之、本村凌二、佐藤優の三氏による鼎談から。共通の認識は、過去の感染症が歴史的転換点になってきたということである。感染症の蔓延によって、あたかも「ビフォア、アフター」のように、大きく違った世界の姿が現出してくることもありうるとしていることが興味深い。ここで語られていることの中核の一つは、イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリが『ホモ・デウス』で、人類は飢饉、疫病、戦争を克服しかけており、その結果、「AIとバイオサイエンスの融合によって、一部の人間が神のような力を持つようになる」との仮説の行方である。もし、今回の新型コロナウイルスとの戦いの結果如何では、仮説通りの「暗澹たる未来」になるか、それとも疫病に打ち崩された〝惨憺たる未来〟になるかの〝地獄の選択〟となるかもしれないのである。願わくば、ウイルスに打ち勝つと同時に、恐怖の未来社会が現実化することもごめん被りたい▲山本太郎氏は、長崎大の感染症研究の専門家だが、「なぜ、ある感染症が流行するのか。これまで私たち研究者は、その原因を一生懸命考えてきた。しかし、どうやらその考え方は「逆」ではないかと近年思い始めている」との、極めて印象的な筆運びをしている。つまり、結果として「ヒト社会のあり方」がパンデミックで変化するのではなく、むしろその社会のあり方がパンデミックを性格付けるのではないか、というのだ。というと、今回の新型コロナウイルスは、今の社会のあり方から必然的に生まれたということである。すなわち、密閉、密集、密接の「三密」が揃いやすい社会だからこそ生まれた、感染症だということになろうか▲鼎談で注目されるもう一つの論点は、中国をどう見るかである。今回の事態の発生源になったことで、中国という〝AIによるデータ帝国〟の前途に暗雲が垂れ込めたと見るか、それとも結果次第では、「独裁の強み」が再評価されるかもしれないとの見方の対立である。私は前者の見方に与する。中国は恐らくどうあろうとも我田引水的主張を押し通すに違いないだろうが。また、山本太郎氏は「流行した感染症は、時に社会変革の先駆けとなる」としているが、それは「独立した事象として現れるわけではなく、歴史の流れのなかで起こる変化を加速するかたちで表出する」という。ということは、今既に我々の周りで起こっていることに、これからの社会変革のヒントがあるということだろう。さて、それは何なのか?目を凝らし、耳を澄まして考えていくしかない。(2020-4-1)

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(343)どう生きてどう死ぬか、自戒の日々ー佐藤優の『希望の源泉 池田思想❷』を読む

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(342)6-① ユニークな外科医の只ならざる提案━━邉見公雄『令和の改新 日本列島再輝論』

◆再び日本を輝く国にするための数々の提案

   今から25年ほど前だったろうか。赤穂に大変ユニークな病院長(赤穂市民病院)がいると聞いて、会いたくなった。当日その人は下駄の音も高らかにやってきた。背広に下駄。お顔には長い顎髭。いでたち佇まいからして大層変わっていた(当時は白髭でなく赤ひげに、私の目には映った)。以来、様々の場面でご指導、ご鞭撻を頂き、お付き合いを重ねてきた。誰あろう、つい先年まで全国自治体病院協議会会長(現在は名誉会長)を務めていた邉見公雄さんである。

 その彼の『令和の改新』なる本を読んだ。一読、日本を再び輝く国に変えたいとの溢れんばかりの心情が伝わってきた。笑いと涙なしには読めない。面白くてためになる、深〜い本である。改めてこの人の凄さを思い知った。日本の行く末に関心を持つ人びと全てにとって必読の書だと思う。

 邉見さんは、この本の中で多くの貴重な提案をされている。それは第一章と巻末の「平成こぼれ帳」に集中。この中から私が勝手にベスト5を挙げてみよう。第一に、子供が選挙権を得るまで、母親に子供の数だけ投票権を与えること(父親は誰の子かわからないこともあり外すとのこと)。第二に、中央省庁の地方移転。46道府県に少なくとも一つの政府機関を置くことから始めるべし、と。一番急がれるのは、気象庁の沖縄移転。第三に、皇室の分居。高松宮家は高松に、常陸宮家は常陸水戸に、秋篠宮家、三笠宮家は奈良に、秩父宮家は秩父に。こうすることで、首都直下型地震の備えになる。第四に、国民皆保険制度と憲法9条を和食より先に世界文化遺産にすべき、と。どちらも世界に冠たる珍しさが輝く。第五に、“ふるさと医療〟の提案。心ある医師が僻地や離島に行き、一週間でも一ヶ月でも診療に行く仕組みを作りたい。いずれ劣らぬユニークで貴重なアイディアである。

◆無理筋の豪快な提案ベスト3

 一方、これらとは別にかなり無理筋と思われる豪快な提案もされている。ベスト3を挙げよう。第一に、もう終わってしまったが、東京オリンピックの中止をあげていた。東京一極集中を更に強める二度目の開催ではなく、トルコ・イスタンブールに譲ることでの悲願の五大陸開催に繋がる選択をすべきだった、と主張されていた。日本でやるなら、東北合同とか広島、長崎合同開催の方がインパクトが強かった、とも。第二に、リニアモーターカーの中止。〝ゼネコンのゼネコンによるゼネコンのための大工事〟は、発展途上国向けのショーウインドウであり、「21世紀の無用の長物」間違いなし、と。第三に、原発を廃止し、自然エネルギー発電に国民全体で取り組むべきであり、地震や津波に安全なところはどこにもない、と。オリンピックはともかく、リニア、原発も改めて立ち止まって考える必要がある。

 第二章は医師(外科医から病院経営)としての「自伝」の趣き。破天荒な活躍の中に、胸詰まる失敗談も挿入されていて極めて印象深い。人情噺としてこれ以上は望めないほどの〝栄養源〟が詰まっている。第三章は、日本病院団体協議会(日病協)の立ち上げや、中央社会保険医療協議会(中医協)での活動などを巡っての「回顧録」の風がある。総じて、ご本人は、遺言のつもりとして書かれたという。全編に漲る強い信念と大確信の所産であることがビシビシ伝わってくる。医療に従事する人はもちろん、全ての患者さんに読ませたい。日本中の医院の待合せ室に置かれることを望む。

 ただ、読点が極めて少ない分、当初は読みにくさがいささか付き纏う。だが、読み進むにつれて、著者独特のリズミカルな文章展開と分かって、もうクセになりそう。政治家、物書きの端くれとして、邉見さんの提案や生き方に心底から眩しさを感じる。こういう人こそ厚生労働大臣に、いや総理大臣になって貰いたかった。

【他生のご縁 日々交流を深める医の巨人】

 この本の出版の直後にコロナ禍が起こりました。全国自治体病院協議会の会長を辞されたとはいえ、邉見さんは八面六臂の活躍をされました。中でも、『看護師が見た!新型コロナウイルス』の緊急出版は二冊に及んでおり、そのスピード感はただならざるものがありました。ここには、医療関係者のリアルな声が満載されており、貴重な証言集になっていました。

 第一弾のは、病院長ら幹部クラスで現場からの遠さが否めなかったのですが、第二弾は現場の看護師さんが多く登場され読み応え十分でした。中でも、県立尼崎医療センターのO看護師さんの報告は胸打つもので、感動しました。地元兵庫の人なので、探し出して交流ができたのはとっても嬉しいことでした。

 邉見さんは、拙著『77年の興亡』の読書評を『公私病連ニュース』(3-1号)の「一冊の本」なるコラム欄に取り上げてくれました。これはなんと、直木賞作家や著名な文豪のものと3冊併記で、「看板に偽りあり」でしたが、恐らく私のものを単独で取り上げるには憚れるものがあったのでしょう。思わず苦笑。贅沢は言えません、ありがたくおし頂いたしだいです。さらに第二弾の『新たなる77年の興亡』も、引き続き同ニュースに掲載されました。

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(341)3-⑥ 虚実ない混ぜあの手この手の小説作法━━諸井学『神南備山のほととぎすー私の新古今和歌集』

◆ヨーロッパ・モダニズム文学を先取りした「新古今和歌集」

 鎌倉時代の初期に後鳥羽院のもとに6人の選者たちが集められて編纂されたのが新古今和歌集(そのうちの一人藤原定家が百人の和歌を一首づつ集めたのが「百人一首」)というわけだが、これまで殆ど無縁できてしまった。そこへ、姫路の同人誌『播火』の同人・諸井学さんが『神南備山のほととぎすー私の新古今和歌集』なる本を出版したというので、読んで見た。

 彼の作品は『種の記憶』『ガラス玉遊戯』の2冊を読み、既に読書録でも紹介してきた。その後、『夢の浮橋』という題で、和歌文学の真髄に迫る素晴らしい論考を同人誌上で三回に渡り連載され、今も続行中である。私はこれに嵌っており、この度の新刊(過去に同人誌で発表したものを再編成)にも、深い感動を覚えている。毎日新聞の書評欄に推薦をしたことで、私の入れ込みようが分かって頂けよう。

 諸井さんの主張は、新古今和歌集は、ヨーロッパのモダニズム文学の手法を800年前に先取りしていて、「世界に先駆ける前衛文学である」ということに尽きる。この本は年譜を冒頭におく奇策を講じる一方、長め短め取り混ぜ、凝りに凝った手法を講じた12編の小説が並ぶ。どこから読むか迷う。四番目の「六百番歌合」が語り口調もあって読みやすい。そこでは、「春の夜の夢の浮橋とだえして峰に別るる横雲の空」という定家の傑作を噛み砕いており、そのくだりが圧巻である。

 一見、春の歌に恋の世界を重ねただけの単純な情景を歌ったものと、受け止められる。しかし、その背後には、漢籍における物語詩や故事を踏まえ、源氏物語の最後の巻を連想させるという企みがうかがえる、と。著者は「この連想による複雑化、そして『春の夜』『夢の浮橋』『峰』『横雲の空』と断片をちりばめるフラグメントの技法は、まさしく現代のモダニズム文学の手法」だとすると共に、「たった三十一文字の短詩の中に、定家は詰めるだけ詰め込みました。T・S・エリオットなど足元にも及ばぬといったら言い過ぎでしょうか?」とまで。

◆『後鳥羽院』との時空を超えた対談の妙

 著者のこの文学的スタンスは、丸谷才一のものと共通する。表題にある「神南備山のほととぎす」(第9話)は、この著作のメインストーリーでもあるが、実は〝師を乗り越えた弟子〟の趣きなしとしない秘話となっている。簡単にいえば、第8代の勅撰集となる新古今和歌集が完成の直前になって、過去の7つの中に重複しているものがある(山部赤人作が『後撰和歌集』の中に)と判明。さてこの誤りをどう取り扱うかという話を小説仕立てにしたものである。

 実はこれ、丸谷才一『後鳥羽院』が創作のきっかけとなった。この本は初版と二版で大事なところの記述が違っているという。初版での「詠み人知らず」が二版では「山部赤人」に、更に「古歌集」が『赤人集』にすり変わっているのだ。これに諸井さんは気づいた。彼はそれを後鳥羽院との時空を超えた対談という驚くべき形式で、事細かに明らかにしているのだ。「初版の言説を第二版で翻しておきながら、そのことをどこにも断っていない。極めて不誠実です」と手厳しく後鳥羽院を(勿論、現実的には丸谷才一を)責めているのである。未だ読んでいない人にこのあたりは小むづかしく聞こえよう。著者にとってはここが肝心要。まさに鬼の首を取った感なきにしもあらず。(だから、勘弁してあげてほしい)。

 諸井さんはこの本において、呆れるほど様々な実験的手法を試みている。「六百番歌合」は私も知っている姫路の公民館での見事な迫真に満ちた講義録だ。‥‥と思わせたが、架空のもの(臨場感溢れる絶妙の面白さ)だった。「鴫立つ沢」はラジオ番組のインタビューという形式をとっているがこれも創作。他にも「民部卿、勅勘!?」では、なんと、現代生活の中に「平安日報」なる新聞を登場させ、定家らの動静まで掲載する。また、「草の庵」には実在しない女房を登場させたうえ、「美濃聞書」なる史料を創作し、長い注釈を加えた。

 ありとあらゆる手法を駆使して「新古今和歌集」の実像に迫っている。これでは、紀行文の形を取っている「隠岐への道」(最終話)も、怪しい(と思ったが、これは事実だと後で分かった)。まさに虚実ない混ぜにした、騙しのテクニック満載なのである。国際政治学という学問を愛する私には「殺すより盗むがよく、盗むより、騙すがよい」とのW・チャーチルの国際政治の本質を突いた言葉が印象深い。騙し上手は政治家、嘘つき上手は小説家が通り相場だが、さてさて諸井学という人は?

【他生のご縁 2足のわらじで2種の森林に分け入る】

 諸井学というペンネームは、どこから来ているのでしょう。あのサミュエル・ベケットの『モロイ』に傾倒し、学びたいというのが由来なのです。日本古典文学からポストモダンに至るまで、この人の文学への造詣が広く深いことに驚きます。

 名工大を出て家業の電器店を営みながら小説を書き続けてきました。先年姫路で著名な文学賞を受賞。2足のわらじで、2種の森林に分け入る試み。70代半ば。いよいよこれからの人なのです。

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(340)新型コロナウイルスの蔓延と人の世ーアルベール・カミユ『ペスト』(宮崎嶺雄訳)を読む

新型コロナウイルスが中国・武漢市で発生して、この巨大都市からの人の出入りを禁止するといったことが話題になった時に、随分前に読んだ記憶がある本を思い起こした。アルベール・カミユの『ペスト』である。ネズミを介在させた伝染病ペストと新型コロナウイルスによる感染症との違いはあれ、迫られる対応など考えさせられる類似点は少なくない。都市の封鎖やクルーズ船内での隔離など、今現に起こっている緊急事態を前にざっと読み返した▼封鎖状態に陥り、閉じ込められた人間が密かに自分だけ脱出を試みようとしたり、キリスト教の神父が、この事態は人々の罪のせいで起こったのだから、まず悔い改めよとの説教したりする場面が印象に残る。主人公の医師が懸命に救助活動に従事する姿に、今回の武漢で必死の診療行為の中で亡くなったとされる中国人医師像が重なった。また、過酷な状況にもかかわらず、助け合う人々の振る舞いに、クルーズ船におけるイタリア人船長のもと一致団結した行動をとったとされる乗組員の姿も重なった▼この本でカミユは、人生における究極の不条理の側面を描き、避けられない人間の運命の中で助け合う人々の生き様を浮き彫りにした。かつて私の若き日に実存主義が時代を席巻した。フランツ・カフカの『変身』などと共に、カミユの『異邦人』や『シシュポスの神話』などを読んで、分かったようでいて、今一歩分からないような思いに駆られたものである。そんな中で、この『ペスト』には救いがあり一条の光があったと思われた。大型イベントや日常的会合が中止になったりして、出歩く機会が減る中で、家で読んで人生を考えるきっかけとなる絶好の本かもしれない▼国会で新型コロナウイルスへの政府の対応が後手後手に回っているとの批判がある。桜を見る会や東京高検検事長人事などを巡っての疑惑で窮地に追い込まれた安倍政権にとって、名誉挽回のチャンスとなるか、恥の上塗りになるかの瀬戸際である。中国で発生し、日本、韓国でも多くの人々に感染、欧州でもイタリアを中心に予断を許さない事態が続く。せめて、地球上に生息する人間が、国の違い、民族の違いを乗り越えて、生きるも死ぬも同じ運命共同体であることが共通の認識になり、争いごとがなくなる機縁になれば、と思うことしきりである。(2020-2-28)

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(339)「江戸」の終末を〝お笑い味〟たっぷりにー浅田次郎『大名倒産』上下を読む

いやあ面白かった。これぞ小説、その醍醐味を満喫しきった思いがする。浅田次郎の『大名倒産』上下2巻である。漫画的過ぎるとか、中弛みが気になる、一巻で終わりにして欲しかったとの注文はないわけじゃあない。だが、こんな豊潤な世界に長く浸かることが出来て、幸せ。ケチつけたり、贅沢いうと罰があたるというものだ。この作者のものはかつて『鉄道員』『天国までの100マイル』『壬生義士伝』など、読書録にも取り上げた。ここのところご無沙汰していたが、先日ある友人との会話の中でこの本のことが出た。そこで、彼から借りることに。引っ越し後、なるべく本は買わないとの習慣が身についてしまい、図書館通いが主流なのだが▼時は幕末。江戸期260年の長い長い時間ー明治維新から150年と比べるとよくわかるーに、すっかり弛緩しきった武士の世界を縦、横、斜め、表から裏まで縦横無尽に、〝お笑い味〟ふんだんに散りばめつつ惜しみなく描く。積もり積もった借金25万両。利息の支払いだけで年に3万両。ところが収入は1万両。これを踏み倒す算段として、「倒産」を選んだ先代と、膨大な負債を押し付けられたご当主の息子。財政改革のあの手この手に必死に取り組む。奇想天外な筋立てと絶妙の話運びでグイグイと読むものは引きずりこまれていく▼明治維新の引き金となったのは「黒船来航」だが、その背後に〝熟柿〟となった「武家社会」があった。いわゆる維新を扱った読みもので、幕府を倒す側の視点に立ったものは数多あるが、倒される側に連なるものは比較的少ない。その分新鮮さを感じる。だ洒落の連発、ユーモアの山盛りで、大いに笑える。愉快なことこの上なし。随所に織り込まれた人情話と人生の機微にも、そのつど心しびれる思いになる。為になることこの上なし。著者と同じ高みからの目線で登場する七福神と貧乏神の繰り出す手練手管に、翻弄される人間の哀れさ。それに打ち勝つ強さとは何なのか。少しばかり考えさせられもした▼読売新聞の読書欄(1-19付け)に、橋本五郎氏がこの本を取り上げていたことを思い出し、古新聞の中から取り出した。同紙特別編集委員のこの人は名うての読書家で、評論家。書評を書くにあたって『二回半読む』(同名の著書あり)というから凄い。彼のここでの書評は、「凡庸でも誠実であり続けることの大切さを教えてくれ」るとしたうえで、最後に「悪意が満ちあふれている今日日、これほどの『性善説』小説にお目にかかるとは大いなる驚きである」と結んでいる。「一回しか読まない」(同名の著書はない)私としては、ご隠居様の生き方に強い共感を覚えた。ある時は百姓与作、ある時は茶人一狐斎、またある時は職人左前甚五郎や板前長七といったように多面的なキャラを使い分ける。退職後に、野良仕事をしつつ茶道に勤しみ、陶芸に打ち込み、料理教室で腕を磨くといった人は珍しいが、いなくはないだろう。かく言う私も、恥ずかしながら違った性格を持つ7つほどの顧問職をこなし、ちょっぴり真似事をしている。橋本さんの言うように確かにここでの『性善説』は驚きだが、ご隠居の存在あってこそ光るというものだろう。凡庸、誠実さよりも、英邁、狡智さに長けた人間に魅力を当方は感じてしまう。この本の後半で悪戦苦闘してるはずの若殿・息子の登場は極端に少なく影も薄い。本当の主役はご隠居と思われる。と、書いてきて気が付いた。橋本さんは皮肉を込めた表現をしたに違いないと云うことに。 (2020-2-18)

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(338)物足りなさ残る新宿鮫XⅠー大沢在昌『暗約領域』を読む

その昔、私はハードボイルド小説の格好いい主人公に、また英邁極まりない孤独な指導者や主役を映画の中に見出すたびに、敬愛する上司を重ね合わせることがしばしばであった。やがて、その密やかな片思いが実は私だけでなく、一緒にその大先輩にお仕えしていた後輩W君も共有する感情だと言うことを知った。私たちは司馬遼太郎の『燃えよ剣』の土方歳三と上役の類似性について語り合い、米映画『フルメタルジャケット』を一緒に映画館で見て、 訓練を受ける海兵隊員に自分たちを、鬼将校にその先輩の姿を重ねたものである。大沢在昌の小説『新宿鮫』の鮫島にもその上司が似ていないはずはなかった。要するに二人ともひたすらにその先輩上司に憧れ、英雄視していたのである。この想いは恐らくほかの誰にもわかるまいし、わかってほしくもない▼新宿を舞台にはぐれ刑事・鮫島が活躍する小説に若き日の私たち(彼は30歳過ぎ。私は40歳過ぎだったから決して若くない)は魅了された。ほぼ30年前のこととて、私自身はその物語の筋だてなどもはや殆ど覚えていない。第1巻が発刊されたのが1990年。いらい第2巻・毒猿、第3巻・屍蘭あたりは、夢中になって読んだものだが。それ以降は私が政治家になってしまったこともあり、遠のいた。この度、第10巻が出てから8年ぶりにシリーズ第11作目が出たと言うので、手にした。勧めてくれたのは、誰あろう、かつて共に同じ夢を見たに違いないW君である。出ましたが、読みましたか、とのメールで直ちに本屋に足を運んだ▼「密告してきたのは浦田という密売人だった。根っからのクスリ好きで酒は体質に合わない」との書き出し。「覚せい剤中毒者にはそうした下戸が少なくない」と続く。やがて新宿区内の民泊施設を舞台に、張り込んでいた鮫島の前で殺人事件が起きる。覚せい剤、暴力団組員そして怪しげな北朝鮮人やら中国人。現代日本の闇の世界におなじみのテーマや登場人物たち。小説を通じて様々な情報を得たうえで、人との付き合いに活用をしたい向きには、いささか縁遠さは否定できない展開である。それでも平成29年に成立した「住宅宿泊事業法」で、民泊業者に対する届け出が義務付けられたとか、「年間180日以内の営業の制限があることから、旅館業法で定める『簡易宿所営業』で、許可を取得している民泊業者も多い」などといった記述には、インバウンドに関心を持つ身としては、興味なしとしない。そんな中で、この本では鮫島の上司に女性の課長が現れる一方、新人の相棒の登場という新味に対して、大いに〝食欲〟を唆られ、読み進めた▼だが、その展開は尻つぼみという他ない。女性の上司との間での、警察という機構を巡っての組織観の違いの披瀝も中途半端なものに終わるし、当初は思わせぶりな活躍に期待を掻き立てられた新人も、途中で出番が消えてしまう。尤も後者の方は意外な役回りに驚かせられるのだが。息もつかせぬ活劇場面もようやく終わりが近づいてから。そこに至るまではいささか退屈する場面の連続に思えた。濡れ場も殆どゼロに近い(それは今の私には好都合なのだが)ことなど、通常のこうした小説につきものの〝付加価値的呼び物〟もいたって影が薄いのである。と、こういう風に来ると、なぜ700頁にも及ぶ大部の小説を途中で投げ出さなかったのかとの疑問が湧く。怖いもの見たさとヒーロー待望感をして、最後まで惹きつけさせたものと思われる。尤も、肝心の我が感受性の衰えは如何ともしがたいのかもしれない。それに何よりも大きいのは、鮫島の〝かくも長き不在〟の間に、我らが敬愛した上司が先年、急逝されてしまい今は存在されないことだろう。W君がどう読んだか知りたいところだが、未だその便りはない。(2020-2-12)

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