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(357)コロナ禍の読書ー放送大学の教材に取り憑かれる日々

コロナ禍におけるステイホームで一番私がはまったのは、放送大学のテレビ講義だということは幾たびか触れてきた。7月にそれが終わってから、今度は教材を買い求めて読んだ。私が取り組んだものは10講座ほどだが、そのうち、興味深く読んだものは3冊。それぞれ骨太で、中身は濃い。通常の大学の教材と違って社会人向けの赴きで、波及効果も多く、これからの生活に役立つこと請け合いである▲まずは、一押し。高橋和夫『中東の政治』。この人は他にも『世界の中の日本』『現代の国際政治』と、3講座を同時並行で講義しておられ、また『権力の館を考える』や特別講座にも顔を出されるなど、露出度ナンバーワン。卓越したスピーチ力とユーモア溢れる心配りの話術で魅了された。教材の方も、面白く読める。数多ある知識の宝庫とでもいうべき記述のうち、一つだけ挙げると、アメリカという国がいかに宗教国家であるかのくだり。アメリカの紙幣の全てに  IN GOD WE TRUST(我ら神を信じて)とあることを紹介したのち、キリスト教福音派と共和党との関わりを述べている。ブッシュ(息子)から、トランプへと受け継がれた共和党政権の背後にある信仰の力が興味を唆る。「二回の離婚経験と数知れぬ不倫の疑いに包まれた」トランプをなぜ福音派の人々は支持するのか。「全てを許す神は御業を行う手段として、トランプのような人物を選んだと考えているようだ」というのである▲次に私が強く魅力を感じたのは宮下志朗、小野正嗣『世界文学への招待』。親子ほど歳の離れた二人のオリエンテーションと最終講義での掛け合いは忘れがたい。小野さんのNHKの美術番組などでの活躍ぶりはかねて注目してきたが、この度の講義では実に堪能するものがあった。①文学は他者への共感を可能にする手段である②文学は世界の窓である③母語の感度を高める最良の手段であるーなどと言った世界文学への誘いの言葉も強いインパクトを受けた。15回にわたる現代世界文学を俯瞰する試みはとても一回の講義で習得できるものではないが、テキストを幾たびかなぞることで、大いに刺激を感じ、触発された▲三つ目は、吉田光男、杉森哲也『歴史と人間』。これも講義は私に強烈な印象を与えてくれた。ここでも最後の講師五人によるまとめが面白かった。草光俊雄の担当したメアリ・ウルストンクラフトという女性解放運動の先駆者については恥ずかしながら全く知らず、目から鱗の経験をした。一方、それなりに知っているつもりだった日本の津田梅子についても杉森哲也の解説で改めて開眼した。またモンテーニュをめぐる宮下志朗の講義は実に魅力的なもので、改めて『随想録』に挑戦せねば、との思いに駆り立てられる。ともあれ、「日暮れて道遠し」を突きつけられて、心中穏やかでないものの、「物事始めるに遅すぎることはない」を確信して、暑い日々を、涼しい思いで生きたい。(2020-8-28)

 

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(356)この夏一番の収穫ー「グロ・リア」文学と「皮肉な毒舌」の機智

コロナ禍でのステイホーム。今年の放送大学前半の講義期間とほぼダブった。7月中旬で終了したが、印象に残っている教科の一つに『権力の館を考える』があった。御厨貴さんが中心となって日本から世界の権力者たちの住まいの実態に迫るもので、滅法面白かった。この先生は学問もエンタテイメントに仕上げる特異なタレントだと実感した。その中で井上章一・国際日本文化研究センター所長が登場した「関西の権力の館」が特筆される。かの『京都嫌い』なる本で一世風靡した、とびきりユニークな学者である。その井上先生が書かれた、先般亡くなられた井波律子(中国文学者)さんを悼む文章(朝日新聞「ひもとく」7-11付け)に、私の眼は釘付けになった▲ここで取り上げられていた井波さんの『中国のグロテスク・リアリズム』と『中国人の機智』を直ちに明石市立図書館で借りて読んだ。実に面白かった。それもそのはず、前者では「色事や悪事などが山あり谷ありの筋立てでドラマ化された作品」が紹介されているのだ。後者は、「文人たちのくりひろげた、命がけと言っていい当意即妙ぶり」が描かれていて興味は尽きない。実は私は「中国に文学と呼べるものはない。あるのはエロとグロだけ。〝恋と女の日本文学〟とは違い過ぎる」との〝超日本文学びいき〟の信奉者を自認してきた。その考え方のルーツがこの「グロ・リア」にあることを改めて確認できた。世にいう「エログロナンセンス」の原型だから、面白くないはずはなかろう。でも、「好きか嫌いか」と自問するまでもない。過ぎたるは及ばざるが如しで、読み過ぎると中毒になりそうだからご注意を▲中国人の持つ機智の源泉が『世説新語』にあることは知らなかった。魏晋の時代の名士のエピソードを軸に中国的な機智表現の特色を探ったものだが、毛沢東と魯迅に及ぶくだりが圧倒的に読ませる。二人のものをめぐっては一通り眼にしてきた。巨大な国の原型を作った二巨人の真実に改めて気づかされた。かつて憎からず思わないでもなかった恋人と、よりを戻したくなるような思いに駆られそうだ。今更、毛沢東でもないだろうと言われそうだが、「卑近な事象を比喩とし、懇切な説明を加えて、説得論理に貢献させる」とか、「文章表現自体も、いちいち念が入りすぎて、そこはかとないユーモアが漂う」と言われると、あばたもえくぼどころか、整形手術をしたかのような錯覚を抱いてしまう▲「私は往々自分の嫌う人に嫌われる人を善い人だと思うときがある」と言った魯迅は、「むしずが走るほど中国がきらいだ、という人がいたら、私は心からの感謝をその人に捧げたい。なぜなら、その人はきっと中国人を餌食にはしないだろうから」と、逆説的、反語的表現を好んで用いた。「事の真相を抉り出さねばやまない風刺性に富む」魯迅は、「皮肉な毒舌家」でもあった。なんだかそれって、井上章一さんではないかと、思ってしまう。御厨、井上コンビの放送大学講義から、井波律子さんの本へと飛び、「グロ・リア」文学から毛沢東、魯迅の機智に及んだ。いつもの如く勝手な連想ゲームに誘い込むなと怒られそうだが、読み手の側としては大いに満足出来たのだから仕方ない。この夏一番の収穫である。(2020-7-29)

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(355)「青年」と「政治家」に思いを馳せ、「人情」の機微を味わう

コロナ禍中に「ステイホーム」が叫ばれていたこの数ヶ月というもの、私は幸運なことに放送大学講座に嵌った。授業料も払わずに聴講生として11講座を見まくって、このほど15回分がほぼ全て終わった。1講座45分なので、123時間テレビを見ていたことになる。いやはや、充実した時間を持てて満足している。様々な専門家と画面を通じて知り合ったが、『方丈記と徒然草』を担当された島内裕子さんは、仏像のようなふくよかなお顔の立派な先生だ。この講座から学んだことはおいおい語ることになろうが、偶々講座外で放映されたもので印象に強く残ったのが森鴎外の小説『青年』についての解説である。島内さんが主人公・小泉純一の小説の中の足取りをそのまんま追う試みは平凡ながら妙に新鮮だった。早速文庫本を買って読んだ。漱石の『三四郎』に見合う、鴎外の青春ものといえば『青年』とくる、とはつゆ知らなかった。この2冊が日本における最初の教養・発展小説とのことだが、「人間いかに生くべきか」という根源的テーマと、後期高齢者のとば口に立つ私が改めて真正面から向き合うことになった。それはそれで様々な意味から興味深かった。『三四郎』を読んで『青年』を読み忘れたが故に、私の人生はいびつだったのかもしれない、と▲この期間に私が出会った人物で忘れがたいのが、作家の高嶋哲夫さんである。先だってこの欄でも紹介した『首都感染』の著者である。神戸在住であり、私が友人と共催する「異業種交流ワインを飲む会」をオンラインで開催したところ、二回続けて参加された。先月はようやく直にお会いすることが叶った。その際に、ご本人から次はぜひ『首都崩壊』を読んで欲しいと勧められた。これは首都直下型地震の恐怖を描く一方、首都移転への具体的手筈が克明に明かされていく。この作家の描く未来予測はことごとく的中してきていることから、この課題も急にリアルを伴って読めるから不思議だ。私が現役時代に首都移転が話題になったが、いつの日か沙汰止みになり、誰も話題にしなくなった。しかし、今読んでみて、政治家諸氏は真剣にこの本を読むべきと思う▲ついで、読み終えたのが、浅田次郎の『流人道中記』上下である。これも先般、読書録に取り上げた『大名倒産』上下を勧めてくれた友人から借りて読んだ。欧州モダニズム文学の愛好家兼小説家の諸井学さんは、浅田次郎のような人情ものばかり読んでいると、歯応えのあるものは食えなくなるかのように言う。で、しばらく敬遠していたが、頃合いを見計らって読むとやはり堪えられない。尤も、この本も他のものと同様に冗漫さは感じざるをえず、2冊に分けずともいいのではないかとの思いは募るのだが。とはいえ、やはり話運びは絶妙だ。演歌の上手い友人と一緒にカラオケに行った時のように、ほとほと感じ入ってしまう▲今私は『日常的奇跡の軌跡』なるタイトルで回顧録を書いている。平成元年からほぼ25年間にわたる政治家生活を振り返っているのだが、その間に書いた読書録(『忙中本あり』)を紹介せざるを得なくなる場面がある。本を読むのが好きで、かつそれを評論することにのめり込んだ自分に呆れる。こんな生活をしていて本業が疎かにならぬ方がおかしいとさえ思う始末である。今、政治家の仕事から解放されて、自由に本が読めるようになったのだが、その実、あまり読めていない自身を発見して苦笑せざるを得ない。なんのことはない、「閑中本なし」なのである。(2020-7-11  一部修正=7-12 再修正=7-14)

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(354)コロナ禍中に読んだ『クンバハカ』『白鵬』『麻薬』本の味わい

新型コロナの第一波が過ぎたかに思われる今、次第に日常が取り戻されつつある。大きく言えば「経済のV字型回復」への待望論が鎌首をもたげ、身近なテーマで言えば「生活習慣」が棚卸しされかねない状況である。緊急事態宣言直後、文明論が喧しく論じられ、価値観の転換を説く向きも少なくなかった流れが忘れ去られないのかどうか。大いに懸念される。このコロナ自粛の期間、あれこれと軽重問わずつまみ食いならぬチョイ読みをした。そのうち尊敬する大先輩や友人が出版した本3冊を紹介する▲まずは合田周平・電気通信大学名誉教授による『中村天風 快楽に生きる』。合田さんは財団法人天風会の元理事長。「天風哲学」の実践者・中村天風先生の愛弟子である。天風先生の箴言集の後にまとめられた「心身壮健ークンバハカの実践」が興味深い。クンバハカとは、「肛門」を締め、同時に「肩」の力を充分に抜いておろし、さらに「下腹部」に力を充実させる呼吸法。「肛門を締めると気分が全然違ってくる。怒りそうになったらキュッ、悲しくなったらキュッ、これだけで心が傷つかなくなる」と言う。お試しあれ▲次に、浅野勝人・元内閣官房副長官の『孤独なひとり旅 白鵬関とのショートメール』。浅野さんは衆議院議員を辞されたあと、一般社団法人「安保政策研究会」理事長を務める。横綱白鵬の熱烈な支援者で、陰に陽に白鵬を激励(主にショートメールで)し続けてきた。一般的に白鵬は立ち合いのかち上げやら、優勝時の土俵下での万歳の音頭取りとかで評判はよろしくない。しかし、これを読むと目から鱗が落ちるように、真反対の大相撲の守護者としての白鵬が立ち現れてくる。私は高木彬光の名作『成吉思汗の秘密』からくる〝夢に満ちた神話〟をもじって、「義経の末裔・白鵬」と持ち上げたい▲最後に、山本章・元厚労省麻薬課長の『「奇跡の国」と言われているが‥ どうする麻薬問題』を紹介する。クスリを語る際にこの人は外せない。彼が先に世に出した『医師がくすりを売っていた国 日本』は全ての薬剤師、くすり愛好者必読の本だと思う傑作である。今度の麻薬本はまたとんでもなく面白い。幸か不幸か、麻薬の怖さがリアルに伝わってこない分だけ、不謹慎にも試してみたくなるほど。偶々少し前に彼の仲間の厚労省の麻薬取締官・瀬戸晴海さんが書いた『マトリ』が話題を呼んでいるが、併せ読むと立派な麻薬通になること請け合いである。(2020-6-25)

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(353)キリスト者の人生の終焉をめぐって━━曽野綾子『死学のすすめ』を読む

 キリスト教カトリックを信仰していた歳上のいとこの葬儀に出たことがある。後にも先にもキリスト教信者の葬儀はこの時だけ。率直に云って、厳粛ではあるものの、いささか芝居がかっているというか、大袈裟な印象を受けた。それに比べると仏教の場合は概ね簡単素朴だと思う。僧侶の読経が中心で、賛美歌に類するようなものも通常はない。私の信奉する創価学会の友人葬は、さらに質実でそれでいてこころのこもった素晴らしい儀式だと思われる。作家の曽野綾子さんは著名なキリスト教カトリック信徒だが、かねてあれこれと死の迎え方をめぐる文章を著しており、その集大成とでもいうべきものを出版されたので、読んでみた。幾つか印象に残ったことを紹介したい。

 まずは、死に際しての宗教比較から。「カトリックのお葬式が一向に暗くない」ことを曽野さんは挙げているが、それは亡くなった人が「自分に与えられた仕事を果たして死んでいった場合」だとしている。聖パウロも晩年の心境は「走るべき道程を走り終え、信仰を守り抜き」きった状態だった、と。また、「聖パウロのように自分の人生を生き切った人」のお葬式で、「思わず笑顔がでる」とも。お葬式が暗くないのも、笑顔がついでてくるというのも私たち日蓮仏法徒も変わらない。神の存在を強調されている点だけが違う。他人との比較でなく、その人なりに精一杯やったかどうかを測定できるのは神だけで、神は「完璧に正確で繊細な観察者で」、「神の測定はまことに真実で個性的なのです」と。尤も、これも神を御本尊に置き換えれば同じことかもしれない。

●人間の最期に最も相応しい芸術としてのユーモア

次に、最も私が共感したところを。「ユーモアは人間の最期にもっとも相応しい芸術となりましょう」とのくだり。「残される人々に最後の温かい記憶を残して死にたいと思えば」、それはユーモアであると。全く同感するのだが、さてこれが難しい。私はこれまで知人、友人やその家族の死に際して、出来るだけ通夜は楽しく、を心がけてきた。元兵庫県教育次長を経てたつの市長をされた西田正則氏の義父のお通夜では、つい羽目を外してしまい、歌まで披露してしまった。喪主の西田さんも大変に愉快な人物で大いに喜んでいただいた(と思った)。翌日、葬儀に顔を出すと、受付にいた市長の息子さんが、私の顔を見て「また、きた」と口ずさんだのには驚いた。今に忘れ難い。

 義父の時は自宅でやったのだが、5つの小部屋にそれぞれの縁を持つ人々を集めて、独自の偲び方で盛り上げてもらった。あまりに楽しかったせいか「また、来たい」と云う人もでるほどだった。これは送る側のユーモアだが、送られるとなると、さて。「おれのいないおれの通夜は寂しいだろうね」との思いを馳せ、今から準備するしかない。

 最後に、とても真似できそうにないことを挙げてみたい。曽野さんは母上の死に際して、ご本人の遺志に従って、献眼をされた顛末を克明にしるされている。東大病院の眼科医が処置をするにあたって、「ここにおられますか。それとも場をはずされますか」との爽やかな質問を彼女にしたという。で、「ここにおります」と答えると、「お医者さまは母の顔の上に緑色の手術用の布をかけられ、約十分ほどで、その処置は終わりました」と。この行為をめぐる種々の思いを述べたあと、「(眼を差し上げたことが)どれほど私たちの心を明るいものにしたか、想像もできないほど」だったと強調。「この行為だけでも、母は決して地獄には行かないだろう、という安堵感に包まれた」と述べている。臓器移植については、他人のものとの結合の是非を始め、ついつい躊躇しがちである。若くていきのいい身体ならともかく、老いさらばえた臓器の使い回しなど、どうしても二の足を踏みがちだと思ってしまう。ともあれ『死学』なる学問もまた奥行きが深いように思われる。

【他生の縁 衆院憲法調査会で曽野参考人とやりとり】

 曽野綾子さんとは衆議院の憲法調査会に参考人として来ていただいた際に、私は質問しました。2000年(平成12年)の10月12日のことです。「21世紀の日本のあるべき姿」がテーマ。あの時から23年。殆ど記憶なし。そこで事務局に連絡して、議事録を送って貰いました。

 四角四面で言うと①21世紀の政治家に何を望むか②確立した「個」との接触が教育で最も大事ではないか──と訊いていました。ぶっちゃけていうと、❶「こういう政治家なら好きよ」って言ってみて❷「若い時にとんでもなく個性的な人と会うって大事でしょ」と聞いたのです。

 これには、曽野さんも「何か嬉しくなるように聞いていただきまして」と応じ「やはり明確な哲学とあえて危険を冒すという政治家になっていただきたい」との答え。後者には、強烈な個性の人に会うと、自分自身が伸びたような、幸せな思いに満ちましたと。我ながら素敵なやりとりでした。

 

 

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(352)解釈でなく体験を、との勧めーサミュエル・ベケット『モロイ』(安堂信也訳)を読む

この人と会わなければ間違いなく私はこの本を読まなかったに違いない。勿論こんな読後録も書かなかったはずだ。この人、とは諸井学さん(先に紹介した『神南備山のほととぎす』の著者)のことであり、この本とはサミュエル・ベケットの『モロイ』(「アンチ・ロマン」に区分される小説だそうな)のことである。諸井さんと知り合ってほぼ2年。次第しだいに感化、影響を受けてきているのだろう。ついに『モロイ』を読む羽目になってしまった。読んでいて幾度も投げ出したくなった。およそオモロイとは言えない代物だからである。それでも最後まで読み終えることが出来たのは、ひとえに諸井さんが自分のペンネームは「モロイから学ぼうとした」というからである。邦訳は4種あり、そのいずれをも含め十数回にわたって読んだと言う。そこまで入れ込む理由を知りたい、と私が思ったのは人情というものだろう▲ベケットの作品は、戯曲『ゴドーを待ちながら』を読んだことがあり、既に読後録にも書いている。だからおぼろげながらもどういうタッチの読み物であるかは想像できた。聞きしに勝る、わけのわからん筋立てというか話運びである。それでいて妙に引き込まれる独特のリズムはないわけではない。一回読んだだけで読後録など書くのは無謀というものだろうが、再読したり、橋本五郎さんのように「二回半読む」勇気も暇も、今のわたしにはない。コロナ禍の有り余る時間の中でさえ、わたしに残された時間はそう多くないとの切迫感があり、早く離れたい(『モロイ』からも『諸井』からも)との思いに負けてしまった。ということで、中途半端な結論のもとに書き出したこと、ご容赦願いたい▲実は少し前に、諸井さんに『モロイ』って、どんな小説なの?って訊いたことがある。彼はひとたびは曖昧な言い方でお茶を濁したかに思えたが、のちに手紙で答えを書いてきてくれた。結論部分のみを披露すると、「『モロイ』を読むことは、『モロイ』を解釈することではなく、『モロイ』を体験することである」ということになる。ボールは投げられた。「解釈」するのでなく、「体験」することであるというのは、また判じ物である。解釈には理性が働き、体験には感性がものをいう。要するに、理屈で分かろうとするのでなく、感じるがまま受けとれということなのだろう。これがまた難しい。ボールの投げ返しに苦労することになった。尊敬する友人であるベケット研究の第一人者・岡室美奈子さん(早大教授)に訊いてもみた。彼女は、「解釈でなく、体験だ」との諸井説を「言い得て妙」と同感したうえで、「『私』という語り手に心を添わせる読み方」がいいとし、「理由が分からぬまま感動する体験が醍醐味です」と答えてきてくれた▲私は何らかの閃きが我が体内に生じない限り、この本の読後録は書けないと思った。そんな時に、たまたまモーパッサンの『エセー』における興味深い一節にでくわした。「自分が対象と関わる瞬間に、ありのままの姿をとらえるしかない。つまり、存在を描くのでなく、推移を描くのだ」とのくだりだ。これを解説したあるフランス文学者は、「画期的居直りだ」と述べていたが、私にはこの説明を聞いた瞬間、ベケットが『モロイ』で描いているのは「存在」でなく、「推移」ではないかと、閃いたのである。具体的な描き方部分を上げることはあえてここではしない▲最後に、気に懸かった箇所が二つあることを告白する。一つは、第一部におけるセックスに関わる表現部分。過去に読んだこの種のもののいずれよりも印象深い。ここにだけ強烈なリアルを感じた。もう一つは第二部における大便にまつわる表現のところだ。息子のしたうんこの具合を親父が覗き込み、その有様を仔細に描く。笑った。なんのことはない。人間の原初的行為が、昔馴染みの友人が突然訪ねてきた時のように私の感性をくすぐった。裏返せばそれ以外は殆ど意味不明。それが私の正直な『モロイ』体験なのである。諸井さんは、小説家として多くの創作のヒントを得たに違いない。岡室さんは「どうか(ベケットを)嫌いにならず、お付き合いいただければ」と結んでおられた。さてさて、どういうものか。(2020-5-31)

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(351)こんな90歳になってみたいー中西進『卒寿の自画像ー我が人生の賛歌』を読む

「『令和』の考案者は私と同じ名前なんですね」ーこの名言を発した人こそ、誰あろう、文化勲章受賞者・中西進先生である。肩書きを「万葉集学者」、としようとしたら、ご本人はそう呼ばれることはお好きではないとのこと(本文中にあり)なので、よした。しかし、万葉集の研究で今日までの大をなされた。「初春の令月にして、気淑く風和ぎ」との万葉集の一節を典拠にした「令和」という年号を、この人が思いついて標題の著作を表す起因となったことも間違いない▲中西先生と私は同じ一般社団法人『瀬戸内海島めぐり協会』に所属する仲である。先生が代表、私が専務理事を務める。であるが故に、学者としての先生の凄さも、そのお人なりも知ったつもりでいた。しかし、この『自画像』を読んで、いかに私が先生のことを何も知らなかったかが、ようく分かった。面白い。こんな90歳の年寄りに自分もなってみたい、と心底から思う。75歳である私は90歳の中西先生に、ほとほと惚れ込んでしまう。生い立ちから、学問の道を経て、「令和」の由来に至るまで興味津々の話題で最後まで飽きさせない▲これまで様々な先達の、老いに至った道のりを聞き、それぞれに感じ入った。しかし、いかなる人々のものよりこの人の語りは凄い。凄すぎる。全くと言っていいほど歳を感じさせないのである。「体力、身力を養う」が、ご自身の究極の持論だとされ、それ故に卒寿を迎えるに至ったと言われるのだが、全編どこにも「後ろ向きの示唆」を感じさせない。永遠に生き続けられるかの如き錯覚に陥る▲この本、実は中西先生の自伝とするには物足りないと思われる。随所に写真が散りばめられ、極めて興味深いのだが、いささか軽いと思ってしまうからだ。ご自身が書かれた文章ではなく、鵜飼哲夫讀賣新聞編集委員の聞き書きであるから無理もないのだが、そう思わざるを得なかった。そうしたら、あとがきに「心してその諸点を整理し、普遍的な観点から見つめて、別に叙述していきたい」とあった。本格的なものはまた書かれるのだ。安心した。この本で中西先生は、含羞を込めて、ご自分の人生を振り返り、今の時点で思う存分に表現された。次には白寿を前に本格的な自伝を期待したい。(2020-5-23)

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(350)大阪維新はなぜ強いのかー朝日新聞大阪社会部編『ポスト橋下の時代』を読む

コロナ禍騒ぎで、妙に吉村洋文大阪府知事の人気が高い。このところの世論調査における政党支持率でも「維新」は右肩上がりである。少し前に友人(元公明党尼崎市議)から勧められて購入したまま放っていた上掲の本を、引っ張り出して一気に読んでみた。率直に言って「維新」の強さは個人プレーによるところが大きいとの見立てに間違いはないというのが結論である▲主役が橋下徹から、松井一郎、吉村洋文のツートップに替わっただけで、この3人以外に人はいないように見える。それ以外のプレイヤーで重きをなしているのは、概ね他党からの流入者ばかりで、この党生え抜きの人材(歴史浅く無理もないが)は貧弱というほかない。それでいて、確かに強い。兵庫県的には3回の参議院選挙で維新候補を敵に回したが、この党は殆ど党員支持者の姿は見えず、運動量は少ないのに、圧倒的な票をとる。要するに浮動票をかっさらうだけの期待感が有権者に強いのである。時代の空気を感じる感性力は侮れないが、主軸が崩れると消え去る可能性も高い▲その強さの秘密はどこにあるのか。この本では、大阪都構想をめぐる維新、公明、自民の三党のこの10年ほどの動きを克明に追っているが、結論めいたことには直接言及していない。浮かび上がってくるのは、先に挙げた3人のリーダー(維新の三傑)の都構想に対する執念だけである。それに比べて自公、及び他の政党の結束力のなさたるや目を覆うばかり。単独では強い公明党も、他党との付け焼き刃的結束では負けてしまう。〝維新の三傑〟に共通しているのは、はっきりした物言いに尽きよう。これは政党、政治家として学ぶべきところ大である。国政における野党で、憲法改正をはっきりうたっているのはこの党だけ。これも歯切れの良さに繋がっている▲私の見るところ、今の日本ではもう一つの保守勢力の台頭が求められている。〝何でも反対〟のイデオロギーに偏重しがちな党でなく。この本で、三傑のひとりが国民民主党が「維新」でなく、立憲民主党の方に合流しようとしたのを嘆くくだりがあるが、そこがポイントであろう。先に希望の党への異常な期待で盛り上がったが、あながち〝小池人気〟だけの一過性のものではなかったと見たい。中道主義の党・公明党の役割はまことに大きいが、ややもすると、物言いの不鮮明さが気になる。そこらで足元をすくわれないようにしたいものである。(2020-5-16)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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(349)軽妙洒脱なドイツ文学者の「老いと死」ー池内紀『すごいトシヨリBOOK』を読む

ドイツ文学者の池内紀さんが亡くなられる2年ほど前に出版された『すごいトシヨリBOOK』。このところ毎日新聞(出版元)の一面下の広告欄にしばしば登場している。タイトルも気になるので、読んでみた。理由は二つ。一つは同氏が私と同じ姫路出身であり、生前一度だけだがお会いしたことがあるから。二つは、最近年老いた知識人ー曽野綾子、石原慎太郎氏らーが老いを巡る考察を次々と出版しており、比較してみたくなったこと。コロナ禍のため図書館が休館になる前に借りて読んだ。後味は悪くはないが、いささか羊頭狗肉で、誇大広告のような感がする。買わなくて良かったと思っている。恐らく本人はあまり気が向かなかったものと思われる。というのも書き下ろしでなく、編集者の聞き書きだからだ。ご自身が熱を入れて書かれたものなら、こんな風ではないというくだりが散見される。もっと深みのある重い老人論を池内さんからは聞きたかった▲勿論、池内さんらしい軽妙洒脱さも随所に。代表的なものを紹介する。一つは、眠りについて。寝られない時は無理せずに起きる。その代わり、朝昼夕夜と4回ぐらいにわけで小出しに寝るといいというのだ。「眠りは短い死、死は長い眠り」とドイツ語でいうから、「短い死を経験しておくと、長い眠りのコツがわかっていい」と。さてさて池内さんはコツを習得されたかどうか。二つは、泌尿器について。池内さんは自らのイチモツをアントンと名付けたそうな。元気な時は「張り切り大王」「モリモリ先生」などなどだったが、今では「しょんぼりくん」「うなだれの君」などと言われたりする、と。このくだり、さもありなんと大いに笑えた。三つは、死について。歌人・窪田空穂が死の床で詠んだ「まつはただ 意志あるのみの 今日なれど 眼つぶれば まぶたの重し」を挙げて、「そんな物理的な体の重さを感じながら、人間は死ぬんじゃないか」といいつつ「僕は、風のようにいなくなるといいな」と結んでいる▲その池内紀さんが去年夏に出版された『ヒトラーの時代』を巡って、ネットの世界で話題になっていることに触れたい。実は今の今までその話題は知らず、本も未読だった。ところがひょんなことから、舛添要一さんがこれに絡んでいることを知ってその本にも興味を持った。何が話題になっているかというと、『ヒトラーの時代』に些細な記述の間違いなどがあり、それをドイツに関する日本の歴史家たちが猛然と批判しているとのこと。で、それを知った舛添さんが池内さんに加勢しているのだ。舛添さんに言わせると、ドイツ文学者が専門外のヒトラーについて語る資格はないという歴史家たちのいいぶりはおかしく、池内さんの指摘(普通のドイツ人がヒトラーを支持していた)は全く自分も同感だというのである▲それというのも舛添さんも池内本と踵を接するように『ヒトラーの正体』なる本を上梓しており、ほぼ同じ趣旨のことを書いたからだという。この二つの本は読んでいないので、そのうち、読んだ上で改めて取り上げるが、私は歴史家たちの批判も分かるような気がする。つまりは嫉妬である。池内紀さんはドイツ文学、舛添さんはフランス政治史が専門。専門外の人間によって、自分たちの領域が侵されるのが、歴史家のみなさんは、気に入らないのである。ご両人ともそれぞれ有名なだけに本を書けば売れるわけで、それも腹が立つ理由に違いなかろう。舛添さんの主張が正解だと思うものの、世の中正論だけではないよ、と言いたくもなる。で、先日NHKのBSテレビで、『独裁者ヒトラー 演説の魔力』なる番組を見た。見事な切り口、出来栄えに圧倒された。90歳を悠に越えたドイツの老人たちが、ヒトラーの演説に魅せられた若き日の自分たちのあの体験を、口々に語っていた。なぜあのように深く熱狂してしまったのか。不思議がると共に、懐かしがっていた。二人の本の中身がこの映像を上回っているかどうか。楽しみに読んでみたい。(2020-5-14 一部再修正)

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(第2章)第1節 一冊で日本文学丸かじりの贅沢━━ドナルド・キーン『日本文学を読む・日本の面影』

 日本文学史全18巻の総集編

 2020年のGWは日本人それぞれの人生にとって忘れがたい異常なものであったに違いないと思われる。外に出るな、家にいろと、政府から懇願されるなんて、前代未聞、古今未曾有のことであった。ただ、休むということだけをとるなら、ゴールデンウイークならぬゴールデンマンスやイヤーの状態が続いて、本を読むチャンスではあったろう。私はその機会に今まで苦手意識から棚上げしてきながらも、気になってきたプルースト『失われた時を求めて』(14巻)と、ベケットの『モロイ』に挑戦することにした。一方、それではご馳走の食べすぎで消化不良を起こしかねないので、食べやすいものもとばかりに、一冊で日本近代文学全てを読んだ気になるようなもの(表題作)を読み、随分得をした気になった。

 実はキーンさんの『日本文学史』全18巻は既にざっと読み終えており、この『日本文学を読む・日本の面影』は、おさらいをするようなおもむきがあった。二部構成のうち前半の『日本文学を読む』では、二葉亭四迷から大江健三郎まで49人の作家を取り上げてそれぞれの代表作を論評しているのだが、最も印象深かったのは、夏目漱石についてあまり評価が高くないことである。これは『漱石全集』に悪戦苦闘してきた身からすると、全巻読破なんて無理することないよと言われたような気がして、ホッとする心境になる。

「漱石」は世界の古典にはなれない

 「日本人にとっては漱石は掛け替えのない作家であり、近代日本文学を可能にした大恩人であるが」、「漱石の主な作品全部を読まなければ、彼の偉大さは分かりにくい」のであって、「日本文学の古典であるが、残念ながらいくら紹介書が出ても世界の古典にはなかなかなれないと思う」と結論付けている。その理由は、「多くの外国人読者が漱石文学を読む場合、小説に登場する人物と自分を同一視することは困難だし、物語としての面白さは谷崎や芥川等の小説には及ばない」からというわけである。だろうなあ、と思う。

 ただ、こう書かれているからと言って、谷崎や芥川を全面的に礼賛しているわけでもない。谷崎文学は「深みが足りないという批判は出来ると思う」し、芥川についても、「かなり広く芥川の小説を読んだが、その技巧──特に小説の落ち──に段々愛想をつかすようになった」と、厳しい。このように、キーンさんは取り上げた殆ど全ての作家に対して深い吟味の手立てを加えていて興味深いのである。

 一方、そんな中で、後半の『日本の面影』では、『源氏物語』『徒然草』から能、俳句、日記まで広範囲に「日本文学」全般にわたって、その魅力や特質に迫っている。ここで私が最も感銘を受けたのは芭蕉についてである。キーンさんは、「芭蕉は、私にとって最高の詩人といえます」し、「読むたびに私の身にしみるような感動を覚えます」とまで言った上で、「出来るものならばぜひ会いたいというきもちがあります」とさえ。

 尤も、芭蕉を褒め称えるのはいいのだが、和歌の世界にはあまり触れようとしていないのは、少し疑問を感じざるをえない。少し前から『新古今和歌集』の世界が、800年も前に、現代ヨーロッパ文学の先取りをしているとの指摘を知った私としては、尚更である。丸谷才一さんの『後鳥羽院』からそれを学び、12篇の短編小説にまとめ上げた諸井学さんの『神南備山のほととぎす』を読んで、より一層その思いは募る。諸井学のペンネームの由来がモロイから学ぶということにあると聞けば、さらに。ともあれ、こうした日本文学の世界に深入りさせてくれるまさに最適と思われる本に出会って心底から満足をしている。

【他生のご縁 新幹線車中で隣り合わせに】

 一度は会って話したいと思っていた人に偶然新幹線車中で隣り合わせに座るというのは本当に嬉しい体験でした。ドナルド・キーンさんの存在はかねて知っていましたが、初めて読んだ本は、『明治天皇』上下でした。実はこの本は、あの「塩爺さん」こと、故・塩川正十郎(元衆議院議員)さんから頂いたものでした。

 中嶋嶺雄先生が幹事役をされていた「新学而会」では当初、大先輩の塩川さんと私が政治家として2人だけ(あとは学者の皆さん)席を並べていました。あるとき、会の始まる前の懇談で塩川さんが、「先だって『明治天皇』を読んだけど、実に啓発されました。まだ読んでおられないなら、私が贈呈しますよ」と、居並ぶ参加者に呼びかけられたのです。私は喜んで手を上げて、所望したことはいうまでもありません。旬日を経ずして、大部の本2冊が送られてきました。

 塩川さんは、国会で、慶應義塾出身の議員に声をかけて福沢諭吉の『学問のすすめ』の読書会を開催してくれるほどの読書家でした。東京駅から国会までの車での移動中にも本を離さず読んでおられた姿が目に焼きついているほどです。キーンさんとの巡り合いでは、深い文学論をするでもなく、結びつけてくれた政治家「塩川正十郎」の話をしただけに終わりました。

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