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オーラルヒストリーの面白さと危うさ(46)ー御厨貴『知の格闘ーー掟破りの

 元東大教授で今は放送大学教授の御厨貴さんとは二度お会いしたことがある。一度は読売新聞主催の憲法をめぐる座談会。今一度は、ある雑誌の編集者の仲立ちで太田昭宏代表(元国交相)と一緒に食事をした。いずれも未だ彼がTBSテレビの『時事放談』の司会(2007年から放映)に出るようにはなっていなかった頃のことだと思われる。特に、太田代表(当時)と共に会った時には、学者らしからぬ軽いタッチの方で、実に話しやすかったとの記憶が残っている。その際に「是非とも公明党のすべてを語り合いたいから別に機会を設けませんか」と言われたのに、太田氏の都合で実現出来なかった。これには悔いが残る。あれは絶対に受けるべきだと思った。私一人でもと思ったが、役不足ゆえ引き下がった▼その彼の近著『知の格闘 ー掟破りの政治学講義』は、「学問は、バトルだ 好奇心が躍動する前代未聞の東大最終講義」と新書の帯にあるがごとく、政治学者の通常の枠を超えた面白い中身になっている。全編これ裏話特集といった感じで笑えるエピソードや秘話が満載されていて興味深い。衆議院議員を6期20年務め、それまでも政治記者や代議士秘書を20年ほどやっていた、「永田町通」の身にしても、初耳や初お目見えのようなこともあって”勉強”になった。新聞や週刊誌、テレビのニュースでだけでしか政治の姿かたちをご存じない方には、特にお勧めしたい。この人の放送大学講義で『権力の館』なるタイトルのものがあったが、毎回くい入るように映像を追った。戦前戦後の政治家の個人宅を中心に、あれこれエピソード風にまとめたものだったが、最高に興味深かった。つい我が家と比較してしまい、その都度惨めさを催したものだが▼私は小泉内閣の最後に一年間だけだが、厚生労働副大臣を務めたことがある。それ以前にもこの人物を秘書時代にウオッチしたことがある(旧神奈川二区の時代)。その私だけに、御厨さんの「小泉純一郎評」は出色の出来栄えだと感ずる。小泉氏のオーラルヒストリー(政治家の口述を歴史の証言として記録する)が難しいという理由を挙げているくだりである。理由の一つとして、小泉氏が徹底して自分の関心のあることしか喋らないことを挙げている。なにしろ、講演会で喋りたいことしか喋らず、時間が残っていても、自分の気分でさっさと止めて帰ってしまう、と。「相手があって自分があるとういうことを考えない人だ」とまで断定し、「小泉という人は記憶を失ってい」るし、「やったことをたぶん次から次へと忘れていっている人」だとまで言うのだから凄い。オーラルヒストリーにならなかった恨みが垣間見える。総理大臣を5年もやっていたのだから、そこまでは酷くなかろうと弁護したくなるぐらいである▼ともあれ、最終講義の気安さゆえか、生来のこの人の性格からか、言いたい放題はまことに小気味いい。ただ、政治家の口述は記録する方の姿勢がかなり問われる。玉石混交の発言をすべて真に受けていくと、やがて出鱈目なことが歴史の事実として残り、誤ったイメージを随所にばらまきかねない。したがって、よくこの手のものは監視する必要があろう。例えば、中曽根内閣の官房長官として名を残した故後藤田正晴氏が「公明党はちょっと危ない」とし、その理由は「この国への忠誠心がない政党」だと、共産党とある意味同一視している。これには御厨氏は「俺が死ぬまで吹聴するな」と言われたようだが、最近は(時効だから)喋っているという。この話には、「先日、公明党の代表に言ったら嫌な顔をしていました(笑)」というオチがついている。こういう箇所に出くわすと、なおさらとことん公明党について彼と語っておきたかったとの思いが募ってくるのだが(2014・9・2)

     【御厨貴さんについては、私は自著『77年の興亡』の中で、平成の30年が終わって、昭和の最後の頃に戻ってしまったとの見立てを持っておられるのではないかとの疑いを抱いたことを指摘しています。その疑いは未だに続いており、一度晴らしたいと思いつつそのままになっているのは残念です。公明党についてはさまざまな論考をものしておられるだけに、よく分かっておられるはず。自公政権20年の重みを理解せず、単に昔に舞い戻ったとの評価はいただけないと思ったものです。

 団塊世代ジュニアに当たる教え子・佐藤信さん(当時研究員)との『中央公論』(2012年7月号)の「先生このまま逃げる気ですか」という対談は面白いものでした。世代間格差の現実を指摘され、正直に逃げるしかないと答えたとあるのには、感心しました。こういう先生に教えられた学生は幸せだなあと思いました。(2022-5-13)】

 

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昭和天皇と共に生きた眩い時代の意味(45)

つい先ごろ昭和天皇の実録がようやく完成したとのニュースに接した。没後四分の一世紀が過ぎようとする今、昭和天皇についてのすべてが明かされることは喜ばしい。たまたま福田和也『昭和天皇』第七部(独立回復 完結編)を読み終えたばかりだった私としては、なおさらその気分に浸っている。総合雑誌『文藝春秋』に連載された六部までとは違って、最終巻は『本の話 WEB』に引き継がれた。なぜそうなったかは寡聞にして知らないが、結果的には一番単行本化が待ち遠しく、貪り読むこととなった▼この本は、タイトルこそ昭和天皇となっているが、実際には”昭和人物録”の趣があるように思われる。あまたの人々のエピソードが、天皇との絡みは勿論、直接かかわりがなくとも、この時代を描写するうえで欠かせぬと、著者が判断されたものが顔を出す。ご本人は、あとがきで、歴史家でもない自分が昭和天皇をなぜ書いたかについての理由をこう書いている。「昭和天皇ー彼の人の視座を借りると、ありとあらゆる事件、人物を登場させることが出来る」ので、「そうした膨大な人物と、事件を包含しつつ、昭和という時代を背景とした、夥しいドラマを描いていきたい」と思った、と。壮大なドラマ集は実に読みごたえがあった▼福田氏はこの本の最後を「昭和六十四年一月七日、かの人は崩御された。我が国の歴史の中で、もっとも眩い一時代は、終焉を迎えた」と締めくくった。前年の九月に詠まれた最後の歌ー「あかげらの叩く音するあさまだき音たえてさびしうつりしならむ」で第一部を書き出して以来、七年あまりが経った。「遥かなさみしさを漂わせた」歌で、締めくくった「彼の人生は喪失に満ちたものだったが、その喪失からこそ、彼は学び続けた」。あらためて、昭和天皇と共に生きた私にとっての「眩い時代」を思い起こさせられた▼昭和天皇は、明治34年(1901年)4月29日生まれだから20世紀とともに生きた。25歳で天皇となり、敗戦の年には44歳となっていた。崩御の時は87歳余。その終戦の年にこの世に生を受けた私は、昭和天皇の後半生である43年間を共に生きたことになる。平成天皇のように直にお会いし、言葉をかけられたことはないが、思えば何かと関わりがあったことを今にして思う。崩御の日からわずか二週間ほどして、故郷姫路・西播磨から衆議院選挙に立候補するべく記者会見した。一年間の準備期間を経て、翌平成2年に落選し、平成5年に初当選。そして約20年後に引退した。こう振り返ると、昭和天皇の死で、それまでの時代と区切りをつけた私は、新たな人生の幕開けを切ったといえよう。だからどうなんだと言われそうだが、この本を読み終えて、あらためて昭和と平成の大きな時代の落差とでもいうべきものを、公私両面から感じることは確かだ。(2014・8.24)

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仏教学者の生涯を描き切った弟子 (44)

あなたの宗教は何ですかと訊かれたことがありますか?ほとんどの人は悩んだはずです。仏教と書いたり、真言宗,禅宗、日蓮宗などと個別の宗派を明確に書き込む人はよほど変わった人と言えるかもしれません。長い間日本では「葬式仏教」と言われ続け、宗教(仏教)はお葬式の時だけのものとの印象が根強くあります。また、キリスト教や西欧哲学に比べて、見劣りがする位置づけは認めざるを得ません。そういう状況を変えたいとの思いを強く持って生涯戦い続けてきた一人が仏教学者の故中村元さんでしょう。この人は、執筆した著書・論文が邦文で1186点余。欧文でも1480点余といいますからたまげてしまいます。その中村元さんの一生を弟子が書き表しました。植木雅俊『仏教学者 中村元』で、まことに読みやすくて、あれこれ考えさせられる面白くてためになる本です▼植木さんは、『仏教、本当の教え』で一気に世に知られた仏教思想研究家ですが、中村元先生の主宰する東方学院でインド思想や仏教思想、サンスクリット語を学んだ人です。40歳から十年近く毎週3時間、直接教えを受けたという彼は、「人生において遅いとか早いとかということはございません。思いついたとき時、気が付いた時、その時が常にスタートですよ」との師の激励を支えにしてきた。60歳を超えた今、見事にその才能の花を開かせました。この本は、単に中村元という人物の姿を描くだけではなく、弟子としての学問の捉え方をはじめ、師への仕え方などこと細かに記しており、あたかも「師弟伝」の趣すら漂っています▼この本の魅力は随所に、人間中村元の人となりを表すエピソードが満載されていること。19年がかりで仕上げた二百字詰め原稿用紙4万枚が、出版社の不手際で行方不明になった事例への対応には本当に驚く。謝りにきても怒らなかったというのだから。「怒ったって出てこないでしょう」というセリフには尋常ただならぬ境涯を感じさせる。さすがに一か月ほどは茫然自失とされたようだが、その後は「不死鳥のごとく(書き直しの)作業を再開」され、見事に仕上げられた。「やりなおしたおかげで、前のものよりもずっとよいものができました。逆縁が転じて順縁となりました」と述べていたのには、ただただ頭が下がる思いだ。加えて、泥棒に入られた事件にはもう笑ってしまう。人格者というのはこういう人を言うのだろうと思うが、ここではあえて触れない。みなさん、読まれてのお楽しみだ▼中村元という人は『東洋人の思惟方法』で、実質的に世に出たのだが、ここには異民族間、異文化間の相互理解と世界の平和を願う思いが込められていて、生涯を通じて彼が追ったテーマが凝縮されています。その後の膨大な著作も結局は、「処女作に回帰する」側面が強いと思われます。この著作には様々な毀誉褒貶があったことを植木さんは淡々と触れていますが、ここに始まって晩年に至るまで、仏教学の世界からはあれこれの反発を常に受ける存在であったことが推測され、きわめて興味深いものがあります▼中村さんは、日本の仏教の現状について「まじめに考え、まともに解決すべき問題を回避して、ごまかしている」と厳しい見方を提示していますが、それについて、植木氏は「2012年11月28日で、中村は生誕百周年を迎えた。我が国の現状を見る限り、六十五年前に中村が指摘していることは、残念ながら今なお変わっていないと言わざるをえない」としたうえで、「改めて、『自己との対決』によって仏教を思想としてとらえることの必要性を痛感する」と記しています。私には、ここはこの本の最重要なポイントと思えます。読みようによっては、師が生涯かけて取り組んだ仕事が現実を変革しえていないことを指摘し、これからの時代における弟子のなすべきことをさりげなく語っているからです。周知のように『思想としての法華経』の著者である植木さんの使命たるや、重大であるといえましょう。今に生きる我々の前途には、「仏教と言ってもいろいろあり、本来の仏教と異なって、権威主義化してしまったり、呪術的になったり、迷信じみたものになってしまったものもある」との彼自身の指摘のように、仏教そのものの差異化をどうとらえるかの問題があります。加えて、キリスト教批判を繰り返しながらもヨーロッパ思想との比較にあって劣勢が否めない東洋思想をどう宣揚するかの課題もあります。こうした問題を考えるうえで、きわめて示唆に富む本に出会えて、今私は幸せな気分に浸っています。(2014・8・20)

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なんのために走るのかと訊かれて (44)

今朝も10キロほどを80分かけて走った。時速7キロほどだからほんの駆け足程度。ランニングというよりもジョギングであろう。でも、というべきか、だから、というのがいいか、ともかく気持ちがいい。爽快そのもので、帰宅後に風呂に入った瞬間など、「あーっ、気持ちいーい」と思わず叫び声を上げてしまう。まさに至福の時が続く。もっとも、かつて高校の同期会で、走るのが習慣だと言ったら、「お前あほか」「なんのためにそんなしんどいことするんや」と言われた▼マーク・ローランズっていう哲学者は『哲学者とオオカミ』っていう本で有名だそうだが、私はそれよりも『哲学者が走る』という方を題名に魅かれて読んだ。「人生の意味についてランニングが教えてくれたこと」というサブタイトルが付けられている。決して面白い本とはいいがたく、こんなものでも著名になると売れるのか、というのが率直な印象だが、そこは例によって当方の浅知恵ゆえであろう▼「走ることには内在的に価値がある」「走るとき、人は人生に本来備わった価値と接する」「自分の歴史をきり開く場なのではないか」「走ることは回想の場だ」「長いこと忘れていた思考を掘り出す場所である」などといった片言句々が印象に残る。要するに、なぜ山に登るのかと訊かれて「そこに山があるからだ」と答えるしかないとの有名なやりとりと同様に、「走るのは気持ちがいいから」だと言うしかない。ローランズ氏は、それを「最高の価値においては遊びであって労働ではない」と述べて結論づけている▼要するに、健康のためといった目的云々などよりも、走りたいから走るだけの代物だ。加えて、私は常には眼鏡をかけているが、走るときには着用しない。裸眼でもそれなりに走れる。それゆえ、見えないものが見えるから不思議だ。姫路城三の丸広場の芝生はまだら状態で生えているが、それを見るたびに飛行機で上空からやがて着陸するといった高度での地上の風景を思い起こす。ありとあらゆる風景を連想させるのだ。こう書くと、なんだかローラン氏と一緒だと言われそうだが、明らかに違うのは、彼はランニングについて書くことでお金儲けをしていることなのだ。その意味では、彼にとっては走ることで、労働の代価として報酬を得ているといえよう(2014・8・13)

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資本主義の終焉と新時代の地球哲学 (43)

『資本主義の終焉と歴史の危機』ー元民主党政権の経済ブレーンで経済学者の水野和夫氏のこの本はこの夏一推しの本だ。前作の萱野稔人氏との対談本『超マクロ展望 世界経済の真実』も読ませたが、これはさらに知的刺激をそそる。世界経済の今を歴史に立ち返って分析し、近未来の動向を予測するうえで得難い手引書となる。資本主義がもはや命運が尽きたという、いままで何度もいいつくされた感のするテーマではあるが、この人はぐっと文明論的に問題の解明を進めてくれ、面白い▼資本主義が目指すものは利子率によって推し量られる。それが今やゼロ金利。資本を投資しても利潤が出ないーこのことは何よりも資本主義の終焉を物語っている。「長い16世紀」といわれる時代が、中世から近代への大転換の時であった。それと対をなす500年ぶりの転換の時が今だ。著者は、「長い21世紀」と呼ぶ。しかし、この時代は、もはや経済の成長の糧となる新天地がない。経済発展のための対象地域が失われた今、「電子・金融」のバーチャルな空間に目を向けて、目先をごまかすしかないというのが実態だ▼これには、未開の地・アフリカがあるではないか、との反論はあろう。しかし、そことて、これからの投資先としてはたかが知れている。束の間の先送りにはなっても恒常的な資本投資先としてはあまりに心もとない。もはや地球上のパイオニアはなくなり、人々にとってかつてのような新たに儲ける手だてはないというのが偽らざるところなのだ。▼資本主義に代わる、新たな理念や経済の仕組みが待望されるといいつつ、自分にはそれが何かが解らないと、正直に水野氏は言う。ひたすら息を吞んで読み進めた読者は最後に突き放されるわけだ。では、どうするかは、今に生きる人々が知恵を出し合うしかない。ここは地球上の実態を認識し合って、限られた資源をどのようにシェアして生き抜くかについて相互理解を進めるしかないのだろう。しかし、先にうまい汁を吸いつくした先進国家群の主導するそういった身勝手な方向性を、後進国家群が許容するとは想像しがたい▼ここは、やはり、地球上に住むあらゆる民族、国家群を、意識において束ねる哲学・思想が待たれるところだと思われる。そう、いささか飛躍に聞こえるかもしれないが、21世紀は真実の宗教の世紀なのだ。16世紀は、資本主義の抬頭で、西洋のキリスト教の終焉をもたらした。それから5世紀という長大な時間を経て、今21世紀は、東洋の仏教思想の抬頭で本格的な幕開けを迎えたといえよう。(2014・7・28)

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余部鉄橋補修工事半ばで逝った従兄を想う (42)

宮本輝さんの自伝と言われる『流転の海』(全七部)の第六部までをようやく文庫本で読み終えた。かつて我々の信奉する仏法を基盤にした小説ってどんなものだろうかと考え、親しい仲間であれこれ意見を交わしたことがある。その時は、船山馨さんの『石狩平野』辺りが一番近いのかな、との結論だったと記憶する。しかし、今は違う。文句なしに宮本輝さんのものだと確信する。読んでいて、しばしば共鳴し同感するくだりは枚挙にいとまがない▲私の従姉に無類の本好きがいるが、このひとから『流転の海』を読むことを勧められた。というより、読もうと言う気にさせられた。というのが「二回目読んでる」と聞かされたからだ。というわけで、やっとこさっとこあと一息で全七巻読了という段階まで来た。その第六部『慈雨の音』には、私にとっても、また従姉にとっても、極めて印象に残るシーンが登場する。それは、かの余部鉄橋の中間あたりから遺灰を撒くという、まさに幻想的そのものの場面なのだ▲兵庫県美方郡香美町にあるこの鉄橋は、高さ41mほどの橋脚を持って約310mに及んで、川と国道の上を跨いでいる。山陰本線鐙駅と餘部駅間にある、この鉄橋は明治45年の開通いらい、静かな人気を博してきた。何しろ細長い橋桁の上を、日本海を背景に列車が走る風景は、大げさだが、この世のものとは思えないぐらいであった。残念ながら昭和61年に突風に煽られ、走行中の車両が転落するという事故があっていらい、付け替え工事が射程に入った。最終的に2010年(平成22年)に鉄筋コンクリート化が完成した。実は、この工事を担当したのが私の従兄・北後征雄氏である。従姉からすると弟になる▲北後氏は昭和40年代初頭の旧国鉄入社いらい、新幹線のトンネル工事に携わり、後にコンクリート研究で博士号を取得することになる。JR西日本を定年退職してから、この余部鉄橋の付け替え工事の担当を退職後の第二の職場・大鉄工業ですることになった。彼から、何とか今までの鉄橋の橋脚を生かした形で、工事をすることが出来ないものか、との相談を受けたことがある▲最終的にはその願いは叶わず、心ならずもコンクリートで補修するという形になってしまったが、その工事の完成途上で、彼は大腸がんのためにこの世を去ることになった。『慈雨の音』で遺灰を撒く場面が出てくると、思わず北後氏の無念の死を思い出し、作中の主人公たちの思いと重なり合ってしまった。宮本輝さんに逢ってこのことを伝えたいものだ(2014・7・18)

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透徹した眼差しで見ぬく元外務官僚 (41)

じっとこちらを見つめるまなざしが異様だった。恐らく15年以上ほど前のことだが、国会の会合で見かけて、未だに強い印象で残っているひとを、私はこの人をおいて知らない。佐藤優ー元外務省主任分析官で、今を時めく大作家だが、当時は違った。公明党の外交安全保障部会に来た説明要員の一人として、前席に坐るのではなく、後裔で壁を背にして私の真正面に坐っていた。およそ感情らしきものはその大きな瞳からは感じられなかった。ゆえに、なんだか妙な違和感がずーっと残っていた▲後に(2002年5月)、鈴木宗男事件に絡む背任容疑で逮捕され、同年7月に偽計業務妨害容疑で再逮捕され、512日間拘留されたひとである。『国家の罠』を2005年に出版して以後の、この10年の凄いしごとぶりは、まさに八面六臂を越える。彼の書いた本は正直言って読む方が追いつかない。私は最初の頃は殆ど全て読み漁り続けたが、もう追いつかない。とりわけキリスト教神学にまつわる専門的著作は手におえず、読書レースから脱落してしまった▲その彼が総合雑誌『潮』誌上に、池田SGI会長と歴史学者A・J・トインビー氏との対談を読み解く連載をし、それが『地球時代の哲学』としてまとめられた。当初は引用部分が多すぎないかとの思いを禁じ得なかったが、読み進むうちにすっ飛んだ。池田先生をまっとうに理解する本物の知識人が登場した、との思いを心底から持つ。現役時代を通じて、私が付き合った外務官僚で、彼を評価するひとを寡聞ながら知らなかった。外務省への徹底した批判の刃がもたらしたものだろう。せいぜい記憶力が凄いね、というくらいで、後は無視するのが精いっぱいという人が大半だった。さてその後の彼を見聞し、引き続きそういう態度を取るのかどうか、一人ひとりに聞いてみたいものだ▲今回の集団的自衛権問題にまつわる論評でも彼のそれは、明解そのものだ。「公明党の圧勝」で、「公明党が連立与党に加わっていなかったならば、直ぐにでも戦争ができる閣議決定、体制になっていたのではないか」といった位置づけは、まさに公明党の支持者にとって胸すく思いになろう。これまで佐藤優の存在を知らなかった人々にとって、ちょっと古い譬えだが、天から降り来ったスーパーマンか月光仮面のように思われるのではないか。「これでは米国の期待に応えられないのではないか」とみる外務省関係者やOBの声を取り上げ、低評価の背景を明らかにしている。今思うことはただ一つ、佐藤さんをして贔屓の引き倒しにさせないようにせねば、と。(2014・7・15)

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【40】1-⑦ 見失われた「国家的自己決定能力」━━五百旗頭眞『日本の近代6 戦争・占領・講和』

◆「集団的自衛権問題」での沈着冷静な捉え方

 集団的自衛権問題をめぐる閣議決定(2014-7)について、当時これで「戦争に巻き込まれてしまう」とか、これで「平和を保つことが出来る」という賛否両論の立場からの議論があった。これはどちらもかなりいかがわしいと私には思われた。当時の安倍首相言うところの「抑止力」が破たんすれば、自ずと戦争になるのは当然である。従来なら同盟国・日本として、米国に対し何も出来なかったのが、これで出来るようになったということに違いない。それを恐れてどこかの国が先制攻撃をしてこなければ、今まで通り平和は保てる。それでもなお、その国が仕掛けてくればそれが不可能になってしまうと言うに過ぎないのである。

 この辺りについて、元防衛大学校長で神戸大学名誉教授の五百旗頭真さんが意味深長なことを公明新聞のインタビューで答えていた。「事実上、憲法を変えられないのなら、国にとって必要な場合、通常の法手続きで変えていかざるを得ない。というより、それは国権の最高機関が担うべき当然の仕事のはずだ」し、「憲法を抱いて死ぬ選択を国は行ってはならない」と。「解釈改憲」であるとして、必要以上に批判する態度を、諌めている。今回のことがなければ、座して死を待つことになりかねなかったと、述べていたわけだ。私は、当時のことを「解釈改憲」とまでは思わなかったが、紙一重だと思ってきただけに、五百旗頭さんのこの指摘は極めて傾聴に値すると思った。

 五百旗頭さんの『日本の近代6 戦争・占領・講和』は、市川雄一さんに勧められて出版直後だった13年ほど前に読んだ。末尾の7行が忘れられない。長いが引用する。「(戦後に)サンフランシスコ体制に守られて、経済発展と利益配分の小政治に没頭し続けるうちに、大局観に立った国家的自己決定能力を見失った感がある。経済大国にはなったが、尾根筋に立った者に求められる大局的展望能力と、それに基づいて決断する者に漂う風格が失われた。他国民と世界の運命に共感をもって自己決定する大政治の能力を今後の日本は求められよう。なぜなら、真珠湾から五五年体制までの歴史のように、全面的自己破滅を再生するという型を、もう一度繰り返す自由を、われわれは与えられていないからである」──この記述を銘記せよと、市川大先輩から聞かされた。あのときの自公協議の決断も、そうしたことに繋がれば、戦後安全保障の歴史に大いなる転機を作ったことになるはずである。

◆占領期における重要な気づき

 この本を今読み返す中で、新たな気づきがあった。1947年(昭和22年)4月25日の総選挙の結果、社会党が第一党に躍り出て、自由、民主の保守二党がそれに続き、国民協同党と共に、四党連立政権の誕生をみたことであった。片山哲内閣の誕生である。この内閣を従来、社会党中心ゆえに左翼内閣と見る傾向が私にはあったが、それは正確さを欠く。これはのちの「自社さ政権」の先駆だったかもしれない。いや、それも違うかも。五百旗頭さんは、当時のマッカーサーが声明で「日本国民は、共産主義的指導を断固として排し、圧倒的に中庸の道、‥‥極右、極左からの中道の道を選んだのである」と意義づけたことを紹介している。

 更に、「共産党の急進主義がマッカーサーの弾圧にあうと、人々はそれではないが、保守の旧政治でもない、穏健な革新政治の可能性をたずねたのである」と述べている。こう見ると、「中道政権へ」との見出しは編集部の勇み足であろう。「穏健な革新政治へ」が望ましいと、「真正中道主義者」を自認する私には思われる。

 五百旗頭さんは、兵庫県の私学の名門・六甲高校出身だ。この学校の生徒は、いつもふろしきを抱え、電車内で断じて座らないという校風を持っていたことが知られている。なんだか防衛大学校と相通じるものがありはしないか。その校長の職務を終えられたあと、「東日本大震災復興構想会議」の議長を務められ、見事な手腕を発揮されたことは周知の通りである。私は様々な機会にお逢いし、教えを乞うた。日本政治外交史、日米関係論の先達を前に、その都度、政治のプレイヤーの端くれの一人として、肩身の狭い思いを禁じ得なかった。これを契機に、少しは日本の政治に胸を張れるようにしていきたい。

【他生のご縁 PKO法に結ばれて】

 PKO法審議の頃に市川雄一さんが五百旗頭さんをしばしば党に招いていただきました。物腰柔らかな本当に柔和な方でした。私と年齢は3歳ほどしか違いませんが、とてもそうは見えず、いつもその貫禄に圧倒されたものです。

 『77年の興亡』を書くにあたり、戦後日本にとって最も貴重な時間は占領期の7年間だったと、つくづく思いました。維新後から西南の役までの時間と対置できると思います。かつて「占領期が大事」だと五百旗頭さんの指摘を受けながらも、深く考えることがなかった身の不明を恥じます。

 放送大学の講座で、五百旗頭薫さんの日本政治外交史の講義を聴き、息子さんと知りました。学者一族の五百旗頭家や、父上のことを思い起こしながらテレビの向こうに立つ薫さんを見つめていました。

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偉大な出版人の死で思い出したことなど (39)

元中央公論編集長の粕谷一希さんが亡くなってはや二か月ほどが経つ。類まれな出版人として著名なこの人は、『作家が死ぬと時代が変わる―戦後日本と雑誌ジャーナリズム』という本の中で、三島由紀夫と司馬遼太郎の死が時代を画したことを書き記している。一転、彼の死で、評論家が死ぬと時代は変わると、いう思いを持つ人は少なくないだろう▲実は、私は数年間にわたってこの偉大な言論人と席を同じくしたことがある。新学而会という名の(この名前は勿論、『論語』より由来する)会でご一緒させていただいた。私の学問上の恩師・中嶋嶺雄先生が呼びかけ人として行われたこの会には、名だたる学者・文化人が参加されていたが、とりわけ私はこの人に畏敬の念を抱いていた。なぜかと言えば、ジャーナリズムの世界に憧れ、新聞記者の端くれとして青年時代の一時期を過ごしたものとして、仰ぎ見る存在だったからである▲彼は、永井陽之助、高坂政堯、山崎正和、塩野七生といった言論人を育ててきたと言われる。世に粕谷学校といわれるものについては、今発売中の文藝春秋8月号の巻頭文「日本人へ」に詳しい。中嶋先生と共に永井陽之助先生の謦咳に、大学時代の講義で接したことのある私にとって、一緒のテーブルで語り合った時間は珠玉の趣きがあったという他ない▲残念ながら今ここで紹介できるような秘話は粕谷さんと私の間にはない。幾たびか話しかけてはみたが、会話は続かなかった。私の能力不足は勿論だが、粕谷さんももはや往年の鋭さを発揮されるだけの気力を持っておられなかったかのように思われた。会の合間に、時に居眠りをされていたいたことも今となっては懐かしい▲塩野さんは、前掲の小論で粕谷さんの『随想集全三巻』を推奨、「一昔前の日本に花開いた、知性の集合の観さえある」と書いて、読書欲を掻き立ててくれる。しかも、この三巻を読めば、”粕谷学校の生徒衆”の全集も読みたくなるとしたうえで、電子書籍化の効用まで説いている。何十冊であろうと、持ち運べるからだ、と。このほど、5冊目の電子書籍を刊行したばかりで、近く6冊目を出版する私にとって、大変に嬉しい言葉だ。(2014.7・10)

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駆けつけ警護が可能になって喜ぶ人を想う (38)

今回の集団的自衛権行使容認の閣議決定を一番喜んでいるのは、間違いなく岡崎久彦氏だと思われる。元外務省情報局長でありサウジアラビアやタイ駐日大使などを歴任した人物だ。早速、産経『正論』に「苦節35年、集団的自衛権の時きた」(7・2附け)と書いている。ここ数年は、様々な外交防衛に関する論考の結論部分において、判で押したごとく集団的自衛権の行使容認を説いて飽くことがなかったといって過言ではない。この論考では、彼自身が防衛庁に勤務していた1980年ごろの東京湾からペルシャ湾までのオイルルート防衛の実態を振り返り、米軍の不平、不満を代弁している。海上自衛隊がパトロールに参加できず、しかも「日本の船は守れても、米国の船やアジア諸国の船は守れない」のは、当時の憲法解釈のなせる業だった、と▲岡崎久彦氏には『百年の遺産』を始め膨大な著作があり、何れも読み応え十分だが、安倍晋三氏との間に『この国を守る決意』なる対談本がある。2004年1月発刊だから、10年前のもので、一回目の総理就任前だ。これを読むと明らかに岡崎氏の”指南番ぶり”が明々白々である。美しい師弟関係が読み取れるとともに、安倍氏への期待感が全編漲っていることがくみ取れ、羨望さえ禁じえないほどだ▲実は、この両氏とともに、私は数年間外交防衛の専門家を中心とする『新学而会』なる勉強会に参加していた。ほぼ毎回、元蔵相・塩川正十郎氏や今を時めく伊吹文明衆議院議長ら自民党政治家も一緒だ。私の学問上の師であった故中嶋嶺雄先生(元秋田国際教養大学学長)肝いりのもので、知的刺戟溢れる機会であった。その場で、「PKO(国連平和維持活動)の現場にあって、襲われた外国の要員を、日本の自衛隊員が駆けつけて警護さえ出来ないのは何とかならないのか。今のままでは世界に顔向けできない」と切望された。公明党がこの問題について固い態度を堅持していることを見越しての私への苦情だった▲今回の自公協議では、国家やそれに準ずるものが背後にいなければ、との条件付きで駆けつけての警護が可能になった。当然だろう。これを国家の主権の発動とみて、「集団的自衛権」行使として、憲法9条が禁ずるものとしてきたのはいささか”場違い”だったからである。このことをようやく、今は亡き中嶋先生の墓前に報告できることは私とて嬉しい。これも、憲法9条の枠の中で、出来ることと出来ないことを執拗に仕分けすることを求めた成果に違いない。(2014・7・3)

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