『プロメテウスの罠』に嵌った朝日新聞を救うものー西村陽一(50)

 朝日新聞の大失態を前に思うことは少なくない。真っ先に思うことは、一人ひとりの記者は圧倒的に優秀なのに、社全体となると、かなりの疑問符がついてしまうことだ。で、今回のことで同社のエースが表面に躍り出てきたことは面白い。新たな編集担当の責任者、つまりは編集総局長に西村陽一氏がなったことである。前任の杉浦信之氏は経済部長経験者だったが、彼は政治部長経験者。タブロイド判の「グローブ」編集長をやった後、ついこの間まではデジタル事業本部長だった。ロシア・モスクワ支局を経たのち、アメリカ総局長を務めるなど国際政治に明るいことで知られる。それよりもなによりも彼は公明党番記者だった。だから彼とは様々な場面で交歓のひとときを持った仲なのである▼彼が処女作『プロメテウスの墓場』を書いてからかれこれ15年が経とうか。ソ連崩壊直後のモスクワに約4年駐在していた間に、かの国の各地を回った経験をもとに、リアルなドキュメントタッチでロシアにおける核廃棄物の危険性を鮮やかに描いて見せた。「真冬の北極圏は、太陽に見放される。12月、うっすらと明るくなるのは、午前11時過ぎから午後2時頃までの3時間くらいしかない。漆黒の闇に包まれる夕刻ともなれば、凍てついた道の上を最大で秒速三十メートルの寒風に乗って吹雪が走る。ところどころにたつ街灯の鈍い 光に照らされた 雪は、まるで蛾の乱舞のようだ」ーこの書き出しは、ロシア北極圏のムルマンスク州にある町ボリャルヌイの描写だが、思わず引き込まれていく。彼の大先輩であるジャーナリストの船橋洋一氏(元朝日新聞主筆)と一緒に、私の仕事上のボス市川雄一氏(元公明党書記長)と4人で歓談したのがその本の出版直前の頃だった。ゲラを見せてもらいながら、あれこれ意見を交わしたことが懐かしく思い起こされる。この本については私の『忙中本あり』の1999年3月5日号に、「太平洋を越えた読書交歓」との見出しで取り上げている。彼が太平洋やヨーロッパ、ユーラシア大陸をそれこそ股にかけて飛び回っている時のこと。それと知らずに国際電話をして「今何を読んでいるの」と聞き、その後お互いに語り合ったものだ▼彼が編集の最高責任者として登場するきっかけが文字通り、原子力発電所をめぐる事故の報道ということであるのは、「プロメテウスの因縁」めいていて興味深い。プロメテウスとは,ギリシア神話の中に登場する、天上の火を盗み人間に与えてしまった「英雄」を意味する。実は朝日新聞は連載『プロメテウスの罠』で一定の評価を得たとの思いが強かった様子が随所で観られた。これは、その後、「明かされなかった福島原発事故の真実」というサブタイトルを付けて単行本になっている。私は拾い読みしかしていないが、今回の失態が影を落としていないかどうか改めて検証する思いで読んでみたいものである▼2年前に私が現役引退をした際に、西村氏は送別の宴を仲間の記者2人(男性と女性)と共にやってくれた。この二人も滅法優秀な人材で、紛れもなく朝日新聞を代表する看板記者であり、私はこよなく親しみを感じている。彼らが自らの所属する共同体の根源的な危機にどう立ち向かうか、心底からの関心を持って見守りたい。かつての西村氏は、賢すぎて凡なるものの存在が見えないのではないかと、周りを危惧させるものがあったようだ。だが、あれからひと昔もふた昔もときは流れている。彼は昔の彼ならず、で着実に成長しているに違いない。ひとり「朝日」の為ならず、汚された日本の名誉のためにも頑張って欲しい。(2014・9・19)

※他生のご縁 番記者をきっかけに交遊深める

【時は更に流れました。その後彼は経営陣の一角を占め、代表取締役常務となって、先ほど完全にリタイアしました。私と付き合い始めた頃は、間違いなく彼は先輩・船橋洋一氏の後を継いで、日本を代表する物書きになるものと思っていたものですが、意外にも違った道を進んでいったようです。

 尤も、今年の年賀状に「国内と海外の大学に対するオンラインの講義を始めました」とありました。これから次の更なる飛躍に向けて満を持しているのかもしれません。時代の転機にあって、彼のような国際経験豊富な人材にはもっともっと活躍していって欲しいと思います。】

 

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最後の官選沖縄県知事・島田叡の叫び声(49)

NHKの朝ドラ「花子とアン」で、空襲を逃げる場面を見ていて、亡き母から聞いた戦争体験を思い起こした。大きなお腹を抱えるようにして(私は昭和20年11月生まれ)防空壕に逃げ入ったり、竹やりで敵を迎え撃つ訓練をしたなどということを。日本中で無差別空襲を受け、こうした対応を余儀なくされたものの、地上戦には至らなかった。たった二つの県を除いて。一つは、沖縄であり、もう一つは北海道だ。後者は、8・15以後のどさくさまぎれの中でのソ連の侵攻であり、戦争の性格が違うのでこの際は省く▼沖縄での日米戦の激しさは様々な機会に語り継がれてきており、私も現場に幾度となく足を運んだ。ただ、このたび読んだTBSテレビ報道局『生きろ』取材班『10万人を超す命を救った沖縄県知事・島田叡』ほどの胸打つ記録は未だ知らない。読み終え,深く為政者の使命を考えさせられた。次々と県庁から職員が逃亡してしまったり、前任の知事さえ東京に行ったまま戻ってこないといった事態の中で,敢然と赴任してきた島田知事。その半年足らずの決死の知事としての職務遂行ぶりは心底から感動を呼ばずにはいられない▼この本は昨年8月7日にTBS系で全国放送した報道ドラマ『生きろ~戦場に残した伝言~』の放送原稿とそのベースになった取材メモで再構成されたもの。島田知事役には緒形直人が好演した。併せて知事とまさに二人三脚で最後まで頑張りぬいた沖縄県警の荒井退造警察部長も忘れがたい。いやそれどころかこの人ありての知事とすら、思わせる心かよったコンビぶりだ。私はあの日の放映をしっかりと観た。本当に感動した。普通では見落としかねなかったが、旧知のTBS記者から、このドラマの制作裏話をそれなりに聴いていた。その記者も私同様兵庫県人とあってかねて懇意だったが、「兵庫二中(現在の兵庫高校)の著名な出身者を教えて欲しい」との依頼を受け、武揚会(兵庫二中、同高校の卒業生で構成される同窓会)の中心者を紹介した経緯があったのである▼今まで島田叡の存在は知っていた。沖縄県を訪れた際にその慰霊の碑にも参拝したこともある。私が二中・兵庫高校に隣接する三中・長田高校の出身者ということもあって、長く尊敬していた。しかし、一般的には残念ながらあまり知られていない。何故だろうか。恐らくは、彼や警察部長を宣揚することが多くの敵前逃亡者を辱め、貶めることになるとの沖縄人特有の優しい心配りだったのではないか、と勝手に推察している。だが、もういいのではないか。強くそう思う▼国会に20年在職した私には、自身にとって数々の忘れられぬ場面がある。そのうちのベストワンとも言えるのが、沖縄県はこのままで行くなら独立する道しか残っていないとの趣旨の演説をしたことだ。誰しも心に去来するがそれを口にはしない。それを敢えてすることで、事態の深刻さを訴えたかったのだが、反応はいまひとつだった。普天間基地の辺野古移転を巡って賛否二分される中、この11月に沖縄県知事選挙が行われる。誰がなるにせよ、選挙ではなく、官によって任命された最後の沖縄県知事・島田叡の思いを胸に、県民の心をくみ取ることでしか、真の解決策はないように思われる。勿論、それにはすべての日本人の共感があってこそだが。(2014・9・15)

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【48】日本近代の礎を培った15年の攻防━━松本健一『開国・維新』を読む

◆明治維新をわかりやすく説く旅立ち

 10年ほど前のことになる。夫婦で7月末に一泊二日で山口県の萩・津和野へ行った。その年は随分と雨が降ったのだが、この時ばかりはおかげさまで素晴らしい好天に恵まれた。萩は翌年の大河ドラマに取り上げられる(この地ゆかりの吉田松陰の妹がヒロイン)とあって、早くも前人気は上々だった。黒田官兵衛という戦国期の武将に続き、今度は明治維新があらためて話題になり、吉田松陰の生涯がなんであったかが人の口の端に上るのだなあ、と思った。そんな折も折、姫路在住の勉強熱心な女性Tさんから「明治維新って本当のところなんだったのか、教えて」と問われた。

 いざ、正面切って真剣に切り込まれると戸惑う。「260年あまりの江戸幕府の鎖国政策が、時代の流れに合わず、帝国主義列強の開国要求に揺さぶられて、国内から若い志士たちの討幕運動が巻き起こった。結果として『薩長土肥』を中心とする明治維新政府ができた。これは世界史でも珍しい無血革命と位置付けられている」というのが私の取りあえずの答えだった。しかし、かねて明治維新における「尊王攘夷」や「佐幕派対勤皇派」など錯綜する人物相関図を明確にすることで、正確に理解したいと思っていた身としては、これを機会に、あらためてこの時期の歴史を整理しなおそうと思い立った。

 そこで手にし、読み直し始めたのが松本健一『開国・維新』(「日本の近代シリーズ」第一巻)だった。松本さんとは私の現役時代に、共に同学年の太田昭宏氏(元国土交通大臣)らと一緒に親しく付き合っていただいたことがある。残念ながら先年亡くなってしまったが、尊敬する歴史家のひとりだ。「憲法改正」にも真剣に取り組んでこられ、とくに「第三の開国」論が持論だった。わたし的には彼の「1964年日本社会変革説」(かつて公明新聞に連載された)に深く共鳴してきたものだ。

◆100年かけて挑んだ「日本駆逐」の企み

 この本は、当然のことながら「ペリー来航」から始まるのだが、表紙裏の扉写真・風刺画が印象的である。江戸庶民の目に映った幕末戊辰戦争の構図が「幼童遊び   孤をとろ  子をとろ」というタイトルで描かれているものだ。幕府方についた姫路藩(注縄の柄)がわたしの目には、侘しい姿に映らざるを得ず、あれこれとその後の各地の運命(例えば、姫路は神戸に県中心地の座を奪われた)が連想させられる。

 横道にそれたが、「ペリー来航」は1853年7月8日(嘉永6年6月3日)のことだから、それから15年間が明治維新の期間といえる。15年といえば、あのアジア太平洋戦争を別名「15年戦争」と呼ぶ向きがある。昭和6年の満州事変から敗戦の決まった昭和20年までを一括りにするわけだ。同じ15年間だが、明治維新の方は、江戸幕府が倒れて新たな政府が立ち上がるまでの時間をさすだけに、イメージ的には比較すると、少し明るい期間といえるかもしれない。それにつけても僅か15年で日本近代の礎が作られた、というのはまさに脅威的というほかない。

 「ペリー来航」は、四隻の武装した黒船に象徴されるように、アメリカの砲艦外交の幕開けだった。約100年かけてアメリカは「日本駆逐」の企みを果たし遂げたともいえるわけで、歴史というものはまことに「禍福はあざなえる縄のごとし」であり、因果は簡単には読み取れない。この時に浦賀に真っ先に駆けつけたのが佐久間象山であり、一日遅れて到着したのが吉田松陰とされる。時に松陰24歳。このことが機縁になって彼は、渡航したいとの思いに駆られ、米船に乗り込もうとするも失敗、やがて死に至る因を作ることになる。

 僅か29歳でその後の日本に多大な影響を及ぼす生き方をした松陰。今度こそ、その真髄に迫ってみたいという気がする。再読を始めたばかりだが、鍵になるくだりは、「はじめは、『開国』路線をとった幕府によって切り拓かれつつも、結局のところ、『攘夷』路線をとる朝廷側の前に敗れていったのはなぜか、という深刻な問題でもある」というところだろう。これからこの本をベースに「わかり易い明治維新解説」への旅に出たい。

【他生のご縁 挫折してしまった「第三の開国」】

 松本健一さんといえば、東大同期の仙谷由人氏(元官房長官)を思い起こします。松本さんが晩年、民主党政権に参与的立場で関わることになったのは、仙谷氏との友情が機縁でしょう。亡くなってしばらく経った頃に、仙谷氏から「君とも親しかった松本の遺作を送るから」との電話がありました。2人とも早々と鬼籍入りしてしまいました。残念なことです。

 彼の持論だった「第三の開国」論には、当時私も刺激を受けました。明治の開国から、昭和の敗戦に伴う第二の開国に続いて、平成における開国を、と真剣に考え訴えていました。それぞれに見合う明治の「大日本国憲法」と昭和の「日本国憲法」に呼応して、第三の開国に相応しい「平成憲法」を、というものでした。ことは簡単には運ばず、平成の30年は「失われ」て、終わりました。彼が健在なら、私の『77年の興亡』論をぶつけて議論してみたい思いに今強く駆られています。

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朝日新聞の危なさを15年前に指摘した悪口好き(47)

朝日新聞が危ない。例の従軍慰安婦問題での同紙の「謝罪風開き直り特集記事」いらい一段とおかしい。つい先日も、池上彰氏の連載の掲載をひとたびは拒否したものの、批判を気にしたのか、あとで撤回してみたりして、あれこれもがいている。というようなこともあってか、私の身の回りでも購読拒否ケースが相次いでいる。かくいう私はすでに今年から定期購読を止めた。理由は、あまりにもバランスを欠いた報道ぶりと、露骨なイデオロギッシュさに辟易したというところだろうか▼高島俊男氏といえば、知る人ぞ知る中国文学者で、姫路有縁の著名人とあって私もその著作を愛読してきた一人だ。『本が好き悪口いうのはもっと好き』なんかは、その絶妙なタイトルとあいまって忘れられない。その高島さんの朝日新聞の記者を徹底的にけなし切った古い雑誌記事をついこのほど読んだ。最近作『司馬さんの見た中国』(「お言葉ですが…」シリーズ別巻6)におさめられたもので、実際には「正論」1996年8月号に掲載済みのものだから、かなり旧聞に属する話ではある。これなど、朝日新聞社やその記者にとっては古傷を触られるようで、決して気持ちいいものではないだろう。あまり趣味がよくないことは承知で取り上げてみる▼高島さんは、この本の中ので、新聞記者が新聞社をやめてから出版した本について、徹底的に”料理”している。そうしたものは、しばしば「学識の底の浅さ、構築力のなさ、記述や引用の粗雑,文章のあらさ……。こうした、新聞記事では目立たなかったものが本では露呈する」と指摘したうえで、坂本龍彦『「言論の死」まで『朝日新聞社史』ノート』が、以上の弱点を「たしかに遺憾なくそなえている」と、いちいちの例をあげてこっぴどく叩いている。何か恨みでもあるのか、と思うぐらいに。私など、新聞記者の経験があるだけに、もしこんなことを書かれたら、もはや表を歩けない。ゆえに、何らかの報復を決意するはずだ▼この記者のその後は知らないが、以下、私が代わって高島氏への悪口を言ってあげたい。本にとって、中身とタイトルの不一致はままあるが、高島先生の場合は酷すぎる。『司馬さんの見た中国』というから、思わず司馬遼太郎の「中国見聞録」についてまとめたものだとふつうは思うではないか。少なくともこのテーマで半分近くは占められている、と。ところが、なんと、それに適ったものは、最初の二つの小文だけ。あとは、まったく無縁のものばかり。しかも、朝日新聞記者への悪口など今を去ること15年前。いや、もっと古く24年前のものまで、ここには収められているのだ。羊頭狗肉とは言わないまでも、古い製品を新しい包装紙で包んで出されたとあっては、今話題の「中国人商法」を真似たのか、と言いたくなる。以上、自身のことは棚にあげて。(2014・9・8)

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(46)オーラルヒストリーの面白さと危うさ━━御厨貴『知の格闘──掟破りの

全編これ裏話特集のおもむき

 元東大教授で今は放送大学教授の御厨貴さんとは二度お会いしたことがある。一度は読売新聞主催の憲法をめぐる座談会。今一度は、ある雑誌の編集者の仲立ちで太田昭宏代表(元国交相)と一緒に食事をした。いずれも未だ彼がTBSテレビの『時事放談』の司会(2007年から放映)に出るようにはなっていなかった頃のことだと思われる。特に、太田代表(当時)と共に会った時には、学者らしからぬ軽いタッチの方で、実に話しやすかったとの記憶が残っている。その際に「是非とも公明党のすべてを語り合いたいから別に機会を設けませんか」と言われたのに、太田氏の都合で実現出来ず、沙汰止みになった。これには悔いが残る。あれは絶対に受けるべきだと思った。私一人でもと思ったが、役不足ゆえ引き下がざるを得なかった。ひょっとして、赤松と一緒だと何かと不味いと思った太田氏の深謀遠慮で、その後2人だけで会ったのかもしれないと邪推しないでもないが。

 その彼の著作『知の格闘 ━━掟破りの政治学講義』は、「学問は、バトルだ 。好奇心が躍動する前代未聞の東大最終講義」と新書の帯にあるがごとく、政治学者の通常の枠を超えた面白い中身になっている。全編これ「裏話特集」といった感じで、笑えるエピソードや秘話が満載されていてまことに興味深い。衆議院議員を6期20年務め、それまでも政治記者や代議士秘書を併せて20年ほどやっていた、「永田町通」の我が身にしても、初耳や初お目見えのようなこともあって随分と〝お勉強”になった。新聞や週刊誌、テレビのニュースでだけでしか政治の姿かたちをご存じない方には、特にお勧めしたい。

 この人の放送大学講義で『権力の館』なるタイトルのものがあったが、私は毎回くい入るように映像を追ったものだ。戦前戦後の政治家の個人宅を中心に、あれこれエピソード風にまとめたものだったが、最高に興味深かい中身だった。今もなお再放送の機会があるし、教科書も手に入るので一読をお勧めしたい。つい我が家と比較してしまい、その都度惨めさを催したものだが、それこそあるべき政治家像だと妙な慰め方をしたものである。

  語り合いたかった「公明党論」

  私は小泉内閣の最後に一年間だけだが、厚生労働副大臣を務めたことがある。それ以前にも同じ旧神奈川2区選出の市川雄一代議士の秘書をしていたので、この人物を注意深くウオッチしたことがある。その私だけに、御厨さんの「小泉純一郎評」は出色の出来栄えだと感ずる。小泉氏のオーラルヒストリー(政治家の口述を歴史の証言として記録する)が難しいという理由を挙げているくだりである。

 理由の一つとして、小泉氏が徹底して自分の関心のあることしか喋らないことを挙げている。なにしろ、講演会で喋りたいことしか喋らず、時間が残っていても、自分の気分でさっさと止めて帰ってしまう、と。「相手があって自分があるとういうことを考えない人だ」とまで断定し、「小泉という人は記憶を失ってい」るし、「やったことをたぶん次から次へと忘れていっている人」だとまで言うのだから凄い。オーラルヒストリーにならなかった恨みが垣間見える。総理大臣を5年もやっていたのだから、そこまでは酷くなかろうと弁護したくなるぐらいである。

    ともあれ、最終講義の気安さゆえか、生来のこの人の性格からか、言いたい放題はまことに小気味いい。ただ、政治家の口述は記録する方の姿勢がかなり問われる。玉石混交の発言をすべて真に受けていくと、やがて出鱈目なことが歴史の事実として残り、誤ったイメージを随所にばらまきかねない。したがって、よくこの手のものは監視する必要があろう。例えば、中曽根内閣の官房長官として名を残した故後藤田正晴氏が「公明党はちょっと危ない」とし、その理由は「この国への忠誠心がない政党」だと、共産党とある意味同一視している。これには御厨氏は「俺が死ぬまで吹聴するな」と言われたようだが、最近は(時効だから)喋っているという。この話には、「先日、公明党の代表に言ったら嫌な顔をしていました(笑)」というオチがついている。こういう箇所に出くわすと、なおさらとことん公明党について彼と語っておきたかったとの思いが募ってくるのだが(2014・9・2)

     【御厨貴さんについては、拙著『77年の興亡』の中で、平成の30年が終わって、昭和の最後の頃に戻ってしまったとの見立てを持っておられるのではないかとの疑いを抱いたことを指摘しています。その疑いは未だに続いており、一度晴らしたいと思いつつそのままになっているのは残念です。公明党についてはさまざまな論考をものしておられるだけに、よく分かっておられるはず。自公政権20年の重みを理解せず、単に昔に舞い戻ったとの評価はいただけないと思ったものです。

 団塊世代ジュニアに当たる教え子・佐藤信さん(当時研究員)との『中央公論』(2012年7月号)の「先生このまま逃げる気ですか」という対談は面白いものでした。世代間格差の現実を指摘され、正直に逃げるしかないと答えたとあるのには、感心しました。こういう先生に教えられた学生は幸せだなあと思いました。(2022-5-13)】

 

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昭和天皇と共に生きた眩い時代の意味(45)

つい先ごろ昭和天皇の実録がようやく完成したとのニュースに接した。没後四分の一世紀が過ぎようとする今、昭和天皇についてのすべてが明かされることは喜ばしい。たまたま福田和也『昭和天皇』第七部(独立回復 完結編)を読み終えたばかりだった私としては、なおさらその気分に浸っている。総合雑誌『文藝春秋』に連載された六部までとは違って、最終巻は『本の話 WEB』に引き継がれた。なぜそうなったかは寡聞にして知らないが、結果的には一番単行本化が待ち遠しく、貪り読むこととなった▼この本は、タイトルこそ昭和天皇となっているが、実際には”昭和人物録”の趣があるように思われる。あまたの人々のエピソードが、天皇との絡みは勿論、直接かかわりがなくとも、この時代を描写するうえで欠かせぬと、著者が判断されたものが顔を出す。ご本人は、あとがきで、歴史家でもない自分が昭和天皇をなぜ書いたかについての理由をこう書いている。「昭和天皇ー彼の人の視座を借りると、ありとあらゆる事件、人物を登場させることが出来る」ので、「そうした膨大な人物と、事件を包含しつつ、昭和という時代を背景とした、夥しいドラマを描いていきたい」と思った、と。壮大なドラマ集は実に読みごたえがあった▼福田氏はこの本の最後を「昭和六十四年一月七日、かの人は崩御された。我が国の歴史の中で、もっとも眩い一時代は、終焉を迎えた」と締めくくった。前年の九月に詠まれた最後の歌ー「あかげらの叩く音するあさまだき音たえてさびしうつりしならむ」で第一部を書き出して以来、七年あまりが経った。「遥かなさみしさを漂わせた」歌で、締めくくった「彼の人生は喪失に満ちたものだったが、その喪失からこそ、彼は学び続けた」。あらためて、昭和天皇と共に生きた私にとっての「眩い時代」を思い起こさせられた▼昭和天皇は、明治34年(1901年)4月29日生まれだから20世紀とともに生きた。25歳で天皇となり、敗戦の年には44歳となっていた。崩御の時は87歳余。その終戦の年にこの世に生を受けた私は、昭和天皇の後半生である43年間を共に生きたことになる。平成天皇のように直にお会いし、言葉をかけられたことはないが、思えば何かと関わりがあったことを今にして思う。崩御の日からわずか二週間ほどして、故郷姫路・西播磨から衆議院選挙に立候補するべく記者会見した。一年間の準備期間を経て、翌平成2年に落選し、平成5年に初当選。そして約20年後に引退した。こう振り返ると、昭和天皇の死で、それまでの時代と区切りをつけた私は、新たな人生の幕開けを切ったといえよう。だからどうなんだと言われそうだが、この本を読み終えて、あらためて昭和と平成の大きな時代の落差とでもいうべきものを、公私両面から感じることは確かだ。(2014・8.24)

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仏教学者の生涯を描き切った弟子 (44)

あなたの宗教は何ですかと訊かれたことがありますか?ほとんどの人は悩んだはずです。仏教と書いたり、真言宗,禅宗、日蓮宗などと個別の宗派を明確に書き込む人はよほど変わった人と言えるかもしれません。長い間日本では「葬式仏教」と言われ続け、宗教(仏教)はお葬式の時だけのものとの印象が根強くあります。また、キリスト教や西欧哲学に比べて、見劣りがする位置づけは認めざるを得ません。そういう状況を変えたいとの思いを強く持って生涯戦い続けてきた一人が仏教学者の故中村元さんでしょう。この人は、執筆した著書・論文が邦文で1186点余。欧文でも1480点余といいますからたまげてしまいます。その中村元さんの一生を弟子が書き表しました。植木雅俊『仏教学者 中村元』で、まことに読みやすくて、あれこれ考えさせられる面白くてためになる本です▼植木さんは、『仏教、本当の教え』で一気に世に知られた仏教思想研究家ですが、中村元先生の主宰する東方学院でインド思想や仏教思想、サンスクリット語を学んだ人です。40歳から十年近く毎週3時間、直接教えを受けたという彼は、「人生において遅いとか早いとかということはございません。思いついたとき時、気が付いた時、その時が常にスタートですよ」との師の激励を支えにしてきた。60歳を超えた今、見事にその才能の花を開かせました。この本は、単に中村元という人物の姿を描くだけではなく、弟子としての学問の捉え方をはじめ、師への仕え方などこと細かに記しており、あたかも「師弟伝」の趣すら漂っています▼この本の魅力は随所に、人間中村元の人となりを表すエピソードが満載されていること。19年がかりで仕上げた二百字詰め原稿用紙4万枚が、出版社の不手際で行方不明になった事例への対応には本当に驚く。謝りにきても怒らなかったというのだから。「怒ったって出てこないでしょう」というセリフには尋常ただならぬ境涯を感じさせる。さすがに一か月ほどは茫然自失とされたようだが、その後は「不死鳥のごとく(書き直しの)作業を再開」され、見事に仕上げられた。「やりなおしたおかげで、前のものよりもずっとよいものができました。逆縁が転じて順縁となりました」と述べていたのには、ただただ頭が下がる思いだ。加えて、泥棒に入られた事件にはもう笑ってしまう。人格者というのはこういう人を言うのだろうと思うが、ここではあえて触れない。みなさん、読まれてのお楽しみだ▼中村元という人は『東洋人の思惟方法』で、実質的に世に出たのだが、ここには異民族間、異文化間の相互理解と世界の平和を願う思いが込められていて、生涯を通じて彼が追ったテーマが凝縮されています。その後の膨大な著作も結局は、「処女作に回帰する」側面が強いと思われます。この著作には様々な毀誉褒貶があったことを植木さんは淡々と触れていますが、ここに始まって晩年に至るまで、仏教学の世界からはあれこれの反発を常に受ける存在であったことが推測され、きわめて興味深いものがあります▼中村さんは、日本の仏教の現状について「まじめに考え、まともに解決すべき問題を回避して、ごまかしている」と厳しい見方を提示していますが、それについて、植木氏は「2012年11月28日で、中村は生誕百周年を迎えた。我が国の現状を見る限り、六十五年前に中村が指摘していることは、残念ながら今なお変わっていないと言わざるをえない」としたうえで、「改めて、『自己との対決』によって仏教を思想としてとらえることの必要性を痛感する」と記しています。私には、ここはこの本の最重要なポイントと思えます。読みようによっては、師が生涯かけて取り組んだ仕事が現実を変革しえていないことを指摘し、これからの時代における弟子のなすべきことをさりげなく語っているからです。周知のように『思想としての法華経』の著者である植木さんの使命たるや、重大であるといえましょう。今に生きる我々の前途には、「仏教と言ってもいろいろあり、本来の仏教と異なって、権威主義化してしまったり、呪術的になったり、迷信じみたものになってしまったものもある」との彼自身の指摘のように、仏教そのものの差異化をどうとらえるかの問題があります。加えて、キリスト教批判を繰り返しながらもヨーロッパ思想との比較にあって劣勢が否めない東洋思想をどう宣揚するかの課題もあります。こうした問題を考えるうえで、きわめて示唆に富む本に出会えて、今私は幸せな気分に浸っています。(2014・8・20)

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なんのために走るのかと訊かれて (44)

今朝も10キロほどを80分かけて走った。時速7キロほどだからほんの駆け足程度。ランニングというよりもジョギングであろう。でも、というべきか、だから、というのがいいか、ともかく気持ちがいい。爽快そのもので、帰宅後に風呂に入った瞬間など、「あーっ、気持ちいーい」と思わず叫び声を上げてしまう。まさに至福の時が続く。もっとも、かつて高校の同期会で、走るのが習慣だと言ったら、「お前あほか」「なんのためにそんなしんどいことするんや」と言われた▼マーク・ローランズっていう哲学者は『哲学者とオオカミ』っていう本で有名だそうだが、私はそれよりも『哲学者が走る』という方を題名に魅かれて読んだ。「人生の意味についてランニングが教えてくれたこと」というサブタイトルが付けられている。決して面白い本とはいいがたく、こんなものでも著名になると売れるのか、というのが率直な印象だが、そこは例によって当方の浅知恵ゆえであろう▼「走ることには内在的に価値がある」「走るとき、人は人生に本来備わった価値と接する」「自分の歴史をきり開く場なのではないか」「走ることは回想の場だ」「長いこと忘れていた思考を掘り出す場所である」などといった片言句々が印象に残る。要するに、なぜ山に登るのかと訊かれて「そこに山があるからだ」と答えるしかないとの有名なやりとりと同様に、「走るのは気持ちがいいから」だと言うしかない。ローランズ氏は、それを「最高の価値においては遊びであって労働ではない」と述べて結論づけている▼要するに、健康のためといった目的云々などよりも、走りたいから走るだけの代物だ。加えて、私は常には眼鏡をかけているが、走るときには着用しない。裸眼でもそれなりに走れる。それゆえ、見えないものが見えるから不思議だ。姫路城三の丸広場の芝生はまだら状態で生えているが、それを見るたびに飛行機で上空からやがて着陸するといった高度での地上の風景を思い起こす。ありとあらゆる風景を連想させるのだ。こう書くと、なんだかローラン氏と一緒だと言われそうだが、明らかに違うのは、彼はランニングについて書くことでお金儲けをしていることなのだ。その意味では、彼にとっては走ることで、労働の代価として報酬を得ているといえよう(2014・8・13)

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資本主義の終焉と新時代の地球哲学 (43)

『資本主義の終焉と歴史の危機』ー元民主党政権の経済ブレーンで経済学者の水野和夫氏のこの本はこの夏一推しの本だ。前作の萱野稔人氏との対談本『超マクロ展望 世界経済の真実』も読ませたが、これはさらに知的刺激をそそる。世界経済の今を歴史に立ち返って分析し、近未来の動向を予測するうえで得難い手引書となる。資本主義がもはや命運が尽きたという、いままで何度もいいつくされた感のするテーマではあるが、この人はぐっと文明論的に問題の解明を進めてくれ、面白い▼資本主義が目指すものは利子率によって推し量られる。それが今やゼロ金利。資本を投資しても利潤が出ないーこのことは何よりも資本主義の終焉を物語っている。「長い16世紀」といわれる時代が、中世から近代への大転換の時であった。それと対をなす500年ぶりの転換の時が今だ。著者は、「長い21世紀」と呼ぶ。しかし、この時代は、もはや経済の成長の糧となる新天地がない。経済発展のための対象地域が失われた今、「電子・金融」のバーチャルな空間に目を向けて、目先をごまかすしかないというのが実態だ▼これには、未開の地・アフリカがあるではないか、との反論はあろう。しかし、そことて、これからの投資先としてはたかが知れている。束の間の先送りにはなっても恒常的な資本投資先としてはあまりに心もとない。もはや地球上のパイオニアはなくなり、人々にとってかつてのような新たに儲ける手だてはないというのが偽らざるところなのだ。▼資本主義に代わる、新たな理念や経済の仕組みが待望されるといいつつ、自分にはそれが何かが解らないと、正直に水野氏は言う。ひたすら息を吞んで読み進めた読者は最後に突き放されるわけだ。では、どうするかは、今に生きる人々が知恵を出し合うしかない。ここは地球上の実態を認識し合って、限られた資源をどのようにシェアして生き抜くかについて相互理解を進めるしかないのだろう。しかし、先にうまい汁を吸いつくした先進国家群の主導するそういった身勝手な方向性を、後進国家群が許容するとは想像しがたい▼ここは、やはり、地球上に住むあらゆる民族、国家群を、意識において束ねる哲学・思想が待たれるところだと思われる。そう、いささか飛躍に聞こえるかもしれないが、21世紀は真実の宗教の世紀なのだ。16世紀は、資本主義の抬頭で、西洋のキリスト教の終焉をもたらした。それから5世紀という長大な時間を経て、今21世紀は、東洋の仏教思想の抬頭で本格的な幕開けを迎えたといえよう。(2014・7・28)

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余部鉄橋補修工事半ばで逝った従兄を想う (42)

宮本輝さんの自伝と言われる『流転の海』(全七部)の第六部までをようやく文庫本で読み終えた。かつて我々の信奉する仏法を基盤にした小説ってどんなものだろうかと考え、親しい仲間であれこれ意見を交わしたことがある。その時は、船山馨さんの『石狩平野』辺りが一番近いのかな、との結論だったと記憶する。しかし、今は違う。文句なしに宮本輝さんのものだと確信する。読んでいて、しばしば共鳴し同感するくだりは枚挙にいとまがない▲私の従姉に無類の本好きがいるが、このひとから『流転の海』を読むことを勧められた。というより、読もうと言う気にさせられた。というのが「二回目読んでる」と聞かされたからだ。というわけで、やっとこさっとこあと一息で全七巻読了という段階まで来た。その第六部『慈雨の音』には、私にとっても、また従姉にとっても、極めて印象に残るシーンが登場する。それは、かの余部鉄橋の中間あたりから遺灰を撒くという、まさに幻想的そのものの場面なのだ▲兵庫県美方郡香美町にあるこの鉄橋は、高さ41mほどの橋脚を持って約310mに及んで、川と国道の上を跨いでいる。山陰本線鐙駅と餘部駅間にある、この鉄橋は明治45年の開通いらい、静かな人気を博してきた。何しろ細長い橋桁の上を、日本海を背景に列車が走る風景は、大げさだが、この世のものとは思えないぐらいであった。残念ながら昭和61年に突風に煽られ、走行中の車両が転落するという事故があっていらい、付け替え工事が射程に入った。最終的に2010年(平成22年)に鉄筋コンクリート化が完成した。実は、この工事を担当したのが私の従兄・北後征雄氏である。従姉からすると弟になる▲北後氏は昭和40年代初頭の旧国鉄入社いらい、新幹線のトンネル工事に携わり、後にコンクリート研究で博士号を取得することになる。JR西日本を定年退職してから、この余部鉄橋の付け替え工事の担当を退職後の第二の職場・大鉄工業ですることになった。彼から、何とか今までの鉄橋の橋脚を生かした形で、工事をすることが出来ないものか、との相談を受けたことがある▲最終的にはその願いは叶わず、心ならずもコンクリートで補修するという形になってしまったが、その工事の完成途上で、彼は大腸がんのためにこの世を去ることになった。『慈雨の音』で遺灰を撒く場面が出てくると、思わず北後氏の無念の死を思い出し、作中の主人公たちの思いと重なり合ってしまった。宮本輝さんに逢ってこのことを伝えたいものだ(2014・7・18)

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