じっとこちらを見つめるまなざしが異様だった。恐らく15年以上ほど前のことだが、国会の会合で見かけて、未だに強い印象で残っているひとを、私はこの人をおいて知らない。佐藤優ー元外務省主任分析官で、今を時めく大作家だが、当時は違った。公明党の外交安全保障部会に来た説明要員の一人として、前席に坐るのではなく、後裔で壁を背にして私の真正面に坐っていた。およそ感情らしきものはその大きな瞳からは感じられなかった。ゆえに、なんだか妙な違和感がずーっと残っていた▲後に(2002年5月)、鈴木宗男事件に絡む背任容疑で逮捕され、同年7月に偽計業務妨害容疑で再逮捕され、512日間拘留されたひとである。『国家の罠』を2005年に出版して以後の、この10年の凄いしごとぶりは、まさに八面六臂を越える。彼の書いた本は正直言って読む方が追いつかない。私は最初の頃は殆ど全て読み漁り続けたが、もう追いつかない。とりわけキリスト教神学にまつわる専門的著作は手におえず、読書レースから脱落してしまった▲その彼が総合雑誌『潮』誌上に、池田SGI会長と歴史学者A・J・トインビー氏との対談を読み解く連載をし、それが『地球時代の哲学』としてまとめられた。当初は引用部分が多すぎないかとの思いを禁じ得なかったが、読み進むうちにすっ飛んだ。池田先生をまっとうに理解する本物の知識人が登場した、との思いを心底から持つ。現役時代を通じて、私が付き合った外務官僚で、彼を評価するひとを寡聞ながら知らなかった。外務省への徹底した批判の刃がもたらしたものだろう。せいぜい記憶力が凄いね、というくらいで、後は無視するのが精いっぱいという人が大半だった。さてその後の彼を見聞し、引き続きそういう態度を取るのかどうか、一人ひとりに聞いてみたいものだ▲今回の集団的自衛権問題にまつわる論評でも彼のそれは、明解そのものだ。「公明党の圧勝」で、「公明党が連立与党に加わっていなかったならば、直ぐにでも戦争ができる閣議決定、体制になっていたのではないか」といった位置づけは、まさに公明党の支持者にとって胸すく思いになろう。これまで佐藤優の存在を知らなかった人々にとって、ちょっと古い譬えだが、天から降り来ったスーパーマンか月光仮面のように思われるのではないか。「これでは米国の期待に応えられないのではないか」とみる外務省関係者やOBの声を取り上げ、低評価の背景を明らかにしている。今思うことはただ一つ、佐藤さんをして贔屓の引き倒しにさせないようにせねば、と。(2014・7・15)
【40】1-⑦ 見失われた「国家的自己決定能力」━━五百旗頭眞『日本の近代6 戦争・占領・講和』
◆「集団的自衛権問題」での沈着冷静な捉え方
集団的自衛権問題をめぐる閣議決定(2014-7)について、当時これで「戦争に巻き込まれてしまう」とか、これで「平和を保つことが出来る」という賛否両論の立場からの議論があった。これはどちらもかなりいかがわしいと私には思われた。当時の安倍首相言うところの「抑止力」が破たんすれば、自ずと戦争になるのは当然である。従来なら同盟国・日本として、米国に対し何も出来なかったのが、これで出来るようになったということに違いない。それを恐れてどこかの国が先制攻撃をしてこなければ、今まで通り平和は保てる。それでもなお、その国が仕掛けてくればそれが不可能になってしまうと言うに過ぎないのである。
この辺りについて、元防衛大学校長で神戸大学名誉教授の五百旗頭真さんが意味深長なことを公明新聞のインタビューで答えていた。「事実上、憲法を変えられないのなら、国にとって必要な場合、通常の法手続きで変えていかざるを得ない。というより、それは国権の最高機関が担うべき当然の仕事のはずだ」し、「憲法を抱いて死ぬ選択を国は行ってはならない」と。「解釈改憲」であるとして、必要以上に批判する態度を、諌めている。今回のことがなければ、座して死を待つことになりかねなかったと、述べていたわけだ。私は、当時のことを「解釈改憲」とまでは思わなかったが、紙一重だと思ってきただけに、五百旗頭さんのこの指摘は極めて傾聴に値すると思った。
五百旗頭さんの『日本の近代6 戦争・占領・講和』は、市川雄一さんに勧められて出版直後だった13年ほど前に読んだ。末尾の7行が忘れられない。長いが引用する。「(戦後に)サンフランシスコ体制に守られて、経済発展と利益配分の小政治に没頭し続けるうちに、大局観に立った国家的自己決定能力を見失った感がある。経済大国にはなったが、尾根筋に立った者に求められる大局的展望能力と、それに基づいて決断する者に漂う風格が失われた。他国民と世界の運命に共感をもって自己決定する大政治の能力を今後の日本は求められよう。なぜなら、真珠湾から五五年体制までの歴史のように、全面的自己破滅を再生するという型を、もう一度繰り返す自由を、われわれは与えられていないからである」──この記述を銘記せよと、市川大先輩から聞かされた。あのときの自公協議の決断も、そうしたことに繋がれば、戦後安全保障の歴史に大いなる転機を作ったことになるはずである。
◆占領期における重要な気づき
この本を今読み返す中で、新たな気づきがあった。1947年(昭和22年)4月25日の総選挙の結果、社会党が第一党に躍り出て、自由、民主の保守二党がそれに続き、国民協同党と共に、四党連立政権の誕生をみたことであった。片山哲内閣の誕生である。この内閣を従来、社会党中心ゆえに左翼内閣と見る傾向が私にはあったが、それは正確さを欠く。これはのちの「自社さ政権」の先駆だったかもしれない。いや、それも違うかも。五百旗頭さんは、当時のマッカーサーが声明で「日本国民は、共産主義的指導を断固として排し、圧倒的に中庸の道、‥‥極右、極左からの中道の道を選んだのである」と意義づけたことを紹介している。
更に、「共産党の急進主義がマッカーサーの弾圧にあうと、人々はそれではないが、保守の旧政治でもない、穏健な革新政治の可能性をたずねたのである」と述べている。こう見ると、「中道政権へ」との見出しは編集部の勇み足であろう。「穏健な革新政治へ」が望ましいと、「真正中道主義者」を自認する私には思われる。
五百旗頭さんは、兵庫県の私学の名門・六甲高校出身だ。この学校の生徒は、いつもふろしきを抱え、電車内で断じて座らないという校風を持っていたことが知られている。なんだか防衛大学校と相通じるものがありはしないか。その校長の職務を終えられたあと、「東日本大震災復興構想会議」の議長を務められ、見事な手腕を発揮されたことは周知の通りである。私は様々な機会にお逢いし、教えを乞うた。日本政治外交史、日米関係論の先達を前に、その都度、政治のプレイヤーの端くれの一人として、肩身の狭い思いを禁じ得なかった。これを契機に、少しは日本の政治に胸を張れるようにしていきたい。
【他生のご縁 PKO法に結ばれて】
PKO法審議の頃に市川雄一さんが五百旗頭さんをしばしば党に招いていただきました。物腰柔らかな本当に柔和な方でした。私と年齢は3歳ほどしか違いませんが、とてもそうは見えず、いつもその貫禄に圧倒されたものです。
『77年の興亡』を書くにあたり、戦後日本にとって最も貴重な時間は占領期の7年間だったと、つくづく思いました。維新後から西南の役までの時間と対置できると思います。かつて「占領期が大事」だと五百旗頭さんの指摘を受けながらも、深く考えることがなかった身の不明を恥じます。
放送大学の講座で、五百旗頭薫さんの日本政治外交史の講義を聴き、息子さんと知りました。学者一族の五百旗頭家や、父上のことを思い起こしながらテレビの向こうに立つ薫さんを見つめていました。
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偉大な出版人の死で思い出したことなど (39)
元中央公論編集長の粕谷一希さんが亡くなってはや二か月ほどが経つ。類まれな出版人として著名なこの人は、『作家が死ぬと時代が変わる―戦後日本と雑誌ジャーナリズム』という本の中で、三島由紀夫と司馬遼太郎の死が時代を画したことを書き記している。一転、彼の死で、評論家が死ぬと時代は変わると、いう思いを持つ人は少なくないだろう▲実は、私は数年間にわたってこの偉大な言論人と席を同じくしたことがある。新学而会という名の(この名前は勿論、『論語』より由来する)会でご一緒させていただいた。私の学問上の恩師・中嶋嶺雄先生が呼びかけ人として行われたこの会には、名だたる学者・文化人が参加されていたが、とりわけ私はこの人に畏敬の念を抱いていた。なぜかと言えば、ジャーナリズムの世界に憧れ、新聞記者の端くれとして青年時代の一時期を過ごしたものとして、仰ぎ見る存在だったからである▲彼は、永井陽之助、高坂政堯、山崎正和、塩野七生といった言論人を育ててきたと言われる。世に粕谷学校といわれるものについては、今発売中の文藝春秋8月号の巻頭文「日本人へ」に詳しい。中嶋先生と共に永井陽之助先生の謦咳に、大学時代の講義で接したことのある私にとって、一緒のテーブルで語り合った時間は珠玉の趣きがあったという他ない▲残念ながら今ここで紹介できるような秘話は粕谷さんと私の間にはない。幾たびか話しかけてはみたが、会話は続かなかった。私の能力不足は勿論だが、粕谷さんももはや往年の鋭さを発揮されるだけの気力を持っておられなかったかのように思われた。会の合間に、時に居眠りをされていたいたことも今となっては懐かしい▲塩野さんは、前掲の小論で粕谷さんの『随想集全三巻』を推奨、「一昔前の日本に花開いた、知性の集合の観さえある」と書いて、読書欲を掻き立ててくれる。しかも、この三巻を読めば、”粕谷学校の生徒衆”の全集も読みたくなるとしたうえで、電子書籍化の効用まで説いている。何十冊であろうと、持ち運べるからだ、と。このほど、5冊目の電子書籍を刊行したばかりで、近く6冊目を出版する私にとって、大変に嬉しい言葉だ。(2014.7・10)
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駆けつけ警護が可能になって喜ぶ人を想う (38)
今回の集団的自衛権行使容認の閣議決定を一番喜んでいるのは、間違いなく岡崎久彦氏だと思われる。元外務省情報局長でありサウジアラビアやタイ駐日大使などを歴任した人物だ。早速、産経『正論』に「苦節35年、集団的自衛権の時きた」(7・2附け)と書いている。ここ数年は、様々な外交防衛に関する論考の結論部分において、判で押したごとく集団的自衛権の行使容認を説いて飽くことがなかったといって過言ではない。この論考では、彼自身が防衛庁に勤務していた1980年ごろの東京湾からペルシャ湾までのオイルルート防衛の実態を振り返り、米軍の不平、不満を代弁している。海上自衛隊がパトロールに参加できず、しかも「日本の船は守れても、米国の船やアジア諸国の船は守れない」のは、当時の憲法解釈のなせる業だった、と▲岡崎久彦氏には『百年の遺産』を始め膨大な著作があり、何れも読み応え十分だが、安倍晋三氏との間に『この国を守る決意』なる対談本がある。2004年1月発刊だから、10年前のもので、一回目の総理就任前だ。これを読むと明らかに岡崎氏の”指南番ぶり”が明々白々である。美しい師弟関係が読み取れるとともに、安倍氏への期待感が全編漲っていることがくみ取れ、羨望さえ禁じえないほどだ▲実は、この両氏とともに、私は数年間外交防衛の専門家を中心とする『新学而会』なる勉強会に参加していた。ほぼ毎回、元蔵相・塩川正十郎氏や今を時めく伊吹文明衆議院議長ら自民党政治家も一緒だ。私の学問上の師であった故中嶋嶺雄先生(元秋田国際教養大学学長)肝いりのもので、知的刺戟溢れる機会であった。その場で、「PKO(国連平和維持活動)の現場にあって、襲われた外国の要員を、日本の自衛隊員が駆けつけて警護さえ出来ないのは何とかならないのか。今のままでは世界に顔向けできない」と切望された。公明党がこの問題について固い態度を堅持していることを見越しての私への苦情だった▲今回の自公協議では、国家やそれに準ずるものが背後にいなければ、との条件付きで駆けつけての警護が可能になった。当然だろう。これを国家の主権の発動とみて、「集団的自衛権」行使として、憲法9条が禁ずるものとしてきたのはいささか”場違い”だったからである。このことをようやく、今は亡き中嶋先生の墓前に報告できることは私とて嬉しい。これも、憲法9条の枠の中で、出来ることと出来ないことを執拗に仕分けすることを求めた成果に違いない。(2014・7・3)
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官兵衛人気の陰でうごめく人たち (37)
黒田官兵衛人気に煽られて、見誤られている人物が少なからずいる。ここでは二人を挙げたい。一人は伊丹は有岡城主・荒木村重であり、今一人は御着の城主・小寺藤兵衛である。二人ともNHK大河ドラマ(前川洋一作)によると、自らが助かりたいために妻子も家来も何もかも捨てて、ひたすら逃げまくるおよそ最低、最悪の人間として描かれている▲伊丹の友人によると、こういった人物がかつて城主だったということはあまり有難くないので、官兵衛がかつて”滞在された”地として、宣伝しているとのこと。その心中や察してあまりあるが、笑ってしまうことは禁じ得ない。また小寺藤兵衛も、忠臣であり続けた官兵衛を売った卑劣極まりない城主だったことは、御着の人たちとしては恥ずかしい。ここは姫路の官兵衛を強調することで隠したい気分であろう▲勿論、一人の人物でその地が決まるわけではない。とはいうものの、”寄らば何とか”は世の常で、裏と表とでは大違いなのだから、裏に回った地域は面白くないはずだ。そこで、名誉挽回の見方はないものか、と思っていたら、あった。荒木村重はただ逃げまくったのではなく、毛利に援軍を求めるためにかの地に走ったのであって、決してわが身可愛さだけで、逃げたのではないとの説である。つまり、何としてでも織田信長にひと泡食わせ、一矢報いたい、そうでなければ、死んでも死にきれないとの一念だったというのである▲そう、私も信じたい。ともかく、毛利は思わせぶりだけで、最後まで動かなかったのは、まったく罪深いということにすれば、村重が浮かぶ瀬も出て来る。だが、藤兵衛はどうも救いようがないみたいだ。ここは、英雄と裏切り者と、両者が混在する地として、等身大の受け止め方の効用を説くしかないのであろう。(2014・6・30)
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(36)本好きの行きついた果てに(下)
もう一つは、私の尊敬する先輩と、わが妻と三人で懇談した折のことだ。談たまたま本のことに及んだ。よせばよかったのに、私は妻について、「うちのは今までの人生で三冊ぐらいしか本を読んでいないんですよ」とついオーバーながら、本当に近いことを言ってしまった。音楽を愛好する感性人間たるかの女は、読書を習慣とするに至っていないのである。
すかさずキッとした顔をした妻はこう切り返してきた。「確かにこのひとは沢山読んでいますよ。だけどもなーんにも身についていないんですよ」と。先輩は「ほーら言われた」と、呵呵大笑された。蜂の一刺しのような妻の逆襲はこたえた。あらためて”中国における常識”を描いた、異色の歴史家・岡田英弘の傑作『妻も敵なり』を思い起こした。恥ずかしいというよりも、妙にすっきりした気分になった。確かに当たっている、との自覚があるからだ。いらい、我が読書生活の結果としての貧弱さに思いを致さざるを得なくなってしまった。
数多の先人が本をどう読むかについて、その手の内を披露してきたものを私は漁ってきた。一番印象に残ってるのは、読書の達人と言われる松岡正剛が『多読術』で紹介している読書法だ。彼が最も感動して真似したと言われるもので、兵庫・但馬に「青谿書院」(せいけいしょいん)を開いた池田草庵の方法である。掩巻(えんかん)と慎読(しんどく)という二つ。なんだか難しそうで有難そうである。しかし、実際はそうでもない。前者は、「書物を少し読み進んだら、いったん本を閉じて、その内容を追認し、アタマの中ですぐにトレースしていく(順を追ってなぞる)」やり方。
後者は、「読書した内容を必ず他人に提供せよ」というもの。かの吉田松陰が真似をし、導入したと伝えられているから凄い。とはいえ、私はそれを徹底して実践したわけではなく、それこそ身についていない。
なんでもかんでも次から次へ読み、下手したら一度読んだものを、読んでいないと思ってまた読み、終わりの方になって気がつくというケースさえある、というのだから始末が悪い。
ついこの間新訳が出たというので飛びついたショーペンハウエルの『読書について』にはいささか衝撃を受けた。「読書するとは、自分でものを考えずに代わりに他人に考えて貰うことだ」から、「自分の頭で考える営みを離れて、読書にうつると、ほっとする」と鋭く見抜く。加えて、「読書しているとき、私たちの頭は他人の思想が駆けめぐる運動場にすぎない」と畳み込んだうえに、「たくさん読めば読むほど、読んだ内容が痕跡をとどめなくなってしまう」と決めつける。あまりのお見通しの立派さにほとほと笑ってしまった。ショーペンハウエルといえば、デカルト、カントと並ぶ西洋哲学御三家のひとり。兵庫は丹波篠山ゆかりの民謡で盆踊り唄の”デカンショ節”の語源との説もあるこの三人の哲学者。苦手な哲学をいい加減に考えていた報いかもしれないなどと、妙な自責の念にさえ駆られるからおかしなものだ。
蔵書をめぐっては、いくら家内から責め立てられようとも、置いておけばきっと役に立つことがあるとの思いが頭から離れなかった。それは、子どもに本を譲るということである。
ところが、つい先日、書棚の前で、「この辺りからなら、どれでも好きなものを持って行っていいよ」と私が言ったときに、娘夫婦は何と応えたか。「本は言えに置かないのが私たちのポリシー(原則)です。家は狭いし、だいたい本は図書館から借りて読めばいいと考えています」と。うーん、そうくるとは予想外であった。「いいんですか、こんなに貰ってしまって、有難うございます」と押し頂いてくれるものとの反応を信じて疑ってなかった、わが身が滑稽に思えてならなかった。
それならば、と私の視線は自ずと四歳の孫娘に向かう。ここにある本は、お前が大きくなったら、み―んな、あげるよ、しっかり読むといいね、と言った。こういうと、孫娘の目はとたんに輝いて見えた。ようやく仄かな満足感を抱いた。
だが、かの女が大きくなる頃には、紙の本はどうなっていることだろうか。電子書籍なるものの存在が頭をよぎる。確かに場所は必要としない。必要な時には自在に取り出せる。電子書籍が幅を利かす時代の子にとって、古い紙の本は益々遠いものになっていくに違いない。(2014・6・28)
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(35)本好きの行きついた果てに(上)
一昨日(25日)、京都で文化講演会『忙中本ありー本好きの行きついた果てに』を行った。その際に話した内容を二回に分けて、大まかに再現します。
高校を卒業してまもない頃。友人と一緒に神戸のとある大型書店に行った。彼は「こんなにも本はいっぱいあるのだから、少々読んだからと言っても追い付かないね。だから僕はあんまりシャカリキになって読まないことにするよ」と。私はその時直ちに、いや、だからこそ俺はがむしゃらに読むぞと呟いたものである。
あれからほぼ50年が経つ。誕生日がやってくるたびに、兵庫・但馬の生んだ異色の作家山田風太郎の『人間臨終図鑑』(年齢順に著名な歴史上の人物の死に方を描く)をとりだして、その時点での私自分の年齢で亡くなった人のページを開き、読むことにしている。もはや、下巻に突入してしまった。
よく座右の書と言われるように繰り返して読む本を持っている人が多い。私など全くと言っていいほどそれはない。この風太郎のものとて、関連部分を読むだけで繰り返して読みはしない。そのうちいつか意中の本に出会うはずと思って生きてきたが、残念なことに未だ出会わないのである。
一体ひとは一生のうちに何冊の本を読めるのだろうか、などということを誰しも考える。年におよそ100冊として、15歳から60年間読み続けると、約6千冊くらいか。ま、いくら頑張ってみても1万冊がやっとかも、などと取らぬ狸の皮算用ならぬ、”読まぬ読書家の夢心地”になったりした。
勿論世の中には強者がいて、一日一冊(頁数にはこだわらない)主義と称したり、「量書狂読」を売り物にするコラムニストの井家上孝幸のように『一年で600冊の本を読む法』といった本を書くひともいる。しかし、通常の人々はそんな読み方はしないだろう。かくいう私は、10冊ぐらいを同時並行的に読んだりするが、スピードは普通。したがってこれまでで、せいぜい5千冊がやっとだろうと思われる。もはや人生の陽は沈みかけているのに、若き日に夢見た”悟りの境地”というゴールは未だ見えない。いつも気にしているわけではないが、時々困ったものだと思う。
一体何を目的に本は読むものか。勿論ひとによって色々だろう。西播磨が生んだこれまた異色の中国文学者・高島敏男に『本が好き、悪口いうのはもっと好き』との絶妙の題名の本があるが、ともかくも理屈よりも好きだから、面白いから読むというのが普通一般だと思われる。フランス文学者で異彩を放つ・鹿島茂は「人生に四楽あり、一に読書、二は好色、三には飲酒、四には悪口」と、蜀山人の三楽をもじって、一つ付け加えている。好色、飲酒をこの位置に置くのは異論を持つ向きもあろうが、読書が”人生お楽しみレース”のトップの座を占め、悪口が上位を窺っているとの構図は大きく外れていないものと思われる。
ひとは、忙しくなると現実から逃避したいとの思いが募るもの。学生時代、試験が近づくと妙に小説がよみたくなった。小人閑居にして不善をなすのだから、「忙中本あり」が大事とばかりに、今やその言葉を造語して、私はブログのタイトルなどに使っている。
つい先ごろ、本にまつわる幾つかの気になる出来事があった。一つは20年間の東京での単身赴任に区切りをつけ、家族の住む家に戻って来ることに伴い起こった。事務所や宿泊先などに積み上げていた蔵書をどうするか。そのまま送っても受け入れる余地は到底ない。悩んだ挙句に思い切って処分することを決断した。読みもしないのに、いつか読もうと買い溜めた本なども含め数千冊。得難いものなどを除いてほとんど全部を後輩たちや、お世話になった方々に惜しげもなくお譲りした。
ついでに家の狭い書斎もなんとかしてよ、との家内の間断ない責め苦に負けてしまい、数百冊だったが、市の図書館の主催する古本市に提供してしまった。それこそダイエット後の痩せた身体を見るようにスカスカの書棚になってしまったのである。かつて一冊といえども手元から本を手放したりすることがなかった、わが身としては大いなる変身ではあった。(続く 2014・6・27)
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(34)小松前法制局長官の死を前に、去来すること ー小倉和夫
小松一郎前法制局長官が亡くなった。外務省出身としては初めての任で、安倍晋三元首相が集団的自衛権の導入に向けて、期待に応えられる人物として白羽の矢を立てたと見られることなど、晩年は本人にとって不本意なことが少なくなかったものと思われる。彼が外務省国際法局長の頃に、よく私の議員会館の部屋であれこれと懇談した。豊富な外交知識を包み隠して実に物腰優しい紳士だった。後に駐仏大使になられて、「是非一度来てください」と言われながらも果てせなかった。最終のお立場になられて苦労されていたのに、一度も激励の言葉もかけずに終わった。心残りだが、ご冥福を祈る▲小松さんの大先輩・小倉和夫氏が赴任されていた頃にパリを訪れ、その著『中国の威信 日本の矜持』を頂いた。裏表紙に「2001年8月26日仏国巴里にて」と揮毫されている。この人は、吉田茂賞を受賞された『パリの周恩来』から、料理にまつわるものまで幅広い著書を持つ。私は、頂いた本から、日中関係を見る研究や論説が、幕末以降の西洋のアジア進出前後に依るものに大きく偏りすぎていることの非を学んだ。古代から中世にかけての中華の秩序の中での日本外交の歩みをしっかりと踏まえたうえでないと、自ずからかの国を見誤るということを、である▲集団的自衛権問題の与党協議がいよいよ終盤に入ってきたと見られている。これまでの憲法9条下における自衛隊の許容される行動については、個別的自衛権行使がその範囲内であり、集団的自衛権は持っている権利だけれど行使は出来ないというのが、政府の憲法解釈であった。注意を要するのは、個別、集団の境界が曖昧だったということだ。それを整理するのが今回の協議の焦点である。最初から集団的自衛権を認めて、それを限定したり、歯止めを加えるということではない。あくまで、個別的自衛権で出来ることが未だあるはず(これを明らかにすることを、私は適正解釈と呼ぶ)。つまり、集団的自衛権と従来取り違えてきたことがなかったか、ということを確認する作業を今しているはず、というものである。これがまっとうなギャラリーの認識だ。だから、「自衛権拡大に歯止めをかけろ」という表現は誤解を呼ぶ。あるべき姿に自衛権を整理するのであって、決して歯止めをかけて、縮小解釈したり、個別自衛権の枠を超えてしまう拡大解釈をしてはいけない。集団的自衛権行使を容認してしまってから、限定したり、歯止めをかけてももはや遅いのだ▲このあたりを小松氏が健在ならば議論したかった。法制局長官を引き受けていなければ、もっと長生きをしていたはずなどとは言うまい。彼の真面目さが、集団的自衛権行使容認の側に立つ転換点の役割を受けさせ、その役人人生を最後の段階で劇的なものにしたのであろう。フランスでの様々な経験やら積み重ねた国際法から見る、日本の安全保障や外交の在り方について、小倉さんのように、書きたかったはずであろうに。そうした彼の後半生を思いやりながら、残された与党協議の山場を見据えたい(2014・6・24)
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(33)官兵衛と憲法9条の境遇 ──松本清張
黒田官兵衛から今我々が一番学ばなければならないことは何か。それは、官兵衛という兵略家が極力、武力の行使を避けて、戦争なしに相手を屈服させる道を選んだということであろう。官兵衛を描いた数々の作品の中で、松本清張の『軍師の境遇』がそのあたりの官兵衛の戦国武将のなかで特筆されるべき本質を最も明確にしているように思われる▲清張は、播磨の小豪族を信長の陣営に組み入れるべく秀吉のもとで奔走する官兵衛に焦点をあてた。後年の九州における官兵衛と違って、前半生ではひたすらに弁舌と調略で、つまり外交戦で勝利を得てきた。それが後世における「軍師」の名を欲しいままにする所以でもある。しかし、あまりにもその威力が度を超したがゆえに、秀吉からも疎まれ、怖がられる因を作って、結果重んじられない、遠ざけられてしまう。そういった「境遇」を描いて余りあるのがこの本の面白いところだ▲高校生向けに書いたものだけに、若者に託する平和への熱い思いが漲っているともいえる、この清張の官兵衛。誠実でひとを裏切らない正直者であるがために相手からも尊重され、大事にされる戦国武将。いささか褒めすぎかもしれないが、こういう人を生み出した地の人間であるとの誇りさえ、播磨人には湧いてくる。姫路を中心とする播磨の人間は今まであまりそういうイメージで語られなかったのが不思議なほどだ▲時あたかも、集団的自衛権問題が喧しく取り沙汰されている。徹底した平和外交を展開する中で、最後の構えとしての自衛力を不断に保持し、磨き上げていくことに大きな異論はない。しかし、外交に早々と見切りをつけ、軍事的同盟国との関係強化のみに走り過ぎることはひたすらに危ういと言えよう。先の大戦の敗北から70年。大げさにいえば、戦争か外交かの岐路に立つ政治選択を前に、規定が理想に過ぎ、多様なる解釈を生み続けてきた”憲法9条の境遇”に思いを致さざるをえない。気高過ぎるがゆえに具体の現実への適応に難航し続け、ややもすれば変えてしまいたいとの野望にさらされるという境遇に。(2014・6・17)
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(32)元防衛高級官僚を一言でいえば ──柳沢協ニ
今、自衛隊や防衛省関係者のなかで最も評判の悪い人物はだれか?別に一人ひとりに訊いてみたわけではないから推測にしか過ぎないが、防衛庁長官官房長などを経て、元官房副長官補だった柳澤協二氏だろう。なぜって、国の安全保障政策を統括していた身でありながら、今の政府のそれを厳しく批判しているからだ。一言で彼についての評判を言えば、「まったくいい気なもんだよ。立場がかわりゃあ、好きなことばっか言って」というところか▼実は柳澤氏と私は昵懇の間柄。それはそうだろう。政府側の要人と与党公明党の安保政策の責任者の関係だったんだから。私たち二人は党機関誌『公明』で対談をしたことがある。彼が、相次いで興味深い対談本(『抑止力を問う』『脱・同盟時代』)を出した後の頃だった。勿論、対談というよりも私のインタビューというのが相応しい中身だったが、大いに触発されたものだった。彼の心境を一言で譬えれば、「水を得た魚」そのもので、宮仕えから解放された喜びに溢れていた▼その彼が『改憲と国防』『亡国の安保政策ー安倍政権と「積極的平和主義」の罠』などで、一段と激しくトーンを上げて、安倍政権を批判している。前著で、歴史観を持たない安倍晋三という指導者を持ったことを恥じなければいけない、とした彼は、近著では、求められてもいないアメリカとの軍事的双務性を積極的に追い求める亡国の指導者だ、と。一言で、現在の課題についての彼の主張をまとめれば「解釈改憲などせずとも、みんな個別的自衛権ですむ」であろう▼きわめて優秀な防衛官僚であることは間違いない。その安保政策の薀蓄にもおおむね共感する。ただ、政治への洞察がやや希薄ではないか。今回の問題でも首相・安倍晋三にだけその責めを負わせる風があるのには首肯できない。加えて、彼の本は対談部分が多すぎる。是非、自らの論考を真っ向勝負で掲げて貰いたい。私自らのこの評論を一言でいえば、「わが身を棚に上げて」ということになるのだが。(2014・6・14)
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