エネルギーの未来をめぐる常識的で平凡な結論(83)

近頃これほど痛快な思いを持って読み進められた本は少ない。石井彰『木炭・石炭・シェールガス』である。「文明史が語るエネルギーの未来」との副題がついている新書だ。著者は読み始めのところで、世の通説(再生可能エネルギーが将来は原発に代わり得るという考え)に惑わされている人々の哀れさを露骨なまでに明らかにし、後半読み収めのあたりでは、多くの人が信じて疑わない世の通説(CO2の排出が地球温暖化の主因との考え)の間違いが明らかになるかもしれないことを予見してみせる。その両方について私は、自身のかつての国会での発言が関係しており、大いに興味をそそられた。しかも、前者では私は多数側に属し、後者では少数派にあることがなおさら興味深い。ことがエネルギーに関するものだけにどなたも関心を持たざるを得ないはず。皆で論争する契機にすると面白いのではないか▼まず、最初の通説は、煎じ詰めれば、「再生可能エネルギー優位」論だ。「3・11東日本大震災・原発事故」によって、”さよなら原発・こんにちは新エネルギー”のような論調があらゆる場面で取りざたされているのはブラックユーモアだと石井さんはいう。森林という新しくない再生可能エネルギーの過度な利用が大規模な環境破壊をもたらしたことを欧州の歴史や日本の過去に遡って明らかにしている。確かに産業革命の名のもとイギリスやドイツ、フランスでは森林が荒れ果てた。日本でも江戸時代の最終盤・幕末には国土の四分の一近くが完全な裸地になっていた。手つかずは奥山で里山は丸裸だったのだ▼だから、環境破壊をせいぜいもたらさないために安全に十分気をつけることを前提に原発に手を染めたのではなかったのか、と。それをあたかも新しい発見であるかのように再生可能エネルギーを取り扱うのはお笑いだという指摘は確かに笑えそうで笑えない。野田民主党政権末期に衆議院予算委員会で「新エネルギー開発に取り組め」と”大論陣”を張った私としてはいささか反省するところ無きにしもあらずだ。あの時に私は太陽光発電を進めることが事態の抜本的転換になるかのごとくに発言した。化石燃料に比べてエネルギー効率が非常に低く、生態系に悪い影響を与えることを改めて指摘されると、当時ある程度分かっていながら触れずに隠していたことが、覆っていたベールを引きはがすかのように白日の下にさらされたような気がする▼もう一つの通説は、CO2が温暖化の元凶だというもの。実はこれに対する異論はかねてよりあった。とくに、チェルノブイリやスリーマイル事故で劣勢に立たされた原発業界が、巻き返しのために気象学者が唱えだしたCO2 排出による地球温暖化という議論に飛びついたというものが大きい。もちろん、こうした”政治的陰謀説”ではなく、果たして地球は温暖化しているのかという根本的な疑問も提起された。実は私は衆議院環境委員会での質問の際に、一部気象学者の間では、むしろ寒冷化しているとの説もあることをとりあげ、一方に偏らない議論の必要性を喚起したものだ▼石井さんは、スペンスマルクというデンマークの宇宙物理学者が「太陽の磁気活動周期=太陽系外からの宇宙線量変動が低層の雲量に影響し、それが地球気候の変動を生じさせる」との説を唱えていることを紹介し、「極めて説得力に富む新学説である」と持ち上げている。これには大いに我が意を得たりとの気がする。かつて党内の環境部会でこれに近い議論を持ち出しても、多数派に与する人たちから一笑に付された。もう一度議論を蒸し返してみたい思いもしないではない。しかし、著者はこうした議論を持ちだすことによってやみくもに通説を否定しているのではない。むしろ、過去の歴史を見据えたうえで、極端に走ることをいさめているのだ。要するに、「より効率的で生態系負荷の低い再生可能エネルギーの研究開発」を進める一方、「より安全で廃棄物の少ない原子力技術の研究開発も鋭意続け」ることが懸命だと言っているのだ。極めてこれは常識的だろう。また、温暖化の原因をめぐる論争をめぐっても「不確定要素が非常に大きい」として軍配をどちらかにあげることには慎重である。ここでも常識を発揮しており、結論はいたって平凡なのだ。平凡ではいけないのですか、との著者の声が聞こえてきそうだ。凡人は常に非凡を求めるものかも知れない。(2015・2・26)

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男から女へ、年功序列から若者登用へ 藻谷浩介『デフレの正体』(82)

先週取り上げた『地方消滅』での増田寛也さんの問題提起を受けて、私たちが考えねばならない政策に関する本をたて続けに読んだので、順次紹介したい。まずはあの本のなかでも対談相手として登場していた藻谷浩介さんの『デフレの正体』。藻谷さんとは五年ほど前にお会いした。この本が出版された頃だ。公明党の政務調査会に講演者として来てもらった。いらい注目している人だが、益々その論調の鋭さとわかりやすさに磨きがかかっている(最も面白かったのは『里山資本主義』でこれはすでに紹介済み)。日本経済の最大の癌ともいえる、生産年齢人口減少問題にどう立ち向かうかについて、①生産性を上げて、経済成長率を向上させよ②景気対策としての公共工事の増加を図れ③インフレ誘導すべき④エコ対応の技術開発でモノづくりのトップランナーとしての地位を守れーなどという主張が巷に満ち溢れているが、これには実効性が欠けるというのが彼の基本的立場だ。確かにこうした主張は俗耳に入りやすい▼しかし、藻谷氏はそうした主張を退けて、少し角度が違った観点から目指すべき目標を設定する。それは①生産年齢人口の減るペースを少しでも弱める②生産年齢人口に該当する世代の個人所得の総額を維持し増やす③個人消費の総額を維持し増やすの三つだ。いずれもそう難しいことではなく、文字通り生産年齢人口減に真正面から対処するために必要な手立てだと思われる。そしてそれを実現するために、誰が何をすればいいのかを具体的に三つ挙げた。一つは、高齢富裕層から若い世代への所得移転の促進。第二が女性就労の促進と女性経営者の増加。第三に、訪日外国人観光客・定期定住客の増加。これらは単的にいえば、若者、女性、外国人対策。この三ついずれもある意味で分かっているけど手がつけられてこなかったものばかりだ▼彼は、若い世代の所得を頭数の減少に応じて上げる「所得一・四倍増政策」や団塊世代の退職で浮く人件費を若者の給料に回そうなどといった具体的提案を並べる。さらに、若者の所得増加推進は、「エコ」への配慮と同じだとか、生前贈与促進で高齢富裕層から若い世代への所得移転を実現しようなどとの一味違う提案もなされる。女性についての問題点は、「女性を経営側に入れて女性市場を開拓する」という可能性をほとんどの企業が追求していないことに尽きるという。確かにそうだ。それより、もっと基本的なところで女性への偏見が消えていない。それは「女が今以上に働くとさらに子どもの数が減るのではないか」との思い込みだ。藻谷さんは、それを「若い女性の就労率が高い県ほど出生率も高い」として否定する。外国人対策については、公的支出の費用対効果が極めて高い外国人観光客の誘致を推奨している。これは現在瀬戸内海に外国人観光客を誘致しようとの取り組みを仕事として進めようとしている私としては大いに賛同したい。こう見てくると、藻谷さんの主張は「男中心の年功序列の日本人社会」が根本的に見直しを迫られているというものだとわかる。この5年の間にかなりこうした提案は取り入れられては来ているが、さらなる徹底が望まれよう▼この本のサブタイトルは、経済は「人口の波」で動くというもの。『地方消滅』での対談で、増田氏が「海外では人口問題に対する危機意識が高いですよね。政治家を含め、人口論をきちんと勉強している」と述べると、藻谷氏は「マクロ経済学は基本的に率ではなく絶対数だというのが、日本を除く世界の常識です」と応じている。さらに、地方人口の減少について、「今よりはるかに縮小はするけど、ゼロにはしない」との地方人口の「防衛・反転線」の構築を求めているのはきわめて現実的な提案といえよう。具体的に自分の住む町をどう住みよい町にするかを一人ひとりが考えていくことが大事だ。この四月に行われる地方統一選挙をきっかけにわが町をどうしたいのか、候補者の主張にしっかり耳を傾けるとともに、自分たちも考えていきたい。(2015・2・21)

【藻谷浩介氏のものは、『世界まちかど政治学』が面白かったです。副題に「世界90ヵ国弾丸旅行記」とあるように、一泊しただけの国でも、弾丸のように素早く動いて、行った先の現場で考えた行動記録です。綾なす歴史と入り乱れる地理を背景に、あたかも名料理人が素早く作ってくれた手料理のように、美味しく味わえたことに感動しました。

中でもドイツの北方領土と呼ばれるカリーニングラードについての記述には唸りました。旧ソ連が第二次大戦でドイツから戦利品として奪い取ったバルト海の港町ですが、かつてはプロイセン王国建国の地・ケーネスヒブルグ。今はロシアの飛び地として、EUに囲まれて孤立しています。カントゆかりの地としても知られていますが、実に興味深く読めました。国会の勉強会でお会いしていらい、注目している人です。(2022-5-20)】

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(81)悲観論だけに終わらせるな━━増田寛也『地方消滅』を読む/2015-2-5

●「最も正確な未来予測」

 日本の896の市町村が消えてしまう──東京一極集中が招く人口急減で、地方が消滅するという衝撃的な中身が話題を集めて10年近くが経つ。改めて、増田寛也『地方消滅』を読んだ。この人は東大を出て、建設省に勤めること20年足らず、40歳を過ぎて岩手県知事を三期12年。そして総務大臣に。それを終えて、今は日本創成会議座長につき、このレポートをまとめた。私は、2001年に衆議院国土交通委員長を勤めた後、総務委員長も一年間だけだがこなした。旧建設省、運輸省、自治省、郵政省などの幹部をそれなりに知っており、増田氏の悪い評判は聞かないが、取り立てていい話も聞いたことはない。要するに真面目で仕事熱心なひとだったが、存在感はあまりなかったものと思われる。しかし、この本の出版でまったく様相は一変。日本の未来に大きく注文をつける存在へと変身されたといえよう。

地方を消滅させないために必死になって戦ってるものにとって、何をわざわざおおげさに悲観的なことを提示しているのか。その思いは今もなお消えない。しかし、彼は「大げさではないか」との批判に対して、「今回の人口予測は日本で出ているあらゆる将来予測の中で最も正確なもの」と胸を張る一方、「何もしなければより厳しい結果になることを心配すべき」だと迫る。今まで自分の街では人口が減りそうだと薄々気づいていたのが、リストを見て「遠く離れた自治体でも同じことが起きているとリアルに認識できるはず。自治体レベルで人口問題を考える、共通のベースができた」と意に介さない。リストに消滅の可能性が高いとして斜線をかけられている町が兵庫県には新温泉町、上郡町、神河町、市川町の4つ。うち私の旧選挙区の西播磨からは3つも入っている。人口のカギを握る若年女性の数が2040年にはそれぞれ三分の一くらいに減り、文字通り数えるくらいになってしまうというのだ。

●まずは現状認識をしっかり

 こうしたデータを前に、当事者の意見をかつて訊いたことがある。市川町議会の元議長・稲垣正一氏は、平成の大合併に神崎郡は乗り遅れたことが最大の原因だといった。基本的な行政能力が疑問視される今の町長ではなにおかいわんやだと、匙を投げかけている様子すら伺え、暗澹たる気分になってしまった。尤も、神河町では町おこしのための動きもみられ、私のところにも意見が求められてきている。また、北海道の芦別市出身の稲津久衆議院議員にも電話で水を向けてみた。ここは札幌市が小東京的様相を示して、人口がそちらに流れがち。彼は意欲漲る政治家で、人口減に歯止めをかけるべく八方手を尽くしてはいるものの、前途は楽観を許さないとの見方をしていると受け止めざるを得なかった。

 確かに事態は厳しい。増田氏は、以前に紹介した『里山資本主義』の著者・藻谷浩介氏との対談で、「本来、田舎で子育てすべき人たちを吸い寄せて地方を消滅させるだけでなく、集まった人たちに子どもを産ませず、結果的には国全体の人口をひたすら減少させていく──私はこれを『人口のブラックホール現象』と名付けました」という。それに対して藻谷氏は、「東京は人口を消費する街。そこにもっと若者を集めろなどというのは、日本国を消滅させる陰謀ですよ」と応じる。こうした現状を打開するには、皆が現状をしっかりと認識したうえで、立ち上がらねばならない。

 増田氏自身があとがきで「今回示した現実を立脚点として、政治、行政、住民が議論を深め、知恵を絞る必要がある。いたずらに悲観するのはやめよう。未来は変えられる。未来を選ぶのは私たちである」と述べる。私は彼がこういうなら、ここから出発する続編を書いて欲しい。でなければ、結局は悲観論で終わってしまう。この本の少し前に出版された冨山和彦『なぜローカル経済から日本は甦るのか』は悲観論を打ち消す具体的方途を示している。藻谷氏の著作同様これからはどう地方を復興させるかの議論を花盛りにしていきたい。

【他生のご縁 今ではただ懐かしい国会質問】

 この本を読み、この一文を書いてから10年が経ちました。「地方消滅」の傾向は一段と加速化されているように見えます。今こそ、「地方再生」の転機にすべきだと思います。拙著『77年の興亡』では、政治的価値観のせめぎ合いから、日本近代を見つめてみました。第一の77年のサイクルでは、「近代化」が問われ、第二のサイクルの77年では「民主化」が問われたのです。社会的価値観は一貫して都市化が進み、人口の都市集中が専らでした。その結果が今の惨状をもたらしています。

 第三のサイクルでは、「分断か、共存か」が問われるはずだと思います。社会的価値観も「都市か地方か」ではなく、より均等な発展が望まれる瀬戸際です。この辺り、かつて大臣質問をした、されたとの関係に終わった増田さんと議論交わしたいものです。

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(第1章)第3節 諏訪湖と姫路城を結ぶ「偶然」の重なり━━森田実『一期一縁』

 相次ぐ〝ご縁の連鎖〟の始まり

 上京する際には、滞在期間中に様々な人たちと旧交を温めたり、取材上のお付き合いを重ねる。第三文明社の大島光明さん(前社長)もそのうちのひとりだ。二つ年上の優しくも怖い先輩である。初めて会ったのは昭和40年代の後半。かれこれ50年前のことになる。新聞記者を皮切りに、団体役員、出版社の社長などを経て、80歳にして現役を退かれた。先年、同社にお邪魔した帰り際に同社発刊の書物を数冊戴いた。その中に、森田実『一期一縁』があった。この人は、元学生運動の闘士。晩年は一転、公明党の支援者になられ、得難い応援の旗を振って頂き、確かなる励ましの発信をしていただいてきた。

   公明党兵庫県本部で私が代表を務めていた頃に幹事長として長く支えてくれた野口裕元県議は、この森田氏とかねて親交があった。そのご縁でしばしば森田さんを兵庫に招き、講演をしていただく機会があった。だが、私自身は直接のつながりはなかった。ところが、姫路の同人誌『播火』がご縁になって、思いがけず人とひとを結ぶきっかけを作らせて頂いたことは忘れがたい。『播火』とは、姫路在住の作家・柳谷郁子さんが主宰を務めてきた雑誌で、姫路の文学好きに知らぬ人はいないすぐれものの媒体である。

 偶然は重なる。ちょうど同じ頃、私の現役時代に地元秘書として20年も支えてくれた瀬川典也君(故人)が『播火』同人となって哲学論考を発表したと聞いた。それを見ようと駅前の書店で立ち読みして、驚いた。その号の巻頭エッセイに、柳谷さんが森田実さんの著作『一期一縁』からの引用をしていたのを発見したのだ。

 後で知ったことだが、柳谷さんの夫君(元姫路市議)が、これまた偶々書店で『一期一縁』の中の「われは湖の子」のくだりを立ち読みして、諏訪湖のそばで生まれ育った妻に見せようと買って帰ってきたというのだ。それを見た郁子夫人は、懐かしい故郷のことについて思いを募らせ筆をとられたようなのだ。ここでいう湖(うみ)とは諏訪湖のこと。「海のない長野県の諏訪では諏訪湖を湖(うみ)と呼んでいた、とある。私もそう呼んで育った」から始まる文章はなかなか美しい筆致で、読む者に感動を呼び起こさずにはおかない。この人も、そして夫君も(共に早稲田大同窓)、私はよく存じ上げているだけに興味深く一気に読んだ。

 全学連の闘士からの変身

   こうして柳谷さんのおかげで、大島社長からいただいたまま書棚に積まれていたこの本を引っ張り出して読むことになった。「われは湖の子」から始まって、「平和」と「出会い」についての二章からなる本を読み進めた。第一章では全学連の闘士だった頃の森田さんについての生きざまが分かるし、第二章ではその後の彼の人生における交友関係が胸に迫る。まさに一人ひとりの人間を大切にして関係を大事に育て上げられてきた人柄が彷彿としてくる。直ちに大島先輩に連絡し、森田さんの事務所の連絡先を聞いた。ファックスを送り、柳谷さんのエッセイについてお伝えした。すぐさま、森田さんからは「柳谷郁子さんの美しい文章を読み、感動しました。『播火』を読みたいと思います。私のHPの読者の中には地域の同人誌を発行している方もいますので、『播火』を紹介したいと思います」とあった。その後のお二人の交遊は深く胸を打ち魂を揺さぶられる。

   森田実さんは90歳を過ぎて亡くなられる少し前までお元気で、公明党がいかに素晴らしい政党であるかについて語りに語ってくださっていた。イデオロギー華やかなりしころの一方の旗頭だっただけにその変身後の論調はただならぬ重みを持っていた。かの佐藤優さんと並び立つもう一人の巨大な「諸天善神」的存在だった。

 柳谷さんは、姫路に拠点を持ち作家活動を今なお旺盛に続けている。先年お会いした時に、黒田官兵衛にまつわる書物を書いてほしいとの地元の方々の要請を受けているとのことをにこやかに語られていたものだ。前述のこの人のエッセイの末尾には「その湖畔で育った私はどうしても書きたい小説の構想を抱いたまま未だ果たせないでいる。題名だけは揺るぎなく決まっているのだが」とあった。私より10歳近く年長の方だが、いやはや年齢を感じさせぬ創作意欲は凄まじい。遅れて歩むものたちにとって大いに励みになる。

【他生のご縁 姫路と諏訪湖の結びつきに陰の役割】

 私は、さきに述べたように、森田実氏と柳谷郁子さんの文字通り「一期一会(縁)」の繋がりを実現して差し上げたことになります。忘れ難い嬉しい思い出です。もとを正すと、そのきっかけは、第三文明社の大島光明前社長です。

 その大島さんが先年姫路に来られた際に、柳谷さんと3人でお会いしました。ここに森田さんが加わると、いいなと思い、口にもしたのですが、果たせないまま、他界されてしまったことは痛恨の極みです。

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同時代を共に生きた松本健一さんの死 北一輝評伝と開国のかたち(79)

それはまた突然の電話だった。「仙谷由人です」と。元民主党の代議士で、菅直人内閣の官房長官を務めた人物だ。なんの話か、と耳をそばだてると、「あんたは、確か死んだ松本健一君と親しかったなあ」ときた。「そうだよ。惜しいひとを亡くしたよな」と応じた。彼によると、松本健一氏が亡くなる寸前まで出版に向けて校正に手を入れていた書物を、生前に親しくしていた人々に贈りたいから送り先を知らせろということだった。遺された夫人の久美子さんの意志だという。松本健一さんとは様々な思い出がある。彼も仙谷氏も1946年早生まれ、1945年生まれの私とは同じ学年でもあり、戦後70年の同時代を共に生きてきた。もちろん思想家としての彼の濃密極まりない生き方とは比べるべくもないが▼彼らは東京大学で同じクラス。他に作家の川本三郎氏もいたというからうるさい仲間たちだったと思われる。仙谷氏は、文藝春秋2月号の巻頭エッセイで「わが友、松本健一君を送る」という一文を寄せていて、興味深い。内閣官房参与に就任を依頼した際のいきさつやら、仙谷氏自身が13年前に胃がんを手術した体験を同じ病いに倒れた松本さんに語ったことなどが明かされている。私が彼を知ったのは、公明新聞に彼がかつて寄稿してくれた『1964年日本社会変革説』を読んで鮮烈な印象を持ったことに始まる。代議士になってから党憲法調査会に講師として招いたり、個人的に食事を誘ったりもした。▼届いた本は『評伝 北一輝 Ⅴ北一輝伝説』だった。文庫版のシリーズ5冊目の最終巻である。いかにも北一輝研究の第一人者らしい締めくくり方だ。併せてA4の用紙5枚の表裏にびっしりと書かれた「松本健一著作・著述リスト」が添えられていた。松本亜沙子編 2014年12月23日版とあった。ご長女である。松本さんが逝ったのは11月27日だから一か月ほどの間に亡父のために娘さんが作成されたわけで、いとおしさが募る。それによると、彼の処女作は1971年『若き北一輝 恋と詩歌と革命と』とあるから、まさに北一輝に始まって、そして終わったことになる。あとがきには「ともあれ、わたしはこの全五巻で、わたしの知る北一輝について語り終えた。本格的に北一輝のことを語る最後の人間になるかもしれないとの意識のもとに」とあった▼私の手元には松本さんの著作は数多くあるが、恥ずかしながら北一輝についてはあまり熱心な読者とは言えなかった。むしろそれ以外の歴史ものに目が向いてきた。例えば、『開国のかたち』はほぼ二十年前に出版されたものだが、好きな本の一つだ。「維新運動に女性が登場しないのはなぜか」という章などはまことに面白い。龍馬が寺田屋で襲撃された際にお龍が全裸で急を告げたという有名な場面。これを取り上げた松本さんは、お龍の存在感が際立ってるのはなにも「全裸」だったからではなく、「幕末史において男という志に拮抗する女の肉体として自立している、ということだ」と難しく言う。ここでの「松本的男と女論」は大いに惹きつけられる。「男というものは社会的な存在であって、法や制度や、志やイデオロギーなどによってみずからを支えなくては、生きてゆけない。それらのものに手もなく乗せられる」と。確かに。そして女については、「生活のほうが大事である。生活はじぶんの好きな男との生活であり、もっとつきつめていうと、じぶんの肉体とつながっている子どもとの生活である」と。それもそうだ。そしてそこから天皇へと話を大きく回転する。尊王攘夷運動や国体論において問題になる天皇が本質において「女性格」だとし、「日本における勤皇家、もっといえば志士は、この女性格の天皇のために、ひたすら力を尽すのである。それが「皇国」における忠誠心(ロイヤリティ)というものだった」と結ぶ。なるほどと感心するしかない▼彼は明治維新、昭和の敗戦の過去における二度の開国に続いて三度目の開国を待ち望んでいた。それにふさわしい憲法を持つことこそ新しい開国のかたちなんだ、と叫び続けていた。政治家として同じ志を持った私とは、それゆえに大いに期待を寄せてくれた松本氏と大いに気が合った。これから20年ほどの間には共に生きて実現させたかった。巨星堕つとの深い感慨とともに、どうしようもない喪失感が彼が逝って二か月余りの今もなお私を襲ってくる。(2015・1・30)

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逆説、真説入り乱れての維新史ジャングル(78)

小説家や作家が書く歴史ものは面白い。専門家としての歴史家のものよりも。当然といえば当然なのだろうが、ついつい嵌ってしまう。元テレビ局勤務の記者にして、今は「逆説の日本史」シリーズ500万部突破という売れっ子作家の井沢元彦氏。何を隠そう実は私もファンのひとりだ。単行本と文庫本さらにはビジュアル版までも買い込んでいる。ネットではあれこれと反論が書きたてられており、「逆説の逆説」などとややこしい異論も花盛りのようで、これはこれで面白い。小学館発行の「週刊ポスト」で連載が始まったのが1992年1月というから既に23年も経っている。いやはや凄いことだ。ともあれ現代日本人をそれだけ惹きつけてやまないのだから▼ただ、現職の終わりころには読み疲れたというのか、しばらく読まない時期が続いた。2010年夏からの4年間ぐらいのことだ。ちょうど井沢維新史が始まる頃で、なんだかややこしいことを随分とねちっこく書いてるなあと思ってしまい、自身の人生の転機と重なったこともあって、遠ざかってしまった。それがひと段落ついたのが昨年の暮れ。放置していた18巻から21巻までの「逆説の維新史」全4巻を一気に読んだ。官兵衛を挟んで、龍馬や会津そして松陰など維新を飾った人物、地域をNHK大河ドラマが取り上げてきたこともあって、改めて維新史を整理したいという気持ちも起こってきていた▼どれが逆説で何が真説かなどという”歴史ジャングル”に入り込むつもりはない。前々回にここで取り上げた佐々木克さんのような正統な歴史家の「維新史」も味わい深いし、井沢氏のような異端児のものもどっちも魅力的だ。さらには、井沢氏が「この時代の歴史を学ぶのに最適の入門書である。コミックだから、外国人にもおススメだ。ビジュアルにすべてが表現されているからわかりやすい」というみなもと太郎氏の『風雲児たち』のようなマンガも。佐々木さんから「読み過ぎじゃあないか」と警告されようとも、面白いものには誰しも目が行く。井沢さんの本のいいところは、微に入り細にわたって繰り返して読者に迫ってくるところだ。開国派か攘夷派かといっても羊羹を切るように当時の人物群を分けきれないということは分かっている。しかしながら、それぞれに反幕派と公武合体派がいて、それはこういう連中だったと顔写真入りで一覧表にされると堪らない。ついそれに頼ってしまう。影響力たるや抜群なのだ▼今始まったばかりのNHKの『花燃ゆ』の松陰をめぐっても、井沢さんは通常歴史的素人にはお目にかかれない話を登場させ惹きつける。例えば、吉田松陰と長州藩きっての儒学者・山県太華の論争だ。これは当時、単なる「勤皇」が過激な方向としての「倒幕」へと変化していくうえで、避けて通れない松陰の思想を解くカギだとして語られる。当時27歳の松陰と78歳の太華という組み合わせの妙もさることながら、のちに「一君万民論」と呼ばれる松陰の考え方が現れているものとしても興味深い。これらは、松陰の『講孟余話』などの中身を知らないものにとって大いに関心を呼ぶ。このように書き進めてきて改めてわが身の不勉強に考え込んでしまう。「いままで何をしてきたのか」、「一体何を読んできたのか」と。そういえば、高校時代に日本史を選ばず、世界史と人文地理だったなあ、との若き日よりの過ぎ越し方を思いやってわが身を慰めるばかりだ。(2015・1・24)

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歴史研究にマンガを読むのは許されないか(77)

以前に触れたように幕末史に興味を持って継続的に様々な本を読み漁っている。これまでは歴史家ではない人たちのものを読む機会が多かったが、専門家のものに初めて挑んだ。といっても新書だから読みやすかった。日経新聞で激賞されただけのことはある。佐々木克『幕末史』だ。明治維新史を専門とされている人で、「欧米列強に対して手も足も出すことができなかった軍事的弱小国家日本が屈辱をバネにして立ち直って近代化を達成した、国家建設の物語として」取り上げている。前々回の半藤一利さんのものと全く同じタイトルにしたのは恐らく意図的であろう。反薩長史観に貫かれ、国内の抗争にばかり目を向けたと見られがちなものに、敢えて対抗心を燃やされたと見られなくもない▼ペリーが浦賀に来航した1853年から王政復古を経て明治維新政府の誕生までの15年間を5つの章に分けて論述したあと、明治国家の課題までを追っている。正直に言って最初の2,3章ほどは興味津々の書きぶりで実に面白い。が、後半はいささか冗長に堕して難しく受け取られざるをえず、竜頭蛇尾の感は免れない。ご本人があとがきに記しているように「大腸癌と共生しながらよたよたと歩いている老人」らしいところも散見される。しかしそういう点を補って余りあるほど迫力は漲っており、久方ぶりに読書メモを取りながらの読破となった▼日本の歴史の中でも幕末史は、150年ほど前のものだけに手を伸ばせば触れるような位置にある。歴史家たちが参考にし考え抜く材料となる資料はふんだんにある。それをどう読み解くか。歴史家に交じって様々の評論家や作家、最近はコミック・クリエイターらの参入もあり、幕末史は百花繚乱の傾向にある。既に読み終えており、近く取り上げようと思っている井沢元彦氏の『逆説の日本史』幕末年代史編全4巻などには、みなもと太郎の漫画『風雲児たち』を絶賛していて興味深い。そういう歴史書に見られる昨今の軽い風潮に、74歳の歴史大家としてはじっとしておられぬ思いで一般の人びとの目に少しでも触れるようにと、巻き返しの気概で筆をとられたのであろう。「余計なことを書かなくてもわかるとお叱りを受けそうだが」とことわりながら、「(文久3年8月の政変について)問題なのは審査にあたった編集委員も、同じようなレベルで欠陥を見抜けなかったことである。マンガやアニメの読み過ぎ見すぎではないかと笑ってすまされない」などと延べ「歴史研究の基本にかかわる問題」についてはあえて厳しく言及している▼また、「公武合体派や尊攘派とグループ分けすること自体が問題なのだ」とも。「いま何が緊急かつ重要な問題なのか、その問題設定によって立ち位置がかわり、発言に濃淡があらわれる。何々派だから、このような意見になるというのではない。これが幕末の政治世界なのであり、政党政治の時代ではないのだ」と安易に考えがちな今どきの歴女や歴史好きの甘ちゃんたちをたしなめておられる。当時の目まぐるしく動く状況をてっとりばやく理解するために、一般的には開国派と攘夷派に仕分けしてみたりしがちだ。そのあたり一概に否定すると歴史研究の興をそがれそうになってしまうので考えものではないのか、と私などつい自らを慰めてしまうのだが。(2015・1・19)

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歯の裏表事情を語るに至る道すじ(76)

(76)歯にまつわる言葉でお好きなものはどんなものがありますか?姫路に住む歯科医の河田克之さんに訊いてみた。「歯槽膿漏です」と答えが返ってきた。これには驚いた。一定年齢以上のひとにとっては嫌な言葉の代表格だろうし、若い人にはもはや知らない人が多いだろう。通常は「歯周病」と呼ばれているのだが、この歯科医はその呼び方自体が実態から目をそらすことに繋がっているといってあえて「歯槽膿漏」を大事にする。『さらば歯周病』という新書をはじめ幾つかの著作を持つ河田さんの『青山繁晴、反逆の名医と「日本の歯」を問う』との対談本は実に面白い。このたび河田さんと私が電子本で対談をしようということになり、改めて読み直した▼河田さんの主張は実に分かりやすい。一言でいえば、「歯磨きをしても歯を失う!」であり、歯を失わせる最大の元凶である「歯槽膿漏」は、歯石という異物を取り除く以外にないということに尽きる。「歯槽膿漏」は歯ぐきがいかれることがもたらす災いだと思っていた私は、彼の「歯を支えている骨が破壊される病気」との定義を聞いて驚いた。彼が「反逆の」とか「異端の」といった形容詞をつけられるゆえんはまさにここにある。さらに、彼は「歯槽骨を破壊しているのは、プラーク(歯垢)を含んだ骨の周りにある汚れー特に歯にこびりついたプラークが石灰化してしまった歯石だ」という▼これは一般的にいって、歯周病(歯槽膿漏とほぼ同義)をもたらす原因は歯周病菌であるとの歯学界の定説と真っ向からぶつかる。河田さんは、「歯周病菌を減らすことで歯周病は治せる。そのために歯磨きをせっせとやればいい」とする歯学界の常識に対して、歯周病菌は人間の口腔内に常在する菌であって、取り除こうと思っても取り除けるものではないし、排除する必要もないとしている。むしろ、そういう常在菌をはびこりやすくする口腔内の環境を変えるために、歯石を定期的にとることが大事だというのだ▼彼と姫路の淳心学院中等部、高等部で一緒に学び親友である青山繁晴氏は今をときめくジャーナリスト。いや、今やその域を超えて、青山千春博士と一緒に取り組むメタンハイドレード開発研究をめぐる(株)独立総合研究所の活動は世界の注目の的である。その青山氏が河田氏との対談の結論部分で、「厚生労働省、そして日本歯科医師連盟と日本歯科衛生士連盟ー彼らがガチガチでやってるなかで、ただ働きまでして、自分の本来信じる治療をしようとしているのは、これは特筆に値すると思います」と述べている▼私は、この本の存在を、カリスマ臨床心理士の異名を持つわが畏友志村勝之から聞いた。そして二人で対談電子書籍『この世は全て心理戦』を出版した。言ってみれば、青山・河田対談に激しい触発を受けたわけだ。そして今、今度は河田さんと私との間で、歯にまつわる対談電子書籍を出そうと準備を進めているわけだ。題して『歯、歯、歯の歯の裏表事情』。いやあ、まったくハハハのハだね、これは。(2015・1・12)

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反薩長史観に貫かれた講談調の『幕末史』ー半藤一利(75)

新しい年が明けた。ことしも旺盛に読書に取り組みたい。年明け早々の日経新聞3日付けの一面下の三段広告に「日本経済新聞目利きが選ぶ今週の三冊 12月3日付けで5つ星獲得、井上章一氏評 佐々木克『幕末史』」とあったのが目を惹いた。今年はNHKの大河ドラマに松陰の妹・文をヒロインにした『花燃ゆ』が放映されるから、去年の黒田官兵衛・戦国史から,再び「維新・幕末史」かと、の思いがこみあげてきた。駅前の書店を覗くと、さっそく松陰もの、維新関連本のコーナーが設けられていた。しかし、そこにはお目当ての佐々木克『幕末史』の姿はなく、半藤一利さんの同名の著作が置いてあった。というわけで仕方なく、古い方の『幕末史』から取り上げてみたい(佐々木さんのものはそのうちに)▼半藤一利さんといえば「歴史探偵」の異名を持つ、元「文藝春秋」編集長にして、今は評論家であり作家だ。このひとの『幕末史』は7年前に出版されている。その直前に出た『昭和史』と同様に、少人数の人たちを前にしての「張り扇の講談調、落語の人情噺調」のようなものである。講談調,落語風で極めて読みやすい。前にも触れたことがあるが、この人の娘婿が私の友人で元産経新聞の政治部長北村経夫氏(現在、参議院議員)だ。彼の紹介で半藤さんとも十数年前だがお会いし、ひと夜あれこれと懇談させてもらった。話の中身はほとんど覚えていないが、開口一番「あなたはずいぶんとくだらない本を沢山読む人ですねぇ」と言われたことだけははっきりと覚えている。会う前に私の『忙中本あり』をざっと見られたのだろう▼半藤さんは、この本の主題は「いわゆる皇国史観(薩長史観)に異議を挟みたい」ところにあり、「(戊辰戦争で)西軍の戦死者は残らず靖国神社に祀られて尊崇され、東軍の戦死者はいまもって逆賊扱い」なのは不条理だから、その無念を晴らしたいと「あとがき」でも述べている。彼は越後長岡藩出身の父を持つだけに「賊軍」の汚名を着せられたうらみが根強くあるように思われる。「西郷は毛沢東と同じ」だとか「龍馬には独創的なものはない」などといった定説とは違った見方を提示されると、多義的な歴史の一端を知ることができるようで面白い。例えば、明治維新をどう見るかという一番の根本のテーマでも、半藤さんは「維新」という呼称はおかしい、単なる徳川幕府の瓦解だというし、ほとんど無血革命に等しかったと見る指摘があるのに対して、暴力革命だったと言い切る。この辺り、世界史の視点を含め、公正な見方をすべきだと、薩長、反薩長いずれにも与さない私などには思えてならない▼ただ、事実として、明治の世になった時点で、西軍と東軍のいずれに属していたかで、藩の運命が大きく分かれたことは銘記しておく必要がある。県名と県庁所在地が違うところが17県あって、そのうち14県が朝敵藩だったというのは、新政府の考え方を示していて、えげつないほど露骨だ。私の生まれた地・姫路などそれまでの力からすると、姫路県であるべきなのに、飾磨県にされてしまった。後の兵庫県の中心からも外され、今に至っており、長年の発展の遅れと決して無縁ではない。半藤さんはこうしたエピソードをふんだんに持ち込み、歴史を独自の視点で検証していく。『幕末史』を読んだうえで今度会うと、「くだらない本をやっぱりよく読んでるねえ」ってまたいわれるかどうか。新聞記者から政治家になった娘婿に、また会わしてくれと頼んでみよう(2015・1・6)

【半藤さんとはここで書いたように、 少々劇的な出会いがありました。実は、くだらない本を沢山読む人だと言われた私はいささかムッとしたのです。それで、引き下がらずに、私は政治家の資産公開よりも、どんな本をどう読んだかという、読書録公開といった資質公開が大事だと思うんです。いかがですか?と、突っ込みました。半藤さん、それには「それはそうですねぇ」と同意されました。「だから、つまらない本を読む人は資質が低い」という方向に、話題は流れなかったのは幸運でした。

この人のものの考え方で、私が興味を持って影響を受けたのは、「日本社会40年変換説」です。明治維新から40年ごとに、大きな浮き沈みを経験して来た日本近代を大掴みにする捉え方に嵌りました。半藤さんだけでなく、色んな人が様々な切り口で、この問題を論じているのは知っていますが、一番わかりやすいのが半藤説でした。一時はあちこちで、喋ったり、講演に使ったものです。

亡くなられる直前に、『戦争というもの』を書かれたのですが、その編集から本作りの大枠を孫娘に託されたというのはこの人らしい着想だと思います。お元気だったら、拙著『77年の興亡』について読んで欲しかったものです。「あなたは読むものだけでなく、くだらない本も書くのですねぇ」と言われたかもしれません。(2022-5-20)】

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この父ありて海舟あり、親子二代「覚悟」の男の生き方(74)

大学時代の級友で土佐の高知に住む豪快な男がいる。なにしろ7億円もの借金をくらってもそう気にしている風には見えない男である。かつて若き日に彼のところに遊びに行った際に、桂浜の竜馬像に行こうということになった。途中でビールや酒を買って、そのうちの何本かを像の前に置いた。竜馬に飲ませると云って。誰かが飲むだけだ、もったいないと私がいうと、そんなことはどうでもいい、とまったく気にもかけなかった。妙に記憶に残るこの男がつい最近神戸にやってきて、久しぶりに逢った。談論風発のなかで勝小吉の『夢酔独言』を滅茶苦茶に面白い、と推奨して帰っていった。勝小吉とは勝海舟の父親のことだ。かねて坂口安吾や子母沢寛や大仏次郎らが勝小吉がいかに豪快無比な人物であるかを書いていることは側聞してはいたが、実際に彼の手になる本などあることさえ知らなかった▼およそひどい悪文というか、誤字、当て字のオンパレードで、段落わけもなしで、句読点もうたれず、会話部分に「」もつけていないので、滅法読みにくいことおびただしい。幾度か途中で投げ出したくなった。正直なところ読み終えて何ほどにこの本がいいのかあまり分からない。解説者によれば、生き生きとした文章であるとか、優れた記憶力を持つ任侠に生きた親分だとかべた褒めなのだが、当方にはとんと分からない。坂口安吾は『堕落論』のなかで、この小吉が書いた本には「最上の芸術家の筆をもってようやく達しうる精神の高さ個性の深さがある」と。この安吾自身、相当に変わった人物ゆえ、変わった者同士は分かりあうということだろうか▼私としては小吉の凄さは分かりかねるまったくの小物だが、息子・麟太郎ことのちの海舟との父子関係には大いに興味をそそられる。明治維新における江戸城無血開城に見るように、勝海舟の胆力は父親譲りの比類を見ない豪快なものである。今、私は明治維新にいたる幕末の15年(1853年~1868年)を細々と研究しているのだが、誰よりも勝海舟に魅力を感じる。彼の書いたものといえば、『氷川清話』で、かつて現役時代に国会議員の赤坂宿舎の裏にあった氷川神社周辺を歩きながらよく思い起こしたものだ。まあ、おやじさんのものより数倍読みやすくはある。「男たるものは決して俺が真似をばしないがいい。孫やひこができたらば、よくよくこの書物を見せて、身のいましめにするがいい」と最後に書いたところを、如何に海舟はじめ子孫たちは読んだろうか。『氷川清話』には一方で少々馬鹿にしながらも、他方で「わが父は潔く、細かいことにこだわらずに鷹揚で、われに文武の業を教えるのに、徐々に勧め励ました」とあるを見ると、反面教師にしながらもその恩義を感じていることが伺える▼勝海舟といえば、私が思い出すのは、漫画家黒金ヒロシが語った勝海舟だ。4年ほど前にNHKで「未来をつくる君たちへ~司馬遼太郎からのメッセージ」というタイトルのもと放映されたものを覚えている。改めてそれのDVDを観てみた。黒金さんが両国中学の男女の生徒たち15人ぐらいと勝海舟の凄さを語り合っている番組だった。そこで、彼は、いかに海舟が「覚悟のひと」であったかを様々な側面から説いていた。マズローの人間の欲望についての5段階説やシュプランガーの学説を引きながらの解説はなかなか観させた。死の間際に勝が「これでおしまい」と言ったことを通じて、普通のひとが陥りやすい不条理感に囚われないためには、自分のために毎日を精一杯に生き抜くことに尽きると述べていたことが強く印象に残っている。小吉や海舟と鷹揚なところが似てなくもないわが級友の過ぎ越し方と、行く末を思いやる年末ではある。(2014・12・29)

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