(31)軍師・官兵衛もの読み比べ序論

今、NHK大河ドラマの放映のお蔭で、黒田官兵衛ゆかりの街が盛り上がっている。何と言ってもその第一は兵庫・姫路市だろうが、これからは福岡・博多市に移っていこう。生まれ育った地と晩年を過ごした地。どちらがどうと言うつもりはない。姫路も博多も甲乙つけがたいほど関わりは深い▼司馬遼太郎『播磨灘物語』を二回目読み終えたのを始め、去年から今にかけて、吉川英治『黒田如水』松本清張『軍師の境遇』火坂雅志『軍師の門』坂口安吾『二流の人』葉室燐『風渡る』『風の軍師』渡邊大門『黒田官兵衛の謎』加来耕三『黒田官兵衛不敗の計略』と読み進めてきた。今年の暮れまでに未読の官兵衛ものをなくしたうえで、読み比べを書いてみたい。これはいわばその序論▼何と言っても型破りで印象に残るのは坂口。文体の異様さと人物への切り込み方が斬新。家来たちの忠節を描いて胸うつのは吉川。オーソドックスに時代の流れの中に人物を浮かび上がらせ、目配りのうまさでは、やはり司馬。殺し合いではなく外交力の重要さを説き、子どもたちにも読ませたいと思わせるのは清張。キリシタンとしての官兵衛、播州よりも九州に視点を定め、大きく想像の翼を羽ばたかせたのは葉室▼ひとの一生は平板ではなく、有為転変、紆余曲折の流れをまとめて捉えないと見誤る。その実例として、豊臣秀吉の青年期から功成り名を遂げた壮年期を経て、狂ったとしかいいようがない朝鮮出兵の老年期が挙げられてきた。が、官兵衛も播州・姫路での行動と九州かいわいでの振る舞いは大いに違うとも見える。ともあれ故郷姫路が生み出したこの人物を、当の地元があまりにも粗末にしてきたことだけは間違いなさそう。遅ればせながら酒の黒田節ならぬ、人物としての黒田官兵衛像を生まれた地に根づかせたい(2014・6・12)

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(30)「回転木馬」みたいな自衛権論議

集団的自衛権をめぐる論議は未だ始まったばかり。様々な論者たちがメディアに登場し、その考えを述べているが、私が注目するのは憲法改正論者。そのうち、憲法を改正する必要を述べながらも、解釈でそれを済ませてしまおうとすることに反対をしている人たちだ▲なかでも小林節慶大名誉教授は筆頭株。この人はかつて自民党のブレーンと目されたり、公明党にも強い関心を寄せた時期(21世紀に入る前あたり)があり、私も幾度かお会いした。『憲法守って国滅ぶ』など明晰な論理展開で分かり易い文章が魅力的な人だ。今回の安倍首相の目論見を「権力による憲法泥棒」と断定。以前の96条改正への動きを「裏口入学」と決めつけたことと同様に明解極まりない▲ただ、小林ウオッチャーによると、彼の憲法改正への姿勢は微妙に変化したと言う。当初は普通の国にすべきだとの立場から憲法9条の改正を唱えていたと見えたのに、今は国際貢献のために自衛隊を海外に派遣することを明記せよとジワリ変わった、と。実は私もそうかもしれない、と睨んでいる。恐らくは平和を希求するのにどこまでも熱心な公明党の支持者たちとの付き合いの中で、その思いを強めるに至ったのであろう▲高村正彦自民党副総裁は地味な人柄の印象だが、どうしてどうして。うるささにおいて派手極まりない。20年ほど前に海外視察に同行していらいの旧知の間柄だが、その芯の強さといったら圧倒的だ。今、しきりに「砂川判決」を持ち出し、必要最小限の措置なら、集団的自衛権の概念に含まれるものでも排除されないとの主張を展開している▲小林さんは憲法学者30年の経験から、このような高村説は聞いたことがないとし、まったくの苦し紛れのものだと切り捨てる。今安倍周辺が提起する集団的自衛権行使への想定事例はいずれも個別的自衛権の問題で、やりたければ「その範囲を広げ、運用を見直して対応すればいい」と明解極まりない。衆議院に私が在籍した20年間にずーっと取り組んできたテーマが今展開される状況を見ながら、「回転木馬」を思い起こすのは何ゆえか。(2014・6・3)

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(29)憲法9条のもとで、自衛権の行使を整理せよ

集団的自衛権をめぐっての論争は、まず自民党と公明党の代表による協議の場が設定された。これはまことに興味深い。与野党の予算委員会での議論などよりも数倍重要だと思われる。結果如何では、日本がこれまで憲法9条のもと他国の戦争に関与してこなかった姿勢を根本的に変えることになるからだ。私は現役時代に幾たびか自民党との安全保障をめぐる協議の場に臨んだが、今回のものに比べれば殆ど意味がなかったとさえ思われるほど。この場に挑む人たちの心中や察して余りあり、羨ましい限りだ▲石破茂『日本人のための「集団的自衛権」入門』は、いかにも彼らしい筆致で得意満面に展開されている。彼には、これまで『国防』『国難』をはじめ数多の防衛に関する著作がある。それらに比べると軽いタッチは否めぬものの、タイムリーではあり、よく整理されている。かつて同窓の先輩面よろしく「あんたは防衛に関わり過ぎる。そろそろ卒業しないと総理に成れないよ」と、偉そうに忠告したことがあるが、いやましてその思いは昨今募ってくる。安倍さんに使い捨てされぬようにね、と▲ところで、この協議は三段階に分かれて行われると見込まれる。一番目はグレーゾーンについて。二番目は国連PKO活動に関するもの。三番目が集団的自衛権の限定的行使についてである。かねて私はこの問題については、集団的自衛権と個別的自衛権、さらには集団安全保障とがごちゃ混ぜになっていることが、一切の混迷の元凶だと指摘し、問題の所在を整理せよと主張、論文も発表してきた(2002年4・16号『世界週報』)。その視点からすれば、この三段階に分けての議論開始は公明党のペースだ▲この場面、三段階すべてを議論し終えて、行使容認にいけば、自民党の勝利。公明党の敗北になる。しかし、グレ―ゾーンにおける法整備の道筋をつけたうえで、個別的自衛権で出来ることを明確にしわけし、集団安全保障における駆けつけ警護は集団的自衛権とは別概念だとして認めることが出来れば、公明党の勝利である。あくまで憲法9条のもとでの憲法解釈を縮小でも拡大でもなく、適正に解釈することがポイントだ。解釈改憲ではなく、解釈の適正化で出来る、できないをはっきりさせることは可能であり、それをすることこそ公明党の使命なのだ。(2014・5・22)

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(28)作家の油断を読み取るたしなみ ──浅田次郎

作家で現在日本ペンクラブ協会の会長・浅田次郎さんとは一度だけ逢ったことがある。正確にいうと、あるパーティ―でわたしが一方的に声をかけたのだ。前回紹介した『作家の決断』に登場する19人のなかで直接逢ったことのある3人のうちの一人だ。ただ、残念ながら、その印象は決して良くなかった▲こちらがそれなりの礼を尽くして声をかけたつもりだったのだが、終始無言。つれないこと夥しい。やあ、どうも。何時も読んでいただいて恐縮です、とぐらいは言ってほしかったなあ。尤も、大勢のなかで、しかも彼が口にモノを運んでる最中だったからやむを得なかったかもしれない。が、『壬生義士伝』や『鉄道員(ぽっぽや)』や『終わらざる夏』で流した涙はなんだったのか、との思いは募った▲『作家の決断』では、「僕は嘘つきでした」と公言してはばからない。嘘つきはどろぼうの始まりではなく、「嘘つきは小説家の始まり」だと言い切って小気味いい。小説家には文章を作ることとストーリーを作ることという二つの才能が必要であると述べ、前者は努力すれば誰でも上手くなる、つまり技術的なものだが、後者については、天賦の才能が必要だ、と。通常、作家は、これを想像力の豊かさだと恰好をつけていうのだが、彼はそれだけではなく、どれくらい嘘がつけるかだと、わざわざ付け加えている▲この本は小説家志望の学生が名だたる作家たちに直接インタビューしているもので、それだけつい作家たちは油断して自分たちの成功話を本音で、恐らくは嘘を交えず語っている。つまりはどれくらい苦労して作家になったか、今の地位を築いたかをあけすけに語っている。この本はタイトルを『作家の油断』とすべきではなかったか。作家はやはり書いたものだけで勝負すべきだろう。また、読者もそれだけを読むべきで、それ以外のものを読み、また直接逢ったりすると幻滅することの方が多いと思われる。(2014・5・15)

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(27)なぜ医者は小説を書くのか、のふかーい理由

医師で作家の渡辺淳一さんがつい先日亡くなった。大胆に推測すると、全国の同姓同名の皆さんはお悔やみの想いとともに、ホッとされたかも。恐らく様々な場面で名乗る機会があるたびに迷惑されたろうと思うからである。先日もラジオから聴こえてきた「ワタナベジュンイチです」との声音が苦笑いを含んで伝わってきた。正確には、かのように思えた▲ともあれ巨星墜つ、である。かつて公明新聞に連載小説を書いて頂いたことがあるが、大いに物議を醸した。日経新聞の『失楽園』ほどではなかったのが残念であったが…。我が公明新聞の編集責任者もなかなか味な人選差配だと思ったものだ。一度はお会いしたいと思いながら叶わぬままとなった▲恐らくは彼の絶筆ならぬ”絶口”となった文章を読んだ。19人の作家たちのインタビュー集『作家の決断』である。この中で、私が会った覚えがあるのは、浅田次郎、阿刀田高、西木正明の三氏だけ。後は本を通じてしか知らないが、何れも人生の岐路で、どう障壁を乗り越えたかを語っており、興味は尽きない。尤も、直木賞を始めとする小説家の登竜門やらに悪戦苦闘した話も多くて、少々閉口しないでもなかった。そんな中で、渡辺さんはやはり異色というか、出色である▲一番読ませたのは、医学部に入って解剖書を読み、実際にそれに立ち会って、全身よろめくほどの刺激を受けたというくだり。「人間って、形態学的には全く同じなのに、動いてみるとみんな違う」ことに感動して「本格的に小説を書こう」と決意した、と。「医学は極めて文科系な学問」だとの言い回しも面白い。それで、医者が次々と政治家になったり、作家になるんだな、と妙に感心させられもした。それにつけても「僕は結婚は打算で、不倫は純愛だと思ってる」というセリフに、ドキッとしない男はいるだろうか。ああ、奥さんのことが気になって仕方がない。(2014・5・10)

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(26)葉室燐の新たな連載小説で公明新聞拡大

公明新聞で葉室燐『はだれ雪』の連載が始まっている。今が盛りの人気作家の手になる、赤穂浪士異聞というか「女人忠臣蔵」はまさに注目の的で、毎朝が楽しみなひとは多いものと思われる。政党機関紙でありながら、その連載小説において過去に直木賞作家をはじめ様々な有名作家を登場させてきていることは案外知られていない。私自身、過去の記者時代に、源氏鶏太『時計台の文字盤』の原稿取りを仰せつかって約一年お付き合いしたことがある。また、愛読した『元首の謀反』の作者・中村正軌さんには、連載をお願いしたものの断られた。しかし、そのご縁で、私の拙い本の出版記念パーティーの世話人に名を連ねて頂いたり、今もお付き合いをさせて頂いている▲こうした公明新聞の連載小説にまつわるエピソードには事欠かないが、実は先年に連載された、火坂雅志『安国寺恵瓊』は、大変な人気であった。そんな連載中のさなか。党のある支部会で、その路線をめぐって議論が伯仲してしまい、収拾にやや苦労する羽目に立ち至った。その時、やおら立ち上がった80歳代後半の老婦人が「先ほど来、皆さんがあれこれ言っていることはみんな公明新聞に書いたるがな。それより、公明新聞は小説が面白い」ー場内がどっと沸いて、空気が一変した。その老婦人とも深い付き合いをする仲となった▲ところで、葉室燐といえば、『蜩ノ記』で直木賞を受賞。神戸の老舗バー『グレコ』のママーこの人は大変な読書家で、私に須賀敦子の魅力を教えてくれた人だがーが、この本を推奨しており、大の葉室好きだったことを思い起した。彼女に新たな小説が公明新聞で始まる、と告げたところ、返す言葉で「新聞取る」と。有難い、一瞬のうちに拡大が実現した。▲肝心の私は葉室麟を知らないし、『蜩ノ記』も勧められながら未読だった。それでは彼女に申し訳ないとの思いで、急ぎ読み終えた。が、今一歩ぐっと来ない。主人公・戸田秋谷が立派すぎ、眩しすぎるゆえであろうか。「これも、お読みなったら」と手渡された『風渡る』は、この店の常連・井戸敏三県知事から彼女が勧められた、と。キリシタンとしての黒田官兵衛が描かれる。彼がこういった小説を読むとは意外だった。これは読まねばならぬ。かくして私は、葉室燐にまた嵌まっていくにのかもしれない。(2014・5・3)

 

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(25)憂鬱さが増すだけの田原VS西研の哲学対談

田原総一朗ーこの人物のテレビ番組に、私は現役の時に二回ほどでたことがある。その時に一度口喧嘩をした。この人は政治家を怒らせることで番組のトークを面白くさせるとの手法をよく用いるようだが、私の時もそのたぐいで、餌食にされそうになった。こともあろうに放映中に、私に対して「冬柴さん」と、あきらかにわざと呼びかけてみたり、きちっと答えているのに「もっと勉強してきてよ」とか言ったのである。

この自尊心の塊のような私に対して(笑)、である。コマーシャルの時間になって、「あんた!いい加減にしろ!」って、つい怒鳴ってしまった。一応、「ごめんなさい」と彼は頭を下げたが後味の悪さは尾を引いた。以後、彼の番組にはぜひ出てほしいと言われるまで、でないとこころに決めたのだが、そのうちこちらが引退してしまったので、当然ながら声はかからないで、今に至っている。

そういう不幸な出会いだったが、彼の書くものや人とのやりとりは面白く読んだり、見たりしていているのだから、私も勝手なものだ。その田原総一朗氏と哲学者の西研さんとの対談『憂鬱になったら、哲学の出番だ!』(幻冬舎)を読んだ。それこそ田原氏の鋭い切り込みは縦横に見られる。しかし、それに対しての答えがあまりぱっとしない。難解な哲学が分かり易く説かれることを期待するむきには羊頭狗肉だ。成果と言えば、田原さんも人の子、西欧哲学は解らんのだということがはっきりしたことか。結局は西洋哲学はただ難しいだけで、一般人には役立たずだということが改めて浮き彫りになった。憂鬱さはますばかりだという他ない。

ただ一か所だけ私としては、非常に興味深いくだりがあった。それは、田原氏が梅原猛さんの書いた『人類哲学序説』に触れたところだ。私はこの本に大変共鳴しているので、それこそ目を凝らして読んだ。西欧哲学の進歩発展主義の破綻を象徴したのが福島原発事故だとして、近代合理主義と決別するとしている梅原氏の主張を紹介。そのうえで、「梅原猛は東洋の思想を見直して、仏教の天台密教の『草木国土悉皆成仏』という考え方に着目したのです。山川や草木にも仏を見るという日本独自の思想で、ここから独自の人類哲学をつくろうとしています」ーデカルト以後の近代哲学が現代世界において、役に立たないことに気づき、新たな船出をしようとする梅原氏の意気や壮としたい、と私は思っている。

ところが、それに対して西研氏は『哲学は、一人ひとりの経験や感度や考えを出し合いながら『これは確かに大切だよね』ということを確かめ合っていく営みです。そういう風にして普遍的なものを取り出そうとすることが大事なので、それを、特定の世界観で代替してはいけないと思います」と答えるにとどまっている。これは、私には西欧哲学の側の敗北宣言に聞こえる。要するに世界的規模での現代人救済に役立たないがゆえに、確かめ合うなどといったぬるいことを言っているのだと思う。

それに対しての田原氏の最後の切り込みは「デカルトやカントらの哲学はヨーロッパ内では受け入れられたけれど、民族を超えて広がらなかったのではないですか」と言うだけ。西研氏の答も「お互いの経験をもとに考えを出し合って、普遍性を求める哲学の復権をめざしたいと思っているのです」と繰り返すのみ。

これって、結局は西研氏は、西欧哲学を超えるものが東洋の哲学にあるということに目を向けようとしないで、西欧哲学の復権にしがみついているだけのように思われてならない。その辺りをもっと田原氏には切り込んでもらいたかった。

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(24)朝鮮半島に行ったことがないのはなぜか

自慢じゃないけど、私はお隣の国・韓国に行ったことがない。朝鮮半島の問題に関心もあるし、身の回りには在日韓国人の友人も少なくない。またその道の専門家も友人には数多い。前回取り上げた古田博司さん以上に付き合いの古いのが小此木政夫さんだ。何と言っても彼とは昭和40年の慶大入学以来だ。同級生だったのである。彼は押しも押されぬ韓国問題の権威である。他にも北朝鮮事情に明るい伊豆見元さんとは中嶋嶺雄先生肝いりの「アジア・オープンフォーラム」でずっとご一緒した仲である。他にも挙げればきりがないほどなのに、どういうわけか韓国訪問に縁がない。

そのくせ韓国、朝鮮関連の本好きで読む。つい先日も呉善花さんの『侮日論』(文春新書)を読み終えた。尊敬する大先輩から「面白い。きわめて参考になる」と勧められたからだが、大いに啓発されるところもあったが、疑問に思うところも少なからずあった。この大先輩は、韓国のテレビ映画が大好きなひとで、「イサン」、「チュモン」などいわゆる歴史ものを絶賛されていた。しかし、私にはどうも馴染まない。朝鮮民族礼賛の雰囲気に嫌味を感じ、その学芸会的展開におぞましさすら感じてしまう。

あらためて気づかされ啓発された点は、韓国人には日本民族を蔑視する傾向が非常に強く、最近になって反日になったのではないということ。ましてや植民地支配がその起源ではなく、太古の昔から日本人を侮ってきた、というくだり。一方、疑問に思った最大の点は、「民族(朝鮮)そのものを一段低いものとみなす蔑視の感覚は、私の知る限り世界でも日本人がもっとも薄い」として、「他民族への蔑視の感覚ならば、韓国人の方がいっそう強く、世界的にもかなり強い方だ」というところだ。このくだりを読んで、むしろ逆ではないか、と思ってしまう。少なくとも私自身は長く韓国人や朝鮮人を蔑視してきたし、そうだからこそ当のその国に行くことは憚られる思いに支配されてきたのである。

いままで、小此木、古田、伊豆見の各氏(一緒に並べると怒られそうだが)を始め数多い韓国、朝鮮通の友人たちに、その韓国観や朝鮮人観を聞いてきた。それぞれニュアンスの違いはあれ、庶民としての朝鮮民族、韓国人は気のいい人たちであるという点は共通しているように感じた。表向きと実際とは大いに違うのだとも。だというなら、一度一緒に連れて行ってくれと言ってきたが、未だに実現していない。天邪鬼な私だからこそ、日韓関係が最悪と言われる今日、この辺りをそろそろ解決する時ではないかと思い始めている。

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(23)朝鮮半島の仙人が解き明かす韓国の真実 ──古田博司

古田博司ー私には学者の友人がそこそこいるが、この人はそんな中でも飛び切り親しい人の部類に入る。筑波大学教授。現代日本における韓国研究の第一人者と言っていい。今まで、『東アジアの思想風景』や『東アジ・イデオロギーを超えて』『日本文明圏の覚醒』などの本を、私の読書録でも紹介してきた。韓国や儒教圏にまつわる知的蓄積たるや大変なものがある。元をただせば、故中嶋嶺雄先生のご紹介で知り合った仲なので、広い意味での同門と言えようかと、生意気にも勝手に私は位置付けている。上京した際に、酒を酌み交わしながらの対話は、古代の朝鮮半島に住む仙人と遭遇したかのようで、まことに時空を超えて楽しい。

先に挙げた本を読まれずとも、タイトルを見ただけでもお分かりのように、彼はかなり硬派の難しいことを論じる。かねてから私は、「難しいことを論じる力がおありなのはよーく分かった。これからは、一般にもっと読まれるような分かり易い本を書いてほしい」と偉そうに言い続けてきた。勿論、今までも『悲しみに笑う韓国人』だとか『朝鮮民族を読み解く』などといった平易なタッチの本もある。しかしながらやはり持ち前の知性が邪魔をして、庶民には馴染まない本をお書きになる傾向がある。つい先年の『「紙の本」はかく語りき』など、その典型だろう。好きなファンにとっては堪らない魅力があるが、もっともっと多くの人に、この人のものを読ませたいと思う者にとっては、いささか惜しいような気がしてきた。

そんな思いを一気に跳ね飛ばすメッチャ面白い本がつい先ごろ出た。『醜いが、眼をそらすな、隣国・韓国!』という変なタイトルの本がそれである。「韓国人は『卑劣』ということを、理解できない。なぜなら、ほとんどの国民が卑劣だからだ!」などといったことがガンガン出て来る。その身に危険が及ぶのではないか、と他人事ながら心配してあげたくなる凄い内容だ。もっとも、産経新聞紙上での『正論』に、時折書いておられるような、洞察力に富む国際政治の現状への切り口も散見されるから、「誹謗・中傷」的な言辞に終始しているわけではない。易しすぎるとも言える論じ方で、深い韓国理解が得られる「文科省推薦の良書」かもしれない。

ただ、文句がないわけではない。2刷りのものでは、間違い記述や誤植が若干目立つ。特に、昨年亡くなられるまで秋田国際教養大学学長だった中嶋先生を「前秋田教育大学学長」と書くなどもってのほか。他にも初歩的ミスがあって、それを探す楽しみも。これはひたすらに出版社のせいだろう。まあ、著者としてはそんなことは気にせずに、これからも分かり易い本を書いてほしい。雑誌に書かれたものから類推して、近く古田流「西洋哲学入門」といった本が出版されるのではないかと私は睨んでいる。手ぐすね引きながら、固唾を吞んで期待しているところだ。

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(22)必要なのは、森にすむ動物にもやさしい視点

NHK広島総局に電話をしたのは、中国山地のあちこちで始まってるという挑戦は、大いに結構だが、木を伐採したあとをどうしているのかという問題である。つまり、スギやヒノキの針葉樹林を伐採した後に、少しでもブナやナラといった広葉樹林を植えていくことがないと、日本の森は蘇らないのではないか、との視点が私には気になっている。その点について、地元はどのような認識をもっているかと訊いてみた。井上恭介チーフ・プロデューサーは、あまりその認識がなかったことを認めたうえで、真庭町の町長はその点についての主張をしていたことを教えてくれた。

この『里山資本主義』では、これからの日本の進む道は二つあるという。一つは、「都会の活気と喧騒の中で、都会らしい二十一世紀型のしなやかな文明を開拓し、ビジネスにもつなげて、世界と戦おうという道」。もう一つは、「鳥がさえずる地方の穏やかな環境で、お年寄りや子どもにやさしいもう一つの文明の形をつくりあげて、都会を下支えする後背地を保っていく道」である。しかし、私は、この二つ目の道を作る際に、あえていえば、森にすむ動物にも優しい視点を盛り込む必要があるということだ。

森にすむ動物たち、すなわちクマやシカ、イノシシなどが荒廃する森から里山や人里に降りて来る現象が近年とみに目立つ。それは、膨大な針葉樹林のために動物たちの生息する環境が厳しいものになってきていることと無縁ではない。適度な広葉樹林の必要性が指摘されて久しい。中国山地はもはやクマが絶滅的状況にあると言われているが、それは広葉樹林の欠如と大いに関係するのだ。

今、中国山地で展開されている試みにそうした視点がなければ、結局は、元の木阿弥になってしまう。つまりスギやヒノキの針葉樹林の大量植林とその伐採の繰り返しでは、森の保水力は保てず、従来通りの川の氾濫をもたらしてしまうことになる。せっかく、伐採をするなら、そのあとに、広葉樹林を計画的に植えるという観点を入れる必要があろう。そこまでフォローしてこその「里山資本主義」だと考える。

この本はエネルギー供給という観点では鋭いものがあるが、もっと大きなこの国の安全や安心といった面では足らないところがあると言わざるをえない。NHK広島総局の井上氏には、藻谷さんにも、また現場の皆さんにも私の主張を伝えておいて欲しいと言っておいたが、さてどのように考えられるか。

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