【48】日本近代の礎を培った15年の攻防━━松本健一『開国・維新』を読む

◆明治維新をわかりやすく説く旅立ち

 10年ほど前のことになる。夫婦で7月末に一泊二日で山口県の萩・津和野へ行った。その年は随分と雨が降ったのだが、この時ばかりはおかげさまで素晴らしい好天に恵まれた。萩は翌年の大河ドラマに取り上げられる(この地ゆかりの吉田松陰の妹がヒロイン)とあって、早くも前人気は上々だった。黒田官兵衛という戦国期の武将に続き、今度は明治維新があらためて話題になり、吉田松陰の生涯がなんであったかが人の口の端に上るのだなあ、と思った。そんな折も折、姫路在住の勉強熱心な女性Tさんから「明治維新って本当のところなんだったのか、教えて」と問われた。

 いざ、正面切って真剣に切り込まれると戸惑う。「260年あまりの江戸幕府の鎖国政策が、時代の流れに合わず、帝国主義列強の開国要求に揺さぶられて、国内から若い志士たちの討幕運動が巻き起こった。結果として『薩長土肥』を中心とする明治維新政府ができた。これは世界史でも珍しい無血革命と位置付けられている」というのが私の取りあえずの答えだった。しかし、かねて明治維新における「尊王攘夷」や「佐幕派対勤皇派」など錯綜する人物相関図を明確にすることで、正確に理解したいと思っていた身としては、これを機会に、あらためてこの時期の歴史を整理しなおそうと思い立った。

 そこで手にし、読み直し始めたのが松本健一『開国・維新』(「日本の近代シリーズ」第一巻)だった。松本さんとは私の現役時代に、共に同学年の太田昭宏氏(元国土交通大臣)らと一緒に親しく付き合っていただいたことがある。残念ながら先年亡くなってしまったが、尊敬する歴史家のひとりだ。「憲法改正」にも真剣に取り組んでこられ、とくに「第三の開国」論が持論だった。わたし的には彼の「1964年日本社会変革説」(かつて公明新聞に連載された)に深く共鳴してきたものだ。

◆100年かけて挑んだ「日本駆逐」の企み

 この本は、当然のことながら「ペリー来航」から始まるのだが、表紙裏の扉写真・風刺画が印象的である。江戸庶民の目に映った幕末戊辰戦争の構図が「幼童遊び   孤をとろ  子をとろ」というタイトルで描かれているものだ。幕府方についた姫路藩(注縄の柄)がわたしの目には、侘しい姿に映らざるを得ず、あれこれとその後の各地の運命(例えば、姫路は神戸に県中心地の座を奪われた)が連想させられる。

 横道にそれたが、「ペリー来航」は1853年7月8日(嘉永6年6月3日)のことだから、それから15年間が明治維新の期間といえる。15年といえば、あのアジア太平洋戦争を別名「15年戦争」と呼ぶ向きがある。昭和6年の満州事変から敗戦の決まった昭和20年までを一括りにするわけだ。同じ15年間だが、明治維新の方は、江戸幕府が倒れて新たな政府が立ち上がるまでの時間をさすだけに、イメージ的には比較すると、少し明るい期間といえるかもしれない。それにつけても僅か15年で日本近代の礎が作られた、というのはまさに脅威的というほかない。

 「ペリー来航」は、四隻の武装した黒船に象徴されるように、アメリカの砲艦外交の幕開けだった。約100年かけてアメリカは「日本駆逐」の企みを果たし遂げたともいえるわけで、歴史というものはまことに「禍福はあざなえる縄のごとし」であり、因果は簡単には読み取れない。この時に浦賀に真っ先に駆けつけたのが佐久間象山であり、一日遅れて到着したのが吉田松陰とされる。時に松陰24歳。このことが機縁になって彼は、渡航したいとの思いに駆られ、米船に乗り込もうとするも失敗、やがて死に至る因を作ることになる。

 僅か29歳でその後の日本に多大な影響を及ぼす生き方をした松陰。今度こそ、その真髄に迫ってみたいという気がする。再読を始めたばかりだが、鍵になるくだりは、「はじめは、『開国』路線をとった幕府によって切り拓かれつつも、結局のところ、『攘夷』路線をとる朝廷側の前に敗れていったのはなぜか、という深刻な問題でもある」というところだろう。これからこの本をベースに「わかり易い明治維新解説」への旅に出たい。

【他生のご縁 挫折してしまった「第三の開国」】

 松本健一さんといえば、東大同期の仙谷由人氏(元官房長官)を思い起こします。松本さんが晩年、民主党政権に参与的立場で関わることになったのは、仙谷氏との友情が機縁でしょう。亡くなってしばらく経った頃に、仙谷氏から「君とも親しかった松本の遺作を送るから」との電話がありました。2人とも早々と鬼籍入りしてしまいました。残念なことです。

 彼の持論だった「第三の開国」論には、当時私も刺激を受けました。明治の開国から、昭和の敗戦に伴う第二の開国に続いて、平成における開国を、と真剣に考え訴えていました。それぞれに見合う明治の「大日本国憲法」と昭和の「日本国憲法」に呼応して、第三の開国に相応しい「平成憲法」を、というものでした。ことは簡単には運ばず、平成の30年は「失われ」て、終わりました。彼が健在なら、私の『77年の興亡』論をぶつけて議論してみたい思いに今強く駆られています。

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朝日新聞の危なさを15年前に指摘した悪口好き(47)

朝日新聞が危ない。例の従軍慰安婦問題での同紙の「謝罪風開き直り特集記事」いらい一段とおかしい。つい先日も、池上彰氏の連載の掲載をひとたびは拒否したものの、批判を気にしたのか、あとで撤回してみたりして、あれこれもがいている。というようなこともあってか、私の身の回りでも購読拒否ケースが相次いでいる。かくいう私はすでに今年から定期購読を止めた。理由は、あまりにもバランスを欠いた報道ぶりと、露骨なイデオロギッシュさに辟易したというところだろうか▼高島俊男氏といえば、知る人ぞ知る中国文学者で、姫路有縁の著名人とあって私もその著作を愛読してきた一人だ。『本が好き悪口いうのはもっと好き』なんかは、その絶妙なタイトルとあいまって忘れられない。その高島さんの朝日新聞の記者を徹底的にけなし切った古い雑誌記事をついこのほど読んだ。最近作『司馬さんの見た中国』(「お言葉ですが…」シリーズ別巻6)におさめられたもので、実際には「正論」1996年8月号に掲載済みのものだから、かなり旧聞に属する話ではある。これなど、朝日新聞社やその記者にとっては古傷を触られるようで、決して気持ちいいものではないだろう。あまり趣味がよくないことは承知で取り上げてみる▼高島さんは、この本の中ので、新聞記者が新聞社をやめてから出版した本について、徹底的に”料理”している。そうしたものは、しばしば「学識の底の浅さ、構築力のなさ、記述や引用の粗雑,文章のあらさ……。こうした、新聞記事では目立たなかったものが本では露呈する」と指摘したうえで、坂本龍彦『「言論の死」まで『朝日新聞社史』ノート』が、以上の弱点を「たしかに遺憾なくそなえている」と、いちいちの例をあげてこっぴどく叩いている。何か恨みでもあるのか、と思うぐらいに。私など、新聞記者の経験があるだけに、もしこんなことを書かれたら、もはや表を歩けない。ゆえに、何らかの報復を決意するはずだ▼この記者のその後は知らないが、以下、私が代わって高島氏への悪口を言ってあげたい。本にとって、中身とタイトルの不一致はままあるが、高島先生の場合は酷すぎる。『司馬さんの見た中国』というから、思わず司馬遼太郎の「中国見聞録」についてまとめたものだとふつうは思うではないか。少なくともこのテーマで半分近くは占められている、と。ところが、なんと、それに適ったものは、最初の二つの小文だけ。あとは、まったく無縁のものばかり。しかも、朝日新聞記者への悪口など今を去ること15年前。いや、もっと古く24年前のものまで、ここには収められているのだ。羊頭狗肉とは言わないまでも、古い製品を新しい包装紙で包んで出されたとあっては、今話題の「中国人商法」を真似たのか、と言いたくなる。以上、自身のことは棚にあげて。(2014・9・8)

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(第3章)第6節 オーラルヒストリーの面白さと危うさ━━御厨貴『知の格闘──掟破りの政治学講義』

全編これ裏話特集のおもむき

元東大教授で今は放送大学教授の御厨貴さんとは二度会ったことがある。一度は読売新聞主催の憲法をめぐる座談会。今一度は、ある雑誌の編集者の仲立ちで太田昭宏代表(当時=元国交相)と一緒に食事をした。いずれも未だ彼がTBSテレビの『時事放談』の司会(2007年から放映)に出るようにはなっていなかった頃のことだと思われる。特に、太田氏と共に会った時には、学者らしからぬ軽いタッチの方で、実に話しやすかったとの記憶が残っている。その際に「是非とも公明党のすべてを語り合いたいから別に機会を設けませんか」と言われたのに、太田氏の都合で実現出来ず、沙汰止みになった。これには悔いが残る。あれは絶対に受けるべきだと思った。私一人でもと思ったが、役不足ゆえ引き下がざるを得なかった。ひょっとして、赤松と一緒だと何かと不味いと思った太田氏の深謀遠慮で、その後2人だけで会ったのかもしれないと邪推しないでもないが。

 その彼の著作『知の格闘 ━━掟破りの政治学講義』は、「学問は、バトルだ 。好奇心が躍動する前代未聞の東大最終講義」と新書の帯にあるがごとく、政治学者の通常の枠を超えた面白い中身になっている。全編これ「裏話特集」といった感じで、笑えるエピソードや秘話が満載されている。衆議院議員を6期20年務め、それまでも政治記者や代議士秘書を併せて20年ほどやっていた、「永田町通」の我が身にしても、初耳や初お目見えのようなこともあって随分と〝お勉強”になった。新聞や週刊誌、テレビのニュースでだけでしか政治の姿かたちをご存じない方には、特にお勧めしたい。

 この人の放送大学講義で『権力の館』なるタイトルのものがあったが、私は毎回くい入るように映像を追ったものだ。戦前戦後の政治家の個人宅を中心に、あれこれエピソード風にまとめたものだったが、極めて興味深い中身だった。今もなお再放送の機会があるし、教科書も手に入るので一読をお勧めしたい。つい我が家と比較してしまい、その都度惨めさを催したものだが、それこそあるべき政治家像だと妙な慰め方をしたものである。

   語り合いたかった「公明党論」

  私は小泉内閣の最後に一年間だけだが、厚生労働副大臣を務めたことがある。それ以前にも同じ旧神奈川2区選出の市川雄一代議士の秘書をしていたので、この人物を注意深くウオッチしたことがある。そういう私だから、御厨さんの「小泉純一郎評」は出色の出来栄えだと感ずる。小泉氏のオーラルヒストリー(政治家の口述を歴史の証言として記録する)が難しいという理由を挙げているくだりである。

 理由の一つとして、小泉氏が徹底して自分の関心のあることしか喋らないことを挙げている。なにしろ、講演会で喋りたいことしか喋らず、時間が残っていても、自分の気分でさっさと止めて帰ってしまう、と。「相手があって自分があるとういうことを考えない人だ」とまで断定し、「小泉という人は記憶を失っている」し、「やったことをたぶん次から次へと忘れていっている人」だとまで言うのだから凄い。オーラルヒストリーにならなかった恨みが垣間見える。総理大臣を5年もやっていたのだから、そこまでは酷くなかろうと弁護したくなるぐらいである。

 ともあれ、最終講義の気安さゆえか、生来のこの人の性格からか、言いたい放題はまことに小気味いい。ただ、政治家の口述は記録する方の姿勢がかなり問われる。玉石混交の発言をすべて真に受けていくと、やがて出鱈目なことが歴史の事実として残り、誤ったイメージを随所にばらまきかねない。したがって、よくこの手のものは監視する必要があろう。例えば、中曽根内閣の官房長官として名を残した故後藤田正晴氏が「公明党はちょっと危ない」とし、その理由は「この国への忠誠心がない政党」だと、共産党とある意味で同一視している。これには御厨氏は「俺が死ぬまで吹聴するな」と言われたようだが、最近は(時効だから)喋っているという。この話には、「先日、公明党の代表に言ったら嫌な顔をしていました(笑)」というオチがついている。こういう箇所に出くわすと、なおさらとことん公明党について彼と語っておきたかったとの思いが募ってくるのだが。

【他生のご縁 公明党をめぐる見立てに疑念】

     御厨貴さんについては、拙著『77年の興亡』の中で、平成の30年が終わって、昭和の最後の頃に戻ってしまったとの見立てを持っておられるのではないかとの疑いを抱いたことを指摘しています。その疑いは未だに続いており、一度「晴らしたい」と思いつつそのままになっているのは残念です。公明党についてはさまざまな論考をものしておられるだけに、よく分かっておられるはず。自公政権20年の重みを理解せず、単に昔に舞い戻ったとの評価はいただけないと思ったものです。

 団塊世代ジュニアに当たる教え子・佐藤信さん(当時研究員)との『中央公論』(2012年7月号)の「先生このまま逃げる気ですか」という対談は面白いものでした。世代間格差の現実を指摘され、正直に逃げるしかないと答えたとあるのには、感心しました。こういう先生に教えられた学生は幸せだなあと思いました。

 

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昭和天皇と共に生きた眩い時代の意味(45)

つい先ごろ昭和天皇の実録がようやく完成したとのニュースに接した。没後四分の一世紀が過ぎようとする今、昭和天皇についてのすべてが明かされることは喜ばしい。たまたま福田和也『昭和天皇』第七部(独立回復 完結編)を読み終えたばかりだった私としては、なおさらその気分に浸っている。総合雑誌『文藝春秋』に連載された六部までとは違って、最終巻は『本の話 WEB』に引き継がれた。なぜそうなったかは寡聞にして知らないが、結果的には一番単行本化が待ち遠しく、貪り読むこととなった▼この本は、タイトルこそ昭和天皇となっているが、実際には”昭和人物録”の趣があるように思われる。あまたの人々のエピソードが、天皇との絡みは勿論、直接かかわりがなくとも、この時代を描写するうえで欠かせぬと、著者が判断されたものが顔を出す。ご本人は、あとがきで、歴史家でもない自分が昭和天皇をなぜ書いたかについての理由をこう書いている。「昭和天皇ー彼の人の視座を借りると、ありとあらゆる事件、人物を登場させることが出来る」ので、「そうした膨大な人物と、事件を包含しつつ、昭和という時代を背景とした、夥しいドラマを描いていきたい」と思った、と。壮大なドラマ集は実に読みごたえがあった▼福田氏はこの本の最後を「昭和六十四年一月七日、かの人は崩御された。我が国の歴史の中で、もっとも眩い一時代は、終焉を迎えた」と締めくくった。前年の九月に詠まれた最後の歌ー「あかげらの叩く音するあさまだき音たえてさびしうつりしならむ」で第一部を書き出して以来、七年あまりが経った。「遥かなさみしさを漂わせた」歌で、締めくくった「彼の人生は喪失に満ちたものだったが、その喪失からこそ、彼は学び続けた」。あらためて、昭和天皇と共に生きた私にとっての「眩い時代」を思い起こさせられた▼昭和天皇は、明治34年(1901年)4月29日生まれだから20世紀とともに生きた。25歳で天皇となり、敗戦の年には44歳となっていた。崩御の時は87歳余。その終戦の年にこの世に生を受けた私は、昭和天皇の後半生である43年間を共に生きたことになる。平成天皇のように直にお会いし、言葉をかけられたことはないが、思えば何かと関わりがあったことを今にして思う。崩御の日からわずか二週間ほどして、故郷姫路・西播磨から衆議院選挙に立候補するべく記者会見した。一年間の準備期間を経て、翌平成2年に落選し、平成5年に初当選。そして約20年後に引退した。こう振り返ると、昭和天皇の死で、それまでの時代と区切りをつけた私は、新たな人生の幕開けを切ったといえよう。だからどうなんだと言われそうだが、この本を読み終えて、あらためて昭和と平成の大きな時代の落差とでもいうべきものを、公私両面から感じることは確かだ。(2014・8.24)

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仏教学者の生涯を描き切った弟子 (44)

あなたの宗教は何ですかと訊かれたことがありますか?ほとんどの人は悩んだはずです。仏教と書いたり、真言宗,禅宗、日蓮宗などと個別の宗派を明確に書き込む人はよほど変わった人と言えるかもしれません。長い間日本では「葬式仏教」と言われ続け、宗教(仏教)はお葬式の時だけのものとの印象が根強くあります。また、キリスト教や西欧哲学に比べて、見劣りがする位置づけは認めざるを得ません。そういう状況を変えたいとの思いを強く持って生涯戦い続けてきた一人が仏教学者の故中村元さんでしょう。この人は、執筆した著書・論文が邦文で1186点余。欧文でも1480点余といいますからたまげてしまいます。その中村元さんの一生を弟子が書き表しました。植木雅俊『仏教学者 中村元』で、まことに読みやすくて、あれこれ考えさせられる面白くてためになる本です▼植木さんは、『仏教、本当の教え』で一気に世に知られた仏教思想研究家ですが、中村元先生の主宰する東方学院でインド思想や仏教思想、サンスクリット語を学んだ人です。40歳から十年近く毎週3時間、直接教えを受けたという彼は、「人生において遅いとか早いとかということはございません。思いついたとき時、気が付いた時、その時が常にスタートですよ」との師の激励を支えにしてきた。60歳を超えた今、見事にその才能の花を開かせました。この本は、単に中村元という人物の姿を描くだけではなく、弟子としての学問の捉え方をはじめ、師への仕え方などこと細かに記しており、あたかも「師弟伝」の趣すら漂っています▼この本の魅力は随所に、人間中村元の人となりを表すエピソードが満載されていること。19年がかりで仕上げた二百字詰め原稿用紙4万枚が、出版社の不手際で行方不明になった事例への対応には本当に驚く。謝りにきても怒らなかったというのだから。「怒ったって出てこないでしょう」というセリフには尋常ただならぬ境涯を感じさせる。さすがに一か月ほどは茫然自失とされたようだが、その後は「不死鳥のごとく(書き直しの)作業を再開」され、見事に仕上げられた。「やりなおしたおかげで、前のものよりもずっとよいものができました。逆縁が転じて順縁となりました」と述べていたのには、ただただ頭が下がる思いだ。加えて、泥棒に入られた事件にはもう笑ってしまう。人格者というのはこういう人を言うのだろうと思うが、ここではあえて触れない。みなさん、読まれてのお楽しみだ▼中村元という人は『東洋人の思惟方法』で、実質的に世に出たのだが、ここには異民族間、異文化間の相互理解と世界の平和を願う思いが込められていて、生涯を通じて彼が追ったテーマが凝縮されています。その後の膨大な著作も結局は、「処女作に回帰する」側面が強いと思われます。この著作には様々な毀誉褒貶があったことを植木さんは淡々と触れていますが、ここに始まって晩年に至るまで、仏教学の世界からはあれこれの反発を常に受ける存在であったことが推測され、きわめて興味深いものがあります▼中村さんは、日本の仏教の現状について「まじめに考え、まともに解決すべき問題を回避して、ごまかしている」と厳しい見方を提示していますが、それについて、植木氏は「2012年11月28日で、中村は生誕百周年を迎えた。我が国の現状を見る限り、六十五年前に中村が指摘していることは、残念ながら今なお変わっていないと言わざるをえない」としたうえで、「改めて、『自己との対決』によって仏教を思想としてとらえることの必要性を痛感する」と記しています。私には、ここはこの本の最重要なポイントと思えます。読みようによっては、師が生涯かけて取り組んだ仕事が現実を変革しえていないことを指摘し、これからの時代における弟子のなすべきことをさりげなく語っているからです。周知のように『思想としての法華経』の著者である植木さんの使命たるや、重大であるといえましょう。今に生きる我々の前途には、「仏教と言ってもいろいろあり、本来の仏教と異なって、権威主義化してしまったり、呪術的になったり、迷信じみたものになってしまったものもある」との彼自身の指摘のように、仏教そのものの差異化をどうとらえるかの問題があります。加えて、キリスト教批判を繰り返しながらもヨーロッパ思想との比較にあって劣勢が否めない東洋思想をどう宣揚するかの課題もあります。こうした問題を考えるうえで、きわめて示唆に富む本に出会えて、今私は幸せな気分に浸っています。(2014・8・20)

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なんのために走るのかと訊かれて (44)

今朝も10キロほどを80分かけて走った。時速7キロほどだからほんの駆け足程度。ランニングというよりもジョギングであろう。でも、というべきか、だから、というのがいいか、ともかく気持ちがいい。爽快そのもので、帰宅後に風呂に入った瞬間など、「あーっ、気持ちいーい」と思わず叫び声を上げてしまう。まさに至福の時が続く。もっとも、かつて高校の同期会で、走るのが習慣だと言ったら、「お前あほか」「なんのためにそんなしんどいことするんや」と言われた▼マーク・ローランズっていう哲学者は『哲学者とオオカミ』っていう本で有名だそうだが、私はそれよりも『哲学者が走る』という方を題名に魅かれて読んだ。「人生の意味についてランニングが教えてくれたこと」というサブタイトルが付けられている。決して面白い本とはいいがたく、こんなものでも著名になると売れるのか、というのが率直な印象だが、そこは例によって当方の浅知恵ゆえであろう▼「走ることには内在的に価値がある」「走るとき、人は人生に本来備わった価値と接する」「自分の歴史をきり開く場なのではないか」「走ることは回想の場だ」「長いこと忘れていた思考を掘り出す場所である」などといった片言句々が印象に残る。要するに、なぜ山に登るのかと訊かれて「そこに山があるからだ」と答えるしかないとの有名なやりとりと同様に、「走るのは気持ちがいいから」だと言うしかない。ローランズ氏は、それを「最高の価値においては遊びであって労働ではない」と述べて結論づけている▼要するに、健康のためといった目的云々などよりも、走りたいから走るだけの代物だ。加えて、私は常には眼鏡をかけているが、走るときには着用しない。裸眼でもそれなりに走れる。それゆえ、見えないものが見えるから不思議だ。姫路城三の丸広場の芝生はまだら状態で生えているが、それを見るたびに飛行機で上空からやがて着陸するといった高度での地上の風景を思い起こす。ありとあらゆる風景を連想させるのだ。こう書くと、なんだかローラン氏と一緒だと言われそうだが、明らかに違うのは、彼はランニングについて書くことでお金儲けをしていることなのだ。その意味では、彼にとっては走ることで、労働の代価として報酬を得ているといえよう(2014・8・13)

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資本主義の終焉と新時代の地球哲学 (43)

『資本主義の終焉と歴史の危機』ー元民主党政権の経済ブレーンで経済学者の水野和夫氏のこの本はこの夏一推しの本だ。前作の萱野稔人氏との対談本『超マクロ展望 世界経済の真実』も読ませたが、これはさらに知的刺激をそそる。世界経済の今を歴史に立ち返って分析し、近未来の動向を予測するうえで得難い手引書となる。資本主義がもはや命運が尽きたという、いままで何度もいいつくされた感のするテーマではあるが、この人はぐっと文明論的に問題の解明を進めてくれ、面白い▼資本主義が目指すものは利子率によって推し量られる。それが今やゼロ金利。資本を投資しても利潤が出ないーこのことは何よりも資本主義の終焉を物語っている。「長い16世紀」といわれる時代が、中世から近代への大転換の時であった。それと対をなす500年ぶりの転換の時が今だ。著者は、「長い21世紀」と呼ぶ。しかし、この時代は、もはや経済の成長の糧となる新天地がない。経済発展のための対象地域が失われた今、「電子・金融」のバーチャルな空間に目を向けて、目先をごまかすしかないというのが実態だ▼これには、未開の地・アフリカがあるではないか、との反論はあろう。しかし、そことて、これからの投資先としてはたかが知れている。束の間の先送りにはなっても恒常的な資本投資先としてはあまりに心もとない。もはや地球上のパイオニアはなくなり、人々にとってかつてのような新たに儲ける手だてはないというのが偽らざるところなのだ。▼資本主義に代わる、新たな理念や経済の仕組みが待望されるといいつつ、自分にはそれが何かが解らないと、正直に水野氏は言う。ひたすら息を吞んで読み進めた読者は最後に突き放されるわけだ。では、どうするかは、今に生きる人々が知恵を出し合うしかない。ここは地球上の実態を認識し合って、限られた資源をどのようにシェアして生き抜くかについて相互理解を進めるしかないのだろう。しかし、先にうまい汁を吸いつくした先進国家群の主導するそういった身勝手な方向性を、後進国家群が許容するとは想像しがたい▼ここは、やはり、地球上に住むあらゆる民族、国家群を、意識において束ねる哲学・思想が待たれるところだと思われる。そう、いささか飛躍に聞こえるかもしれないが、21世紀は真実の宗教の世紀なのだ。16世紀は、資本主義の抬頭で、西洋のキリスト教の終焉をもたらした。それから5世紀という長大な時間を経て、今21世紀は、東洋の仏教思想の抬頭で本格的な幕開けを迎えたといえよう。(2014・7・28)

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余部鉄橋補修工事半ばで逝った従兄を想う (42)

宮本輝さんの自伝と言われる『流転の海』(全七部)の第六部までをようやく文庫本で読み終えた。かつて我々の信奉する仏法を基盤にした小説ってどんなものだろうかと考え、親しい仲間であれこれ意見を交わしたことがある。その時は、船山馨さんの『石狩平野』辺りが一番近いのかな、との結論だったと記憶する。しかし、今は違う。文句なしに宮本輝さんのものだと確信する。読んでいて、しばしば共鳴し同感するくだりは枚挙にいとまがない▲私の従姉に無類の本好きがいるが、このひとから『流転の海』を読むことを勧められた。というより、読もうと言う気にさせられた。というのが「二回目読んでる」と聞かされたからだ。というわけで、やっとこさっとこあと一息で全七巻読了という段階まで来た。その第六部『慈雨の音』には、私にとっても、また従姉にとっても、極めて印象に残るシーンが登場する。それは、かの余部鉄橋の中間あたりから遺灰を撒くという、まさに幻想的そのものの場面なのだ▲兵庫県美方郡香美町にあるこの鉄橋は、高さ41mほどの橋脚を持って約310mに及んで、川と国道の上を跨いでいる。山陰本線鐙駅と餘部駅間にある、この鉄橋は明治45年の開通いらい、静かな人気を博してきた。何しろ細長い橋桁の上を、日本海を背景に列車が走る風景は、大げさだが、この世のものとは思えないぐらいであった。残念ながら昭和61年に突風に煽られ、走行中の車両が転落するという事故があっていらい、付け替え工事が射程に入った。最終的に2010年(平成22年)に鉄筋コンクリート化が完成した。実は、この工事を担当したのが私の従兄・北後征雄氏である。従姉からすると弟になる▲北後氏は昭和40年代初頭の旧国鉄入社いらい、新幹線のトンネル工事に携わり、後にコンクリート研究で博士号を取得することになる。JR西日本を定年退職してから、この余部鉄橋の付け替え工事の担当を退職後の第二の職場・大鉄工業ですることになった。彼から、何とか今までの鉄橋の橋脚を生かした形で、工事をすることが出来ないものか、との相談を受けたことがある▲最終的にはその願いは叶わず、心ならずもコンクリートで補修するという形になってしまったが、その工事の完成途上で、彼は大腸がんのためにこの世を去ることになった。『慈雨の音』で遺灰を撒く場面が出てくると、思わず北後氏の無念の死を思い出し、作中の主人公たちの思いと重なり合ってしまった。宮本輝さんに逢ってこのことを伝えたいものだ(2014・7・18)

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透徹した眼差しで見ぬく元外務官僚 (41)

じっとこちらを見つめるまなざしが異様だった。恐らく15年以上ほど前のことだが、国会の会合で見かけて、未だに強い印象で残っているひとを、私はこの人をおいて知らない。佐藤優ー元外務省主任分析官で、今を時めく大作家だが、当時は違った。公明党の外交安全保障部会に来た説明要員の一人として、前席に坐るのではなく、後裔で壁を背にして私の真正面に坐っていた。およそ感情らしきものはその大きな瞳からは感じられなかった。ゆえに、なんだか妙な違和感がずーっと残っていた▲後に(2002年5月)、鈴木宗男事件に絡む背任容疑で逮捕され、同年7月に偽計業務妨害容疑で再逮捕され、512日間拘留されたひとである。『国家の罠』を2005年に出版して以後の、この10年の凄いしごとぶりは、まさに八面六臂を越える。彼の書いた本は正直言って読む方が追いつかない。私は最初の頃は殆ど全て読み漁り続けたが、もう追いつかない。とりわけキリスト教神学にまつわる専門的著作は手におえず、読書レースから脱落してしまった▲その彼が総合雑誌『潮』誌上に、池田SGI会長と歴史学者A・J・トインビー氏との対談を読み解く連載をし、それが『地球時代の哲学』としてまとめられた。当初は引用部分が多すぎないかとの思いを禁じ得なかったが、読み進むうちにすっ飛んだ。池田先生をまっとうに理解する本物の知識人が登場した、との思いを心底から持つ。現役時代を通じて、私が付き合った外務官僚で、彼を評価するひとを寡聞ながら知らなかった。外務省への徹底した批判の刃がもたらしたものだろう。せいぜい記憶力が凄いね、というくらいで、後は無視するのが精いっぱいという人が大半だった。さてその後の彼を見聞し、引き続きそういう態度を取るのかどうか、一人ひとりに聞いてみたいものだ▲今回の集団的自衛権問題にまつわる論評でも彼のそれは、明解そのものだ。「公明党の圧勝」で、「公明党が連立与党に加わっていなかったならば、直ぐにでも戦争ができる閣議決定、体制になっていたのではないか」といった位置づけは、まさに公明党の支持者にとって胸すく思いになろう。これまで佐藤優の存在を知らなかった人々にとって、ちょっと古い譬えだが、天から降り来ったスーパーマンか月光仮面のように思われるのではないか。「これでは米国の期待に応えられないのではないか」とみる外務省関係者やOBの声を取り上げ、低評価の背景を明らかにしている。今思うことはただ一つ、佐藤さんをして贔屓の引き倒しにさせないようにせねば、と。(2014・7・15)

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【40】1-⑦ 見失われた「国家的自己決定能力」━━五百旗頭眞『日本の近代6 戦争・占領・講和』

◆「集団的自衛権問題」での沈着冷静な捉え方

 集団的自衛権問題をめぐる閣議決定(2014-7)について、当時これで「戦争に巻き込まれてしまう」とか、これで「平和を保つことが出来る」という賛否両論の立場からの議論があった。これはどちらもかなりいかがわしいと私には思われた。当時の安倍首相言うところの「抑止力」が破たんすれば、自ずと戦争になるのは当然である。従来なら同盟国・日本として、米国に対し何も出来なかったのが、これで出来るようになったということに違いない。それを恐れてどこかの国が先制攻撃をしてこなければ、今まで通り平和は保てる。それでもなお、その国が仕掛けてくればそれが不可能になってしまうと言うに過ぎないのである。

 この辺りについて、元防衛大学校長で神戸大学名誉教授の五百旗頭真さんが意味深長なことを公明新聞のインタビューで答えていた。「事実上、憲法を変えられないのなら、国にとって必要な場合、通常の法手続きで変えていかざるを得ない。というより、それは国権の最高機関が担うべき当然の仕事のはずだ」し、「憲法を抱いて死ぬ選択を国は行ってはならない」と。「解釈改憲」であるとして、必要以上に批判する態度を、諌めている。今回のことがなければ、座して死を待つことになりかねなかったと、述べていたわけだ。私は、当時のことを「解釈改憲」とまでは思わなかったが、紙一重だと思ってきただけに、五百旗頭さんのこの指摘は極めて傾聴に値すると思った。

 五百旗頭さんの『日本の近代6 戦争・占領・講和』は、市川雄一さんに勧められて出版直後だった13年ほど前に読んだ。末尾の7行が忘れられない。長いが引用する。「(戦後に)サンフランシスコ体制に守られて、経済発展と利益配分の小政治に没頭し続けるうちに、大局観に立った国家的自己決定能力を見失った感がある。経済大国にはなったが、尾根筋に立った者に求められる大局的展望能力と、それに基づいて決断する者に漂う風格が失われた。他国民と世界の運命に共感をもって自己決定する大政治の能力を今後の日本は求められよう。なぜなら、真珠湾から五五年体制までの歴史のように、全面的自己破滅を再生するという型を、もう一度繰り返す自由を、われわれは与えられていないからである」──この記述を銘記せよと、市川大先輩から聞かされた。あのときの自公協議の決断も、そうしたことに繋がれば、戦後安全保障の歴史に大いなる転機を作ったことになるはずである。

◆占領期における重要な気づき

 この本を今読み返す中で、新たな気づきがあった。1947年(昭和22年)4月25日の総選挙の結果、社会党が第一党に躍り出て、自由、民主の保守二党がそれに続き、国民協同党と共に、四党連立政権の誕生をみたことであった。片山哲内閣の誕生である。この内閣を従来、社会党中心ゆえに左翼内閣と見る傾向が私にはあったが、それは正確さを欠く。これはのちの「自社さ政権」の先駆だったかもしれない。いや、それも違うかも。五百旗頭さんは、当時のマッカーサーが声明で「日本国民は、共産主義的指導を断固として排し、圧倒的に中庸の道、‥‥極右、極左からの中道の道を選んだのである」と意義づけたことを紹介している。

 更に、「共産党の急進主義がマッカーサーの弾圧にあうと、人々はそれではないが、保守の旧政治でもない、穏健な革新政治の可能性をたずねたのである」と述べている。こう見ると、「中道政権へ」との見出しは編集部の勇み足であろう。「穏健な革新政治へ」が望ましいと、「真正中道主義者」を自認する私には思われる。

 五百旗頭さんは、兵庫県の私学の名門・六甲高校出身だ。この学校の生徒は、いつもふろしきを抱え、電車内で断じて座らないという校風を持っていたことが知られている。なんだか防衛大学校と相通じるものがありはしないか。その校長の職務を終えられたあと、「東日本大震災復興構想会議」の議長を務められ、見事な手腕を発揮されたことは周知の通りである。私は様々な機会にお逢いし、教えを乞うた。日本政治外交史、日米関係論の先達を前に、その都度、政治のプレイヤーの端くれの一人として、肩身の狭い思いを禁じ得なかった。これを契機に、少しは日本の政治に胸を張れるようにしていきたい。

【他生のご縁 PKO法に結ばれて】

 PKO法審議の頃に市川雄一さんが五百旗頭さんをしばしば党に招いていただきました。物腰柔らかな本当に柔和な方でした。私と年齢は3歳ほどしか違いませんが、とてもそうは見えず、いつもその貫禄に圧倒されたものです。

 『77年の興亡』を書くにあたり、戦後日本にとって最も貴重な時間は占領期の7年間だったと、つくづく思いました。維新後から西南の役までの時間と対置できると思います。かつて「占領期が大事」だと五百旗頭さんの指摘を受けながらも、深く考えることがなかった身の不明を恥じます。

 放送大学の講座で、五百旗頭薫さんの日本政治外交史の講義を聴き、息子さんと知りました。学者一族の五百旗頭家や、父上のことを思い起こしながらテレビの向こうに立つ薫さんを見つめていました。

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