(21)21世紀の先端アイテムは里山の木材からー里山資本主義

広島の山奥での実践的な試みから現代人の生き方を根底的に問うー藻谷浩介とNHK広島取材班の共著『里山資本主義』が話題を呼んでいるというので読んでみた。事の発端は、2001年夏に中国山地における異様なまでに元気な年配者たちの革命的行動に始まる。衝撃を受けたというNHK広島総局の井上恭介チーフプロデューサーらが藻谷さんと組んで取材を始めた。

藻谷さんは、全国の市町村をくまなく歩いている地域エコノミスト。実は私が現役を退く少し前だから2年ほど前に国会の勉強会で講演を聴いたことがある。最前線の地域の実情を知り抜いている気鋭の経済人との印象を受けた。日本総合研究所の主任研究員であり、元をただせば日本開発銀行の銀行員だ。彼は少し前に『デフレの正体』という本で、「ものが売れないのは景気が悪いからではなく、人口の波に原因がある」との画期的な論稿を世に問うた。そっちは未だ読了してはいない。

中国山地の山奥で何が起こっており、そしてそこから何を感じ、どう今の日本の現状を切り取って未来への予測を打ち立てたのか。一言でいえば、里山を食い物にしてしまおうというのだ。里山にある木の枝を使って「エコストーブ」を活用するー知ってしまえば、なあんだ、と思うほど簡単な仕組みである。灯油を入れる高さ50センチほどの20リットルのペール缶の側面に小さなL字型のステンレス製の煙突がついたものがエコストーブの出来具合だ。この煙突部分に萌えやすいおが屑などをいれて着火して、木の枝をくべるというもの。真上に上がった炎はやがて真横に向きを変え、ストーブ本体に吹き込み、モノを温めていくことに。きわめてシンプルでお金も僅かで出来上がる。このストーブで煮炊きをし、部屋を温めていく。これが21世紀の新経済アイテムというわけだ。

こういう仕組みを著者たちは「里山資本主義」と呼ぶ。おカネの循環がすべてを決するという前提で構築された「マネー資本主義」の経済システムの横に、こっそりと、おカネに依存しないサブシステムを作ってしまおうという考え方である。これは単純に昔の暮らしに戻せと言うのでもなく、今の経済社会に反逆せよというのでもない。要するに、森や人間関係といったおカネでは買えない資産に、最新のテクノロジーを加えて活用することによって、マネーだけを頼りに暮らすのではなく、はるかに安全で安心な底堅い未来を現出させることが出来ると言う。

こうした主張を読んで、一つ大きな疑問が沸いてきた。私は直ちに、NHK広島放送局に電話し、井上さんを呼び出した。そこで交わした話は次回に。

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(20)組織永続のための徳川家来たちの忠義

忠臣蔵のストーリーは、赤穂藩の大石内蔵助以下の47人が、主君の仇を晴らすため、艱難辛苦の果てに見事に吉良上野介を討つというもの。だが、それは表のことで、実は裏は全く違う、と竹村公太郎氏はその謎を「地形」で明かす。面白い。その謎解きの結果は、徳川幕府に吉良家を抹殺したいとの永年の怨念があり、たまたま浅野内匠頭が不祥事を起こしてくれたため、それを利用して巧みに赤穂浪士たちを庇護の下におき、一方的な襲撃を可能にしてやったというのである。それは事件後、吉良家の血筋を一人も残さないほど徹底的に滅亡に追い込んでいったことで解る、と。それは、徳川幕府にとって重要な泉岳寺に赤穂浪士たちが手厚く埋葬されたことなど、巧妙な仕掛けが施されていることでも解る、と。なるほど、そうかと納得してしまう。

では、その謎の「地形」とは何か?それは、1300年代からの矢作川の干拓の歴史に遡る。矢作川とは今の愛知県岡崎市を流れる川だ。この川の河口に吉良家、上流部が徳川家の領地という風に隣接する。ここでは300年に及び塩田をめぐっての干拓争いが繰り広げられた。家康が力を持って徳川家が台頭するまでは、吉良家の方が圧倒的に優位にたっていた経緯がある。しかも、この力関係が逆転したあとも、吉良が対朝廷の関係において優位にあったため、征夷大将軍の地位を世襲するには、徳川家は隠忍自重する必要があった。それがようやく果たせるチャンスを、赤穂義士たちが作ってくれたというのである。

こういう経緯を知ってみると、なるほどと思える。前回見たような赤穂浪士たちへの様々な配慮も、吉良への怨念を果たす徳川の意志の表れとみると謎が解けてくるわけである。これまでは、江戸の危ない中心部に浪士たちが多く潜んだことはその大胆さを示すものだとか、吉良邸を寂しいところに移したのは、むしろ吉良が防御しやすいようにしたためであるとかとの俗説が支配的だった。しかし、徳川対吉良の対決の歴史を知らされてみると、見方がぐっと変わってくる。

加えて、泉岳寺という家康が創建した寺に埋葬したことは、この討ち入りを忠義の物語として仕上げ、日本国中に広めていくためであった。その宣伝のために、わざわざ高輪大木戸を泉岳寺のそばに移すということまでやってのけているという。当時の旅人が泉岳寺により立ち入り易いようにした(全国への宣伝効果を狙って)ということを指摘する。このことは、同時に徳川家にとって真のねらいであった「吉良家の取り潰し」の企みが秘匿できる(赤穂浪士への賛嘆の影に徳川の狙いは隠せる)からだという。

まことに、竹村さんの推理は巧みである。つくづくなるほど、と感じ入らされる。私は、ここまでして徳川幕府は、自らの体制を永続可能なものにしていく配慮を怠らなかったということに驚愕する。家康は自らの世襲体制を出来る限り長きにわたって続けさせるべく、ありとあらゆる手立てを講じたことはよく知られている。しかし、それが実際に、260年もの長きにわたって存続しえたのは、その後継者たちの壮絶なまでの思いがなければ到底実現しえない。家康が逝って100年ほどの歳月が流れた後に、その思いを果たすために永年の宿敵である吉良を用意周到なやり方で巧みに潰してしまい、その体制の永続化をはかったとは、凄い。むしろ、この徳川の忠義の方が、赤穂の浪士たちの忠義よりも重く深いものがあり、われわれ現代に生きるものが学ばねばならないと思う。

つまり、主君がしでかした失敗の汚名を雪ぐための隠忍自重の浪士たちの闘いも勿論、称賛に値する。だが、それを巧みに利用して、徳川家の組織温存、発展のために、家来たちがその忠義を創建者のために尽くすということは、もっと大きいことではなかったかと、思われてならない。

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(19)表は赤穂浪士の情。裏は徳川幕府の怨。

「忠臣蔵には日本人の情がいっぱいつまっています。この情を世界に訴えるべきだと思います」-中西進さんはかつて、テレビの忠臣蔵特集番組で、忠臣蔵を世界に紹介する際に何をポイントにすればいいか、と訊かれてこうコメントした。『日本人の忘れもの』第三巻の最終章に出て来る。忠臣蔵と情。これには誰しも異存はない。その通りだと思う。今、NHKの大河ドラマで放映中の『軍師 官兵衛』も情にあつい官兵衛と24人の部下たちのドラマだ。我が郷土は情にとりわけあつい人たちを多く輩出しているのは嬉しい限りだ。

その上にたって、忠臣蔵の赤穂浪士たちの話は情だけではなく、全く別の観点から読み解けるとの珍しい説を目にした。竹村公太郎さんの『日本史の謎は「地形」で解ける』だ。実は、この本、文庫化されるにあたって整理され直したもので、読むのは二度目になる。一度目と違ってさらに面白いことを考えさせられた。

竹村さんは私が衆議院国土交通委員長をしていた2001年に河川局長をしておられたれっきとした高級官僚。たまたま私とは同い年だが、途方もない凄い男だと思う。日本史を文科系の頭で考えるのではなく、気象や地形といった観点から読み解くというのだから。赤穂浪士の話も彼にかかると、徳川幕府が吉良家を潰すために、赤穂浪士の討ち入りがしやすいようにあれこれ便宜をはかり、成功した後もそれを宣揚するために大いに尽力したのだという。つまりは、情の物語は表面で、実は裏面は怨の物語である。しかも主体は徳川幕府なのであって、浪士ではない。読んでいない人のために概略紹介しておこう。

竹村さんは「赤穂浪士は江戸幕府に匿われていた」のであり、もっと言うと実態は「指名手配の過激派が警視庁の裏をアジトにしたようなもの」だとまで言う。なぜか。①半蔵門は江戸城の大切な正門②江戸幕府は将軍がその半蔵門の堀を渡るのに、構造上危うい木橋ではなく、土手にした③半蔵門の土手防御のため、四谷見附から江戸城までの郭内は御三家や親藩の屋敷を配置し、かつ、戦闘集団の旗本たちも住まわせた④賑わう麹町の商店には、密偵がくまなく配置されていたと推定できる⑤江戸で最も警備が厳重なこの麹町に、副官の吉田忠左衛門、武闘派急先鋒の原惣右衛門をはじめ16名もの赤穂浪士が潜伏していたーこれらのことから先の結論が導き出される、と。

加えて、吉良邸が江戸城郭内ともいえる呉服橋門から本所の回向院の隣に移転させられたのは、なぜか。まさに、強力な警備機構が集積している江戸の中心部から川向こうの倉庫街という寂しいところへ移されたのはいったいなにゆえなのか。竹村さんは、江戸幕府が吉良上野介を江戸城郭内からまるで放逐したのは、吉良家を抹殺するために舞台を自らお膳立てしたのだという。「忠臣蔵」をめぐっては数多の異説が飛び交うが、この説はとびきり変わっていて、興味深い。次回にその種明かしと、そこから私が考えることを述べたい。(この項続く)

 

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(18)自然の持つ美しさを見損なった私たち ー中西進さんと

淡路島での瀬戸内海フォーラムのシンポジウムが終わった後、中西進先生に声をかけた。現代日本の忘れものを述べられる際に、伝統的な中国と比較するのではなくて、現代中国と比べなくてはいけませんよね?と。これは先に述べたくだりが、わたし的には該当すると思って訊いてみたのだが、先生は当然です、ときっぱり。続けて、いかに、今の中国が伝統を逸脱して、きわめて問題が多いかを述べられた。尖閣列島を含む空域をかってに自国の防空識別圏に組み入れて恬として恥じない中国は許しがたいと言われた。そうまで言われたら、私は詰める気力を削がれてしまった。重箱の隅をつつく様な粗さがしはすべきでない、と。

日中両国の忘れ物とくると、アメリカの忘れ物にも触れねばならない。二巻に「もろさ」という文章があり、そこでは9.11のテロ事件が明らかにした現代文明3つの弱点として①高層の建物をよしとする思想②すべてを集中させようとする思想③バーチャルなものにリアリティを持たせようとする思想をあげ、低層、分散、本物への回帰を訴えておられる。あの事件が人間主義からの告発であって、文明の衝突ではないと断じて、小気味良い。あの事件では、アメリカ世論は異常な手段で襲われたとの認識でしかなく、オリエントやアジアにおける生命観や思想がいかに理解しがたいものかとの解説ばかりだったことを指摘。現代アメリカの大きな忘れ物が「人間の自然さ」であると強調している。

自然といえば、第二章にあげられた、みず、あめ、かぜ、とり、おおかみ、やま、はなの七つの文章はいずれも珠玉のもので長く記憶にとどめ活用してみたいと思う。「みず」では、日本人は水で体を削った、と。「みそぎ」という言葉は水・削ぎからきて、水・灌ぎでも身・削ぎでもない、という。水に入ったり、滝に打たれることで、俗悪なものを削り落とすわけだ。「あめ」については、さみだれは夏の長雨だとし、さ乱れであり、源氏物語の雨夜の品定めを挙げる。心の平常を乱し、判断を紛らわしくさせるのはさみだれのしわざだ、と。

また、春雨についての解説も心打たれる。春雨とは下から降る雨との表現には驚く。秋のもみじはしぐれによって死んでいく。しぐれの記号は死。美しい紅葉もやがて落葉して生涯を終える。それと同じく人間も時雨の中で命を自然に戻す。こう春夏秋冬を鮮やかに描く。

「かぜ」では、堀辰雄の「風立ちぬ」の冒頭に登場するポールヴァレリーの詩が引用される。風立ちぬいざいきめやもとの文章から、季節は秋と思いがちだが、夏だ、と。生きめやもという表現をめぐっては、堀の翻訳は死のうという意味になっているが、ここは生きなければならないとの原詩からすると、間違いだと。池田弥三郎さんから教えられたと披露。

「とり」については、都会からその声が聞こえなくなったことを嘆いている。自然の命を告げるものとして鳥の声を聴き留めよ、と。「おおかみ」の捉え方はユニークというか、考えさせられる。おおかみとは大神のことで、8世紀頃の日本人はマガミ、真正の神と呼んだ、と。また、クマについても神と捉えたのが古代の日本人だ、と指摘。社団法人「熊森協会」の顧問として熊の今の姿を、森の荒廃の予兆とみている私だけに強い共感を覚える。

「はな」のくだりは、とりわけ私には印象深く読めた。さくらについて、ずっと散り際がいいと思ってきたけれど、違うというのには驚いた。つまり、さくらが散る姿は、潔く死ぬ姿と重ね合わせるのが日本人の常識なのだが、さくらは死なないのだ、と。しおれないからだ、と。人間はいのちを栄えさせるが、やがて老い、命をしなえさせたのち、魂がかれていく。人間にさくらをあてはめてみると、命が栄え,落花はするが、死にはしないというのである。なんだか狐につままれるというか、屁理屈をきかされた  感がせぬでもないが、さくらについての新たな見方を教えられ慄然とする。

 

 

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日本人と中国人どっちが──中西進『日本人の忘れもの』日本と中国と、どっちが忘れものが多いか

『日本人の忘れもの』には、一点の非の打ちどころのない本と思っているが、一か所だけ気になるところがある。「なぜ現代人は肉体にこだわって肉体の消滅ばかり気にするのか。肉体の若さを賛美し若さを価値とする社会ー現代日本社会はもっともその傾向が強いのだが、そんな社会は未成熟であり、中国のように老人を尊重する社会は成熟した文化を持つ」という「いのち」の章のくだりだ。中国のように老人を尊重する社会との表現は、伝統的なむかしの中国社会ではないのか。現代日本社会と現代中国社会を比べて、日本の方が老人をより大切にしない国だと断じる根拠に乏しいのではないかと思えてならない。

たまたま中西進先生が淡路島に来られて講演される機会があった。早速、直接確かめてみた。「現代日本に忘れものが多いのはご指摘の通りですが、中国と比較されるときは、伝統中国とではありませんよね」と。「当然です」ときっぱり。続けて、今の中国が尖閣列島上空の空域を勝手に自国の防空識別圏内に組み入れて、恬として恥じないのは全くとんでもない、と思いますとの趣旨の発言を明白にされた。大いに安心した。では、と私は言いかけたが、あまり重箱の隅をつつくのはいかがかとの自制の心が働き、それ以上は触れずに、「そうです、今の中国は全くもって傲慢無礼です」、というに留めた。

第二巻第二章の自然についての指摘はまさしくめくるめく思いがする。「みず」では、日本人は水で身体を削ったのだ、とみそぎの意味に深くこだわる。「あめ」では、春雨は下から降って、文字通り包まれるものだ、と。夏の長雨のさみだれは、さ乱れで、人間の判断を紛らわさせるもの、として源氏物語の雨夜の品定めを例にあげる。晩秋から初冬にかけてふるしぐれは、山の命に眠りを与えるもので、人間もしぐれの中で命を自然に戻すという。

「かぜ」では、故池田弥三郎氏との会話を紹介。堀辰雄の『風立ちぬ』の冒頭のポール・ヴァレリーの詩を引用して、「風立ちぬ。いざ生きめやも」の季節はいつか?秋だと思いがちだが、実は夏だと。また、生きめやもは、原詩ではいきなければならないとなってるのに、堀の翻訳は死のうという意味になっており、これは間違いだと。ここから、日本人にとり風といえば秋を知る道具であった、と風に心を通わせてきた流れを説く。

また、「はな」ではさくらは散り際がよく、死に際がいいものとしての譬えに用いられてきたが、正確ではないと言い切る。さくらは落花はするが、萎れない。花の死とは萎れることだから、さくらは、死にはしない、のだと。なるほど、そういう見方もあるのか、と感心するばかり。一つひとつ覚えて使いこみたい。

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(17)日本人の忘れものを、思い出すために

ソチの影でのバリ。冬季五輪で日本中が一喜一憂していた最中に、暗いニュースが飛び交った。スキューバダイビングを楽しんでいた日本人女性7人が流され、5人は四日後に漂流先の岩場で救出されたとの事故だ。私はこのニュースを聴いた瞬間に中西進『日本人の忘れもの』を思い起こした。中西さんは、25歳だった娘さんをスキューバダイビング中に亡くされて(1999年伊東)おり、そのことをこの本の中で書いておられる。最愛の娘を海中で死なせてしまった悲しみを堪え、自然をおそれぬ行為はごうまんだと厳しく断じておられる。

「むかしから水にもぐってアワビをとる海女は、おまじないの星印などを手拭いやノミ(アワビをとる小刀)にかいて魔除けとした。海がそれほどこわいものだとよく知っていて、敬虔な祈りを海の神にささげたのである。海女はウエットスーツを着てはいけないのだという。着ると海中に長くいられるから、アワビをとりすぎてしまうからだときいた」ー陸上と同じように海中を歩き回る。美しい海中に魅せられたひとが何人も私の友人や知人の中にもいるが、もうハマってしまうとこたえられないもののようだ。中西さんは、そうした自然へのおそれを忘れた現代人の遊び感覚に警鐘を鳴らしておられる。山河を尊び、天地に祈りをささげた本来の日本人を取り戻せ、と。

この本はかなり以前に購入していたが、読まぬままでいた。ざっと頁を繰って、常識的なことが書かれてるエッセイ集だなどとそれこそ傲慢にも早呑み込みしてしまっていたのだ。それを取り出して三巻全部一気に読むようになったのは、中西さんにお会いした際に交わした言葉による。先ごろ、万葉集の魅力に取りつかれていた私は、「お書きになられた作品の中で、お勧めはなんでしょうか」と訊いてみた。当然、ご専門の分野から挙げられると思っていたら、さにあらず「そうですね。『日本人の忘れもの』でしょうか」と。

私たちが父や母に聞いていながらうろ覚えになっていることやら、21世紀はこころの時代ということを口にしながらも忘れてしまってることを一つひとつ掘り起こし、思い出させてくれる。字源にまで遡って優しく解きほぐす手法には、まさに目からうろこが落ちるという表現がぴったりする。私は、この本に書かれている中西先生の珠玉の言葉を覚えこもうと実は愛用のアイパッドミニの中にメモを書き続けた。のんきな私のことだ。メモをしてしまえば、安心とばかりに忘れてしまいそうだが、それでもそこまでさせる力がこの本にはある。

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【16】言葉の本来の意味に立ちかえる大事さ━━中西進『日本人の忘れもの』

◆直接訊いた「お勧めの本」

 ロシア・ソチ冬季五輪の日本人選手の活躍に一喜一憂しているさなか、インドネシア・バリ島の日本人女性ダイバー7人の安否が気遣われた。五輪の話題についかき消されてしまいそうな事故だった。2014年のことだ。事故発生後4日目に20キロも漂流していたところを5人は救出されたのだが、残る2人のうち1人は遺体で発見。これを聞いた際に、少し前に読み終えた中西進さんの『日本人の忘れもの』を思い起こした。

 中西さんは20年余り前に当時25歳だった娘さんを初秋の伊東の海で亡くしている。スキューバダイビング中だった。その折のことを『日本人の忘れもの』第一巻「おそれ」という文章に哀切をこめ、怒りを滲ませながら書いている。「自然へのおそれを忘れた現代人の遊び感覚」との副題をつけて。 最愛の娘を亡くすという絶望的な心情を抱えながら、山や海という自然へのおそれ、つつしみを持つべきことの大事さを説く。「自然に対するおそれを知らないチャレンジは、麻薬やエイズと同じようにこわい」のだから、山河を尊び、天地に祈りをささげてきた本来の日本人の姿を忘れるな、と。

 実はこの本は、数年前に初めてご本人にお会いした時に「ご著作のうちで、一番お薦めの本は何でしょうか」との私の問いに、挙げて頂いたものである。万葉集に関するものではなかったので、意表を突かれた思いがした。慌てて書棚から引っ張り出して、あらためて読むことにした。丹念に読み進めると、深い味わいのある本だということに気づいた。まことに早合点は怖い。これは見事な「日本論」である。そして素晴らしい日本を忘れた「現代日本人論」にもなっている。ご本人は、『徒然草』の吉田兼好や『枕草子』の清少納言を日本の名随筆、随筆家として褒め称えておられるが、両人のものに決してひけを取らない抜群の随筆集だと太鼓判を押したい。雑誌「ウエッジ」で連載されたものだが、一つひとつが心に染み入る。忘れないように、座右の銘にすべく心に残った箇所をアイパッドミニに書き残した。私としては初めての試みだった。

◆補完的関係にある「生と死」

 たとえば、「おやこ」では、家族における様々な問題には、〝子ども大人の氾濫〟という原因があるとされとても興味深い。戦前の日本では、両親の役割分担がなされていた。父は子に道理を示し、母は子に滋をつくせとの孔子の教えが生きていた。この関係を胸と背中に言い換え、母は子を胸に抱きかかえ、父は子に背中を向けよ、と教えたのである。また、言葉の本来の意味に立ち返るべし、との着眼はあらためて感じ入る。そもそも『義』という文字は『羊』と『我』からできている。羊は中国で最高の価値あるもので、義のある人間はもっとも価値ある『我』である。『義』に『言』をつけたものが『議』だから、会議とは会合してことばによって自分をつくることだ」という風に、字源にさかのぼって指摘してくれているのだ。「会議」が持つこうした意味には気付かなかった。無意識にやり過ごしている字義の奥深さに今更ながら感心する。

 「戦後の民主主義が儒教なんて古いときめてかかり、いっきょに親の立脚点をさらってしまった結果、父にしろ母にしろ、親子関係がうまくいかなくなった」との指摘は、戦後民主主義の申し子としての団塊世代は耳が痛かろう。今まで、様々な場面でこんな状況が続くと日本はダメになると思い、口にもしながらただ漫然と流されてきたすべての人々がこの本での中西さんの指摘を前に、頭をたれてしまうに違いない。「いのち」では、「生きることと死ぬことをめぐる今日の考えかたは、むかしの考えとよほど違ってる」として、肉体のおわりを生命のおわりと捉えてしまう昨今の風潮を嘆く。「生と死の正しい関係は補完的でおたがいに領域を侵しあっている」と述べ、生死の基本を真正面から説く。そんな中で気になるくだりに出くわした。

 「なぜ現代人は肉体にこだわって肉体の消滅ばかりを気にするのか。肉体の若さを賛美し若さを価値とする社会──現代日本社会はもっともその傾向が強いのだが、そんな社会は未熟な社会であり、中国のように老人を尊重する社会は成熟した文化をもつ」──ここは、ややもすれば、現代中国を敵視しがちな昨今の風潮の日本にあって、見落とされがちな視点だと思われる。

【他生のご縁 京都での映画講演を楽しみに】

 中西進先生と私は、コロナ禍の前に、ある一般社団法人の代表と専務理事として、ご一緒に名を連ねていたことがあります。当時、京都市の右京区図書館に名誉館長をしておられた先生をときどき訪ねました。先生が担当されていた映画講評会を聴くために、打合せの日を調整したのです。参加者と共に映画を観たあとのことでしたが、まさに珠玉のひとときでした。

 令和の名付け親になられたあとも『卒寿の自画像──我が人生の讃歌』を著されました。それを読み、「こんな90歳になってみたい」と思った人は少なくないはずです。私が『新たなる77年の興亡』を出版した直後に総合雑誌『潮』2023年11月号の波音欄に取り上げて頂いたことには、感激しました。

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(15)中国に明日はないのか、あるのか

中国をめぐってはあまたの情報が錯そうするなかで、特徴的なのは正反対の予測が存在することだ。たとえば、前回の堺屋太一『団塊の秋』では、2025年の中国では「日帝打倒80周年の祝賀会」が催され、ますます歴史の露頭が目立つとしている。歴史認識なるものは風化するどころか、時間とともに先鋭化を強めるというわけである。経済面でもドイツと並んで、2028年には「中国では、発電所を投資対象とする取引が大いに賑わっている」とし、健在ぶりを占っている。

しかし、10年以上もの遠い先まで待たずとも、すでに国内社会は、バラバラで国内暴動は続発、不良債権の爆発は目前で、「三年以内に共産党が崩壊するかも」と予測しているのが、評論家の宮崎正弘氏や石平氏だ。2013年の中国予測(前後半二冊)に続き、『2014年の「中国」を予測する』も大陸から次々と逃げ出すヒトとカネの在り様を描いてまことに刺戟的である。

こういう本はいわゆる「トンデモ本」だとして、はなから敬遠する向きがあるかもしれないが、それでは知的損失は大きい。食わず嫌いは勿体ない。とくに宮崎氏は中国の現場を知り抜いており、その情報は新鮮かつ貴重なものに思える。また、日本のマスコミの対中報道姿勢についても、きわめて冷静に見てることが信頼感を与える。たとえば、三大経済雑誌が中国経済にかなり冷やかになっているのに、日本経済新聞が相変わらず本当のことは覆い隠していると、疑問符を投げかける。「中国へ行ったら煤煙だらけで呼吸はできなくて、レアアースの精錬が悪くて河川は汚染され、なおかつ不動産はガラ空きでどうして不動産価格が上がっているんだ」と指摘する。

前回の佐々木紀彦さんが5年後に稼げるのは大新聞では日本経済新聞だけと予測をしていたのを紹介したが、中国については鋭い切り口は期待できないということか。というより、経済予測において国内外を問わず楽観的なのはこの新聞社の習性となってしまってるのかもしれない。

ただ、中国の現場に足を運ぶ機会がない私たちとしては、こうした宮崎、石コンビの「中国に明日はない」ともとれる過激な見方には慎重になりがち。他の視点も求めたくなるというものだ。そんな時、つい最近、格好の人物に出逢った。香港に長く住む経済人H氏である。

中国地域における旧正月の休みに合わせて帰郷(たつの市)された際に、懇談した。話題は香港からみて日本がどう見えるのかということから始まって、抬頭するイスラム国家とどのように付き合うかとの観点など幅広いものとなった。そのなかで、私は『2014年の「中国」を予測する』を取り上げ、彼に二人の中国観の信憑性を問うてみた。

数あるテーマのうちでピックアップしたのは、「中国から離れるアジア」のくだりだ。中国の経済事情に滅法通暁している宮崎氏は、「アジアで孤立を深める中国」との見立てをかなり以前から表明している。この本の中でも、各国個別に取り上げ中国との距離を測っていて興味深い。

フィリピン ガラガラのチャイナタウン。クラーク基地(元米空軍基地)の再開、スービック湾も再び貸す。

インドネシア 復活するチャイナタウン。だが、華僑も手探り状態。日本企業の進出は未だこれから。

ベトナム ハノイにチャイナタウンはなし。ホーチミンでは遠慮げにソロリと復活。外交的に難しい関係。

タイ 陸続きだから昔通りの付き合いは可能。相当のカネを注ぎ込む中国。

ラオス チャイナタウンはまだみすぼらしい。中国がメコン川の根元にダムを建設中。中国の援助をあてに。

カンボジア 中国が嫌いという前にベトナムが嫌い。中国からの開発援助をあてにしている。

シンガポール 香港と同様金融フリーマーケットで、中国からの進出が凄まじい金融。日本は利便性なし。

ミャンマー 中国が建設中のダムは中止。中国依存から脱却。日本の投資は未だ12位で、これからの段階。

マレーシア 中国の進出は凄い。日本は高度労働集約型産業の進出の余地はあるが、アパレルなどは遅い。

ざっと以上のような感じで、「孤立を深める」というより、「孤立を深めぬよう」、中国は経済力を利用して東南アジア各国を分断しようとしているというのが正直な見立てだろう。

H氏も、こうした記述に同意をし、宮崎氏らの対中観に特段の不審を感じている様子はなかった。と共に、香港から日本に帰国する度に、激しく動き躍動感がある東南アジアに比べて、いかにものんびりている日本に危機感を持つとの印象を披露されたことには当方の「受信機」の警鐘を鳴らすに十分なインパクトだった。まだ40歳代半ばの新進気鋭の経済人で、自らを「華僑」の向うをはって「和僑」と位置付けるほどの日本発のアジア人である。日本からアジアを覗き見るだけに過ぎぬ人たちとは大きく違う。これからのアジアと日本の関係を展望するうえで、一段と注目すべき日本の若きホープだと確信する。         (この項終わり)

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(14)大きく様変わりするメディア業界

日経系のテレビ放送番組の「未来世紀ジパング」ってのは面白い。先週も、中国で稲盛和夫京セラ名誉会長の本がベストセラーになり、講演に喝采を受けてる様子を映し出し、日本式経営を模倣するかの国の未来を予測していた。先々週は、イスラム国家のインドネシアやマレーシアからの日本への観光客が増えつつあることを報じていた。未来は、さらに増加する、と。毎週見ているが、いつも明るい気分になる。こうまで日本の未来に楽観的でいいのか、との気さえしてしまうのだが。

しかし、勿論そんな予測ばかりではない。作家・堺屋太一氏の眼は厳しい。この人は、かねて未来予測の第一人者の趣きがあって、注目されてきた。昨年末に出された『団塊の秋』は、1976年に出版された『団塊の世代』の締めくくり編ともいうべきもの。2015年から2028年までの未来を六つに区切って、それぞれの時点での世相を新聞がどう報道するかを掲げていて大胆だ。ざっと一覧にしてみよう。

2015年 老若対立が激化!企業の設備投資は進まず、正規雇用は増えぬ。シャッター通りは鉄錆通りの様相。

2017年 昔繊維街の船場は住宅街に。生活保護が400万人に。医療チェーンは加盟三千医院に。崩れる社会。

2020年 五輪でお祭り気分は燃える。が、スポーツ熱は人口減でしぼむ。博士号を取っても就職先がない。

2022年 ユーズド産業が大繁盛。結婚しない若者が大幅に増える。財政は極度に悪化、貿易も大幅赤字に。

2025年 終戦80年が経ち、世界の中で日本の起こした戦争行為だけが露頭。少子化で私立大学は半減する。

2028年 出生率が回復。貿易収支が改善。起業する若者が増加。太陽光発電が無制限に。電気守の出現。

ほんのエッセンスだが、暗いものが殆ど。辛うじて最後になって、「ようやく光が差してきた」との記述に支えられた明るい見通しがでてくる。いかにもとってつけた感がする。もう少し、そこに至る背景を明かしてほしかった。

この小説では、専ら過去の事象をなぞるばかり。6人の団塊世代が時におうじて集まり、昔を懐かしむとの主題を扱った、小説という形式では必然的にこうならざるを得ないのだろうか。少々落胆した。もっと未来予測に力を投入してほしかったという気がする。名手・堺屋太一も焼きが回ったか、との印象は避けがたい。

個別の課題で、私が注目したのは、21世紀はあらゆる業界が再編成を余儀なくされているが、「そんな中で戦後体制を維持している業界は、たった一つ、マスコミ」としていること。もう一点は中国がどうなってるかとの観点。発電所を対象とする取引がドイツとともに賑わっているとの記述があった。「マスコミ」と「中国」がこれから先にどうなるのか。堺屋さんは、両課題ともに色々あっても、今の事態を引き継いでいるとの見方を示している。さて、どうか。この二点について考える上で参考になる二冊を紹介したい。

一つは、佐々木紀彦『5年後、メディアは稼げるか」で、もう一つは、宮崎正弘、石平『2014年の中国を予測する』だ。共に刺戟的。面白かった。佐々木氏は35歳。東洋経済オンライン編集長だ。古い日本の象徴がメディア業界だとしたうえで、「『もっとも古いもの』(紙の新聞)が『もっとも新しいもの』(ネット起業)によって、一世一代の大変化を迫られる」と展望する。その構図がダイナミックで面白いと言い切る。わくわくするような筆致で描く。とりわけ、5年後に食えるメディア人と食えないメディア人とに分けた最終章は読ませた。幾つもの未来予測はきわめて具体的である。テクノロジー音痴のメディア人は二流などというのは陳腐な響きだが、「日経以外の一般紙はウエブで全滅する」「企業家ジャーナリストの時代がくる」などという指摘には思わず生唾を吞みこんでしまう。

具体的な指摘で関心を持ったのは、「記者の価値が下がり、編集者の価値が上がる」とのくだり。「ウェブ化により情報量は爆発し、これまで記者が独占していた記事作成の領域にブロガーなどがなだれ込んできて」いるから、普通の記者では生き残れないというのだ。一方、編集者の方は、需要に比して供給が不足しているから「二流以上であれば十分食える」、と。確かに編集者は記者に比べて日蔭者扱いであったが、逆転する兆しがある。さらに、広告についての指摘も興味深い。媒体の価値が下がることによって、広告主の力が高まってくることに比例して、「媒体側の広告担当には、紙の時代とは比較にならないほどの能力とセンスが求められる」という。そして広告担当者の”編集者化”が進む」と予測する。

次世代ジャーナリストの条件として①媒体を使い分ける力②テクノロジーに関する造詣③ビジネスに関する造詣④万能性+最低三つの得意分野⑤地域、国を越える力⑥孤独に耐える力⑦教養、を上げている。特に、若い人たちは読むといい。教養書としてもお勧めだ。                    (以下、次号)

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(13)血と非情で得た代価の輝きの謎

万葉集をめぐっても古事記の場合と同様に歴史研究を専門とする学者に激しく挑んでいる人たちがいます。その代表が元TBSの記者で作家の井沢元彦氏です。彼の『逆説の日本史』は超ロングセラーで、単行本で20巻が既刊されており、今も週刊誌で連載中です。独自の切り口で日本史を一刀両断する手法はまことに鮮やかで私も一時はとりこになりました(尤も、明治維新前夜を語りだしてからはいささか煩雑さが目立ち、切れ味が鈍いように思われ、興味が失せてきています)。第三巻「古代言霊編」あたりは、彼の持論展開に拍車がかかっており、冴えわたっています。一言でいえば、万葉集は「犯罪者たちの私家版」だったというのが彼の結論です。怨霊を恐れた桓武天皇が鎮魂のために、犯罪者の名誉を回復し、後々に万葉集はもてはやされるように至ったというのがその見立てなのです。

「日本の歴史は怨霊の歴史である」というのが彼の主張で、その典型的実例が万葉集を通じて見て取れるというわけです。大津皇子を始め、長屋王、有間皇子といった人たちは持統天皇によって無実の罪を着せられ、処刑されたのが史実です。そういった人々の歌が同じく反逆者の大伴家持の手で編纂されたのが万葉集だ、と。

こうした主張はしかし事新しいことではありません。井沢氏本人も、自分は柳田国男、折口信夫、梅原猛氏ら先達の跡づけをしているに過ぎないと言っています。こうした先達たちはみな、学者ではあっても歴史学者ではないというところに彼の言い分の特徴があります。つまり歴史学者は日本の歴史の真実を読み取る力がないといいたいのでしょう。

ただ、歴史学者の書いたものよりも、前述した学者や週刊誌ジャーナリズムの寵児の方が、一般人の目につきやすいと言えます。今では「政治の敗者はアンソロジー(詞華集)に生きる」(大岡信)というのが定説であり、常識になってると思われます。つまり歴史学者の方が弱い立場にあるように私には見えます。

井沢氏に加えて、この議論を押し立てている人をもう一人挙げるとすると、関裕二氏でしょう。『なぜ「万葉集」は古代史の真相を封印したのか』とか『日本古代史 謎と真説』『奈良・古代史 ミステリー紀行』などの本を書いて、いわゆる歴史愛好家に人気の作家です。かつて、古代史に造詣の深い友人に「入門書をあげるとすれば、誰のものがいい?」と水をむけたことがありますが、この人の名があがりました。こういう人たちの仕事のおかげで、日本の歴史や文学が庶民の手に渡った側面があると言えましょう。(ところで、関裕二氏は巻末に参考文献をあげていますが、その中に井沢氏のものが見当たりません。影響を受けてるはずと思われるだけに、少々違和感があります。あえて読まないのかどうか。こっちの方もミステリーです)。

こうした謎追いもいいのですが、静かに万葉集の良さを味わうことも勿論大切なことです。実は先週のことですが、堺市博物館に万葉学の泰斗である中西進先生をたずねました。来月に淡路島で行われる予定のあるフォーラムの講師にお招きすると聞き、その主催者との打合せに同席させていただいたのです。義母が姫路での同先生の文学講座の受講生とのご縁もあって、同先生のことは、かねて注目していました。私自身も数年前に一度だけパーティの場でご紹介され、名刺を交換したことがあるのですが、驚いたことにその時の会話を覚えていただいておりました。「『西播磨の豪族・赤松氏の末裔にあたられるのですか』との問いかけをしましたよね」、と。静かなたたずまいのなかに凛とした面持ちを湛えられた素晴らしいお方でした。これまで数多の学者や文化人と称される皆さんとご挨拶を交わしてきましたが、この人は飛び切り優しい魅力を持たれた方でした。

「一冊だけ先生のご著作から私に勧めて頂くものをあげて頂けますか」とお尋ねすると、一瞬考える風をされた後に、『日本人の忘れもの』でしょうね、との答えが返ってきました。この本は先年に新幹線を待つ新大阪駅の書店で買い求めながら、読むのを忘れていたものです。改めて今それに挑戦していることは言うまでもありません。

『古代史で楽しむ万葉集』とのタイトルで中西先生の手になる文庫本があります。その中で先生がこうした謎解きの対象になっている万葉集の時代をどう見ておられるのかを探してみました。

「大化以後はまことに古代史における一大転換の時であった。それなりに新時代の誕生は輝かしくはあったけれども、一面それは血と非情を代価として得た輝きであった。その非情の歴史の中から、まず最初の万葉歌が生まれて来る。非情の中に非情たり得ないのが人間だからである。この人間にささえられて、万葉歌は芽ばえた」とありました。見事な言い回しに思わずうなりました。血と非情を代価として得た輝きの中に思いっきり身を投じてみたいと、あらためて思います。

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