先日、ある会合の席でその世界で高名な神社の宮司さんと話す機会があった。神道と創価学会ーお互いに過去に遡ると、相互に批判しあった経緯がよみがえるが、それも「今は昔」ということに思いが至った。宗教のグローバル化という面から見ると、神道と創価学会SGIでは住む世界が今や全く違っているということなのだろう。方や日本固有の文化の守り手であり、もう一方は世界の民衆の間で圧倒的な賛同を得つつある存在だ。社会に生きている次元が異なっている。いつまでも「四個の格言」(日蓮大聖人が当時支配的な四大宗教を批判した言い回し)にこだわって、「邪宗破折」に忠実たろうとする自分は、少々時代遅れだと気づいた▼佐藤優、松岡幹夫『創価学会を語る』は、雑誌『第三文明』で連載されていたものが単行本としてまとめられた。改めて読み直してみて深い感慨に浸るとともに、ご両人の並々ならぬ力量に感服する。とりわけ「三代会長は仏教の実現者」という章にはひきつけられた。このところの私の関心事について、見事に抽出されていたからだ。松岡氏が「池田会長はたとえば『人権』とか『自由』などというヨーロッパ由来の概念を、日蓮仏法の観点からとらえ直し、普遍化していった」と述べる。これに対し、佐藤氏は「自由や人権などという概念が特殊ヨーロッパ的なものではない普遍的価値だということが、トインビー対談によって初めて明確にされた」と応じている。ここには明治維新いらいの福沢諭吉を先頭にした日本の思想家たちの”知的格闘”を解き明かすカギが潜んでいる▼キリスト教に対して紋切型で批判してみたところで何も創造的なことは起こらない。西洋近代の哲学を批判的に切り捨てても、東洋の思想哲学の優位性がそれだけでは輝かない。池田SGI会長の人生を賭けた壮絶な知的、行動的営みを改めて後付けすることの意味合いの重要性を心底から感じる。佐藤優さんが「キリスト教、イスラム教、創価学会SGIが世界三大宗教だ」ということを今こそ噛みしめる必要性があろう。今創価学会は全く新しい広宣流布の新局面を迎えているのだ▼それにしても両氏の呼吸はぴったりで、実に鋭い。牧口初代会長の「価値論」、戸田二代会長の「生命論」を、池田三代会長が「人間主義の哲学」として完成させた、との松岡幹夫氏の指摘に、「キリスト教神学がどのように形成されていったかを学会教学の理論家の方々がじっくりと学んでみると参考になることがいろいろある」と答える佐藤氏の発言などである。私たちにとって大いに示唆に富む。この書物にぶつかって、安易に読後録はかけないとの思いがひとしきり胸に迫ってきた。佐藤さんのものに加え、松岡さんの様々な著作を今懸命に追っている。(2015・12・30)
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【136】森と熊と光と海とー貝原俊民さんの追悼文集『惜福』に寄せて
昭和61年から4期15年の間、兵庫県知事だった貝原俊民さんが不慮の事故で亡くなってより一年余りが経ちました。このほど『惜福』というタイトルで追悼集が発刊されました。彼の生前中にゆかりのあった313人の人々による文章が収められています。私もその一人として参加させていただいたので、その文章をそのまま転載させていただきます。
知事をひかれた後の貝原さんと私は、ひとつだけ同じ肩書を持っていました。それは西宮市に本部を置く自然環境保護団体「日本熊森協会」(森山まり子会長)の顧問という立場です。私が衆議院議員に初当選したのは1993年7月。ちょうどその年の三月に尼崎市立武庫東中学の理科の教師だった森山さんと、その教え子たち有志が貝原県知事に「ツキノワグマを絶滅から守って欲しい」と訴えました。
貝原さんは生態学視点から、ことの重要性を理解され、ツキノワグマの保護に向けての努力を約束されました。当時は中学生で、今は弁護士となっている同会の副会長を務める室谷悠子さんは、その時の喜びを今なお生々しく覚えているといいます。
明治維新いらい、日本はヨーロッパ文明をしゃにむに受け入れ、科学技術分野での遅れを必死に挽回し、追いつこうとしてきました。その結果としてこの150年ほどの間、外来の思想、文化を日本風に変容させるという伝統的な手法が忘れられてきた傾向は否めません。今、その弊害がいたるところで噴出してきています。ツキノワグマが人里に下りてくるのは奥山が荒廃している予兆であり、森が悲鳴をあげているシグナルとも言えます。人間最優先の考え方で、自然や野生動物を支配しようとするのはキリスト教を中軸とした悪しき文明のなせる業です。人と自然の共生こそ日本本来のものとする考え方を貝原さんと私たちは共有していました。本当に心優しい、得難いリーダーでした。
今、私は、瀬戸内海に世界の観光客を呼び寄せる構想の具体化に、万葉学者の中西進先生や井戸敏三兵庫県知事らと連携しながら取り組んでいます。淡路島と関西国際空港との結びつきの強化を皮切りに、光溢れる瀬戸内海へのクルーズに夢を羽ばたかせています。その時に、かつて淡路島に夢舞台なるものを作られ、2000年に「淡路花博」を開催することを企画・立案された貝原さんの遠謀深慮というものが突然、理解できました。
西播磨の一角に世界一の放射光施設を誘致されて、壮大な科学公園都市を作られたのも貝原さんでした。現職時代の私は常にその構想の壮大さに感心し、支援を心がけたものです。引退した今は、瀬戸内海の東の入り口に横たわる”くにうみの島”を観光振興の一大拠点にしようとされた貝原さんの深い思いに魅入られています。今も昔も、これからも自分は森と熊と光と海を大辞された貝原さんと一緒にいるのだとの思いにとらわれているのです。(一般社団法人 地域政策研究会 発行『惜福 追悼 貝原俊民さん』)
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【135】70歳になっても変わらず本を漁り続ける
この読書録も70歳になったばかりの今回あたりで少し趣を変えたい。一冊づつの読後録ではなく、数冊のまとめ書きにしたい。一冊づつだとかなり突っ込んだ論評を余儀なくされるのでいささか疲れる。かつて20世紀最後の年にこの営みを開始したときは、三冊ほどを取り上げて三大噺風に取り上げたものだが、その方向に戻ってみたい。これだと少々楽が出来そう(笑)だ。中身の解説というよりも本のなかの片言隻語や著者との付き合い方に力点がおかれそうだが、しばらくこの手法をとってみたい▼先日、私の住む町・姫路市の石見利勝市長から一冊の本が送られてきた。随筆集『夢ある姫路』だ。この市長はもとは立命館大学の政策科学部長という肩書を持った教授だった。それだけに単なる政治家の随筆ではなく、深い学識に裏付けられた含蓄ある言葉が散りばめられた素晴らしい本である。特に、色んな方々との出会いに触れた第一章「日々想」が面白く読めた。私も生前にお付き合いのあった河合隼雄先生の看護師と患者の話には笑ってしまった。また。同氏の「世に二ついいこと、さてないものよ」との口癖を引かれて、二律背反(トレードオフ)の難しさを説かれている。市長はこの12年で学者から見事な政治家へと変身された。恐らくは河合先生の言葉を最も深いところで理解されたからに違いない▼と、ここまで書いたところで私の誕生日の贈り物が届けられた。リモージュボックスだ。これはフランスの小型の磁器に真鍮製の金具がついたボックスで、かの国の文化のエッセンスとエスプリが一杯詰まったものとして良く知られているそうな(私は知らなかった=苦笑)。送り主は、相島としみさん。鈴木淑美のペンネームで活躍する凄腕の翻訳家である。この人の仕事は数多いが、今は彼女が訳した『交渉に使えるCIA流 真実を引き出すテクニック』なる本を読んでいる。これはその道のなかなかの「専門書」(笑)だが、訳者あとがきが興味深い。話し相手から本当のことを引き出すには「『相手への理解、共感』であり、その深さは事前準備によって左右される」と述べている。元日経の記者だった頃のインタビュアーとしての経験に基づいての指摘だが、元ぶんや稼業だった私もまったく同感だ▼石見市長は前掲書で『人間性の心理学』の著者・マズローの「欲求5段階」説に触れている。私も親友・志村勝之との対談電子本『この世は全て心理戦』で取り上げていらい、この人の理論に強い関心を持っているが、相島さんの指摘するところとの共通点は少なくない。ともあれ70歳に突入した今もなお、新しいこと、面白いことを求めて今日も本を漁り続けている私だ。(2015・11・26)
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【134】本当の日本を考える糸口にもー橋爪大三郎、植木雅俊『ほんとうの法華経』
今朝の神戸新聞に興味深い記事が掲載されていてむさぼり読んだ。「転換期を語るー戦後70年の視点」で、編集委員の「混迷の世界です」という問いかけに、社会学者の橋爪大三郎さんが冒頭にこう答えている。「西欧キリスト教文明は19世紀、20世紀を通じて、人類世界に対してわがもの顔にふるまってきた。だが、21世紀は、欧米が『俺たちに合わせろ』と言っても、『イスラムで何が悪い』『中国のやり方で何が悪い』と言い返される時代だ。逆流の始まりである」と。この問題意識にまったく異論はない。ただ、見出しにあるように、「国際社会は不透明な融合へと向かう」のだから、「日本はまず相手を知る必要がある」との結論にはちょっぴり異議ありだ▼橋爪さんについてはかつて宗教学者・島田裕巳さんとの対談『日本人は宗教と戦争をどう考えるか』という本を読んだときのことを思い出す。例の「9・11」の翌年あたりに出されたものでタイトルにひかれて購入した。今でも印象に残るのは島田さんがまえがきで評論家の加藤周一さんの『日本文学史序説』を「日本の文学史であるとともに日本の宗教史であると言える」としたうえで、その中で「加藤さんは外来の超越的な思想が、日本の固有の土着的世界観によって骨抜きにされていく姿を描き出している」と述べているくだりだ。日本の近代化が西欧近代合理主義の前に膝を屈した形で進められてきてすでに150年近い。その過程に入る前は、まさに加藤さんがいうように、外来の思想を骨抜きにしてきた。しかし、今や日本固有の思想が骨抜きにされているのではないかとの思いが募る▼実はこの加藤さんの本の中で法華経について、富永仲基がその無思想性について指摘しているところが気になって仕方なかった。そこで、法華経のサンスクリット訳などを新たに手掛けてその現代語訳を完成させた植木雅俊さんの仕事に注目した。この人は『仏教、本当の教え』や『思想としての法華経』など次々と世に問う気鋭の仏教思想研究家である。根源的に法華経を無視している富永仲基やそれを是とする加藤周一といった人の見方、考え方の誤りを世に喧伝していかなければ、結局は仏教も、法華経も誤解されたままに終わるのではないか。こうした懸念を私は抱き続けてきた。なんとかそれを払しょくしてほしい、そんな思いで植木さんの本を読んできた。で、彼の師である中村元さんの生涯を描いた『仏教学者 中村元』のなかに見出した。しかしその記述はまことに物足りなかった。これでは世の批判に勝てない、と▼そんな思いを植木さんは知ってか知らずか、直近にだされた、それも橋爪大三郎さんとの対談『ほんとうの法華経』の中にしっかりと書いてくれていた。二か所出てくる。一つは「法華経には、直接的な言葉で表現されていないが、だまし絵のように重要な事がさり気なく盛り込まれています。これを見落とすと、富永仲基のように、法華経は最初から最後まで仏をほめてばかりで、教理の内実がないと批判することになるんでしょう」。もう一つは最後に、(こういったことを富永が言ってるのは)方便品に<深い意味を込めて語られた事は、理解しがたい>とあるように、法華経の深い思想を読み取ることができなかったのではないでしょうか」と。この本はまことに法華経をめぐる様々な深い意味を分かりやすく説く素晴らしい本であり、これまで集積してきたものをさらに深めることができる。ただ、橋爪さんが数か所で「目茶苦茶だ」と法華経の記述について述べているところは、揚げ足取りだと思うものの気にはなる。そして、冒頭に指摘したように橋爪さんが「日本は相手をまず知る必要がある」というが、「日本はまず自らを知る必要がある」のではないか。つまり、近代化の中でキリスト教欧米哲学に圧倒され続け、骨抜きにされた自らを知ることが必要で、しかる後に、相手をも知る必要があるのでは、と考える。その際に法華経の位置づけを改めてやり直すことも大事ではないか、とも。このように、植木、橋爪対談本は”本当の日本”を考える得難いきっかけになる。(2015・11・13)
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(133)面白すぎるスウェーデン人の書いたドタバタ喜劇ー『国を救った数学少女』
「目茶苦茶に面白いよ。こんな本こそあなたに書いてほしい」ーメールとともに、一冊の本が私の手元に送られてきた。ヨナス・ヨナソン『国を救った数学少女』(中村久里子訳)である。送り主は笑いの伝道師・高柳和江女史。ほかに読む本はいっぱいあり、あまり気のりはしなかったのだが、読み始めた。二か月ほどかけてようやく読み終えた。いやはやまさに面白く、”喜劇小説の王女様”かもしれない。ただし、少々長い。暇な人は一気に読めるだろうが、御用とお急ぎのある人には進められない▼この著者はスウェーデン生まれ。地方紙記者を皮切りにメディアの世界で活躍してきた。この作品の前にも『窓から逃げた100歳老人』を出版。世界中で1000万部を超える大ベストセラーとなっているという。確か、すでに映画にもなったと記憶する。100歳の老人アランが活躍するハチャメチャな喜劇小説だったが、今度のは南アフリカ出身の少女・ノンベコが爆弾一個を巡って王様と首相と世界の危機を救うというドタバタ喜劇。笑いを生涯のテーマとする高柳先生ご推奨のことだけはある▼前作もそうだったが、この人の持ち味は史実とフィクションを巧みに織り交ぜるところ。どこからどこまでが本当か分からなくなり、人によっては全部本当だと思ってしまいそう。随所に皮肉を利かせた語り口は最高だ。エリツインが公式にスウェーデンを訪問した際に、石炭発電所がひとつもないこの国に対して石炭発電所を閉鎖せよと要求した、その酔っ払いぶりなどはかわいいが、ジョージ・ブッシュが「サダム・フセインが持ってもいない武器を排除するという目的でイラクに侵攻した」というくだりは痛烈なアメリカ批判で単なるブラックユーモアを超えている。現代世界批判をこうした笑いに紛れ込ませる手法は巧で鮮やかである。ジャーナリスト出身の手際の良さと造詣の深さが頼もしい▼この本のタイトルは、現作では「The Girl Who Saved the King of Sweden」となっており、数学は入っていない。数学少女で良かったのかどうか、疑問は残る。わが友・高柳女史は笑いで日本中を救うという壮大な試みを展開しているが、この本は彼女の感性に見事にフィットした小説に違いない。読んでいてしばしばノンベコとダブって見えてくるから不思議だ。私も生涯で一冊ぐらい小説を書いてみたいという気がしないでもない。その本のタイトルは「国を救った笑医」とでもして、彼女の一代記を書くか。英訳されると「The Woman who Saved Japan with lauh」ということになるかもしれないーなどと考えてるうちに秋の夜の夢から覚めて、今宵二度目のトイレに立った。(2015・11・10)
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(132)”平和の光と影”に苦い思いを抱く━━畑中丁奎『戦争の罪と罰 特攻の真相』
大変に中身が濃い貴重な本に出会った。「息子が書いた。よかったら読んでくれ」といって、親しい友から渡されなかったら、恐らく手にすることはなかったろうし、読まずに終わったに違いない。畑中丁奎『戦争の罪と罰 特攻の真相』は強烈な刃を現代に生きる日本人に突きつける問題の書である。今なお曖昧模糊とした戦争責任の一角を確実に突き崩す効力を持つものと評価したい。著者が巻末に掲げた主要文献の一覧は数多い。とりわけ防衛省防衛研究所の所蔵する膨大な資料などを読み込んだ著者の熱意には頭が下がる。これらの資料の数々は亡くなっていった特攻隊員たちの墓標のように私には見えてくる。
私も、そして著者の父親も昭和20年生まれである。正真正銘の戦争直後にこの世に生を受けた。先の大戦の戦禍を直接には知らず、戦後の経済復興を始めとする恩恵だけを、ぬくぬくと享受して育ってきた。高度経済成長がもたらした”陽の当たる坂道”を駆け上がるようにして喜寿を超え、やがて傘寿を迎えようとする世代はいま、「平和の光と影」に苦い思いを持つことを余儀なくされているのだ。著者が本書の題名の由来について語るくだりはとりわけ胸に迫ってくる。「特攻が『民族古来の伝統』に発したものならば、なぜ本書で追及した特攻の命令者達は自らの所業を明らかにしなかったのか」「公にできないことを拒否権の無い兵達に課すのは罪悪である。自身の行いを認めないことはなお罪である。そして彼らは戦後このことに関して罰を受けなかったどころか、戦後の社会を形成していった」と。役割の軽重はともあれ、紛れもなく戦後社会を形成してきた一員として、その自覚の足りなさを恥じざるをえない。
★「忘れ去られた皇道派」への思い
先に私は半藤一利、保坂正康『賊軍の昭和史』を読み、明治維新いらいの軍国日本の歴史の内幕に分け入った気がした。今、本書の最終章「忘れ去られた皇道派」のなかで、真崎甚三郎の名誉回復を試みる著者の努力に接すると、さらにその深部にいざなわれた思いである。正直言って「統制派と皇道派の対立、抗争」などにはこれまでさしたる関心はなく、どちらかといえばやり過ごしてきた。どっちもどっち、同じ軍人、同じ戦争責任者たちではないかとの安易な見方に与してきたからだ。そこへ畑中氏によって新たな視点を与えられた。今は亡き同世代の友人、歴史家・松本健一との直接の語らいの中でさえ、その主張は「遠い砲声」にしか聞こえてこなかった。そんな自分だったが、さらにぐっと若い著者からの指摘はただならぬ響きを持つから不思議である。
先の大戦における特攻隊員をめぐる問題については、既に様々に語られ、描き尽くされてきた感が強い。それを戦後35年ほどが経ち「もはや戦後とは言わない」頃に生まれた著者が、改めて克明に真相を追おうとする姿はまことに新鮮でまぶしい。そう、35歳年下の著者に「戦後生まれの私たち」といわれると、妙な気分になってしまうのだ。もはや役立たずのオヤジさんたちは後ろに下がっていてくれと、言われているような気もしてくる。著者の親父・畑中三正(株)赤のれん会長に「こういう本を書く息子って、暗くないかい」と訊いてみた。ユーモアと笑いを身上とする私には気になるところだ。「いやいや、明るいやつだよ」と、ニヤリとしながらの答えが返ってきた。神戸に住む、この新進気鋭の「戦史家」との直接の出会いが待ち遠しい。
【他生の縁 大学同期の息子】
前述した畑中三正氏とは同い年で、大学同期。慶應在学中は残念ながら交流はなかったのですが、卒業してから、というより私が衆議院議員になってから、今日まで実によく付き合ってきました。というのも、私の中学、高校、大学と親しかった友人A(故人)や、大学時代からの親友F(元広島市議)らと、私とは別に昵懇の関係をこの人は持っていたから、です。私は彼のことを「政商」と半ば揶揄していうぐらいに、神戸を中心に政治家に詳しい上、交友関係は幅広いのです。本当によく様々な友人を紹介してくれ、衆参の選挙、とりわけ慶應の後輩・赤羽一嘉(前国交相)の支援をしてくれました。私たちにとって得難い存在です。
その彼の次男がこの本の著者ですが、高校の英語の教師をしながら、せっせと作家活動に勤しんでいます。先に、劇作家の鴻上尚史が『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』(2017年)を出版し、ベストセラーになった際には、私も読みました。ドラマチックに仕上げられた読みやすく面白い本でした。百戦錬磨の達人とも言うべき、この道の先達に、とても同じ分野で勝負は出来なかろうと、同情を込めて、「どうだい。あの本は?」と、問いかけてみました。
「いやあ、あんなものに負けません。次なる作品では必ず」と言った意味の言葉が返ってきました。心意気やよし。応援団として、次なる作品を期待しています。
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(131)歯、歯、歯の歯ー河田克之、赤松正雄『ニッポンの歯の常識は?だらけ』
1999年から始めてもう16年にもなる私のブログ『忙中本あり』。初めは「新幹線車中読書録」だったが、今や、新幹線に乗る機会はほとんどないため、専ら「新快速読書録」だ。今回はその歴史の中で初めて自著を取り上げたい。尤も自著といっても対談本だから共著ということになる。姫路に住む歯科医師の河田克之さんと一緒にこのほど出した『ニッポンの歯の常識は?だらけ』である。サブタイトルは長ったらしく、「反逆の歯科医と元厚生労働副大臣、歯の表裏事情に迫る」である。この本、共著といっても実際は河田さんが主役で、私は話の引き出し役。第一部の対談では患者の立場から恥ずかしげもなく訊いた。また第二部のQAでも初歩的な質問を性懲りもなく繰り返した。まぎれもない脇役だ。ただし冒頭の序論には力を込めた。また、あとがきも。ただし、共にユーモアたっぷりを忘れずに▼もともとは電子書籍の一環として作るつもりだった。というのも本を出版するのはコストがかかる。とても貧乏な元政治家にそんなお金は捻出できない。「デジタルファースト」なるNPO法人をわが友・朽木一憲の勧めで彼と一緒に立ち上げたのが国会議員を辞めた直後。彼は元出版社の社員。本を出したくても出せない人のために役立ちたいというのが狙いだった。で、見本としてまずは櫂より始めよで、私が出した。読書録の続編『60の知恵習い』を皮切りに、小中高大の友人たちと対談をしてそれをまとめた。五冊分全部併せると、対談者全員がことし70歳の面々で、『現代古希ン若衆』というタイトルが相応しい。その次の企画として私が考えたのが各分野の専門家との対談だった▼偶々歯槽膿漏に悩む、親友の勧めで読んだ本が『青山繁晴、反逆の名医と「日本の歯」を問う』。そして自らの歯の治療にも河田歯科医院へと赴いた。いらい、一年半ほど。意気投合して電子書籍を出そうというまでに殆ど時間はかからなかった。私の電子書籍第七弾になるはずだった。準備も進めていた。ところが朽木が病に倒れてしまい、電子書籍の出版が難しくなった。そこで方向転換。急きょ紙の本に、ということになったのである。若い人向けに歯科医療について噛んで含めるように、分かりやすくをモットーに語り、話して貰ったつもりだ。私は序論の題を「歯、歯、歯の歯のはなし」にしようと真面目に思っていた。徹底的に歯の大切さを面白く語ってみようと狙った。その通りになってるかどうか。読んでいただいてのお楽しみだ▼河田さんは日本の歯科医療の世界に大げさでなく、革命を起こそうとしている。それが証拠に衆参全国会議員にこの本を贈呈するという挙に出た。およそ100万円かかる。止めましょう。無駄もいいとこだ。国会議員の連中が読むはずがない。封筒を開いて表紙を見たらそのままゴミ捨て場に直行する、って私は主張した。しかし、それでもいいと彼は言う。せめてタイトルを見てくれたら、こんな歯科医が存在すると頭の片隅においてくれたら、本望だ、と。その熱意に負けた。その費用は全額彼が出してくれるとはいえ、勿体ないとの思いは私のような貧乏性の人間には消えない。そこで、議員諸氏が読んでくれるように、私はある仕掛けをすることにした。その結果がどう出るか。何れの日かの続報を楽しみにしてもらいたい。(2015・10・30)
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(130)沖縄の前に必要な日本の独立ー松島泰勝『琉球独立宣言』
このところ沖縄に関するとても胸打つテレビ番組を見た。一つはNHKスペシャル「沖縄戦 全記録」であり、今一つはBSの「なぜペンをとるのかー沖縄の新聞記者たち」である。前者は先の大戦で唯一地上戦が展開され、12万人にも及ぶ一般人が犠牲になった沖縄戦の実態をあますところなく伝え、正視しづらいばかりか、聴くにも堪えられないほどのリアルさだった。後者は普天間基地からの辺野古移設に反対する住民の動きに迫る琉球新報の記者たちの日常を克明に追ったもので、沖縄のメディアが「偏向」といわれることへの静かな怒りに、慄然とするものを感じた▼先に『小説 琉球処分』の読書録を取り上げたが、続けざまに松島泰勝『琉球独立宣言 実現可能な五つの方法』を読んだ。この本の帯には作家の池澤夏樹氏が「居酒屋から論壇へ、独立論のフィールドが変わった」との推薦文を寄せている。先のテレビ番組の放映と併せ、重要な問題提起に対して、日本人の誰しもが真剣な対応が迫られていると確信する。沖縄に対する日本政府の立ち位置は、明らかに差別を含んだものである。私はこのままいくと独立しかない、との思いを抱いて久しい。せめて準国家の扱いをしてでも真正面から向き合わないと、行きつくところ(つまりは沖縄の独立)に行くしかないと思ったもののだ▼松島さんは激しい怒りを抑えながら冷静な筆致で独立への道筋の必然性を説く。これまでこんなに真剣な独立宣言文を読んだことはない。ただし、1⃣琉球人の独立賛成派を増やす2⃣日本で独立賛成派を増やす3⃣国際世論を味方にする4⃣国連、国際法にしたがって進める5⃣日米両政府に辺野古新基地建設を断念させるーという五つの方法についての提示は、「おわりに」のなかにでてくるだけ。あまり具体的な方法論は示されていず、いささか看板倒れ的な印象は覆いがたい。しかし、それを補って余りあるほどこの本からは琉球人の不屈の魂が感じられ、いい加減な気持ちで読むとたじろぎかねない▼沖縄の問題を考える上で重要なことは、そもそも日本そのものが未だ独立を果たしていないことを自覚する必要があるのではないか。戦後70年。米国占領は形の上では終わったように見えるが、それはうわべだけ。「実態は半独立国家」というのが偽らざるところなのだ。だから「琉球独立宣言」のまえに「日本独立宣言」がなければならない。といっても、それは日米同盟を捨てることでも、安保法制を断念することでもない。そんなことをすればたちどころに国家運営は行き詰る。現実を見据えたうえで、遠くない将来に本来の姿(真の独立)を取り戻すことは、沖縄も日本も同じではないか。沖縄をいわゆる左翼に支配された”イデオロギッシュな地”とみてはならない。「琉球ナショナリズムの地」だと見ていけば、その時に初めて独立を必要とするのは日本も同じだということが見えてくるように思えてならない。ただ、双方ともに果てしなく遠い道というほかないのは残念である。(2015・10.23)
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(129)人間を見抜くにはどうすればー『権力に翻弄されないための48の法則』上下
読書好きの人は、自分だけが密かに時に応じて開いて読む本をもっているのではないか。座右の書とまではいかなくても繰り返し開く本である。それはあまり有名な本でないほうがいい場合が多い。有名すぎると、人に話してもすぐネタ元がバレてしまう。出典はわからないほうが面白い。私のケースは、ロバート・グリーン、ユースト・エルファーズ『権力に翻弄されないための48の法則』上下(鈴木主税訳)である。1999年発刊で、刊行間もないころに購入したから21世紀に入ってずっと持っていて、時に引っ張り出して開いている。大げさなタイトルだが、これは失敗だろう。むしろ「人間を見抜く48手」とでもしておいた方がもっと売れたかも知れない。まあ、そのお陰で読んだものはより密やかな喜びを独占できた気分になれる。今回はそれをあえて披露したい▼この本は、パワー(権力)を操るための法則を様々な実例を挙げて解説を加えたものである。もっと言うと、世間で成功するためにしてはならないことと、やったほうがいいことを、古今東西のケースを通じて説明しているといえようか。面白いのは法則を挙げて、それを提言としてまとめたうえで、法則にそむいた場合と、したがった場合それぞれの例を、歴史から拾って解説を加えていることだ。さらに、パワーを手にする秘訣や、イメージ、金言を加え、最後に例外まで挙げる。そして幾つかの示唆に富んだ歴史上の人物の言葉を添えている。まことにいたれりつくせりなのだ。ただ、これは訳者があとがきでも言ってるように、「本書は権力の本質を探る本というよりも、人間の本質を探る逸話集と言ったほうがあたっているかもしれない」し、「古今東西ありとあらゆる人びとの行動が描かれて」おり、「時代と空間を超えた大型ワイドショーのよう」なのである▼勿論、これは偉人の言葉やら行動を追ったものではない。この手のものにしばしば登場する、孫子やクラウゼヴィッツのような傑出した戦略家やタレーラン、ビスマルクのような権謀術策にたけた政治家、カスティリョーネ、グラシアンらのやり手の廷臣に加え、なんと色事師や詐欺師の言葉などもふんだんに盛り込まれている。「(彼らから)含蓄のある言葉を集め、そのエッセンスを蒸留してできた」ものだというから恐れ入る。私的に言えば、自分の読んだ本から至言を抜粋せずとも、著者たちが選択してくれているものだからきわめて便利ではある。ただ、欠点を言うと、日本人のものが少ない。辛うじて千利休や秀吉、信長、家康らが顔を出すに過ぎず、しかも胸を撃ち、舌を巻くようなものは出てこない。これって著者たちの責任か、それとも日本人が素直すぎるのだろうか▼自分自身に引き当てて感想を述べてみよう。法則4に「必要以上に多くを語るな」というのが挙げられている。法則に背いたらどうなるか。つまり多くを語りすぎると待っているものは何か。レオナルド・ダ・ヴィンチの「満月になると、牡蠣はぱっくりと口を開ける。蟹はそれを見て、石や海藻を牡蠣の口に投げつける。すると牡蠣は口を閉じられなくなって、蟹に食われてしまうことになる。口を大きく開けすぎた者は、これと同じ運命をたどる」と、解説されている。一方、法則にしたがった場合はどうか。多くを語らない男だったルイ14世をとりあげ、彼の有名な「朕は国家なり」との言葉や、まわりからのあらゆる願いに対して、ただ「わかった」という簡潔きわまりない応答をしただけだった、と言う。不気味極まりない。尤も、例外として「時には黙っていないほうが賢明な場合もある。沈黙は疑惑も招くし、相手を不安にさせる。とくに目上の者に対する沈黙は要注意だ」とも。そう。生兵法はけがのもとだということを私など骨身にしみてきた。相手を間違って使うととんでもないことになる。まぁ、生きていく上にはまことに色々あり、一筋縄ではとても済まない。だが、ここに書かれてあることを知っていて損はしない。(2015・10・19)
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(128)残された選択は「沖縄独立」しかないのかー大城立裕『小説 琉球処分』
沖縄県と政府の関係が極めて悪い方向に向かっている。13日に翁長県知事が米軍普天間飛行場(宜野湾市)の移設計画を巡って、移転先の名護市辺野古の埋め立て承認を取り消したことに対して、政府は行政不服審査法に基づく不服審査請求を行う方針を固めた。このことから埋め立ての是非が法廷に持ち込まれることは必至で、全面対決の様相が一段と濃い。こういう状況が進む中で私はいま、大城立裕『小説 琉球処分』上下を読んでいる。その結果、あらためて明治初年のころと全く本質的には変わっていない日沖関係を深刻に考えざるをえない▼実は私は現役時代に衆議院本会議で、日沖関係が悪化すれば、最終的には「沖縄独立」しかないことを匂わせた演説をしたことがある。自分の本会議演説では出色の出来栄えだったと思っているが、全く注目されなかった。その演説をするきっかけとなったのは、実は池上永一の小説『テンペスト』を読んだ影響が強い。中国と日本、そしてアメリカと日本という大国のはざまで苦悩しながら、見事に立ち居ふるまう琉球の生き方は小説とはいえ(いや、小説だからこそというべきだろう)実に鮮やかで、知的興味を強烈に惹きつけられた。そこで、「米軍基地の過重なる負担に苦しむ沖縄が生き残るには、こういう状況が続くなら”中国寄り”にならざるをえない。日本政府を牽制しながらの外交展開をするしかなく、やがてその先には独立を選択することが待っている」との思いを抱いたのだ▼大城立裕さんの小説は、明治新政府と琉球王朝府との確執を克明に描いている。国家間相互でもこれほどの異質のもの同士の対応は珍しいかもしれない。「五年来、何十回あるいは何百回、琉球の高官どもと談判した。根気比べの談判であった。(中略)はねかえしてもはねかえしても寄せてくるー卑小な蚊の群れにもたとえようか」ー琉球の高官とさらには王府との交渉を振り返って、明治新政府側の琉球処分担当官が述懐する。この辺りは読むほうもはらはらイライラしてくる。ここを読んでいて、辺野古移転をめぐる沖縄県と日本中央政府のやりとりなどまだまだ序の口かもしれないとさえ思わせられる。この小説を読んでの結論は、沖縄との交渉は、根気比べでどっちかが倒れるしかないものと思わざるをえない▼この小説にしばしば出てくるのが、中国と琉球との関わりである。琉球人としてその恩義が忘れられないという風に読めるくだりに出くわすたびに、疑問を抱く。というよりも、少なからざる嫉妬めいたものを抱かせられる。中国と一言で言っても到底一筋縄でいかない。勿論、今の共産主義・中国だけでは、この大陸に生息する民族の総体を判じることは難しい。また、琉球についても、およそ単純にとらえられないことを痛感する。沖縄大好き人間の私としては、良くわかってるつもりだが、やはり琉球民族と大和民族は似て非なる民族だと感じる。例えば、官職の呼び名一つとってもきわめて難解だ。親雲上、里之子とか、王子、按司や親方など、理解を超える表現に出くわして戸惑う。この点などはいささか説明された方がいいのでは、と思ってしまう。ともあれ、『小説 琉球処分』を読みつつ、知事と政府のせめぎあいを追っていると、『実録 沖縄処分』を見せられているようだ。この行く末に待っているものは「沖縄独立」しかないと思われてならない。(2015・10・15)
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