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(第6章)第1節 「PKOマフィア」と呼ばれた外交官━━有馬龍夫『対欧米外交の追憶1962-1997』

新たな読書作法の実践

 外務官僚の現役からOBまで、私に友人、知人は多い。20年間の代議士時代は言うに及ばず、記者、秘書時代にまで遡ると相当な数になる。しかし、真に尊敬に値すると思われる人となるとぐっと少なくなるのは当然だろう。そんな中で五本の指に入りそうな方が本を出されたと聞いたので、直ぐに読むことにした。有馬龍夫 『対欧米外交の追憶 1962-1997』がそれである。400頁ほどで上下二巻。一冊4200円はいささか躊躇する値段である。この本の存在を教えてくれたのは、当のご本人でも、また相当に深いお付き合いをしてこられたはずの先輩代議士でもなく、仲間内の中堅代議士だ。彼は国会図書館で読んだという。私も引退後は本は出来るだけ、市立図書館で借りるようにしており、この本もそうすることにした。当然ながらこういう専門分野の新刊は、場末の図書館では置いていない。そこで、こちらが購入を申し入れて、買ってもらった。少し時間はかかったものの、最初の読者であり、真っ白な本を開く感じはなかなかいい。付箋を張り、注意書きをそこにしておけば、あとでまとめて貼ると記憶メモノートにもなる。新たな読書作法を実践した思いで気分も悪くはないのである。

 有馬龍夫さんは1962年(昭和37年)に外務省に入省され、北米局長、内閣外政審議室長などを歴任。オランダ大使やドイツ大使をされた後、中東調査会理事長を務めておられた。私より一回り歳上だった。元をただせば、私などが知己を得る関係の方ではない。私が当選した1993年の前年には既にオランダに出ておられた。初めてお会いしたのは退官された後の1998年頃だったと記憶する。当選後5年ほどが経ったばかりの駆け出し代議士であった私にも丁寧に対応してくださったものだ。丹波實さん(元ロシア大使)といつも一緒に、私の仕事上のボス・市川雄一元公明党書記長と4人で幾たびかお会いさせていただいた。

 有馬、丹波両氏をはじめとする何人かの外務官僚は、石原信雄官房副長官(当時)のもとにいわゆるPKO法が導入されたときの政府要人グループとして位置づけられる。憲法9条の下でいかに国連平和維持活動(PKO)を円滑に進めるかは、90年代前半の外務省にとって至上命題であったのだ。野党幹部でありながら司令塔の役割を果たした市川さんと彼らが連携して、艱難辛苦の末にやってのけたのである。口さがない人たちは畏敬の念を込めて「PKOマフィア」と呼んでいたと聞く。私はいつもこの練達の士3人のそばで高邁な外交談義を聞かせていただいたものだ。「門前の小僧習わぬ経を読む」ならぬ、習った経を深めさせてもらったことが懐かしい。

 鈴木善幸元首相への気掛かり

 有馬さんはひたすら奥ゆかしいひとだったとの印象が強い。丹波さんは触れると斬られそうでいささか接触が憚られたが、有馬さんは好々爺の風がないではなかった。この本は、今はやりのいわゆる「オーラルヒストリー」。新進気鋭の政治学者である竹中治堅政策研究大学院大教授が微に入り細をうがって、聞き取りを重ねた労作である。

 近過去の政治・経済について、専門の学者が実際に携わった関係者から事実関係や思いを聞き出す。こういった行為を通じて歴史の素描が展開されることは実に興味深い。この本で、とくに印象に残ったのは1981年5月の鈴木善幸首相の訪米中の共同声明に「日米同盟」の文言をめぐってトラブルがおきたことである。記者会見で同総理が軍事的意味合いがないという発言をしたことの顛末が述べられているくだりだ。この点、鈴木首相が凡愚の指導者であったと、今に至るまで語られていることに対し、当時同地で参事官だった自分の責任を感じ、ひたすら申し訳ないとの思いで語っておられる。いかにもこの人らしくて好感が持てる。私にとっては17歳という高校生の頃から、52歳の政治家盛りの時までの対欧米外交史である。これはどこまでも興味が尽きない外交交渉が連続する歳月だった。

【他生のご縁 歴史に残る大仕事のそばで】

 市川雄一さんは、自分の付き合う政治家、外務官僚、作家などと会われる際に、積極的に私を同座させてくれました。お陰で様々な方々と知り合う機会を得ることができました。そのうち、有馬龍夫さん、丹波實さんと会う時が一番楽しそうでした。PKO法という歴史に残る大仕事を共に戦った戦友意識が強かったと思われます。有馬さんが市川さんより二つ上、丹波さんは市川さんより三つ下でした。元ドイツ大使の有馬さんと、元ロシア大使の丹波さん。独ロ関係さながらにご両人は対極的な雰囲気をお持ちでした。

 私の事務所に上智大の女子学生がアルバイトをしてくれていました。彼女はその後外務省に入省し、モスクワの駐ロシア日本大使館に勤務。その当時の大使が丹波さんでした。ある時、懇談後の別れ際に、その女性のことをご存知かどうか訊いてみました。丹波さんは「知りません」のひと言だけ。有馬さんは、気の毒そうに、大使館には大勢いますからね、とフォローしていただきました。妙にほっとしたことを覚えています。

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(106)「西欧近代」が抱える深い闇と決別のとき

このところ日本の近代化のありようについて考えることが多い。極めて長きにわたる鎖国状態から、江戸末期になって否応なく開国を迫られ、必死に生きてきた日本。その過程は近代化としてとらえられる。これはとくに科学技術分野での西欧列強との溝を埋める壮絶な闘いであった。ほぼ150年ほどが経った今、これまでの日本の生き方は正しかったのかが問われている。きっかけとなったのはあの東北の大震災・大津波・原発事故をもたらした「3・11」である。あらためてその核心に迫ったものを読んだ。山下祐介『東北発の震災論』だ。この人のものは、先に『地方消滅の罠』を読み、その際に既に出版されていたこの本や『限界集落の真実』を手にするに至った▼「事故前までは原発の危険性を訴える人々を、絶対安全の言葉を信用して冷ややかに見ていた一人だ」と正直に告白している。「この事故を予言していた人は多数いた」のに、「正しい予測」を押しつぶし、すべてを「安全」に塗り固めてきた勢力・人々がある、と指摘。そこにこそ、この事故の責任は求められるべきで、それは「科学者側の問題であり、この事業を推進してきた政治や経済の問題である」と指弾する。ここまでは極めてまっとうな論及だろう。しかし、すぐに彼は、「だれが何をしたかには一切関心がない」と続ける。問題は「構造」であり、「システムそのものにある」というのが彼の最大の関心事なのだ。中心(中央)のために周辺(地方)がリスクを負い、中心から周辺に利益が還流する「広域システム」ーその存在を顕在化させたのが今回の震災であり、福島原発事故だった、と。だから、今回の大事故を根源的に解決するには、「脱原発ではなく脱システムでなければならない」というのだ。これはよく目にする一般的な矛先とは違う▼では旧来からのシステムを脱却するにはどうするのか。山下氏は難しさを強調するだけで、その答えを十分に提示しえていない。尤も、その道筋は明らかにしている。変更されるべきシステムを作り上げたものは西洋近代であり、日本の近代化は「西欧発」であった。だから、遅まきながら「日本発」のものに取り換えよう、と。近代化をめぐっては先の大戦を起点として考えると、誤りに陥りやすい。つまり、いわゆる右の勢力は「戦後民主主義」を自虐的と批判しがちだし、左の勢力は、「戦前回帰」は復古主義でしかない、と切り捨てるだけ。これではことの本質解決に繋がらない。むしろ、明治維新を起点にして、日本自前の文明に基づく近代化をもう一度やり直すことが大事なのではないか。キリスト教を軸とした西欧近代化路線を取りいれ続けるのではなく、日本風に変えていく手法を今こそ思い出す必要があろう。「西欧近代が抱える深い闇が、この日本でも、震災を通じていよいよ現れてきたということなのだろうか」との問いかけは強く重く響く▼私はこの本を読み終えて、旧知の環境考古学者である安田喜憲さんに電話をいれることを思い立った。かつて「第三の開国」論を提唱し、日本の近代化の流れを肯定していた故松本健一さんと、明治維新以降の日本の近代化路線は間違いだったとの立場にたつ安田喜憲さんとの興味深い論争を思い出したからである。安田さんは山下祐介氏の問題提起に大いに注目されていた。このあたりを巡って松本健一さん亡きあと、今度は私と対談しませんかと大それた話を持ちかけてみた。「いいねえ」と安田さんは即座に言われた。だが、言い出しっぺの私が、ことの重要性に後で気づき、いささか躊躇している。なんでも勢いに任せて口に出すことは考えものだ。(2015・6・28)

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(105)新進気鋭の平和学者の安保分析に酔う 秋元大輔君

現役の頃には様々な方からインタビューを受けたり、党の政策についての考え方を問われた。今なお鮮明に覚えてる人といえば、櫻田淳氏だ。現在は東洋学園大学の教授をされているが、初めて会った当時は愛知和男衆議院議員の政策秘書をしながら、外交・安保政策の研究をされていたと記憶する。彼は身体に障害を持ち、言葉の発音などにも聞き取りづらいものがあったが、とっても優秀な頭脳を持った人物だと思われた。案の定、あれから様々な本を発刊し、論客として頭角を表している。しかし、そうした人は珍しく、殆どの方の思い出は遠い彼方に消え去っている。一か月ほど前、国会を久方ぶりに訪問し公明党防災対策本部の会合に出る機会があった。終了後に関係者と名刺交換などをしている際に、中川康洋衆議院議員の政策秘書・秋元大輔氏から挨拶を受けた。かつて私に党の安全保障政策をめぐってインタビューをしたことについてお礼を云われたのである。大変に失礼ながら直ちにその記憶が浮かんでこなかった。”白面の貴公子”といういささか古い表現がぴったりするほどの美青年なのに、印象が薄いとはどうしたことなのだろうか▼彼は前に創価大学平和問題研究所の助教を務めた平和学者であり、国際政治学者だという。驚いた。あれこれ昔話をしているうちに少しづつ記憶が蘇ってきた。数日経って彼から『地球平和の政治学』と『ジプリアニメから学ぶ 宮崎駿の平和論』の著作が送られてきた。誠実そのものと思われるお人柄への返礼の意味も込めて直ちに読み始めた。平和学なる学問は我々世代にはあまりなじみがない。だが、後輩たちに、なかんずく創価大学出身の連中にはその道に造詣が深い人が少なくない。衆議院公明党の近未来のエース・遠山清彦氏などはその最たるものだ。秋元さんの本を読みながら平和学という学問の山脈に連なる人々を遠望できたのは何よりもの収穫だった。1960年代後半に大学で国際政治学の魅力に憑りつかれた私の世代は、理想主義と現実主義の相克や核抑止論、勢力均衡論などの議論に憂き身をやつしたものだ。ベトナム戦争や中国文化大革命真っ盛りの時代に永井陽之助、中嶋嶺雄両先生の謦咳に接することができたことは生涯の誇りでもある。だが、今にして思えば、平和を希求するより、戦争を議論する、それこそ「木を見て森を見ない」論議に明け暮れた日々だったのではないかとの反省がないではない▼秋元氏の『地球平和の政治学』は、非常によくできた日本の平和主義と安全保障についての参考書だと思われる。昭和44年より今に至るまで、半世紀近く新聞記者とし、秘書として、そして代議士として外交・安全保障分野の政治を見つめてきたものにとって、感無量の思いを大げさではなく持ったと告白しておこう。何よりもこの本における圧巻は、日本の安全保障のアイデンティティに関して4つの理論モデルを使って考察していることだ。曰く1⃣平和国家(古典的リベラリズム)2⃣国連平和維持国家(ネオリベラリズム)3⃣普通の国(古典的リアリズム)4⃣アメリカの同盟国(ネオリアリズム)の4類型である。各章ごとにこの理論モデルを用いての解説は十二分に読ませる。「積極的平和主義」なる言葉をひんぱんに使う安倍首相の意図が奈辺にあるかは別にして、その言葉の正当な歴史的経緯もここでは分かって面白い。かつて公明党の目指す外交姿勢を「行動する国際平和主義」と名付けた張本人としては口出ししたいことが山ほどあるがここでは抑えておく▼秋元氏の指摘を待つまでもなく、「日本の安全保障のアイデンティティは複合的であり」、「まるで多重人格のように入り混じって」おり、海外の研究者のいうように、あたかも「一貫性のない『統合失調者』」かもしれない。著者はそうした複雑極まりない対象を精一杯分析しており、その力量は並々ならぬものがある。集団的自衛権をめぐる昨年の閣議決定については、「『限定』容認とは、(中略)『他国における武力行使』のための集団的自衛権ではないと理解される」とさりげなくかわしている。また、公明党の闘いについても阪田雅裕元内閣法制局長官の言葉を引用しつつ、公明党の意向が反映された結果として「自民党の改憲路線に対し、自衛のための武力行使の限界を示すことで、明確な『歯止め』がかけられたと認識されている」と淡々と述べている。自己の主張をあからさまに出さず客観的な表現に抑えているところはさすがだ。ただ、物足りなく思うのは、終章の「『地球平和国家』としての日本」に僅か10頁しか割かれていないことだ。これは明らかにバランスを欠いている。グローバルな国家像としての「地球平和国家」という、一番肝心のことについてはもっと書いてほしかった▼この人はジプリアニメを通じて宮崎駿氏の平和論に迫るというユニークな講義を大学でやってきた。宮崎ものは、『風立ちぬ』しか見たことがない爺さん世代の私は、慌ててDVDを借りにTSUTAYAに走った。「集団的自衛権のことがよくわかる!」との本の帯による触れ込みだが、『風の谷のナウシカ』など4本を観てそれがわかったという人はえらいね、と云うほかない。秋元氏のアニメの「平和学」的分析にはただただ舌を巻き、恐れいるばかりだ。ざっと二回ほど読んだがなかなか鋭い。DVDを観て、もう一度おさらいしながら読んだ結果、恐らくは宮崎駿氏の意図を別途読んだうえで、初めて知りうる世界ではないか、と思うに至った。自らの惨めさを噛みしめつつ、悔し紛れのあてこすりをしておく。秋元氏は、ことし35歳。春秋に富む新進気鋭の学者だ。10年後には堂々たる教授になる器だと大いに期待している。(2015・6・22)

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(104)7-⑤ ある左翼革命家の敗北と新たなる旅立ちー水谷保孝『革共同政治局の敗北』を読む

◆リンチ、粛清の顛末ばかりに辟易

 先日、高校時代の友が出版した本の広告を発見した。水谷保孝 岸宏一共著『革共同政治局の敗北』なるものだ。副題は、「あるいは中核派の崩壊」とある。革命的共産主義者同盟全国委員会、略して革共同と云われても私には良く分からない。中核派と云われて、ああ、あの過激な新左翼学生運動の集団か、というぐらいしか知識がない。著者のひとり水谷保孝(敬称は略す)は、兵庫県立長田高校で同期だった。

 卒業後、彼は早稲田大学へ。同大学時代に、学費・学館ストライキで無期停学処分になったまま中退し、のちに佐世保エンタプライズ闘争で米軍基地に突入して逮捕されるなど、学生運動でならした男だ。60歳になっていわゆるプロの革命家の道から足を洗い、普通の人間社会に立ち戻ったという噂を数年前に聞いた。驚きと好奇心で直ぐに連絡先を探し、少し経って出会った。

 非合法的な活動をした結果、逮捕・起訴され下獄の憂き目に合うなど、警察から追われ続け、いわゆる地下に潜った生活を約40年もしていた。そういう彼とは真逆に、私は革命すべき対象を、第一義的には社会におかず、人間そのものにおいた。同じ歳月を必死に生きてきた私には、彼の40年は想像を絶するだけに大いに興味深かった。だが、その身にまとってるはずの闘争歴はリアルさを欠いていた。以後、同窓会のたぐいで会っても、ひたすら淡々としていた。やがてすべては遠い過去のこととなり、本人も周りの同期生たちもまとめて忘却の彼方に流れ去るものと思わざるを得なかった。そこへこの本の登場である。少なからず衝撃を受けた。直ちに彼に電話をして「読むよ」って言ったら、「そうかぁ」と喜びの響きを滲ませながらも「ドキュメントだから」と言葉少なかった。

 正直言って読むに堪えない本ではある。リンチ、粛清の顛末ばかりに付き合う暇は持ち合わせていない。組織内抗争のいいわけやら攻撃に終始している。要するに普通の読者を想定していないのである。冒頭に本書執筆の動機と目的についてこうある。──「(革共同いわゆる中核派)の分裂と転落の歴史および実相の切開で」あり、これは「筆者らにとって肺腑をえぐられるほどつらい」し、左翼運動に関心を持つ多くの読者にとっても「暗く、重く、失望の念を禁じ得ない」幾多の出来事を書くことになる、と。

 1945年に生まれ、1968年という世界学生運動の文字通りピークの年に、青春のただなかにいたものとして、関心はないわけではなかった。しかし、もうとっくの昔に左翼運動には失望し、呆れ果てたというのが本当のところだ。

◆あとがきにのみうかがえた感情の発露

であるがゆえに、彼が沈黙を破って普通の人間としての生の声をこの本に書いているものと期待した。つまり、なぜ自分たちが左翼革命運動に挺身し、夢破れたかを赤裸々に明らかにすることを。だが、ここには彼らの主たる敵である革マル(一般にはこう略称するはずだと思うが、本書にはカクマルとあり、その正式名称も触れられていない)への徹底した糾弾の声のみが際立つのだ。カクマルは「世界史的にも類例のない『現代のナチス』と呼ぶべき存在」だ、と口を極めて罵ることの連続なのだ。鎮魂の書ではなく、新たな告発の書なのである。

 そんな中に、かろうじてまともに読めるくだりがあった。「今日の21世紀時代にあって延命に延命を重ねてきた現代資本主義が世界史的には何度目かの危機に陥り、またしても歴史的終焉の限界状況をあらわにして」おり、「世界各地で『反テロ』『自衛権行使』の名による侵略戦争、民族排外主義、領土拡張主義が火を噴き、無差別虐殺がたえない恐るべき世界戦争の世紀となっている」という基本的な世界認識を述べているところだ。確かにそういう見方もできよう。だからこそ、若き日に〝打倒資本主義〟の道に入り、50年を経て今に至るまでの壮大な闘いの跡を知りたい。だが、そのまなざしは違うところに向いているとしか思えない。組織内部における憎しみの連鎖的対応といったことしか迫ってこないのだ。

 尤も、最後のあとがきで水谷なりの意匠を凝らした感情の発露をくみ取れた。「革共同は筆者らの愚かな破産と敗北を含めて、もう死んだのだ。弔旗もいらない。葬送の歌もいらない。ただ、インターナショナルな共産主義的解放を求める一人ひとりの人間がいればいい」と。自らの死に至る病のありようをさらけだした今、水谷は原点に回帰したということなのだろう。

【他生の縁 どこまでも紳士的な佇まい貫く】

 穏やかな佇まいの彼とこの本の奇妙な落差を思うにつけ、人間というものは見ただけで判断すると、見誤るという平凡な結論を得るに至っています。この論考を「読後感」として書いたことをコピーを送って知らせたところ、もっとしっかり読んでくれよと、文句をいわれるかと思ったら、さにあらず。大いに喜んでくれました。

 この男、どこまでも紳士的なのです。高校時代の静かな雰囲気と今の落ち着き、と。結局間にあった40年余がすっぽりと抜け落ちているのです。中抜けの時間の不可思議さに時代の変化を感じるばかりです。

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(103)「リベラル抑止」という新しくて古い考え方 栁澤と植木千可子

最近の国会での安保法制をめぐる議論や憲法審査会での憲法学者による「憲法違反」の指摘などを見聞きしていると、いささか筋違いの方向に向かっているような気がしてならない。集団的自衛権を行使することを可能にすることは、現行憲法の規定からは違反しているというのは誰が考えても常識であろう(公明党は限定的行使はセーフと云っているのだが、あまりその主張は聞こえてこない)。長谷部恭男、小林節さんたち3人の憲法学者が「憲法違反」だとこぞって述べた事は当然だ。与党の一角を形成する公明党もかつて集団的自衛権行使は違憲との姿勢をとってきていた。問題は、憲法違反と指摘されても仕方がない、きわどい憲法解釈をせざるをえない国際情勢が展開しているということだろう。今のままの憲法解釈では「北東アジアの緊急事態に対応できないではないか」「憲法守って国滅ぶでいいのか」という問題提起が今こそなされるべきなのだ。その意味では憲法学者の違憲論を聞くのではなく、国際法や国際政治学者の容認論的意見を聞くことがあっても良かったと私なんかは考える▼先日、柳澤協二さんと対話をしたことを紹介したが、その際に話題になったことのひとつに植木千可子早稲田大学教授のことがある。彼女の書いた『平和のための戦争論』をめぐっていささか論評をかわした。元をただすと、植木さんのことは、柳澤氏が文筆家として登場するきっかけとなった二つの対談集(『抑止力を問う』と『脱・同盟時代』)で知った。気鋭の学者として注目される人だということを私はこの2冊で認識を新たにした。先に紹介した柳澤氏の『亡国の安保政策』にも、巻末の対談集として早稲田の天児慧教授と並んで植木さんとのものも掲載されている。柳澤さんの本は私の見るところ対談の方に妙味があるような気がしているが、これもそれを裏付けていよう。植木さんの特徴は、ずばり「リベラル抑止」という考え方だ。こういうとなんだかこと新しく聞こえるが、ちっとも新しくない。言い古されたことで、抑止力は軍事力のみにて充てるものにあらず、ソフトパワーの集積も加わってできるということだと私は理解している。そしてそれって、公明党の年来の主張と一致していると思われる▼植木さんは、この「リベラル抑止」使用には理由があるという。「現在の安全保障議論には、ややもすると軍事的に強く、威勢のいいことを言うことが問題の解決だというふうな論調が一方にある。また逆に、いやそうではなくて,経済さえしっかりしていればというリベラルな議論が片方にある。その中で、実は折衷案がいかに大事かということを訴えたくて、あえて「リベラル」と「抑止」という結び付かない二つをくっつけて、メッセージとして名前を付けたのです」と。折衷案だなどと聞くと、なぁんだってことになってしまう。しかし、今はこういう視点が強調されなさすぎる。植木さんが『平和のための戦争論』で最後に主張している「三つの私の考え」も平凡ではあるが、見落とされてはならない重要な論点に違いない。一つは、どのような場合に集団的自衛権を行使するのかについて、国内で幅広い議論をする必要があるということ。二つは、中国との関係改善と関係強化に全力を傾けること。三つは先の戦争に対する日本人による検証だ。いずれも今の国会や論壇において欠落しがちなものだと思う▼ただあえてこの人の議論に注文をつけたいことがある。それは柳澤さんとの対談(『亡国の安保政策』)で、「私は、日本が戦後なし遂げてきた、築いてきたことは本当に素晴らしいことだと思います。そこにもっと誇りを持つべきであって、戦前に何か国のプライドだとか、そういったものを見出そうとする必要はないと思います」というくだりだ。これは戦後、戦前を対立的に見てしまう浅い見方だと指摘せざるを得ない。私は戦前戦後と一貫して流れる西洋思想偏重主義への深い反省がないという観点からは戦前も戦後も同罪だと思う。確かに、自由、平等、民主主義といった戦後民主主義の考え方は西洋思想の根幹だ。しかし、それは同時に、環境破壊をもたらす人間中心主義や生きとし生けるものへの普遍的な愛の欠如、さらには経済偏重の考え方を助長する。明治維新以降の科学信仰で欧米列強に追い付け追い越せで、150年走ってきた。その結果、外来思想の日本的アレンジを怠ってしまったことのしわ寄せが今一気に来ているとの認識が求められるのではないか。この点にまで考えを及ぼしている論者にはなかなか見当たらないのだが。(2015・6・11)

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(102)メタボも、メタメタに解消するメタアナリシス

女房殿に続いて息子が本を出したという親父の心境やいかに。永年の間、親しくさせていただいている先輩(もと神戸市議会議長)が、「親ばかですが」との断りつきで、佐伯伸孝『「本当に健康になる食」はこれだ!』という本を送ってきた(これまで韓国にまつわる本や教育のことについての本を幾冊か出版されてきた奥方については、亭主殿として音なしだったのだが)。この著者は、創価大学工学部を出てから米国マサチューセッツ大学医学部大学院博士課程を修了し、医学博士の資格をとった俊英だ。かつて一度だけお会いしたこともあるが、心優しい素晴らしき青年だとの印象が今に残る。彼はアメリカで10数年、バイオ研究に携わってきた。その所産を「メタアナリシス」という、色々ごちゃまぜになった複数の調査結果をひとつに統合することで正しい結論をだすという方法で、健康と食の関係に切り込み、予防医学の全貌を露わにして見せた。タイトルから想像するような、その辺に数多あるハウツーものとはまったく違うすごい本である▼この本で彼が言いたいことは次の3点に要約できる。1⃣野菜は多くの疾患の予防に効果的2⃣肉,脂質、炭水化物は要注意3⃣食品からとるビタミンなどは効果的だが、サプリは効果的とはいいがたい。さらにこれを縮めると、「肉、油、炭水化物は食べる量を意識してひかえめに,野菜はどんどん食べるほどよく、野菜不足はサプリでは補えない」となる。一言でいうと「野菜こそすべて」ということになろうか。この結論を彼が得たのは、食と健康にまつわる膨大な医療論文を研究した結果である。それをメタ・チャートという一覧表の形にまとめている。今時懐かしい折込みの付録にしてあるのはまことに嬉しい限りだ。これをしっかりと活用すると、いかにも健康をゲットすることができそうな予感がする▼今巷には真っ向から反するような食に関する情報が氾濫している。つい先日も私は知人に勧められて、大阪難波で開かれた沖縄温熱療法の講演会に臨んだ。私と同い年の女性の講師は、ご自身の病気の体験に基づいて温熱療法の大事なことを覚知されて、今大々的に普及に務めている。そこでは卵の大事さが強調されたほか、様々な健康と食事についてのアドバイスがなされた。彼女は卵は一日3個は食べることが望ましいということを強調されていた。しかし、一方では卵の食べ過ぎはコレステロールの増加に繋がるとの説もある。また、肉はどんどん食べてもいいとの説があると思えば、一方で食べ過ぎは禁物だとか。また、牛乳についても、酒についても、所説入り乱れており、何が正しく何が間違ってるかわからないことばかり。それでは一般人は迷ってしまうし、我が家でもしばしば見解がぶつかり合う。で、結局はどれもほどほどに取り入れようということになり、それらを補う意味でサプリメントに手を伸ばすというようになるのが専らだ。これに真っ向から挑戦して「野菜の素晴らしさ」を科学的に証明づけたのがこの本である▼一読して深い感銘を受けたが、同時にいくつかの気になるところがある。ひとつは、ご本人も述べているが、「野菜をたっぷりと食べる」ことは、病気の予防には有効でも、病気の治療には必ずしも効果はないということだ。当たり前のことだが、病気は治してからということになる。そういう意味では生活習慣病を始めとして、病気の問屋のような中高年にとっては、今更野菜をたっぷりとれと言われてももはや遅いとの気分になる。せめて肉も油も炭水化物も、そしてあれこれのサプリも取り入れて、残り少ない人生を謳歌せねばという気になってしまう。これって自然な人情のなりゆきではないかと思われるのだが、著者はどう思われるだろうか。恐らく親父さんは私と同意見に違いないと睨んでいるが。このあたりの記述に物足りなさを感じる。併せて第五章に「野菜中心生活のすすめ」の3節に「簡単な野菜料理でもこんなにおいしい」という料理のノウハウが書かれており、とっても参考になる。このところをもっと充実してほしい。わずか1ページ半しか割かれていないのは残念だ。ともあれ、若い人々にとっては、予防医学の粋を凝らしたこの本の所産は得難いもので、大いに活用すると健康な人生を送れること請け合いだと思われる。(2015・6・4)

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(101)安倍と柳澤とどっちが異質な存在か

柳澤協二さんが官房副長官補を退官して暫く経った頃、朝日新聞だったかに論考を発表したことが永田町界隈で話題になった。その中身たるや厳しく政権の側を批判するものであり、それまでの彼のスタンスからすると意外な感がしたからである。議員会館の私の部屋を訪ねてきた彼に、私が云った事を今でも覚えてる。「柳澤さんは保守の側に身を置きながら、政権を批判するというのはなかなか良い狙いだね。今の論壇を見渡しても、そういう位置からの発信は殆どないから、きっと受けるよ。これで役人を卒業しても立派に物書きとして食えるよ。さすがだね」ーイラク戦争をはじめとする様々な出来事にどう対応するかを巡って種々の意見を交換していた仲だっただけに歯にきぬ着せずに本音を投げかけた。彼は満更でもなさそうな顔をしていた。私の見立て通りの判断だったことは間違いない。その後数年経った現在、いや増して私の見方が正しかったことを裏付けるような働きぶりであり、今や安倍政権批判の論陣を張る急先鋒として名を高からしめている▼先日彼が芦屋市に後援をするために兵庫県入りすると聞いて連絡を取り、翌日の朝に懇談の時間をとってもらったことは既に別の場所で述べた。その際に、かつて前述の発言を私がした通りになったことを伝えると共に「大変な活躍だけど、それって思えば安倍さんのおかげだね」と皮肉交じりで讃嘆をしたものだ。彼はニヤリとしながら「おっしゃる通りです」と返してきた。柳澤さんだけではなく、霞が関の官僚の中でその立場を辞したあと、もの書きに転身して成功した人は少なくない。なかでも外務省や防衛省という役所は、外交・防衛を論じるというその性格上からも群を抜いて人材輩出源となってるようである。それだけ役人時代に云うべきことを言えずに我慢することが多いと見えて、辞めた後は息せき切ってぶちまけることが多いものと見られる。とりわけ柳澤さんは激しい。このたび彼が送ってきた『亡国の安保政策』も容赦なく安倍政権を切りまくっている▼彼は自身の立場が、歴代自民党政権の憲法解釈に則った政策判断に徹しているがゆえに、その道を外したように見える安倍政権を批判することは当然であり、なんら恥じたり悪びれたりすることはないというものだ。「アメリカとの軍事的双務性を進んで追求し、アメリカとの対等な関係を築くことによって大国としての日本を『取り戻す』という『報酬』を求めるパワーポリティクスへの転換」を目指す安倍政権は、「歴代自民党政権とは明確に異なる指向性を持った、異質な政権である」という。それを批判することは、言わばご先祖様から褒められこそすれ怒られることはないというのが柳澤さんの立場だろう。政権の側にいた政府高官の癖に安倍政権に弓を引くとは何事か、という彼に向けられる刃は,彼にとって痛くもかゆくもないどころか、そういう寝言みたいなことをいう人間は政治を知らないにもほどがあるといいたいのに違いない▼そういう彼の立場を率直に披歴したのがこの本だが、私にとって面白く読めたのは米国の安倍政権観のくだりだ。経済を安定させるうえでの安倍政権の働きをアメリカは認めるものの、「歴史の見直しを主張するタカ派的傾向がアジアの緊張を高め、アメリカの国益を損なうのではないかとの懸念」を抱いているとの見立てだ。さらに尖閣問題を巡っては「無人の岩(尖閣のこと)のために俺たちを巻き込まないでくれ」という米軍機関紙に掲載された論評や、議会調査局の2013年の報告に「米国は、尖閣をめぐる日中の紛争に直接巻き込まれるおそれがある」との指摘を挙げているのはまことに興味深い。かつて日本がアメリカの戦争に巻き込まれるとして社会党などが批判してきたが、あれから50年ほどが経って、今度は一転日本の仕掛ける戦争にアメリカが巻き込まれるといって懸念しているのだ。勿論、今もなお日本がアメリカに巻き込まれる恐れがあるとの懸念を表明する向きも多い。しかし、柳澤さんが注目するのはアメリカのこういう受け止め方であり、国際情勢の認識が安倍政権はズレているというのだ▼我々は鳩山政権について、現実におよそ根差さない、宇宙人のような政権だと批判してきた。柳澤さんはそれを、「パワーポリティックスに頼らない安保戦略を模索したが、それは実現の具体的手段を伴わない意味で、『夢見るリベラリスト』というべき戦略性のない戦略だった」と切り捨てる。と同時に返す刀で、安倍政権を歴代自民党政権が憲法に正面から挑戦することになるがゆえに露骨に追及を避けてきたパワーポリティックスを追及しようとする政権だとして、その危険性をあげつらっている。曰く「実現可能性のない国家目標を追及しており、それは鳩山政権との対比で言うと、『夢見るパワーポリティックス』だと。より正確に表現すれば、「夢見るパワーポリティシャン」であろう。つまり「力を信奉する政治家」というわけだ。リベラリスト的とリアリスト的と立場は正反対ながら、アメリカと対等に肩を並べたい、という指向性を持つ点で鳩山も安倍も同じ穴の貉だというと、安倍首相はどう反論するだろうか。ともあれ、リアリズムに依拠しながらリベラリズムを指向する中道主義の公明党は、安倍自民党に盲従しているわけではない。政権に身を寄せながら違いを出すことは至難の技であろうが、そこに私は期待したい。(2015・5・30)

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(100)真田幸村、後藤又兵衛らの「男の美学」に酔う

家康が死んで今年は400年になるとのこと。1615年のことだから、関ケ原の戦いから15年ほどが経っていたことになる。大阪冬の陣から夏の陣の二つの戦いが決着を見て、数年の後に家康は永遠の眠りにつく。信長、秀吉、家康と戦国末期を彩った3人の軍事・政治的天才を比べてみて、死後260年近くも徳川の時代を永らえさせた家康に強い関心を持たざるを得ない。先日たまたまNHKのETV特集で司馬遼太郎の小説『城塞』上中下3巻を、識者4人で読み解く公開番組をやっていたのを見た。司馬さんの小説はそれなりに読んできているのだが、この本は未読だった。番組に登場した女優の杏さんや建築家の安藤忠雄氏らの興味をそそる話につい魅せられて、この小説を読む羽目になった。その場で誰言うことなく語られた「主人公は人ではなく大阪城だ」という一言も大いなるきっかけとなった▼家康を描いたものは山岡壮八さんのそれを遥か昔に読んだことがある。印象に残っているのは、その権謀術数の展開と三河武士の団結の固さである。およそ考えられる手練手管の限りを尽くした家康の天下取り。そしてそれをも凌ぐ死後の徳川幕府の繁栄を考え抜いた打つ手の見事さ。企業、団体の組織運営を考えるうえでいつも参考にすべしと言われることが多いが、俯瞰的に見て自然に思われる。だが、個別具体に見るとおよそ嘘偽りのオンパレードであって、決して美しいものではない。『城塞』でもこのあたりの家康の描き方は露骨なまでにえげつない。ただ、歴史上で大をなした人間を見るうえで大事なことは、その人生のどの部分に焦点を当てるかだろう。信長に仕えて草履取りの身から天下取りをするまでの秀吉は、鯉の滝登りのように鮮やかだ。朝鮮出兵から死の直前までの晩年とは人がまったく別人のようだ。同様に、若き日の家康とこの大阪城攻めの頃の家康とは、大いに趣きを異にしている▼その点で、真田幸村、後藤又兵衛といった中堅のリーダーの描かれ方は一貫して男の美学に貫かれており、読むものをして大いに興趣をそそられる。真田幸村については来年のNHK大河ドラマで取り上げられる。かつて子供のころに杉浦茂さんの漫画(『真田十勇士』だったと記憶する)に血沸き肉踊らせたものだ。猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、筧十蔵、穴山小介、根津甚八、由利鎌之介、海野六郎、望月六郎らの名前が浮かぶ。今でも九人の名前が出てくるのだからよほど興奮して読んだに違いない。真田一族について書いたものでは、私は池波正太郎の『真田太平記』が好きだ。来年までに読み直してみたい。ともあれ、この『城塞』でも最後の最後まで数で圧倒的に優位な家康を追い詰める幸村はまことにかっこよく、胸すく思いがする▼もう一人のヒーロー後藤又兵衛も印象深い。人生最後の死に場所を得て縦横無尽に力を発揮する又兵衛はまことにすごい。ある意味で隠れた主人公はこの人かもしれない。黒田官兵衛に仕えながらも晩年はその息子長政との折り合いが悪く牢人となってしまう。その又兵衛が豊臣家のためにその軍事的センスを生かして死闘を尽くす姿ほど小気味いいものはない。この人物が播州・姫路の生まれであるということにも同郷者としての感情移入が当然あろう。官兵衛もいいが、又兵衛もいいのではとつい思ってしまう。家康の孫にして秀頼の妻だった千姫は、大阪城落城の後に姫路城の城主・本多忠刻のもとに輿入れする。このあたりも含め姫路ゆかりの歴史上の人物は悲劇に彩られた人が多いように思われるのだが、歴史散歩として十二分に楽しめて満足している。(2015・5・27)

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【99】2-② 読みたかったイラク戦争への反省記━━岡崎久彦『国際情勢判断・半世紀』

◆自伝の趣き漂う貴重な遺産

 新聞記者を経て政治家となった私にはお蔭様で学者、文化人に知り合いが多い。中でも「新学而会」という学者、知識人10数人で構成された勉強会(政治家も数人参加)は、私にとって大きな「知的栄養供給源」となった。呼びかけ人は私の学問上の恩師である故中嶋嶺雄先生(元東京外語大学長、前秋田国際教養大学学長)で、産経「正論」の執筆者らを中心に名だたる論客が隔月の定例会に集まってきておられた。その中での一方の旗頭が元外交官で評論家の故岡崎久彦さんだった。何回も食事を共にしながらご高説を聞いたものだ。

 2014年10月に亡くなられたから、もう10年近い歳月が流れたが、最後に書き残されていたものをまとめた『国際情勢判断・半世紀』が逝去後に出版された。ご夫人がそのあとがきに「家庭人としては本当に手がかかる大変な人でした」「自説を曲げない性格」「他人の意見を聞かぬ人であります」と書いておられるが、さもありなんと、大いにうなずいてしまったものだ。

 この本は自伝の趣きがあり、人間・岡崎久彦、外交官・岡崎久彦を改めて知る上で貴重な遺産となっていて、利用価値が高い。巻末にこの人の主な著作として30冊の単著があげられているが、『なぜ気功は効くのか』といった趣味の分野のもの1冊を除いて、残り全てを読んだものにとって、ダイジェスト版を目にするようでまことに意義深い。かねがねこの人に近くで接して、迫ってくるものは、ご自身の氏育ちに対する強烈なまでの自負心であると思われたが、第一章の「岡崎家に生まれて」の少年・学生時代のくだりを通じてまことに納得した。古き良き日本の香りはこういう家系に育った人から漂ってくるものだろう、と。

 外交・防衛の分野で仕事をしてきた私は多くの人から岡崎評を聞く機会にも恵まれたが、おおむね外務省の人間のそれは冷ややかなものが多かったと記憶する。曰く「あの人は外交官としての仕事をせずに本ばっかり書いている」「言いたいことをいい、書きたいことを書いて本当に幸せな人だ」といったような。この本の中で、なにゆえに自分が外務省の中の正統派から外されてきたかが詳しく書いてあり、改めてなるほどなあと首肯した。また、サウジアラビアやタイの大使時代に通常の対外的な仕事は公使以下の部下に任せて、大きなことのみに手を下すだけで、あとは本を読んだり書いたりしていたと、正直に明かしている。これでは評判が偏って当然かもしれないと妙に納得できた。また、宮澤喜一元首相をほぼ無視したり、後藤田正晴氏を「怖いが、信頼していませんでした」と切って捨てているあたり、信念を曲げぬこの人の真骨頂ぶりを強く感じる。

◆情勢判断を間違っただけで済まされるのか

 『隣の国で考えたこと』や『戦略的思考とは何か』といった初期の作品から、私は国際政治への手ほどきを受けた。また、陸奥宗光から吉田茂までの六人を描き切った『外交官とその時代シリーズ』全五巻や『百年の遺産 日本近代外交史七十三話』といった彼のライフワークともいうべきものからは知的刺激を受けまくった。その視点はまっとうな保守の立場に立脚したもので、過去に中道左派とでも言うべきスタンスをとってきた公明党の一員として大いに参考になった。しかし、岡崎さんが晩年に至るまでの様々な論考で、あくなく繰り返し説かれた「集団的自衛権を行使可能にせよ」との主張にはいささかうんざりもした。

 私は岡崎さんがあのイラク戦争の際に、アメリカの侵攻の結果、近い将来にかの地に自由と民主主義の旗が燦然と翻る時がくる、と述べられたことが忘れられない。国際情勢の判断をなりわいにされているのなら、自分の見立てが間違ったということを天下に明らかにしてほしい。寡聞にして私は岡崎さんがそれをしたということを聞かないままお別れしてしまっている。

 そこで、この本のなかに何か見いだせるか、とひそかに期待をして頁を繰った。しかし、ついに直接的には出くわさなかった。尤も、台湾の情勢について述べたくだりに「客観的見通しを話しているだけで、もしそうなっていなかったら、私の判断が間違っているだけの話だ」とあった。イラク戦争後の中東の見通しについても、現在の悲惨な事態を予測し得なかったのは、岡崎が間違っただけの話だということかもしれない。ただし、私としては、岡崎さんの〝反省記〟も読みたかったと心底思う。

【他生のご縁 一貫して無視され続けたわたし】

 岡崎久彦さんの本を私が読みまくった理由の一つは、市川雄一元公明党書記長の影響があります。市川さんは岡崎氏の学識の深さを高く評価しておられたからです。かつて、国会論戦で切り結んだ関係を懐かしそうに語っておられたのは忘れ難い思い出です。私はその辺りのことをこの人に話したことがありますが、全くと言っていいほど関心を示されませんでした。

 前述した「新学而会」でご一緒しましたが、つれない態度に終始されました。安倍晋三元首相が珍しくこの会に出席したことがあります。その時ばかりは、岡崎さんがいつになく、はしゃいでおられるかに見え、妙に納得したものです。

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(98)満州国の興亡の陰に咲いた日本史のアダ花

長い長い物語を書き終えて、そこで力尽きたかのように亡くなった作家がいる。船戸与一さんだ。私個人は直接会ったことはない。しかし、彼と親交を深めていたひとが身近にいる。市川雄一元公明党書記長である。自ら作家志望であったことを折あるごとに語り、「書きだしの研究」なる大変に興味深い小論をものしているひとだけに、作家との交流も少なくなかった。とりわけ公明新聞編集主幹時代に新聞小説の連載を依頼するべく名だたる作家と次々と会っていた時期がある。そのうちの一人が船戸さんだ。船戸さんは、市川氏が如何に彼の作品を深く読んでるかについて讃嘆していたという。その市川氏から勧められ、随分と苦労しながら私が読み続けたのが『満州国演義』全九巻だ。第一巻の「風の払暁」が出版されたのが07年4月だからもう8年前。以来ほぼ一年に一冊づつ出されてきた▼このたび最終巻の「残夢の骸」を読んでる最中に訃報を聞き、慌ててそれまでのちょびちょび読み進めるのをやめて一気に読み終えた。原稿用紙7500枚、一冊500頁平均だから4500頁の本は書くほうは当然のことながら、読むほうも大変である。昭和3年から説き起こされ、終戦の20年までの昭和史を満州ー中国東北部で起きたことを中心に描いたこの小説は、私のような戦後世代にとって一番の盲点ともいうべき時代を扱っている。満州地域については、戦前戦後に生きる日本人にとって大きく軽重、浅深が分かれる関心事だと思われる。満州に理想郷を夢見た人々はすべてを擲ってかの地に渡り全人生を賭けた。一方、秀吉いらいの日本人の野望を苦々しく見ていた人たちは、戦後の引き揚げひとつにも冷淡な思いを持った。船戸さんは、この小説に太郎、次郎、三郎、四郎という4人の兄弟を登場させ、外交官、馬賊、憲兵、演劇学徒という4種の身分をあてがって、それぞれの視点から描くというユニークな手法をとっている▼満州国の興亡というテーマはそれなりに十分に面白く、日本が明治維新から80年にわたる軍国主義の歴史の行きつく先を描いて果てしない。その中でやはり”脱日本の風景”をくまなく味合わせてくれるのは次郎の世界だ。私はかつて中村三郎天風先生の謦咳に接する機会がほんのちょっぴりとだけあった。この人はかつて満州の沃野を馬賊の一人として疾駆した経験を持っていただけに、なんだか次郎が登場すると、天風先生とダブって見えた。ともあれこの小説は、明治という時代の暗部が破綻するさまを、”殺しと性行為と食べる”という人間の本能の赤裸々な展開を隠し味にして物語っていると云えよう。9冊を前にして、その3本能の露骨な表現のみが蘇ってくるというのも恥ずかしい気がするのだが▼つい先ごろに読み終え、ここにも取り上げた『明治維新という過ち』では、テロリストとしての吉田松陰や如何に薩長・維新政権が残虐非道の行いをしたかが説かれていた。それに比してどれだけ会津が悲劇のヒロインやヒーローの地であり、爽やかな士道の担い手であったかが語られていた。実はこの『満州国演義』の冒頭に、「会津戊辰戦史」の一節から船戸さんが想起した場面が描かれている。これこそ全編に基底音として奏でられる哀しい響きだ。会津の女を凌辱する長州の男の破廉恥な姿は、この本の中で形を替え、姿を変えながら繰り返し登場する。この場面は重要な伏線をなしているのだが、あたかも「明治維新の過ち」が原因となって、結果として「昭和前史の過ち」に結実していったことを予兆しているかのように思われ、興味深い。(2015・5・15)

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