今年は例年にも増して、テレビでの終戦記念特集番組が多かったように思う。戦争に従軍し、生きて終戦を迎えた人たちのうち最も若い兵士でも当時十代後半だから、今年は90歳前後。戦後80年には生存者は際立って少なくなるはず。テレビ番組に証言者として登場可能なほぼ最後の機会だったと思われる。16日に放映されたNHKスペシャル『”終戦”緊迫の7日間』なる番組にも、元兵士たちが貴重な証言をされていて、息詰まる感動を迫られた。15日のいわゆる玉音放送以後にも、「徹底抗戦をすべし」、「本土決戦をも辞さず」との動きが軍部を中心にあったことは良く知られている。しかし、当事者から映像を通じて聞くとなると全く迫力が違った。勿論、ことは一週間では終わらず、ソ連の侵攻により北方領土周辺ではさらに戦闘は続いた。マッカーサー将軍が8月31日に来日し、9月2日のミズーリ号上の降伏文書署名ぎりぎりまで戦争は続いていたのである▼いつからを「戦後」といい、「戦後」の始まりに何があったのかを克明に追う作業はこれまでにもいくつもなされてきている。しかし、読みやすい平易な文章で書かれたものはあまりお目にかからない。佐伯啓思『従属国家論 日米戦後史の欺瞞』は十二分に満足させられる内容だ。佐伯さんは私が注目する思想家のひとりで、近過去には『西田幾太郎ー無私の思想と日本人』を読み、近代日本の思想形成のありようについて、大いに考えさせられた。今回の安倍首相の「戦後70年談話」への評価をもあれこれと読んだが、一番私の心にフィットしたのは毎日新聞での彼の「米型歴史観から脱せず」との寄稿文だった▼6期20年の衆議院議員としての生活の大半を外交・安全保障分野で仕事をしてきた私の総括は、「日本は結局はアメリカの属国だ」というものだ。七年ほどで米国の占領に終止符が打たれたというものの、実質的には今なおそれは続いているといっても言い過ぎではない、と。この本では私の到達した結論を裏付けるかのように、改めて従属国家・日本の誕生から今に至る経緯をとても分かりやすく教えてくれている。彼は「アメリカに従属しておりながら、しかし、日本国内では、何か、主体的に物事を決めているかのように装っている。アメリカからすれば日本はアメリカの属国です。しかし、われわれ日本側からすれば、あくまでわれわれのほうに主体性があるような構造になっている」ーこれが「戦後レジーム」の二重構造である。戦争で負けたことにより、日本の伝統的な歴史観や価値観や思想が否定され、アメリカ風の合理的精神や、理性というものが押し付けられてきた。そのくせ表向きは日本とアメリカは価値観を共有しているという言葉で矛盾が糊塗されてきたのである。冷戦期の米ソ対決、資本主義対社会主義という対決の枠組みの陰で、米側、資本主義側に組み入れられてきたのだから無理もない▼この本は、全部で9章から成り立っているが、最後の「近代日本という悲劇」という章だけがある意味独立している。とりわけこの章は私にとって興味あるテーマが扱われており、繰り返し考えるいい機会となった。佐伯さんの提示するところは、先の大戦は「西洋的合理主義」対「日本的精神」の間の思想戦という色彩が強かったということであり、アメリカ側は、自由と民主主義を守る戦いに勝ったのだから、「日本の錯誤に対しては道徳的な裁きと民主的な教化が必要である」との姿勢で戦後ずっと挑んできたというものだ。この辺りを一言で表現すると、様々な国際政治における現在の対立、混乱は、「もとをただせば、近代を普遍的世界と見なすアメリカの歴史観に端を発している」ということになる。「日本的精神」なるものの構成実態を、佐伯さんはかねて西田哲学の「無私の思想」としていることは興味深い。私には、明治維新後に受容した「西洋合理思想」を「日本思想」に取り入れ、変貌させるという日本独自の手法が未だ果たされていないことが誤りの原点に思われてならない(2015・8・19)
Category Archives: 未分類
(116)「司馬遼太郎」を聴きに行き、「茨木のり子」に会うー後藤正治『清冽』
本の著者のサイン会なるものに初めて並んだ。ノンフィクション作家・後藤正治さんの著作『清冽』と『言葉を旅する』の二冊を持って。第17回司馬遼太郎メモリアルデーが7日午後、姫路駅前のキャスパホールで開かれたときのことである。後藤さんとはこれまで会ったことはない。かねてノンフィクションの分野で良い仕事を次々とされており、注目していた。『空白の軌跡』で潮賞を受賞されていらいのことである。この日は「創造と想像 司馬作品の楽しみ方」と題して、毎年積み重ねられてきた由緒あるこの会のメインスピーカーとして登場されると聞いて、参加してみた。講演内容は、「創造と想像」という、きわめて深い切り口を用いて鮮やかに捌かれた聴き応えのある良い内容だった。「嘘と妄想」などという観点から、本を時として斜めに見る傾向のあるものにとっては、特に。ただ、司馬さんの作品解剖で、『播磨灘物語』に多くの時間を割かれたことはいささか気になった。「黒田官兵衛」は、姫路の人間にとって、いささか食傷ぎみであることをご存知なかったのだろうか▼『清冽』は、副題に「詩人 茨木のり子の肖像」とある。去年の11月に出版されている。茨木のり子さんのことは、「わたしが一番きれいだったとき」なる詩を以前に読み、鋭い”反戦の詩(うた)”だと思った記憶がある。「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」で終わる詩を読んだ時には、自分に対して言われた気になった。そう、茨木のり子という人物には、近寄りがたい強い個性を感じてしまった思い出があるのだ。そうした勝手な茨木のり子像が、この後藤さんの素晴らしい”評伝”によって、かなり修正を余儀なくされた。確かに彼女の代表作ともいえる「もはやできあいの思想には倚りかかりたくない」で始まる「倚りかからず」という詩には、ただの人間を寄せ付けない凛とした人となりを匂わせてやまないものがある。しかし、同時にあたたかい人柄や普通の市井人と変わらぬ人間性を知るにつけて、大いに親しみをも感じるに至った。恥ずかしながら、私は彼女の顔すら知らなかった。およそ美とは縁遠い怖いおばさんを想像していたのだが、なんと絶世の美人だったのだ。表紙に使われた写真の笑顔にはいつまでも惹き付けられてしまう。優しい佇まいのなかにも屹立した個性を感じさせる茨木のり子像を後藤さんは見事に描き切っている。読み終えて、しばし感じ入ってしまい、次の行動を直ぐには取れなかったほどだ▼「宗教(思想)と政治」の二つながらの道を追いかけてきた私のような人間にとって、「六月」の章は、とりわけ印象が強い。昭和50年の昭和天皇の公式記者会見での発言への彼女の直截的な憤り。これほど厳しい天皇の戦争責任を突いたものを、私は幸か不幸か知らなかった。「声なき声の会」に加わっていた彼女の『日記』のくだりを目にすると、時の政治に対する強い批判の眼差しを意識させられる。その時点での彼女の”思想的倚りかかり”を感じてしまい、彼女の肖像への淡い憧憬に瑕疵が生じるような気がするのは私だけだろうか。この章における後藤さんの解説的記述は妙に心に残る。「日本の戦後史にかかわる問題へ私も幾度か分け入った気がするが、霞の中に潜む鵺を追うごとく、掌握したという手応えのないまま徒労感にとらわれてしまう。今も上空のどこかに鵺の棲む霞は漂い、折々、往時の借財を思い出させて降りてくるのである」ー後藤さんの穏健なお人柄を思わせて余りあるような、慎重で微妙な言い回しに深く感じるものがあった▼後藤さんが料理する「司馬遼太郎」に惹かれて食べに行ったのに、「茨木のり子」の方を食べる羽目になり、むしろこっちの方が味わい深かったというのが率直な感想だ。講演会の後に、質疑応答の時間がもたれるというので、私は質問を用意したが、するいとまを失ったので、サインをしていただく列の先頭に立った。で、聴いてみた。「司馬遼太郎さんご自身は、自分が最も好きな本に『燃えよ剣』を挙げておられたようですが、なぜだと思われますか」と。この小説は私が二度読んだ数少ないものだからなのだが、忙しい折でもあり、後藤さんはあまり明確な答えを提示してくれなかった。尤も、質疑応答でも3人ほどが司馬遼太郎について細部にわたる質問をされていたが、回答はほとんど司馬遼太郎記念館の上村洋行館長(司馬さんの義弟)が答えていた。後藤さんが振ってしまわれるのだ。詳しくないことを知ったかぶりされない、慎ましいお人柄だとみた。私は割り切れない思いで、エレベーターに乗ろうとすると、丁度上村さんと一緒になった。早速に訊いてみた。「それは土方歳三が好きだったからでしょう」と。明快だったが、はぐらかされた気分になった。(2015・8・13)
Filed under 未分類
【115】1-④ 品行方正にはほど遠い国家━大沼保昭『「歴史認識」とは何か』
◆欧米文明を無批判に受け入れてきたことへの疑問
先の大戦が「国家滅亡」と言っても過言ではないかたちで決着を見た、あの「8・15」から78年の歳月が経つ。かつて、安倍首相の「戦後70年談話」の文案をめぐって、あれこれと取り沙汰される中、私も改めて「歴史認識」を考えるよう努めたものである。8年前頃に出版された服部龍二『外交ドキュメント 歴史認識』を手にした。近頃、本の結論部分を先に読んで、その本の値打ちを図る癖がついていることもあって、終章の「歴史問題に出口はあるか」を真っ先に読んだ。だが、自分の理解力不足からか、なかなか没頭できなかった。外交面に絞った「歴史認識」をめぐる記録としての資料的価値は大いに認めるものの、読み物としては、あまり面白いものとはいえなかった。そんな折もおり、大沼保昭『「歴史認識」とは何か』が著者ご本人から送られてきた。かねて様々な機会に教えを乞う機会があった、尊敬する大沼東京大名誉教授のものとあって、これは貪り読んだ。もちろん、終章から。
「歴史認識」問題は克服できるか、との見出しで始まるこの本の結論部分はなかなか読ませる。「非欧米諸国が経済力をつけ、国際的発言を高めていくなかで、これまで日本が中国や韓国から批判されてきたような構図が、こうした国々とかつての植民地支配国である欧米先進国との間でみられるようになるかもしれない」──明治維新に端を発し、日清・日露の勝利から昭和の戦争の敗北へという、日本近代の負の側面を思うにつけ、このところの私は、先行してきた欧米文明を無批判に受け入れてきたことの過ちに、思いをいたすことが多い。勃興するアジア披植民地国家によって、かつての欧米宗主国はやがて批判の矢面にたたされざるをえなくなるかも、との大沼さんの予測は的中する可能性が高い。遅れてきた帝国主義国家日本が先に受けた〝洗礼〟は、先行く国家群も必ずたどらざるを得ない道として。
◆やくざな国家群が入り乱れる複雑な国際社会
この本はジャーナリストの江川紹子さんの質問に大沼さんが答えるという形式をとっており、きわめて読みやすい。行動する学者として、様々な運動に携わってきた大沼さんは、溢れ出る感情を時に隠さず対象にぶつけてきたひとでもある。この本でも、そのあたりの人間・大沼保昭が随所にドラマティックに顔を出し、大いに引き込まれる。「東京裁判」をめぐる記述の中で、インドのパル判事の「日本無罪論」は誤りだとして、いわゆる「常識」的な見方を批判する一方、オランダのレーリンク判事の生き方を、示唆に富むものとして評価をしているところは興味深い。
冒頭部分で、著者は「現実の国際社会が単純明快に回答をだせるものではない」というある種〝当たり前の見方〟を提示している。一方、結論部分で「大部分の人間は俗人」「国家というのは『非道徳的な社会』(ラインホルド・ニーバー)ですから、人間よりももっと悪い行動を取る」「世界で生きていくうえで、わたしたちは『よりましな悪』を求め、それを積み重ねていくしかない」との含蓄ある見方を披歴している。わたし風に国際社会なるものを言い換えると、「やくざな国家群が入り乱れて生息している複雑きわまりない社会だ」ということになろうか。ともあれ、品行方正なる存在とは程遠い国家に、過度な期待を抱いてはならないといった見方がこの本の基底部をなしているように私には思われる。
元慰安婦とのやりとりを紹介した一行には思わず涙せざるを得なかった。慰安所で重い病気にかかった時に、日本の軍医が一所懸命に治療をしてくれたというくだりだ。そのことを彼女は「大沼先生ね、わたしを地獄に連れてったのは日本人だった。でも地獄から救ってくれたのも、日本人だった」と語った、と。この言葉に日韓の関係の多くが集約されているような気がしてならない。
「歴史認識」を今の時点で考えるうえで、この書物はとても得難い深い内容を含んでいる。多くの若い人たちに読むことを勧めたい。私は衆議院議員として、外交・安全保障の分野での議論に数多く参画した。しかし、「人権」をめぐる大沼さんの闘いには、残念ながら殆ど〝参戦〟できなかった。何人かの他党の先輩議員の協力的活躍が紹介されているくだりを読むにつけ、〝不戦敗〟だった自分を恥じざるをえない。
【他生のご縁 9-11直後に大沼宅でJ・カーチス氏交え懇談】
同い年だった大沼保昭さんとの思い出は数多くありますが、中嶋嶺雄先生のアジア・オープンフォーラム京都会議が初の出会いでした。立食パーティで、しばし話し込みました。以後、「9-11」直後に大沼さん宅に招かれて、政治学者のジェラルド・カーチス氏とご一緒したことは忘れられません。米国人の怒りを直接リアルに思い知らされた場面でした。
東京大学での最終講義にも駒場キャンパスまで聞きに行きました。また愛娘の瑞穂さんが参議院選に出馬する際には、あれこれと先輩議員としてのアドバイスもさせて貰いました。こうしたお付き合いのベースには市川雄一さんと大沼さんとの信頼関係があり、私はそのお相伴役に過ぎませんでした。
Filed under 未分類
(114)『エセー』と過ごせば暑い真夏の夜も……ーコンパニョン『寝る前5分のモンテーニュ』
暑い日々が続く。熱帯夜の中で、トイレに行ったのちに、汗にまみれた肌着を取り換え、二度寝をする際の気持ちよさ。こんなことはかつてなかった。要するに私も歳をとったということなのだろう。1999年に思いたって、足掛け17年にも及ぶ長い時間、この読書録を書期続けてきた私だが、まことに楽しい経験を積み重ねてきたものだと思う。歳をとることは時に辛く寂しいものではあるが、また一面、滅法面白くこころ踊ることでもある。本との出会いも老いて益々盛んになってくる。嬉しいことだ。私は、ずっと新聞、雑誌の書評欄や友人、知人の勧めなどから読む本を選んできた。このため、どうしても古典がなおざりになり、今流行りのものに手が向きがちになるのは否めない。でも、時に古典の凄さを教え、誘ってくれる本との出会いから、原典に立ち向かう喜びに直面することもある。アントワーヌ・コンパニョン(山上浩嗣・宮下志朗訳)『寝る前5分のモンテーニュ』を読んで、ついにモンテーニュ(宮下志朗訳)『エセー』の深みにはまるに至った▼「エセー」入門という副題を持つこの本は、もとは「モンテーニュと過ごす夏」あるいは「ひと夏のモンテーニュ」といった風な訳がなされるものだが、訳者たちが入門書を強調するべく「寝る前5分に読む本」とした。現にフランスのラジオ番組で今から3年前の夏に毎回5分、40回にわたって放送されたものを出版したという。生真面目な私は枕元に置いて、寝る前に一章ずつつまり5分間分だけ読むようにした。ただし、5分がいつの間にか長いものになってしまったことは言うまでもない。著者は前書きで「モンテーニュのいくつかの断章だけを紹介するというのは、わたしが学んできたすべてに、わたしが学生だったころに当たり前だった考え方に、まっこうから反する行いだ」と言う。ただ、そういうことは結構頻繁に行われており、「とてつもない暴挙」というほどのことではないと思われる。問題は殆どそういう試みが成功していないということである。しかし、この本は見事に成功しており、鮮やかな『エセー』手引書の役割を果たすものとなっている▼一度全体を読んだ後、『エセー』第一巻を購入し、そこに該当する数か所を拾い読みした。で、さらに訳者あとがきで、山上氏が勧める、死、他者との交流、宗教に関わる主題を扱う5つの章に限って再度読み直した。確かにコンパニョンは「引用文を明快に分析」してはいるが、「モンテーニュの思想について断定的な結論」を下すには至っていない。ゆえに、読み手の自由な発想による思索を可能にしてくれる。まず「抜けた歯」の章で、モンテーニュが25歳と35歳のときの二枚の肖像画と今の自分を比較して、若いころの姿が遠ざかって、死に近づいていることを、著者は引用している。で、歯をはじめ自分の体の部分のあれこれの不調に端を発し、やがて「最後の死」がすべてを奪い去るものだと言う。しかし、私はこの記述には物足りなさを感じる。むしろ少年、青年、壮年、そして老年期と幾つもの違う人生を楽しんだすえの結果としての死だという点を銘記すべきではないか、と考える。また、「他者」の章も面白い。「ことばとは、半分は話し手のもの、半分は聞き手のものだ」とのモンテーニュの文章を引用しながら、会話をテニスなど勝負を決するためのものと、友好を表現するものとに分けて、どっちにみなすかで、モンテーニュはその間を揺れているというのだ。確かに「他者とのつきあいが自分との出会いに役立ち、自己を知ることが他者と向き合う手段となる」との指摘は味わい深い。時に、一方的に自己主張をするばかりで、相手の言葉に耳を貸さない自分を思い起こし、恥ずかしい限りだ▼さらに「書物」の章は白眉だと思われる。「書物との交わりは、わたしの人生行路において、いつでも脇に控えていて、どこでも付いてきてくれる。老年にあっても、孤独にあっても、わたしを慰めてくれる」と、モンテーニュは、美しい女性と、心地よい男の友人という二つの交際との比較をしたうえで、三番目の書物との交際を最上のものとして挙げている。いや、美しい女との交際の方が、とか稀ではあっても男の友情の方が、などと無粋なことは言うまい。人生の流れの中でそれぞれが重要かつ得難いものではある。しかし、老年になればなるほど、書物の味がより勝ってくるとの予感は確かにしてくる。尤も、モンテーニュの時代と違って、今や活字文化から電子書籍へ、つまり印刷からITの時代へとの変化をコンパニョンは見逃しているのではないか。私にいわせれば、書物との交わりも捨てがたいが、同時にパソコンとの交わりも重要だ、と。書物を読み、読んだ本の中身を、こうしてパソコンを叩いて表現して他者に見てもらうなどということが、かつて考えられただろうか。まことに良い時代に生まれ合わせたものだと、こころの底から思っている。このように、このモンテーニュ入門書は、あれやこれやと想像の翼を広げてくれ、新たな創造の海へと誘ってくれるのだ。(2015・8・5)
Filed under 未分類
(113)山口対安倍の党首討論こそ聴きたかった━━栁澤協ニ『新自衛隊論』
元内閣官房副長官補で防衛省幹部だった柳沢協二氏から、かつて二冊の本が送られてきた。一冊は『新安保法制は日本をどこに導くか』という小冊子で、もう一冊は、『新・自衛隊論』という名の当時の新刊本である。これらと、以前に送って貰った『日米安保と自衛隊』という遠藤誠治氏責任編集になる本を共々に合わせ読んだ。かつて公明党が自衛隊の存在を巡って、「違憲の疑いがある」といっていた頃に親しくお付き合いをした、懐かしいジャーナリストの前田哲男さんや、紛争処理屋としての実体験をしばしば聴かせて貰った伊勢崎賢治東京外大教授らが登場する本で、なかなか読みごたえがあった。このうち、小冊子で、私が注目したのは、安倍政権に対抗する力をつけていくうえで大事なことは、「護憲派が戦争のことをリアルに語ること」であり、「防衛戦略を持つ護憲派になっていくこと」の二つを挙げて、締めくくっている点である。言い換えれば、彼がこのところ付き合っている「護憲派」が、戦争を机上で語るだけで、防衛戦略を持っていないことを痛感しておられるのに違いない。恐らくは彼らを啓蒙することに、新たな生きがいを燃やしておられるものとお見うけする▼『新・自衛隊論』の巻末に「変貌する安全保障環境における『専守防衛』と自衛隊の役割」という「提言」が収録されている。柳沢さんは相当にこの提言に入れ込んでいる風がうかがえて興味深い。私としては文字通り固唾をのみつつ熟読したが、覚醒させられることはあまりなかった。⓵21世紀はどういう時代か⓶日本防衛のあり方⓷国際秩序に対する日本の貢献⓸日米同盟における日本の立ち位置ーの4つのパートに分けて、その認識が示されている。それぞれ評価してみよう。⓵では、「米国の覇権の終わりと国際テロの広がり」という変貌する世界情勢の中で、日本は相も変らぬ冷戦時代の思考で対処しようとしていると、批判の矛先を向けたうえで、⓶では、相手国が攻めてきた場合にのみ、しかも外交で解決しない場合にのみ、相手国の侵入を阻止するためだけに武力を行使する、としてそれこそ日本の持つべき力としての「専守防衛」が強調されているだけ。⓷でも、武力の行使以外の別の道を考えることが求められているというだけで、民間におけるNGOの活躍が提示されていても、具体的な自衛隊の活かし方には殆ど触れられていない。さらに、⓸では日本は日本としての立場を確立し、アメリカとの間で戦略的な議論を闘わせることを指摘するといった平凡なことに終わっている▼これを読んでいて私は、公明党が約40年前に世に問うた『領域保全能力構想』を思い出した。領土・領海・領空の領域を保全するために、日本列島の水際で、敵の攻撃を防御するときにのみ武力は行使されるべきだというものである。「合憲の自衛隊像」を描いたものとして当時は注目された。今回の安保法制における、日本防衛のイメージは、公明党のかねての構想にいう水際が少し外縁に伸び、領域概念が拡大した感は否めない。このあたりの説明はもっとなされていいだろう。また、柳沢さんらに問いたいのは、「非戦のブランド」を守ることが必要だといいつつ、いくつかの場所で武力行使の必要性にも触れていることだ。「(武力行使について)そこまでは否定しませんが」というのでは、「非戦のブランド」が泣く。それなら「不戦」とするべきである。よもや「非戦」は比喩に過ぎぬ、とは言わせない。ともあれ、参議院での野党の安保法制批判が実のあるものになることに期待したい。尤も、野党議員の質問力に期待するよりも、憲法学者対国際政治学者の学者論戦やら、朝日新聞社対読売新聞社のメディア対決の方が面白いかもしれない。しかし、それよりも山口那津男公明党代表と安倍晋三首相の安保法制を巡る党首討論こそ聴いてみたかった。当時の両党間の協議録も公開してもらいたいが、それが無理だというなら党首討論か、特別委員会での両氏の対決でもいい。自公両党の主張は、どこがどう違っていたか、違っていた主張をどういう過程を経て合意形成に持ち込んだのか、はっきりさせてこそ真に成熟した連立政権といえたのではないか。そして、それがなされれば、一気に国民の安保法制理解は進んだと確信する。
【他生の縁 安保政策研究会で一緒に】
栁澤さんとは現役の時から、引退後の今に至るまでのお付き合いです。官僚を辞めたすぐ後に、朝日新聞に論考を発表されました。それを読んで驚く一方、なるほどと妙に感心したものです。挨拶に見えた彼に、防衛省OBで左からの論陣を張るとは、また考えましたね、と。
その後、文筆活動と共に、「自衛隊を活かす会」(略称)の代表として、元幹部自衛官や安全保障論の専門家と共に、日本防衛と国際貢献という二つの分野での自衛隊の役割を明確にする試みに取り組んでこられてきました。今「安保政策研究会」で私も一緒しています。
Filed under 未分類
(112)6-②一日五回の感動と笑いで健康長寿をゲット━━高柳和江『笑医力』
◆寝起きから就寝までの感動をメモに
このところ朝起きるのが楽しみだ。早朝ウォーキングをして、仕事に出かけるという、いわゆる今日用(教養ではなく、今日用事があること)と今日行(教育ではなく、今日行くところがあること)に満たされているということだからではない。一日に五回感動して、五回笑おうという自らに課したテーマが起き抜けに証明されるからだ。床についてから目を覚ますまで一度もトイレに行かずにいたなんて、朝イチバンの感動だ(80歳近くなろうとすると、どうしても、ね)。
今朝なんてホッとするやら喜ぶやら大変だった。手術するしかないね、といわれてた我が身の病状が夢の中のこと、と分かって。しかもその医者たるや、まったくその道に関係のない友人だった。ひとしきりベッドの中で一人笑った。こうした寝起きから寝床につくまでの感動メモをノートに記すってことは、やがて大きな体験に繋がるに違いない。
こんなことを試みるようになったのは、「笑医塾」塾長の高柳和江女史の強い影響による。彼女は私の高校の同期生。『笑いが命を洗います』ってタイトルの電子書籍を、10年ほど前に一緒に出版したことがある。心から尊敬する偉大な小児科医である。その彼女の手になる『笑医力』なる本をあらためて読んだ。「びっくりするほど健康になる」という副題つき。出版直後に「読書感想文書いてね」って彼女が言ったので、「違うよ。読書録なら書くよ」と、小っちゃな反発をしたものだ。あれからあっという間に月日が経ってしまった。ありきたりの「書評」は書きたくないと思いつつ、毎日の笑いと感動をメモるという試みに取り組んだものだ。日々の充実とはこうしたさりげない発見に基づく。
◆印象深い「常識を破る人たち」
朝のトイレチェックの感動を皮切りに、ある一日の5つのうちの残りについて紹介しよう。二つ目は、長い間行方を捜していた書類が書斎を整理しているうちに突然出てきたこと。嬉しかった。三つめ。先日、久しぶりに会う約束をしていた友人が、胃の調子が突然におかしいので医者に行くと言い出してキャンセルになってしまっていた。だが、検査結果は大丈夫だったとの電話があり、わがことのように喜べた。四つ目。新聞を読んでると、書籍広告欄に以前から気になっている民主主義の後にくる仕組みについて考えさせてくれそうな本が目に飛び込んできた。これはヒントになる。早速手に入れ、読んでみようと嬉しくなった。最後は、先日のブログ「後の祭り回想記」での、議員OBとの懇談や家庭訪問について書いたことに、大変感動したとのメールをいただいたこと。長い時間をかけて行った先々での実体験を書くことで感動の共有をしていただけることはとても有難い。
こういう風に「感動」は次々と沸き起こるものだが、本格的な笑いとなると結構難しいように思われる。高柳先生も、書いている。「最近、一緒にのけぞって大笑いした92歳の男性は、90年ぶりに笑った」って。ったく、笑わせてくれる。実際、どこにも笑う材料は転がってるのかも。彼女も「おやじギャグがきっかけに」と勧めている。私はもともと自分の本のタイトルに『忙中本あり』とつけてみたり、電子書籍の題名に『六〇の知恵習い』とか、はたまたブログのタイトルを『後の祭り回想記』にするなどと、ダジャレ風の、ものいいは嫌いではない。しばしば連発して家族から「昭和生まれ」と、ひんしゅくを買っているので、そろそろ卒業したいのだが簡単には収まらない。
「常識をうち破る人たち」の章が印象深かった。80歳を超えた岸恵子さんの話に始まって、100歳の現役サラリーマンの話まで、なかなか読ませる。その章の最後を高柳さんは「だって、人間は125歳まで生きられるんだから」と結んでいる。実際、彼女は若い。講演会などで「私は26歳で〜す」というのはいささか〝さばの読み過ぎ〟だが、「皆さんも今日は27歳よ〜」って(時々口にする年齢は変わるようだが)おっしゃる。参加者はまったくの嘘でも若く見立てられて、満更でもなさそうなのは面白い。かつて読んだ『103歳になってわかったこと』の著者の篠田桃紅さんが『百歳の力』という本を出版した。これは自叙伝だが、不思議な魅力がある。通常の人のすべて反対をやってる風に書かれてるところがミソだ。高柳さんも、きっと篠田さんぐらいまで生きそう。ン?でも彼女はその頃になっても、「私26歳よ〜」っていってるのかな。それは少々怖すぎる。
【他生のご縁 お蔵入りになった『現代古希ン若衆』の出版】
この人と私は高校同期、つまり同い年なんですが、それを大っぴらにすると怒られます。歳がバレるじゃない、と。確かに、爺さんと一緒にされるのは嫌でしょうね。若さこそいのちとばかりに動いているのだから、〝商売の邪魔〟になってしまう。
小学校から大学までの同期6人との対談集を、「新古今和歌集」をもじって『現代古希ン若衆』と銘打って出版しようとしたものの、高柳さんのクレイムで沙汰止みになってしまいました。これは受けると思ったのですが‥‥。そうこうしてるうちに喜寿も過ぎてしまった。
Filed under 未分類
(第2章) 第4節 許されざる内戦から対外戦への一本道━━安部龍太郎『維新の肖像』
日本人としての問題意識の共振
亡くなって40年近く経つわが父を,最近は思い起こし、息子たる自分と比較することが多い。何かにつけてうるさかったことや、ささいな仕草に至るまでそっくりだと家人に指摘され苦笑してしまう。そんな次元に留まっているうちはいいが、このところ少し妙なことに気づいた。両の手のひらに、しこりやきわめて小さなこぶのようなものができて皮膚がひきつる。これって晩年の親父が気にしていた症状とまったく同じ。幾度か手のひらを見せられたものだ。先年、整形外科にいくと医師が「デュピュイトラン拘縮」との診断をしてくれた。ひどくなると、切開手術をするという。「遺伝」の二文字を思い出し、切開するかどうかは寿命との競争だと考えざるを得ない。明治43年(1910年)生まれの父は、私が生まれた昭和20年(1945年)には35歳だった。その前年に赤紙が来た。”遅すぎる応召”に敗戦必至を予感したと、遠い日に聞かされた。
こういった私的な出来事を書き記すきっかけとなったのは、安部龍太郎『維新の肖像』を読んだからだ。直木賞受賞となった『等伯』を、法華経学者の植木雅俊さんから勧められて読んで以来、すっかりファンになってしまった。総合雑誌『潮』に連載されていた頃は気になりながらも読めず、今頃になって手にした。それは「明治維新」の位置づけを,最近しきりに考え出している自分の問題意識の影響と無縁ではない。朝河正澄(前の宗形昌武)と朝河貫一という実在の親子の物語を、二人の克明な対比と共に描いた小説は、「維新」の表と裏を浮き彫りにして、読みごたえがあった。戊辰戦争における二本松藩の壮絶な戦いを改めて突き付けられ、感じ入ったものである。
何がどこで間違ったのかとの問いかけ
朝河貫一は、米国・イェール大学教授に日本人として初めてなった歴史学者。著者の安部さんの主張と小説で描かれる貫一の想いが二重写しになって迫ってくる。息子・貫一は「明治維新は大化の改新とならぶ叡智に満ちた革命だと信じて疑わなかった」から、父・正澄の戊辰戦争に加わった行動は、時代の流れに逆行するものだとしか思えなかったのであろう。この貫一の考え方が、日露戦争以後、満州事変、上海事変の流れを通じて、日本が破滅へと向かう中での誤りとの認識に結びつく。
安部さんと貫一の二人に共通する問題意識は「日本はどうしてこんな国になったのか。何がどこで間違ったのか……」である。薩長史観と反薩長史観はこれまでも幾度かぶつかり合ってきた。これまでの結論は、日本の近代化にとって明治維新政府の強引な進め方は、それあったらばこそアジアで抜きんでた地位を築くことが出来た、というものであろう。功罪相半ばするが、功が上回っているとの受け止め方が〝通り相場〟だった。しかし、その流れが今激しく逆流しつつある。
こういったとらえ方を一段と高めてくれる役割をこの『維新の肖像』は果たす。関東軍の他国侵略の姿を「薩摩や長州が戊辰戦争においておこなった所業を、判で押したように繰り返している」ととらえ、「明治維新を美化し、彼らの自己正当化を許した史観や教育や世論が、こうした過ちを継続させる温床となった」と、息子・貫一は語る。それは即、今の世に続いているというのが著者の警告に違いない。この本を読んで改めて、維新前と維新後の日本文明の変容という問題に想いを致さざるを得ない。
かつて「戦後七十年を問う」という総合雑誌のシリーズ企画に、国文学者の中西進さんが「詩心と哲学こそが国を強くする」という印象的な小論を寄稿されていた。「日本はアジアの文明をすべて受け取ってきて拒否せず、たくましい創造性を発展させてきた」のだから、アメリカ型グローバリズムに劣ったりはしていないとの主張であった。確かに古来、日本は外国から流入してくる文明を受容しながら日本風に変容せしめ、独自の発展を遂げてきた。ただし、明治維新以来の150年余(2度にわたる「77年の興亡」)は、欧米文明との悪戦苦闘の時代であり、その〝戦果〟たるや混沌としており、未だ定まってはいない。新たなる地平を築くものこそ「詩心と哲学の復興」に違いないと思われる。
【他生のご縁 法華経学者の出版記念会で】
安部龍太郎さんに初めて会ったのは、先に触れた植木雅俊さんの出版パーティーでした。大変気さくな人で直ちに打ち解けました。すでに法華経の凄さを植木さんから伝授されておられて、その会でも鮮やかな挨拶をされました。後にNHK『100分de名著』に植木さんが担当した「法華経」の最終回にも登場されたのは印象に残っています。
安部さんは昨年晩夏に、朝河貫一と徳富蘇峰を描く『ふたりの祖国』を、公明新聞紙上で連載をされ始めました。直ちに、喜びを現す書状を送りました。「浅学非才の身には重すぎるテーマですが、書いておかなければならないという使命感で取り組んでいます」との返事が返ってきました。
Filed under 未分類
(110)心理学と仏法哲理の共通点は「他者貢献」
易や手相などを若い時から時々見てもらってきた。高島易学のコンピューター占いや手相占いをしてもらって、その強運を指摘されたこともしばしばだった。何でも気分よく前向きにとらえる性格が功を奏しているということなのだろう、と勝手に思い込んでいる。先日は、色彩心理学の使い手にヒューマンカラーカウンセリングをしてもらったのだが、面白い結果を得た。「色は心を語ってくれる」「あなたのイメージカラーは」という呼びかけで、クレヨンで紙に6か所、色を塗っただけ。どの色をどこの場所にどの順に塗ったかが判断材料なのだが、後日頂いた見立ての結果は、見事なまでに当たっていた。「正直でまっすぐな性格の人です」とか「急に思い立った言動はさけて、一息入れてから」などといったカウンセリングには、笑ってしまった。いかにもその通りだからだ▼中学校時代からの親友で、今は臨床心理士をやっている志村勝之と私は、昨年『この世はすべて心理戦』なる対談を電子本で発刊した。少々小難しい中身になっているものの、カリスマ・カウンセラーなる異名を持つ彼の発言部分は極めてためになる。カウンセリングについては、現代心理学の先達たちの所産をかなり詳細に追求しているのだが、色彩心理学について触れなかったのは惜しまれる。その彼がフロイト、ユングよりも高く買っているのがアドラーだ。このほど岸見一郎、古賀史健『嫌われる勇気ー自己啓発の源流「アドラー」の教え』を読んだ。これを読む気になったのは、無類の本好きの友人の机の上に置いてあったからだけというのだから、「正直でまっすぐな性格の人」の「急に思い立った言動」にふさわしい▼この本は、哲人と青年の対話形式から成り立っている。アドラー研究者の哲学者・岸見さんと、フリーランスライターでアドラーに関心を若き日より持ち続けてきた古賀さんとの真剣勝負だ。アドラーについては志村との対談で初めて知った程度であった私だが、この本で大いに親近感を持つに至った。現代心理学が哲学、宗教の分野と大いなる共通点を持っていることはあまねく知られている。この本でも結論部分に、アドラー心理学が、自由なる人生の大きな指針として「導きの星」というものを掲げ、その方向に向かって進むことが幸福への道であるとしていることはきわめて興味深い。この星こそ、「他者貢献」だという。日蓮仏法でいうところの「自行化他」における「利他行」に通じる。つまり他人に利益を施す、いわゆる菩薩道的行為を指す。岸見哲人は、「『他者に貢献するのだ』という導きの星さえ見失わなければ、迷うことはないし、なにをしてもいい。嫌われる人には嫌われ、自由に生きてかまわない」とも。「世界とは、他の誰かが変えてくれるものではなく、ただ『わたし』によってしか変わりえない」という記述を読み、私自身が若き日に仏法を知った頃に抱いた確信がよみがえった▼本書の題名の「嫌われる勇気」については、志村と交わしたやり取りを思い起こす。彼は、「他者の評価を気にかけない」というところが、本当の自由な生き方に繋がる最大のポイントだ、お前はいささか他者の評価を気にし過ぎていないか、と迫った。「他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫けない、つまり自由になれない」というのが、アドラー心理学の核心だ、とも。私は、政治家として「他者の評価を気にせざるを得ず」、「他者から嫌われたくない」との思いがどうしても先立ってしまうことを、口にせざるを得なかった。赤松個人としては、他者の評価や嫌われることは一向に気にならぬのだが、政治家としては、と。このあたり、結局は政治家として大成せず凡庸な身で終わったものの”引かれ者の小唄”ということなのだろう、と今は自らを慰めているのはいささかさみしい気もする。(2015・7・15)
Filed under 未分類
(109)69歳になっても未だ分からないことだらけ
淡路島出身で今は東京中野区に住む私の友人がいる。先日ほぼ6年ぶりに電話をしてみた。私の声を聞くなり、「赤松さん、あれから私すごい体験をしたんです」と言う。何だって、と聞いてみると、今から5年前、彼が50歳の時に初めての子どもを授かったというのだ。奥さんは当時45歳。それだけではない。生まれ故郷の淡路島にいた彼の母親が、その1年前、つまり、6年前にすい臓がんを患い、死を覚悟した闘病を余儀なくされていた。看病のために東京から駆けつける彼の妻に対して、その母親は、「思い残すことはお前たちに、子どもがいない(彼は一人息子だから孫がいない)ことだ。私は死んだら、お前たちの子どもとして生まれ変わりたい」ーそう何度も口にしたという。死後まもなく彼女は妊娠して、母親の死後一年ほどが経って、かわいい女の子が誕生した。そしてその性格たるや死んだ母親にそっくりという。彼は間違いなく母親の生まれ変わりを実感している、と▼「永遠の生命」を口にしている私だが、このような体験談を稀にせよ聞くと,改めて確信せざるをえない。心底から感動した。あの6年前に彼と中野のとあるカラオケ喫茶で歌い飲んだ時に、そういえば、子どもの授かり方を私が先輩からの話や体験を通じて話したものだ。それを彼は忘れてしまい、話した当の私もその後彼のすごい体験を聞く機会を失っていたとは、悔やまれる。そういう不可思議な感動をした直後に、篠田桃紅『一〇三歳になって分かったこと』を読んだ。「『いつ死んでもいい』なんて嘘。生きているかぎり、人間は未完成」という言葉にしびれてしまって。69歳になっても分からないことだらけの私としては、タイトルにも惹かれた。かねて私は、音楽や美術など芸術に打ち込むひとの生き方に強い関心を持っている。我を忘れる時間を長く持つのが共通しているかのように思われる。別に芸術でなくても良いようなものだが、終わりがなさそうなだけに、そう思う度合いは強い。篠田さんは、そのあたりについて「人というものが、どういうものであるか、わからないから、文学、芸術、哲学、さまざまな活動をして、人は模索しているのです。なんでこんなことをやるのだろう、ということを一生懸命やっているのです」「なにかに夢中になっているときは、ほかのことを忘れられますし、言い換えれば、一つなにか自分が夢中になれるものを持つと、生きていて、人は救われるのだろう」と述べている。夢中になって、時間を感じない時に、人間はよく生きてるなんて。これほどの逆説があろうか▼人はどうしたら幸福になれるか、のくだりも興味深い。今日までの100年余の人生を通じてのあれこれを述べ、「黄金の法則」はないのでしょうか、と自問したあと、「自分の心が決める以外に、方法はないと思います。この程度で私はちょうどいい、と自分の心が思えることが一番いいと思います」と、結局は平凡な答えなのだが、この人が言うとぐんと重さを感じる。また、死の恐怖について、若い友人から「どうしたら怖くなくなるか」と問われて「考えることをやめれば、怖くない」と助言したとある。さらに、その項の最後に「人は老いて、日常が『無』の境地にも至り、やがて、ほんとうの『無』を迎える。それが死である、そう感じるようになりました」とも▼ここらあたりは、69歳のしかも永遠の生命を信じ(たい、というほうが正確かもしれない)ている私などは異論が鎌首をもたげてくる。「無」の境地とは、何だろうか、と。それは「空」とどう違うのか。「無」は一切を生み出さない表現だが、「空」は無限の可能性を秘めた状態をさすものだと思う。目には見えないからといって「無」と言えるか。人の人生も、「死」とは、何もない「無」ではなく、次に繋がる「空」かもしれないのでは、と。こう考えると、怖いというよりも次の生が楽しいものになってくるはず。冒頭に紹介した友人のおふくろさんなど、差し詰め病床でしきりに息子の子になることを夢見ていたのではないかだろうか。この夢想は、思わず微笑みがわき出でてくるのだが、さてどうだろうか。(2015・7・10)
Filed under 未分類
(108)戦後左翼たちを虜にした『資本論』の今風読み方ー佐藤優と池上彰
長く生きていると不思議なことに出くわす。かつて大学時代にマルクスの『資本論』を読むかどうか悩んだ末に、手にはしたものの殆どわからないで放置した。それが50年ほど前。その後、共産主義国家ソ連の崩壊とともに、「やっぱりね」と『資本論』を捨てた自身のかつての選択に自信を深めた。それが20年ほど前のこと。で、それもつかの間、今再びの『資本論』の季節の到来なのだから。尤もその登場の仕方は、共産主義、その柔らかな姿形としての社会主義の復活としてではなく、資本主義のなんたるかを分かるためのものとして、である。つまりは、かつては資本主義と決別するための座右の書であった(そういう活用の仕方が喧伝されていた)ものが、今は資本主義を再発見するためのものとしての地位を獲得しつつあるかのように見える。そういうことをあらためて自覚させてくれたのが佐藤優『いま生きる「資本論」』であり、佐藤優・池上彰『希望の資本論』だ▼この二人は今の現代世界に起こっていることを何でも見事に解説して見せ、それぞれの分野の専門家と対談し、そしてまたそれらの所産を本に表すということをやって見せている双璧に違いない。かたや外務省、かたやNHKで禄を食んだご両人だが、双方の出身母体からは、やっかみとくやしさ半分で、評価する向きが少ないと見える(私の友人たちだけかも)のは、この世のありようを感じさせて面白い。佐藤さんはどちらかといえば男性や大人の向学心の強い向き、池上さんは女性や若者の物知り好きの連中に好まれている節がある。それなりに棲み分けしているようでいてこれがまた面白い。『資本論』ものでいうと、池上さんには『高校生から分かる「資本論」』なるものがあるが、私なんかにはクセがある佐藤ものが好みだ。『いま生きる「資本論」』は、売る側の宣伝コピーによると、「人生を楽にする白熱&報復絶倒講座」というのだが、あながち過剰広告ではない。例えばこういうところだ。マルクスは、働き手に専門性がない場合は、「いくら人間としていい人であっても、代替可能な商品として扱われる」。だから、今の世では、「いかに資本主義システムの中で、そんな扱いを受けずに済むか」という指南書を書けば、よく売れる。経済評論家の勝間和代さんが「コモディティになるな、スペシャリストになれ」といい、「資本家」になれとはいっていない。「熟練労働者」という代替できない存在になれ、といってるのは、そういうことなんだ、と。続けて、尤も、彼女の自己啓発本は難しくて、なかなかその通りには実践できない。それに比べて佐藤が書いた『人に強くなる極意』は全部自分で実践したことしか書いていない、と。ちゃっかり自己宣伝も忘れていないのだから、抱腹とまではいかないまでもかなり笑える▼佐藤、池上の対談本の方もまるで”知的漫談”の趣すら漂う。いちいちは挙げないが私として嵌ってしまったのは、第六章「私と資本論」のくだり。とりわけ、革マルと中核派の内ゲバの実態や、既成左翼政党との佐藤氏自身の距離感を描いて見せているところなど興味深い。「革マル派の場合は、ベースは一応宇野経済学や梯明秀の経済哲学ということになっていました。中核派はどちらかというと、理論よりも、日本の任侠団体の歴史などと合わせて見たほうがいい」とあったのは門外漢の私としては意外だった。以前に私のブログ『忙中本あり』で『革共同政治局の敗北』を取り上げた(「ある左翼革命家の敗北と新たなる旅立ち」)が、あの本の著者の一人・水谷保孝はとても任侠道とは縁遠いと表面上にせよ見える男だからだ▼先日、佐藤優さんの崇拝者でもある柏倉義美氏(彼は元早大革マル。今は創価学会地区部長という変わり種。なかなかの知識人)が偶々書店で川上徹『戦後左翼たちの誕生と衰亡』を見つけ、その中に水谷保孝氏が載っていると知らせてくれた。去年の一月に出版されたもので、10人の新旧左翼活動家へのインタビュー構成なのだが、こんな本の存在は知らなかった。水谷は教えてくれなかったのだから、まったく水臭い。「次なる作品にこそ人間・水谷の生の声を期待したい」などと私が先のブログに書いたのに。彼は「(早稲田大の)雄弁会で初めての左翼の姿、ナマノ姿を見」て、「左翼って傲慢だなあ」と思いながらも「あらゆる権威に対する生きた批判精神を見た気がし」て、自分のそれまで育ってきた文化との違いを感じたと述べている。「あらためてマルクスを読まなければいけないな」と思ったというのだ。「60年安保闘争の敗北をのりこえる、戦後民主主義を打破する、社会党・共産党に代わる党をつくる、これがキーワードだった」とも。彼は本多延嘉という先輩活動家の影響を強く受け、その後の人生を決定づける。そして槇けい子(旧性)という左翼活動家と出会い、結婚する。彼女はたった一人の女性としてインタビューに答えているが、夫・水谷保孝がインタビューされると知って、自分も、と名乗り出たという。このあたり夫婦の妙なる関係を表していて、私には水谷らしいと思えた。ともあれ、初めて戦後左翼の生の声を聞けて、とりあえずは満足している。(2015・7・5)
Filed under 未分類