(100)真田幸村、後藤又兵衛らの「男の美学」に酔う

家康が死んで今年は400年になるとのこと。1615年のことだから、関ケ原の戦いから15年ほどが経っていたことになる。大阪冬の陣から夏の陣の二つの戦いが決着を見て、数年の後に家康は永遠の眠りにつく。信長、秀吉、家康と戦国末期を彩った3人の軍事・政治的天才を比べてみて、死後260年近くも徳川の時代を永らえさせた家康に強い関心を持たざるを得ない。先日たまたまNHKのETV特集で司馬遼太郎の小説『城塞』上中下3巻を、識者4人で読み解く公開番組をやっていたのを見た。司馬さんの小説はそれなりに読んできているのだが、この本は未読だった。番組に登場した女優の杏さんや建築家の安藤忠雄氏らの興味をそそる話につい魅せられて、この小説を読む羽目になった。その場で誰言うことなく語られた「主人公は人ではなく大阪城だ」という一言も大いなるきっかけとなった▼家康を描いたものは山岡壮八さんのそれを遥か昔に読んだことがある。印象に残っているのは、その権謀術数の展開と三河武士の団結の固さである。およそ考えられる手練手管の限りを尽くした家康の天下取り。そしてそれをも凌ぐ死後の徳川幕府の繁栄を考え抜いた打つ手の見事さ。企業、団体の組織運営を考えるうえでいつも参考にすべしと言われることが多いが、俯瞰的に見て自然に思われる。だが、個別具体に見るとおよそ嘘偽りのオンパレードであって、決して美しいものではない。『城塞』でもこのあたりの家康の描き方は露骨なまでにえげつない。ただ、歴史上で大をなした人間を見るうえで大事なことは、その人生のどの部分に焦点を当てるかだろう。信長に仕えて草履取りの身から天下取りをするまでの秀吉は、鯉の滝登りのように鮮やかだ。朝鮮出兵から死の直前までの晩年とは人がまったく別人のようだ。同様に、若き日の家康とこの大阪城攻めの頃の家康とは、大いに趣きを異にしている▼その点で、真田幸村、後藤又兵衛といった中堅のリーダーの描かれ方は一貫して男の美学に貫かれており、読むものをして大いに興趣をそそられる。真田幸村については来年のNHK大河ドラマで取り上げられる。かつて子供のころに杉浦茂さんの漫画(『真田十勇士』だったと記憶する)に血沸き肉踊らせたものだ。猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、筧十蔵、穴山小介、根津甚八、由利鎌之介、海野六郎、望月六郎らの名前が浮かぶ。今でも九人の名前が出てくるのだからよほど興奮して読んだに違いない。真田一族について書いたものでは、私は池波正太郎の『真田太平記』が好きだ。来年までに読み直してみたい。ともあれ、この『城塞』でも最後の最後まで数で圧倒的に優位な家康を追い詰める幸村はまことにかっこよく、胸すく思いがする▼もう一人のヒーロー後藤又兵衛も印象深い。人生最後の死に場所を得て縦横無尽に力を発揮する又兵衛はまことにすごい。ある意味で隠れた主人公はこの人かもしれない。黒田官兵衛に仕えながらも晩年はその息子長政との折り合いが悪く牢人となってしまう。その又兵衛が豊臣家のためにその軍事的センスを生かして死闘を尽くす姿ほど小気味いいものはない。この人物が播州・姫路の生まれであるということにも同郷者としての感情移入が当然あろう。官兵衛もいいが、又兵衛もいいのではとつい思ってしまう。家康の孫にして秀頼の妻だった千姫は、大阪城落城の後に姫路城の城主・本多忠刻のもとに輿入れする。このあたりも含め姫路ゆかりの歴史上の人物は悲劇に彩られた人が多いように思われるのだが、歴史散歩として十二分に楽しめて満足している。(2015・5・27)

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【99】2-② 読みたかったイラク戦争への反省記━━岡崎久彦『国際情勢判断・半世紀』

◆自伝の趣き漂う貴重な遺産

 新聞記者を経て政治家となった私にはお蔭様で学者、文化人に知り合いが多い。中でも「新学而会」という学者、知識人10数人で構成された勉強会(政治家も数人参加)は、私にとって大きな「知的栄養供給源」となった。呼びかけ人は私の学問上の恩師である故中嶋嶺雄先生(元東京外語大学長、前秋田国際教養大学学長)で、産経「正論」の執筆者らを中心に名だたる論客が隔月の定例会に集まってきておられた。その中での一方の旗頭が元外交官で評論家の故岡崎久彦さんだった。何回も食事を共にしながらご高説を聞いたものだ。

 2014年10月に亡くなられたから、もう10年近い歳月が流れたが、最後に書き残されていたものをまとめた『国際情勢判断・半世紀』が逝去後に出版された。ご夫人がそのあとがきに「家庭人としては本当に手がかかる大変な人でした」「自説を曲げない性格」「他人の意見を聞かぬ人であります」と書いておられるが、さもありなんと、大いにうなずいてしまったものだ。

 この本は自伝の趣きがあり、人間・岡崎久彦、外交官・岡崎久彦を改めて知る上で貴重な遺産となっていて、利用価値が高い。巻末にこの人の主な著作として30冊の単著があげられているが、『なぜ気功は効くのか』といった趣味の分野のもの1冊を除いて、残り全てを読んだものにとって、ダイジェスト版を目にするようでまことに意義深い。かねがねこの人に近くで接して、迫ってくるものは、ご自身の氏育ちに対する強烈なまでの自負心であると思われたが、第一章の「岡崎家に生まれて」の少年・学生時代のくだりを通じてまことに納得した。古き良き日本の香りはこういう家系に育った人から漂ってくるものだろう、と。

 外交・防衛の分野で仕事をしてきた私は多くの人から岡崎評を聞く機会にも恵まれたが、おおむね外務省の人間のそれは冷ややかなものが多かったと記憶する。曰く「あの人は外交官としての仕事をせずに本ばっかり書いている」「言いたいことをいい、書きたいことを書いて本当に幸せな人だ」といったような。この本の中で、なにゆえに自分が外務省の中の正統派から外されてきたかが詳しく書いてあり、改めてなるほどなあと首肯した。また、サウジアラビアやタイの大使時代に通常の対外的な仕事は公使以下の部下に任せて、大きなことのみに手を下すだけで、あとは本を読んだり書いたりしていたと、正直に明かしている。これでは評判が偏って当然かもしれないと妙に納得できた。また、宮澤喜一元首相をほぼ無視したり、後藤田正晴氏を「怖いが、信頼していませんでした」と切って捨てているあたり、信念を曲げぬこの人の真骨頂ぶりを強く感じる。

◆情勢判断を間違っただけで済まされるのか

 『隣の国で考えたこと』や『戦略的思考とは何か』といった初期の作品から、私は国際政治への手ほどきを受けた。また、陸奥宗光から吉田茂までの六人を描き切った『外交官とその時代シリーズ』全五巻や『百年の遺産 日本近代外交史七十三話』といった彼のライフワークともいうべきものからは知的刺激を受けまくった。その視点はまっとうな保守の立場に立脚したもので、過去に中道左派とでも言うべきスタンスをとってきた公明党の一員として大いに参考になった。しかし、岡崎さんが晩年に至るまでの様々な論考で、あくなく繰り返し説かれた「集団的自衛権を行使可能にせよ」との主張にはいささかうんざりもした。

 私は岡崎さんがあのイラク戦争の際に、アメリカの侵攻の結果、近い将来にかの地に自由と民主主義の旗が燦然と翻る時がくる、と述べられたことが忘れられない。国際情勢の判断をなりわいにされているのなら、自分の見立てが間違ったということを天下に明らかにしてほしい。寡聞にして私は岡崎さんがそれをしたということを聞かないままお別れしてしまっている。

 そこで、この本のなかに何か見いだせるか、とひそかに期待をして頁を繰った。しかし、ついに直接的には出くわさなかった。尤も、台湾の情勢について述べたくだりに「客観的見通しを話しているだけで、もしそうなっていなかったら、私の判断が間違っているだけの話だ」とあった。イラク戦争後の中東の見通しについても、現在の悲惨な事態を予測し得なかったのは、岡崎が間違っただけの話だということかもしれない。ただし、私としては、岡崎さんの〝反省記〟も読みたかったと心底思う。

【他生のご縁 一貫して無視され続けたわたし】

 岡崎久彦さんの本を私が読みまくった理由の一つは、市川雄一元公明党書記長の影響があります。市川さんは岡崎氏の学識の深さを高く評価しておられたからです。かつて、国会論戦で切り結んだ関係を懐かしそうに語っておられたのは忘れ難い思い出です。私はその辺りのことをこの人に話したことがありますが、全くと言っていいほど関心を示されませんでした。

 前述した「新学而会」でご一緒しましたが、つれない態度に終始されました。安倍晋三元首相が珍しくこの会に出席したことがあります。その時ばかりは、岡崎さんがいつになく、はしゃいでおられるかに見え、妙に納得したものです。

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(98)満州国の興亡の陰に咲いた日本史のアダ花

長い長い物語を書き終えて、そこで力尽きたかのように亡くなった作家がいる。船戸与一さんだ。私個人は直接会ったことはない。しかし、彼と親交を深めていたひとが身近にいる。市川雄一元公明党書記長である。自ら作家志望であったことを折あるごとに語り、「書きだしの研究」なる大変に興味深い小論をものしているひとだけに、作家との交流も少なくなかった。とりわけ公明新聞編集主幹時代に新聞小説の連載を依頼するべく名だたる作家と次々と会っていた時期がある。そのうちの一人が船戸さんだ。船戸さんは、市川氏が如何に彼の作品を深く読んでるかについて讃嘆していたという。その市川氏から勧められ、随分と苦労しながら私が読み続けたのが『満州国演義』全九巻だ。第一巻の「風の払暁」が出版されたのが07年4月だからもう8年前。以来ほぼ一年に一冊づつ出されてきた▼このたび最終巻の「残夢の骸」を読んでる最中に訃報を聞き、慌ててそれまでのちょびちょび読み進めるのをやめて一気に読み終えた。原稿用紙7500枚、一冊500頁平均だから4500頁の本は書くほうは当然のことながら、読むほうも大変である。昭和3年から説き起こされ、終戦の20年までの昭和史を満州ー中国東北部で起きたことを中心に描いたこの小説は、私のような戦後世代にとって一番の盲点ともいうべき時代を扱っている。満州地域については、戦前戦後に生きる日本人にとって大きく軽重、浅深が分かれる関心事だと思われる。満州に理想郷を夢見た人々はすべてを擲ってかの地に渡り全人生を賭けた。一方、秀吉いらいの日本人の野望を苦々しく見ていた人たちは、戦後の引き揚げひとつにも冷淡な思いを持った。船戸さんは、この小説に太郎、次郎、三郎、四郎という4人の兄弟を登場させ、外交官、馬賊、憲兵、演劇学徒という4種の身分をあてがって、それぞれの視点から描くというユニークな手法をとっている▼満州国の興亡というテーマはそれなりに十分に面白く、日本が明治維新から80年にわたる軍国主義の歴史の行きつく先を描いて果てしない。その中でやはり”脱日本の風景”をくまなく味合わせてくれるのは次郎の世界だ。私はかつて中村三郎天風先生の謦咳に接する機会がほんのちょっぴりとだけあった。この人はかつて満州の沃野を馬賊の一人として疾駆した経験を持っていただけに、なんだか次郎が登場すると、天風先生とダブって見えた。ともあれこの小説は、明治という時代の暗部が破綻するさまを、”殺しと性行為と食べる”という人間の本能の赤裸々な展開を隠し味にして物語っていると云えよう。9冊を前にして、その3本能の露骨な表現のみが蘇ってくるというのも恥ずかしい気がするのだが▼つい先ごろに読み終え、ここにも取り上げた『明治維新という過ち』では、テロリストとしての吉田松陰や如何に薩長・維新政権が残虐非道の行いをしたかが説かれていた。それに比してどれだけ会津が悲劇のヒロインやヒーローの地であり、爽やかな士道の担い手であったかが語られていた。実はこの『満州国演義』の冒頭に、「会津戊辰戦史」の一節から船戸さんが想起した場面が描かれている。これこそ全編に基底音として奏でられる哀しい響きだ。会津の女を凌辱する長州の男の破廉恥な姿は、この本の中で形を替え、姿を変えながら繰り返し登場する。この場面は重要な伏線をなしているのだが、あたかも「明治維新の過ち」が原因となって、結果として「昭和前史の過ち」に結実していったことを予兆しているかのように思われ、興味深い。(2015・5・15)

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(97)6-③ 薬剤師の誇りと由来を謎解きのごとく━━山本章『医者が薬を売っていた国日本』

◆医薬分業の歴史をわかりやすく

 薬というと誰にも、それこそ苦い思いをしたり、晴れやかな気分にさせられたりと、いっぱいの思い出があろう。少し前のことになるが、酒を飲む席で、歯痛がどうしようもなく酷くなった。ビールや酒、焼酎などを呑んでる最中に、痛み止めの薬をつい一錠だけ飲んだ。この後どうなったか。いやはや、思い出すだに辛い。就寝前に歯を磨いた途端、つまり薬を飲んでから5時間後くらいだったろうか、口の中が唇から舌までちょうど歯の治療時に麻酔を打たれたと全く同様にしびれだしたのだ。そして約30秒後歩くことも出来ぬほどの酩酊状態が起きた。以来二日間に亘って断続的に同じような症状が起こり、大変な思いをする羽目になった。

 医師に問診を受けても直ちに原因などは分からない。めまいのための薬を呑んでも全く効かない。脳梗塞ではないかとなって、CTやMRIなどを撮って調べたが、特に異常はなし。結果は「酒のせい」ということになり、やがて自然治癒した。

 こんな極端な例とは正反対にそれまでの苦痛からウソのように解放されたことも勿論多々ある。しかし、大筋は、〝効くもくすり、効かぬも薬〟というところかもしれないというと、薬剤師さんに怒られようか。私の周りには薬剤師出身の元衆議院議員や元神戸市議会議長らの友人、知人が少なくない。その筆頭とでもいうべき人物が8年ほど前にすごい本を出した。山本章『医師が薬を売っていた国 日本』である。

 これは日本における医薬分業の歴史を、きわめて分かりやすくかつ専門家の批判にも十分に応え得るように解説した画期的な書物だ。本人は薬剤師学徒や薬局関係者に読んでほしいと言っているが、これは薬を飲んだことのある人がみな読むべき本であると心底から思う。というのは、なぜ医薬分業が日本でかくほどまでに遅れて実現をみたのかが、あたかも推理小説を読んでいるかのように引き込まれつつ分かる仕掛けになっているからだ。

◆医師絶対化への問題提起

 謎解きをするべく著者はそれこそ時空を超えた旅に出るが、これがすこぶる楽しい。スイス・サンセルグから始まりフリードリッヒ二世の十字軍遠征につき合わせられる外遊──さながらこれは歴史散歩だ。また、日本全国の薬剤師の先達たちの足跡を追う旅は、知られざる逸品の苦労話の連続で、目からうろこならぬ、近眼にコンタクトを着けた趣きである。しかも適時、落語からの落し噺が出てきたり、「徒然草」からの兼好法師の言葉が顔を出し、おまけに自作の短歌まで幾つか披露されている。まさにほどよい癒しを感じた。

 医薬分業について少し私の感想を述べたい。正直、普通の暮らしの中で薬剤師の力を実感することはこれまでなかった。で、ご多分にもれず〝医師絶対〟の基本姿勢で、今日まで来たことは否めない。つまり、長い時間待って僅かな時間の診察のすえに医師が処方したものを、また薬局へ行ってそれなりに時間を費やしたうえで貰うのは、どう考えても時間の浪費だと考えてきた。医師が処方したついでに薬も渡して貰えばいい、と恥ずかしながらつい先年まで思ってきていた。今でも時々思わぬこともない。それは調剤薬局といいながらいわゆる調剤をしているのか、単なる出来合いの薬を棚から探し出すにしては随分と時間がかかるではないか、などと疑問を感じてきたからだ。

 本当に医師と薬剤師が対等に分業してやっていけるのか。だいたい、医師が処方したものを探し出すだけではないのか、などとかなり辛辣で傲慢な見方をしていたのである。それがこの本を読むと一変した。種明かし、謎解きを読まない人にするべきでないので控えるが、私の積年の疑問がほぼ解決した。ただ、山本さんにここまで期待されたうえで、本来のあるべき薬剤師の姿を明示された結果、現実の薬剤師さんたちの仕事ぶりがそれに見合ったものになるかどうかについては、いささかの不安と不審が残るとだけは言っておきたい。いつぞやも薬剤師資格を持たない人に、調剤させていた薬局の存在が報じられていたことだし。

【他生のご縁 奥行きの深さと軽妙洒脱さと】

 山本章さんは、姫路市で1945年に生まれた私と同郷の同い年です。幼い頃に両親を共に肺結核で亡くされ、養父母に育てられました。ご自身も若くして同病に罹り、落第を経験するなど辛酸を舐める苦労を重ねた末に、京都大学薬学部に進み、のちに旧厚生省に就職。最終的には麻薬課長を経て、製薬会社に天下るという薬と縁の深い人生を過ごしてきました。

 これまで政治家と高級官僚という関係を超えて、同郷、同年の誼みで親しくさせていただいてきました。今では、「姫人会」なる同郷の仲間の会で年に1-2度ご一緒するのが本当に楽しみです。様々な局面で奥行きの深さと軽妙洒脱さを垣間見せてくれるお人柄に、私はぞっこん参っています。

 第二弾の麻薬に関する本に続いて、先頃『出でよ!精神科病棟━━大勢で大勢の自立を支援する』という本を出版されました。退官後、一段と熱心に取り組まれてきたNPO法人活動の所産が盛り込まれています。障がいを持つご長男の実体験に基づいた心揺さぶられる本です。

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(96)7-⑥ この国の本来の成り立ちを問いかける試み━━佐藤優『国体の本義』

◆新自由主義台頭への批判の眼差し

 佐藤優氏の超多面的な仕事の中でも、極め付きとでも言うべきものが国家神道的なものへの関心である。かねて彼が北畠親房の『神皇正統記』を中心にいわゆる右翼イデオローグたちとの議論を重ねていることは知っていた。しかし、戦前に文部省の手になり(昭和12年)、占領下の日本で米軍によって禁書になった『国体の本義』についてはほとんど知らなかった。改めて日本という国の成り立ちとしての「国体」というものを考えるにつけ、始めには当方に偏見めいたものがあったが、読み終えて収穫が大きかったことに満足した。

 「国体」とは国家を成り立たせる根本原理をいい、ある意味で「目に見えない憲法」ともいえる。日本のみに特殊なものではなく、どの国にもあるはず。ただ、日本は先の大戦に突入する流れの中で、国家神道が単なる宗教を超え国民の精神を支配する中枢の役割を果たし、それを裏付けた「軍国主義」が国民を塗炭の苦しみに陥れたとの認識が一般である。しかも終戦処理にあたっての最大の関心事が「国体維持」という呼称のもとに天皇の去就が注目を集めたことも重なって、「国体」とくると誰しも反射神経的に身構えてしまいがちだ。

 しかし、佐藤氏がこの書を読み解く必要性を痛感し、行動に移したのは現今の日本の国のありように大いなる危惧を抱いたことが発端であろう。より根本的にはこの二十数年の「新自由主義」の台頭への批判の眼差しがある。そしてヘイトスピーチや排外主義といったこのところの保守思想に潜む病理への危機意識が引き金となっている。こうした現状を解くカギが「国体の本義」にあると言うのだ。「正統派保守思想」を以てして〝誤れる保守的考え方〟を破すと言いたいところなのだろうが、一般には「毒を持って毒を制す」との見方も否定できない。

◆外来思想を土着化する必要性

 『国体の本義』の中で、天皇は「高天原の神々と直結して」おり、「重要なことは知(智)、徳、力という世俗的基準で皇統を評価してはならない」し、「そのような人知を超越する存在なのである」とされる。天皇の軍隊が犯した数々の誤れる行為を今の時点でどうとらえるのか。辛うじて最終章にわずかに触れられていただけであったのは私には少々物足りない。読み解く対象としての「国体の本義」に、「軍事に関する記述は短い」のなら、佐藤氏にそこは補ってほしかった。「高天原に対応する大日本がその領域である。従って、日本の軍隊は世界制覇の野望などそもそももっていない」といわれても、そもそもいつのことをさしているのか分からず、基本的な疑問を禁じ得ないのだ。

 ただ、昭和12年の段階で日本が直面していた思想史的課題と現代のそれが極めて似ているという観点に立つと、俄かにこの本における佐藤氏の読み解き方が注目される。日本文明の特徴は、外来の思想を取り入れて、これを換骨奪胎し、日本風のものに変えてきたことにあろう。古くは仏教や儒教もインド、中国から外来のものとして入ってきたが、同化され日本独自のものに改められてきた。明治維新以降の近代化にあっても日本は西洋列強による植民地化の脅威を避けつつ一意専心、西洋思想を取り入れ同化してきた。しかし、その結果は、どうだったか。『国体の本義』の書き手は、個人主義や自由主義、合理主義が氾濫しただけではないかと厳しく自省しているのだ。その時点から90年近くが経った今もなお基本的状況に変化はない。いやそれどころか、敗戦から占領期を経て、平和憲法の展開でむしろ事態は悪化しているとの見方も成り立つ。

 佐藤氏は、「1930年代にわれわれの先輩が思想的に断罪した『古い思想』(すなわち、個人主義、自由主義、合理主義)が二十一世紀の日本で新自由主義という形態で反復したに過ぎない」と手厳しい。だから、日本人と日本国家が生き残るために、思想的に日本をどう捉えるかが焦眉の課題であるとし、「日本の国体に基づいて、外来思想を土着化する必要がある」と強調する。

 そこで、「日本の国体」とは何かの基本に戻るのだが、それが国家神道的なるものに回帰することでいいのかどうについてはやはり疑問が残る。建国神話などを今に活かすことは、一つの大いなる遺産ではあるが、それだけではなかろうというのが私なんかの結論だ。佐藤氏自身も言ってるように「歴史も世界も複数存在する」のだから、今とこれからに生きる日本人の共有財産にするには、大いなる論争が必要になってくる。

【他生のご縁 『創価学会と平和主義』で発言引用】

 佐藤優氏は私のことを『創価学会と平和主義』(朝日新書)を始め、『世界宗教の条件とは何か』(潮出版社)のサイト版など複数の媒体で触れています。いずれも鈴木宗男氏や彼との関係についての衆議院予算委員会証人喚問での私の発言に関するものです。

 「過ちを改めるに憚ることなかれ」を私が実践したことを過大に評価された分けで、おもはゆい限りです。世界宗教としての創価学会SGIが広宣流布の展開に本格的な取り組みを強める上で、この人の「キリスト教指南」が一段と重要性を増すに違いないと思われます。

 

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(95)「見えない世界」に近づくセンスを磨く極意 佐藤優世界史の極意を読む

元外務省の役人で今は作家の佐藤優さんは、この10年余りですっかり現代日本の青年たちにとっての思想形成のアドバイザーになった感がする。同時並行で雑誌に書きおろす一方で、ありとあらゆるジャンルの人々との対談をし、それらをまとめて出版する姿は驚異的だ。単に書きなぐり喋り散らしているのではない。一つひとつに関連、参考書のたぐいを巻末に挙げて、遅れて来る青年たちを、自ら考える習慣を持つ世界へと誘う。私も随分とお世話になってきた。一つひとつを吟味し料理するだけの知力と理解力が私には残念ながら不足している。このため、まとめてさわりだけを披露するというズルをここでは決め込ませてほしい。皆さんそれぞれの挑戦に期待しながら▼まずは、『世界史の極意』。歴史をアナロジカルに(類比しながら)読み解くという作業ほど魅惑的なものはない。先の大戦直後に生まれ、冷戦期に育った私などは、古今東西の歴史についてそうした営みをあれこれと試みたものだ。しかし今、国際政治は米ソ二極対決から多極化へと変化し、民族、宗教問題が一段と噴出しだした。今こそ、より一層鋭く正鵠を射るための手立てを持たねばならない。この本で著者は「プレモダンの精神、言い換えれば『見えない世界』へのセンスを磨くこと」の重要性を繰り返し説く。「見える世界」の重視という近代の精神は、旧・帝国主義の時代に戦争という破局をもたらした。これからの時代(彼は「新・帝国主義の時代」と規定)は目には見えなくとも確実に存在するものが再浮上してくる、と見る。つまるところ宗教に対するアプローチの必要性を強調しているのだ▼彼はあまねく知られているようにプロテスタントのキリスト教徒である。その立場から『初めての宗教論』右・左巻二冊を書いた。それぞれ「見えない世界の逆襲」と「ナショナリズムと神学」との副題がついている。神学の細かいところは正直よくわからない。かつて私たちは、キリスト教を「科学に逆行する非科学的なもの」と断罪した。「右の頬を打たれれば左の頬を出せ」と出来もせぬことをうたう非現実的な教えだと一刀両断にしてきた。今でも環境・自然破壊の遠因は、人間と自然を対立的に捉えるキリスト教の思想の浅さにあるなどといったステレオタイプ的思考から抜け出せないでいる。この2冊を読むことでそうした見方から脱却できるとはとても言えない。ただ、左巻でのキーパーソンであるフリードリッヒ・シュライエルマッハーについては改めて注目させられた。このひとは「宗教の本質は直観と感情である」とし、また「絶対依存の感情である」とも定義した。要するに、神様は天上のどこかにいるのではなく、「各人の心の中にいる」とした。佐藤さんはこれを「神を『見えない世界』にうまく隠すことに成功したと言ってもいいかも」と述べていることは、言いえて妙で面白い。先に池田大作先生とアーノルド・トインビー博士との対談を読み解いた『地球時代の哲学』のなかでの「直観」についての言及を思い起こす。曰く「池田大作氏が言う直観は、同時に内観なのである。内観とは、時間や空間の次元を超えた、物事の本質を瞬時に、言語化、論理化することなしにとらえることだ」と。このあたりも含め佐藤氏の宗教論は、私のような日蓮仏法者にも今後に研さんへの刺激をもたらす▼多彩な対談本の中から最近読んだものを一つ。異色の女流作家・中村うさぎさんとの『死を笑う』である。原因不明のいわゆる臨死体験をした中村さんと、鈴木宗男事件で社会的な臨死体験を経験した佐藤さんとの対談はなかなか興味深い。「死」をテーマにしながらも気楽に読める小話の連続だ。佐藤さんの父上がモルヒネも効かないという激痛のなかで医者に罵詈雑言を浴びせたという。確かに「痛みは人格を変える」というほかなく、対処のしようがないことに気が重くなる。また、鈴木宗男氏を役人が苦手としたのは、「昔脅かされた不良と二重写しになる」からだというのには、大いに共感し笑える。そんな中で、彼は「死を意識していると、持ち時間が限られているということを常に意識する」から、「文章も引き締まる」と一般論を述べる。だが、自分はそれとは違って「のべつ幕なしに仕事を引き受けてる実務家はダメ」と否定する。かつて外務省の誰だったかが「佐藤があれだけモノに憑かれたかのように書くのは、自らの死期を意識してるに違いない」といってたことを思い出す。さてどうだろう。恐らくはモノを書きだした最初の頃と今とでは違ってきているのではないかと思う。(2015・4・29)

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(94)いまなぜ「松陰・長州テロリスト論」か

一つのものを表と裏から見ると、こうも見方とらえ方が違うのかということはママある。しかし、既にその位置づけが世の中に定着してしまっている歴史上の大きな出来事について、180度も違う見方というのはそうざらには存在しない。近代日本が形成される契機となった「明治維新」は、これまで日本の歴史を学ぶ上で肯定的にとらえられてきた。ところが、その逆の見方の決定版とでもいうべきものに出くわした。「明治維新」を徹底的にこきおろした本である。その名もずばり『明治維新という過ち』。著者は原田伊織という作家だ。副題には「日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト」とある。二年前に出された本だが、今年になって「改訂増補版」として装い新たに登場した。NHK大河ドラマ『花燃ゆ』の放映を十分に意識した再出版であることは間違いない。原田さんにとって薩長史観を基に作り上げられた明治以後の歴史はおおむねウソで固められており、それを世の中に広める行為は許せない悪行と目に映るのである▼この本の骨格は二つと私は見る。一つは吉田松陰というウソと司馬遼太郎氏による歴史観の罪である。最大のウソは、松下村塾というのは松陰が主宰した私塾であるというが、それは事実と違い、陽明学者である玉木文之進の私塾だ、という点にあろう。松下村塾は師が講義し、弟子が教育を受ける場ではなく、むしろ談論風発の議論がなされ「尊王攘夷」論で盛り上がった中での松陰が兄貴分であり、リーダー格だった、という。それは今や常識的だ。しかし、強い信念のもとに倒幕に立ち上がった松陰が、狂気のテロリストであって、決して立派な「師」ではないというところまでは、誰しもあまり認めたがらない。そのうえ、「長州閥の元凶にして、日本軍閥の祖、山県有朋」が、その後の日本軍国主義の神の座に松陰を祀り上げていっただけ、と決めつけられては鼻白む向きも多いだろう▼ところで、司馬さんは現代日本の国民的作家として評判が高い。その彼が日露戦争から後の大東亜戦争までの40年間を日本史における「連続性を持たない時代」だと捉えたことはよく知られている。「モノ」「異胎」「魔法の森」と呼ぶ。つまり”わけのわからん40年”というわけだ。そのことを原田さんは罪深いと指弾し、これらこそ「いわゆる明治維新の産物」だと断定する。「(魔法の森が明治維新の産物だと理解するために)長い時間軸を引いて、それに沿って善いことも悪いことも全部並べてみて、白日にさらせと主張している」のは、なかなか意味深く、やってみる価値はあると思う▼実は「明治維新」を否定的に捉えるひとは今まで少ないながらもいる。私の親しいひとの中では、環境考古学者の安田喜憲(東北大名誉教授)さんだ。この人は維新以降、基本的には日本文明が西洋文明に駆逐され続けてきたとして、以後の歴史を厳しいまなざし(特に環境保護の面で)で見ている。また、薩長史観に異論を唱え続ける存在としては作家の半藤一利さんがいる。このひとも明治維新を能天気に推奨したりはしていない。だが、そういはいっても大筋は近代化の大きな機縁を作ったのは「明治維新」に違いなく、あの時に「徳川幕府が曲がりなりにも続いていたら」などと考える人はそうはいないだろう。ところが、原田さんは明らかにもっといい社会ができていたはずと推測してやまない▼この本のもう一つの骨格は、会津にみる士道の潔さに対する思いいれの強さだ。薩長、とりわけ長州武士の悪逆非道ぶりをこの本ほど克明に描いたものを私は寡聞にして知らない。そして会津や二本松における少年たちの見事な生き方について、かくほどまでに感情を乗せ、迸る情熱で描きあげたものも読んだことはなかった。涙を誘うという表現は生ぬるい。涙なくして読めないなどという描き方も歯がゆい。ひたすらに胸を打ち心揺さぶられるばかりだ。昨今、子どもたちに、偉人伝や英雄譚を勧め、読ませることが少なくなった。子どもたちの間でこういう物語が読まれるようになったら、さぞいいのではないか、と思った。この本を読んでいらい、会う人ごとに面白いよと勧めている。先日上京した際、政治家の先輩や後輩、さらには官僚たちとの会話のおりに話題にした。それは反薩長史観を見直すべきだとか、明治維新が過ちであったかどうかということを議論しようというのではない。勝てば官軍の名のもとに強者の歴史の陰で、消えていった弱者のあつい心ざしに、深いまなざしを向けようということを言いたいのである。(2015・4・28)

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(93)ハトはエサのないところには現れないー薬師寺克行『激論!ナショナリズムと外交』を読む

 このところ政治の右傾化が顕著だとの指摘が専らだ。確かに安倍首相の再登場いらいの言動を持ち出さずとも、保守勢力の動きが論壇を中心に活発だ。「自社対決」が花盛りの頃に「保守対革新」のガチンコゲームを見続けてきたものにとって、社会党の没落から消滅を経て、民主党の中に潜り込んだかに見える残党たちの影が薄いことには哀れすら催す。同時に保守の中における穏健派もこのところ姿が見えない。かつて自民党の中で安全保障をめぐって「ハト派対タカ派」といわれた対決の構図さえ見られないと言われる。ハトの姿が見えず、タカばっかりだというのだ。このあたりの背景を探る面白い本に出会った。元朝日新聞政治部長で、今は東洋大学教授の薬師寺克行さんの『激論!ナショナリズムと外交』である。サブタイトルに文字通り「ハト派はどこへ行ったか」と付いている▼薬師寺さんとは残念ながらお互いの現役時代には面識はない。朝日新聞の敏腕記者たちとは、船橋洋一氏を筆頭に付き合いは少なくないのだが、このひととはその機会がなかった。というのは薬師寺さんが公明党の担当をしていないということが最大の理由だ。ところが、つい先日同氏が私に会いたいと言っているとの連絡が後輩の代議士を通じて入った。回りくどいなあ、直接言えばいいのにと思いつつ、何事だろうと電話をすると、「公明党の取材をしているので貴方の話も聞きたい」とのことであった。当方としては願うところなので快諾したが、その際に著作を読みたいので送ってほしいと要請した。彼は『外務省』という新書を書いており、それが届けられるものと思っていたらあにはからんや、先に挙げたものと、もう一冊『現代日本政治史 政治改革と政権交代』が送られてきた。政治学を学ぶ学生向けの教科書だ。出版元は有斐閣。ざっと目を通したが、公明党に関する記述は極めて少ない。政治改革に果たした役割からするともっと紙数が割かれていいと思うのだが。なによりもPKO における市川雄一公明党書記長の戦いぶりが皆目でてこないというのでは、推して知るべしだ。こういうことだから公明党を改めて取材しようということなのだろう、と勝手に推測した▼『激論!』は9人の人たちとの対談で構成されている。学者1、評論家1、政治家7という割り振り。ジャーナリスト出身の学者だけに対談は読みごたえがある。なかでも第一章の細谷雄一慶応大教授との対談は面白く、知的刺激をいっぱい受けた。あとは、わが公明党の山口那津男代表のと、平沼赳夫日本維新の会代表代行のものに惹きつけられた(共鳴したわけでは勿論ない)。それ以外の6人のにはパンチがない。ハト派やハトとまでは言わぬまでもそれに近い穏健派の主張には食い足りなさが残る。細谷さんは立教大学時代に、かの北岡伸一氏に、そして慶応大学院時代にはわが学友・田中俊郎氏(慶応大名誉教授)に師事したという。薬師寺さんはこの16歳ほど年下の学者を相手に「欧州に見る寛容と和解の歴史」を語り、日本政治史におけるハト派のゆくえを探っている。細谷氏は各国でポピュリズムが広がって歴史問題がますます政治化すると、保守勢力(タカ派)は自国の正義を語り、リベラル勢力(ハト派)は謝罪と反省を語る。そのような大衆社会では自ずと、自尊心を満足させる甘いお話の方が受け入れられやすい。ハト派の出る幕は少なくなるというしだいだ。こうした指摘を受け、薬師寺氏は、現状を「(復讐心に燃えた)中韓両国の主張に日本政府が反発し、国内的に危機感を煽り、憲法の解釈を見直し自衛隊の活動範囲を広げようとしている」時ととらえ、軍事的緊張が高まりつつあるとの認識を示す▼安倍政権を自民党とともに支える公明党の山口氏はタカ派が強くなりすぎると、「国全体の安定感が疑われる」ので、「国としての包容力とか幅を持っていないといけない」と強調している。薬師寺氏は日中関係などでの山口氏の発言を「国際協調派ならではの主張だ」と持ち上げている。私のとらえ方は、国民の中におけるハト派的主張が後退しているため、相対的にタカ派が目立つということだと思う。公園に行くとハトに餌をやる人がいて、そこにハトが山のようにやってくる。ハトは餌のないところには姿を見せない。つまり、細谷氏が言うようにハト派的主張が国民受けしなくなったということに尽きよう。自民党内ハト派に期待ができない今、政権内ハト派としての公明党にますます期待が高まってこよう。(2015・4・26)

【この読書録のあと、薬師寺さんは力作『公明党』を書き、出版しました。私の発言も僅かですが出てきます。同世代の中で数少ない大学教授になった人だけに、仲間たちの思いも取り込んで、頑張って欲しいものと思っています。「ウクライナ戦争」をめぐって、一段と、その視点が注目されています。(2022-5-14)】

 

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住民票は仕事先、居住地と複数あっていけないか(92)

久方ぶりにかなり知的興奮を感じる本に出会った。山下祐介『地方消滅の罠ー「増田レポート」と人口減少社会の正体』である。先にいわゆる「増田レポート」を真正面から説いた御本人(増田寛也元総務相)の本『地方消滅』は取り上げた。「『地方消滅』を悲観論に終わらせるな」というタイトルで紹介(2015・2・15)したが、この本に何かしっくりこないものを感じたことは事実で、あまり評価はできない印象を持った。それから一か月ほど経って雑誌『世界』の4月号で、同じ著者の論文「隘路に入った復興からの第三の道」を読み、いたく感動した。「この国の中枢と末端をつなぐ問題解決回路の欠如」を強調した上で、自治と政策、マスコミ世論と政策、そして科学と政策の回路といった三つのフィードバックを確保すべきだと訴えていたのである。よし、このひとの本を読もうと、思うに至った▼増田氏らの主張の一枚看板である「選択と集中」は「地方切り捨て」「農家切り捨て」「弱者切り捨て」に帰着するという。東京一極集中を避けるために、地方の拠点を「地方中核都市」などと銘打って選択し、そこに人口を集中させることは結局ミニ東京やミニミニ東京を地方に作ることであって、その周辺の小さい町はどんどん切り捨てられることになる。そうではなくて地方の側からの発信を主軸にしたものが必要だ、と。「増田レポート」は「特定の政策提言集団の意見表明であり、どう見ても首都圏ないしは中心側から見た地方論である」というのだ。「大国経済」に国家のスタンスを置き、国際的な経済競争力に強い関心を持つ生き方が強く打ち出されているのだが、それでいいのかと問いかけ、もう一つの対抗軸を示す。「ふるさと回帰」「田園回帰」論である。「集落を残すか」や「過疎対策は必要か」などの議論は枝葉であって、ことの本質は文字通り国家のあり方を問うことなのだ、と。思えばこうした対立軸は今までにも”出ては消え、消えては出た”ものであり、そう珍しくはない。ただ、このレポートがあまりにも衝撃を持って登場しただけに、心底からの対論が必要とされてきているといえよう▼この本の魅力は、具体的な提案を上げているところにある。例えば、現在の「選択と集中」につながる「自治体間人口獲得ゲーム」に代わっての新しいゲームを「価値観を競う論理対抗ゲーム」と位置付けているのは面白い。さらに人口減少社会に立ち向かうためにあげている三つのポイントが興味深い。一つは、未来の適切な組み込み。第二に人口減少をプラスに生かす社会づくり。第三に、多様な住民を認めるというものだ。この三番目は大いなる発想の転換だ。住民票は一か所にしかおけないという現在の固定した観点から複数に変えようというものである。確かに、住んでいて寝るために帰る町と、昼間働いている町というように、多くの働く人たちは二か所以上の町と縁が濃い。ここらから時代を変える新たな仕組みが出てきそうだというのである▼私が住む姫路市も平成の大合併で53万人の人口を持つに至った。つい先日には「播磨圏域連携中枢都市圏」なるものを石破地方創生相出席のもとに立ち上げたところだ。周辺の農村部はますます過疎化を強める一方で、姫路市にのみひとを集めようとしているかに見える。香寺町、安富町、家島町、夢前町などかつての郡部の町村が今や姫路市に組み込まれている。そこに住む人々の福祉やサービスは向上したのか。またそのさらに外にある福崎町、宍粟市、たつの市、佐用町、赤穂市、相生市、太子町などの過疎化は進む一方ではないのか。もっとお互いの交流を強め、連携を強化するところから相互の発展に寄与する道を探そうというのが本来の狙いのはず。しかし、現実はますます彼我の乖離が増すのではないのかとの危惧も。こういった観点を一体どうするのか。明日から始まる選挙戦で問われてこよう。しかと見つめる機会にしたい。(2015・4・18)

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“町内会長一年生”としての旅立ち(91)

自治会と町内会とはどう違うのか。団地は自治会と呼ぶのが相応しいが、通常の街中のものは町内会がいいのでは、と私は勝手に思っている。昨年の4月から姫路市新在家の自治会の副会長(この地ではこう呼ぶ)になった。生まれ故郷の姫路に東京から移り住んではや27年目が経つが、この間に城北新町、野里、北新在家そして新在家と4回引っ越した。自治会活動はすべて家内に任せっきり。会合はもちろん、町内の掃除から夏祭りに至るまで一切のものに何も出たことはなかった。時々回ってくる隣保長なる役も名前だけで、妻任せ。粗大ごみすら自分で出すことはなかった。それが突然昨年から一年間、一転してやることになった。衆議院議員を辞してから1年が経っており、そろそろ身近なことで地域に貢献しなければと思っていたところに副会長になれと言われた。順番だからと、有無もなかった。▼そんな折、紙屋高雪『”町内会”は義務ですか?』という本を読んだ。このひとは40歳台半ばで団塊ジュニアの世代。私の娘より少し上の年恰好だ。サラリーマンうをしながら漫画評論やらブログガーとして活躍しているひとらしい。私と同様に全く無関心だったのが、つい自治会長を引き受けてしまい、てんてこ舞いしながらも、一風変わった自治会を創っていく様子が描かれている。およそこれまでなら読む気さえ起らなかったジャンルのものだが、必要にせまられたというか、基本を押さえておかねばという義務感で読んだ。読み終えての印象は若いのにえらいなあというのが正直なところ。彼の歳の頃にちょうど選挙に初挑戦した身としては、町内会、自治会活動なるものにはそれこそ関心を持って取り組まねばならなかったはずだったのだが▼この一年副会長として何をしたかと問われると、恥ずかしい限りだ。粗大ごみを出す日が月二回あったが、そのうち一回は午前5時半頃に起きて6時前にはごみを入れるケースなどを出して準備を始めることをした。あとは月一回の定例会の支度として様々のチラシやパンフレットの類を30隣保(全400世帯)ほどのグループに仕分けする仕事がルーティンワーク。年間を通じて最大の仕事が夏祭りということだったが、屋台の担ぎ手がなかなか集まらず苦労した。一度自分でも担ごうとしてみたのだが、そのあまりの重さが未だに肩の骨に残っているかのような気がする▼そんな私が今年は自治会長になってしまった。今年は私の住む3丁目から自治会長を出す順番に当たっていたということで、昨年末からいろんな人に声をかけたが当然ながら引き受けるひとは見いだせず、結局はミイラ取りがミイラになってしまったというしだい。先日はなったとたんに、64歳の方が脳梗塞で亡くなられたということで、お通夜に参列した。隣保長をされていた女性の実の父親ということでもあり、お悔やみに駆け付けたところ、私との人間関係も無縁ではなく、世間の狭さに驚いた。そんなわけで亡くなった方の母親にあたる90歳少し前の老婦人を激励させていただくと、大層喜んでいただいた。後日、お礼の電話があったので、県議選の支援依頼をすると快く応じてくださったうえ、妹さんが神戸市北区在住と分かり電話をさせていただき、これもまた快諾してくださった。なったばかりですべてはこれからだが、手探りの中から一つでも二つでも地域発展のため、皆様が住んでよかったと思われる地域にしていくべく頑張っていきたいと決意している。(2015・4・11)

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