(123)護憲派も改憲派も書いてこなかった真実━━長谷川三千子『9条を読もう!』

自衛戦争、制裁戦争を認める所以

安保法制をめぐる議論を通じて、改めて浮かび上がってきたのは「憲法改正」をいったいどうするかという課題であった。そんな折もおり、まことに適切な本が出た。長谷川三千子『九条を読もう!』である。わずかに91頁のちっちゃな新書に過ぎない。しかし、内容たるや薄っぺらどころかずっしりと重い。宣伝文句にあるように、ここには「誰も書かなかった憲法9条の真実」があり、「護憲派も改憲派も必読の一冊」だといえよう。長谷川三千子さんといえば、『民主主義とは何なのか』の対談本で、かの岡崎久彦氏がここまでへりくだるかというほどに持ち上げた、極めてうるさ型で硬派の論客だと見られているが、この書ではまことに丁寧に書いていて別人かと見まがうほどの優しさが横溢している。

憲法学者がこぞってと言っていいほど「違憲」を強調した安保法制法案。しかし、多くの憲法学者(ジュリストのアンケートでは調査対象の63%)が自衛隊そのものを違憲ないしはその可能性あり、としていた。その前提をもとにすれば、彼らの対応ぶりは当然すぎる帰結といえよう。長谷川さんはまず冒頭で、憲法学者の習性からして憲法の欠陥をあげつらうことは難しいということを指摘している。「すでにある法律や憲法を大前提として、それをいかに整合的に解釈するかが自分たちの仕事であると心得てい」る人たちが、その矛盾を指摘などできるはずがないというわけだ。9条1項と2項の内容が正反対であり、1項を守れば2項が守れず、2項を守れば1項を守ることができないという矛盾を指摘したうえでの、このくだりには挑発を大きく超える問題提起としてなるほどと頷かされる。

1項の戦争放棄が、全面放棄なのか、それとも条件付きなのかについて、不戦条約と国連憲章、そして憲法前文を対比しながらの論理展開はまことに面白い。近代国際社会が国の外でも内でも「力」の概念を柱に成り立っていることを一語で体現しているのが「主権」という言葉であった。であるがゆえに、「不戦条約」でも、各国に最低限の「力」の保持と行使の権力を認めないわけにはいかなかった。自衛戦争を認め、制裁戦争を認めているゆえんである。1項が仮に全面的に戦争放棄をしているとすれば、完全に国際法に背を向けた憲法になってしまうというわけだ。

「軍事によらない平和」という「反知性主義」

 また、「9条2項は平和を破壊する」についてもなかなか読ませる。かつてある護憲派の先達が、世界に先駆けて完全な戦争放棄規定を日本は持っているのだから、それを各国に輸出すべきだという考えを披歴した。今でも根強くそういう考えを持ってる人がいる。現実を理想に近づけ、広めるべきであって、現実に合わせて理想を引きずりおろすのは本末転倒だというものだ。しかし、長谷川さんはこの本で、徹底した戦争放棄、戦力不保持は、ある一国の憲法規定にしてしまってはダメだということを、かつてアメリカで唱えられた「戦争違法化」の理論から克明に明らかにしている。それは結果的に国際社会の中に軍事的空白地域を作り出してしまい、平和を壊すことに直結するというわけだ。また、「戦争違法化」の動きは、必然的に国家間の争いを裁く国際法廷の必要をもたらすが、所詮それは勝者の運営するものになってしまい、到底うまくいかないというのだ。

 このほかにも、マッカーサー戦略なるものの実態やら、その根幹である「沖縄の基地化・9条・核兵器」の”恐怖の3点セット”というものを提示している。古関彰一、大江健三郎氏らの著作をはじめとして20冊にも及ぶ参考文献をあげつつ、いずれについても見落としている盲点を衝く記述は実に小気味いい。最後に、憲法9条は、戦勝国が敗戦国を断罪し、その「犯罪国家」をしばるための「誓約書」を強要するものであったと強調。さらに、それこそが「軍事による平和」を意味するのに、実際には憲法9条が「軍事によらない平和」の象徴とされているのは、まことに「反知性主義」極まれりであると力説している。安保法制論議の大騒ぎを実りあるものにしていくうえで、こうした憲法への確かなる事実認識をベースにしたうえでの議論がなされることこそ望ましいと思われる。

【他生の縁 大沼保昭さんの懇親会での出会い】

 長谷川三千子さんと私の出会いは一度だけ。大沼保昭さん主催の会合の懇親会でのことです。かねて産経『正論』などでの論考を通じて、その論理展開の凄さに関心を強めていました。とりわけ、前述したような岡崎久彦さんでさえ、という場面もあり、その思いは次第に高じていました。

 いつか会おうと決めていたら、そのチャンスが巡ってきました。テーブルに近づき、挨拶をしたした際に「貴方のお仲間の婦人部の皆さんに、一度お会いして、憲法のお話をさせていただきたいわ」と言われたのです。おっと。それは、それはと、思いながら、いまだに実現していません。色々と差し障りがあるものの、ひとえに私の怯懦と怠慢ゆえ、と自省しています。

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(122)ダ・ヴィンチから「創の書」へ、秋は芸術 ー高砂京子『文字遊び』

世界の美の歴史を変えた「謎」に迫る、と鳴り物入りでいま開催されている「レオナルド・ダ・ヴィンチと『アンギアーリの戦い』展」。先日、京都・右京区に仕事絡みで行く機会があったので、足を伸ばして京都文化博物館に行ってきました。東京富士美術館での展示が終わってから一か月余、待ち遠しい機会でした。ダ・ヴィンチについてはあの永遠の微笑み「モナリザ」が有名です。恥ずかしながら、今回のものは、聖教新聞の記念対談(6・1付け)やNHKの日曜美術館の放映(6・28)を見るまでは全くと言っていいくらい知りませんでした。16世紀初頭に描かれた「アンギアーリの戦い」は、後世の画家に広範囲な影響を与えたといいます。この壁画が描かれる”以前と以後”とでは、全く違うというのです。以前は平面的・装飾的で静止画だったのが、以後の絵画の世界は、奥行きが立体感のある動画のように変化した、と。確かに、今や電車の中吊り広告で宣伝されている「タヴォラ・ドーリア」という軍旗争奪場面を見ると、そのダイナミックさがなるほど良く解ります▼京都での興奮冷めやらぬ思いのまま、神戸の兵庫県立美術館に行きました。そこで開かれていた「高砂会の創の書展」に顔を出すためです。この会は神戸ではもちろん全国で知る人ぞ知る、書家・高砂京子さん率いる文字を創造的に描き表す人たちの集まりです。わが妻が数年前からこの会に所属し、教えを乞うていることもあり、時々開かれる展示会をのぞきます。文字で(文章ではなく)どれだけ自己を表現出来るかということを試そうという狙いは、まことに斬新です。高砂さんの作品を見るたびに、漢字が絵画へと鮮やかに変身する表現ぶりに魅了されてしまうのです。この美術鑑賞のハシゴをしたあと、神戸のホテルで開かれた高砂会の創立15周年をお祝いする会に出席しました。高砂会員である妻に、あれこれと促されてしぶしぶ。会場の入り口で、神戸新聞の高士薫社長や前神戸市長の矢田立郎さん、それに加古川在住の作家・玉岡かおるさんらと出会い、いきなり盛り上がってしまいました。いずれの方々とも旧知の間柄ですから、気分は一変。人間って勝手なものです▼その会場受付で手渡されたものが『高砂流 「創の書」 文字遊び』との本でした。高砂京子さんの新刊書です。書名の肩には、ココロをカタチに、とありました。この本はもちろん彼女の流派の命である「創の書」とは何かを解題するもので、まことに心浮き立つ素晴らしい内容です。もっともこれは本というよりも、文字画集とでもいうべきものでしょうか。ページをめくっていくだけで,心はなごみ目はみひらかれされるものです。つまり、文章は少なく、文字遊びの実態を写真で見せる編集になっています。ただ、少ない文章がまたなかなか読ませるのです。「はじめに」と「12か月 文字徒然」というエッセイにはこころを絡めとられてしまいました。いや、それ以外にも。とくに第一章の中ごろに織り込まれた「雨に想う」はとても印象的な一文です▼書家として駆け出しの頃、彼女は単身ニューヨークに渡ります。自分の書の可能性を見出すために。そんな旅先で、ある人から「書は美しい。でもこの書の中に、あなたの個性はどこにありますか」と問われ、大いなる衝撃を受けたといいます。ホテルへの帰り道、この質問を反芻しながら雨に打たれてセントラルパークを駆け抜け、ふと顔をあげたその時、雨に煙るニューヨークの街並が目に飛び込んできました。その瞬間、頭の中で何かが弾けた、のです。一心にそのインスピレーションを文字に託して出来たのが「ニューヨーク・レイン」で、「高砂流『創の書』の生まれた瞬間」だ、と。このコラムに私は強いインパクトを受けました。雨がしきりに降る時季。秋雨前線のいたずらというにはあまりにも残酷な鬼怒川の氾濫など胸痛むものがあります。だが、この高砂さん描く「ニューヨークの雨」ほど素敵な雨を、私は知りません。レオナルドの絵画から高砂京子の「創の書」へー芸術は永遠といいますが、私は”とばくち”でいつまでも佇んでいるだけ。そんな身にとって、またしても啓発を受ける大事な機会となりました。(2015・9・13)

【高砂京子さんの会の展示会に一度だけ私も出品したことがあります。およそ平凡な字で、思い出すだに恥ずかしいことです。『文字遊び』というタイトル通りに、字を絵画風に描く高砂さんの書風は素晴らしいの一言です。文字を使って頭をひねることは好きでも、高砂さんのように絵の方にはとても描けません。この人の発想はいよいよこれから大きく羽ばたくに違いないと、予感がします。(2022-5-9)】

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(121)官軍が滅ぼし、賊軍が救ったー半藤一利・保坂正康『賊軍の昭和史』

(121)幾つになっても、世の中には「へーぇ、そうなんだ」ってことが結構ある。「薩長史観」なる言葉を知っていても、明治維新以降、先の大戦が終わるまでの約80年の間、薩摩、長州を中心にした官軍と幕府側についた賊軍との攻防がずっと続いていたことはあまり知られていない。薄々気付いていたことを白日の下に晒された。半藤一利・保坂正康『賊軍の昭和史』を読み終えて、まさに「ふーん。そういうことだったのか」と感嘆するばかりである。半藤さんと会ったのはもう10年以上も前のこと。娘婿である北村経夫さん(当時は産経新聞政治部長、現在は参議院議員)の誘いでお会いした。初対面でいきなり「あなたは随分とくだらない本をたくさん読む人ですね」と言われた。私の『忙中本あり』に目を通されたうえでの感想だった。「先生の本も入ってますよ」と切り返しにもならぬことを口走った頃が懐かしい。それ以後も半藤さんの本はちょくちょく手にするが、この本は飛び切りくだらなくない本である▼「官軍と官軍史観が昭和の戦争を起こし、この国を滅ぼしました。そして、最後の最後で国を救ったのは、賊軍の人々だったのです」ーこれはこの本で半藤さんが言いたかった本音だろう。ただ、これだけでは正確さを欠く。近代日本を作り上げたのは、まぎれもなく戊辰戦争で勝利した薩長を中心とする官軍であり、この勢力の力であの日清,日露の両戦争も勝つことができた。しかし、その後は官軍の驕りもあって、その力が弱まるなかで、賊軍が台頭してきた。だが、結局は昭和の戦争を起こすに至った。最終的にこれに終止符を打った力は賊軍だったということなのだ。ここでいう官軍とは、山口、鹿児島両県を中軸とする反幕府勢力で、賊軍とは江戸幕府側についた諸藩の流れをひく人々である。半藤さんは長岡にルーツを置く人だけに反薩長の意識が過剰なまでに強い▼この本で改めて気付かされたことは少なくない。米内光政(盛岡)、山本五十六(長岡)、井上成美(仙台)の海軍の3人の指導者は、ある意味クールな英雄として位置づけられてきた。だが、それは阿川弘之さんが書いた小説による虚像であり、実際にはそれほどの存在ではなかったという。石原莞爾という人物についても、彼が庄内という賊軍出身であったことを押さえると見えてくることが多い。保坂さんの「(石原莞爾の)評伝をきちんと書けるかどうかに,実は、次代の日本人のメンタリティというか、次の世代の能力が試されている」といわれるほどの石原の多面性に興味が向く。この本を通じて、西郷隆盛の偉大さと鈴木貫太郎の凄さも改めて気付かされた。また、「贖罪の余生を送った稀有な軍人」といわれる今村均陸軍大将の存在もあまり知らなかっただけに胸打つものがあった▼このような官軍と賊軍という古くて、新たらしい視点で、あの戦争の真相に迫るという試みは読み物としてはまことに面白い。戊辰戦争以来の80年の歴史に終止符が打たれたことに、先の大戦の敗北の意味がある、と私は思う。実際この70年生きてきた私たちには、官軍も賊軍も意識下には全くない。あるのは、戦後民主主義の有難さだけだった。で、戦後の新たな対立軸として、米ソ対決の冷戦構造の国内版としての、自社対決があり、資本主義対社会主義の争いが続いた。それがソ連崩壊、東西ドイツの壁の消滅で姿を消した。冷戦後の今の日本にはどういう対立があるか。あるのは、欧米礼賛派と日本自立派とでもいうべきものの葛藤であろうか。私の見るところ、双方に欠けているのが日本固有の思想と欧米思想とを融合させたうえで新たなものを築きあげようという情熱である。この壮大な作業こそ今に生きる日本人に最も求められていることだと思う。(2015・9・9)

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(120)米国に代わって世界支配を目論むドイツーE・トッド『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』

国会に席をおいていたころに海外に行く機会がたびたびあった。ヨーロッパでは圧倒的にドイツに行ったケースが多い。イギリス、フランス、スペイン、スイス、ノールウエー、ポーランド、オーストリア、イタリアなどそれぞれ一度づつだが、ドイツだけは5回ほどになる。どこへ行くのにもここを経由しないとならないこともあってだが、それだけに思い出も多い。もはや忘却の彼方だが、時に応じて記憶の底から蘇ってくる。そんな中で、たった一度だけ、ドイツに長年住む学生時代の友人と公的行事が終わった後、私的な旅を試みたことがある。その時に、とある街中を夜半に歩いた折、私がたまたまナチスの話題を口にしたところ、彼が表情をこわばらせ、色をなして止めにかかってきた。抑えた口調で、「その話題は御法度だよ。ひとに聞かれるとまずいことになる」と。それまでの雰囲気と一変したその異常さに恐れをなして、さすがの私も押し黙った。以後、話題にもせぬまま幾年月が経った。これには、ドイツ語ではなく日本語でしゃべっただけなのに、どうしてなのかと、未だにいささかの疑問が残っている▼ドイツと日本は先の大戦の戦後処理の違いをめぐって対比されることが多い。敗戦国同士ではあるが、戦後復興の華々しさなどでは共通する点も多い。ベルリンの壁がなくなり、東西ドイツが統一されて30年近くが経つ。この70年の月日で、隠忍自重という言葉がこの国ほど似つかわしい国は無いように思われる。それが今や変質して大きく姿を変えようとしているのではないかとの思いを抱かせる面白い本を読んだ。エマニュエル・トッド(堀茂樹訳)『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』という新書だ。著者はフランスの人口学、家族人類学者。これまで、「ソ連崩壊」や「米国発の金融危機」さらには「アラブの春」を次々と的確に予測してきた。タイトルはかなり大げさではあるが、この本ではドイツの台頭の意味するものを明確にとらえることを提唱していて興味深い。一言でいえば、グローバル化した世界の中で、アメリカとドイツという二つの大きなシステムの真正面対立を予言しているのだ▼私たちは、第二次大戦後の冷戦期を通じて、「米ソ対決」というドラマを見慣れてきた。「ソ連崩壊」の末、冷戦後は、「アメリカ一極論」とか「米中対立の脅威」といった囃子言葉に惑わされがちである。トッド氏は、そういう見方に疑問符を投げかけ、アメリカの力の翳りを見定め、中国の張り子の虎ぶりを見抜く。曰く「いたるところで、つまりヨーロッパにおいてだけでなく世界中で、アメリカのシステムにひびが入り、割れ目が出来」ているとする一方、「中国はおそらく経済成長の瓦解と大きな危機の寸前にいます」と。要するに、アメリカの没落に比例する格好でドイツの興隆に眼を向けるべきことを、隣国フランスの知識人特有の冷徹なまなざしで指摘しているのだ。そして、そういう事態の契機となるのは、ウクライナ危機であり、その危機の帰趨であるという。「最も興味深いのは『西側』の勝利が生み出すものを想像してみること」であり、「もし、ロシアが崩れたら、(中略)おそらく西洋世界の重心の大きな変更に、そしてアメリカシステムの崩壊に行き着く」と強調する▼ロシア嫌いの知識人がアメリカでは多いために、ドイツの脅威を見誤っているとの懸念はなかなかに面白い。一般的に欧米という言い方があるように、またEUとひとくくりにされるように、欧州をまとまっている一つの存在と見がちだが、その実情は全く違うことが改めて良く分かる。ここでは随所にフランスの政治指導者のいい加減さが姿を見せたり、独仏の違いが強調されて極めて分かりやすい。例えば、フランスでは、スピード違反を摘発しようとして憲兵たちが道路わきに隠れていると、「フランス人の軽犯罪者コミュニティというべきものが自然発生し、対向車線でヘッドライトを点滅させ、気をつけろよと教えてくれる」として、助け合いの精神が出てくる。一方、ドイツでは、誰かが違法駐車していると、近所の人が警察を呼ぶとして、フランス人にはショッキングな話だとして紹介している。これって両国の国民性を表していて面白くはあるが、かつて双方を経験した私などには、いかにもステロタイプ的しわけに見えてしまう。どの国でもどっちも混在しているのではないか、と思われるがどうだろうか。ともあれ、最近の独仏事情が浮き彫りにされており、大いに刺激的な本だ。(2015・9・5)

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(119)西洋思想を批判し、日本の心を宣揚した外国人ーラフカディオ・ハーン『新編 日本の面影』

ラフカディオ・ハーン(日本名・小泉八雲)というひとの存在を知り、その名著『怪談』を読みかじってから、もう半世紀ほどが経つ。明治37年に54歳で亡くなる半年ほど前に東京で書いた、つまり最後の仕事となったのが、それだ。彼は、ギリシャのある島でアイルランド人の父とギリシャ人の母との間に生まれた。1850年のことだ。19歳の時に単身、アメリカに渡り、職を転々と変えながら世界各地を飛び回った。やがて通信記者となって40歳の年に来日する。島根県松江の中学校の英語教師として赴任、その年の終わりに小泉セツと結婚した。二年後に書いたのが『見知らぬ日本の面影』である。日本に着いて初めて外国人向けの月刊誌(アトランティック・マンスリー)上に連載した作品だ。恥ずかしながら、これを私は知らずにいた。きっかけは、たまたま見たNHK総合テレビの「100分DE名著」シリーズで取り上げられていたからだ。早速『新編 日本の面影』(池田雅之=訳)を買い求めて読み、深く感動した▼とりわけ私が惹きつけられたのは、「はじめに」である。「日本人の生活の類まれなる魅力は、世界のほかの国では見られないものであり、また日本の西洋化された知識階級の中に見つけられるものでもない。どこの国でもそうであるように、その国の美徳を代表している庶民の中にこそ、その魅力は存在する」ーという風に、日本人の庶民の生活に立ち入って、日本文化の本質や日本人の内面を描こうとする強い狙いが読み取れる。訳者の池田雅之(早稲田大大学院教授)さんは、ハーンが「日本の進歩的知識人や教育制度の中で軽蔑され排除されようとしている日本の古い民間信仰や、迷信、言い伝えや風習、昔話や神話などのフォークロア的世界観の再評価および擁護」をすることで、「近代批判の幕開け」を展開しようとしていることを強調している。日本の近代がキリスト教、西洋哲学・思想の受け入れに必死なあまり、大事な日本のこころを忘れてしまった、という私の最大の関心事の核心をつくテーマにぐいぐいと引き込まれた▼「東洋の第一日目」「盆踊り」「神々の国の首都」から「日本人の微笑」などに至る記述は、実に読みごたえがある。一般社団法人「瀬戸内海 創造の海へ」を立ち上げ、日本の心の風景を瀬戸内海の島々に求め、日本精神のありように迫ろうとしている私にとって大いなる刺激となった。「ホーケキョー」との鶯の鳴き声に、「法華経」を重ね合わせる描き方には思わず微笑んだ。「我が家の小さな仏教信仰者は、こんなにも簡潔に信仰心を伝えているのだ。鶯は流れるようなさえずりの合間に、その聖なる言葉を何度も何度も繰り返し唱和する」ー50年間に亘り、日蓮仏法の信仰にわが身を委ねてきたものとして、このくだりにはまことに胸打つものがあった。物質主義、個人主義、産業中心主義、キリスト教など、ハーンの西洋批判の切口は多岐に亘っている。日本人に代わってのこの批判の切口こそ、今最も注目されねばならないと思う▼この夏、一昨年から続く三度目の熊本行きを思い立った。同県に住む畏友が案内してくれる気安さもあってだが、今回は家内を伴った。初めての阿蘇を見せたい、と。その熊本こそ、ハーンが島根のあとに移転した地なのである。市内の中心にある、ハーンのかつての住まいをつぶさに見る機会を得た。小さいながらも整った庭を見ながら、「日本の庭にて」を思い起こした。「出雲だけではない。日本国中から、昔ながらの安らぎと趣が消えてゆく運命のような気がする」「この庭の美しさを創り出した、今は失われてしまった芸術」などと述べている。日本らしさの消滅という未来を予測しながら、仏教への憧憬を深く強く描き出していたことには感銘を新たにした。ハーンといえば『怪談』。それも深い理解ではなく、紋切型にしか捉えていず、やり過ごしてきた自分を大いに恥じる”熊本旅”になった。昨年、出雲大社を訪れた際に気付かなかったハーンの仕事を、熊本にて改めて気付かされたというのも妙なものだが、彼はその後、神戸、東京と私にとっての有縁の地に移り住んでいる。遅ればせながらも、西洋礼賛の陰で忘れられた日本のこころ、日本精神のありどころをハーンに教えられた。今、たとえようもない幸福感に浸っている。(2015・8・31)

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(118)知らぬことばかりの自分の体について ー 笹山雄一『人体探求の歴史』

(118)還暦を過ぎてから、「60の足習い」とばかりに、ジョギングに精をだすなど健康には十二分に気配りをしているものの、時に容赦なく病魔は襲いかかってくる。青春の真っただ中で肺結核を患ったことがある私は、体についてひときわ関心を持ってきた。この猛暑の夏、笹山雄一『人体探求の歴史』を読み、心底から啓発された。死ぬまで付き合うわが体の仕組みについて、いかに自分が無知であったかが改めて解り、遅ればせながらの探求心がわいてきた。このうえなく役立つ面白い本との出会いに、興奮は冷めやらない。「眼」から始まって「耳」「鼻」「心臓」と続き、「肛門」「精巣」「卵巣」まで15の器官を微に入り細にわたり、特徴や役割を解説し、不調への対応を様々なエピソードを交えて示してくれる。まともに読むと決して読みやすいとは言えないが、よく注意を凝らして読み進めると、思わぬ宝に出くわす。老爺心ながら、この本も前から読むよりも後の「肛門」あたりから入った方がいいですよと言っておきたい▼勿論、ひとの興味のありようは様々。だが、「同病相憐れむ」傾向は万国、万民共通に違いない。痔ろうだったらしい夏目漱石が弟子・小宮豊隆への手紙に「御尻は最後の治療にて」「僕の手術は、乃木大将の自殺と同じ位の苦しみあるものとご承知ありて、崇高なるご同情を賜度候」とある。これを「ふざけて書いている」と見るよりも、哀れが先立ってしまう。「文豪とて、よほど辛かったとみえて、手術七日目に、『切口に冷やかな風の厠より』という句を読んでいる」のには、笑いをこらえて、さすが俳人と称賛したい。「精巣」ではつい先ごろの「切り取り」事件に思いが及び、わがペニスや睾丸が愛おしくなる。中国の宦官にまつわる去勢の実態やら、なぜ日本にはその習慣がなかったのかなどの記述は興味深い。尾籠な話ばかり紹介していては、私の品性が疑われかねない。「有名人の結核とその周辺」のくだりでは、樋口一葉、石川啄木、沖田総司、正岡子規ら「枚挙に暇が無い」と言いながらあれこれ取り上げられていて、知的好奇心がとめどなく湧いてくる。勿論、さりげない病への具体的対処も忘れてはいない。「糖尿病を予防するには、老化を感じる前から、運動するよう心がけることが肝要である」との記述には、わが意を得たりとなった▼本の性質上、杉田玄白が83歳で書き残した『蘭学事始』に関する引用が少なくない。その玄白の『解体新書』を「如何にして出版されるに至ったかは、『冬の鷹』吉村昭に詳しい。胸躍る作品である」と紹介しているのも、読んだものとして大いに共感する。一方、「胃カメラの考案者は日本人」において、その経緯は、「吉村昭氏が書いた『光る壁画』に詳しい」「ぜひ、一読をお勧めする」となっている。これには、すぐ注文したくなってしまう。次から次へとこんな調子。実に体躍り、心騒ぐ本である。一読ならず数読をお勧めする▼私の父は78歳で亡くなった。晩年、両の手のひらの皮膚が捩れたり引きつって困る、これはどうしてか、とよく云っていたものだ。当時は、へーぇといって眼を向けても、それ以上の関心は無かった。ところが、あれから30年ほどが経って、まったく同じ症状がわが手のひらにも現れてきた。遺伝だ。痛いわけではないものの、脂肪の小さな塊のようなものがあちこちから盛り上がって膨らみ、気持ちは穏やかではない。当初は、長年の労働の結果ゆえの勲章か、などと高をくくっていた。整形外科に行くと、デュピュイトラン拘縮という診たてだった。「これ以上酷くなると、手術が必要になってきますね。そうなる前にやりますか」と。冗談じゃない。手のひらを切り刻まれてはたまらない。糖尿病患者に良く見られる症状だというが、因果関係は未だ医学的に分かっていないようだ。かの石川啄木が貧乏な暮らしのなかでじっと手を見た心境と比べるべくもないが、死んだ親父にだんだん似てくる自分に思わず苦笑いせざるを得ない。(2015・8・26)

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(117)アメリカとの思想戦にも敗れたままの日本ー佐伯啓思『従属国家論』

今年は例年にも増して、テレビでの終戦記念特集番組が多かったように思う。戦争に従軍し、生きて終戦を迎えた人たちのうち最も若い兵士でも当時十代後半だから、今年は90歳前後。戦後80年には生存者は際立って少なくなるはず。テレビ番組に証言者として登場可能なほぼ最後の機会だったと思われる。16日に放映されたNHKスペシャル『”終戦”緊迫の7日間』なる番組にも、元兵士たちが貴重な証言をされていて、息詰まる感動を迫られた。15日のいわゆる玉音放送以後にも、「徹底抗戦をすべし」、「本土決戦をも辞さず」との動きが軍部を中心にあったことは良く知られている。しかし、当事者から映像を通じて聞くとなると全く迫力が違った。勿論、ことは一週間では終わらず、ソ連の侵攻により北方領土周辺ではさらに戦闘は続いた。マッカーサー将軍が8月31日に来日し、9月2日のミズーリ号上の降伏文書署名ぎりぎりまで戦争は続いていたのである▼いつからを「戦後」といい、「戦後」の始まりに何があったのかを克明に追う作業はこれまでにもいくつもなされてきている。しかし、読みやすい平易な文章で書かれたものはあまりお目にかからない。佐伯啓思『従属国家論 日米戦後史の欺瞞』は十二分に満足させられる内容だ。佐伯さんは私が注目する思想家のひとりで、近過去には『西田幾太郎ー無私の思想と日本人』を読み、近代日本の思想形成のありようについて、大いに考えさせられた。今回の安倍首相の「戦後70年談話」への評価をもあれこれと読んだが、一番私の心にフィットしたのは毎日新聞での彼の「米型歴史観から脱せず」との寄稿文だった▼6期20年の衆議院議員としての生活の大半を外交・安全保障分野で仕事をしてきた私の総括は、「日本は結局はアメリカの属国だ」というものだ。七年ほどで米国の占領に終止符が打たれたというものの、実質的には今なおそれは続いているといっても言い過ぎではない、と。この本では私の到達した結論を裏付けるかのように、改めて従属国家・日本の誕生から今に至る経緯をとても分かりやすく教えてくれている。彼は「アメリカに従属しておりながら、しかし、日本国内では、何か、主体的に物事を決めているかのように装っている。アメリカからすれば日本はアメリカの属国です。しかし、われわれ日本側からすれば、あくまでわれわれのほうに主体性があるような構造になっている」ーこれが「戦後レジーム」の二重構造である。戦争で負けたことにより、日本の伝統的な歴史観や価値観や思想が否定され、アメリカ風の合理的精神や、理性というものが押し付けられてきた。そのくせ表向きは日本とアメリカは価値観を共有しているという言葉で矛盾が糊塗されてきたのである。冷戦期の米ソ対決、資本主義対社会主義という対決の枠組みの陰で、米側、資本主義側に組み入れられてきたのだから無理もない▼この本は、全部で9章から成り立っているが、最後の「近代日本という悲劇」という章だけがある意味独立している。とりわけこの章は私にとって興味あるテーマが扱われており、繰り返し考えるいい機会となった。佐伯さんの提示するところは、先の大戦は「西洋的合理主義」対「日本的精神」の間の思想戦という色彩が強かったということであり、アメリカ側は、自由と民主主義を守る戦いに勝ったのだから、「日本の錯誤に対しては道徳的な裁きと民主的な教化が必要である」との姿勢で戦後ずっと挑んできたというものだ。この辺りを一言で表現すると、様々な国際政治における現在の対立、混乱は、「もとをただせば、近代を普遍的世界と見なすアメリカの歴史観に端を発している」ということになる。「日本的精神」なるものの構成実態を、佐伯さんはかねて西田哲学の「無私の思想」としていることは興味深い。私には、明治維新後に受容した「西洋合理思想」を「日本思想」に取り入れ、変貌させるという日本独自の手法が未だ果たされていないことが誤りの原点に思われてならない(2015・8・19)

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(116)「司馬遼太郎」を聴きに行き、「茨木のり子」に会うー後藤正治『清冽』

本の著者のサイン会なるものに初めて並んだ。ノンフィクション作家・後藤正治さんの著作『清冽』と『言葉を旅する』の二冊を持って。第17回司馬遼太郎メモリアルデーが7日午後、姫路駅前のキャスパホールで開かれたときのことである。後藤さんとはこれまで会ったことはない。かねてノンフィクションの分野で良い仕事を次々とされており、注目していた。『空白の軌跡』で潮賞を受賞されていらいのことである。この日は「創造と想像 司馬作品の楽しみ方」と題して、毎年積み重ねられてきた由緒あるこの会のメインスピーカーとして登場されると聞いて、参加してみた。講演内容は、「創造と想像」という、きわめて深い切り口を用いて鮮やかに捌かれた聴き応えのある良い内容だった。「嘘と妄想」などという観点から、本を時として斜めに見る傾向のあるものにとっては、特に。ただ、司馬さんの作品解剖で、『播磨灘物語』に多くの時間を割かれたことはいささか気になった。「黒田官兵衛」は、姫路の人間にとって、いささか食傷ぎみであることをご存知なかったのだろうか▼『清冽』は、副題に「詩人 茨木のり子の肖像」とある。去年の11月に出版されている。茨木のり子さんのことは、「わたしが一番きれいだったとき」なる詩を以前に読み、鋭い”反戦の詩(うた)”だと思った記憶がある。「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」で終わる詩を読んだ時には、自分に対して言われた気になった。そう、茨木のり子という人物には、近寄りがたい強い個性を感じてしまった思い出があるのだ。そうした勝手な茨木のり子像が、この後藤さんの素晴らしい”評伝”によって、かなり修正を余儀なくされた。確かに彼女の代表作ともいえる「もはやできあいの思想には倚りかかりたくない」で始まる「倚りかからず」という詩には、ただの人間を寄せ付けない凛とした人となりを匂わせてやまないものがある。しかし、同時にあたたかい人柄や普通の市井人と変わらぬ人間性を知るにつけて、大いに親しみをも感じるに至った。恥ずかしながら、私は彼女の顔すら知らなかった。およそ美とは縁遠い怖いおばさんを想像していたのだが、なんと絶世の美人だったのだ。表紙に使われた写真の笑顔にはいつまでも惹き付けられてしまう。優しい佇まいのなかにも屹立した個性を感じさせる茨木のり子像を後藤さんは見事に描き切っている。読み終えて、しばし感じ入ってしまい、次の行動を直ぐには取れなかったほどだ▼「宗教(思想)と政治」の二つながらの道を追いかけてきた私のような人間にとって、「六月」の章は、とりわけ印象が強い。昭和50年の昭和天皇の公式記者会見での発言への彼女の直截的な憤り。これほど厳しい天皇の戦争責任を突いたものを、私は幸か不幸か知らなかった。「声なき声の会」に加わっていた彼女の『日記』のくだりを目にすると、時の政治に対する強い批判の眼差しを意識させられる。その時点での彼女の”思想的倚りかかり”を感じてしまい、彼女の肖像への淡い憧憬に瑕疵が生じるような気がするのは私だけだろうか。この章における後藤さんの解説的記述は妙に心に残る。「日本の戦後史にかかわる問題へ私も幾度か分け入った気がするが、霞の中に潜む鵺を追うごとく、掌握したという手応えのないまま徒労感にとらわれてしまう。今も上空のどこかに鵺の棲む霞は漂い、折々、往時の借財を思い出させて降りてくるのである」ー後藤さんの穏健なお人柄を思わせて余りあるような、慎重で微妙な言い回しに深く感じるものがあった▼後藤さんが料理する「司馬遼太郎」に惹かれて食べに行ったのに、「茨木のり子」の方を食べる羽目になり、むしろこっちの方が味わい深かったというのが率直な感想だ。講演会の後に、質疑応答の時間がもたれるというので、私は質問を用意したが、するいとまを失ったので、サインをしていただく列の先頭に立った。で、聴いてみた。「司馬遼太郎さんご自身は、自分が最も好きな本に『燃えよ剣』を挙げておられたようですが、なぜだと思われますか」と。この小説は私が二度読んだ数少ないものだからなのだが、忙しい折でもあり、後藤さんはあまり明確な答えを提示してくれなかった。尤も、質疑応答でも3人ほどが司馬遼太郎について細部にわたる質問をされていたが、回答はほとんど司馬遼太郎記念館の上村洋行館長(司馬さんの義弟)が答えていた。後藤さんが振ってしまわれるのだ。詳しくないことを知ったかぶりされない、慎ましいお人柄だとみた。私は割り切れない思いで、エレベーターに乗ろうとすると、丁度上村さんと一緒になった。早速に訊いてみた。「それは土方歳三が好きだったからでしょう」と。明快だったが、はぐらかされた気分になった。(2015・8・13)

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【115】1-④ 品行方正にはほど遠い国家━大沼保昭『「歴史認識」とは何か』

◆欧米文明を無批判に受け入れてきたことへの疑問

 先の大戦が「国家滅亡」と言っても過言ではないかたちで決着を見た、あの「8・15」から78年の歳月が経つ。かつて、安倍首相の「戦後70年談話」の文案をめぐって、あれこれと取り沙汰される中、私も改めて「歴史認識」を考えるよう努めたものである。8年前頃に出版された服部龍二『外交ドキュメント 歴史認識』を手にした。近頃、本の結論部分を先に読んで、その本の値打ちを図る癖がついていることもあって、終章の「歴史問題に出口はあるか」を真っ先に読んだ。だが、自分の理解力不足からか、なかなか没頭できなかった。外交面に絞った「歴史認識」をめぐる記録としての資料的価値は大いに認めるものの、読み物としては、あまり面白いものとはいえなかった。そんな折もおり、大沼保昭『「歴史認識」とは何か』が著者ご本人から送られてきた。かねて様々な機会に教えを乞う機会があった、尊敬する大沼東京大名誉教授のものとあって、これは貪り読んだ。もちろん、終章から。

 「歴史認識」問題は克服できるか、との見出しで始まるこの本の結論部分はなかなか読ませる。「非欧米諸国が経済力をつけ、国際的発言を高めていくなかで、これまで日本が中国や韓国から批判されてきたような構図が、こうした国々とかつての植民地支配国である欧米先進国との間でみられるようになるかもしれない」──明治維新に端を発し、日清・日露の勝利から昭和の戦争の敗北へという、日本近代の負の側面を思うにつけ、このところの私は、先行してきた欧米文明を無批判に受け入れてきたことの過ちに、思いをいたすことが多い。勃興するアジア披植民地国家によって、かつての欧米宗主国はやがて批判の矢面にたたされざるをえなくなるかも、との大沼さんの予測は的中する可能性が高い。遅れてきた帝国主義国家日本が先に受けた〝洗礼〟は、先行く国家群も必ずたどらざるを得ない道として。

◆やくざな国家群が入り乱れる複雑な国際社会

 この本はジャーナリストの江川紹子さんの質問に大沼さんが答えるという形式をとっており、きわめて読みやすい。行動する学者として、様々な運動に携わってきた大沼さんは、溢れ出る感情を時に隠さず対象にぶつけてきたひとでもある。この本でも、そのあたりの人間・大沼保昭が随所にドラマティックに顔を出し、大いに引き込まれる。「東京裁判」をめぐる記述の中で、インドのパル判事の「日本無罪論」は誤りだとして、いわゆる「常識」的な見方を批判する一方、オランダのレーリンク判事の生き方を、示唆に富むものとして評価をしているところは興味深い。

 冒頭部分で、著者は「現実の国際社会が単純明快に回答をだせるものではない」というある種〝当たり前の見方〟を提示している。一方、結論部分で「大部分の人間は俗人」「国家というのは『非道徳的な社会』(ラインホルド・ニーバー)ですから、人間よりももっと悪い行動を取る」「世界で生きていくうえで、わたしたちは『よりましな悪』を求め、それを積み重ねていくしかない」との含蓄ある見方を披歴している。わたし風に国際社会なるものを言い換えると、「やくざな国家群が入り乱れて生息している複雑きわまりない社会だ」ということになろうか。ともあれ、品行方正なる存在とは程遠い国家に、過度な期待を抱いてはならないといった見方がこの本の基底部をなしているように私には思われる。

 元慰安婦とのやりとりを紹介した一行には思わず涙せざるを得なかった。慰安所で重い病気にかかった時に、日本の軍医が一所懸命に治療をしてくれたというくだりだ。そのことを彼女は「大沼先生ね、わたしを地獄に連れてったのは日本人だった。でも地獄から救ってくれたのも、日本人だった」と語った、と。この言葉に日韓の関係の多くが集約されているような気がしてならない。

 「歴史認識」を今の時点で考えるうえで、この書物はとても得難い深い内容を含んでいる。多くの若い人たちに読むことを勧めたい。私は衆議院議員として、外交・安全保障の分野での議論に数多く参画した。しかし、「人権」をめぐる大沼さんの闘いには、残念ながら殆ど〝参戦〟できなかった。何人かの他党の先輩議員の協力的活躍が紹介されているくだりを読むにつけ、〝不戦敗〟だった自分を恥じざるをえない。

【他生のご縁 9-11直後に大沼宅でJ・カーチス氏交え懇談】

 同い年だった大沼保昭さんとの思い出は数多くありますが、中嶋嶺雄先生のアジア・オープンフォーラム京都会議が初の出会いでした。立食パーティで、しばし話し込みました。以後、「9-11」直後に大沼さん宅に招かれて、政治学者のジェラルド・カーチス氏とご一緒したことは忘れられません。米国人の怒りを直接リアルに思い知らされた場面でした。

 東京大学での最終講義にも駒場キャンパスまで聞きに行きました。また愛娘の瑞穂さんが参議院選に出馬する際には、あれこれと先輩議員としてのアドバイスもさせて貰いました。こうしたお付き合いのベースには市川雄一さんと大沼さんとの信頼関係があり、私はそのお相伴役に過ぎませんでした。

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(114)『エセー』と過ごせば暑い真夏の夜も……ーコンパニョン『寝る前5分のモンテーニュ』

暑い日々が続く。熱帯夜の中で、トイレに行ったのちに、汗にまみれた肌着を取り換え、二度寝をする際の気持ちよさ。こんなことはかつてなかった。要するに私も歳をとったということなのだろう。1999年に思いたって、足掛け17年にも及ぶ長い時間、この読書録を書期続けてきた私だが、まことに楽しい経験を積み重ねてきたものだと思う。歳をとることは時に辛く寂しいものではあるが、また一面、滅法面白くこころ踊ることでもある。本との出会いも老いて益々盛んになってくる。嬉しいことだ。私は、ずっと新聞、雑誌の書評欄や友人、知人の勧めなどから読む本を選んできた。このため、どうしても古典がなおざりになり、今流行りのものに手が向きがちになるのは否めない。でも、時に古典の凄さを教え、誘ってくれる本との出会いから、原典に立ち向かう喜びに直面することもある。アントワーヌ・コンパニョン(山上浩嗣・宮下志朗訳)『寝る前5分のモンテーニュ』を読んで、ついにモンテーニュ(宮下志朗訳)『エセー』の深みにはまるに至った▼「エセー」入門という副題を持つこの本は、もとは「モンテーニュと過ごす夏」あるいは「ひと夏のモンテーニュ」といった風な訳がなされるものだが、訳者たちが入門書を強調するべく「寝る前5分に読む本」とした。現にフランスのラジオ番組で今から3年前の夏に毎回5分、40回にわたって放送されたものを出版したという。生真面目な私は枕元に置いて、寝る前に一章ずつつまり5分間分だけ読むようにした。ただし、5分がいつの間にか長いものになってしまったことは言うまでもない。著者は前書きで「モンテーニュのいくつかの断章だけを紹介するというのは、わたしが学んできたすべてに、わたしが学生だったころに当たり前だった考え方に、まっこうから反する行いだ」と言う。ただ、そういうことは結構頻繁に行われており、「とてつもない暴挙」というほどのことではないと思われる。問題は殆どそういう試みが成功していないということである。しかし、この本は見事に成功しており、鮮やかな『エセー』手引書の役割を果たすものとなっている▼一度全体を読んだ後、『エセー』第一巻を購入し、そこに該当する数か所を拾い読みした。で、さらに訳者あとがきで、山上氏が勧める、死、他者との交流、宗教に関わる主題を扱う5つの章に限って再度読み直した。確かにコンパニョンは「引用文を明快に分析」してはいるが、「モンテーニュの思想について断定的な結論」を下すには至っていない。ゆえに、読み手の自由な発想による思索を可能にしてくれる。まず「抜けた歯」の章で、モンテーニュが25歳と35歳のときの二枚の肖像画と今の自分を比較して、若いころの姿が遠ざかって、死に近づいていることを、著者は引用している。で、歯をはじめ自分の体の部分のあれこれの不調に端を発し、やがて「最後の死」がすべてを奪い去るものだと言う。しかし、私はこの記述には物足りなさを感じる。むしろ少年、青年、壮年、そして老年期と幾つもの違う人生を楽しんだすえの結果としての死だという点を銘記すべきではないか、と考える。また、「他者」の章も面白い。「ことばとは、半分は話し手のもの、半分は聞き手のものだ」とのモンテーニュの文章を引用しながら、会話をテニスなど勝負を決するためのものと、友好を表現するものとに分けて、どっちにみなすかで、モンテーニュはその間を揺れているというのだ。確かに「他者とのつきあいが自分との出会いに役立ち、自己を知ることが他者と向き合う手段となる」との指摘は味わい深い。時に、一方的に自己主張をするばかりで、相手の言葉に耳を貸さない自分を思い起こし、恥ずかしい限りだ▼さらに「書物」の章は白眉だと思われる。「書物との交わりは、わたしの人生行路において、いつでも脇に控えていて、どこでも付いてきてくれる。老年にあっても、孤独にあっても、わたしを慰めてくれる」と、モンテーニュは、美しい女性と、心地よい男の友人という二つの交際との比較をしたうえで、三番目の書物との交際を最上のものとして挙げている。いや、美しい女との交際の方が、とか稀ではあっても男の友情の方が、などと無粋なことは言うまい。人生の流れの中でそれぞれが重要かつ得難いものではある。しかし、老年になればなるほど、書物の味がより勝ってくるとの予感は確かにしてくる。尤も、モンテーニュの時代と違って、今や活字文化から電子書籍へ、つまり印刷からITの時代へとの変化をコンパニョンは見逃しているのではないか。私にいわせれば、書物との交わりも捨てがたいが、同時にパソコンとの交わりも重要だ、と。書物を読み、読んだ本の中身を、こうしてパソコンを叩いて表現して他者に見てもらうなどということが、かつて考えられただろうか。まことに良い時代に生まれ合わせたものだと、こころの底から思っている。このように、このモンテーニュ入門書は、あれやこれやと想像の翼を広げてくれ、新たな創造の海へと誘ってくれるのだ。(2015・8・5)

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