死にゆく流れの革命ー帯津良一『かかり続けてはいけない病院 助けてくれる病院』を読む

歳を取ると、「きょうよう」と、「きょういく」が大事という。「教養と教育」ではない。今日用事があるか、今日行くところがあるか、ということを揶揄って云うのだが、その重要な要素として、医者通いがある。老人にとって病院は、用があり、行くべきところのベストワンなのだ。御多分に漏れず、私も病院に行く機会が滅法増え、薬局で薬を貰うことが重要な〝しごと〟になってしまった。帯津良一さんのことは数年前に国会議員のOBの集まりで講演を聴く機会があり、その名声の寄って来たる所以が分かったものだ。今回のこの本は我が親友が推薦してくれたもので、飛びついて一気に読んだ。だけでなく、老義母、老妻と家族3人がそれぞれ手にして、それぞれの読み方をした▼私は国会議員を引退する少し前に、脳梗塞を患った。お陰様で10日ほどの入院、点滴治療だけで、大事には至らず、後遺症もないまま無事に退院できた。それは良かったのだが、その原因には長年の糖尿病罹病があげられる。血管に関する〝兇状持ち〟とも云え、今に至るまで医者、病院との関係が絶えない。どころか、東京在住から兵庫県に転居したため、主治医が変わった。それから7年。現在では、セカンドオピニオン、サード、フォースと続く。やがてファイブにも及ぶかもしれない。それぞれの医師は良い人たちなのだが、私を次々と襲う症状になかなかマッチする治療、アドバイスはしていただけない。そんな私にとって、帯津さんのような医師がそばにいてくれたらと思うことしきりである。第1章の「現代の医者、病院の問題点11カ条」から、第5章「『寝たきり長寿』にならない、最強養生12カ条」まで、全て大いに頷ける内容だ▼そんな中で、私が最も興味深く読んだのは、第4章「誰もがうらやむ『死』を迎えるための8カ条」だった。特に、人が死にゆく流れとして、❶食物を受けつけなくなり、穏やかなまどろみに入る❷水分を欲しがらなくなり、意識低下の状態からボンヤリする❸酸欠状態になって、意識がボーッとしてくるーという死のメカニズムを述べたくだりである。この流れに逆らって、延命をしようとするところから様々な問題が起こってくる、との指摘は極めて重要だと思われる。これに付随して、「ふだんから死生観を養うこと」、「死は敗北ではない」、「人間には『死にどき』があり、それは自分で見つける」のだ、といった論考はまことに参考になる。ただし、死にどきのタイミングを見つけることが至難のわざだから困る。その辺りについてはイマイチ読み取れないのは残念だ▼この本における圧巻は、死は大いなるいのちの循環のなかのワンシーンだと述べているところだろう。ただ、「いのちのエネルギーをどんどん高めていって、死ぬ日が最高のエネルギーになるように持っていく」と言われているところには、いささか矛盾を感じざるを得ない。前述したような死に至る流れにある人間にとって、どうしてそんな芸当が出来るのか。意識が朦朧としている人間に「スペースシャトルが大気圏外に飛び出すように、向こうの世界にバーンと飛びだしていく」ことはできるはずがない。「そのためにはどんどん人生に『加速度』をつけていかなければなりません」と言われても、困るだけ。恐らく、大きく言って、死にゆくパターンは二つあって、平凡な穏やかな死と非凡な激しい死とに別れるのだろう。帯津さんは後者を目的にしているはず。「一人ひとり三百億年の軌道を生きる同志です」とまで言い切っておられて小気味いいばかり。さて、どっちを選ぶか。今のところ私はギリギリまで、帯津的死に方を志向して、最後の最後は平凡な死に方をするのだろうと思っている。

Leave a Comment

Filed under 未分類

自民党本部での講義録ー山内昌之 細谷雄一編著『日本近現代史講義』を読む

副題の「成功と失敗の歴史に学ぶ」と、帯にある〝基本が身につく14講〟に惹かれて購入した。山内昌之氏と細谷雄一氏の編著による『日本近現代史講義』である。最も面白く読めたのは、序章の山内氏による「令和から見た日本近現代史」。第2章も著者の率直さが気に入った。あとはいささか平板であり、気合いが入っていないと言わざるをえない。どうしてそういうものが多いのかと疑問を持った。「おわりに」を読んで、合点がいった。自民党本部での「歴史を学び未来を考える本部」での講義(2015-12〜2018-7)をもとにまとめたものだからである。「(日本の政治家が選択してきた道を)虚心坦懐にそのような過去の軌跡を学び、政治家がどのような選択を行ってきたのかを知ることが肝要だ」と、いみじくも細谷雄一が、あとがきで書いているように、これは入門編であって、「よりいっそう深いもの」「よりいっそう視野の広いもの」となることは今後の課題とされている▼それでも興味深かった章は、序章と1章、2章の三つがあげられる。特に序章の山内昌之の論考は実に魅力に溢れている。かつて私が師事した永井陽之助先生の筆致を思い出せるが如く、古今東西の歴史を自在に掘り起こしつつ、巧みな比喩で鮮やかに比較し、手際よくさばく。この人の手にかかると、平凡な具材を使って美味しく味あわせる料理人を彷彿とさせる。近現代の歴史解釈における誤解の一つは、日本にはこれまで国家戦略がなく、日本人には戦略的思考がないというのは不幸な思い込みだとしているところは惹きつけられた。むしろ「日本人は戦略下手どころか歴史的にすこぶる高度な『戦略文化』を駆使してきた」(エドワード・ルトワック)との引用まで持ち出している。そう、この400年における「完全な戦略的システム」を作り上げてきたリーダー・徳川家康を礼賛しているのだ。家康と江戸時代を再評価する向きは近年少なくないが、山内氏も「稀有の軍人政治家」として「総合力」を評価し、カエサルやナポレオンに勝るとも劣らないかの如く持ち上げているのは実に新鮮な印象を持つ▼また第1章の「立憲革命としての明治維新」は著者の意図とは別に、今の憲法論議を想起しつつ読むと興味深い。「明治における立憲体制の確立は世界史的な意義を持って」いるとして、「これから立憲制度を導入しようとする国」や、「制度は導入したがうまく機能していない国に対して、何がしかの助言ができる立場にある」と述べている。確かに明治維新とその後の国作りはそれだけの「知的資源」を有している。だが、それからほぼ半世紀後における敗戦時の憲法の作られ方および、70年後の今に至る憲法に対する日本人の向き合い方は、およそ「知的資源」を感じさせないと言う他ない。この章を読みながら、改めてつい先程私自身が産経新聞のインタビューで答えたあれこれのことを想起せざるをえない▼また、第2章の「日清戦争と東アジア」も極めて刺激的だった。「朝鮮戦争がまだ正式に終戦を迎えていない」現状において、「日清戦争はいまなお、終わっていない」とする捉え方は、日中間の現状を見るにつけても示唆に富んでいる。著者・岡本隆司氏が「歴史的な『相互理解』の欠如を」あげているくだりは、率直な物言いで好感が持てる。「その言動(大陸と半島としているが、中国と朝鮮半島に違いない)が往々にして理解できない。これはいま現在だけではなく、歴史を読んでみてもやはりそうなのであって、極端にいえば、勉強すればするほど、わからなくなる、という世界である」という。加えて「けっきょく本章は、歴史を教えている教師が、歴史にもっと目を向けて欲しい、というごく平凡な願望の吐露に終わってしまった」とも述べている。歴史を学びつつも、現代国際政治や国内政治を追ってきた我が身を振り返るとき、ふと無駄なことに人生をかけてきたなあとの寂寥感を持つ。国家の興亡などを追っても意味があったのかと。

Leave a Comment

Filed under 未分類

仏教の女性蔑視という誤りー植木雅俊『差別の超克』を読む

植木雅俊氏といえば、今をときめく仏教思想研究家。去年の4月にNHKのEテレ「100分で名著シリーズ」に『法華経』で登場、好評を博したので、ご覧になられた方も多かろう。この11月には再放送される運びというから、見逃された向きには嬉しい知らせと思われる。ところで、この人の数ある著作の中で、最も初期の頃のものが『差別の超克』である。副題は、「原始仏教と法華経の人間観」。このタイトル、少々近寄りがたい。これでは皆が敬遠するに違いない。簡単にいうと、仏教は女性差別の教えではない、となるのではないか。これは読むにあたって著者の周辺を探ってみた結果の私の直感的まとめである▼仏教が女性蔑視をしていたという説があるそうな。それは根拠のないことではない。ただ、釈迦がそう説いたのではない。釈迦滅後の保守・権威主義者たちが差別し始めたのを、あたかも釈迦の主張のように歪めて伝えられたものだという。そのことを微に入り細にわたってきっちりと捉えて解説したのがこの本である。この辺りのことについて興味のある向きには必読の書だといえよう。ただ、私のような少々へそ曲がり的女性崇拝者は、あまり関心を抱かなかった。尤も、読んでみてなるほどと納得したことは多い▼こんな話がある。先年、近くの県立大に岡山県から入学したばかりの新入女子学生たちと懇談した際のこと。私が「男はみんなオオカミだよ。男女交際には気をつけてね」などとつい余計なことを口走った。すると、そばに居合わせたある女性起業家が「それはちょっと違うのでは。今は男子学生は意気地がなく、女性の方がよっぽど狼かも」ときた。それが証拠の一例として、受験時に、勉強が出来そうな(つまり賢そうな)男子学生のそばにいた女子がチラリチラリとスカートを上げて、動揺を誘うという話を披露したのである。戦後強くなったものは靴下と女性と、その昔に言われたものだが、遂にそこまできたかとの実感がする▼こうした時代状況の中で、仏教の女性蔑視などということを取り上げること自体、果たして意味があるのかと思ってしまう。返って、仏教の後進性との指摘を招き、藪蛇にならないのかと。そう思って、長きにわたって、植木雅俊さんの本の中でこれだけは敬遠してきた。で、今読み終えてやはりその感は拭えないのだが、仏教の歴史の中での捉え方はよく分かった。少し注文させてもらえば、キリスト教やイスラム教との比較の中での人間観、女性観を明らかにしてくれればもっと良かったと思う。ところで、この11月から京都と大阪のNHK文化センターで植木さんによる仏教講座が始まる(1年間)という。京都では『法華経』、大阪では『仏教、本当の教え』が教材だとのこと。そこでは植木さんにはぜひ、「法華経、本当の教え」を講義して欲しいと思うのだが、どうだろうか。

Leave a Comment

Filed under 未分類

四国遍路と幼児誘拐事件ー柚月裕子『慈雨』を読む

定年退職した警察官・神場が妻とともに四国八十八ケ所のお遍路旅に出る。その旅の最中に彼が現職だった群馬県警の所轄で、少女誘拐事件が起こる。後輩たちと協力しつつ、事件解決に意を配りながら続けるお遍路。16年前に自らが捜査に携わった事件と酷似していることが痛烈に心を疼かせる。曖昧かつ不確かな終わらせ方をしてしまった以前の事件と新たな事件との間に、もし繋がる背景があるなら、第三の事件がまた起こるかもしれない。殉職した仲間の一人娘を養女にしていた神場夫婦。後輩の刑事・緒方がその養女と愛し合う仲に。警察官という過酷な仕事と家族という愛の結節場の絡み合いの難しさ。徳島から高知、愛媛を経て香川へ。巡礼の旅のゴール直前に一気に解決へと事件捜査は展開する▼この人の本を読むのは2冊目。最初に読んだ『孤狼の血』はとてつもなく迫力があった。同名の映画は、かつて興奮して見た映画『仁義なき戦い』に勝るとも劣らない内容だった。女性の作家とは俄かに信じがたいほどというと、パワハラになるかもしれぬが、ハードボイルドそのものの作品だった。今度読んだ『慈雨』は新聞広告につられて読んだもの(いきなり文庫本発売が嬉しい)で、読み終えての手応えはまずまず。女性らしい視点が随所に窺えるきめ細やかな配慮が読み取れる作品ではあるが、人物の描き方がやや淡白かもしれない。中心人物以外、人物像が今いち印象に残らない。その分、お遍路の周辺のことには詳しい。作者が歩かねばこうは書けないはず▼四国遍路といえば、因果なことに菅直人元首相を思い起こす。宗教的体験を政治に利用した粗忽でいい加減なケースである。日蓮仏法の信徒としては「真言亡国」との日蓮の規定づけが思い浮かぶが、今流行りの地域おこしにとって四国はこれ無くして語れないから厄介だ。総本山の高野山は今やインバウンドの聖地の感すら漂うが、お遍路は距離からも数からいっても遠く、かつ対象が多すぎるかもしれない。このところ徳島に行く機会が多く、後学のためにと一番寺の霊山寺には行ってみたものの、今関わっている美波町の薬王寺には外見だけでとても行く気にはならない。そういう風にこの本におけるお遍路の描き方には興味がないわけでは無かった。だが、このことは事件の本質と全く関わらない▼幼児誘拐殺人事件はこのところ頻発している。いたいけな少女を誘拐し性的な陵辱を加えるなどして、死に至らしめるなどといったことはおよそ許しがたい犯罪である。この手の犯罪者が繰り返す心理や、全国の刑務所におけるこうした犯罪で刑に服する者たちの数などあれこれと語られる。私はこうした犯罪のディープな描かれ方にはとんと興味がない。悲惨な現実、目や耳を覆いたくなるような場面は生理的に受け付けない。大嫌いだ。「お家に帰りたい」という幼女の言葉を聞いただけで胸塞がる思いだ。この小説はむしろそういうことよりも、夫婦の情愛、親子の心理、職場の厚情などに注目すべきくだりが多いかもしれない。この夏休みに訪れた姫路市北部の安富町にある日本で唯一の坑道ラドン浴・富栖の里の洞窟で、これを読みふけった。そしてひとっけが全くない田舎のログハウスに泊まった。夜の夜中に夢の中で、窓から覗き込む人影を感じて目を覚ました。不気味で気持ちが悪かった。昼間読んだ小説の場面からの影響だった。真夏の夜の出来事にしてはまったくできが良くない。(2019-8-10)

Leave a Comment

2019年8月10日 · 7:49 AM

誘われる村上春樹との比較ー夏目漱石『それから』を読む

第一巻から読み進めてきた漱石全集も第6巻となった。『それから』である。漱石の小説のタイトルは凝ったものや単なる思いつきのものなど、色々とあるが、これは動的な印象を与えるだけ良い部類に属すると思われる。『三四郎』から『門』に至る漱石の前期三部作の中間に位置するもので、さあ、それからどうなるのかって、発表当時には新聞小説の読者に期待を抱かせたに違いない。男女の出会いから始まって別れに至るまでの種々の類型を描いたものとして、興味深く読める。ここでは『それから』に見る、漱石文学と村上春樹文学との類似性やら異質性などほんのチョッピリ感じたままを述べてみたい▼まず、この小説のあらすじを超戯画化的に要約する。主人公(代助)は、友人に自分が好きだった女性を斡旋して結婚させてしまう。ところがその二人の仲が良くないと見るや、かつての自分の思いを復活させ、その女性に言い寄る。彼女もこれを受け入れる。という筋立てを知った友人は主人公の父親にその非を訴える。30歳を越えて結婚をしない息子に業を煮やしていた親父はその理由を知って激怒し、勘当してしまう。生活の全てを委ねていた父親に見捨てられ、主人公は波のまにまに漂う。およそ乱暴なまとめだが、この間に重要なファクターとして彼女の心臓病という患いが厳然とした位置を占める▼こうした出来事は私たちの周りにも散見されるのではないか。尤も、二人の仲が悪くなることや、不幸を期待しながら、期待ハズレに終わったり、あるいは、言い寄ったところで、受け入れられずに終わるなどといったケースが多い。わたしは最近、村上春樹の小説を時に応じて繙く。100年の歳月を隔てて、漱石と春樹というそれぞれの時代の寵児の小説作法の違いや類似性に思いを寄せてみるのは面白い。この二人の作家、描くところの主人公の人間の佇まいが極めて似通っていることに驚く。風来坊というべきか、全く呑気な自由人が描かれる。「何でも都合のよさそうな時間に出る汽車に乗って、其の汽車の持っていく所へ降りて、其所で明日迄暮らして、暮らしているうちに、又新しい運命が、自分を攫ひに来るのを待つ積であった」ーこういう主人公は春樹のものにも、いつも出てくる。先日取り上げた『騎士団長殺し』や、この間読み終えた『海辺のカフカ』などにも。明らかに春樹は漱石を意識していると私には思われる▼一方、違いといえば、漱石のものには出てくる処世訓じみた記述が春樹にはなく、ひたすら音楽や絵画など現代芸術や風俗に関する蘊蓄が披瀝されるばかり。そして男女の濡れ場が露骨な表現を持って直裁に語られるものと、比喩を通じて回りくどく、時に秘められたように語られるものとの違いも大きい。例によって、『漱石激読』では、「代助の性的な欲望も花に託されています」とか、「当時の内務省の検閲官に読み取れなかった性的な描写が漱石の小説にはものすごく繰り込まれている」と云った風に〝深読み〟が繰り出されて、ただただ圧倒される。それにつけても「心臓小説」であるとか、「植物小説」だとか云われると一体自分は何を読んだのだろうかと、自信喪失に陥ってしまう。(2019-8-6)

Leave a Comment

Filed under 未分類

無実の選挙違反で逮捕された女流作家の叫びー柳谷郁子『風の紋章』を読む

今回の参議院選挙が始まったばかりの頃、姫路に住む作家の柳谷郁子さんとお会いする機会があった。彼女の著作はこれまで幾たびか取り上げてきた。評論家の森田実さんとのご縁を私が取り持ったこと。そこから新たな出版社との繋がりも出来ることになった。そんなこんなで親しさも増したが、彼女にとってとても大事な本である『風の紋章』は読まずにきた。無実の選挙違反で留置場に入ったとのテーマに、どうしても触手が動かなかったからである。それが変わったのは、ご本人からの「読んで欲しい」との改めての強い勧めが全てだった。喜寿をとっくに過ぎたご高齢にも関わらず、凛とした中に美しさを湛えた佇まい。その秘密を解く鍵がこの本の中に込められているのではないかと思い直し、頁を捲っていった▼1991年の統一地方選挙で、それまで姫路市議だった夫君が県議選に出馬し落選した。その直後に若い事務所員がアルバイト料の買収容疑で警察に逮捕された。およそ信じられない事態を前に、彼女は身代わりを申し出て、そのまま共に逮捕される。その事実を基に、釈放後一気に書き上げたという。サブタイトルは、「留置ナンバー・婦55」と生々しい。参議院選挙の最中でありながら、神戸までの車中といった細切れの時間を寄せ集めて一気に読んだ。罪深き警察の誤判断。巧言に隠れた選挙の裏面。立場が狂わせる人の振る舞い。作家、市議夫人として多くの人々の信頼を勝ち得ていた存在が、海岸の盛砂のように崩れゆく様がリアルに赤裸々に描かれる▼彼女のこの事態における行動を突き動かしたものはただ一つ。無実の罪を被せられた青年を救いたいとの一念だけ。それあるがゆえに身代わりを申し出た。ところが警察権力はそう甘くない。結局二人とも逃れられぬ身に。この辺りの狂おしいまでの筆致は読むものをして、奈落の底に突き落とすかのように切ない。取り調べにあたる刑事。留置場における看守。同じ場所に盗みの罪で入ってきた「ぞっとするほど綺麗」な少女とのやり取りなど一つひとつ深く心に残る。選挙という〝祭りごと〟の背後に、一皮めくると暗い別世界が潜むことを突きつけられる。しかし、それでいて人の世の情けというものの有難さも十二分に味わえる。とりわけ最終節の「天からの贈物」はもう涙無くして読めない。そして強く堅固な家族の絆にも▼実はこの時の兵庫県議選に私は出馬する予定だった。直前の衆議院選で次点落選し、県議選に鞍替えをする決意を固めていたのだ。だが、結局は衆院選に再挑戦することとなり、ギリギリで取りやめた。その後暫くして私は無事初当選した。〝苦節足掛け5年〟に翻弄されていた私には、柳谷さんの苦悩は戦場における〝遠い砲声〟のようにしか聞こえなかった。当時は未だ知己を得ていなかったこともあるが、申し訳ないしだいである。以来今日まで多くの政治家や関係者が様々な理由で獄に繋がれるケースを見てきた。最も印象に残っているのは、共に厚労省で働いた村木厚子さん(後に事務次官)の冤罪である。彼女とはひと夜じっくりと体験談を聞く機会があったが、やはり家族の有難さを命の底から語られた。どんなに辛くても夫や娘の励ましあったればこそ乗り切れた、と。獄中で塩野七生の『ローマ人の物語』全15巻を読みきったとの話と合わせて忘れがたい。中国の故事に「疾風に勁草を知る」とある。柳谷さんも、村木さんも、「怒髪天を衝く」思いを持ちつつ、共に見事に乗り越えられて今があることをしみじみと感じさせられる。(2019-7-25)

Leave a Comment

Filed under 未分類

山口代表の青春期に与えた親父さんの影響ー新田次郎『ある町の高い煙突』を読む

なぜ今この本なんだろうか。遥か昔の1968年に『週刊言論』ーこれがまた懐かしい。創価学会系の週刊誌ーに初めて書かれた。単行本が翌年に文藝春秋から刊行された企業公害にまつわる本である。そしてついこのほど50年ぶりに文庫(1978年刊)の新装版として出された。その上、映画化もされたというから凄い。新田次郎『ある町の高い煙突』を私が読もうと思ったきっかけは、なんと、山口那津男公明党代表のインタビュー記事(毎日新聞5月21日付け)を見たことによる。新田次郎氏と同じ気象庁勤めだった山口代表の親父さんが、新田氏に語った史実が小説誕生の発端だという▼筋立ては、明治から大正期にかけて茨城県日立市の煙害問題で、鉱山側と被害者の農民側が交渉した結果、156mもの超高層煙突を立てることで、公害被害を克服したというもの。加害者としての企業と被害者としての住民側が、力を合わせて問題解決に当たったところが他の公害のケースと全く違う。当初は対立していたが、やがて一体となって課題解決に当たるようになる。ここらあたりが今になって、脚光を浴びていることの背景にありそうだ。尤も、小説の運び方としては、新田次郎の他のものに比べて、いささか物足りない。男女の描き方の淡白さも、主人公の人間的掘り下げにも不満足感が残る▼じつは、先日参議院兵庫県選挙区の公明党・高橋光男候補の選挙事務所に山口代表が立ち寄られた。束の間、応接コーナーで事務長を務める私と、二人だけの会話をした。「遥か以前に話題になった本がなぜ今また?」「SDGsの影響ですね」「はあ」ー日本だけの枠組みではなく世界的な観点から見て、持続可能な社会を目指すということだろうかー「中国を始めこれから世界で公害問題が先鋭になってくるのでね」「なるほど」「父が着眼したことが今に蘇ってきて、感慨深いですよ」「私はまた原発事故との絡みかと」「それもあるでしょうけどね」ー先の毎日新聞の記事によると、山口氏は、課題にぶつかった時の当事者のありかたとして、「粘り強い対話」や「課題を直視していかに克服するかという高い志」、そして「互いに協調して課題を乗り越えていく姿勢」といったことを学んだと語っている。対立、対抗、分断でなく、対話によって協調して課題を解決することを、高校生の時に父から叩き込まれたような気がする、とも述懐しているが、やはり「栴檀は双葉より芳し」といったところか▼山口代表とは長い付き合いだが、こうしたことは初耳だ。公害問題追及から政党間の合意形成まで、戦後政治史における先駆的役割を果たしてきた公明党。その中興の祖とでも云える山口代表の精神形成に預かって大きな力があったと思えるのが、父上の見聞録だったとは。このお話の主人公関根三郎と山口那津男がわたしには重なって見えてくる。今から46年前に池田先生が結成された「中野兄弟会」。千人を超える当時の創価学会中野区男子部の仲間たち。その中から5人の国会議員が誕生した。山口那津男、漆原良夫、魚住裕一郎、益田洋介(故人)、そして私。私を除く4人はいずれも弁護士経験者。今回、魚住氏の引退で、もはや現役政治家は山口氏だけになってしまった。政治家の資質が問われる中で、同氏は一段と重要な存在になってきている。これからもっともっと政治周辺のことやら、公明党の歩むべき路線についても語って欲しい気がする。(2019-7-13)

 

 

Leave a Comment

Filed under 未分類

日本の未来を変える力ーしもの六太『君のために走り続けたい』を読む

ユニークな体育の先生が参議院福岡選挙区の公明党の候補として出ると聞いて深い興味を持った。そして当のご本人が書いた本を読んだ。しもの六太『君のために走り続けたい』である。サブタイトルは、「国は人がつくる   人は教育がつくる」。帯には「世界一受けたい教育を、この国に!」とある。読ませるに十分なキャッチコピーが並ぶ。おまけに、表紙扉を開くと、新しーもの  たくましーもの  素晴らしーもの しもの六太 と「君のために走り続けたい」との「しもの六太ソング」の歌詞が続く。ユニークな人の魅力溢れるユニークな本である▼地元福岡の新聞やテレビで紹介された「しもの式体育」の真骨頂とは何か。先生が頂点にいて生徒たちに命令を下すとの上意下達方式でなく、ひとりの生徒も置き去りにしないように、目配り気働きを貫くところにポイントがある。しかも、「出来る」生徒が「出来ない」生徒の横についてアシストするという仕組みだ。名付けてスモール・ティーチャー=ST。これって聞くと、なるほどと思うものの実際にはそう簡単ではないはず。先生と生徒の絆が相当に強くないととてもうまく行かぬだろう。現場を見たいとの欲求が募る。水泳の授業でクロールを全員がマスターするまでの経緯など、読み終えて心から賞賛したい気持ちになる▼「いじめ」から「不登校」そして「引きこもり」といった昨今の教育現場で起こっている非常事態についても、しもの先生の一人も置き去りにしないとの執念と行動力には頭が下がる。「ヒューマン」という生徒相互の「日常の思い」の記録を発行したり、不登校の生徒をランドクルーザーに乗せて遊びに誘ったり、生徒たちとのキャンプを独自に企画するなど、実に多彩な試みを繰り出す。それもこれも子供たちの心のひだに分け入る行為に違いない。ハードルを前に「どこをどうしたらうまく跳べるようになるんか。全然わからん」との子供の正直な言葉を聞いて、しものさんは「だれにでも実践できる体育」を研究し始めた。この辺り、鉄棒も跳び箱も、勿論水泳のクロールもろくすっぽ出来ずに学校を卒業した私など、生まれ変わってしもの先生に教えて貰いたいような気持ちになる。高額の視聴覚機器を私財を投げ打って購入し、「実験証明」してみせたというのだが、何でも公的補助金に頼りたがるどこかの誰かに見習わせたい▼こうした体育の先生・しもの六太という人物はどんな環境で育ったのだろうか。第1章「たくましき庶民の誇り」と第3章「夢は必ず叶う」は、テレビドラマにしても必ず高視聴率を得るに違いないと思わせるような、人情味溢れる家族のありようが描かれている。実に面白い。一方、最終章の「未来への扉」では「世界一受けたい教育をこの国に」というキャッチコピーのもとに❶一人も置き去りにしない❷家庭における教育費負担を軽減❸子どもの命を守るーといったビジョンが示される。教育現場での実績を基にしたものだけに迫力がある。巻末には、鉄棒、マットの授業風景がタレント林家まる子さんとひとり娘のこっちゃんとの写真で紹介されていて分かりやすい。逆上がりが出来ず悩んでる我が孫に見せたい。そして〝夜回り先生〟の水谷修さんとの教育対談も。「日本の未来を変えるのは体育教育だ」との二人の合意が力強く伝わってくる。これまで「教育立国」なる言葉を口にし、また人からも数多聞いてきた。だが所詮は空理空論の域を出ないものが多い。それがこの本を読むと、あるべき「教育」の姿がくっきりと浮かび上がってきたとの実感を持つ。見かけは薄いが、実に厚い中身を持った本に出会って大いに満足している。こんな政治家が活躍する日が待ち遠しい。(2019-7-6)

Leave a Comment

Filed under 未分類

燦然と輝く一期6年の活躍ー矢倉かつお『現場を走り 世界に挑む』を読む

Continue reading

Leave a Comment

Filed under 未分類

名外交官の道を飛び超えるためにー高橋みつお『世界を駆けた、確かなチカラ。』を読む

Continue reading

Leave a Comment

Filed under 未分類