軽妙洒脱なドイツ文学者の「老いと死」ー池内紀『すごいトシヨリBOOK』を読む

ドイツ文学者の池内紀さんが亡くなられる2年ほど前に出版された『すごいトシヨリBOOK』。このところ毎日新聞(出版元)の一面下の広告欄にしばしば登場している。タイトルも気になるので、読んでみた。理由は二つ。一つは同氏が私と同じ姫路出身であり、生前一度だけだがお会いしたことがあるから。二つは、最近年老いた知識人ー曽野綾子、石原慎太郎氏らーが老いを巡る考察を次々と出版しており、比較してみたくなったこと。コロナ禍のため図書館が休館になる前に借りて読んだ。後味は悪くはないが、いささか羊頭狗肉で、誇大広告のような感がする。買わなくて良かったと思っている。恐らく本人はあまり気が向かなかったものと思われる。というのも書き下ろしでなく、編集者の聞き書きだからだ。ご自身が熱を入れて書かれたものなら、こんな風ではないというくだりが散見される。もっと深みのある重い老人論を池内さんからは聞きたかった▲勿論、池内さんらしい軽妙洒脱さも随所に。代表的なものを紹介する。一つは、眠りについて。寝られない時は無理せずに起きる。その代わり、朝昼夕夜と4回ぐらいにわけで小出しに寝るといいというのだ。「眠りは短い死、死は長い眠り」とドイツ語でいうから、「短い死を経験しておくと、長い眠りのコツがわかっていい」と。さてさて池内さんはコツを習得されたかどうか。二つは、泌尿器について。池内さんは自らのイチモツをアントンと名付けたそうな。元気な時は「張り切り大王」「モリモリ先生」などなどだったが、今では「しょんぼりくん」「うなだれの君」などと言われたりする、と。このくだり、さもありなんと大いに笑えた。三つは、死について。歌人・窪田空穂が死の床で詠んだ「まつはただ 意志あるのみの 今日なれど 眼つぶれば まぶたの重し」を挙げて、「そんな物理的な体の重さを感じながら、人間は死ぬんじゃないか」といいつつ「僕は、風のようにいなくなるといいな」と結んでいる▲その池内紀さんが去年夏に出版された『ヒトラーの時代』を巡って、ネットの世界で話題になっていることに触れたい。実は今の今までその話題は知らず、本も未読だった。ところがひょんなことから、舛添要一さんがこれに絡んでいることを知ってその本にも興味を持った。何が話題になっているかというと、『ヒトラーの時代』に些細な記述の間違いなどがあり、それをドイツに関する日本の歴史家たちが猛然と批判しているとのこと。で、それを知った舛添さんが池内さんに加勢しているのだ。舛添さんに言わせると、ドイツ文学者が専門外のヒトラーについて語る資格はないという歴史家たちのいいぶりはおかしく、池内さんの指摘(普通のドイツ人がヒトラーを支持していた)は全く自分も同感だというのである▲それというのも舛添さんも池内本と踵を接するように『ヒトラーの正体』なる本を上梓しており、ほぼ同じ趣旨のことを書いたからだという。この二つの本は読んでいないので、そのうち、読んだ上で改めて取り上げるが、私は歴史家たちの批判も分かるような気がする。つまりは嫉妬である。池内紀さんはドイツ文学、舛添さんはフランス政治史が専門。専門外の人間によって、自分たちの領域が侵されるのが、歴史家のみなさんは、気に入らないのである。ご両人ともそれぞれ有名なだけに本を書けば売れるわけで、それも腹が立つ理由に違いなかろう。舛添さんの主張が正解だと思うものの、世の中正論だけではないよ、と言いたくもなる。で、先日NHKのBSテレビで、『独裁者ヒトラー 演説の魔力』なる番組を見た。見事な切り口、出来栄えに圧倒された。90歳を悠に越えたドイツの老人たちが、ヒトラーの演説に魅せられた若き日の自分たちのあの体験を、口々に語っていた。なぜあのように深く熱狂してしまったのか。不思議がると共に、懐かしがっていた。二人の本の中身がこの映像を上回っているかどうか。楽しみに読んでみたい。(2020-5-14 一部再修正)

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一冊で日本文学丸かじりードナルド・キーン『日本文学を読む・日本の面影』を読む

今年のGWはそれぞれの人生にとって忘れがたい異常なものであるに違いないと思われる。外に出るな、家にいろと、政府から懇願されるなんて、前代未聞、古今未曾有のことである。ただ、休むということだけをとるなら、GWならぬGM状態が続いており、本を読むチャンスではあろう。私はこの機会に今まで苦手意識から棚上げしてきながらも、気になってきたプルースト『失われた時を求めて』(14巻)と、ベケットの『モロイ』に挑戦することにした。一方、それではご馳走の食べすぎで消化不良を起こしかねないので、食べやすいものもとばかりに、一冊で日本近代文学全てを読んだ気になるようなもの(表題作)を読み、随分得をした気になっている▲実はキーンさんの『日本文学史』全18巻は既にざっと読み終えており、この『日本文学を読む・日本の面影』は、おさらいをするようなようなおもむきがあった。二部構成のうち前半の『日本文学を読む』では、二葉亭四迷から大江健三郎まで49人の作家を取り上げてそれぞれの代表作を論評しているのだが、最も印象深いのは、夏目漱石についてあまり評価が高くないことである。これは現在『漱石全集』に悪戦苦闘している身からすると、全巻読破なんて無理することないよと言われたような気がして、ホッとするような心境になる▲「日本人にとっては漱石は掛け替えのない作家であり、近代日本文学を可能にした大恩人であるが」、「漱石の主な作品全部を読まなければ、彼の偉大さは分かりにくい」のであって、「日本文学の古典であるが、残念ながらいくら紹介書が出ても世界の古典になかなかなれないと思う」と結論付けている。その理由は、「多くの外国人読者が漱石文学を読む場合、小説に登場する人物と自分を同一視することは困難だし、物語としての面白さは谷崎や芥川等の小説には及ばない」からというわけである。だろうなあ、と思う。こう書かかれているからと言って、谷崎や芥川を全面的に礼賛しているわけでもない。谷崎文学は「深みが足りないという批判は出来ると思う」し、芥川についても、「かなり広く芥川の小説を読んだが、その技巧ー特に小説の落ちーに段々愛想をつかすようになった」と、厳しい。このように、キーンさんは取り上げた殆ど全ての作家に対して深い吟味の手立てを加えていて興味深い▲そんな中で、後半の『日本の面影』では、『源氏物語』『徒然草』から能、俳句、日記まで広範囲に「日本文学」全般にわたって、その魅力や特質に迫っている。ここで私が最も感銘を受けたのは芭蕉についてである。キーンさんは、「芭蕉は、私にとって最高の詩人といえます」し、「読むたびに私の身にしみるような感動を覚えます」とまでいい、「出来るものならばぜひ会いたいというきもちがあります」とさえ。尤も、芭蕉を褒め称えるのはいいのだが、和歌の世界にはあまり触れようとしていないのは、少し疑問を感じざるをえない。つい先ほど『新古今和歌集』の世界が、800年も前に、現代ヨーロッパ文学の先取りをしているとの指摘を、知ったばかりの私としては尚更である。丸谷才一さんの『後鳥羽上皇』からそれを学び、12篇の短編小説にまとめ上げた諸井学さんの『神南備山のほととぎす』を読んで、より一層その思いは募る。諸井学のペンネームの由来がモロイから学ぶということにあると聞けば、さらに。ともあれ、こうした日本文学の世界に深入りさせてくれる格好の本に出会って満足である。(2020-5-4)

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新型コロナを10年前に警告したド迫力ー高嶋哲夫『首都感染』を読む

この本の存在を知ったのはテレビで。新型コロナウイルスの恐ろしさを理解するために、との触れ込みでカミユの『ペスト』、小松左京の『復活の日』と共に紹介されていた。直ちに読んだ。まさにライブで現場中継を見ているように、ノンフィクションを思わせる凄まじい迫真性溢れる小説である。サッカーのワールドカップが中国で行われ、その観戦に世界中から40万人もの人々が集まっているちょうどその時期に、雲南省で強毒性のH5N1型の鳥インフルエンザが発生したとの設定。中国政府当局が発生の事実を隠したために、それぞれの自国に帰った観客によって一気に感染は世界中に拡大した。時は、20××年というが、まるで2020年のニューヨークを始めとする世界各都市のいまとダブって見えてくる▲全身が鬱血し、身体中の臓器から出血し、血を吐いて死んでいくとの描写は勿論、今現実に起こっていることとは相違する。また、日本にあっては感染者がほぼ首都東京のみに集中し、それゆえ封鎖することで、全国に被害が波及拡大することを抑えようとする設定も違っている。だが、それ以外は多くの点で類似していて、気味が悪いくらいである。こんな小説を書く人物って、どういう人だろうと疑問を抱いて読み終えたのだが、成毛眞(書評サイトHONZ代表)の解説を読んでまた驚いた▲阪神淡路大震災、中国でのSARS、東日本大震災の前に、『メルトダウン』『イントゥルーダー』『M8』『TUNAMI 津波』『ジェミニの方舟 東京大洪水』などといった小説を発表しているのだ。しかも、順序は大筋守られている。つまり、それぞれの小説の後に、現実の災害があたかも対比するかのように、起こっているのだ。今回の新型コロナウイルスの蔓延は、この小説が書かれた10年後、少し間隔があいているが、成毛さんが言うように「じつは小説家ではなく、予言者なのではないか」との見立てもあながち絵空事とも言えないようにさえ思われる。少なくとも「天災を忘れさせないための警告の書であり、それ以上の災害が起るかもしれないという未来のノンフィクションでもある」とはいえよう▲この小説、それだけではない。感染拡大に伴うロックダウン、首都封鎖といった緊急事態に人がどう対応するかに、ハラハラどきどきしながら読み進める中で、つい見落とされがちだが、親と子の抱える普遍的な問題についても、政治家、医者とその子の有り様を巡って考えさせてくれる。〝愛と死〟のテーマにも挑んでいる。また、主なる登場人物の死という問題が発生しないと、小説としてはどうだろうか、と思っていたら、終わり近くに大きく浮上してくる。しかも、その結末たるや、意外などんでん返し風のことががオチとして登場する。加えて、劇的効果が見られるワクチンについても用意されており、救いもある。ステイ・イン・ホームが声高に叫ばれている今、色んな意味で読むにふさわしい小説である。と、書いたのちに驚いた。なんと、著者は私の身近にいたのである。詳しくは別の機会に触れたい。彼の他の著作を読んだ後にでも。現実が奇妙な展開を見せてきた。(2020-5-1  一部修正)

 

 

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百年後のトルコの恩返しと日本の理不尽さー門田隆将『日本遥かなり』を読む

今から35年前、1985年イラン・イラク戦争の最中のこと。在イラン邦人が危険な状態のテヘランから脱出したくとも日本から支援機が来ず、どうしようもなかった。その危機的状況の中で、トルコがトルコ航空の旅客機を出してくれ、自国民よりも優先して、日本人たちを脱出させてくれたーこの歴史的事実について、私は朧げながらの記憶しかなかった。しかも、その事実の背景には、トルコという国の国民的記憶の中に、百年ほど遡った頃に起こった出来事(エルトゥール号遭難事件)が深く関わっていたということはまったくと言っていいほど知らずにきたのである。本当に恥ずかしい限りだ▲その事件とは、和歌山の串本大島沖で、今から130年前の明治23年(1890年)に起きた。オスマントルコ帝国の親善使節一行約600人が乗った木造フリゲート艦が遭難、沈没したのである。行方不明者587人。辛うじて69人が付近住民の手で救助された。後にこの生存者たちは日本の二隻の軍艦によって母国に送り届けられた。このことがトルコで今なお語り継がれ、串本町でも5年ごとに追悼式典が行なわれている(今年は130周年の式典が6月に行われる予定と聞く)。この二つの出来事は勿論、直接の因果関係はない。しかし、日本人が19世紀末にトルコ人救援に懸命の力を注いでくれたことが、20世紀後半のトルコ政府要人を動かした。そしてトルコの世論もそれに呼応したことは紛れもない事実だ。このあたかも恩には恩で報いる美しく得難い行為を、私は門田隆将『日本、遥かなり』を読むまで知らなかった。呑気なものである▲門田氏はあとがきで「国際貢献の最前線で懸命に活動する『日本人群像』」を描きたかったと述べている。具体的には、テヘラン脱出を始め、湾岸戦争時の「人間の盾」(1990年)、イエメン内戦からの脱出(1994年)、リビア動乱からの脱出(2011年)という、合わせて4つの「邦人救出」をめぐる物語が展開される。これら4つの物語に共通するのは、海外において活動する自国民のいざという危急を要する場面で、日本政府が救援の手を差し伸べず、他国に委ねてきたという事実である。そのことをわかりやすく、読むものの感性に訴えるかたちをとるために、トルコ人の日本人への「恩返し」に触れ、その原因となった明治日本の「こころ」と対比させた。読むものをして感動させずには置かない▲しかし、なぜ、邦人救出がまともに出来ないという理不尽なことが続くのか。門田さんは、自衛隊の最高幹部の一人・元統合幕僚会議議長の折木良一氏にその辺りについての生の声を聞きだしている。折木氏は、平成11年(1999年)の自衛隊法改正で最初に一部改正に手がつけられてから、その後の経緯を丁寧に説明されている。そこには「政治の不作為」への愚痴めいたこと、批判らしきことは一切ない。むしろ、抑制を利かせた表現で、事態は一歩ずつ前進していると、政治への評価を下す。政治家の端くれとして、これは返って耳に痛い。先年の「安保法制」によって、自衛隊が邦人救出での任務妨害を排除するための武器使用が初めて認められるようになった。「画期的ともいえる改正」がなされたのだが、結局は「武力行使の一体化」の恐れが災いして「事実上、(邦人救出)行使は不可能」なのである。政治の責任は大きい。私は現役時代に、護憲派の意識を憲法の縮小解釈だとして批判してきた。拡大解釈を非難する前に、縮小解釈の非を顧みるべきだ、と。それにしても、改めてこの本を読むことで問題の所在がハッキリする。四つの物語のうち、後半の二つは私が現役時代に起こった事件であるだけに、責任なしとしない。(2020-4-16)

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7つの国はどう危機を乗り越えたかージャレド・ダイアモンド『危機と人類』上下(小川敏子、川上純子訳)を読む

「危機と人類」というタイトルは、世界中がコロナ禍で喘ぎ、必死の対応を余儀なくされている現在、飛びつく思いがするほどうってつけだ。しかし、この本の出版は少し以前に遡る。それを知った上で読んだ。これまでJ・ダイアモンドの本はそれなりに齧ってきたが、正直なところ、いまいち私にはグッとこなかった。恐らくそれは取り扱われた材料が現代の国家、経済社会と乖離があったように、〝浅読みの私〟には思われたためだと思う。しかし、今度の『危機と人類』は、「危機を突破した7つの国の事例から、人類の未来を読む」もので、興味深い記述の連続であるだけに、極めて読みやすい。ただし、残念なことに、危機の原因として「感染症」が真正面から取り扱われていない。これは致命的な欠陥ではないが、大いに不満を持ってしまう▲俎上に乗った国は、フィンランド、日本、チリ、インドネシア、オーストラリア、ドイツ、アメリカの7カ国である。この選択には決定的な理由はないようだ。強いて言えば、彼がかつて住んだことがあったり、学問研究の上で興味を持った国々だということである。上巻で言及した4カ国は、2つづつ対になっている。前の二国(フィンランドと日本)については、共に周辺各国とは大きく違う言語を持つ国で、外敵の脅威からもたらされた危機をどう乗り切ったかが共通する。後の二国(チリとインドネシア)は、共に独裁的指導者を持った国であるが、内部の破壊原因にどう対処していったか、という切り口が同じである。ただし、フィンランドはソ連(ロシア)一国との長きにわたる因縁関係が主たるテーマ(このくだりは圧巻)。日本は東洋の後発国家として、西洋列強との闘いが主題(これは平板)である▲また、下巻のオーストラリアは英国との主従関係の変遷が描かれ、ドイツは自らが巻いた災いのタネをどう摘み取っていったかが明かされている。アメリカは現代世界の先駆を行く国として、〝これからの危機〟が問われており、強く引き込まれた。とりわけ、アメリカにおいて、合意をするための妥協が近年出来にくくなっているとの指摘には考えさせられる。トランプ大統領の登場を待たずとも、共和、民主の両党の間の亀裂は相当に深刻なことは想像できよう。分断は深く、広くこの国の前途を危うくしている。また選挙の投票率が大きく落ち込んでいる状態が続いていることも。アメリカのすぐ後を追う傾向の強い日本の明日の姿を見るようで他人事とは思えない▲しかし、新型コロナウイルスが蔓延する状況の前と今では、全く「人類の危機」という視点が違って見える。読んでいて、ここで扱われていることは、どうしても今は切実感を伴わないのである。第二次世界大戦以来の危機とも言われる事態の中で、大きな課題の一つは、民主主義と独裁主義との軋轢であろう。共産主義独裁という国家的形態を持つ中国が感染症を押さえ込む上で効力を発揮するのか。民主主義の自由が結果的にウイルスの自在を許すことになるのか。例えばこうしたテーマが、今再びの暗い影を地球の前途に投げかけてきている。著者は、人類の危機を歴史的に分析する手立てとして、個人的危機と国家的危機の両面を挙げる。それぞれの帰結にかかわる要因として12のポイントを上げており、興味深い。その手法を生かしながら、新型コロナがもたらす自分自身の危機と日本の危機を考えるよすがにしたい。(2020-4-11)

 

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21世紀の危機としての感染症ー『中央公論』4月号特集を読む

新型コロナウイルスのパンデミックがこれからどういう展開をしていき、人類はこれにどう立ち向かっていくか。まさに固唾を飲む思いで、人々は日々の感染症の広がりに恐れを抱いて推移を見つめており、新聞やテレビでの報道や特集では、今そこにある危機への対応が取り沙汰されている。勿論それも重要だが、もっと深く大きな視点から、文明の推移との関連といったものに目を向ける必要を説いた論考を読んだ。中央公論4月号の特集『21世紀の危機?瀕死の民主主義と新型肺炎』である。ここでは、10本もの鼎談、対談、論考、インタビューが掲載されているが、そのうち、冒頭の鼎談『疫病という「世界史の逆襲」』と山本太郎『感染症と文明社会』を取り上げたい▲双方共に、文明社会に生きる人類と感染症との戦いを世界史に立ち戻って検証する一方、これからを展望している。まず山内昌之、本村凌二、佐藤優の三氏による鼎談から。共通の認識は、過去の感染症が歴史的転換点になってきたということである。感染症の蔓延によって、あたかも「ビフォア、アフター」のように、大きく違った世界の姿が現出してくることもありうるとしていることが興味深い。ここで語られていることの中核の一つは、イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリが『ホモ・デウス』で、人類は飢饉、疫病、戦争を克服しかけており、その結果、「AIとバイオサイエンスの融合によって、一部の人間が神のような力を持つようになる」との仮説の行方である。もし、今回の新型コロナウイルスとの戦いの結果如何では、仮説通りの「暗澹たる未来」になるか、それとも疫病に打ち崩された〝惨憺たる未来〟になるかの〝地獄の選択〟となるかもしれないのである。願わくば、ウイルスに打ち勝つと同時に、恐怖の未来社会が現実化することもごめん被りたい▲山本太郎氏は、長崎大の感染症研究の専門家だが、「なぜ、ある感染症が流行するのか。これまで私たち研究者は、その原因を一生懸命考えてきた。しかし、どうやらその考え方は「逆」ではないかと近年思い始めている」との、極めて印象的な筆運びをしている。つまり、結果として「ヒト社会のあり方」がパンデミックで変化するのではなく、むしろその社会のあり方がパンデミックを性格付けるのではないか、というのだ。というと、今回の新型コロナウイルスは、今の社会のあり方から必然的に生まれたということである。すなわち、密閉、密集、密接の「三密」が揃いやすい社会だからこそ生まれた、感染症だということになろうか▲鼎談で注目されるもう一つの論点は、中国をどう見るかである。今回の事態の発生源になったことで、中国という〝AIによるデータ帝国〟の前途に暗雲が垂れ込めたと見るか、それとも結果次第では、「独裁の強み」が再評価されるかもしれないとの見方の対立である。私は前者の見方に与する。中国は恐らくどうあろうとも我田引水的主張を押し通すに違いないだろうが。また、山本太郎氏は「流行した感染症は、時に社会変革の先駆けとなる」としているが、それは「独立した事象として現れるわけではなく、歴史の流れのなかで起こる変化を加速するかたちで表出する」という。ということは、今既に我々の周りで起こっていることに、これからの社会変革のヒントがあるということだろう。さて、それは何なのか?目を凝らし、耳を澄まして考えていくしかない。(2020-4-1)

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どう生きてどう死ぬか、自戒の日々ー佐藤優の『希望の源泉 池田思想❷』を読む

池田先生の『法華経の智慧』全6巻を読むキリスト者・佐藤優さんの知的営みは、大変に得難い。このところ、『世界宗教の条件とは何か』を読み終え、さらに毎週連載されている週刊誌『アエラ』の「池田大作研究 世界宗教への道を追う」を楽しみにしているものにとって、『希望の源泉 池田思想』は〝古典〟に挑む趣きが漂う。私が前回❶を書いたのが2月5日だから、いらい一ヶ月半。今度は❷を取り上げたい。まず、私の創価学会入信いらいの持論である「円型組織論」について。佐藤さんは、この本の中で、「学会の組織は、ヒエラルキー型、ピラミッド状の組織ではなく、『リゾーム(地下茎)型組織』なんですね。つまり、一つの価値観に基づいて多方向に伸びていくヨコのネットワークです。そして、そのネットワークのいわば〝基礎単位〟の一つが、それぞれの地元組織で行われる座談会であるわけです」という。恥ずかしながら、リゾーム型とは全く思いもしなかった。私はこの50年余り、自分が思いついた「円型」にこだわり続けてきた。座談会に結びつける発想もなかった。方向は間違いないものの、表現のありようにおいて佐藤さんに遠く及ばないなあというのが実感である▲ついで、第6章の「国難の時代に脚光を浴びる日蓮思想」(11章の「死生観」のくだりも関連)について。過去の日本において、田中智学や井上日昭(戦前の右翼集団「血盟団」)らのように国家主義と結びついた日蓮信徒の悪しき実例を挙げて、「日蓮思想に正しく光が当たることを願いたい」と強調している。かつて私が公明党広報局長であった頃、新聞記者諸氏としばしば懇談した。談たまたま宗教論に及び、ある記者から「どうして日蓮仏法というのは、過激なナショナリズムと結びつくのですかねぇ。今の創価学会を見てるとそんなことには繋がらないのですが、日本史を見ると、どうしてもねぇ」といった問いかけに直面した。私は、その時に「日蓮を敬う(うやまう)とも悪しく敬わば国滅ぶべし」との一節を挙げて、アプローチの仕方で誤れる方向性に傾きやすいことを日蓮自身が見抜いていたことを述べた。佐藤さんは、「国家主義と結びついたゆがんだ奉じ方であれば、生命軽視の方向に暴走してしまう場合はあります」としたうえで、「創価学会は『生命こそ宝塔』という宗教だから、生命軽視には決してつながらない」と断言している▲全編に漲る日蓮仏法、池田思想への正確無比の認識には驚嘆するばかり。それを認めた上で、二つほど、私の問題意識からの拙いこだわりを提起したい。一つは、「与党化」ということについて。佐藤さんは205頁で、北朝鮮の核兵器開発について、「公明党が与党であることの意義の大きさを痛感する」としている。更に「自民党単独政権であったら、もっと米朝対立を煽る方向に日本は進む可能性があった」とも。私は言わずもがなのことだが、この「与党化」は「自民党化」ではないことを強調しておきたい。自民党が未来永劫与党であることはあり得ず、いつなんどき違う政党が自民党に代わりうる存在になるかもしれない。民主主義が政権交代可能な政治的仕組みを用意するものだけに、その辺りの思い違いを自戒しておきたいと思う▲最後にもう一つ。「死生観」について。日蓮仏法を信奉する者が「生も歓喜、死も歓喜」(池田先生の米ハーバード大での講演)との言葉に象徴される死生観に立っている、として佐藤さんは評価(210頁から214頁)している。「死を忌み嫌わない姿勢」が毎日を生き生きと生きる姿に直結しており、「死を恐れずに真正面から向き合う姿勢」が、死の恐怖というものの克服という古来からの宗教の課題に確かな答えを提供しているのではないか、と。これこそ、入信いらいの私の命題であった。55年経って、この「姿勢」を不動のものにしているのかどうか。それこそ毎日のように問い続けている。(2020-3-25)

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ユニークな外科医の只ならざる提案ー邉見公雄『令和の改新 日本列島再輝論』を読む

今から25年ほど前だったろうか。赤穂に大変ユニークな病院長(赤穂市民病院)がいると聞いて、会いたくなった。当日その人は下駄の音も高らかにやってきた。背広に下駄。お顔には長い顎髭。いでたち佇まいからして大層変わっていた(当時は白髭でなく赤ひげに、私の目には映った)。以来、様々の場面でご指導、ご鞭撻を頂き、お付き合いを重ねてきた。誰あろう、つい先年まで全国自治体病院協議会会長(現在は名誉会長)を務めていた邉見公雄さんである。その彼がこのたび『令和の改新』なる本を出版された。一読、日本を再び輝く国に変えたいとの溢れんばかりの心情が伝わってきた。笑と涙なしには読めない。面白くてためになる深い本である。改めてこの人の凄さを思い知った。日本の行く末に関心を持つ人びと全てにとって必読の書だ▲邉見さんは、この本の中で多くの貴重な提案をされている。第一章と巻末の「平成こぼれ帳」に集中。この中から私が勝手にベスト5を挙げてみる。第一に、子供が選挙権を得るまで、母親に子供の数だけ投票権を与えること(父親は誰の子かわからないこともあり外す)。第二に、中央省庁の地方移転。46道府県に少なくとも一つの政府機関を置くことから始めるべし、と。一番急がれるのは、気象庁の沖縄移転。第三に、皇室の分居。高松宮家は高松に、常陸宮家は常陸水戸に、秋篠宮家、三笠宮家は奈良に、秩父宮家は秩父に。こうすることで、首都直下型地震の備えになる。第四に、国民皆保険制度と憲法9条を和食より先に世界文化遺産にすべき、と。どちらも世界に冠たる珍しさが輝く。第五に、“ふるさと医療〟の提案。心ある医師が僻地や離島に行き、一週間でも一ヶ月でも診療に行く仕組みを作りたい。いずれ劣らぬユニークで貴重なアイディアである▲一方、これらとは別にかなり無理筋と思われる豪快な提案も。ベスト3を挙げよう。第一に、東京オリンピックの中止。東京一極集中を更に強める二度目の開催ではなく、トルコ・イスタンブールに譲ることでの悲願の五大陸開催に繋がる選択をすべきだった、と。日本でやるなら、東北合同とか広島、長崎合同開催の方がインパクトが強かった、とも。第二に、リニアモーターカーの中止。〝ゼネコンのゼネコンによるゼネコンのための大工事〟は、発展途上国向けのショーウインドウであり、「21世紀の無用の長物」間違いなし、と。第三に、原発を廃止し、自然エネルギー発電に国民全体で取り組むべきである。地震や津波に安全なところはどこにもない、と。オリンピックは「新型コロナ騒ぎ」で俄かに真実味を帯びてきた。リニア、原発も改めて立ち止まって考える必要があろう。いずれも私は大賛成である。▲第二章は医師(外科医から病院経営)としての「自伝」の趣き。破天荒な活躍の中に、胸詰まる失敗談も挿入されていて極めて印象深い。人情噺としてこれ以上は望めないほどの〝栄養源〟が詰まっている。第三章は、日本病院団体協議会(日病協)の立ち上げや、中央社会保険医療協議会(中医協)での活動などを巡っての「回顧録」の風がある。総じて、ご本人は、遺言のつもりとして書かれたという。全編に漲る強い信念と大確信の所産であることがビシビシ伝わってくる。医療に従事する人はもちろん、全ての患者さんに読ませたい。日本中の医院の待合せ室に置かれることを望む。ただ、読点が極めて少ない分、当初は読みにくさがいささか付き纏う。だが、読み進むにつれて、著者独特のリズミカルな文章展開と分かって、もうクセになりそう。政治家、物書きの端くれとして、邉見さんの提案や生き方に心底から眩しさを感じる。こういう人こそ厚生労働大臣に、いや総理大臣になって貰いたかった。(2020-3-16)
                                      

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虚実ない交ぜあの手この手の小説作法ー諸井学『神南備山のほとぎすー私の新古今和歌集』を読む

「新古今和歌集」とくれば、普通の人は恐らく「小倉百人一首」を思い出す。私もこのお正月に孫娘と早取りかるた競争に興じたものの、見事に敗れ去った。来年の雪辱を密かに期しているとはいえ、覚束ないのが現実である。鎌倉時代の初期に後鳥羽院のもとに6人の選者たちが集められて編纂されたのが新古今和歌集(そのうちの一人藤原定家が百人の和歌を一首づつ集めたのが「百人一首」)というわけだが、これまで殆ど無縁できてしまった。そこへ、姫路の同人誌『播火』の同人・諸井学さんが『神南備山のほととぎすー私の新古今和歌集』なる本を出版したというので、読んで見た。彼の作品は『種の記憶』『ガラス玉遊戯』の2冊を読み、既にこの欄でも紹介してきた。その後、『夢の浮橋』という題で、和歌文学の真髄に迫る素晴らしい論考を同人誌上で三回に渡り連載され、今も続行中である。私はこれに嵌っており、この度の新刊(過去に同人誌で発表したものを再編成)にも、深い感動を覚えている。毎日新聞の書評欄に推薦をしている。私の入れ込みようが分かって頂けよう▼諸井さんの主張は、新古今和歌集は、ヨーロッパのモダニズム文学の手法を800年前に先取りしていて、「世界に先駆ける前衛文学である」ということに尽きる。この本は年譜を冒頭におく奇策を講じる一方、長め短め取り混ぜ、凝りに凝った手法を講じた12編の小説が並ぶ。どこから読むか。四番目の「六百番歌合」が語り口調もあって読みやすい。そこでは、「春の夜の夢の浮橋とだえして峰に別るる横雲の空」という定家の傑作を噛み砕いており、そのくだりが圧巻である。一見、春の歌に恋の世界を重ねただけの単純な情景を歌ったものと受け止められる。しかし、その背後には、漢籍における物語詩や故事を踏まえ、源氏物語の最後の巻を連想させるという企みがうかがえる、と。著者は「この連想による複雑化、そして『春の夜』『夢の浮橋』『峰』『横雲の空』と断片をちりばめるフラグメントの技法は、まさしく現代のモダニズム文学の手法」だとすると共に、「たった三十一文字の短詩の中に、定家は詰めるだけ詰め込みました。T・S・エリオットなど足元にも及ばぬといったら言い過ぎでしょうか?」とまで▼著者のこの文学的スタンスは、丸谷才一のものと共通する。表題にある「神南備山のほととぎす」(第9話)は、この著作のメインストーリーでもあるが、実は〝師を乗り越えた弟子〟の趣きなしとしない秘話となっている。簡単にいえば、第8代の勅撰集となる新古今和歌集が完成の直前になって、過去の7つの中に重複しているものがある(山部赤人作が『後撰和歌集』の中に)と判明。さてこの誤りをどう取り扱うかという話を小説仕立てにしたものである。実はこれ、丸谷才一『後鳥羽院』が創作のきっかけとなった。この本は初版と二版で大事なところの記述が違っている。初版での「詠み人知らず」が二版では「山部赤人」に、更に「古歌集」が『赤人集』にすり変わっている。これに諸井さんは気づいた。彼はそれを後鳥羽院との時空を超えた対談という驚くべき形式で、事細かに明らかにしているのだ。「初版の言説を第二版で翻しておきながら、そのことをどこにも断っていない。極めて不誠実です」と手厳しく後鳥羽院を(勿論、現実的には丸谷才一を)責めているのである。未だ読んでいない人にこのあたりは小むづかしく聞こえよう。著者にとってはここが肝心要。まさに鬼の首を取った感なきにしもあらず。(だから、勘弁してあげてほしい)▼諸井さんはこの本において、時空を超えた対談だけでなく、呆れるほど様々な実験的手法を試みている。「六百番歌合」は私も知っている地域の公民館での見事な迫真に満ちた講義録だ。‥‥と思わせたが、架空のもの(臨場感溢れる絶妙の面白さ)だった。「鴫立つ沢」はラジオ番組のインタビューという形式をとっているがこれも創作。他にも「民部卿、勅勘!?」では、なんと、現代生活の中に「平安日報」なる新聞を登場させ、定家らの動静を掲載する。また、「草の庵」には実在しない女房を登場させたうえ、「美濃聞書」なる史料を創作し、長い注釈を加えた。つまり、ありとあらゆる手法を駆使して「新古今和歌集」の実像に迫っている。これでは紀行文の形を取っている「隠岐への道」(最終話)も、実際には行っていないに違いない。まさに虚実ない交ぜにした、騙しのテクニック満載なのである。これを読んだ「京都検定二級」の私の旧友は「猫に小判だった和歌の世界。これで猫のまま死なないで済む」と喜ぶ。私は、国際政治学という学問を愛し、政治の現場で50年を超えて記者として、また政治家として、ウオッチャーやプレイヤーを演じてきた。そんな私には「殺すより盗むがよく、盗むより、騙すがよい」とのW・チャーチルの国際政治の本質を突いた言葉が印象深い。騙し上手は政治家、嘘つき上手は小説家が通り相場だが、さてさて諸井学という人は?(2020-3-9)

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新型コロナウイルスの蔓延と人の世ーアルベール・カミユ『ペスト』(宮崎嶺雄訳)を読む

新型コロナウイルスが中国・武漢市で発生して、この巨大都市からの人の出入りを禁止するといったことが話題になった時に、随分前に読んだ記憶がある本を思い起こした。アルベール・カミユの『ペスト』である。ネズミを介在させた伝染病ペストと新型コロナウイルスによる感染症との違いはあれ、迫られる対応など考えさせられる類似点は少なくない。都市の封鎖やクルーズ船内での隔離など、今現に起こっている緊急事態を前にざっと読み返した▼封鎖状態に陥り、閉じ込められた人間が密かに自分だけ脱出を試みようとしたり、キリスト教の神父が、この事態は人々の罪のせいで起こったのだから、まず悔い改めよとの説教したりする場面が印象に残る。主人公の医師が懸命に救助活動に従事する姿に、今回の武漢で必死の診療行為の中で亡くなったとされる中国人医師像が重なった。また、過酷な状況にもかかわらず、助け合う人々の振る舞いに、クルーズ船におけるイタリア人船長のもと一致団結した行動をとったとされる乗組員の姿も重なった▼この本でカミユは、人生における究極の不条理の側面を描き、避けられない人間の運命の中で助け合う人々の生き様を浮き彫りにした。かつて私の若き日に実存主義が時代を席巻した。フランツ・カフカの『変身』などと共に、カミユの『異邦人』や『シシュポスの神話』などを読んで、分かったようでいて、今一歩分からないような思いに駆られたものである。そんな中で、この『ペスト』には救いがあり一条の光があったと思われた。大型イベントや日常的会合が中止になったりして、出歩く機会が減る中で、家で読んで人生を考えるきっかけとなる絶好の本かもしれない▼国会で新型コロナウイルスへの政府の対応が後手後手に回っているとの批判がある。桜を見る会や東京高検検事長人事などを巡っての疑惑で窮地に追い込まれた安倍政権にとって、名誉挽回のチャンスとなるか、恥の上塗りになるかの瀬戸際である。中国で発生し、日本、韓国でも多くの人々に感染、欧州でもイタリアを中心に予断を許さない事態が続く。せめて、地球上に生息する人間が、国の違い、民族の違いを乗り越えて、生きるも死ぬも同じ運命共同体であることが共通の認識になり、争いごとがなくなる機縁になれば、と思うことしきりである。(2020-2-28)

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