(12)想像力をたくましくして読まないと

古代史といえば当然ながら天皇のことを抜きには語れません。私のような戦後第一世代は、天皇が現人神ではなく、人間として日本社会に定着する過程と、自分自身の成長とが重なり合うのです。そこには天皇は最高の人格の持ち主で、あらゆる意味で至高の存在たれとの願望が込められてきました。

根が真面目というべきか奥手というのでしょうか。古代史を学ぶなかで、天皇たちの文字通りの親兄弟相互での殺し合いやら近親相姦のようなふしだらな有様を見聞きするたびに、おぞましい思いを抱いてきました。天皇家の連続性を強調されると尚更首肯できないものを感じてきたのです。戦後民主主義教育の弊害というのでしょう。歴史を現時点での価値観で見てしまう癖から抜けきれなかったのです。

そんな私にとって万葉集冒頭の天皇の歌も従来的な天皇観を変えるにはいたりませんでした。ほのぼのとした人間臭さを感じなくはないのですが、一皮めくると究極のパワハラに思われるのです。

籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね そらみつ

大和の国は おしなべて 我こそ居れ しきなべて 我こそいませ 我こそば 告らめ 家をも名をも

雄略天皇の歌です。春の菜を摘んでいる娘に心を動かされた天皇が娘の名を尋ねている場面です。自分の立場を明らかにして相手の気を誘うやり方は、どう読んでもナンパに見えます。

次にくる歌は舒明天皇の作とされています。

天皇、香具山に登りて望国(くにみ)したまふ時の御製(おおみうた)

大和には 郡山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は

かまめ立ち立つ うまし国そ あきづ島 大和の国は

大和にはあれこれの山があるけれど、香具山に登って下を見ると、かまどの煙が立ち上り、海原ではかもめが飛び立っている。大和の国はいい国だ、と自賛している歌です。ほのぼのとした情景が眼前に広がっていき、民の喜びを感じ取っている為政者の自信がくみ取れる歌といえましょう。先年、私は友人たちとこの香具山に登ってみました。なだらかな丘陵でした。四方が見渡せましたが、海原は勿論見られずかもめは発見できませんでした。

万葉集をめぐっては様々な学者がありとあらゆる研究を重ねてきています。今あげた二つの歌についても、問題点がかなり指摘されています。読むとこんがらがるばかりです。それについては、ドナルド・キーン氏が面白いことを名著の誉も高い『日本文学史』古代中世編一で述べています。「研究論文すべてに目を通し、あらためて歌を読んでみても、以前より理解が深まるとはとてもいえない。古今の万葉学者は様々な説をとなえてきたが、筆者には、完全に納得できるものは一つとしてないような気がする」と。痛烈です。これにはほっとします。あれこれ詮索するよりも素直に歌が持つリズムを味わえばよいのでしょう。

とはいうものの、それで終わらせてしまっては面白くありません。いい解説は奥深いところに誘ってくれるのです。丸谷才一氏は『日本文学史早わかり』の中で、この冒頭の二首をめぐって味わい深いことを書いてます。「恋歌と国見歌とが、かういふ晴れがましいところに一対のものとして並ぶことは、恋愛と国見とが古代日本の君主にとって最も重要な仕事であったことの證拠だといへよう」としたうえで、「古代日本人の最大の関心事は繁殖で、それゆゑ国王は、あるいは風景に言ひ寄る呪文をとなへ、あるいは女たちに親しむ演劇の司祭となったのである」と。

しかも、巻八にある舒明天皇のもう一つの作も対になってると指摘しています。

夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今宵は鳴かず 寝(い)ねにけらしも

この解説がふるっています。「妻を恋うて鳴く鹿の声が今宵は聞こえないゆゑ、恋が成就したのだらうと思ひやる意だが、これは当然、人間の恋愛を獣の交尾と同質のものとして把握してゐるわけで、極めてエロチックな和歌である。すなはち舒明の国見歌は、一方では政治的恋愛、他方では自然的恋愛と対応しながら、実は、動植物の繁殖一般と相通ずる内容を歌ってゐる。風景と動植物とを刺戟することこそ、天皇の詠歌の本来のすがたであった」というのです。なるほど、と感心するしかありません。こういう御託も私のような堅物人間をして、歪んだ天皇観の形成にひと役買ってるのかもしれません。

全米図書賞をとったというリービ英雄『英語でよむ万葉集』を、随分前に日本語で読みました。彼は香具山に登って私と同じく、山は低く風景は小さい、海原はなくかもめが飛び立つはずもないと失望します。しかし、何年か経って英語に翻訳する作業をしているうちに「小さな風景とはうらはらに、雄大で厳かな対句が頭に響き、そこには陸と海とをかかえた大きく構造的な想像力がはたらいているのが分かった」というのです。なるほど、すべては想像力がなせる業なんだ、と。自分にはそれが足りないことが分かりました。

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(11)抒情ただよう万葉集との出会い

万葉集との出会いはいつも突然です。何か別のものを読んでいてそこで見出したり、訪れた先で歌碑を発見するといった具合で。つまり、さあ万葉集を読むぞと肩ひじ張って第一巻から順に、というのではなく、つまみ食い的に拾ったり、様々な先達の関連本の中に出てくる歌をそのつど鑑賞することが専らでしょう。私もそうです。ここではそんな中から印象深く残ってる歌を取り上げてみます。

田子の浦ゆ うち出てみれば ま白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける  山部赤人

最後は、「降りつつ」ではなかったか、と頭をよぎります。百人一首に殆ど同じものが登場しているからです。「たごの浦にうち出てみれば白妙の富士のたかねに雪はふりつつ」と。これは装いを新たにしたうえで新古今集に再録され(そこから百人一首に採用)た経緯があるのです。万葉集研究者からは、改悪だと、叩かれています。これに対し、中世和歌研究者からは反論がなされ、ちょっとした”田子の浦論争”の様相になっています。平安朝文学を専門にする吉海直人氏は『百人一首への招待』のなかで、反論は「どうも歯切れが悪い」としつつ、思わぬ事実を明らかにしてくれています。万葉仮名を平安朝の人たちが判読できず、「『万葉集』が平安朝においてほとんど読まれていなかった」のだ、と。

今の時点からはいささか驚きですが、『万葉集』は実はその後もずっと一般の人びとには忘れられていたのです。『万葉集』が現在のように日本文学史の中で正当な位置を占めるに至るのは「明らかに明治になってからで、とくにそれが画然とするのは正岡子規以降といっていい」(大岡信『あなたに語る 日本文学史』上)のです。この辺りは、大づかみでいうと「万葉集対古今集」の論争の歴史になってしまい、お互いの立場を是とするものたちの罵り合いにまで及んできました。私の理解では、素朴さと華麗さの対立であり、自然をありのままとらえるいき方と、色々と技巧を凝らす表現方法の差であろうと思います。どちらがいいとか悪いとかではなく、どっちもいいねというのが偽らざるところでしょうか。大岡信氏が前掲の書で「僕は両方を平等に見ることを心がけたい」としていますが、私も同感です。

前回に美智子皇后が「人の心に与える喜びと高揚を初めて知った」歌のことを紹介しました。皇后ご自身はその歌とは何かを具体的に指していませんが、恐らくは次の歌だとされています。

石(いわ)ばしる 垂水の上の さ蕨の 萌えいづる 春になりにけるかも   志貴皇子

私はこどもの頃の一時期、神戸の垂水(正確には塩屋町)で過ごしました。この歌を見聞きするたびに、連想ゲームのように、その地で過ごした頃のあれこれを思い出しますから妙なものです。『万葉集』には当然のことながら全国各地の場所を詠みこんだものが数多くあります。ご当地ソングならぬご当地和歌です。兵庫県は播州姫路で生まれ、神戸は垂水、須磨で育った者として、そうした辺りの歌に出くわすと心騒ぎます。万葉歌人のなかで最も多くの歌が登場する(4500首のなかで450首)のは柿本人麻呂ですが、彼の旅の歌は、風物詩的な情緒豊かさにおいて、他の追随を許さないといいます。とりわけ瀬戸内海の周辺地域としての淡路島や明石海峡を詠んだ歌に、私は感激してしまいます。

淡路の 野島の崎の 浜風に 妹が結びし 紐吹き返す

荒たへの 藤江の浦に すずき釣る 海人とか見らむ 旅行く我を

燈火の 明石大門に 入らむ日や 漕ぎ別れなむ 家のあたり見ず

瀬戸内海の船旅がもたらす醍醐味が蘇ってきます。淡路の野島といえば、先の阪神淡路の大震災の震源地です。私事に及びますが、藤江(明石市)は我が恩師の終の棲家の地でした。また、明石には今、娘夫婦と孫が住んでいます。

柿本人麻呂は、職業的な宮廷詩人だったといいます。恐らく注文に応じて作ったに違いない公的な歌と、自らの感情を思うがままに表現した私的な歌に、その作品群は分かれています。前者では、彼は枕詞や序詞をしきりに用いて対句や繰り返しを駆使し、色彩豊かで流暢な言葉の響きを展開しています。また後者では、漂う抒情が今に読むものの心を打ちます。

加藤周一氏はその名著『日本文学史序説』上の冒頭部分で「人麿の公的な挽歌では、多彩な言葉の積み重ねが、感動をつくり出すのに足らなかった。私的な挽歌では、事情が逆転し、強い人間的な感情が、控えめな言葉で語られる日常生活の些事に無限の意味を与えている」と、いささか持って回った表現で述べています。彼の日本文学史は序説と銘打っているものの、単なる文学を超えた壮大な思想史研究の趣きもあります。儒教、仏教はじめ外来の思想、宗教が与えた影響に深い洞察が加えられており、私は大変に好きで愛読しています。先年亡くなられましたが、その直前にキリスト教に入信されたとのこと。いったいどういう経緯があったのでしょうか。揺れ動いたであろう晩年の心の動きに、関心を持たざるを得ません。

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(10)年の初めは日本古来の和歌から ──万葉集を読む

新しい年が明けました。おめでとうございます。今月は『万葉集』に挑戦します。全部で20巻。取り上げられたる歌の数は4500でその大半が短歌です。7世紀後半から約100年の間につくられたものが8世紀の後半に編纂されました。最終的には大伴家持らによってまとめられたというのが定説です。内容は、「相聞」(男女の間の歌)「挽歌」(人の死を嘆く歌)とそれ以外の「雑歌」の三つに大きく区分されますが、圧倒的に多いのはやはり「恋」の歌です。「恋と女の日本文学」の源泉はここにあります。全部を読むわけにはいかないのでとりあえず少しづつ読んでいきます。

現代日本人が和歌(短歌)というものに人生にあって最初に出くわすのは、お正月の「かるた取り」です。ご多聞にもれず私も小学校の頃に「百人一首」との出会いがありました。日本の子どもは、お正月には凧あげて駒をまわし、羽根つきをし、福笑いに興じ、トランプをし、かるた取りをしました。戦後も間もない昭和30年代前半、姉が二人いた我が家では、お正月遊びの定番は「百人一首」の上の句や下の句を読み上げ、その相方を探すことでした。昭和の終り頃に私の娘は小学校に通いましたが、残念ながらその習慣はありませんでした。平成の今はどうでしょう。プリクラに夢中の孫娘が学校に行く頃にやるとはとても想像しがたいのです。

「万葉集」に向かう入口というか、短歌に馴染む手引き役として「百人一首」はあります。これは13世紀の中ごろ、鎌倉時代初期に藤原定家によって編まれた秀歌撰だとされていますから、二つの間には500年ほどの時間が横たわっています。取り上げる順序は逆なのですが、お正月に免じてお許しください。あとで触れますが、日本文学史における万葉集と古今集や新古今集をめぐる相克とは関係がないということも断っておきます。

さて「百人一首」には古今集から24首、新古今集、千載集、後拾遺集からそれぞれ14首づつといったように、全部で10の勅撰和歌集(天皇の命令によって作られたもの)から100首が集められています。その中身を見ると、恋歌が43と半分近くを占め、そのあとは春夏秋冬の季節を歌ったものが32と続きます。それぞれの歌人が心の思いを31文字に綴ったもの100首の存在は、あたかも交響楽の演奏のようだと譬える専門家もいます。私はかるたに描かれた女性の十二単姿に魅せられました。頻繁に登場する月に比べて太陽の出番がないなあとか、秋の歌がめっぽう多いのに夏が殆ど詠まれていないことにも印象深く思ったものです。あらためて100首を詠んでみましたところ、明確に記憶に残っているのは30首だけ。深い意味も分からずに男を待ち望む女の心やその逆のケースを詠んでいたわけです。

お正月が来るたびに短歌に接触しながら、ついに今の歳になるまで、まともに一首も詠んだことがないというのも哀れなものです。それでも百人一首にまつわる本は何冊か読みました。一番印象深いのは安野光雅『片想い百人一首』です。上の句を問いだとすれば、下の句は答えにあたる意味があるとして、思いの丈を込めて百首作っています。新聞記者をしていた頃(昭和50年代半ば)にこのひとの自宅を訪ねて取材をしたことがあり、ひとかたならぬ関心を持って様々な作品に触れてきました。絵の素晴らしさはいわずもながですが、ユーモア溢れるエッセイも出色。この本ではパロディの何たるかを提示してくれているようで、味わい深いものがあります。たとえば、和泉式部の「あらざらむこの世のほかの思ひ出に今一度の逢ふこともがな」を「花さそふ酒も最後となりぬれば今一度のあふこともがな」といった具合です。酒に未練たっぷりの夜のうただ、と添えています。

この本で最もインパクトが強かったのは美智子皇后の御歌集『瀬音』や、著作『橋をかける』を取り上げているくだり。前者では、七首の歌を紹介しており、いずれも胸を打つ。私的には「母住めば病院も家と思ふらし『いってまゐります』と子ら帰りゆく」が好きです。後者では、皇后がある一首の和歌を「誦していると、古来から日本人が愛し、定型としたリズムの快さの中で、言葉がキラキラと光って喜んでいるように思われ」、「詩が人の心に与える喜びと高揚を、初めて知ったのです」との文章もとてもいいです。

「百人一首」については軍国主義華やかなりしころの日本が悪用したという悲しい歴史があります。戦時下における国民の愛国心を鼓舞するためにとの名目で、万葉集いらい明治元年以前の物故者から100首が選ばれていたのです。昭和17年11月に制定されています。冒頭を飾ったのは柿本人麻呂の「大君は神にしませば天雲の雷の上にいほりせるかも」です。選定委員には、佐々木信綱、斎藤茂吉、折口信夫、土屋文明、川田順ら錚々たる歌人が名を連ねています。今から思えば、恋の歌が半分近くを占める百人一首を戦争に利用したりするなんて、と思いますが、時の勢いでしょうか。この辺りは次回にも触れます。

五七五七七という定型で、最近私はこんなものを作ってみました。「革新の幻想去って大衆に翻弄される今の政治家」「武士の道廃れて今は危機来たり指導者不在で民衆哀れ」ーなんだか短歌というよりも川柳ぽいですが、本人としては満更でもないのですからいい気なものです。

 

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(9)常識覆す、「古事記は鉄の物語」──古事記を読む

これまで3回にわたって『古事記』をめぐる様々な思いを綴ってきたが、今回締めくくるにあたって画期的な本を紹介したい。村瀬学『徹底検証 古事記』である。この本と出会わなければ、古事記を誤解したまま終わったかもしれないとの印象は強い。

古事記を読んでも正直に言って良く分からない、との読後感は多くの人が持つはず。日本最古の物語であってみればそれも仕方ないか、と私も思いつつ、それにしてもとの割り切れぬ感情は否定しきれなかった。それが村瀬学氏の検証に付き合ってみてかなり腑に落ちた。まさに目からうろこだ。

副題に「すり替えの物語を読み解く」とある。古事記は「日・光の神々」のお話として語り継がれてきたというのが一般的であり、常識ですらある。しかし、著者は、それを真っ向から否定し、「火・鉄の神々」の物語だという。本居宣長いらいのあまたの研究者はどう反論するのだろうか。

「古事記は鉄の物語である」との断定は、唐突なものではない。古事記の神話編を貫く語り方には、「神話の世界そのものを『修理固め』として提示するという前提」があるとは知らなかった。この見方が多くの研究者の間の共有事項だという。しかし、そうでありながら、誰もが「稲作の物語」であることに疑いを差し挟もうとはしてこなかった。そこにこの著者は喧嘩を仕掛けている。

西郷信綱や三浦佑之といった名だたるこの道の専門家が滅多切りされている。とりわけ西郷には厳しい。随所で「優柔不断な注釈である」とか「書き写していても恥ずかしいところである」など、と。「はじめに」で、西郷信綱の『古事記注釈』には「私のこの論考もあり得ないほどの決定的なお世話になっている」と述べておりながら、である。古事記を「瑞穂の国」誕生のシナリオ通りに解釈する、という旧来的な読み方のモデルとして西郷を血祭りにあげているわけだ。

鉄の神が日の神にすり替えられたとはどういうことか。例を挙げる。イザナギが「あなたの身はどんなふうになっているのか」とたずねると、イザナミは「私の身にはまだ足らない部分があります」と答えたー「成り成りて成り合はぬ処」と「成り成りて成り余れる処」の件だ。ここはいわゆる男と女の性交をユーモアを交えて語っているとの要約が通常だろう。しかし、これは、銅鐸などの鋳造の場面を比喩的に語っているという。「凸として準備された鋳型と凹として準備された鋳型を合わせて、その間に溶けた金属を流し込む」場面なのだ、と。子作りと、鉄づくりとの類似性とは、まったく驚く。

また、天の岩屋の場面も「鏡」に込められた鍛冶の力への畏怖の念が見て取れるとか、スサノオのおろち退治の話も異族の産鉄の力を自分のものにしようとしたことだとか、いなばの白兎の話も単なる病を治したどうこうではなく、「海の向こうからやってくる『鉄/兎』に対して」、「二つの異なる鍛冶の対応をしている話」だというのである。推理小説の謎解きのごとく、面白い。

著者には、「古事記の神代の神々を最初から最後まで鉄の神々の物語として」、徹底した一貫性をもって読み抜いたのは自分だけ、との強い自負がある。アカデミズムが鉄の匂いを感じながらも結局は誰も本気になって向き合ってこなかったことに対して、「国文学ではわからない」「牧歌的にすぎる」との表現が勝ち誇ったように出てくる。このあたり、『逆説の日本史』で繰り返し歴史学者を虚仮にする井沢元彦と似てなくもない。

この本で、言葉の持つ多義性に思いをはせ、語源に遡ることの大事さを改めて痛感した。現代の言葉遣いだけで古代の言葉を判じようとする無理さ加減を、いやというほど感じさせられる。裏付け証拠として、白川静の『字訓』が至る所で顔を出すのは印象深い。

もう一つ見逃せないのは、著者が「火(鉄)」を作る話を、「日(明り)」の話として人々に受けとめさせる必要に迫られた時期が日本史上三度あったとしていることだ。一度目は、日本という国名を用いて、それ自体を照らす存在として、アマテラスを創り出した時。二度目は、明治になって鉄の大国を支えるためにアマテラスの話を学校の教科書などで大々的に宣伝しはじめた時。そして三度目が先の大戦が終わって、「地上の太陽」という触れ込みで原発を建設しはじめた時。確かに、いずれもイデオロギーを優先させた、すり替えが基本にある。ここを見抜いていかないと、東北の大震災以後の、原発が提起する文明の根源的課題に対応できない。

著者は、謎の多い古事記の真相に迫るには「詩的な構想力が不可欠」だと言う。確かにそうだろうと思う。ならば、村瀬氏は最後の最後まで責任をもって古事記の謎を解明してほしい。この論考は第一巻の神代編だけで、その後の二、三巻は手つかずだ。この一巻においてもいくつか「私にはわからない」との箇所がでてくる。正直でいいのだが、引き続き解明の努力をしてほしいと思わざるを得ない。

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(8)恋愛の文学の源流はここから ──万葉集を読む

これまで二回にわたって古事記について思いを巡らしてきましたが、いずれも仏教との関わりについて触れました。これは、古事記が日本独自のものとして強調されすぎ、先の大戦にあって日本書紀と並んで皇国思想のバックボーンになってきたことへの違和感を示したかったからです。私としては、古事記については仏教だけでなく様々の外来思想の影響を受けて出来上がったものだということを指摘し、あまり日本古来からの独自性を強調することは意味がないと言いたかったのです。それはここでこと改めて持ち出さずとも、古事記よりも先に誕生した「十七条憲法」の淵源を見れば明らかです。

聖徳太子の作だとされる「十七条憲法」は大化の改新のイデオロギーを要約したものとして著名ですが、これは、統一国家の原理を儒教的概念を使って述べていることや、仏教を普遍的な原理とみなしていることでも知られます。前者は、上下関係と下の上への服従の義務を説いていますし、後者では、仏、法、僧の三宝を敬えとしていることに触れるだけで十分でしょう。冒頭の「和をもって貴しとなす」でさえ、儒教、仏教の影響と無縁ではないとするのが一般的です。

古事記から始まる日本文学史を学ぶうえで、欠かせぬものとして「小西甚一氏の『日本文藝史』およびドナルド・キーン氏の『日本文学史』の二つが圧巻です」と薦めているのは、大岡信氏です(『あなたに語る日本文学史』)が、これに加えて私なら加藤周一氏の『日本文学史序説』を挙げたいところです。加藤氏はつい先ごろ亡くなられてしまったのは誠に残念ですが、「知の巨人」と呼ばれるに相応しいひとでした。かつて、政治絡みの発言は左翼志向が強すぎるとして敬遠するきらい無きにしも非ずでしたが。

加藤氏は、古事記や日本書紀について、「早くも七世紀以前の大衆の土着文化の一面と、七世紀末から八世紀初にかけての宮廷知識人の学んだ外国文化とが、出会っていた」としたうえで、単純に大陸の風に倣ったのではなくて、「話の語り口そのものに土着の精神の構造があらわれている」と述べています。それはどういうところでしょうか。加藤氏は、その語り口の特徴は、「本すじからの脱線であり、部分的な挿話を全体の均衡から離れて詳しく語る傾向である」としています。「中国の伝統的思想は先ず全体の秩序へ向かう」から日本土着のものの考え方とは違うというわけです。なるほどそういうものかもしれません。日本の大衆はあれこれ回り道をすることに興味を持つ傾向があることを思い起こします。加藤氏はその辺について「だから、『古事記』は、今日の読者に文学として面白く、王朝の学者・読者に、歴史として、またイデオロギーの表現として、不満足なものであった」と微妙な言い回しで語っており、印象的です。

古事記のなかに登場する神話の数々のうち、多くの日本人の心に残るのは、出雲の神オオクニヌシにまつわるものが多いようです。鰐を騙した白兎が赤裸にされ、海水で洗った後、風にさらせとの誤れる忠告によって、ますます苦境に陥ってしまったところをオオクニヌシに助けられる話など最たるものです。前回に見たように、淡路島が”出産”に関することだけであっさりと終わっているのに比して、出雲は国造りから国譲りへとドラマティックな展開が用意されている分、後世の町おこし、地域おこしにとって断然有利な位置にあることは確かでしょう。しかし、だからといって引き下がっているだけではいけないと思います。国生みの地も、対抗心を燃やして想像力豊かにいきたいものです。ことし瀬戸内海の島々で開かれた「瀬戸内国際芸術祭2013」など、国生みとのリンクがなされていれば良かったのに、と今頃になって悔やんでいます。

加藤周一氏は古事記のなかで「もっとも美しく、もっとも感動的な部分は、ほとんどすべて恋の話である」としています。また、ドナルド・キーン氏も、「古事記に収められている説話で最も面白いのは、民話や寓話である」としたうえで、恋愛物語にその真骨頂を求めています。古事記といえば、これまでは軍国主義と天皇崇拝の影響下にあった頃の名残りが尾を引いていました。古事記が歴史書ではなくて文学作品との位置づけがなされたのが高々百年足らず(1925年と見なされています)であってみれば、仕方ないとはいえましょう。ましてその後にあの大戦の時期がすっぽりと入っているのですから。

しかしもう今は違います。ようやく古事記がまっとうな文学作品としての脚光を浴び始めてきたのです。キーン氏は、文学研究者たちが「単に現存する最古の日本語書物というだけでなく、将来の文学的発展の種を内に秘めた文学作品としての位置づけ」を模索しはじめたことを、高く評価しています。かつての暗いイメージで古事記を語るのではなく、むしろ明るい国造りを、恋と共に語る時がやってきたとの予感がします。先ごろ亡くなった丸谷才一氏(このひともまた凄い)は、中国には性愛をめぐる好色文学はあっても、日本文学における恋愛小説は見いだされないとの趣旨を『恋と女の日本文学』で述べていたことを思い起こします。

その恋愛小説の源流こそ、実はこの古事記に端を発しているといえるのです。このあたり、中国との文学比較論争をしてみせることが大事ではないか。尖閣列島を巡っての軍事力拡大論争にはまるよりは、よほど楽しいのではないかーこんなことで締めくくると、お前はいつ平和ボケになったのか、何を寝言みたいなことを言っているのか、と現役政治家から言われそうです。

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(7)「つくる」と「なる」との大きな違い ──万葉集を読む

古事記の冒頭には、国生みの神として知られるイザナギ(伊弉諾)とイザナミ(伊弉冉)の兄妹神が登場します。この二人の神と深い関わりを持つのが淡路島とその周辺の小さな島々です。一つは、この二神によって地上に最初に出現した土地としてのオノコロ島と、今一つはこの二神が最初に生んだ子としてのアハヂノホノサワケ島です。後者が淡路島を意味することは歴然としています。前者のオノコロ島については、「海と泥の混じる塩をコヲロコヲロと掻き回し、掻き鳴らして引き上げた。その時にしたたり落ちた塩が累(かさ)なり積りに積もって島になった」とされているだけで、具体的にどの島をさすかは判然としません。

周辺に存在する島々、というよりはその島の近辺の人々は、我が地域のこの島こそオノコロ島だと主張して譲らないのです。有力なのは南あわじ市にある沼島(ぬしま)。対抗馬は淡路市の岩屋にある絵島です。沼島は上空から見ると、勾玉(まがたま)の形をしているように見えます。ここには高さが30mもある奇岩・上立神岩があり、イザナギとイザナミとが穀物豊穣と子宝に恵まれるようにと、左と右に分かれて廻って愛を交歓したとする「天の御柱」のイメージにぴったりです。他方、絵島は砂岩層の小島で、岩肌の浸食模様はなかなかのもので、一見の価値ありとされています。 日本の神話をめぐっては、出雲(島根)、高天原(宮崎)の二つに比べて、淡路島は今一歩遅れているというか、目立たないのではないかとの不満が兵庫県ゆかりのものたちにないわけではありません。最初に生み出された島として、もっと有名になっていいのに、というわけです。

先日私は、淡路島の洲本市にある国生み協会に行って、関係者の皆さんとあれこれ意見交換してきました。淡路島大好き人間を自称する友人たちと一緒に。古事記には、イザナギとイザナミは淡路島を生んだあと、イヨノフタナの島を生むとありますが、それは体が一つながら面が四つあり、それぞれ伊予、讃岐、粟(阿波)、土左と名指しされています。明らかに四国を意味しているわけです。この海域は本当に夢とロマンを掻き立ててくれる素晴らしい自然文化遺産です。私事に及びますが、高校の卒業旅行で、船で神戸港から瀬戸内海の小島の群れを縫いながら航海しました。このことは生涯の宝の思い出として忘れられません。エーゲ海やカリブ海に勝るとも劣らぬ絶品の風景だと確信します。これを世界中の観光客に見せずして、日本のどこを見せるのかとさえ思います。その際に、淡路島を起点にして大阪湾から播磨灘を経て瀬戸内海へと広がって形成されている古事記の物語を活用したい、との熱い思いがあるのです。

少し、余談にそれてしまいました。本論に戻します。古事記における国生み神話を読み進めるなかで、興味深いのは前回にも触れましたが、「なり出た」との表現です。「なにもなかったのじゃ。言葉でいいあらわせるものは、なにも」との印象深い出だしで、「天と地がはじめて姿を見せた、その時にの、高天の原に成り出た神の御名は、アメノミナカヌシじゃ。つぎにタカミムスヒ、つぎにカムムスヒが成り出たのじゃ」と続きます。イザナギとイザナミが神々を生むということについては、文字通り「お生みになる」との表現が使われています。しかし、もう一方で、「その病の苦しみの中で、イザナミのたぐり(嘔吐した、その吐瀉物)からなり出た」とか「糞からなり出た」や「ゆまり(おしっこ)からなり出た」などといういささか驚くべき言い回しが頻出するのです。「ひとは草である」との発想と類似したものを感じさせます。

この「なり出る」の「なる」との表現に注目したのが思想家の丸山眞男氏です。丸山さんは世界の創生神話には、「うむ」ということ以外に、「つくる」と「なる」との二つの発想(合計三つ)があると『歴史意識の古層』という論文で指摘しました。西欧社会つまり キリスト教的世界においては、「無」から創造主が「つくる」という行為を経て、「有」を生み出します。一方、古事記という日本の神話にあっては、創造主といった存在を介するのではなく、「自然がおのずからそのようになった」ことだとして、「なる」といいます。つまりは、古代の日本人にとって、この宇宙空間というものは、誰かがつくったものでも、生み出したのでもなく、自然と今あるすがたのようになって出てきたというのです。

「なり出る」という表現が醸し出すものを考えるときに、仏教での「空(くう)」に思いを致さざるをえません。有るか無いかで、この世における存在を論じるのではなくて、もうひとつ有るといえばあるけれども、無いと言われればない。つまり、目には見えずとも、条件が整い、環境が許せば、そこから自然に発生することを可能にする概念を「空」 と捉えるわけです。このあたり、「有るか、無いか」との、専ら二者択一的捉え方がなされるキリスト教的世界観とまったく違うところです。この仏教的世界観の基本を50年ほど前に知っての私の感動は、目からうろこなどということでは言い表せない、とてつもなく大きいものでした。

つまり、古事記の冒頭で使われている、「なり出る」という表現は、まさに仏教でいうところの空の概念を導入すると、ストンと落ちるというのが実際ではないでしょうか。 日本独自のものと見えても、インドから中国を経て日本に伝わってきた仏教の強い影響を受けていることが、このことでも分かるわけです。

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(6)古事記を読み、ひとの誕生に思いをめぐらす

今月からは、日本の古典に挑戦していきたいと思います。一つの代表的な古典を読んだうえで、その中身の基本を抑えるとともに、私の印象やら捉え方を披露します。またその古典を解説している本についても読後感を述べたりしたいと思います。関心のおもむくままにあれこれと連想する流れを記していく手法です。試行錯誤していきます。うまくいくかどうか。どうかお付き合い宜しくお願いします。一回目は、日本最古の書物である古事記(口語訳 三浦祐之)です。

古事記って何かということをまず抑えます。必要最小限のものに限って。これがまとめられたのは、712年(和銅5年)です。太朝臣安万侶が元明天皇の命によって完成させたとされています。元明天皇は奈良時代前期の女帝で、在位は707年から715年。古事記の他に諸国の風土記も手掛けさせた人です。全部で三巻。天地の始まりから、推古天皇まで。上巻は、神々の時代が描かれ、中巻は神武天皇から応神天皇まで。下巻は仁徳天皇から推古天皇までの事績やら系譜が描かれています。

さて私の関心の第一は、人間、ひとの誕生についてここではどうとらえているかということです。冒頭に「泥の中から葦芽(あしかび)のごとくに萌えあがってきたものがあっての、そのあらわれ出たお方を、ウマシアシカビヒコヂと言うのじゃで、この方が人々の祖(おや)と言うことも出来る」とあります。このウマシアシカビヒコヂとは、立派な葦の芽の男神の意味で、人間の誕生をイメージしていると思われます。さらに、「汝よ、われを助けたごとくに、蘆原の中つ国に生きるところの、命ある青人草が、苦しみの瀬に落ちて患い悩む時に、どうか助けてやってくれ」と。命ある青人草との表現に、ひとは草である、植物の仲間なんだとの発想がうかがえるとするのが専門家の捉え方です。このように植物を人間の祖先と考えたことについて、訳者の三浦さんは「日本列島が湿潤な気候の中にあり、「いのち」の誕生を、草の芽吹きと重ねて感じる心性が生じやすかったからではないか」と言います。

また、「天と地とがはじめて姿を見せた、その時に、高天の原に成り出た神の御名は、アメノミナカヌシ。つぎにタカミムスヒ、つぎにカムムスヒが成り出た」とのくだりが注目されます。”成り出た”という表現には、作るとか生み出すとかといった表現とは異種の趣きを感じざるをえません。意志あるものが主体的に行動を起こすことではなく、自然な流れの結果といったイメージを感じます。

ひとは草である。あるいはまた、ひとは何者かによって作られたり、生み出されたりするのではなく、自然に成り出てくるものだ。こうした捉え方は、日本古来の独自のものでしょうか。それとも他の地域、人々の影響を受けているものでしょうか。そう考えていると、これまで読んできた本を思い出しました。

梅原猛さんが『人類哲学序説』の中に書いていました。なんでもかんでも人間が中心だとしてきたから、ここへきて、自然から反逆を受ける結果を招いている、草木国土みな人間と一緒なんだとの発想がとても重要だ、と。これは、梅原さんによると、天台本覚思想にある「草木国土悉皆成仏」というもので、この世におけるあらゆるものはすべていのちを持っているという考え方です。彼は、これこそ21世紀をリードする新たな人類哲学の基本におかねばならない重要なものだとし、残された人生をその哲学の展開に賭けるとまでの意気込みを示しておられます。

ところで、天台本覚思想というものは、日本の天台宗に端を発しますが、勿論おおもとは仏教です。仏教といえば、ルーツはインドです。しかし、「草木成仏」はインド発ではなく、またメイドイン日本でもなく、中国が発想元だと言います。植木雅俊さんの『仏教、本当の教え』には、印、中、日の文化比べが試みられていますが、この点についても興味深い比較が出てきます。

インドでは「動物と人間は大して変りないと思われている」から、「動物も解脱は可能だと考えられていた」が、「『知』もなく、『感覚』もない草木に、成仏は無理なことだとされていた」のです。かの地では、この世において存在しているものを、有情と非情にわけ成仏の対象は有情のみとしていることを指摘しているわけです。ところが、中国の天台宗で、草木や国土、山や川までも成仏したり、あるいはできないということが言われだしたといいます。日本では、さらに徹底され草木はもともと成仏しているのだから、改めて成仏する必要はないとまでする考え方があるといいます。つまり草木国土は成仏をすでにした結果であって、これから目指すべき対象ではないということでしょうか。ともあれ、現代人からするとなかなかついていけないところです。植木さんは前述の本で、その辺については「日本の自然が豊かで、自然の恵みと人間のつながりの密接さから出てきた言葉ではないかと思われる」としています。

古事記がまとめられる前に遡ること150年くらいの6世紀半ばに、仏教は日本に伝わりました。したがってこうした、人は草であるとのとらえ方はその影響を少なからず受けたと言えるのではないでしょうか。

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(5)本格的な法華経研究者の登場に大いなる期待 ──植木雅俊『仏教、本当の教え』を読む

 現役時代の終わりのころと記憶する。仕事を通じて知り合ったある大学の教授と懇談している際に、その方が僧職も兼務されていることを知った。それをきっかけに、仏教談義となった。やり取りの最終段階で、彼はやおらカバンから植木雅俊『仏教、本当の教え』を取り出して、「この本凄く分かり易くて面白いですよ」と推薦された。驚いた。

 この時とほぼ相前後して、日経新聞の文化欄に作家の安部龍太郎氏が、自著『等伯』についての執筆余話の中で、植木氏のことに触れていたのを発見した。法華経に関する部分(長谷川等伯は法華経の信者)は彼の指南に負うところが大きいと知った。仏教、なかんずく「法華経に造詣の深い安部龍太郎」が頭に焼き付いた。いらいこの作家を注目するに至っている。

 通常の給与生活者としての仕事の傍らの研究・翻訳作業で、深夜までの作業の連続は30年に及んだという。恐らく今は40歳前後になったはずの娘さんが、高校生の時に「私は、生まれてからこの方ずっと、父親というものは、仕事から帰ってくると勉強するのが当たり前だと思ってきました」との作文を書いたことをどこかのコラムで紹介していた。奥さんや義父に漢訳の書下ろしやコンピュ―ターへの入力作業を手伝ってもらったことなど、家族総出の姿が涙ぐましく微笑ましい。

 この人の人物像に迫るには『思想としての法華経』の序章を読むに限る。学問というものにどう迫るか、自分の頭で考えるということはどのようにすればいいかが分かってくる。法華経とは何なのかということ──それは前掲の『法華経』下の末尾にある解説が手引きとなる──とは別に、若い人たちがそれぞれの道に進むに当たり、参考になる実践法がそこはかとなくくみ取れる。

 さて、21世紀の世界に生きる人間の進むべき方途が、仏教に明かされているとの指摘は特に目新しくはない。ただ、かの梅原猛氏に代表されるように、西洋哲学及びそれと表裏一体のキリスト教への必要以上の遠慮やら敵愾心が相俟って、一般的には共有されるに至っていない。植木氏の出発点は、仏教の教えが間違って捉えられているのではないかとの問題意識だった。「北枕」の例(私たちの世代は親から縁起が悪いとして教えられた)など文化的誤解の幾つかをあげ、いかに仏教の本質的理解を妨げているかを示す。確かに、信仰の対象としての仏教を取り巻く事態は霧の中であるという他ない。相当な知識人であっても、こと仏教に関しては(宗教全般にいえることだろうが、特に)疎い人が殆どだ。西洋哲学に強い関心を持つ学者が、私との会話の中で、法華経なるものは、現実とはかけ離れた荒唐無稽なおとぎ話的なものの羅列だと思えてならないと言っていた。残念ながら思想、哲学としての仏教、法華経は殆どと言っていいほど人口に膾炙していないのである。

 こうした状況を前に、植木氏は「思想としてとらえ直した時、新たな意味と価値が見いだされる」として、文明の衝突が危惧される今日、「『法華経』の止揚の論理、寛容の思想がもっと注目されていい」と強調する。ほぼ50年に亘って法華経、なかんずく日蓮仏法を実践してきた私にとって、我が意を得たりと、共感する。同時になまかじりの身には「日暮れて道遠し」を実感せざるをえない。様々な意味で覚醒もさせられる刺激的な「植木ワールド」の展開に心ときめく思いがする。

 『仏教、本当の教え』は、副題に「インド、中国、日本の理解と誤解」とあるように、比較文化論に主力が注がれている。日本の仏教といっても間口は滅法広い。この書では、親鸞や道元、日蓮の漢訳仏典の読み替えという興味深いテーマに触れているものの、それぞれの宗派の比較などには頁をさいていないのは少し物足りない。日蓮の思想に関しては、「日蓮が言うのは、今現在という瞬間に、生命の本源としての無作の仏の生命をひらき、智慧を輝かせる。そこに、瞬間が永遠に開かれる」とか、「仏教が志向したのは、<永遠の今>である現在の瞬間であり、そこに無作の仏の命をいかに開き、顕現するかということだったということを日蓮は主張しているのであろう」などといった「時間論」に触れるに留まっている。『思想としての法華経』にしても同様だ。この次には日蓮仏法に迫ってもらいたいと思ってきた。NHKの『100分de 名著』に「日蓮の手紙」で実現したことは嬉しい。

 

★他生の縁 驚嘆するほかない努力家

 植木雅俊さんは、インド思想、仏教思想論やサンスクリット語を、中村元先生のもとで学んだのちに、男性として初めてお茶の水女子大で人文科学博士号を取得。また2008年に『梵漢和対照・現代語訳 法華経』上下2巻を完成し、毎日出版文化賞を得ました。驚異としか言いようのないとてつもなく凄い努力家です。

 コロナ禍前に京都と大阪で開かれたNHK文化講座に私は参加して、数ヶ月にわたって月一回2時間ほどの植木講義を受けました。不躾な私の初歩的な質問にも丁寧に答えていただいたことが忘れられません。その後、NHKの『100分で名著』シリーズに二度も登場され、「日蓮仏法」に肉薄されていることは周知の通りです。

 

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(4)草木も国土もすべてにいのちはあるとの思想

小さい新書だけど、凄い価値を持つ本だと思う。梅原猛『人類哲学序説』だ。ー人類の歴史は極端にいえば、自然との闘いの連続ともいえる。前回までに見たように、人間は自然になされるがままの状態から、自然を統御し、支配する段階に至り、やがてまた再び自然に翻弄されるという事態を迎えている。その背景については、現在までの世界を牽引してきた近代西洋文明が生み出した科学技術文明が問い直されねばならない。梅原氏は、人間中心主義に裏付けられた西洋哲学に根本的な問題があるから、今日のような厳しい状況を招いてしまったと、分かり易い形で提起している。

梅原氏はこれまで様々な形で物議を醸す論稿や発言を展開してきた人だが、90歳を目前に人類哲学を打ち立てると勢い込んでいる。これまで彼が人生の時間の多くをかけて取り組んできた西洋哲学が行き詰まりを見せ、むしろ世界の環境破壊の元凶になっている事態を前に、その向かう姿勢の一大転換を表明しているのは極めて興味深い。西洋哲学の推移を適格に追いながら、その誤りを救う道は東洋哲学にあるとの結論付けは、これまでも少なからぬ人によって展開されてきた。しかし、具体的な解決への道筋を示した哲学者は寡聞にして知らない。梅原氏はそれに大胆に挑戦しようとしている。すなわち、日本文化の原理としての「草木国土悉皆成仏」という思想がカギを握っているとして、『人類哲学』の名のもとにご自身が新たに構築しようとされているのである。

「草木国土悉皆成仏」とは、動植物などから始まって国土に至るまで、自然のすべてはいのちを持つ存在だとの考えをさす。梅原氏はそれを天台本覚思想と呼ぶが、仏教の考え方の根本原理であろう。20年ほど前から西洋哲学の原理とこの思想とをどう対決させるかを悩んできたという。彼は、それを率直に「西洋哲学の巨匠たちを批判する勇気をなかなか持てなかった」からだと打ち明けている。今になってようやく立ち上がったのは、ひとえに原発事故を伴う東日本大震災の発生によるという。原子力発電を主なエネルギー源とする現代文明そのものの在り方が問われているとの問題意識はきわめて正しいといえよう。

これから梅原氏は西洋文明、特に西洋哲学を研究し、より正確で体系的に論じた著書を書かなければならないとし、それこそが人類哲学の本論だとしている。その所産に大いに期待し一日も早く読みたいと思う。と同時に、仏教についても研鑽を深めて貰いたいものだと思う。この本のなかで触れられているものを見る限り、きわめて大雑把な仏教理解にとどまっておられるような気がしてならない。法然や親鸞など浄土教についてはそれなりの論及はあるものの、法華経については熱心な信者だった宮沢賢治を取り上げているだけ。賢治が惹かれた利他行に触れながらも、日蓮仏法の本質に迫っていないのはきわめて残念である。

この本の最末尾に歴史学者トインビーとの対談の際に交わされたエピソードが紹介されているが、大いに興趣をそそられた。トインビーは「21世紀になると、非西欧諸国が、自己の伝統的文明の原理によって、科学技術を再考し、新しい文明をつくるのではないか。それが非西欧文明の今後の課題だ」と述べたが、それに対して、梅原氏が「どういう原理によってそのような文明はできるのですか」と尋ねたら「それはお前が考えることだ!」と一喝されたという。

40年後の今になって、トインビーへの答えが出来上がったと言われること自体は素晴らしいと思う。ただ、やはり40年ほど前に、トインビーと池田大作SGI会長との対談(1972年)がなされており、梅原氏の関心を持つテーマが語りつくされている。ご存じないはずはないと思うのだが、全く触れられていないのは不思議に思われてならない。(2013・11・18)

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【3】人間中心主義がもたらす弊害について

「われ思う、ゆえにわれあり」との言葉とセットになって、デカルトの『方法序説』は、ヨーロッパにおける近代合理主義の出発を意味する書物だということはあまねく知られています。しかし、そのことが歴史の流れのなかでどういう意味を持つのかとなると、もう一つ良くわかりません。これまで私がぼんやりと捉えていたものは簡単に言えば、次のようなものです。

まず、近代合理主義って、一体何でしょうか。反対語を考えると、「中世非合理主義」となりますから、少しははっきりとします。中世と言えば、キリスト教が圧倒的な力を持っていた時代で、その教えたるやおよそ理屈に合わない、つまりは非合理なものの考え方が跋扈していた頃です。そうした古い遅れたものを打ち破って出てきたのが近代合理主義っていうことなんだろう、と。で、それをもたらしたものは、デカルトがすべてを疑い続け、否定し抜いてなお残るものとして、そうしたことを考える、疑う自分自身の存在は確かだというのです。要するに、考えない人というものは自分がない、すなわち人間というものは、関西風に言えば、考えてこそなんぼのもんやちゅうわけです。

ところで、人類の歴史のなかで、幾つかの文明は栄枯盛衰を繰り返し、今は見る影もないものが少なくないです。例えば、メソポタミア文明やインカ文明などがあげられましょうか。それに比べて、今日まで生き続けているのが西欧文明ですね。古代ヨーロッパにおける、ソクラテス、プラトン、アリストテレスらによるギリシャ哲学に支えられてきたといえます。ところが、途中でキリスト教との確執がありました。その結果、中世スコラ哲学に主役の座が取って代わられました。そのことがデカルトが登場する頃に、学問が混迷と煩雑さを招いたと考えられます。

デカルトは『方法序説』(谷川多佳子訳)のなかで、自らの哲学を述べる一方で、学問の方法について簡単明瞭に提起しており、きわめて興味深いものがあります。直観、分析、総合、枚挙といった、学問をするうえでの四つの方法や、ものごとは穏便に処せ、選択に当たっては迷うな、自分の欲望にうち勝て、との生きる上での三つの法則(格率という言葉が使われていますが、少しなじみませんね)を掲げています。当時の時代状況の中でこれほど平易な形で生き方のコツを述べた人はおよそ珍しかったのではないでしょうか。読んでいて一気に親しみを感じてしまいます。この辺りは、あまたの人々を導くよすがとなってきており、遅れて生きる我々にとっても大いに参考になります。

ところが、めぐり巡って今や、近代合理主義は評判が良くありません。その限界が声高に叫ばれているんですね。なぜそう言われるのか、文中を探してみました。「われわれをいわば自然の主人にして所有者たらしめることである。このことは、たんに大地の実りと地上のあらゆる便宜を、やすやすと享受させる無数の技術を発明するために望ましいだけではない。主として、健康を維持するためにも望ましいのである」とのくだりがそれにあたると思います。つまり、これって、他の生き物や自然を支配するために人間を至上の存在とする考えですよね。一言でいえば、人間中心主義。今日の環境破壊、滅びゆく大自然の元凶とさえ指摘されています。

ですけど、デカルトの登場前の世界っていうと、人間は大自然に翻弄され、振り回されることがしばしばだったんですね。生活を豊かに、健康で過ごすうえで、立ちはだかる自然をコントロールする必要が人間の側にはあったことを、今の時点で誰が否定できるでしょうか。結局はデカルトも‘’時代の子‘’だったといえますね。そのことを裏付けると私には思える記述があります。旅をしていく中で気づいたというくだりで、「同じ精神を具えた同じ一人の人間でも、子供の時からフランス人やドイツ人のあいだで育てられると、中国人や人食い人種のなかでずっと生活してきたのとは、どんなに違った人間になることか」ー訳者の注によると、人食い人種とは、アメリカの原住民をさすとあります。彼が生きた時代は17世紀半ばゆえ、無理もないといえましょうが、中国人と並列して書く神経はなかなかのものです。

いまでこそ反自然だといってデカルトを批判したり、近代合理主義への攻撃の矢は向けられますが、これは最近のことであって、かつては「デカルトの自然学が古代や中世の自然学に対する長所は、こうして人間を自然の支配者たらしめたところにあります」(澤瀉久敬『思想の英雄・デカルト』)といった捉え方が常識的なものでした。

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