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[1]左右双方から祭り上げられた〝謎の巨人〟ー西部邁『福沢諭吉 その武士道と愛国心』を読む/9-1

 この本を読むまで、分かったような気でいた「福沢諭吉観」が音を立てて崩れた。近代日本を代表する合理主義者であり、個人主義、自由主義の開祖的存在といった見方を「それほどつまらぬものはない」と西部は切り捨てる。同時に、その「精神の構え方を凝視」すれば、むしろ「武士、儒者、愛国者」の側面を持つ明治人像が浮かび上がってくるという。これだけを読めば、真正保守主義者・西部邁特有の〝我田引水的論法〟に思えてこよう。サブタイトルの「武士道と愛国心」は、近代ヨーロッパ思想に習熟し、その輸入に尽力した諭吉とは、いささか縁遠いものとの思い込みが誰にも漠然とながらあるからだ◆なぜ誤った見方が流布したかについて、西部は「境界人(マージナル・マン)」というキーワードを提起して読み解く。「良識・常識」によって培われたオリジナルな思想を持つ諭吉は、「二つの異なった領域のあいだの相克の模様を眺めることを通じて」、両者の本質的差異を見抜く力を持つに至った、と。私の理解では、例えば神道、儒学や仏教などによって形成された日本固有の思想と、キリスト教、ギリシャ哲学などによって作り上げられた近代ヨーロッパ思想の双方を、境界線上の位置から、諭吉は両者を的確に把握したということではないか。この観点から西部は、既成の領域に捉われた人々の愚を徹して暴く◆その血祭りにあげられているのが、丸山真男である。この人の『「文明論之概略」を読む』(昭和61年)を俎上に載せて、「濃い色眼鏡で、しかも左眼だけでみた諭吉像に過ぎない」「自分の好みに合わせた一面的かつ単層的諭吉像」などと、全編至る所でこき下ろしている。かつて私も新書版3冊からなるこの本と格闘した。いわゆる戦後の進歩的知識人の代表格とされてきた丸山をかくほどまでに論理的に貶めて、小気味いいまでの切れ味を示した書物を私は知らない。西部の論理展開は少々分かりづらい表現もあり、一般には難しいものの、一連の批判部分は読みやすく納得させられる◆西部は、日本が20世紀全般を通じて、「ナショナリズムの過多(国粋主義)とナショナリズムの過小(欧化主義)のあいだを落ち着きなく往復してきた」と位置付ける。そして、その原因こそ、福沢諭吉に見る平衡感覚が理解されてこなかったからだと結論づける。最もポピュラーな名前でありながら、その何者であるかが遂にいわば謎のままに終わっていることを嘆く。結語の「批評家」は、「臨界人」を巡って極めて示唆に富む論点が披歴されていて、興味は尽きない。慶應義塾で学んで半世紀が経つ私だが、その全人像を知り得る入口に漸く立った。(2021-9-1)

※前号で、ブログ読書録『忙中本あり』は通算400回を迎えました。今号より、毎回ナンバーを振って、当面は100回を目標に、通算500回を目指します。

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(400)戦後民主主義への弔鐘ー西部邁『中江兆民 百年の誤解』を読む(下)/8-22

兆民の本でもう一冊挙げるとすれば『一年有半』に違いない。西部も「死の意味を求めて」とのサブタイトルを付けて、取り上げている。これへの評価で最も辛辣なのが、正岡子規。「平凡浅薄」で、「要するに病中の鬱晴らし」の代物だと切り捨てる。それに対し西部は、「関心の赴くところ、何についてでも書いておこう」という「『拙いとはいえ真情溢れる』兆民の「仕事であった」として優しく寄り添う。誰しも晩年には「いかに死ぬか」を考える。思いつくまま気の向くままに、遅れてきたる人生の後輩たちに書き残したいとの思いは私にもあり、大いに共感できる▲一方、兆民は最後の作品『続一年有半』で、「無神」「無霊」「無(意思)自由」ーこの世に神も霊も、意志の自由も何もないということかーを断言した。これにも「陳腐なことこの上ない道徳観にすぎない」との世評が専らであったという。しかし、西部はむしろ「明治の激動期に直面した知識人の日本人」や、とりわけ「武士道の残影のなかに生きた世代」の「立場が鮮明に打ち出されている」と、肯定的な評価を与えている。尤も、現実には、この時代誰しもハイカラならぬ「『灰殻』でしかない西洋化」に靡くだけ。「西洋の根底にあるキリスト教的な価値観を批評の俎上に載せ」ようとする知識人は皆無に近かった▲江戸から明治へと時代が急展開する中で、全ては西洋的なるものの吸収に躍起となった。兆民も西洋の哲学を漁り、その真髄をルソーの『民約論』の中に求めた。と同時に、強硬な明治政府批判を繰り返した。人々は彼をして単純に「自由・民主主義者」と見立てたのである。西部は、その誤りを徹して暴き出す。「西洋」を至上のものとして、日本の思想的伝統をかなぐり捨てた時代。その風潮に、真っ向から立ち向かったのが兆民であり、「真正保守」の人を見誤るな、と▲先の大戦から70猶予年。アメリカに叩き潰され、骨の髄までそのキリスト教的価値観に翻弄されてきた日本。戦前の70猶予年は、それこそ批判の俎上にも載せず、棚上げしてきた。一転、戦後は棚卸しするが早いか拝み奉るに至った。「戦後民主主義」の名の下に。西部はそれに刃を振るいまくった。この本でも、兆民を見誤ったことに全てに狂いが生じる原因があったかのごとく掩護する。▲「民主主義の限界」が公然と語られる現状下にあって、今日本人が気づくべきは何か。西部は自らの後半生を振り返り、「精神的荒野を彷徨い歩いて」きた「『存在』としてはほとんど無の老人」と遜る。この時点から5年後、彼は自死へ。この兆民論は、諭吉論と並び、遅れて来る者たちへの遺言の側面が強い。が、それにしても妙に哀れを催す。この辺り、更に考え続けたい。(2021-8-22) Continue reading

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(399)この先達を見誤った果ての無惨な日本ー西部邁『中江兆民 100年の誤解』を読む(上)/8-16

コロナ禍のお盆も過ぎた。この夏に入った頃から西部邁のものに取り憑かれている。福沢諭吉論と中江兆民論の2冊である。諭吉のことを語らせてこの本の右に出るものはない、と誰かが書いていたのを読んだのがきっかけ。打ちのめされる思いだった。慶應義塾に学び、諭吉については思い込み、入れ込み、惚れ込みがあった。だが、それは実像を見誤った結果かもしれぬと思い知らされた。で、その本の中に、次に兆民を書くとの予告があった。諭吉との類似性ー現代人の誤読ーに触れられていると知った。これまた衝撃的だった。というのが「西部劇場」に嵌った経緯だが、まず、後者から取り上げたい◆兆民といえば、ルソー『社会契約論』の訳者であり、『三酔人経綸問答』の著者として知られる。この『問答』は妙に面白かった。三酔人とは、洋学紳士君(民主主義的な理想家)と豪傑君(国家主義的な現実家)と南海先生(主人役の常識人)のこと。兆民ファン文化人(河野健二、桑原武夫ら)は、主人=兆民と見ず、ニ客の思想に分散されていると見ており、西部はこれを誤解だと指摘。兆民を「反体制の元祖」としたい彼らにとって、漸進的改良主義者の南海先生とはみなしたくないからだ、と。西洋思想の本質を見抜いていた兆民。その視点を色メガネで見た文化人を完膚なきまで否定する西部。この背後には真正の保守主義者たる西部ゆえの卓見があると思われる◆私はこの本を読んだ当時、社会党、自民党、公明党の三党リーダーの議論だと勝手に見立てた。身贔屓が過ぎると思わないで欲しい。〝自社55年体制打倒〟を目指す中道主義の真骨頂ここにあり、と思い込んだものである。自社両党に共通するのは、西洋思想に立脚している点にあり、非武装中立的理想論と軍事力拡大指向の現実論は共に誤りだ、と勢いこんだ。領域保全に限定した〝針ねずみ型防衛〟に徹して、漸進的に改革を進める公明党こそ時代をリードする存在だ、と。この見立ては本質を衝いているものと自負する思いは変わらない。昨今のスタンスはやや不本意なところはあるものの、身をやつした姿は本願成就を一時棚上げしたものと勝手に理解(誤解?)している◆本題に戻す。西部は世に跋扈してきた戦後民主主義、誤れる西洋思想受容を根底的に破壊する旗手として生き、思いを成就出来ぬまま自死を選んだ。被誤解者二人ー「諭吉と兆民」に対する情愛の籠った比較、『一年有半』にみる死の意味の捉え方など、大いに興味を惹く。兆民の破天荒な振る舞いぶりを、明らかに西部は意図的に模倣した部分があると私は見る。この本で最も共感したのは次のくだり。「兆民の死後から四十四年後、大東亜戦争の大敗北で腰を抜かした日本民族は、良識の中心になければならぬナショナリズムの一片をすら保持することをせずに、最悪の西洋化に適応してきました。つまり、歴史意識の決定的に不足している『ウルトラモダニズムとしてのアメリカニズム』、其れが二十世紀後半からの日本列島における列島人の精神が滑り落ちていくしかない勾配となったのです」ー嗚呼。(敬称略 この項つづく 2022-8-16)

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(398)日本の来し方と未来を抉るー兼原信克『歴史の教訓「失敗の本質」と国家戦略』を読む/7-25

著者の狙いは、近代日本の勃興から敗戦による滅亡までの日本の来し方を、世界史の中で眺めて、そこから教訓を得ること。もう一つは、将来の日本のために、普遍的価値観に基づく誇りある外交戦略を組み立てること。失敗の本質を歴史から汲み取り、これからの国家戦略の構築に活かそうという意欲的な試みだ。興味深い〝歴史の余滴〟やら〝歴史の皮肉〟など、読み応えある面白くてためになる記述が満載。ここでの「歴史の教訓」を多くの青年が拳拳服膺すれば、現代日本の知的レベはぐっとアップすることは間違いないと思われる▲故岡崎久彦氏(外務省出身の外交評論家)を「敬愛する」著者は、その死の直前に「何かを託された」との思いを抱いた逸話を明かす。私は、岡崎氏との私的勉強会(新学而会)の末席を汚し、晩年の同氏の謦咳に接した。一読者として殆どの岡崎作品を読んできた者として、弟子ともいえる兼原氏の、この論考に刮目する。大使在任中に周りの眼を気に留めずひたすら書きまくった師匠に比し、退官後に満を持して筆をとった弟子。師の所産を弟子が血肉化した〝師弟の二重奏〟に惹きこまれる▲元衆議院議員として気になったくだりに触れる。「東西ドイツの分断が、ドイツを空想的な平和主義に籠ることを不可能にした」と論及。あいも変わらぬ55年体制下にあるような議論が繰り返されている日本との比較が厳しい。「拡大核抑止の内容を真剣に議論出来る日本人の数は限られており、日本人一般の軍事リテラシーも著しく低いままだ」と残念がる。「政府による日米同盟強化の動き」が「混乱と政局」を招きかねず、自衛隊の動きを巡って「イデオロギー的な議論がなされている」現状への懸念が強調されている。現場を離れて8年。〝変わらぬ風景〟に溜息を否めない▲ただ、「集団的自衛権」の〝変形導入〟に多大の犠牲を払って貢献した公明党からすれば、「そう急ぎなさんな」との思いも。内政、外交・安保両面で「55年体制打破」に挑戦してきた者として、後輩たちの「あと一歩」にー多少の自嘲を込めつつー期待したい。著者は「価値の日本外交」戦略の構想をめぐる最終章で「日本単独の国力には限界がある。国際協調の中でのリーダーシップだけが、日本が今世紀に世界の中で輝く道なのである」と結論づける。だが、深まる一方の米国の分断化の見通しや、国際秩序変更への中国の露骨な意図についての分析に物足りなさが残る。(2021-7-25)

 

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(397)〝霧にむせぶ城〟に掻き立てられる想像力ー奈波はるか『天空の城 竹田城最後の城主 赤松広英』を読む/7-18

 

著者のあとがきを真っ先に読んで驚いた。初めて竹田城の存在を偶然とある駅で見た雲海に浮かぶ城跡のポスターで知って興味を持ち、京都から現地へ。不思議な城跡と城主の魅力に惹かれ、数年かけて初めての戦国時代ものを書いたという。そんな簡単に時代小説が書けるものかと半ば疑う気持ちと、我が兵庫の生み出した〝幻の名城〟への興味とが相俟って、読み進めた。この本を読むきっかけは、岡山に住む読書人の先輩・日笠勝之氏(元郵政相)が、ご先祖ゆかりの人の本を読んでみてはと、送ってきてくれたから。かの赤松円心則村から数えて10代ほど後の武将・赤松広英が主人公。龍野城主だった政秀の息子。鳥取城攻めの後、家康によって自刃させられた竹田城主ーそう言われても、播磨守護職だった赤松の系譜では、「嘉吉の乱」の満祐ぐらいしか知らない。私には苗字が同じだけの未知の歴史上の人物。それでもご先祖様の足跡を辿るような錯覚を持ったのだから、名前とは妙なものだ▲「天空の城」とは竹田城の異名。まるで雲海の中を進む飛行機を思わせるように、城跡が霧のなかに浮かぶ。一度はその風景を直接見たいものと思いながら、写真だけで未だその機会はない。幾たびも下から見上げ、往時を偲ばせる小高い山頂にも登ったものだが。「雲海はうねりながらものすごい速さで左から右へと流れていく。頭上の雲が切れて青空が見え始めた。(中略)見ていると、雲海が少しづつ沈んでいくではないか。あそこに竹田城がある、というあたりの雲の塊が下がって、城が姿を現した」ー城主となって初めて国入りした広英が、城を対岸の山の中腹から眺める場面だ。もとをたどると、円山川から発生する霧がみなもと。雲海より霧海と呼びたい▲「天下泰平」を夢見る広英は、城下の農民たちと心の交流を度重ね、名君の名をほしいままにする。この小説は但馬、播磨をベースに、主に秀吉の天下平定への戦の数々を、広英の立場から追っている。戦国ものの体裁をとっていて、初めての気づきも多々あった。加えて、秀吉晩年の朝鮮出兵に伴う葛藤は、時代を超えて改めて無益な殺生だったことを思い知らされる。人間の一生への評価は、棺を覆うてから定まるとの思いを新たにした。更に、婚礼の儀の細やかさや、琴を弾き笛を吹く場面などに、女性作家らしい優雅な視点を感じたことは言うまでもない▲姫路城の城下で育った私には、今住む街にある明石城などは、天守閣がないゆえ、およそまともな城と思えない。どうしても壮大で華麗なそれと比較してしまう。まして竹田城は天守閣はおろか城の痕跡は石垣に残るだけ。しかし、それゆえと言っていいかどうか、観る人間の想像力を掻き立てる。ましてや〝霧にむせぶ城〟とは、まことに泣かせてくれる。この小説の作家・奈波さんは400年あまり前の時代に遡って、平和な楽土を夢見る為政者と一般人の、えもいわれぬ二重奏に誘い込む。「兵庫五国」と言われる中で、丹波・但馬地域は観光で気を吐く地域でもある。竹田城は、城崎温泉や丹波篠山の古民家などと並んで人気の的。コロナ禍前にはうなぎのぼりに観光客が増えていた。竹田城をNHK大河ドラマに、との運動もあると聞くだけに、この小説はもっと活用されていいのではと思うことしきりだ。(2021-7-18)

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(396)棚上げされてきた「平成の国防」ー兼原信克 編『自衛隊最高幹部が語る 令和の国防』を読む/7-13

去る6月5日に配信された、朝日記者サロン『せめぎ合う米中〜日本の針路』なる対談をネットで見た。朝日新聞政治部の倉重奈苗記者の司会で、兼原信克・前国家安全保障局次長と笹川平和財団上席研究員の渡部恒雄氏が解説する試みだった。現役時代の番記者の一人で、中国特派員も経験した旧知の同記者からのお勧めだったが、中々の知的刺激を受けた。その際、兼原氏の発言で二点興味を唆られた。一つは、昨今の中国の台頭の背景には、西側諸国の没落が始まったとの認識があるとの見立て。もう一つは、戦後日本の生き方に外務官僚として責任を自覚していると読み取れたこと。この二つから、彼の著作を読もうと思い立った▲表題の本は、正確には陸海空の3自衛隊元幹部の座談会で、兼原氏は司会役。普段は殆ど聞くことのない自衛隊の本音が伺え、滅法興味深い議論が続く。とりわけ、陸海の元幕僚長が「領土と国民を守る」戦い方の相違を巡って、激しくぶつかるくだりは生々しい。異文化のもとに培われた両組織の差異が、映像で見るようにリアルに迫ってくる。この二人は同期で、空自の元補給本部長は少し後輩。人選の巧みさが光る。ここでは、「平成の国防」を国会議員として論じてきた立場から、正直な受け止め方をほんのさわりだけ披露してみたい▲ここでの議論の前提には、中国は「力による現状変更を躊躇しなくなった」との認識がある。台湾と尖閣の有事は同時に起こるーその時に自衛隊は本当に国土、国民を守れるか。日米同盟は機能するのか。国民に備えはあるのか。兼原氏が「3名将」の奥深い戦略眼を引き出し、自らの歴史観を織り交ぜての展開は微に入り細にわたる。例えば、台湾に対して「日本の防衛装備を売って、同時にメンテナンスやトレーニング、更には空港、滑走路、港湾、道路などの軍事施設の公共事業も一緒にやってあげられるといい」との提案を示す。と同時に、これらのこと(軍民共用施設の建設)でさえ、日本は「平和主義のイデオロギーに縛られて」難しいとの現状を明かしている。このため「いっそ防衛省の能力構築支援の予算の方を拡充して」、防衛省直轄でやるといい、とまでいう▲8年前まで国会の現場にいた私としても全面的に首肯せざるをえない実態であった。だが、昨今の中国・北東アジアの情勢認識は変化を余儀なくされている。国会はコロナ禍対応一色だが、こうしたテーマを含めて関係委員会で、しっかりした議論を着実に深めていくべきではないか。この座談会では「専守防衛の日本は列島に閉じこもっていればいい」との議論が「国防」の妨げとなっていると随所で強調されている。確かに、私は「領域保全能力」のもと「水際防御」をすれば、平和を実現出来るとの考え方を持っていたし、今もこだわりがあることを認めざるをえない。同時に、「平和外交」の展開が欠かせないとして「外交」に責任を転嫁したことも。(2021-7-13)

 

 

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(395)確かにそれは突然やってきたーボーヴォワール『老い』(朝吹三吉訳)を上野千鶴子の解説と共に読む/7-6

秋の日はつるべ落としというが、私の場合、それはついこの夏に突然やってきた。これまでも徐々に歳を意識する場面に事欠かなかったが、今度ばかりは衝撃を受けている。正座が出来ず、あぐらがかけないのだ。昨今、椅子を使うことが常で、滅多に直に畳の上に座ることはなかった。ある日、座ろうとすると、右足が痛くて曲がらない。左足は左外へ回せない。しゃがむことさえままならないのである。先輩たちが会合でも、食事処でも、椅子を常用していたのを他人事と思っていたのだが、ついに自分にお鉢が回ってきた▲ボーヴォワール『老い』をNHKテレビの『100分で名著』で上野千鶴子さんが取り上げた(6月最終月曜日から毎週月曜放映)ので見た。と共に、テキストも読んだ。朝吹三吉さん訳本は上下2巻、しかも二段組の大部とあって敬遠。せめて解説本だけでも、とばかりに。上野さんについては6月16日に放映された『最後の講義』なるBSの番組も見ている。この人はボーヴォワール『第二の性』が刊行される直前に生まれ、それが世界中で話題となる過程で幼女から少女へと育った。ボーヴォワールを強く意識する中で社会学者となり、女性の権利擁護を叫び、高齢者福祉に取り組む。私の認識は「おひとりさま」なる用語を駆使する〝うるさいおばさま〟というものぐらい。背中だけ見ていたが、ようやく三つ歳下のこの人の顔をマジマジと見ることになった▲この本で最も関心を引いたのは、「老いーそれは言語道断なる事実である」との言葉と共に掲げられた6人の知識人たちの老年期の「事実」だ。例えばゲーテの場合。「ある日、講演をしている途中で記憶力が喪失した。20分以上もの間、彼は黙ったまま聴衆を見つめていた」ー彼を尊敬する聴衆は身動き一つしなかったし、やがてゲーテは再び話し始めたという。このことで私が見た二つの事例を思い出す。ある有名な先輩女性議員のケース。講演の中でしばしば沈黙された。明らかに言語障害と思われた。後の機会でも同様な場面が続き、やがて引退へと。もう一つはNHKラジオの解説番組に登場したある学者のケース。いきなり意味不明の発言を連発。司会役が「先生、朝早いからですか?それはどういうことで?」と幾たびも不可解さを指摘したが、事態は変わらずそのまんま。やがて放送時間の10分は終わった。一切説明はなかった。いずれも「老い」がもたらす災いに違いなかろう▲ヴォーボワールは学者、芸術家など知的職業人の「老い」に辛辣な見方をした。例外は画家と音楽家。上野解説では何故かは触れていない。私見では感性中心の、時代を超越した芸術分野と、理性が幅を利かす分野との違いだと思われる。政治家についても厳しい見方を提起している。「時代とより密接な関係にある」ために「(自分自身の)青年期とはあまりにも異なる新時代を理解することに、しばしば失敗する」として、代表例に英国のチャーチルを挙げている。第二次世界大戦の英雄だったが、平和期にはおよそ平凡な宰相として顰蹙を買う存在になり下がった、と。「老い」の視点を導入しないと人の一生の評価は見誤る。秀吉は日本史での最たる例であろう。さて、もはや取り返しのつかない老人になったものはどうするか。私には秘策があるのだが、ここではヒミツにしておき、明かさない。(2021-7-5)

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(第3章)第7節 400年に及ぶ「海の攻防」を分析──竹田いさみ『海の地政学』を読む

 「贅沢で濃厚な新書」との評価

 『海の地政学』の著者・竹田いさみ獨協大教授には、10数年前に衆議院海賊・テロ特別委での参考人質疑(2011年8月23日)に来てもらった。ソマリア沖の海賊問題などでご意見を聞いたのだが、改めてネットに収録された当時の様子を再聴し、懐かしい思いに浸った。20年に及ぶ現役生活で私は数多の学者、文化人と時々の政治課題を巡って議論をしてきたが、竹田さんは特段印象深い。ご専門に対するあくなき研究心と誠実なお人柄に強く惹かれたものである。

 ちょうどその当時、私は海洋を巡る国際政治の動向に強い関心を持ち、竹田さん始め幾人かの専門家と知己を得ていた。そのうちある若手研究者が海洋についての論考をまとめて本にしたいと言っておられたので、心待ちにし続けたが、結局10年余り経って未だ実現していないようだ。彼は米国における豊富な人脈がある優秀な学者である。自著を出されたらすぐに読みたいと思うのだが、まだ共著ばかりとお見受けする。そんなこともあって、海洋の歴史を辿り、現代における課題をまとめることの困難さを感じていた。

 そこへ竹田さんがサブタイトルに「覇権をめぐる400年史」とある、壮大なスケールを持つこの本を出版された。「贅沢で濃厚な新書」とのある専門家の書評の見立てがズバリ言い得ている。「揺らぐ海洋秩序を前に、我々はいかに対処すべきか」について、「近現代史を海から捉え直す」作業の所産は極めて興味深い。座右に置いて時に読み返したい価値ある労作である。

中国の編み出す「新手」を分析

 ご本人は、海に関する素朴な疑問を解き明かしてみたいと思って書き始めた。最初から海の400年の歴史を追うつもりはなかったのだが、一つ一つの断片を追い続けるうちに、一つの大きなヒストリーへとまとまっていった、という風に「著者へのインタビュー」で述べておられる。確かに、大航海時代のスペイン、ポルトガルからオランダ、19世紀のイギリス、20世紀のアメリカ、そして21世紀の中国といった海の覇者たちの歴史を縦軸にして追う。そして横軸には、海の法規範の発展過程や、民間商船の犠牲、海上保安庁の役割など、さまざまな一見無縁に見えるような題材を配置する。さらに斜軸にはエピソードもふんだんに盛り込み、全体として大きな400年の海の物語を形成しているかのように読める。

 海洋における中国の立ち居振る舞いは、改めて指摘するまでもなく、いかにも挑発的である。決して気の長くない私など、つい苛つき興奮してしまいそうになる。しかし、竹田さんはあくまで冷静に淡々と分析していく。例えば、「実効支配していない島々や海域を一方的に領有していると法律に記載し、あたかもすでに領有権があるかのようなイメージを作り上げる『新手』を編み出した」とのくだり。『新手』との表現には思わず笑った。更に「中国の法律は、中国にとって便宜的な解釈ができるように整備されている」とか、「中国側の都合で接続水域も実質的に中国の領海として扱うなど、国際ルールを受け入れていない」など、ユーモアさえ感じる表現に、優しさと知恵深さを感じさせられる。中国のこのたくらみの多彩ぶりには驚くというより呆れ果ててしまう。

 一方、専門的な解説の合間に、アメリカの有名紳士服ブランドにまつわる余談が挿入されるなど、読む者を飽きさせない。また、戦時中における日本の民間商船の哀しい歴史についても目配りがなされている。「中国軍の南進を看過し、結果的に南シナ海の緊張を高め」、皮肉にも中国の存在感を巨大化させた、〝バラク・オバマの罪〟も忘れずに触れられている。また、「大好きな新幹線での途中下車を封印してきた」との書き出しで始まる「あとがき」の苦労談もぐっと読ませる。誘い込まれた「海洋史の迷路」を抜け出すことが難しくなったとの表現に、臨場感が漂う。この人の「寄り道」の味わいを、エッセイで読みたいとの思いが募ってくる。

【他生のご縁 国会の委員会で参考人に】

 国会の委員会で参考人をお呼びする際に、尊敬する専門家をノミネートし、最終的にその方に落ち着くことは滅多にありません。冒頭に書いたように、竹田さんを私が指名し、見事に目的を果たせたのは幸運でした。そのおかげで、今なお親しくさせて頂いています。

 2011年当時は未だ中国の習近平政権誕生の前夜でした。この10年で彼の「一帯一路」構想も大きく張り巡らされ、陸にも海にも中国の「新手」が幅を利かせています。改めて竹田さんと初めてお会いした頃は、まだ中国は猫を被っていたかのような側面があったのかと思わせます。

 函館の美しさについて竹田さんは、日帰りだったので、夜景は見られなかったが、昼も絶景だった、と触れておられます。実は私は幾度かかの地に行って宿泊もしたのですが、有名な函館山からの夜景も昼景も見ていません。よほど日頃の行いが悪いのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

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(393)コレラから160年の日本の疫病対応ー小島和貴、山本太郎『長崎とコロナウイルス』を読む(下)/6-20

前回に続き、今回は長崎大学の熱帯医学研究所の山本太郎教授の講演を読む。この研究所は日本でも有数の感染症研究で有名で、今回のコロナ禍でも重要な役割を果たしている。今から160年ほど前の江戸時代末期の嘉永から安政年間にかけて、日本で流行したコレラは、この長崎から広まったとされる。中世ヨーロッパでのペストの流行はトルコのイスタンブールから。交通の要衝である両地が疫病蔓延のきっかけとなった。その後のヨーロッパや日本の近代幕開けの舞台になったとの経緯は中々興味深い▲山本さんはこの論考で、コロナウイルスと人類との遭遇を、様々な角度から考えていく。例えば、人類の歴史において、地域固有の疾病ー天然痘、麻疹、水痘、結核などーが戦争や交易などを通じて、あたかも物々交換をするかのように混じり合い、疾病の平均化をもたらしてきた。21世紀の今。新型コロナ禍のケースでは、「共生」を中心にした新たな感染症対策が必要だとされる。「共生」には壮大なコストがかかる。長崎大の片峰茂前学長の、今回のパンデミックの「収束を演出する」ために、人類の知の真価が試される、との「刊行に寄せ」た言葉は意味深長である▲山本さんは「短い期間での収束は難しく」「文明のあり方を変えていくしかない」とし、どう進めるかは皆で考えようと、読者に問いかける。「感染症との共生の在り方も、経済の在り方も、人口の推移に影響される」という。どこかで区切りをつけるための「演出」が求められるのかもしれない。人口は長期で見れば何処も同じ減少傾向にあるだろうが、短期で仮に日中比較をすればパイが違い過ぎる。その分、同次元で論じにくいのである。私見では、中国やロシアという強権的社会主義国家と、日米欧など民主主義国家の価値観の相剋が大きな課題である。これらの国家群が同じ位相でコロナとの共存を考えるというのは想像し難い。ことほど左様に前途多難である▲この講演が行われた長崎は、コレラが発症した当時、交通の要衝であり、日本近代幕開けの機縁となる明治維新の一大拠点だった。だが、今の長崎はもはや交通の要衝とはほど遠く、維新当時とポスト近代の今とでは様々の面で比べるべくもない。この辺りをどう捉えるか。各種研究機関の発信源として気を吐く長崎大学の使命は重大である。コレラからコロナへ、日本の160年とこれからを考えさせてくれる小さいがとても重い本を読んで、充足感に浸っている。(2021-6-20)

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(392)公衆衛生の仕組みを最初に作った長与専斎ー小島正貴、山本太郎『長崎とコロナウイルス』を読む(上)/6-14

長与専斎と聞いて、どんな人物かわかる人はあまりいないはず。長与とくれば白樺派の作家・長与善郎なら知ってるが、という人は少しはいるかも。専斎がその親父さん(善郎はその5男で末っ子)とは知らなかった。近代日本における公衆衛生の確立に携わった官僚だ。あの「適塾」の福沢諭吉の後任の塾頭であり、かの台湾総督民政長官として活躍した後藤新平を育てた先輩だと言った方が分かりやすいかもしれない。要するにご本人はあまり世に知られていない。だが、コロナ禍の中で注目すべき先達だとして、今大いに宣揚している人がいる。小島和貴桃山学院大学教授である▲コロナ禍と長与専斎と小島和貴ー三題噺のようだ。実は慶應義塾出身の小島さんと私は以前からお付き合いがあった。新進気鋭の行政学者だったこの人、2年前にこの長与専斎の研究で法学博士となられた。その時の論文がついこのほど『長与専斎と内務省の衛生行政』なる著作として刊行された。本の性格上、正直少々読みづらい。まずは手引きにと、小島和貴、山本太郎・講演集『長崎とコロナウイルス』の方が手っ取り早い、と読んでみた。「コロナウイルスと長与専斎の先見」とのタイトルで、明治期に官民連携の仕組みを作り、コレラなど伝染病対応に取り組んだ業績が語られている。いささか出版社の企画先行のきらいなきにしもあらずだが、医学先進県・長崎の心意気とみたい▲専斎は、①岩倉遣外使節団に随行し、西欧の医学教育制度を学んだ②「保健所」や「専門家会議」など今に先駆ける基本的枠組みを作った③「大日本私立衛生会」という官僚と住民代表の仕組みを創設した④コレラの予防のために上下水道を整備したーなどの業績は数多い。しかし、❶代表的な著作がない❷記念碑的業績がない❸地味な人物であったーなどから世にあまり知られていない。福沢諭吉と水魚の交わり的関係を保ち、後藤新平や北里柴三郎らスーパースターを育てたというのに。著者の惜しむ思いがひしひしと伝わってくる▲コロナ禍における日本の対応が諸外国に比して、後塵を拝しているかに見えるのは何故か。長与専斎の作った仕組みの原点に立ち返って、「公衆衛生」の基本に立ち向かうしかなかろう。専斎のなし得た仕事の上に胡座をかいていただけで、〝非常時想定力〟が乏しい私を含む全ての政治家の責任が問われる。それにしても、長崎という地は不思議なところだ。近代日本の魁となる偉人を数多く生み出していながら(「長崎偉人伝」なるシリーズ出版あり)、自然災害に弱く、交通事情が未だにお粗末。「あとがき」で、豪雨災害のため現地入り(2020-7-7)を拒まれた〝講演者の悲劇〟を知った。憧れの地・長崎を指呼の間にしながら近づけなかった、小島さんの切なさが迫ってくる。彼は福岡のホテルでzoom録画をし、メール送付での映像を会場で流すという離れ業を思いつく。非常時の身の処し方として学ぶべきことは多い。(2021-6-14 ※山本太郎教授の講演は次号で)

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