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(371)「首都移転」しかないー高嶋哲夫『「首都感染」後の日本』を読む

昨年2020年は明治維新から約150年の日本にとって、大きな転機となる年だった。75年前の先の大戦の敗北に引き的するくらいの。そんな年に作家の高嶋哲夫さんと私は初めて知り合い、そして親しい関係になった。彼の住まいが神戸・垂水であり、慶大出身ということもあって。この新年早々(4日)に親しい仲間たち数人と、異業種交流会(私が友人と共催)に集ったが、そこに彼も顔を出してくれた。高嶋さんは昨年一年で4-5冊もの本を出したとのことだが、別れ際に、そのうちの一冊『「首都感染」後の日本』を頂いた▲この本はコロナ禍の後に巨大災害が必ず来るとの確信に基づく予測を述べると共に、その対応策を明らかにしている。今の47都道府県、東京一極集中から、道州制の導入と首都の移転の必要を、である。これはこの人の年来の持論であり、その著作『首都崩壊』に詳しい。岡山県吉備高原に持ってくるべし、との具体的提案も詳細に展開していて迫真性がある。『首都感染』を読んで感心していた私に、次はこれ、さらにまた、と次々指示をいただく。こちらは読むのに精一杯だが、有難いことと思い直して挑戦している▲東京から首都機能を移転ーとりわけ国会を移転させること、とのテーマは1990年代にそれなりに議論された。私が当選する前年に「国会等移転法」が成立(1992年)し、阪神淡路大震災後の1996年に改正された。99年には政府審議会が「栃木・福島」、「岐阜・愛知」、「三重・畿央」の三地域を候補地にと答申している。しかし、バブル崩壊やら東京都の猛烈な反対の前に殆ど議論も進展せぬまま棚上げ、沙汰止みになっているのが偽らざるところだ。私も現役当時党内議論に少し関わったが正直言って興味は薄かった。今となっては不明を恥じる▲高嶋さんは、首都の条件として❶自然災害が少ないこと❷交通の便が良いところ❸防衛しやすいところ❹首都を造るに十分な土地があることーなどの条件を挙げる。安定した地盤と温暖な気候で、日本の中ほどという位置(北方四島から尖閣列島までの中間)にある岡山県吉備高原が最適だというのである。この選定を含めて今後の議論に注目し、遅ればせながら参画もしていきたい。彼の小説はいずれもリアルな課題を真っ向から取り上げて興味深い(特に政治家として)ものばかり。中身も表現ぶりもやや硬いとの評価をする向きが少なくないが、コロナ禍中にあって、最も聞くに値する重要な提案をされている人だと思う。多くの人に読まれることを期待したい。(2021-1-8)

★1月第一週の読書リスト【①長岡弘樹『教場』②山本章子『日米地位協定』③北岡伸一『世界地図を読み直す』④長岡弘樹『教場2』】←今年度から、私が並行読みしている本を挙げていきます。この中から、やがてこの「読書録」に書くことになるものが出てくる予定です。

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(370)孫娘の成長に見惚れ、深みに嵌るー伊東眞夏『深読み百人一首』を読む

もう幾つ寝ると〜お正月🎵お正月には凧揚げて~駒を回して遊びましょ🎵ー子どもの頃に誰しもよく歌ったものだ。お正月の遊びといえば、かるた取りも加わり、『百人一首』に興じる人たちも少なくない。我が家でも近くに住む孫娘が小学校にあがって、今や4年生だが、去年とはまた格段に腕をあげたようで、もはや爺さんは太刀打ちできない。この一年の間に孫と爺の力の差は大きく開いてしてしまった。というのも先だって手合わせを迫られて、1年生の孫と3人でやったら、7-8割方はこの孫娘に取られてしまった。上の句を母親が読み上げたら、間髪を入れずに「はいっ!」と上体を屈ませ、手を伸ばすのだから。下の句の登場まで待ってる当方は、せいぜい目の前のものを取るのが精一杯だった▲あまりの惨敗に、何とかせねばと思い、手元に『百人一首』本を揃えた。暗記用きまり字一覧付きの『百人一首』と、あんの秀子『楽しく覚える 百人一首』である。昔懐かしい和歌の陣列の前に、ただただぼんやりとイラストを見て、頁を繰ってるうちに日が経ち月が経て、お正月は指呼の間に迫ってきた。もはや諦めるしかない。言い訳やら、違う種類の孫遊びの手立てを考えているところだ。そうした遊びとしてのかるた取りの本とは別に、以前から新聞広告で知って興味を持っていた本を読むことにした。伊東眞夏『深読み百人一首』である。サブタイトルには「31文字に秘められた真実」とあり、大いに読書欲をそそられた▲『百人一首』とは、百人の歌人から一首づつ選んだもので、通常は京都・小倉で藤原定家が選び編纂した『小倉百人一首』のことを指す。概ね平安時代の歌が取り上げられている。著者伊東氏は「歴史の痕跡」に「鍬を打ち込み、歌の底に隠れている世の中の実相に触れてみ」ることで、「歌の本質を見つめたい」という。この本では(続編が既に出版されている)14の歌が取り上げられている。100首を何らかの仕分けをして章立てをするのでなく、ただ思いつくままに料理しているかに見える。平安時代の東北を襲った大地震に関連付けて、津波にまつわるものに始まり、次に「評判の悪い」とされる歌が二首取り上げられている。更には恋の歌がきて、次第に読者は引き込まれていく。編纂者としての藤原定家が凝らした趣向が克明に明かされるとなると、門外漢の身には、大いに興味を掻き立てられる。というしだいで、藤原道長が糖尿病による合併症で悶え苦しみ死ぬ、との最後のくだりまで一気に面白く読んだ▲この春のことだが、その感想を親しい友人の電器商にして作家の諸井学さんに伝えた。彼はすぐさまこの本を手に入れて読んだ。新古今和歌集の研究に長年取り組み、西欧現代文学との比較にも論及する手練れだから当然だろう。その反応に期待していたら、なんのことはない。徹底的にこき下ろす論評が返ってきた。徹頭徹尾切り捨て、「途中でアホらしくなって読むのを辞めた」とまで。いちいちあげているとキリがないので、一つだけ。「心あてに折らばや折らむ初霜のおきまどわせる白菊の花」という凡河内躬恒の歌について。この歌は、正岡子規が、歌よみに与ふる書」の中で、「一文半文のねうちも無之(これなき)駄歌に御座候」と、一刀両断にしていることで有名な歌である。子規は、初霜がおりたぐらいで白菊が見えなくなることはない、嘘の趣向だと、切り込み、「趣も糸瓜(へちま)もこれありもうさず」と、厳しい▲それをこの著者は、当意即妙の知恵に優れた人だったと、あれこれと守ってやっている。時代背景を述べた上で、「白菊というのはまさに、天皇の紋章。天皇そのものだと見ることができ」、「その天皇の地位が危機に瀕しているという意味が込められている」という。そして「おきまどわせる、のおきには島流しの名所(?)隠岐が隠されています」と。このくだりについて、諸井さんは、「この時代に天皇家に菊の御紋があったとは時代錯誤も甚だしい。菊の御紋は後鳥羽院以降が定説」である、とし、加えて、おきまどわせるのおきは隠岐の掛詞としているのは珍説だとも指摘する。また、私がこの本を読んで、なるほどと感心した「この歌集は50番で二つに折ると、最後のところは天皇・天皇・歌人・歌人とぴったり重なっている」との箇所にも、それでは「5番と6番、95番と96番の関係はどう説明するのか」と噛み付いている。都合がいいところだけ取って「全体を一つの構成にまとめ」ようと、「趣向を凝らしている」などとはいえないというわけである。ここまでいうなら、『間違いだらけの「少年H」』(山中恒・典子)の向こうを張って、諸井さんは『突飛もない解釈だらけの「深読み百人一首」』という本でも書けばと思うのだが。(2020-12-28 一部修正)

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(369)50年経っても〝終わらない旅〟ー大澤真幸『三島由紀夫のふたつの謎』を読む

先月読んだ『三島由紀夫没後50年にコロナ禍の日本を想う』(中央公論12月号)という、大澤真幸と平野啓一郎の対談には随分と啓発された。サブタイトルの「『日本すごい』ブームの転換点」がその中身のエッセンスを言い表している。つまり、三島が生命をかけて訴えたことが、死後50年経って現実のものになろうとしていることをこの若い二人の社会学者と小説家が語り合っているといえる。コロナ禍への日本の対応がいよいよぶざまなものになりつつある状況下で、「すごくない日本」が鮮明に浮き上がってきている。これは現代日本人の多くが薄々気づいていることなのだが、その遠因のひとつが三島由紀夫の遺した言葉にあるとの見立てに、私も首肯せざるを得ない▲これが契機になって、前から気になっていた大澤真幸の『三島由紀夫ふたつの謎』を読んだ。ここで大澤が挙げる「ふたつの謎」とは、ひとつは、なぜ三島がああいう死に方をするに至ったのかであり、もうひとつは『豊饒の海』の最後がなぜ支離滅裂に終わっているのか、である。この本を読む前と後で、謎は解けたかと、自問すると「正直よくわからない」という他ない。大澤は知恵と意匠の限りを尽くして三島の45年の生涯の解明に迫っている。そのこと自体はひしひしと読むものに伝わってくる。だが、第一の謎の答えが「『火と血』の系列に属する論理が作用している」からであり、「鍛え抜かれた鉄のような肉体をあえて切り裂き、血を噴出させなくてはならなかったのだ」と言われても、もう一つ腑に落ちない。また、第二の謎についても「三島由紀夫は、この深い虚無を受け入れられなかった。自らの文学が、そこへと導かれていった何もない場所。救いようもなく深い、最も徹底したニヒリズム。ここから三島は逃避した」というのが、その回答であるという。目を皿のようにして本文中から二つの謎の答えを探しだした結果がこれである▲これまで三島の死のありようについては、私自身は、最も美しい肉体だと三島自身が信ずるに足りうる状態に到達した時に、それを破壊することで絶頂の姿を世間に、歴史に刻印させる選択をしたのだと、思ってきた。また、その文学におけるゴールも、彼自身の思索の行き着いた果てとしての「虚無」と重なり合うものだと、思い込んできた。そうした私の思いと、大澤の謎解きとは微妙にズレがあり、読み終えてなお判然としない。ただ、この本には多くの三島理解へのヒントが埋め込まれており、大いに役立つ。例えば、奥野健男の『三島由紀夫伝説』がしばしば引用されている。未読だったので、早速読むことにした。ここでは、母親から引き離され祖母と暮らした幼年時代がいかに後々の三島に影響を及ぼしたかが克明に描かれている。極めて読み応えがあった▲三島は自衛隊員に憲法改正に向けての蹶起を促し、それが叶わぬと見るや、切腹し首を落とさせた。かつて、日本の未来を憂えて、魂のない単なる経済大国が東洋の片隅に残るだけだとの意味を込めた言葉を遺した。このことを取り上げた大澤と平野の対談に、改めて三島を語る今日的意義を感じる。コロナ禍の中における対応にあって、中国に、台湾に、韓国に遅れをとっていると見られている日本。かつて「日本すごい」と言われた「面影やいずこに」という他ない。三島由紀夫が今登場すれば、ほら、言った通りだろうというに違いないのである。そうさせないために、どう動くか。50年経っても私たちの「三島への旅」は、未だ未だ終わりそうにない。(2020-12-16 敬称略)

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(368)卓越したキリスト者の目から見た師の実像ー佐藤優『池田大作研究 世界宗教への道を追う』を読む

朝日新聞の渡辺雅隆社長が経営赤字の責任をとって辞任するとのことを知った。一連の不祥事の直後に就任されたのが2014年というから、あれから6年が経ったことになる。私が付き合った少なからぬ記者たちの人生を変えてしまった激震だったが、私も長年の間慣れ親しんだ新聞を購読せぬことにし、違う銘柄に替えてから同じ時間が流れたわけだ。もちろん時々図書館でまとめ読みというか、〝まとめ流し読み〟を今もするが、同紙の紙面基調にあまり大きな変化は見られないような気がする。個人的には極めて優秀な記者が多く、あの人ならという社長候補も過去にいたし、今もいるが、そういう連中は埋もれたままのようなのは残念という他ない▲そんな状況を尻目に、同社の週刊誌「アエラ」誌上で、43回にわたって連載されてきた佐藤優さんの『池田大作研究』がこのたび出版された。毎週発売される毎に貪り読んだ私としては、買わずに済ませているが、改めてこの本について取り上げたい。著者は、創価学会による公式文書をもとに、とりわけ『池田大作全集』全150巻と、『新・人間革命』30巻31冊のテキストをベースにしたと言われる。この人の類い稀な記憶力、洞察力、分析力に加えて博覧強記というしかない知的蓄積は世に普く知れ渡っているが、短い歳月にこれだけのものを書く能力に(その前に読む能力にも)ほとほと呆れてしまう。かなり大部のものになっているのは、池田先生の著作からの引用がかなり多いことによる。このこと自体をとやかくいう人がいるが、この引用あらばこそ、門外漢の人たちにとって理解する上で欠かせぬ役割を果たしているといえよう▲この本について私ごときがあれこれ読後録を述べるのは差し控えたい。それよりも、「連載を終えて」と題する作家の澤田瞳子さんとの前後編の二回にわたる対談について触れてみる。これがまた実に面白い読み物になっているのだ。とくに佐藤さんがキリスト教と対比しているところが。創価学会での生活が55年にも及ぶものにとって、表面的にせよ分かった気になったり、当たり前に思ってることがこの人の視点を通じると新鮮に見えたり、新たな気づきになる。一例だけあげる。牧口常三郎初代会長が獄死されたことについて、「おのれ権力」という発想になって「反体制」になるはずなのに、「途中からは、ただ反体制ではなく、むしろ体制化していく。ただし、体制に取り込まれてしまったわけではない。その部分が面白かったんです。キリスト教に似ています」と。そう言われても、キリスト教の歴史に殆ど疎い私など、ああそうか、と思うしかない。今回改めて佐藤さんのこの研究から、キリスト教部分だけを抜き取って勉強する必要を感じるのは私だけだろうか▲もう一つ、深く感じ入ったのは、安倍政権の核廃絶についての姿勢が、この7年8ヶ月で変わったとして、「明らかに、公明党の影響がある」としているところだ。「ナショナリズムが強まり、戦争の危機が強まってくる中において、戦争を阻止する役割を、私は創価学会に非常に期待しているんですよ」という。ここは佐藤さんに一貫している姿勢だが、期待はずれにならぬよう心していきたい。これはご本人も後段触れているように、「核抑止の論理」は論理で外交官としてわかるから、「常に私の中に引き裂かれるような感じがある」のだ。これは公明党の外交安全保障担当者として私自身いつも感じた理想と現実の落差であり、乖離であった。そのあたりを佐藤さんは、「池田大作氏のテキストにも、理念と現実の間で、引き裂かれるような状況をやっぱり感じるわけですね。その中で自分の言葉を紡いでいって、自分の宗教団体を主導していく。やっぱり、宗教って面白いなと思う」述べている。このくだり、果たして自分はどう対応してきたか。引き裂かれる状況をやむを得ぬこととして放置してこなかったかどうか。改めて池田先生の「紡がれた言葉」を再読、吟味せねばと思うことしきりである。(2020-12-9 一部修正)

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(367)「謀略・陰謀」史観の〝迫真性〟に驚くー馬渕睦夫『2021年 世界の真実を読む』

親しい友人との会話の中で、「馬渕睦夫」なる名前が出てきて、この人の本のおかげで、日本の近代史についての自分の長年抱いてきた疑問が見事に消えたという。驚いた。元ウクライナ大使で、少し前に「日本熊森協会」顧問に名を連ねられたことは知っていた。森山まり子同会名誉会長が「国際問題に明るい凄い人」と感嘆してたことも思い起こす。その友人が持ってた本(『自立する日本』)を借りて読んだことは既に紹介した。改めて『2021年 世界の真実』を購入し、一気に読んだ。この人のユーチューブも幾つか見た。いやはや驚いた。新聞やテレビなどで主に報じられていることと真逆のことを主張されており、トランプ米大統領をこよなく評価、絶賛されている▲本を読み終えた直後に大統領選の大まかな結果が分かった。彼の期待した予測がほぼ外れて、バイデン大統領が実現する見通しになった。さあ、この状態をご本人はどう解説するのか。興味深く最新のユーチューブ(第57回)を見た。驚いた。全く動ぜず、この選挙で大いなる不正があった、トランプ氏は勝ったのだと繰り返された。ただし、行われた不正の中身についての言及は、つまりその証拠については触れられていない。米日のメディアが殆ど全て間違った報道をしているとの強調だけが耳朶に残る▲この本の中で、馬渕氏は、トランプ再選で、大きな軍事的紛争が回避され、各国が自国民の福利を最優先する「自国第一主義」に回帰し始めるとし、負ければ世界は軍事的な熱戦に突入すると予測する。彼によると、ディープ・ステート(DS=「国際金融資本」といった方がイメージしやすい)の世界支配に敢然と戦っているのがトランプ氏で、それに完全に侵されてるのが民主党だという。DSの一連の動きの黒幕の一人がジョージ・ソロスで、極左暴力革命集団に資金援助をして社会的緊張を高める役割を果たさせているというのだ。馬渕氏のグローバリズム批判は、即インターナショナリズム批判に通じ、ナショナリズム礼賛の次元に終わっているように見える▲DSの「謀略・陰謀」によって世界がこれまで支配されてきたとの見立ては、概ね一笑に付されてきた。しかし、一方で「ケネディ暗殺」に代表される不可解な事件の存在は、その笑いを押し返す。世界の理解の仕方、この世をどう見るかは、各人自由だが、世界を破滅の方向に誘導するものには与したくない。人気漫画アニメ『鬼滅の刃』が受けているのも、その気分の反映かもしれない。〝マブチスト〟なる言葉が静かに語られるほど信奉者は急増している。大統領選への見方も某月刊誌の論調は〝マブチズム〟に彩られている。馬渕氏は私と同い年。老いて華麗なるデビューをされたかに見える。この人の「世界覇権・10年戦争が始まった」との説は興味深い。その術中に嵌らず、〝超グローバリズム〟に立つ私なりに注視し続けたい。(2020-11-28)

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(366)コロナ禍後の世界へのこよなきヒントー大谷悠『都市の〈隙間〉から まちをつくろう』を読む

「ドイツ・ライプツィヒに学ぶ 空き家と空き地のつかいかた」という長いサブタイトルがついた、とても可愛い装丁の本が届いた。一読、移動がままならぬ「withコロナ」の時代の生き方のヒントが満載された素敵な本だと直感する。新たな世紀の青春絵巻とも読めるし、東西ドイツ統一後の地域史の変遷とも。ただならぬ本だよと、多くの若者にも薦めたい。著者の大谷悠さん(35)の肩書きは「まちづくり活動家・研究者」とあるが、昨年東大の新領域創成科学研究科で博士号(環境学)を取得し、現在は尾道市立大学で非常勤講師も務める新進気鋭の行動する学者である。仲間と共に約10年(2011-2019)ほど、ライプツィヒの空き家を「日本の家」と銘打って運営して、まちづくりに貢献してきた。この本はその活動を通じての体験をもとにまとめたもの。コロナ禍の今なればこそ読まれるべきグッドタイミングの出版だ。

 1960年代に青春を過ごした世代にとって、小田実の『何でも見てやろう』に代表されるような未だ見ぬ世界を「旅すること」がその〝若さのあかし〟であった。その流れは21世紀へと続いてきた。2020年の幕開けと共に突然降って沸いたような新型コロナの蔓延は国境を超える旅を困難にし、「移動」に赤信号をともす。そうした時代の到来を先取りしたかの如く、著者は2010年代に──彼にとっての20歳代後半から30歳代半ばまで──ライプツィヒに住まい、その地を拠点に「空き家と空き地」の再利用を考え、実践してきた。つまり、あちこち動いた体験ではなく、定点に腰を据えて、そのつかいかたに思いを凝らした。その記録であるこの本は期せずして〝新時代の青春記〟にもなっているし、これからの時代の〝町おこし指南書〟ともなっているのだ。

ライプツィヒは旧東ドイツの都市で人口約60万人ぐらいという。日本では我が故郷・姫路よりちょっと大きめ。東西ドイツの合体から30年間の歳月の中で、その人口流動は減少と膨張など四度も変化してきた。世界史を揺るがせた東ドイツという共産主義国家の衰退。冒頭でそれを背景にした一都市の興亡が描かれているのだが、これがまた読み応えがある。世紀の一大変化を余儀なくされたライプツィヒの1990〜2010年は、悪戦苦闘の末に蘇っていく。そのキーワードは「隙間」。その隙間に芽生えた4つの仕組み。そしてその隙間に起こった5つの実践。これらが克明に語られたのち、著者が仲間とともに2011年から、つまりこの30年史の後半の10年に取り組んできた「日本の家」のプロジェクトの全貌があかされる。その切り出し方が面白い──そもそもなぜ「日本の家」を始めたか。「暇だったから」というのだ。暇に任せての所産がどんなものか。現地に足を運んで見てみたいとの強い思いに誘われる。

 著者は昨年その家をドイツ人仲間に任せて帰国し、博士論文を書いた。この本はそれを大幅に加筆修正したものである。随所に写真、イラスト、地図、表などが盛り込まれ、ありとあらゆる工夫が視覚に訴え、読むものの心の隙間に入り込んでくる。著者10年のライプツィヒ放浪の希望と挫折がない混ぜになって。今は尾道のまちづくりに取り組んでいるという。実はこの著者の父上は誰あろう、元東京工大副学長だった大谷清氏。姫路の淳心学院高校から東京大学を経て日経新聞記者になり、国際部長などを経たのち、大学経営に携わったという異色の人物。私とは東京在住の同郷人で形成された姫人会(きじんかい)の親しい仲間。その交流ももう30年近く続く。この息子君の存在はつゆ知らなかった。それだけに、「親バカを寛恕いただきたたく」と、突然送られてきたのこの本には驚いた。

 あとがきで著者は、「風来坊の息子をいつも暖かく迎え、寝食を与え、惜しみなくサポートをしてくれた東京の家族」を始め、多くの皆さんに頂いた「御恩は大きすぎて返せないけれど、次の時代のために活動することで、次の世代の人びとに恩を送りたい」とある。イラストを担当しているリリー・モスバウアーさんは著者の夫人。オーストリア人とのこと。東京一極集中の影で、疲弊する地方の限界集落化に悩む日本にとって示唆に富む本の登場。「東京物語」ならぬ、日墺合体での真逆の「尾道物語」の展開に注目したい。

【他生のご縁

この本が出版された直後に中国新聞で

 

 

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(365)ポアロ三部作とマクドナルドの『さむけ』を読み比べ

我が幼き頃の読書体験は、コナン・ドイルのシャーロックホームズの冒険推理小説を貸本屋で借りたことにはじまる。勿論、少年用のもので、大人向けではない。この幼少年期の体験は後々にも影響し、やがて国際政治をバックにしたスパイものに嵌っていった。以来60年を超える歳月が流れ、この間どちらかと言えば推理小説とは馴染みが薄くなったことは否定できない。気がついたら後期高齢者。過ぎゆく時を忘れ、熱中するものを持つことが何よりの楽しみな老後の時間の過ごし方、と思うに至っている。そんな折にテレビで、映画『オリエント急行殺人事件』を観た。ご存知、エルキュール・ポアロの活躍するアガサ・クリスティの小説が原作である。ついでに、コロナ禍の有り余る時間を使って、彼女の代表三部作を一気に読んでしまった。『オリエント急行の殺人』『アクロイド殺し』『ナイルに死す』の順番で。改めて言うまでもないが三者三様で実に面白い▲この三作に共通するのは、犯人の圧倒的な意外性。つまり、登場容疑者がほぼ全員、話の舞台回し役(語り手)、中心人物というように読み終えるまで、およそ犯人像は見えてこない。三作のうち、最も驚いた結末は『アクロイド殺し』。読み手としてもう一歩まで追い詰めた、つまり疑いを持ち続けた通りだった作品は『ナイルに死す』。と、えらそうに言うが、それしかないと思っただけで、根拠は疑わしい。ともあれ、ポアロの確信溢れる犯人の追い込み方には今更ながら圧倒される。『ナイルに死す』は、近くテレビで放映されると言うので待ち遠しい(別に待たずともDVDで観ればいいのだが)。時間の経つのも気づかず、我を忘れるほどにのめり込むものがあれば‥‥。老後の過ごし方はそれに尽きるというのは、確かにそうかも知れぬ▲古典的名作の読後感に浸っている間に、毎日新聞の読書欄でめちゃめちゃに褒め称えた推理小説の存在を知った。ロス・マクドナルド『さむけ』(1963年 小笠原豊樹訳)である。推奨しているのは作家の津村記久子さん。これまで「15年以上にわたって繰り返し読んできた」本で、「自分が読んできたあらゆる小説の中でも最強の幕切れ」という。ここまでいうかと、直ちに買い求め、読んだ。確かに、「ミステリーの歴史に残る最後の一文」には感嘆する。読むこと、書くことを生涯の仕事にしている小説家がそういうのだから、確かなのだろうが、天邪鬼の身にとっては注文がないわけではない▲最大のものは、登場人物の名前が分かりづらいこと。つまり、苗字と名前が入り乱れて登場する(それはそれなりに芸の細やかさなのだろうが)ので、こんがらがってしまう。クリスティのものが決められた容疑者の枠内で犯人を探すルールを自身に課しているよう見えるのに比して、若干枠外に対象が広がってしまうかに思われる傾向(それは誤解なのだが)には、読者として追い辛い。ただ、この作者の凄さ(訳者も)は、文章の旨さ。巧みな比喩の展開と随所に織り込まれた情景描写の味わい深さには驚嘆するばかり。例えば、「峠への道を半ば上がったところで、日の光のなかへ出た。眼下の霧は、山脈の入江に打ち寄せる白い海のようにみえる。一休みした峠の頂きからは、内陸の地平線につらなるもう一つの山脈が見えた」というように(いちいちあげるとキリがない)。津村さんならずとも、文章作法の習練用には打ってつけとして、折り紙をつけたくなる。彼女はノートを取って読み進めたというが、なるほどと思わせるに十分な奥行きと膨らみがある。と、ここまで書いてから、推理小説評論家の権田萬治氏の解説を読んだ。『長いお別れ』で著名なレイモンド・チャンドラーと並び称されるほどの作家だと初めて知った。恥ずかしい限り。ここでも「日暮れて道遠し」を実感したしだい。(2020-11-5)

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(364)「教育」と「核武装」と「自立する日本」ー〝時空を超えた三題噺〟を読む

衆院議員を引退してから約8年。寂しかろうと気遣いをしてくれた友人の肝いりで毎月開かれてきた『異業種交流ワインを呑む会』も、早いものでもう80回を越えた。この会には有名無名を問わず個性溢れる人たちが集い、毎度盛況を極めており、面白い。最近の面子で変わり種は、政治学者のロバート・D・エルドリッジと作家の高嶋哲夫のご両人。この二人が友人同士でもあることは最近になって知った。まずはエルドリッジの近作『教育不況からの脱出』から紹介したい。エルドリッジと私の論争の歴史は長い。それを巡ってはついこのほど、〝驚くべき決着〟が付いたのだが、それはまたの機会のお楽しみにしておく。この著作は「クォーター制こそ日本を変える」という大胆かつユニークな提案に満ちたものである。残念ながらタイトルがピンとこない嫌いもあってか、現在のところあまり出版市場で話題になっていない。私なら『魅力ない日本の大学』とかにするところだ。「コロナ禍で日本中がリセットする必要に直面している。旧態依然とした大学教育のあり方を真っ先に変えよ」「9月入学よりも日本に見合った日本型クォーター制の導入を」との主張は魅力に溢れていると思うのだが‥▲このエルドリッジが高嶋哲夫の『紅い砂』の解説を書いていることは既に紹介したが、私は又このほど『日本核武装』なる高嶋の旧著を読んだ。6年前に『日刊ゲンダイ』に連載されたものとのことだが、全く知らずにきた。様々なタブーに挑戦し続ける著者ならではの視点で、興味深い展開になっており一気に読める。ご本人にとっても自信作のようで、先日いただいたメールには「政治関係の人、必読の書だと思いませんか。ぜひオススメくださいね」「僕は核武装反対です」とあった。実はこれ私が「貴兄の想像力(創造力含む)には、脱帽ならぬ脱毛する(笑)」と読後感をメールに書いたことへの返信である。「核抑止」論が華やかなりし頃に、大学で国際政治学の魅力に取り憑かれた私は、卒業後は政治記者として現場を取材しながら、理想と現実の狭間に翻弄され続けてきた。やがて国会のプレイヤーとなり、20年後に市井の一市民に戻った。つい先日「核禁止条約が発効へ 批准国・地域 50に到達」とのニュースを見て、感慨は一段と深い▲そんな私が最近興味深くウオッチしている論客が馬渕睦夫である。彼は外務省出身。駐キューバ、ウクライナ大使などを歴任したのち、防衛大学校教授を経て、現在は評論家。実は私が20数年前から務める、一般財団法人「日本熊森協会」の顧問団(総勢25人)の一員にも新しく名を連ねられた。この人と加瀬英明による対談本『グローバリズムを越えて 自立する日本』を友人に勧められて読んだ。この対談は、第一章の「国際連合は存在しない」との衝撃的なタイトルに始まり、「腐敗した組織・国連」についての両者の鋭い論及で終わっている。読み終えて知的刺激が強すぎてピリピリゾクゾクする。「国連を何とかせねば」ー私は世界変革の手がかりはそれしかないといったスタンスで、大学卒業後からの若き日を生きてきた。馬渕、加瀬(因みに私は大学時代加瀬氏の父上加瀬俊一さんの謦咳に接した)両氏の言い分は、それはそれでよく分かる。ただ、そんなこと言ってないで、どう現実を変えるかに奔走するべきじゃあないのかー〝行動者〟としての思いが募る▲戦後75年が自分の人生そのものと重なる私にとって、加瀬、馬渕ご両人の対談はまさに挑発的内容である。「戦後の日本人の精神的劣化を指摘せざるを得なかった」うえ、これこそ、「今日本を襲っている国難を招いた根本原因と言わざるを得ません」との馬渕の総括を読むにつけ、只事ならぬ想いに駆られる。「国際」や「平和」という言葉の持つ空虚さを指摘した上で、「目に見えない(思想言論の)弾圧」を克服する道は、「国民一人一人が伝統精神を取り戻すこと」だと、結論付けている。この「伝統精神」の強調に文句はない。ここが曖昧なままの決着は、戦後の「保守対革新」の〝不毛の対決〟に逆戻りしてしまう。そうならぬよう、もう一段階超えたかたちでの議論を深め、現実変革を強めて行きたいと思う。敢えて付言すれば、それは「中道主義・人間主義」を入れ込んだ上での世界変革への新たなる行動であるといえようか。(文中敬称略=2020-10-30)

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(363)今度こそ政権入りを狙うー柳原滋雄『ガラパゴス政党 日本共産党の100年』を読む

「日本共産党」と聞くと、今や懐かしさが漂ってくる。かつては嫌悪感ばかり強かったのだが。1960年代半ばを大学で過ごした者にとって、共産主義の浸透はリアルだった。外に、ソ連によるドミノ倒しの脅威が人々を〝反ヴェトナム戦争〟市民運動に駆り立て、内には民青から、中核、革マル派など新左翼に至る学生運動の跋扈が迫ってきていた。「体制変革」よりも「人間変革」こそ、迂遠に見えて根源的な社会変革に繋がると確信した私たちは、創価学会の池田先生による「人間革命」運動に挺身した。東京中野区で過ごした私の学生時代は、選挙のたびに日共との間でのポスター、チラシをめぐるいざこざに翻弄されたものだ。区内各所で日共の輩から公明党を守る動きに多くの時間を費やしたことも〝いまは昔の物語り〟だ▲この間に50-60年の歳月が流れた。ソ連は崩壊し、共産主義を真面な意味で標榜する国家は殆ど消えてなくなった。大学における学生運動ももはや表面的には姿を消し、共産主義をめぐる風景はまさに隔世の感がする。しかし、日本の政治にあって「日本共産党」は、しぶとく生き残っている。いや、それどころか性懲りもなく野党連合政権の中核としての役割に執心しているのだ。それを可能にしている背景には、野党と呼べる政党存在の希薄さの中で、唯一昔ながらの〝歴史と伝統〟を誇る存在が日共しかないことにあろう。そこへ過去30年というもの日本の政治を振り回し続け、今やほぼ〝たった一人の反乱〟の主役となった感が強い小沢一郎氏が、あたかも〝用心棒〟役を果たそうとしているのだ▲この構図は要注意であり、決して侮ってはいけないと思っていた矢先に興味深い本が出版された。『ガラパゴス政党 日本共産党の100年』である。著者は、柳原滋雄氏。元『社会新報』記者も務めたジャーナリストだ。1965年生まれというから〝日共の全盛期〟を直接的にはご存じない世代の書き手である。だが、それ故にといっていいかもしれぬ新鮮なタッチで、過去から今に至る日共の実像を次々と浮き彫りにしている。「詐欺商法」のレベルにあるとんでもない政党であることを鮮やかに暴きだす。日共という存在の実態を知らずに、表向き見えるかりそめのブランディングの役割に期待していると、かつて庇を貸して母屋を取られた京都の某党のようになる、と警告を鳴らしている。今に生きる多くの人に読んで欲しい▲末尾に、日本共産党の「綱領の変遷」が付け加えてあり、大いに参考になるのだが、この本を読み終えて一つ気になることがある。それは、主要参考文献が100冊を超えて5頁にわたって紹介されているが、その中に公明党機関紙局の『憲法三原理をめぐる 日本共産党批判』(1974年)が見当たらないのだ。公明党は日共との「憲法論争」で完膚なきまで同党を打ち砕いた。贔屓目なしにこれが日本政治史に燦然と輝く偉業であることは論をまたない。かなり大部なので、一般読者には馴染みがないのは無理ないと思われるのだが、柳原氏にはここで挙げて欲しかった。公明党関係者として残念という他ない。エピローグで知ったのだが、この本は雑誌『第三文明』に連載されたものだという。『第三文明』といえば、かつて公明党の市川雄一書記長が『共産党は変わったか』(2004年10月号)とのタイトルで書いた連載(五回続きの最後)を読んだことがある。市川さんは、日共との憲法論争を指揮し、自ら筆を取ったことでも知られる。『第三文明』社には、この論文をベースに市川さんに加筆再構成して貰い出版されていたら、大いに読ませるものになったのに、と惜しまれる。(2020-10-23)

 

 

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(362)知の巨人・後鳥羽院の悲劇を追うー坂井孝一『承久の乱』を読む

なぜ今『承久の乱』が読まれるのか。一般的には、公家から武士の世へと、中世社会のあり方を根底的に変えた大乱を、中央公論新社が4冊の「日本の大乱」シリーズの1冊として出したから、読んでみようかということだろう。このシリーズは、最初に出た(と思う)呉座勇一『応仁の乱』が大層評判を呼んだ(私も3年前にこのブログで取り上げた)こともあり、今や4冊合計60万部突破と宣伝されているほど、売れているようだ。出版社の巧みな戦略に乗ってしまったと言えなくもないが、呉座さんは今や歴史学界の売れっ子として人気である。偶々、この夏に刊行された井沢元彦『逆説の日本史』第25巻で、呉座勇一さんと井沢元彦さんの論争を知った。事の発端は、歴史学者の呉座さんが、推理作家の書いたものは評論に値せず、推理作家に戻るべしと井沢さんに「喧嘩を売った」ことにあるようだ。若い気鋭の歴史学者と、著名な推理作家の〝大げんか〟はギャラリーとしては実に面白い▲この本の著者・坂井孝一さん(創価大教授)についても、呉座さん同様やはり私はこれまで全く知らなかった。これまた全くの偶然に、NHKBSテレビの人気番組『英雄たちの選択』に登場されていたのを見た。学者にしてはかなりのイケメンであることにも興味を唆られた。個人的にこの本を今読もうと思った理由はこれ以外にも二つほどある。一つは、この大乱の主人公・後鳥羽院に関して、友人の電器屋さんにして作家の諸井学さんの『神南備山のほととぎすーわたしの「新古今和歌集」ー』で読んだばかりだからだ。既にこの読書録でも取り上げたが、丸谷才一さんの『後鳥羽院』に鋭く切り込んだ同書は、直木賞受賞に値するとさえ私は入れ込んでいる。二つ目は、歴史通で私が尊敬してやまぬ創価学会の大先輩幹部のFさんが、坂井さんのこの本を読了され、満足感を持たれたやに聞いたからである。自分も読んで感想を語り合いたい、と▲正直に白状すると、『応仁の乱』と同様に、当初なかなか嵌らなかった。歴史学者特有の硬い書き振りに、序章『中世の幕開き』ですぐに躓いてしまった。味気ない文章の羅列に、面白くないとの思いを勝手に募らせ、自分の知識のなさが原因であることは棚に上げて、すぐに放り投げてしまった(第1章まで行けば面白かったはずなのに)。尤も数ヶ月後に思い直し、忘れていた一計をこうじた。こういう時は後ろから読んでみよう、と。終章「帝王たちと承久の乱」から、頁を繰ることにしたのである。「後鳥羽の配流地隠岐島」というみだしで始まるこの章の冒頭。後鳥羽院が京から遥か隔たった出雲国の見尾崎で風待ちしていたのが、「承久3年(1221年)7月18日」と書かれていた。翌1222年は日蓮大聖人ご生誕の年である。ここから一気に土地勘ならぬ、錆びていた歴史勘が動き出した。ということで、第6章「乱後の世界」、第5章「大乱決着」、第4章「承久の乱勃発」と、一気に逆さ読みをしたのが功を奏し、無事読了となったしだい▲坂井さんの本で私が魅力を感じたのは例えの巧みなところ。承久の乱の鎌倉方と京方の勝因、敗因の分析を巡っての展開は特に面白い。「チーム鎌倉」が結束力・総合力を十二分に発揮したのに対して、「後鳥羽ワンマンチーム」はトップの独断先行が災いしたとの見立てがベース。その上に、実戦経験の有無、合戦へのリアリティの有無が左右したと分析。当初は、「後鳥羽が二段構え、三段構えの戦略のもと」に、「杜撰でも楽観的でもなかったはず」だった。ところが「先手を打ったにもかかわらず、逆に劣勢に立たされ」てしまい、「逆転できる可能性のある選択をすべて自ら放棄した」と結論付ける。また、後鳥羽院と貴族の君臣関係は、「現代にたとえれば、伝統ある大企業の四代目ワンマン会長(白河から数えて後鳥羽は四人目の治天の君、天皇を現役の社長とすれば、四代目の会長といえよう)と、管理職の社員の関係ということにでもなろう」と、社員の苦しさを具体的事例を挙げつつ解き明かし、「社員からすればたまったものではない」し、「貴族たちの苦労がしのばれる」と、実に分かりやすい例えが次々と登場する▲また後鳥羽院は、和歌、音楽、漢詩など多芸多才の極致を極めた「洒落のきいた遊び心のある帝王であった」し、蹴鞠や武芸にも秀でた人並外れた能力の持ち主であったという。「記憶力も抜群であり、今様にしろ和歌にしろ一度覚えると、二度と忘れなかった。芸術家にしてプロデューサー、おまけにスポーツマン」で、「まさに文化の巨人」であったことが克明に明かされる。そういった一大巨人が、「チーム鎌倉」軍団に完膚なきまでに敗れて、遠い遠い隠岐島に流される羽目になってしまう。そこから新しい時代が始まったという歴史の分岐点が、この本では見事に描かれており、実に読み応えがある。読み終えて、「呉座vs井沢」論争をどう思うか、坂井さんに急に聞きたくなってきた。一般読者としては面白い方に軍配を上げたくなるものの、過ぎたるは及ばざるが如しで、歴史学者をあまり虚仮にしすぎるのもいかがかとも思うのだが‥‥。(2020-10-14)

 

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