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(第4章)第8節 あなたも私もみんな揃ってなる病気━━中川恵一『がんの練習帳』

「死なないつもりの日本人へ」

 この本のまえがきには、「『死なないつもり』の日本人へ」とのタイトルがつけられ、書き出しは「日本人のおよそ2人に1人ががんになります」で始まっている。そして、65歳以上の高齢者に限れば、2人に1人ががんで死亡している、と続く。だが、現実には現代日本人はあたかも死なないつもりで生きてるようだ、と。どうしてだろう。恐らく心で思ったり、口に出したりすると、きっと実現してしまうとの、日本人特有の〝縁起担ぎ〟的傾向が災いしているのに違いない。なるべく日常的生活の中に〝死にまつわること〟を遠ざけ、考えないようにすればいい、というわけだ。しかし、著者はそんなことでは、がんになって慌てふためくのがオチで、「不本意な治療を受けてしまい、後遺症に苦しんで後悔する」ことになると、警告する。そして「がんになる前に、がんを知る「練習」が必要」なことを訴えている。私はかねて中川恵一さんと知己を得てきた。だから、〝がんについての教え〟は知ってるつもりだった。だが、この本を読むと、改めて「うーむ」と唸ることばかり。かじっただけで、実は何も身についていないことを思い知った。

 「練習帳」と銘打ったこの本では、練習①が総論で「本当にがんを知っていますか?」とのクイズから始まって、がんの全体像を描く。その後、②肺がん③乳がん④前立腺がん⑤直腸がんの4つの「闘病記」がリアルに公開されていく。練習⑥では「余命」をめぐる「体験記」でトドメを刺す。今風に言うと、マジ面白くてヤバい読みもので構成されているのだ。実は私の母は胃がんで還暦前に亡くなり、父は喜寿を祝ったものの80歳直前に膀胱がんなどで逝ってしまった。そんな両親の経験から、自分も死ぬ時は、胃がんか膀胱がんのどちらかだろうと思いこんできたが、この本を読んで、「がん遺伝説」は誤りだと知った。がんは「悪い生活習慣」に起因し、「検診サボタージュ」が手遅れを招く。つまり、予防には、「生活習慣の改善」と「定期的な検診」が最善の策というわけだ。それに、日本では今、胃がんや子宮頸がんなど「感染型」のがんが減っていて、増えているのは前立腺がんと乳がんが多いことも恥ずかしながら知らなかった。食生活の欧米化、肉食型が原因である。

陰鬱になりがちな話題をユーモア交りで鮮やかに

 4つの闘病記はいささか不謹慎ないい方だがめっちゃ面白い。例えば、「前立腺がん」については、原宿のマンションに夫婦で暮らす63歳のお金持ちの男性の「性機能の維持」をめぐるケース。高級クラブの女給との秘密の関係で揺れ動くドラマ仕立てなのである。「手術・ホルモン治療・放射線治療」という3つの主な治療法と〝勃起との関係〟を巡って、医師と患者、その妻、その愛人が絡み合う非喜劇が展開される。他方、「乳がん」については、43歳のバリバリのキャリアウーマンのケース。最初に診て貰った医師から「乳がんです。お乳はとった方がいいですね。入院の手続きをして帰ってください」とにべもなく告知される。彼女それには「先生、その言い方はひどくありません?初めからお乳を残す気がないんじゃないですか!私、結婚前だし」と激しくあがらう。医師は機嫌をそこね「まずは命の心配をしたらどうですか。いやなら、お乳を残せる医者を探したらいいでしょ。私はもう知らないから」と突き放す。陰鬱になりがちな話題がユーモア交りで巧みに料理されていて味わい深い。

 更に圧巻は、巻末の〝最期の迎え方〟。著者は、告知される「命の残り時間」の精度が高まる中で、日本社会は「核家族化や病院死が進み、『死の練習』は難しくなり」、「共同体の絆も弱まり、死に向き合い、死を支えるパワーを失っている」と強調する。世界各国では、強い力を持つ宗教が「死の練習」を支える役割を果たしているのに、宗教心の希薄さで際立つ日本は「『死の受容』は非常に困難になって」いるからだ。ここでは、膵臓がんで「余命3ヶ月」を宣告された75歳の元ナースの妻と78歳の認知症の夫のケースが紹介される。家族に看取られた見事なまでのいまわのきわが印象深く描かれていく。

 中川さんは、「がんで死ぬということは、『ゆるやかで、予見される死』を迎えることを意味する」として、それを「人生の総仕上げ」の期間と捉えることを勧めている。そうすれば、「がんもそんなに悪くない」と思えるはずだ、と。さて、19の歳から「臨終のこと」を習い続けてきたはずの私も〝80歳の壁〟を間近に意識するようになった。若き日に体育の時間に苦手だった跳び箱に挑む直前の時のような心境に今はある。

【他生のご縁 公明党政調の強いアドバイザー】

 いつの頃か、公明新聞の尊敬する岩切隆司先輩の推しで、中川さんとお会いするようになって、様々なご指導をいただくようになりました。心臓麻痺のようにポックリ死ぬのと、がんで余命を告げられて死ぬのと、どっちがいいでしょう?って、訊かれたことを思い出します。どっちも嫌だって、思ったものです。

 東京に住む薬局経営の友人が中川先生の患者さん。見事に放射線治療の結果、蘇ったことを嬉しそうに語ってくれた電話の声が耳朶に残っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

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(第7章)第1節 〝臥薪嘗胆の5年〟あったればこそ━━安倍晋三/橋本五郎、尾山宏、北村滋『安倍晋三回顧録』

惹き込まれる世界の指導者の人物月旦

 「シンゾウは私と会う時、いつもスーツのボタンをしているけれど、私もした方がいいか」━━トランプ米大統領(当時)が天皇陛下と2019年5月27日に会見するにあたって、安倍晋三首相に聞いてきた。自分との前ではいいけど、陛下の前では、してくれと安倍さんは言った。トランプ氏の〝ノーボタン〟がいつも気になっていた私はこのエピソードが腑に落ちた。

 この回顧録は、2020年10月から一年の間に18回36時間にわたって行われたインタビューが基になっている。長期政権の舞台裏と共に、オバマ、プーチン、メルケル、習近平氏ら世界の指導者の人物月旦(げったん)がふんだんに盛り込まれていて実に楽しく面白い。読売新聞の橋本五郎、尾山宏氏ご両人の「つっこみ」も、時に冴えわたり読み応え十分の内容である。出だしの第1章は新型コロナが蔓延した2020年・政権末期の格闘。そこから第一次内閣の発足(2006年)前後へと遡って、退陣、再登板までの〝本番前夜〟を追う。この後、2013年からの8年間へと移るのだが、憲政史上最長期政権となった根源の秘密は、私は第一次政権の失敗とその後の〝臥薪嘗胆の5年〟(2007-2012)にあると見る。

第一次内閣を安倍さんは経済政策が弱かったと認め、「戦後レジームの脱却に力が入りすぎていた」と振り返っている。教育基本法の改正、防衛庁の省昇格、国民投票法の制定など、50〜60年に一度の重要な法改正を相次いで行ったことに「無理をしたという思いはあるか」と聞かれて、「一点集中突破ではなくて、あらゆる課題を全面突破しようと考えていた」と答えた上で、「若さゆえだった」と正直に認めている。退陣後の「まさに茫然自失」状態を経て、反省と鬱憤晴らしを込めてノートに書き溜めたことやら、高尾山登り(2008年)で出会った人々からの励ましが再起のきっかけとなったことを明かす。そして、地元で20人以下のミニ集会を約一年の間に300回やったことで、地域の皆さんが何に興味があり、何に困っているかが分かった━━有権者の関心は、やっぱり日々の生活なんだなときづかされた、と強調する。加えて、経済の専門家と繰り返し議論し、デフレ脱却の勉強会の会長を引き受ける中で、「日銀の金融政策や財務省の増税路線が間違っていると確信していく。そこでアベノミクスの骨格が固まって」いったと述べて、後の「産業政策のみならず金融を含めたマクロ経済政策を網羅することになる」経緯を、誇らしげに披瀝するのだ。

生々しい感情の発露随所に

 全編を通じて、財務省、厚労省への厳しい眼差しと共に、立憲民主党や一部メディアの安倍批判に返す刀を振るう場面が目立つ。2度にわたる政権運営を降りて間もない頃だけに、生々しい感情の発露が伝わってくる。当然ながら公明党に関する記述が気にかかった。「連立の意義」について、「風雪に耐えた連立」と断定、3年3ヶ月の野党・自民党とタッグを組み続けてきた公明党を「相当のチャレンジだった」とし、「(自公両党は)よく乗り越えた」と評価しているのはまさに的確に違いない。選挙での公明党の力には「平身低頭するしかない」と述べ、組織力の強さに脱帽する一方、とくに社会保障分野などで公明党の意見を取り入れる形で協力関係を強め、政権安定を図ってきたことを自負している。安全保障分野では、平和を達成するための手段、考え方が違うため幾度もぶつかったが、その都度綱引きをして一致点を見出したことがリアルに語られており興味深い。集団的自衛権の制限的容認やその後の安保関連法制については公明党は「よく協力してくれた」と安堵した風が率直にうかがえる。ただ、「自衛隊の明記」など憲法本体については、「山口那津男代表は私の前では自分の意見を言わず、いつも私の話を聞いた後、『うちの組織は厳しいですね』みたいな話をする」と、不満めいた心情を吐露しているのは印象深い。

 安倍政権の評価について私は、「功罪相半ばする」との見立てだった。半分の「罪」は、いわゆる「もりかけさくら」問題での疑惑にある。森友問題は「(財務省が)改竄なんかするから、まるで底の深い疑惑があるかのように世間に受け取られてしまった」といい、加計学園問題では、官僚がなんでも首相案件にしてしまう愚を指摘しつつ、自身は踏み込まなかったと明快である。それに比して「桜を見る会」については、国会で事実と異なる首相答弁が4ヶ月で計118回あったことなど「政治的責任は重い」と明確に認めている。前夜祭を巡って公職選挙法違反の案件が尾を引いたこともあり、「李下に冠を正さず」のことわざを大きく逸脱している非は覆うべくもない。

【他生のご縁 同じ「新学而会」のメンバーとして】

 中嶋嶺雄先生(元秋田国際教養大学長兼理事長)のもと、学者、政治家の勉強会「新学而会」の一員として私は、安倍さんと一緒する機会が幾度かありました。席を並べたのです。

 超保守的団体の主催による尖閣を守る集会があったときのこと。遅れてきた安倍さんとばったり会いました。その時に、「こんな会に来ていいんですか」と言われました。その際、大きなお世話だと思ったものですが、さて。

 

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(第7章) 第6節 本領発揮の時はいつやってくるのか━━石破茂『異論正論』

勉強を積み重ねてきたイメージ

 石破茂さんと私はかつて同じ政党に所属していた━━っていうと、ほんまかいなと訝しく思われる向きもあろう。そう、新進党である。1993年6月、宮澤喜一内閣に不信任案が出された。それに石破氏は賛成票を投じた。そのため、次の総選挙で自民党からは公認されなかった。無所属で出馬しトップ当選、その後に小沢一郎氏率いる新生党に。そして新進党に合流した。衆院の公明党も一緒に合流した。石破さんには『集団的自衛権』『国防』『日本列島創生論』など幾つかの専門的な著作があり、昨年の総選挙前に『保守政治家──わが政策 わが天命』なる本を出版されたが、敢えて平時に書かれた政治エッセイ風の標題作(2022年)を選んだ。石破さんは自民党議員の中での評判に比べて、全国の党員始め庶民大衆受けは圧倒的に高い。ひとたび党を離れた経歴を持つ人には疑念がつきまとうのだろうか。それを意識したと見え、この本の中に、「なぜ私は離党したのか」との見出しで5頁ほどの解説がある。

 「(分裂後の自民党が)憲法改正論議を凍結する、という方針だったことが」原因だという。しかし、新たな新生党も新進党も権力闘争の繰り返しだけ。当初掲げていた集団的自衛権の行使容認や憲法改正に曖昧な方向しか見えず、結局次の総選挙で再度無所属に戻り、当選後自民党に復党した。新進党が自滅した要因は、「自民党と対峙して二大政党制を実現する」との、当時の左から真ん中、右までの幅広い「政治改革の夢」が脆くも崩れたことにあった。石破さんのここでの説明を聞く限り、私たちとは「同床異夢」だったのであろう。1994年から僅か3年の寿命だった新進党はただ〝罪作り〟だったのかもしれない。復党後、臥薪嘗胆の時を経て、石破さんは2012年から4回続けて自民党総裁選挙に出馬する。しかし悉く負け続け、前回は出馬を見送った。で、2024年についに首相の座を射止めた。こういう経歴の人は自民党では過去に見出せない。

 もともと学識豊かな論客家肌の上に、総裁選を経て一段と磨きがかかってきた。あたかも12年浪人している司法受験生のようなもので、この間常に勉強を積み重ねてきているイメージは強い。この本でも随所に窺える。特に、第10節「外交の場では歴史の素養が求められる」では、フランス国防相とのイラク戦争をめぐる論戦から説き起こし、米中関係を考える上での米ソ対立との歴史的相違点などに論及したのち、各国首脳の思考回路を知っておく必要があると強調している。

 国民が納得する構えの大きな話未だ聞けず

 最後に、「あらゆる事態を想定しておくことが政治家には求められ、そのためには寸暇を惜しんで本を読む、識者にお話を伺うなど、勉強をし続けることが絶対に必要である」とまで訴えているのだ。ここ数年、国会が始まり衆議院予算委の場面になると、質疑者の右斜め後ろの席に石破氏がいつも座っていた。質疑の展開と彼の表情、仕草を合わせ見ると面白かった。その際の心象風景の解説は心憎いほど。自身に質問の機会がないことを嘆きつつ、チャンスが来れば、「見ている国民の方に納得いただけるような構えの大きな話をしたいもの」だという。しかし、首相に就任してからも未だ、残念ながらそれは聴こえてこない。

 ここで、憲法9条の改正を巡っての考え方の違いについて触れたい。「自衛隊の存在の明記」をしたいとの安倍晋三首相のスタンスに対して、彼は異論を唱えた。その理由は「それまで自民党内で決めていた改憲案とはまったく別の思想によるものだったから」だという。確かに石破さんの言う通りだろう。元をただすと、安倍さんをその気にさせたのは、太田昭宏公明党前代表であり、私も後押しした。それに乗った安倍さんは柔軟であり、乗らなかった石破さんは真っ直ぐて硬過ぎたと言うのが私の見立てである。

 私が石破さんの主張で最も同調するのは、「これからの日本は『自立精神旺盛で持続的な発展を続けられる国』を目指すべきだ」として、「その実現のためには国のグランドデザインも見直していく必要がある」と強調しているところだ。見直すべきものがあるのかどうか。国の方向性の議論なき連立政権は危うい。この本の出版ののちに、「旧統一教会問題」や派閥絡みの「裏金作り」が表面化した。安倍さん健在なりせばいかなる対応をしたものか興味深い。石破さんのこれらについての考え方は同党の中で最も光彩を放つものだった。

 だが、首相になってから、どうもご自身の主張がなりを潜めて、精彩を欠く。こんなはずじゃあなかったとの思いは誰しも共有していよう。

【他生のご縁 束の間だけ同じ釜の飯を食った仲】

 ひと回り下の同じ酉年。同じ大学の出身で、先に書いたように同じ政党に属していたこともあります。思い描いた政治改革の素描は少し違いましたが、懐かしい思い出です。ずいぶん前ですが、「防衛」「農水」ばかりでなく、もっと幅広いテーマに関心を持って、などと身のほど知らずにも忠告めいたお節介を焼いたこともありました。先の衆院選でも、首相就任後も折に触れてメールのやり取りもするなど、今も親しくさせて貰っています。

 選挙中に私が、首相の街頭演説の旨さを褒めつつも「庶民がアベノミクスによる貧富の差に苦しんでることをお忘れなきように」と伝えたところ、アベノミクスなる経済政策はもっと早く見直すべきだったとしたうえで、「庶民の苦しみをが理解できない議員は本来退場すべきものですが、それを言えない辛さを改めて痛感しています」との返信がありました。

首相就任後は、種々苦闘されていることを窺わせる電話がありましたが、こちらは激励するのみにとどめています。

 

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(第7章)第5節 あの母ありてこの娘あり━━小池百合子『自宅で親を看取る』

  病院か自宅かの選択に悩み抜く

 女性初の都知事になって8年。小池百合子さんはこのたび3期目の当選を果たした。その母親が2013年(平成25年)に肺がんを医師から宣告され、娘の小池さんが自宅で看取るまでの12日間の介護日誌である。2003年〜06年の環境相を経て防衛相(07年)、党総務会長(10-11年)など要職を次々と経て、都知事になる3年前のことだった。当初から短い期間だと分かっていたし、現職国会議員の様々な利点があるとはいえ、「親の介護」はやはり並大抵のことではない。世間では、諸般の事情でしたくともできない。様々の苦労が祟り身体を壊す。あるいは最初からその役目を放棄するなど悲喜こもごものドラマに溢れている。小池さんの「看取り体験記」は実に味わい深くためになる。これまでその政治的信条に好感を抱けず、ご縁のなかった人たちも含め、今に生きる現代人にとって得難い書と言っても言い過ぎではない。

「平成25年の夏、日本列島は記録的な猛暑に見舞われていた」との一文から始まるこの本は実に読みやすい。5行後に続く、「八十八歳の母は疲れきっているように見えた」から一気に引き込まれる。実はこれより少し前の5月末に小池さんの父・勇二郎さんが90歳で亡くなったばかり。父親の場合は特別養護老人ホームに入っていて、併設の病院で「大往生の死」を迎えた。そのショックもあり母・恵美子さんは一段と暑さもこたえたのだが、遡ること1年半ほど前に肺がんを告知されていた。そこから一気に病が昂じていく。その後の状況を確認すべく検査入院をしたところ、医師から「あと1ヶ月」と告げられる。以来、最期を「病院か、自宅か」どちらで迎えるかの〝悩みの顛末〟が克明に語られる。母上ご本人の当初からの希望が「自宅で」にあったことが決め手となった。尤もこの本のサブタイトルに、「肺がんの母は一服くゆらせて旅立った」とあるように、無類の愛煙家だったことが大きい。退院した9月5日から、息を引き取る16日までの12日間の看病。あたかも名画を見るような母娘の愛の交流が麗しい。

随所に挿入される人間「小池百合子」

 この本の構成は①母娘の決断〜娘の覚悟②最期まで自宅で〜12日間の介護日誌③穏やかな看取りのために〜在宅医療の現状と課題との3章となっているが、実は随所に〝ミニ自伝風趣き〟が散りばめられている。両親と兄を含む家族のこと。どんな少女時代だったか。なぜエジプト・カイロ大をめざしたか。政治家に直接関わる部分は行事日程ぐらいだけだが、しっかりと「人間・小池百合子」が挿入されている。中でも、アラビア語を学ぼうと思い立つ場面は興味深い。高校2年17歳の時(1969年)にESSの夏合宿先で、アポロ11号による人類初の月面着陸シーンを観た。鳥飼久美子さんらの同時通訳を目の当たりにした瞬間、「凄い」って心を鷲掴みにされる。と同時に「こりゃかなわん」と、英語の世界での数多の競争相手に抜きん出ることの難しさを自覚した。英語以外の別の言葉で勝負しようと方針転換をしてしまうのだ。何語にするか。ヒントを求めて父親の本棚を眺めているうちに一冊の本が目に飛び込む。『中東・北アフリカ年鑑』だった。石油にゆかりのその年鑑を繰っていくうちに、エジプトの項で、「カイロ大学」を見出す。「これだわ!雷に撃たれたように、私はここで心を決めてしまう。私は、アラビア語を勉強するのだ、それも現地で」と。〝運命の選択〟はこうして決まった。

 我が両親は2人ともガンで逝った。母は父が看取り、父は姉や弟が看取ってくれたがいずれも東京にいた私は間に合わなかった。小池さんの献身的な振る舞いに胸締め付けられる思いがする。最後の章での「延命治療と尊厳死」についてのくだりに特に注目される。経験に基づき「何か事が起こったとき、どこまでの対応を望むのか。それを母がまだ元気な頃に、具体的に聞き、書面にしておけばよかった」と後悔している。そこまでするかどうか。老々介護目前の己がケースでの心構えが問われる。

 小池さんの両親は赤穂市と縁があり、ご本人は兵庫東部で育った。後に彼女が衆議院候補として立った選挙区は旧兵庫2区である。この人の政治家歴で、細川護煕、小沢一郎、小泉純一郎ら首相級の名だたる先輩たちとの〝師妹関係〟はあまねく知られている。故安倍晋三元首相の心胆を寒からしめたのは「希望の党」設立当時の小池さんだった。その動向を衆院選のたびに気にする向きは未だ消えず、いつ再燃するかどうかも誰も分からない。

【他生のご縁 一緒に座り込みをし、応援演説をした仲】

 住専問題で大騒ぎの頃(1996年)。小池さんと私は衆議院予算委員会室の前で同じ政党所属(新進党)の者同士として一緒に座り込んだ。携帯電話が普及する前、AI端末も何もない頃。彼女は必ず近い将来それらが普及することを熱く語っていた。

 「小池百合子さ〜ん。男にしたい、いい〜女性です」━━公明党の講演会で支持者を前に、彼女を紹介するべく壇上に並んで立った私は、開口一番こう切り出しました。あの頃は私も怖いもの知らずだったのです。

 

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(第7章) 第4節 遅ればせながらの「元首相の決断」━━小泉純一郎『原発ゼロ、やればできる』

m自らの過ちへの責任を痛感

 2001年から5年5か月の間。小泉純一郎氏は首相の座にあった。2009年に自公政権が民主党に負けてひとたび下野することになった総選挙には不出馬。次男の進次郎氏に後継を託し政界を引退した。その2年後に東日本大震災とそれによる福島第一原発事故が日本を襲った。この事故のあと、在任中の「原発推進」の立場を翻し、「原発ゼロ」を主張するようになった。その理由をこの本(2018年出版)では、悲惨な風景を突きつけられて、「内外の原発に関する本を数えきれないほどたくさん読んで勉強した」結果、原発の「安全」「低コスト」「クリーン」は全部ウソだったと気づいた、としている。「

 「(首相時代に)騙されていた自分が悔しく、腹立たしい」との心情を吐露して。現役時代から、率直な物言いと歯切れの良さ、感性豊かな振る舞いに定評のあった人らしい「方針転換ぶり」に、〝パフォーマンス過多〟と見る向きもある。だが私が見るところ、そうではない。〝日本崩壊の地獄〟を危うく回避し得た僥倖に胸撫で下ろし、かつての自らの過ちへの責任を感じるが故の一大決心だと信じる。小泉内閣最後の厚生労働副大臣として曲がりなりにもお支えし、その人となりを知っているがゆえに。

 この本の構造はいたって簡単。原発推進派、政府のいうウソをばらし(第一章)、原発をゼロにした後、自然エネルギーが代わりを果たす手の内を明らかにする(第二章)。第三章は一と二をまとめて、震災が招いた「ピンチをチャンスに変えよう」と呼びかけている。ただ、自民党における原発推進派は根強く、小泉さんの呼びかけに簡単に応じる向きはそう多くない。公明党にも〝原発推進確信犯〟がいる。現国交相の斎藤鉄夫氏である。この人は原発無くして日本の経済発展はないと公言してきており、現役の頃の政務調査会の場で原発の段階的解消を主張する私との間で論争をした。その後は党が公式の政策として「着実に原発ゼロに向けて進む」との方針を掲げてきている。表立っては抑えていても内実は分からない。そう簡単に自説を曲げないはずと私は睨む。

 虚しく響く元首相の発言

 小泉さんは論語の「過ちを改むるに憚ることなかれ」を引き合いにして「これまでの失敗を反省してあやまちを改めなければいけません」と強調している。しかし、残念ながら元首相のその言を額面通り受け止める空気は日本にはない。2014年の都知事選で小泉さんが、原発ゼロを掲げて立候補した「細川護煕候補」を応援したことを日本中の人が知るに至っても、同様である。その後4年経ちこの本が出て、さらに6年以上経った今も変わりそうにない。なぜか。

 理由は恐らく2つ。一つはご自身への民衆の不審である。原発に代わる再生可能エネルギーとりわけ太陽光発電関連の推進企業と小泉親子の関わりを指摘する向きがあるのだが、その疑惑が払拭され得ていないからだ。もう一つは、政治家全般への不信である。自民党の派閥絡みの政治資金集めという名の裏金作りは極限まで政治不信を強めている。論語の「信無くば立たず」が示すように、政治そのものへの信頼が完全に断たれてしまっている感が強い。そんな状況下に自民党出身の元首相が何をいえども空しく響く。

 小泉さんは、この書でしきりに、野党は既に「原発ゼロ」に賛成なのだから自民党さえ変わればよく、総理が原発ゼロにすると号令すればできる、と叫ぶ。その通りだ。だがことはそう簡単ではない。小泉さんは安倍首相(当時)に「騙されるなよ」と言っても「苦笑するだけ」だと書いている。先輩首相として、そんな言葉かけだけでお茶を濁さずに大議論をして説得ぐらいして欲しかったと思う。その機会はもはや望むべくもないが、後継の首相たちに迫ったとの話も寡聞にして聞かないのは残念である。尤も、この本の末尾に50頁にも及ぶ「注」がついており、その大量の注の監修をしたのは、なんと立憲民主党の政調メンバーである。驚くべき自民、立民の原発政策の協調ぶりであり、小泉さんの覚悟のほどが伺える。

【他生のご縁 予算委で小泉質問に立った日の記憶】

 2001年4月に小泉純一郎首相が誕生した後に、私は質疑に立ちました。「小泉首相は、女性閣僚や気鋭の幹事長を選んだりして、まるで季節外れの大雪を降らせたみたいですが、汚い自民党政治を雪で覆い隠しても、すぐに雪は溶けて流れりゃ、以前より汚くなる」と口火を切りました。この喩え「最高だ」と後々自賛しまくったものです。

 また、「自公関係は日米関係に似ている。公明党は自民党のいいなりだし、自民党は米国に言われるままだ」ともいいました。小泉さんは「そんなことないぞ〜。公明党は言いたいこと言ってくれてるよ!」と自席から野次ってました。懐かしい思い出です。

 副大臣時代に開かれた首相を囲む会議の場で、仕事の現況を問われました。私はエイズ撲滅キャンペーンの一環としてスーちゃん(キャンディーズの故田中好子さん)と一緒に新宿駅前に立った活動報告をしました。これをめぐっては〝珍問答〟が続きました。紹介したいところですが、もはや「お蔵入り」の話題なのでやめときます。

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(第7章 第3節) 行間、紙背に滲むあつき志──細川護煕『明日あるまじく候』候

次の世への大いなる知的遺産

 作陶、書、水墨画、油絵、漆芸などを手がける元首相が、出版社の求めに応じて書いた古今東西の賢人たちの章句の中から50本を選んだ。題名は、本願寺教団中興の祖・蓮如によるもので「座右の銘」の一つという。副題は「勇気を与えてくれる言葉」。著者が80歳を過ぎた頃から編んだもので上梓された時は83歳。現役政治家を退かれたのは60歳。還暦後に人間として円熟味を増し続けた末の大いなる知的遺産である。この人が何を学び考え、いかに生きてきたかの輪郭が分かって、充実した手応えを持つ。単なる箴言集ではない〝次の世への手引き〟ともいえよう。

 「細川護煕首相」が誕生し、8党派の連立政権が樹立されたのは1993年(平成5年)夏。38年ぶりの自民党単独政権が「宮澤喜一首相」を最後に終わりを告げ、「連立政権の時代」到来となった。この時私も衆院選2度目の挑戦で初当選した。いらい30年余。あの当時を振り返るに際して、この本の持つ意味は大きい。日本新党立ち上げから総理就任を経て、退陣より現役引退まで、政治家としての出処進退に関わる記述が全部で5カ所ある。

 最も注目される場面は首相退陣。「家族や側近たちにも前触れせず、突然退陣を表明した」とある。進退は「自分ひとりで決断するしかない」ことを明かしている。背景には、当時佐川急便からの借金、NTT株購入など政治責任が問われていたことがあった。そこら辺には全く触れられていず、①歴史認識の明確化②自民党一党支配を終わらせた③コメの開放と④政治改革にも区切りをつけた──から「政権は長きをもって貴しとせず」との「細川美学」の披歴のみ。

 政権誕生より半年余り。退陣表明は一年生議員の私には文字通りの寝耳に水。驚いた。去り際の見事さは、政界引退時(1998年)も鮮やかの一語につきた。「座右において折りに触れて読んでいる」『徒然草』(吉田兼好)から「日暮れ途遠し。吾が生既に蹉跎(さだ)たり、諸縁を放下すべき時なり」(第百十ニ段)を引用し、「すべての義理を欠いて、己の心一つに生きていこうとそう決心したのだと」の解釈も付け加えた上で、「そしていまわたしはその通りにやっている」と、意味深長なひと言。ただ唸るしかない。

 突然の都知事選出馬に驚く

 引退後20有余年。「欲無ければ一切足り、求むるあれば萬事窮す」(良寛)との生き方に打たれ圧倒された著者は、「腹六分で老いを忘れ、腹四分で神に近づく」(ヨガの教書)、「一生の間よくしん(欲心)思はず」(宮本武蔵)「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張」(勝海舟)「偉大さは単純なる生活の中にだけある」(イマヌエル・カント)などの箴言に裏打ちされた生き方を貫く。先達の言葉をあげ、解釈を施し文末の数行に己が自身の見解が披歴される。そんな中で、時折「寸鉄人を刺す」くだりが見逃せない。

 例えば、足利政権初期の宰相・細川頼之の「精神を充満すれば、閑雲に高臥するも天下を支配する」との心意気を讃嘆したあたり。いかなる地位についても「徳がなければ恥を天下にさらすことになる」として、人に感化を及ぼすことばかりに躍起となっている政治家の憐れさを強調している。また、ローマの故事を引いて、けれん味のない進退こそいちばん望まれるとする一方、「幕が下りたあとまで、いつまでもポスト・権力にしがみついて喝采を望む者はバカだとしかいいようがない」と切り捨てており、ひときわ印象深い。

 衆議院議員引退後16年経った2014年に都知事選があり、その時に細川さんは立候補した。政府の原発政策に反対して立ち上がったのだった。小泉純一郎元首相も呼応した、〝古きツートップ〟の反原発共同戦線に、個人的には大いに賛同したものだ。日本新党結成当時と同様に「家族はもちろん友人たちからも、そのドン・キホーテ的行動に頭がおかしくなったのではないかと真顔でいぶかられたものだ」。

 しかし、以前には「海鳴りのように呼応して立ち上がってくれた」動きも、その時は鳴りを潜めた。細川さんが立てた旗のもとに結集し国会議員になった日本新党のメンバーから、所属政党の変遷を経た上で、後に首相を始め、野党党首や与党幹事長、参議院副議長や知事になった人材は少なくない。「失われた30年」と位置付けられ、みたびの「77年の興亡」が幕開けしたいま、細川さんのような〝鞍馬天狗的正義感〟を持ち合わせた人物はもう出てこないのだろうか。

【他生のご縁 50歳の誕生日を祝っていただく】

 1995年11月に私は満50歳を迎えていました。そのときに同僚の太田昭宏氏(1945年10月誕生)と共に、細川護煕前首相から誕生日の祝いの席を持っていただきました。場所はとあるイタリア料理店。呼びかけてくれたのは、我々2人の若き日の職場のトップだった市川雄一元公明党書記長です。

 この本の冒頭で「人間50年、化天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり」を引いて、信長が謡い舞った曲舞の謡曲『敦盛』の一節に言及されていますが、あの日、細川さんから胸の内の一端をお聞きしてより、ほぼ30星霜。改めて「海に向かって旅立つ者」の思いで、希望に満ちた新しい時代を切り拓く決意に立っています。

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(第1章)第4節 強く、優しく、美しく、そして賢く━━坂東眞理子『女性の品格』

母親に代わって娘たちに説く

 私が坂東眞理子さん(現・昭和女子大総長)に出会ったのはこの人が内閣府男女共同参画局長当時だったと記憶する。もう20年近く前のことになろうか。今と同じようににこやかな笑顔を満面にたたえた風格に満ちたお人柄だった。官僚経験などを経て現職に就かれるまでの長い歳月があっという間に経った。この間、表題の著作から、直近の『与える人』に至るまで沢山の本を出版されている。

 実は党理論誌『公明』2024年5月号に掲載されたインタビュー記事を偶然に発見し、懐かしい思いで読んだ。それをきっかけに『女性の品格』を初めて手にした。藤原正彦氏の『国家の品格』に続き、一連の〝品格もの〟が書店を賑わせたが、恐らく坂東さんの作品が最も多くの人に読まれたに違いないと思われる。藤原氏の著作が彼らしいユーモア溢れる語り口ながらも、硬質のテーマを大上段に振りかざしているのに比し、坂東さんのものは母親に代わって娘たちに説いてきかすかのようで、極めて読みやすい。

 坂東さんはこの本を書いた理由として①女性の生き方が混乱しており、新しい美徳が求められている②権力、拝金志向の男性と異なる価値観、人間を大切にする女性らしさを社会、職場に持ち込んで欲しい③地球レベルの新たな課題に立ち向かっていって欲しい──の3つを挙げている。これらの目標への到達を目指して、具体的な日常生活での振る舞い方と、生き方、考え方に関わる部分の2つを絡ませながら、品格とは何かが浮かび上がってくるようにしたと「はじめに──凛とした女性に」で書いている。

 思えば、1945年(昭和20年)に生まれた私の世代は、「戦後強くなったものは女性と靴下」だとの言い回しをよく聞いたものだ。戦前は女性に参政権が認められていなかったことに象徴されるように、「男が主、女は従」で、「第二の性」との位置付けがまかり通っていた。お茶の間で話題になったNHKの朝ドラ『虎に翼』が日々鋭く的確に描き出していたように、女性の人権が真っ当に認められだしたのは、新憲法が公布されてからなのである。出版から20年ほどが経つこの本では、日本の「男社会ぶり」を諌める言葉もなく、「女たちよ今こそ立ち上がれ」といった刺激的なトーンも見いだせない。ひたすら「強く、優しく、美しく、そして賢く、古くて新しい『女らしさ』の大切さ」(表紙の言葉)を説いている。

将来品格ある人になりそうな男性を選べるように

 「礼状をこまめに書く」に始まり、「倫理観をもつ」に至る「装いから生き方まで」の7章に66もの指標が挙げられている。このうち私が最も着目したのは、最終章の「品格ある男性を育てる」だ。「人間として品格のある人を、将来品格のある人になりそうな男性を選ぶ女性になってほしいものです」──この一文に著者の思いの全てが込められているように私には感じられる。その理由は私との初めての出会いの時の会話に関係するのだが、後述したい。尤も、ここで結婚についての究極の選び方を挙げたが、そこに至るまでの困難さが現今の最大の問題となっている。以前に観たNHK テレビの「クローズアップ現代」で、地方の若い女性たちが都会に流出する流れの背後には、政府の「地方創生」と「現実とのズレ」があると、鋭く切り込んでいた。「働きがいのある仕事につきたい」のに、結婚や出産に干渉されたり、〝地域での役割〟を押しつけられてしまう──これでは生きづらさを感じるばかりだとのリアルな声が溢れていたのである。

 これは見方を変えると、この本で説かれた品格を合わせ持った女性は苦労しないが、そうでない普通の女性たちは大変だということに繋がるのではないか。そんな思いが頭をよぎった。坂東さんの一連の著作のラインナップを見ると、学長になられてからのここ20年ほどの視点は〝政治離れ〟のあまり、女性を取り巻く課題解決への切り口が少々物足りないように思われる。民放テレビで声を張り上げる元国会議員や激しい政治家批判を繰り返す学者のように振る舞って欲しいというのではないのだが。

 そんな眼で坂東さんを見ていた私が冒頭に触れた月刊誌での「女性活躍のために支え合う社会をつくる政策を」を読んで、思わず「これだ」と快哉を叫んだ。日本の女性雇用の現状は、「期待」「鍛え」「機会」の「三つの『き』」がまだまだ足りないとする。その上で、〝夫婦の人生〟を豊かにする社会に向かって、両親、親族、近隣のコミュニティー、保育所などが分担して支え合う社会をつくる政策を強調されていた。

 尤もそういった考え方で今の若い女性たちに受けるのかどうか。坂東さんと同世代の私はあまり自信がない。

【他生のご縁 国会の部会での私とのやりとりから】

 党の部会にお招きして、男女共同参画社会をどう作っていくかの議論をしていた時のこと。私は坂東さんに、「日本の若い女性に晩婚化や非婚志向が強いのは、今の若い男に魅力がないからでしょうかね」と、軽いノリで問いかけました。

 その時に彼女は、「お母さんたちが、自分ちの男の子たちを〝猫可愛がり〟するからでしょうね。根本は母親の育て方に原因あり、だと思いますよ」と。ギクっとしたものです。

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【133】考える糸口がいっぱい──党理論誌『公明』7月号の読みどころを探る/6-15

 公明党の理論誌『公明』がいま面白い。このブログ『忙中本あり』では初めてのことだが、7月号を取り上げたい。僅か80頁ではあるものの、山椒は小粒でも何とやらで、中身は鋭く深く重い。毎号特集を組んで、3-4本の論考が掲載される。今月のテーマは、「成長型経済への転換」で、4人の論者が①半導体産業の育成②賃金と物価の好循環③男女間の賃金格差解消④日本の活性化を促す──を論じている。このうち最も注目されるのは、①での黒田忠広(東京大学特別教授、熊本県立大学理事長)による半導体産業の見通しである。凋落したとされるのは❶事業環境の変化❷投資戦略の遅れ❸産業政策の不手際などが原因。厳しい冬の時代を経験したが、それを乗り越えた。今は、らせん階段を駆け上がるイメージで捉えられ、世界水準に近づいているとの認識を示す。その上で、先進各国がそれぞれの強みを持ち合うことが不可欠な国際協調の時代を迎えており、「半導体を巡って、覇権を争うのではなく、共通の資産、人類共有財産として世界の繁栄をめざす」という。「日本手遅れ説」を真っ向から否定する楽観論に私は驚く一方、希望を抱いた◆特集の中で興味をそそられたのは④の保田隆明(慶応大総合政策学部教授)の『日本の活性化を促す物語性が必要──「ナラティブ経済学」の視座から考える』である。冒頭から、ふるさと納税、新NISA(少額投資非課税制度)、ChatGPT(生成AI=人工知能)を三題噺のごとく持ち出す。お茶の間や居酒屋で盛り上がる議論の尽きないテーマだと。それこそ「ナラティブの力」の発揮しどころだという。「ナラティブ経済学」とは、一言でいえば、友達につい話したくなる物語性があり、たとえは悪いがウイルス感染のように短期間に広がる特質を持つものを指す概念だ。保田は、「一般国民の暮らしぶりの全体的な改善と社会分断の緩和にも貢献できるものと思われる」と、希望的観測で結んでいる。私など早速、今夜の「酒の肴」にしてみたくなる◆この理論誌が持つ最大の特徴は、当たり前のことだが、公明党そのものを考える素材を提供してくれる論考の存在である。今月は浜崎洋介(京大特定准教授、文芸批評家)の『日本の伝統的価値に棹さす中道政治への期待──公明党に求められる中間共同体の賦活』がそれだ。凡庸な身には、いささかわかりづらい論理構成だが、大事な問題提起がなされている。ここでは公明党に突きつけられている3つの注文についてのみ触れる。浜崎の主張を私なりの解釈と言葉で要約すると、一つは、日蓮仏法に依拠する宗教団体が作った公明党は本来、日本人の伝統に棹さす政党ではないのか。もっと「中道」に自信を持て。二つ目は、偽善と欺瞞の体制である「日米安保」は、真っ当な意味での「軍事同盟」足り得ていない。強靭な「同盟」を模索するために、公明党は逃げずに一度は「離米」を考えるべきだ。三つ目は、今、最も政治に求められているのは、中間共同体の賦活以外のなにものでもない。停滞した現状を招いた元凶は新自由主義(緊縮政策)にある──この3つであろう◆それぞれについて私の見解を述べたい。一つ目は、宗教政党としてもっと旗色を鮮明にすべしとの論調を時に掲げる佐藤優(元外交官、作家)と共通する視点だろう。他の政党との差異が際立つ存在であるにも関わらず、肝心の部分が曖昧に見えるとの指摘に身がすくむ思いだ。「自公連立20年」のなかで、どちらがより相手に影響を与え、感化させたのか。原点の戒めがよみがえってくる。二つ目については、かつて公明党は、「日米安保の段階的解消」から出発した政党であり、在日米軍基地の総点検を実施するなかで、真剣に「離米」を考えた歴史を持つ。国際政治の現実に呼応する過程で「日米安保堅持」に転じた。今も考えることから逃げてはいない。惰性は否めないにしても。三つ目は、とりわけ安倍第2次政権から本格化してきた課題である。経済格差をもたらした根源がアベノミクスにあるにせよ、連立のパートナーとして、その攻めからは逃れられない。歌の文句じゃあるまいし〝時の流れに身を任せた〟で済まさず、総括する必要があろう。ともあれ浜崎論考は刺激に満ちている。国会が閉幕したら衆参両院議員は正面から向き合って考えて欲しい。(敬称略 2024-6-15)

 

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(第2章) 第3節マジメ少年にはグレさ加減がまぶしい━━河合隼雄対談集『子ども力がいっぱい』

素晴らしい笑顔との出会い

 この本は、河合隼雄が亡くなって一年後(2008年)に出された。副題に「あなたが子どもだったころ」とついている。山本容子、鶴見俊輔、筒井康隆、佐渡裕、毛利衛、安藤忠雄、三林京子の7人(掲載順)との対談集である。ほぼ全頁にわたって河合さんと7人の対談相手の写真(時には子どもの頃のもの)が入っている。皆素晴らしい笑顔だ。読みながらこれだけ笑った本は珍しい。

 河合が聞き上手なのだろう。見事なまでの面白いお話が聞き出されており、飽きない。一気に読み終えた。ほぼ全員判を押したように、子どもの時は勉強せず遊んでいたとのこと。そのことを厳しく怒られ続けたのは鶴見俊輔。15歳でアメリカへ行かされるまで、母親は「折檻するだけの人だった」と。この人のエピソードで興味深かったのは、小学校6年の成績がビリに近かったが、中学校へ上がる受験勉強の教科書が「牧口常三郎と戸田城聖の書物だった」ことをうちあけ、「ものすごくいい教科書なんだ。毎日10時間ぐらい必死で勉強した」と助けられたことを吐露しているくだり。俊輔少年の恩人が創価学会の2人の会長だったことを知って大いに驚いた。

 学校での勉強にあまり意味がないことを感じさせたのは安藤忠雄。「成績は悪いけれど、魚捕りやトンボ捕りがうまい子どもだった」安藤は、後にボクシングにはまるものの、ファイティング・原田に出会って即その道を諦め、貯めたお金で外国へ行き独学で建築を学ぶ。「可能性に夢を与える人」と河合はいう。現在複数の内臓に欠陥を持ちながら活動を元気に続ける安藤を私は「無限の可能性を持つ生命力の人」といいたい。「小説家は嘘つき」との私の自論の正しさを追認させたのが筒井康隆。母親の着物を売ってロードショーの高い券を買ったことがバレそうになり、「不良少年に脅かされて」との嘘の話を、以後ずっとつき通したというのはなんとも凄い。山本容子は「母はだめと言う。父はいいと言う。祖父はだめ、祖母はすごい喜んでいる」──「大人はみんな違うとわかってとても面白かった」と述べている。「子どもは迷わないと面白くない。(それが)生きていく勉強になる」と河合は、ユニークな人間の育つ源泉を指摘する。

 「真面目だったからこそ」との自己肯定感

 一番笑えたものは佐渡裕の祖父の話。柔道8段の接骨師。朝からビールにウイスキーを混ぜて飲む豪快さ。京都の警察に柔道を教えにバイクで行きながら、ずっと無免許。生徒から免許がいると聞いて初めて知ったとか。その爺さんが婆さんを乗せて京都から亀岡の家まで帰ってきたら、後部座席にいない。「途中で落としたらしくて戻って拾いに行った」というのだから。毛利衛の場合は父親が動物病院をやっていたが「オートバイに夢中」で「教育に全く関心がなかった」人。「農家へ行って動物の病気を治してくるのはいいがお金を取ってこない」ほどの呑気者。彼が授かった8人の子どもたちの末っ子が宇宙飛行士になるのだからこの世は面白い。最後の三林京子は弟が泣かされて帰ってきたので、代わりに相手の家に行きボコボコに仕返ししたほどの超お転婆娘。文楽人形遣いの娘だが、中学一年から山田五十鈴のところに弟子入りして、女優で落語家になった。他の6人に「インタビューを終えて」を河合が書いているが、彼が対談後に病に臥したため、三林だけは、彼女が代役している。「本はたくさん読みなさいよ。僕は子どもの頃から本が大好きやった」と河合に言われたことがずっと気になる、と。

 この個性豊かな人びととの対談で、河合が自身の子ども時代を振り返っているところが興味深い。鶴見や筒井が思春期にグレていたのに、自分が「マジメ少年だった」から、「芸術的や文学的な才能のないのも無理ない」と。しかし、河合が結論するように「今更反省しても仕方のない」ことではある。過去に私も、自分の面白みのないマジメさを厭ったものだ。だがその都度、「いや、マジメさを貫いたから今の自分がある」と、自己肯定感を募らせたものである。この本での主張に共通するのは、現代の子どもたちがいかに不幸かという点。「お勉強」ばかりで、早くから「子ども力」が衰退させられているとの嘆きである。河合は世の親たちが自分の子どもの「本当の幸せ」は何かと真剣に考えてほしいという。また、子どもの育て方について根本的に考え直す必要がある、とも。こればかりは自己肯定感を持てない自分が恥ずかしい。(敬称略)

★他生のご縁 文化庁長官だった頃に

 河合さんが文化庁長官の頃に、私との出会いはありました。きっかけは文化庁行政に注文を聞きに秘書役が来られたことでした。感激した私はスピーチにおけるユーモア力の磨き方について参考になる本を教えてくれと、伝えました。

 ご自身のある著作を指定されたので、直ちに読みました。ところが一向に面白くない。その通りに返事すると「そうですか。やっぱり」との答え。これには笑いました。自信のないものを挙げないでほしい、と。ともあれ愉快な人でした。

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(第1章) 第1節 映画を観続け解説し抜き到達した境地━━淀川長治『生死半半』

特殊な映画好き人間としての伝説

 「それでは次週をお楽しみください。さよならサヨナラさよなら」──「日曜洋画劇場」の解説で繰り出された淀川長治さんのこのセリフが聞けなくなってもう30年近い。テレビ朝日系列で毎週放映された映画は1629本にも及ぶとのこと。もう一度見たい聴きたいと思う人は多いはず。ユーチューブ全盛の今なればこそアプローチは可能だが、彼の登場する最初と最後の部分だけ観るのでは、やっぱり味気ない。映画そのものを含めてテレビでリアルに観た頃がたまらなく懐かしい。

 私の父親より一つ歳上の1909年(明治42年)生まれの淀川さんは、神戸三中(現長田高校)の出身。宝もののような大先輩である。お母さんのお腹にいる頃から映画を観ていたとは、この人にまつわる「ホラ話」の最たるものだが、その手の〝淀川伝説〟には事欠かない。三中時代に学校をサボって新開地界隈に映画を観に行き、先生から怒られると、「映画を先生も観てから言ってください」と抗議。先生はそれを真にうけて後日観に行ったところ、いたく感動。以後、学校挙げて生徒皆んなで定期的に揃って映画館に行くようになったとか。またこの上なく大好きだった母上が亡くなられた後は、遺体と一緒に数日添い寝されていたとか。虚実ない混ぜの〝淀川神話〟に浸ってきた私も、この『生死半半』を読むに及び、漸く心の整理がついた。淀川さんが、決して化け物ではなく、特殊な映画好き人間であり、孤独な人であることも、分かった。

 淀川長治を知る上でまことに得難いこの本が世に出たのは1995年5月。86歳。約3年後に亡くなられており、遺言の趣きがある。「生と死についてじっくりと考えた」結果、「生の延長線上に死があるとはどうも思えません。人間の中には生きることと死ぬことの両方が半分づつあるように思えるのです」と、「おわりに」の一番最後にある。タイトルの『生死半半』も、ここからきている。私風の理解では、生の中に死があり、死の中に生があるとの、仏教の『生死即涅槃 煩悩即菩提』の原理に繋がるものではないか。生きている現在只今の瞬間に全てが凝縮されてあり、不確かな死後の世界に委ねられ続くものではない、と。「無信教者」の淀川さんが到達された境地が信仰者のそれとピタリ一致する。と、私は勝手に面白がっている。

 一生の伴侶には女性より「映画」

 〝死と老い〟について考える章が続いたあと、「人生の遺言」が来る3章構成。といっても抹香臭い暗いおはなしの連続ではない。彼はなぜ結婚もせず、生涯独身で映画を見続けてきたのか。この興味津々たるテーマが巧みに織り込まれた、〝86歳の青年〟による超面白い人生エッセイ集なのである。その答えは、「家族に気をつかっていたら好きな映画に費やす時間も気力も体力もなくなってしまいます」から、「『女性と結婚するより、映画を一生の伴侶にしよう』と早いうちから決めてしまった」──結婚して家庭を持って、同時に映画も存分に楽しむという〝普通の生き方〟を拒否した人物の「映画人生」から学ぶことはとても多い。

 私の子どもの頃(昭和20年代後半〜30年代始め)の映画は55円で3本立てが観られた。今になって、時折り自宅で取り溜めたビデオを深夜から早朝にかけて観ることが楽しみのひとつになった。若き日に定年後に用意した密かな企みが今現実になって、感慨深い。「四歳のころから父や母や姉に連れられて映画を見ていた」淀川さんが日々感じていたという興奮にはほど遠いものの、類似した追体験にそれなりのわくわく感はある。私の場合はブログ「懐かしのシネマ」に書き込む習慣を我が身に課している。ただ、淀川さんは、「いまの時代に作られた新しい作品を積極的に見に行くこと」が大事であり、「若者が面白いと感じるような映画を同じように楽しめて、初めて『子供のような心』を取り戻すことができる」と書いている。とても叶わない。

 この本には当然のことながら随所に映画の名場面や名セリフが顔を出す。「死」について多くを映画から学んだ彼は、ルキノ・ヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』やルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』などを挙げてその魅力を披歴する。両方とも私は先ごろ観てブログに書いた。前者は要するに老人のストーカーの話では?後者は結局は無謀な若者の無軌道ぶりを描いたもの?──こうした拙い思いを払拭させる解説に身震いする思いがした。映画って本当に奥が深いなあ、淀川先輩って凄いなあ、それに比べて、うーむ。

【他生のご縁 試写会で見逃す】

 公明新聞時代の仲のいい同期に文化部・映画担当の平子瀧夫記者(元川崎市議)がいました。入社間もない若い頃、試写会に一緒に行かせろと彼に頼み込みました。彼は映画評論家の「小森のおばちゃま」と親しく、信頼されていたので、淀川さんにもきっと会わせて貰える日がくるはず、との密かな企みが私にはありました。

 のちに、それなりに自由がきく部に所属し、ある時、ようやく試写会に潜り込むことができました。確かに同じ狭い空間に淀川さんはいました。ですがアタック出来ずに終わってしまったのです。映画担当でもない人間として怯む思いがあったのでしょう。遠き日の甘酸っぱいような苦い思い出です。あの時、真正面からぶつかってたら、その後の人生はどうなっていたか。

 

 

 

 

 

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