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【130】「他」を慈しむ優しさと勇気と━━小説『アラバマ物語』を読む(下)/5-22

 ここで改めて、この小説の原題に戻りたい。To kill a mockingbird である。mockingbird  とは、マネシツグミと訳される。この小説の中では、モッキングバード(ものまねどり)について語られるところが数カ所出てくる。最も説明的なのは10章にあり、アティカスがジェムに銃について、教え諭す場面にこう登場する。「(小鳥をねらえるなら)好きなだけアオカケスをうつさ。だけど、おぼえておくんだよ、モッキングバード(ものまねどり)を殺すのは罪だということを、ね」──父の口から、何かをするのは罪だなどと、言われるのは初めてだったジェムは、近所に住むモーディおばさんにその意味を訊く。彼女は「お父さんのいうとおりよ」と述べた後、「モッキングバードってのはね、わたしたちを楽しませようと、音楽をきかせてくれるほかには、なんにもしない。野菜畑を荒らすこともしなければ、とうもろこしの納屋に巣をかけるわけでもない。ただもうセイかぎりコンかぎり歌ってくれるだけの鳥だからね。──モッキングバードを殺すのが罪だっていうのはそこなのよ」とある。明らかにここで、黒人青年トム・ロビンソンやひきこもり青年のブー・ブラッドリーをモッキングバードに例えていると見られる◆他にも、「心なくうち殺されたものまね鳥」という表現が出てきてTo kill a mockingbird という原題に使われた言葉がこの小説の文字通り基底部を形成しているように読める。社会に悪影響をもたらさない鳥を痛めつけ、いたいけな弱い存在の鳥を殺すってことがいかにいけないことなのかを訴えている小説だってことなのだろう。しかし、私は最初に映画を観た際に、実は違う受け取り方をした。それは、単に弱いもの、害をなさない鳥を殺しちゃあいけないと言っているんではなくて、罪なき黒人を貶めることに付和雷同したり、ただ引きこもっている青年を噂だけで恐れるという行為がいかにいけないことか、を訴えており、そういう鳥は殺すのだと捉えられると思ったのだ。つまり、マネシツグミという鳥を優しい声で歌うだけの鳥というのではなく、主体性なくモノマネ的に鳴いて伝播する役割を持つ鳥だと見てしまったのだ◆ところが、小説を読み終えた結果、私の捉え方は作者ハーパー・リーの意図を逸脱した、拡大解釈だということは認めざるを得ない。しかし、あながちそうとだけでもない様な気がしてならない。私の着眼は、モッキングバード=モノマネ鳥という語訳に端を発している。ことの本義を弁えずモノマネすることの非を鳥の名前から連想したわけだが、怪我の功名というべきか、大自然の恩寵と呼ぶべきか、意外に的を外していないと思っている。この本の中で、父アティカスは繰り返し、子どもたちに、相手の立場に立つことが人間として大事だと強調している。単に弱いものを慈しみ、情けをかけることだけが人を突き動かすのではなく、その対象の立場になって考えることが重要だというメッセージだ。その考え方に立って、人種差別や障がい者差別といった間違った考え方をひろめてしまう悪事に手を貸すことはいけない──モノマネは結果的に悪事を広げる、という風に読む大事さと捉えたいと思うのである◆つい先日NHKの人気番組『映像の世紀 バタフライ エフェクト』で放映された「奇妙な果実──怒りと悲しみのバトン」を観た人は打ちのめされる思いを抱いたに違いない。この番組は、「🎶南部の木には奇妙な果実が実る 血が葉を染め 根元に滴り落ちる」との「奇妙な果実」(木につるされた黒人の死体)を歌うジャズシンガーのビリーホリデイの歌声で始まった。アメリカの『タイム紙』は1939年に発表されたこの歌を20世紀最高の歌に挙げた。この小説が描いた、黒人を人間と思わずに簡単に抹殺してしまう1930年代の裁判に見る風潮と、「奇妙な果実」に例えられるほどの悲惨な実態は見事なまでに符合する。同番組では、20世紀後半にかけて広範囲に広がった公民権運動を経て、「変化はいつか起こる」(A change is gonna come)とサム・クックが歌ったように、21世紀になって米史上初の黒人の大統領(バラク・オバマ)が誕生した。しかし、それにも関わらず米社会の変化は未だ起こっているとはいえないとの嘆きで終わっていた◆行き詰まったかにみえる黒人差別撤廃の動きを立ち直させるには、何が必要か。自分本位ではなく、他人のために心を寄せ合う優しさと勇気が欠けていないか。それには人間の生命の平等を真に解き明かした思想哲学があまねく地球上に根付かせるしかないように思われる。ウクライナ戦争、中東でのイスラエルとパレスチナ・ハマスのいつ終えるか分からない憎悪の連鎖を見るにつけても、その感は強く深い。この小説に描かれた好奇心のかたまりの様なスカウトが、映画での仕草がたまらなくいとおしいスカウトが気になって仕方がない。そして小説の著者ハーパー・リーのその後どうなったのかも。映画を観たあと、小説を読んだ後に、このようにまで思わせられるぐらいに不思議な本と映画に私は魅せられてしまった。(2024-5-22)

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【129】謎の鳥「マネシツグミ」を追って━━小説『アラバマ物語』を読む(上)/5-18

 アメリカの作家ハーパー・リーの小説『アラバマ物語』(菊池重三郎訳=1960年刊行)を、同名の映画を観た後に読んだ。グレゴリー・ペックが主演し、アカデミー賞主演男優賞を取った一世風靡の映画だ。「百聞は一見に如かず」で、映像の持つ力は深い印象をもたらし、人の心を揺さぶる。一方、「眼光紙背に徹す」という言葉が示すように、登場人物の心理や感情の動きを表現する小説の持つ力は、読む者しだいで人間存在の奥底にまで迫る。映画で全体像を掴んだ私は、小説で細部を補って、まるでアメリカ社会の陽と陰、表と裏が分かったかのような思いを持つに至っている。この本では、人種差別の悲惨さだけでなく、障がい者差別の卑劣さを子どもの目線から追っている。と共に、父親の子どもへの温かい心情と、強い社会正義感の豊かさを完璧に近いかたちで描いており感動を呼ぶ。1930年代の米国南部の古い架空の町メイコーム(著者リーの故郷・モンローヴィルがモデル)を舞台にしたこの物語は、ピューリッツアー賞を獲得し、数百万部の大ベストセラーになった。読むものの心を揺さぶり感動せしめたにも関わらず、人種差別も障がい者差別も、ある意味で一層深刻になっている。それはなぜか。私はマネシツグミという鳥の存在が解決のカギを握っていると思うのだが。ここではまず、小説のあらすじを追ってみたい◆この作品の主人公ジーン・ルイーズ・フィンチ(通称スカウト)は、小学校に上がる前の6歳。幼き日のリー(出版時38歳)であり、この本の語り手でもある。家族構成は父で弁護士のアティカス・フィンチと4つ上の兄ジェムの3人。母親はスカウトが2つの時に亡くなった。このため、黒人女性のハウスメイド・カルパーニアが食事作りやら躾けまでの母親代わりを務める。そこへ夏休みになると、遠くから近所の親戚の家にやってくるディル(スカウトと同い年)が加わり、3人の子どもたちで遊ぶ。庭にある高い木の上に作った小屋に登ったり、大きなタイヤの内側に入って転がる〈ぐるぐるまわり〉が楽しい。子どもたちの日常を横軸に、父親のアティカスの仕事を縦軸にこの物語は展開していく。子どもたちの最大の関心事は、近所に住む正体不明のブー・ラッドリーという青年の存在。なんらかの心体疾患のために、親が子をいわゆる〝引きこもり〟と〝閉じ込め〟の相乗状態にさせているものとみられている。事情の分からない子どもたちは、その家をあたかも怪物か幽霊の屋敷のように扱っていく。不気味な背景を構成していくのだが、最後で重要な役割を果たすことになる◆一方、父親アティカスについて。ある黒人青年が若い白人女性をレイプしたと濡れ衣を着せられた。その弁護を引き受ける。裁判では彼女の父親ユーイルによる狂言(現実は父親の娘への虐待)ということがアディカスの見事な弁舌で明白になる。しかし、黒人をまともな人間として認めない米南部の風土が決定的に色濃く影響し、白人陪審員たち(黒人はゼロ)はひとりを除いて「有罪」の結論を出す。裁判の一部始終を二階の黒人席でスカウトたちは見ていた。その理不尽な展開に深い疑問を抱く。絶望した黒人は収監先から逃げようとしたところを撃たれて生命を落とす。しかも、弁護士アティカスの公判での追及を逆恨みした〝虐待常習癖〟の父親ユーイルは兄妹を襲う。それを防いだのがブー青年であり、逆にユーイルは死に至るというなりゆきで物語は決着する◆小説の前半部で描かれる小学校一年生のクラス風景は衝撃的だ。21歳の女教諭キャロリンが最初の授業でシラミの登場に慌てふためく。這い出したシラミだらけの髪の毛の主は、粗悪で乱暴な男の子バリス。シラミ騒ぎでの混乱の果てに「席に着きなさい」と、バリスは言われると、「席につけっていうのか、おばさん」と凄む。それをチャックという子が「先生、行かせてやりなさい。こいつは手に負えねえんです。何をしでかすかわからない」とたしなめる。と共に、バリスに向かっては「俺がお前のほうに向きなおったときは、殺されるときだぞ。さっさと帰っちまいな」と脅かす。これには従って帰ろうとするものの「おれがどこへ行こうとおれの勝手だあな!おばさん、おぼえときなよ」と捨てゼリフ。泣く先生を「もうくよくよしないで。お話を聞かせて」と、取り囲んだ生徒たちが励ますという具合だ。実は、バリスはユーイルの子ども。いかに劣悪な生活環境にこの一家があるかが浮き彫りになって、後々の展開の伏線になっている◆私が読んだ「暮らしの手帖社の本」は、表紙のスカウトの写真を始め文中8頁にわたりポイントになる映画のシーンが折り込まれ、楽しませてくれる。小説と映画が一体だ。ただし、当然のことながら映画は短く、誇張されている。黒人メイドのカルパーニアにまつわる部分が小説では大幅にカットされているものの、黒人の教会や牧師についてなど、黒人社会に小説は詳しく触れている。また、小説にはアティカスの姉、つまり伯母が家に住み込みに来るがその役割(レディ教育)は削除されている。重要な違いは小説ではユーイルを殺したのは誰で、どういう経緯だったかが曖昧なまま終わっている。一方、映画は明解にブーが手を下したとしているものの、その罪は問わないと保安官が判断し、アティカスがブーに握手を求めるラストシーンが印象深い。(2024-5-18 =この項〈下〉につづく)

 

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【第1章第6節 「日米相互誤解」がもたらす不幸の連鎖━━R・エルドリッジ『オキナワ論─在沖縄海兵隊元幹部の告白』

 沖縄におけるメディアを痛烈に批判

   赤涙滴り落つとはこのことに違いない。この本を読み終えての正直な感想である。在沖縄海兵隊の政務外交部次長だったロバート・エルドリッジ氏が、意に沿わぬ形でその立場を解かれた事件からもう10年余が経つ。そのいきさつをめぐっての彼の「告白」を今ごろになって知った。事件の顛末もさることながら、彼が当時提起した問題の大半は今なお解決していない。その意味では、改めて日米関係における沖縄の存在を考える契機に、大いになり得る。彼とは私が現役を退いたこの10年余の間に多くの交流の時を持った。しかし、不幸にしてこの「告白」を読まないで付き合っていたためか、肝心要の彼の心の中を恐らく理解しきれていなかった。現役時代の我が持論を、私はただ押し付けるだけに終わっていた。空回りの議論と誤解の連鎖を痛切に反省する。

 ことの発端は、米軍基地前での反対運動の様子を撮影した映像を彼が公開したことに始まる。これが「参謀長の許可なく、メディア関係者と接触した」とのお咎めになり、更迭されるに至った。当初、事実と相違する報道が氾濫する中で海兵隊の名誉が傷つけられたと彼は判断した。映像を公開して真実を伝えたいと考え、行動に踏み切った。ここから沖縄におけるメディア(琉球新報と沖縄タイムズ)の有り様に対して、痛烈な批判の刃を斬り込む。「平和運動家を背後から不当逮捕した米軍の占領者意識というでたらめなイメージ」で、「感情論やレッテル貼りをするような言論には価値を認めません」と、どこまでも厳しい。

 一方で、辺野古移転の根拠にあげられる普天間基地が決して言われるような危険性がないことを丁寧に解き明かし、彼の持論である勝連構想のメリットを強調してやまない。また、かの3-11東日本大地震に際して彼が発案し、実現させた気仙沼市大島での「トモダチ作戦」の防災協力の展開については、今後に繋がる明るい展望として語ることをも忘れない。

 普天間基地での激論が再び神戸でも

 私が彼と初めて会ったのは、この事件の起こる少し前のこと。普天間基地の視察に訪れた私に、現地説明に応じてくれた。その時の会話風景が今も瞼に残る。沖縄での海兵隊による婦女暴行事件の顛末など、私は、日米地位協定の歯痒い現実を根拠に、あれこれと興奮気味に米軍批判を捲し立てた。それに対して冷静沈着な面持ちの彼から、筋道立てた反論がなされた。議論は平行線のまま。それで彼とはお別れしたと思っていた。だが、さにあらず。しばらく経って、神戸の異業種交流・「北野坂会」の場で偶然再会した。両人とも初対面当時の肩書きは変わっていた。そこでまたも論戦が続く。

 幾たびも会うごとに議論は蒸し返された。私は日本のホストネーションサポートに比べて、米側のゲストネーションマナーが悪すぎるとの論法を切り札のごとくに使った。彼は沖縄の「反基地運動」を支える「ペンの暴力」を指弾し続けた。彼が「NOKINAWA(ノーばかりの沖縄)」というので、こちらは「DAMERIKA(ダメなアメリカ)」だと言い返す。論争は果てることはなかった。

 この辺りのことは、拙著『77年の興亡──価値観の対立を追って』の第3章「変わらざる夏──沖縄の戦後」に詳しい。ただしこれは、沖縄における彼の隠された振舞い(不幸な女性を救う活動に挺身していた)を知って、大きく揺らいだ。米帝国主義を紋切り型に一刀両断するだけでは通じない、自由で広いアメリカの良心の体現者としての側面を見逃していたのではないか、と。そして今回この古い「告白」を読んで、自論に変更を余儀なくされるものが湧き上がってきたことを告白せざるを得ない。

 随分と回り道をした。何がこうさせたのか。私の「新聞記者稼業」への執心か。それとも「国会議員特有の傲慢さ」か。はたまた「被占領国民の植民地根性」か。沖縄における新聞メディア両翼のペン捌きを左翼イデオロギーのなせるものではなく、「沖縄ナショナリズム」のためだと、強く見過ぎたせいかもしれない。もう一度、根底から日米沖の関係を考え直して欲しいと、この本が呼びかけているように聞こえてくる。

【他生のご縁 交流は地元から全国まで幅広く】

 ロバート・エルドリッジさんは兵庫県川西市在住。ある時、地域の問題で相談したいので、誰か市議を教えてくれと頼まれました。紹介した江見輝男市議(故人)と交遊が深まり、後に市議選に際して彼の応援演説までして貰う仲になったと聞き、喜んだものです。

 ご自宅を先年、江見市議と共に訪れました。私が関心を持つ話題をだすと、直ちに関係者の名刺や資料を引っ張り出してくれました。それは国会周辺から島根・奥出雲、福岡・北九州市へと実に幅広く奥深いものがあり、学者を超えた人間力の厚味ぶりを垣間見ました。

 彼の伴侶の永未子さんとも度々お会いしました。着物姿がよく似合うとても素敵な女性です。異業種交流会に連れ立って顔を出された際に、つい激論になったしまう我々2人を和かに見守ってくれていました。

 

 

 

 

 

 

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(第3章)第3節 現代世界の混乱の起源を再現━━川成洋『スペイン内戦と人間群像』

歴史博物館か美術館の案内書を見るよう

 680頁を超える分厚い本を、2024年のゴールデンウイークの只中に読んだ。著者の川成洋さんは英文学者。そしてスペイン研究家。私は記者時代にご縁を頂いた。これまで数多のスペインに関する著作を世に問うて来られたが、この作品は、ご自身の「スペイン学の備忘録」として位置付けられている。スペインには、私は一度だけ、バルセロナとマドリードを訪れたことがある。千年ほど前の中世の空気を、そのまま残したような静かで厳かな佇まいが鮮明に記憶に残る。希代のスペイン史通を案内人に、現代世界の混乱の起源ともいうべき「スペイン内戦」を探る歴史考察の旅に出ようと思い立った。

 この本の大きな魅力は、ほぼ全頁にわたって、下段の3分の1ほどのスペースに登場人物の写真画像、関連絵図、脚注などがずらりと収録されていること。かのピカソの「ゲルニカ」のデッサンが製作中の彼の姿と共に15頁ほども見られたり、まるで歴史博物館か美術館の案内書を開いたようで飽きさせない。著者の学問探究への関心は現代英文学に始まったが、英国の国論を二分する大きな政治対立をもたらした「スペイン内戦」にやがて移っていった。ジョージ・オーウェルの回想記『カタロニア讃歌』(1938)がきっかけだった。そこには「強烈な政治的糾弾を基調としながらも、時折散見する、友誼に厚い同志意識、牧歌的な戦場、『人間の尊厳』に対する頑なな信頼、全体主義反対の不退転の意志」があった、と。

 オーウェルといえば、私は、未来社会の惨状を描いた『1984年』や『動物農場』に惹かれた。スペインについては『誰がために鐘はなる』『武器よさらば』といったアーネスト・ヘミングウェイの映画(本でなく)に憧れたものだ。川成さんは、彼ら文筆家たちが各国を横断的に次々とスペイン共和国支持を表明して立ち上がった姿や、55もの国からスペインに馳せ参じた義勇兵による「国際旅団」などの熱い動きを描く。その目線は「現場の『人間』に注目し、『人間的な要素』にポイントを置いた多面的な回想録・体験記などを中心にスペイン内戦を捉えたい」とする。筆者の目論見は、本文に、脚注の手紙文、写真の説にと、余すところなく網羅され、読む者の心を掴んで離さない。

 国境、民族を超えた溢れ出る連帯感

 迫り来るファシズムの嵐に負けまいと、世界中から内戦期のスペインに義勇の志を持った人々が集まった中に、日本人はいたのか。たった一人だがいた。ニューヨークで料理人をしていた日系米人のジャック白井である。川成さんはこれまで『ジャック白井と国際旅団──スペイン内戦を戦った日本人』『スペイン国際旅団の青春──スペイン内戦の真実』などの著作で、その人物の有り様を熱心に描いてきたが、ここでも50頁近くを割いている。この記述中に紹介された現地の仲間の「追悼詩」が胸を打つ。「同志白井が斃れた。彼を知らない者がいただろうか」で始まり、「あのおかしなへたくそな英語 あの微笑の瞳 あの勇敢な心」から「函館生まれのジャック白井 日本の大地の息子 故郷で食うことができず アメリカに渡り サンフランシスコでコックとなった」「人間の権利を守るために 戦っているスペイン人民を助けようと アメリカから馳せ参じた」へと続き、「彼のことを決して忘れないだろう」で終わっている。国境、民族を越えて「同じ理想に集う者同士の連帯感」が溢れでている。

 こうした空気の背景には、紛れもなく国際共産主義運動の影響があった。スペイン内戦は、共和国政府とフランコ叛乱軍によるものだったが、前者を国際旅団が支援し、後者にはヒトラー・ドイツが味方についた。これは一面から見ると、左右2つの全体主義の代理戦争の場という側面もあった。勿論、ソ連は未だ仮面を被り続けていて、表面的には自由を擁護する側の勢力の一翼に見えてはいたのだが‥‥。「あとがき」で、川成さんは、「ソ連のスペイン共和国への軍事支援は、共和国を破綻させるとてつもない欺瞞やペテン以外何ものでもなかった」と、徹頭徹尾もう一つのファシズムの実態を叩いており、読む者をして溜飲を下げさせてくれる。

【他生のご縁】武道で鍛えた心体に漲る創作意欲

 川成さんは4月末に私がメールで「この本を読んでいます」と告げると、それには応えず、「先日新刊本出しました。今は次の本に着手してます。去年は3冊でしたが、今年は今のところ4冊の予定です」との凄まじいまでの意気込みでした。しかもヨーロッパの鍵を握るハプスブルグ家の歴史を追い続けるというのですから。

 1942年生まれ。82歳を優に超えておられるが、合気道6段、居合道4段、杖道3段と合計13段の武道家で、元気溌溂。同世代の年来の友人2人と一緒に2023年に、ご自宅に近い駅前で懇談した際には3人ともタジタジ。常に前向きで夢を語り、難題に立ち向かわれる姿に、心底痺れました。先日も「あの2人元気してる?また会いたいねぇ」と。

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【126】「神の存在」がもたらす「不条理」━━カミユ『異邦人』を読む/4-27

 『異邦人』(1943年刊)という小説は、フランスの植民地アルジェリア(1830年占領〜1962年独立)の首都アルジェに住む若い男がある日、衝動的に殺人を犯してしまうことから始まる。その情景を中心に描かれた第一部と、殺人の罪を裁く裁判の経過を辿った第二部とから成り立つ。そこには読むものをして驚かせるような、何らかの劇的要素があるわけではない。ただひたすら暑い日に、何となく銃の引き金を引いてしまったとの〝不毛の説明〟があるだけだ。著者のアルベール・カミユはフランス領時代のアルジェリアの出身。彼はこの書に続き第二次世界大戦後に書いた『ペスト』など一連の小説が評価されて、1956年にノーベル文学賞を受賞している◆『異邦人』は、20世紀最大の文学作品の一つとして位置付けられているが、その理由の鍵を握るのは「不条理」との言葉だ。すじみちが通らない、理屈通りにいかないことを指す語句がこの小説を表すのに打ってつけとされ、以後の時代のひとつの潮流を説明する場合にしばしば用いられていく。「不条理」がキーワードとなっていく背景には、ヨーロッパ世界における「神の存在の否定」が色濃く反映する。言い替えれば、人間は本来的に何ものにも縛られることのない「自由な存在」だということになる。裏返せば、何をしても許されるということに繋がるのかもしれない。何世紀にもわたって信仰に真面目な人間の軛(くびき)になってきた〝神の呪縛〟からの開放を意味するものと捉えられよう。かつて若き日の私も、サルトルの『嘔吐』に魅入られ、カミユの『シシュポスの神話』に惹きつけられ、「実存主義の哲学」に〝根拠の薄い〟憧れを抱いたものだ◆カミユは『異邦人』を『きょう、母さんが死んだ。きのうだったかもしれないが、わからない」との有名な書き出しで始めた。それに対して、独立後のアルジェリアで生まれ育った作家・カメル・ダーウドの『ムルソー再捜査』(2013年刊)は、「きょう、マーはまだ生きている。彼女はもう何も言わない」で始まる。明らかに前者を意識し、逆転させた書き出しである。『異邦人』の中身を受けて改めて吟味する試みだ。ほぼ70年遅れて、被害者の側からの反撃がムルソーに、つまり著者・カミユに突きつけられた。ダーウドは、ムルソーに殺された名もなきアラブ人の弟・ハールーンの立場から、反植民地主義の狼煙を上げる。しかし実は、この積年の恨みを晴らすかのように立ち上がったハールーンはまた、過去にフランス人を殺していた。しかも、アルジェリア独立戦争下ではなく、平和な日常生活のさなかに。大義なき、正当化不能の行為だった。その立ち位置はまるでムルソーと一緒だったのである◆キリスト者とイスラームと──カミユが描いた人物の対極にあった男は、信仰の対象は違えど、崇拝すべき神の束縛からは自由であるとの一点で、共通していた。この興味深い小説の登場について、現代世界文学の研究者たちは、『異邦人』への回帰現象と捉える。「他者への無関心や社会に対する反抗と、この世に対する深い愛着をあわせもつ主人公(ムルソー)の姿に改めて思い至る」(野崎歓放送大教授)といい、「強靭な否定性と根源的な肯定性の融合」に、カミユが作り上げた人物像の不思議な魅力があると捉える。さらにこの文学作品上の連鎖が、次なる新たな文学を生み出し行く契機になるというのだ。その繋がりの妙もさることながら、私は仏教との関連を考えてみたい。前掲の宗教と違って「釈迦から日蓮へ」と続く大乗仏教の本質は、神への捉え方が全く異なる。このため、神の束縛は元々ないし、「不条理」に悩む環境も想定しづらい。このあたり、居住まいを正し、稿を改めて考えていきたい。(2024-4-28)

 

 

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【125】あくなき「言説空間」の展開しかないのか━━自衛隊を活かす会編『戦争はどうすれば終わるか?』を読む④/4-20

 看板に偽りあり──この本の第4章(最終章)は、「戦争を終わらせた後の世界に向けて」がタイトルであるが、これにはいささか驚いた。『戦争はどうすれば終わるか?』という本のタイトルを信じて読み進めてきたのに、ゴール前に、いきなり「終わらせた後」が来るっていうのは、はぐらかされたみたいに思われる。尤も、「自衛隊を活かす会」事務局は、当初はウクライナ戦争をどう終わらせるかに、問題意識はあったものの、「議論を始めてみると、終わらせる対象の戦争というものをどう捉えるかを抜きにしては、個別の戦争の終わらせ方も論じられないことが見えてきた」と正直に「断り」を入れている。加えて「ガザの人道危機」も遅れて起こった。要するに、当初の狙い通りにはことは運ばず、看板はそのままにして、つまり答えは棚上げにして、いつ終わるともしれない「戦争後の世界」を4人に寄稿して貰ったというかたちに変更しているのだ。読者としては不満だが、著者たちの苦悩を推察して、「ま、いっか」という他ない◆ところが、現実には4人の寄稿は精一杯終わらせ方へのアプローチをも率直に「難しい」と逃げずに言及している。事務局としてはあらかじめ防御壁を張っておいたということなのだろう。伊勢﨑さんは「戦争は避けられない人間の性だと認めざるを得ないのが現実」と述べた上で、「世界を巻き込むふたつの大きな戦争が進行する現在、〝正義〟を言い募る言説空間が荒れ狂う中で、今ほど停戦を求める言説空間が必要な時はない」と律儀に訴える。加藤さんは、停戦、解決に向けて「現実空間において、どちらか一方あるいは双方が、戦闘の意志と能力のいずれか一方、あるいは両方を失うこと、そして言説空間においては現在の対立を止揚する新たな言説、すなわち新たなシステムを構成する統制的理念とそれに基づくシステムの構築が必要」という。難しい言い回しでわかりにくいが、「停戦、解決が非常に困難になっている」ことと大差はない◆さらに林さんは、「中国がプーチンの戦争の停戦、あるいは終戦に向けてどのように動くか30年戦争(1618-1648年)の示唆を強く意識する」として、習近平が仲介の適役であるという「牽強付会」をひとり大胆に試みている。柳澤さんはウクライナ戦争について「(ウクライナは)異国に支配され、抑圧される状態を平和とは言えない。さりとて、果てしない殺戮を止めたい気持ちもある。だから停戦は難しく、平和はなお難しい」「ただ平和を叫ぶだけでは、多分、平和の力にはならない」と、当然すぎることを述べる。一方パレスチナの事態についても「『テロとの戦い』や、『国の自衛権』といった既存の概念で理解しようとしても理解できない」し、「武力で殲滅しても、パレスチナの人々が追い込まれた状況が変わらなければ問題が解決しないことは分かりきっている」と、結局は、「こうして、あらためて自分の知恵の足りなさを思い知らされている日々です」と、正直に白旗を掲げている◆以上、4人の筆者たちの長広舌を部分的に勝手に切りとって、ご本人たちには不本意なことを敢えて承知の上で、戦争の終わらせ方についての言及部分を並べてみた。敢えて整理すると、現実空間に関わる具体的見立ては、唯一、林さんの習近平の仲介役への期待だけ。一方、伊勢﨑、加藤のお2人は、現実空間をひっくり返すぐらいの強烈な新たな言説空間を構築せよと言っている風に読み取れる。戦争終焉への国際的世論の高まりへの期待である。さて、〝この本からの学び〟をまとめてみて思うことは、日本での2つの戦争への関心はいたって弱く、停戦、休戦への世論のうねりは極めて弱いように思われる。最後の最後に、柳澤さんが「自衛隊と戦争との関係」に触れて、「自衛隊が進んで戦争を求めることはないし、あってはならない。それは政治が決めるべきこと」であり、その政治の選択は国民に跳ね返ってくるのだから、「一国民として戦争とは何かを考える」と結んでいる。この本の企画者としての本心である。東アジアに戦争事態が起こった際にどうなるのか。どうすべきか。戦争を決める政治の世界に今も関わる身として、与党・公明党に「非戦の安全保障」に十分なる備えと覚悟があることを強く期待する一方、一人ひとりの国民が自らの考えをしっかりめぐらせようと訴えたい。(2024-4-20  この項終わる)

 

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【124】「ガザの地獄絵図」という現実━━柳澤協二、伊勢﨑賢治、加藤朗、林吉永『戦争はどうすれば終わるか?』を読む③/4-15

 さて、もう一つの戦争──ガザにおけるイスラエルとハマスの戦いについては、昨秋10月7日のハマス側からの急襲によって火蓋が切られた。4人の緊急寄稿がこの本の第3章に並ぶ。まず、それぞれの主張を要約する。まず柳澤氏から。国連総会(10-27)でヨルダンが提案した休戦決議に121カ国が賛成。反対したのは米国など14ヵ国のみ。G7各国は日英など6カ国が棄権(仏は賛成)し、戦争を止めるのに反対はしていない。BRICS首脳会議(11-22)では、双方を非難しつつ、「停戦と市民保護のための国連部隊の派遣を本気で考えなければならない」と提案めいた指摘をしている。加藤氏は、イスラエルの苛烈極める報復について「言語空間では、親パレスチナ、反イスラエルの言説が膨れ上がって」おり、「中東を超えて反イスラエル感情は世界中を覆っている」と率直に語っている◆林氏は、「ハマスの攻撃がイスラエル側の『怨念・憎悪」に火をつけ『ハマスに対する殲滅戦争』を決断させている」とし、これを止める手立ての困難さを訴えた上で、「先の大戦後、70余年も『非戦・避戦』を貫いた日本」こそ、その「時代精神を造る国際社会の旗手」たれと、重要な呼びかけをしている。さらに伊勢﨑氏は、イスラエルが「『事前予告』を盾に攻撃を正当化している」ことについて、「国際人道法が戒めるのは、事前予告の有無ではなく、あくまで攻撃の【結果】である」として、「ガザの人口の約半分の110万人の強制移動そのものが国際人道法違反、つまり戦争犯罪」だと、厳しく断罪。結論として「イスラエル軍のガザ侵攻の結果がこれからどうなろうと、ハマスは、すでに勝利しているのかもしれない」とズバリ。このように、戦争が勃発した直後のことではあるが、4人とも一致してイスラエルへの非難を強調している◆その後の状況の変化を踏まえても、両者を取り巻く基本的な構図は変わっていない。つまり、「言説空間」における「地獄絵図」のガザを救えとの支援を求める声は強いが、「現実空間」でのイスラエルの強引な力づくでの殲滅作戦は進行している。その背後には米国の不決断という曖昧な側面のあることが見逃せない。イスラエルを口で非難しても、力の行使を翻意させるだけの実効力を伴わないようでは、「平和」は絵に描いた餅に終わるのは当然である。この問題をめぐる日本の受け止め方は、この4人と相通ずるものが多い様に見受けられるものの、イスラエルの側に立つ向きも少なくない。外交に通暁した著名なある作家は数ヶ月前のことだが、先に仕掛けたハマスの責任を非難していた。こうした角度については、伊勢﨑さんが「イスラム学、安全保障論の研究者の一部に、〝ハマス殲滅〟を掲げるイスラエルのガザ攻撃を支持する声が聞こえる」として、「『人間の安全保障を犠牲に国家の安全保障を優先させる御用学』に成り下がっている」と手厳しい評価を下しているのが印象深い◆イスラエルとパレスチナは、共に世界史の上で、領土をめぐって特異な位置を占めてきている。〝ナチスのユダヤ人虐殺〟に見るように、イスラエルは想像を絶する〝地獄の苦難〟の挙句、シオニズム運動の果てとして新天地を得た。一方、パレスチナには〝英国の三枚舌〟に騙され、本来の自分達の住処をのちに来た他民族の故に、追い出されてきた〝辛苦の経緯〟がある。しかし、この地での争いに、ユダヤ人もいけないがパレスチナ人も、といった、〝どっちもどっちの喧嘩両成敗的見方〟は否定されるべきだろう。早尾貴紀東経大教授の「ガザ攻撃はシオニズムに一貫した民族浄化政策である」(『世界』5月号)との論考における、欧米の人種主義と植民地主義の歴史全体の中に根本的原因があり、日本も無罪たり得ないとの言及には目が醒める思いがする。多くの日本人の平凡な世界観を打ち壊すに十分過ぎるといえよう。ここは、国連を中心に、今に生きる人類の知恵の証しを打ち立てる以外にないと思う。そこには過去の歴史から見て、欧米よりは未だずっとフリーハンドの身にある日本に出来ることがあるはずだと確信する。(2024-4-15一部修正)

 

 

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【123】現実空間と言説空間の大いなる落差━━柳澤協二、伊勢﨑賢治、加藤朗、林吉永『戦争はどうすれば終わるか?』を読む②/4-7

 現実空間と言説空間の相互作用──社会における現実の動きに対して、それを解釈する言葉が影響を及ぼし合うことを意味する。ごく卑近な例でいうと、現実が人の噂で左右されて、噂が噂を呼んでやがて現実にまで変化をもたらし、それがまた現実を変えてしまうことだといえようか。この本では、加藤朗氏がウクライナ戦争をめぐってのこの両空間にまつわる問題提起をし、それを受けて4人が戦争解決へのカギを握るものとして議論していく。世界の関係各国を始め、日本でもほとんどの人が現実には行ったことも見たこともないウクライナの現場を、当事国の政治家の発信やら国際政治学者、軍事専門家らの解説、評論をメディアを通じて聞いて、あれこれ論じている。それが開戦以来の現実の事態を変え、停戦を難しくしているというのだ◆加藤氏の「戦争は情報の相互作用である」との発言は実に刺激的なもので、この本の白眉だと思われる。この人は開戦直後の2022年4月1日に「矢も盾もたまらずに、という感じで」ウクライナに向かった。国際政治学者として戦争の現場で「戦時」のありのままを見て、なぜこんなことが起きるのかを考えたかったのだと思われる。しかし、「実際に戦時下にあるウクライナに行ってみても情報がないので戦争がどうなっているかは分かりません」。その上で学者として、考え抜いた所産が、「言説空間の二分化」であり、それが現実の戦争に影響を与えているというものだ。当初は停戦交渉への機運があったのに、「ブチャの虐殺」の情報が拡散して一気に変わった。その後の両国間の応酬や取り巻く国々の動きから、今では、この戦争は「欧米などの民主主義国家集団と露中など専制主義国家集団の対決という言説」を生み出した、というのだ◆これを受けて、柳澤氏は、「今までの地政学的な対立──東西の対立とか、あるいは大陸国家と海洋国家の対立とか、さらには専制主義と自由主義の対立とか」といった観点からの解釈にはまり込むことを否定する。むしろ、国際秩序が大きく変わる節目にあるとの位置づけに留め置いて、そこから先の方向を予め決めてはいけないというのである。さらに具体的に、政府が2022年12月に閣議決定した「『国家安全保障戦略』にあるように、ウクライナ戦争を専制主義に対する戦いであると定義してしまってはいけない」と、手厳しい判断を下している。加えて「そんなことをしたら、この先、戦争の世紀が待っているという結末にしかならない」と。積極的に停戦交渉を進めようとするなら、戦争当事国の枠組みを勝手に決めるなどと言った余計な判断は棚上げにすべきだというわけである◆このテーマでの伊勢﨑氏の発言はまた興味深い。プーチンは開戦前の2021年秋にウクライナの「非ナチ化」──つまり東部ウクライナのロシア系住民が受けている圧政から解放する──を言い出しており、これが日本を含む西側社会の言説空間を支配した、という。これをロシアがするということは、体制転換、レジームチェンジすることであり、広範囲な軍事占領を長期にわたってするしかないことを意味する。果たしてそんなことがロシア一国でできるのか?問題を提起した同氏は、ロシア人専門家の言を引いて、プーチンの真意は、ウクライナの「内陸化」だろうというのだ。黒海に面した地域部分を制圧して、ウクライナが外洋に出られないようにする狙いが本当のところではないのか、と。こうした議論を聞くに付け、戦争の成り行きが極めて困難を極めていることが分かろうというものだ◆この討論を読んでいて、元航空自衛隊の最高幹部であり、戦史研究家の林氏が、日本人はウクライナの戦争を茶の間で食事しながらテレビで見ているが、その戦争観のベースはどこにあるのか気になると、根本的な疑問を投げかけている。第二次世界大戦後78年が経って、いわゆる先進国家群の中で、唯一戦争の当事国になったことがない日本。大震災が起こるたびに、自衛隊の活躍を有り難く思っていても、戦争は海の遥か向こうの遠い国で起こるものと思い込んでいる人々が殆どであろう。かく言う私も、戦争を語り、平和を論じる言説空間ではそれなりの役割を果たしていると自負してはいるものの、現実空間については、殆ど無知であると告白せざるを得ない。そんな身でありながら、ウクライナ戦争を語る時に、単純な二分化の解釈に加担してきた。これについての弁明は稿を改めたい。(2024-4-7  つづく)

 

 

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【122】ウクライナ戦争の終わらせ方━━自衛隊を活かす会編『戦争はどうすれば終わるか?』を読む①/3-31)

 この本は、私の古くからの友人である柳澤協二氏(元内閣官房副長官補)が代表を務める「自衛隊を活かす会」が編纂したものだ。柳澤氏や伊勢﨑賢治(東京外大名誉教授)、加藤朗(国際政治学者)、林吉永(元防衛研究所戦史部長)らの4氏が昨年9月25日に集まって行った議論がベースになっている。構成は、第1章で、「ウクライナ戦争の終わらせ方を考える」のタイトルのもと、全員の発言が披歴され、第2章で討論が収録されている。さらに、直後に起こったガザの戦争(イスラエルとハマスの戦い)をめぐって、第3章「人道危機を考える」で、4氏の発言が再録され、最後に第4章「戦争を終わらせた後の世界に向けて」の表題のもと、4人の寄稿文が掲載されている。いずれも極めて興味深く、読み応え十分な中身である。ここでは、2つの戦争ごとに、4氏の発言のうち私が注目したものをまとめた後、「戦争」の総括を試みたい◆まず、ウクライナ戦争の終わらせ方についてから始める。柳澤氏は、戦争の大義を両国それぞれに見たうえで、一般的な戦争の終わり方を考えては見るものの「現在進行中のこの戦争が終わる論理が見えてこない」と嘆いている。その中で停戦をどう実現するかについては①2022年3月のウクライナ提案(●NATOに加入しない●クリミア問題は15年棚上げ●東部2州の扱いは首脳同士の協議に委ねる)は合理的なラインである②国連は安保理ではなく、もっと大きな国際世論の多数に力を与える方向での改革が望ましい③サウジアラビアやアフリカ連合などグローバルサウスの動きが注目される──などと述べる一方、停戦については、当事者双方だけでなく国際社会も不満を抱えることになるし、終戦を語るには、我々がどういう戦後の状況を望むのかを考える必要がある、と強調している。ただし、戦争はこうすれば止まるというアイデアは出せない、と締めくくりの発言はいつものこの人らしくなく弱気に見える◆この柳澤発言に対して、伊勢﨑賢治氏は──この人も私の古い友人だが──開戦後2ヶ月経った2022年4月に、石破茂、中谷 元の防衛大臣経験者との3人で、「提言案」を作ったことを紹介している。その中身は、「①国連緊急総会による停戦の勧告②国連の仲介による停戦合意の実現、そして③国連による停戦監視団の派遣を、日本政府として正式に働きかけること」であった。さらに、これとは別に同氏独自のものとして①現在の戦闘地域に「緩衝地帯」を設け、軍事行動を禁止する②緩衝地帯に、国連が主導する中立・非武装の国際監視団が入り、停戦状態を維持する③緩衝地帯にはウクライナ東部のドネツク州バフムト、あるいはすでに国際原子力機関が常駐するザポリージャ原発を提案。緩衝地帯は複数つくり、停戦状態を広げていく──といった具体的な「停戦案」を提示している。国連PKO の幹部として世界各地の紛争現場で武装解除の指揮に当たった人とらしい巧みな視点だと思われる◆これを受けた討論の冒頭で、柳澤氏は「伊勢崎さんのお話を聞いていると、難しいけれど、あるいは難しいからこそ、とにかく誰かが動いて話をしなければいけないというのは、まったくそうだと思います。だから、即時に停戦ができるという幻想を持てるわけではないけれど、そして、私にはまったく力がないけれど、やはり停戦に向けて、誰であっても、当事者間の対話を求め続けることが最低限必要なのですね」と同意の声をあげている。元防衛官僚ではあるものの反政府の立場に変化した柳澤氏の微妙な立ち位置が伺えて興味深い。加えて、加藤朗氏が「現実空間と言説空間の情報の相互作用」という注目すべき発言をされた。戦争そのもののリアルな展開と、当事国や周辺国のリーダーの言説とが、相互に重大な影響を及ぼしあうというのだ。これについて柳澤氏は「新たな秩序観」の共有と言った問題を提起して、話題は進展していくのだが、そこいらは次回に回したい。(2024-3-31 つづく)

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【121】虚空への旅立ちと生命の躍動━━帯津良一/五木寛之『生きる勇気 死ぬ元気』を読む/3-25

 昨年暮れに金沢に旅した際に、同地の文芸館に足を運んだところ、作家・五木寛之さんのコーナーがあったことは既に書いた。その際、医師・帯津良一さんとの対談本が並べてあったことにも触れた。このおふたり相当に息が合うと見える。そして当方もつい読んでしまう。元を正すと7-8年前に前議員の会合が国会であった時に、帯津さんの講演を聞いたのがきっかけだった。軽妙洒脱なお話ぶりにすっかりハマってしまったことを覚えている。奥様を亡くされていらい、経営される病院で、夕方になると、看護師さん、女医さん、薬剤師さんたちと一献傾けるのが楽しみだと言われたのが妙に耳に残っている。また、死ぬときを最も最高の生命状態に持って行き、ロケットが宇宙に飛び出す時のようなエネルギーで、と言われたことも覚えている◆元気がなくなって来るから死ぬのに、最高の生命状態にどうしてもっていけるのか?当然の疑問が誰しもわいてくる。そのあたりこの本で確かめてみた。「命というのは、エネルギーですから、いたわって病を未然に防ぐのではなくて、もっと積極的にエネルギーを日々、どんどん勝ちとっていく」「死ぬ日を最高に持っていって、そしてそのいきおいで、最後のクライマックスで、いっきに死後の世界に突入するというふうに」とおっしゃる。こんなことは中々難しい。最後のクライマックスは「一週間か、二週間でいっきに加速する」とのことだが、同時に「あんまり年をとって死んだんじゃあできないから、もう少し手前の方で死んだほうがいいんじゃあないかといってるんです」とか。何となくわかったような、わからないような。これを他人に話すと、100%理解して貰えそうにない◆死ぬ時がいつかわからないから苦労する。つい早まってエネルギーを高めてしまい、空振りに終わることがあるかもしれない。このあたりについて、自分の「死にどき」をいつだと思うかと、五木さんに問われて、帯津さんは「ひとりで下駄履きで居酒屋に行けなくなったら、もう死んでいいかなと‥‥(笑)」──笑い話風にごまかしている。それにもめげずに「実際の話、死にごろというのはわかるものなんですか」と、五木さんに、二の矢を放たれて「それはわかりますね」と、帯津さんは続けているのだが、それは医師として、「患者の死にごろ」がわかるとの話にすり替わっている。五木さんも、それ以上しつこくこだわらずに、「お迎えがくる」との表現に絡めて、超常現象を目撃したことがあるかとの問いに替えてしまっているのは、読者として少々物足りなくもない。で、文末の「二人の結論」というミニコーナー欄には「日ごろから、そろそろという、自分の死にどきの判断基準をもっておこう」とある。それがもてれば苦労しないと決めつけずに、挑戦するしかないのだろう◆帯津さんは、我々のその挑戦へのヒントを「あとがきにかえて」で触れてくれている。「人間の命は宇宙の大きな流れのなかで循環している、死後、人間の魂は、肉体を離れて、魂のふるさとである『虚空』へ還る旅に出る」というのだ。サマセット・モームが短編集『コスモポリタンズ』で描いた「旅情」にこと寄せて「人間は虚空からの旅人。しかも、一人でこの地球の上に降り立ち、一人でまた去って行く、孤独なる旅人である」とあたかも詩を吟じるかのように断じている。さらにまた、哲学者ベルグソンの「生命の躍動」を持ち出して、それは、内なる生命に生まれる直感と、虚空に生まれる予感が一体化することを指すのだ、と。「私たちは死してのち、虚空の懐に帰り、虚空と一体となるのだから、これのリハーサルが生命の躍動ということになる」とも。つまり、死ぬことは虚空への旅立ちであり、生きている間に生命の躍動という準備を重ね、最高のリズムを覚えた上で、ジャンプする瞬間が大事だ、と仰っているのだ。このイメージはそれなりに分かる。あとは日ごろからのトレーニングなのだろう。(2024-3-25)

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